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平安時代、貴族はどんな暮らしをしていた?
貴族と庶民にはっきりと身分が分かれていた平安時代。 十二単衣や『源氏物語』など、平安時代から現代に伝わっている文化は少なくありません。 そのため、特に上流階級である貴族について、優雅な暮らしを送っていたイメージを持つ方が多いでしょう。 しかし、実際は優雅なだけではなかったようです。 平安貴族はどんな暮らしをしていた? 華やかな王朝文化が栄えた平安時代、貴族はどのような暮らしをしていたのでしょうか。特に平安貴族の食事や生活については、当時の記録からある程度の実態が分かっています。 平安貴族の食事 平安時代の貴族は、主食・おかず・デザートがそろった意外にも豪華な食事をとっていました。 ただし、主食がふっくらとした白米ではなく、うるち米を蒸した強飯だった点は現代との違いです。 また、魚介類や野菜類などが主におかずとして食べられていたことが分かっています。しかし、平安貴族が暮らしていた京都は、海から離れていたため、魚介類は干したり塩漬けにしたりしたものが中心でした。 一方で、肉類を食べることは少なかったと考えられます。 仏教の思想に従った天武天皇によって、675年に出された肉食禁止令を皮切りに、たびたび肉食が禁止されたためです。 デザートとしては、梨や麹などの果物類やもち米の粉を練って焼いたひらちという煎餅のようなものなどがありました。宴などの特別な行事の際には、唐菓子や餅などを食べることもあったといわれています。 なお、平安時代には1日に朝夕の2食を食べるのが一般的でした。 1日3回食事をする習慣が広まったのは、鎌倉時代以降のことです。 平安貴族の生活 平安貴族の朝は早く、午前3時ごろに起床するのが一般的でした。 皇居の門が開かれるのが午前3時であり、門が開くときに太鼓が鳴らされるため、その音を合図に起床する貴族が多かったようです。 貴族の衣服は、平安時代の前期と中期以降で大きく異なります。 平安時代前期は、中国の影響を受けた朝服が、貴族男性の公式的な衣装でした。一方、貴族女性も同じく朝服を着用し、額や頬に紅で文様を描く中国式の化粧を施していたとされています。 しかし、平安時代中期に国風文化が広がると、日本独自の衣服が生まれました。貴族男性が着る強装束や、貴族女性の十二単衣も国風文化の中で成立したものです。 教科書などの挿絵やテレビドラマで再現されている通り、平安時代は着物を何枚も重ねて着るのが一般的でした。しかし、現代のように頻繁に入浴する習慣はなかったと分かっています。 特に女性は、月に1回程度しか髪を洗っていなかったともいわれています。当然、洗髪や入浴からしばらくすると臭いがしたことでしょう。 そこで、平安時代の貴族が使っていたのが香です。 当時の薫物と呼ばれる練香を、部屋や衣服に焚きしめる風習には、体臭を隠す目的もあったと考えられます。 平安貴族は出会いがなかった?当時の恋愛事情 平安時代の貴族の暮らしに欠かせないのが恋愛です。 紫式部が書いた『源氏物語』や数々の和歌など、平安時代には恋愛をテーマにした多くの文学作品が生まれました。 その背景には、平安時代の貴族の特殊な恋愛事情があります。 そもそも平安時代には、女性が家族以外の男性に顔を見せることはタブーとされていました。 男女の出会いのきっかけが非常に制限されていた平安時代に広まったのが垣間見という風習です。 垣間見とは、男性が女性の家を覗き見ることです。現代の感覚では考えられないことでしょう。 しかし、平安時代には普通のことでした。 垣間見により女性を見そめた男性は、文(手紙)を送ってアプローチします。 文には、和歌を添えるのが一般的でした。 女性は、和歌から男性の人柄やセンス、教養などを見極めて返事をするかどうかを決めます。 そのため、男性にとって文は気が抜けないものでした。 男性は、少しでも女性によい印象を与えようと、さまざまな工夫を凝らしました。文に香を焚きしめることや、文香と呼ばれる香木のかけらを和歌で包んだものを添えることもあったといわれています。 平安時代の貴族は、一人ひとりが自分だけの香りを持っていました。 香りは、自分の知性や感性をアピールする手段として使われていたのです。 男性も女性も、文から漂う香りから相手がどのような人かを想像したのだと考えられます。 女性から男性へ送る文は、初めは侍女などが代筆しました。 何度かやり取りを重ねて、女性から直筆の文が送られると恋が成就した証拠です。 その後、女性から自宅を訪れることを許されると、ようやく男女の対面が実現します。さらに3日連続で女性のもとへ通うと結婚が成立するというのが、平安時代の貴族の恋愛でした。 優雅だけれど今とは違う貴族の暮らし 平安時代の貴族について、優雅なイメージを持つ方は多いでしょう。 平安時代は、十二単衣やさまざま文学作品などに代表される、華やかな文化が花開いた時代である一方で、暮らしぶりには現代と大きく異なる部分が少なくありません。 特に、入浴の頻度や恋愛事情について知ると、平安時代の貴族の暮らしが優雅な面だけではないことが分かるでしょう。 テレビドラマや映画などで平安時代をテーマにした作品を鑑賞する際は、貴族の暮らしの描かれ方にも注目してみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
- お香・香り・香道
- 平安貴族の暮らしと文化
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平安時代にはどんな娯楽があった?
平安時代には、貴族や庶民のためのさまざまな娯楽が生まれました。 中には形を変えながら現代まで残っているものもあります。 平安時代の人たちにはどんな娯楽があった? 平安時代とは、794年から1200年頃までの約390年間のことを指します。 今から約1000年前の時代を生きた人々は、どのような生活を送っていたのでしょうか。 大きな戦乱がなく、平和な日々が続いた平安時代には、華やかな貴族の文化が花開きました。また、中国の文化を学ぶ遣唐使の派遣が終了したことで、日本独自の文化が発展したことも特徴です。 そのような平安時代には、さまざまな娯楽も生まれました。 平安時代の庶民の娯楽 平安時代は、貴族と庶民で生活スタイルが大きく異なりました。 そのため、娯楽の内容にも違いがあります。 庶民の娯楽としては、竹馬やひいな遊び、毬杖(ぎっちょう)が知られています。 平安時代に行われていた竹馬とは、笹竹の枝を騎馬に見立ててまたがって遊ぶ、ごっこ遊びのことです。現代の竹馬とは異なります。 また、ひいな遊びは人形を使ったままごと、毬杖は現代のゲートボールのような遊びです。 竹馬とひいな遊びが主に子供の遊びである一方で、毬杖は大人にも好まれていました。毬杖が正月行事の一つとして行われたり、賭博の対象になったりしたという記録が残っています。 平安時代の貴族の娯楽 平安時代の貴族は、さまざまな種類の娯楽を楽しんでいました。 中には現代の芸術や趣味の源流となったものもあります。 蹴鞠 蹴鞠とは、複数人で毱を蹴り合う遊びです。 現代のサッカーに似ているものの、お互いにパスを出し合い、ラリーが続くことが大切とされ、勝敗をつけることを目的としていなかった点が違いです。そのため、誰かがミスをした場合は、ミスした人ではなく、受け取りにくいパスを出した人の失敗とみなされるほどでした。 相手を思いやりながら遊ぶ蹴鞠は、貴族にとって親睦を深めたり新しい人と知り合ったりするために楽しまれた遊びだといわれています。 打毬 打毱(だぎゅう)とは、2チームに分かれて遊ばれる球技の一種。網のついた竿を使い、決められた数の鞠を先にゴールに入れたほうが勝ちというのが主なルールでした。 打毱には、馬に乗って行う騎馬打毱と徒歩打毱の2種類があります。このうち、騎馬打毱については、平安時代に宮中の年中行事となりました。また、江戸時代には八代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)が奨励して盛んに行われました。 現代でも、宮内庁主馬班には、江戸時代の騎馬打毱の様式が伝わっています。 貝合わせ 貝合わせは、二枚貝の裏に絵を描いたものを伏せ、複数人が順番にめくってペアとなる2枚を当てる遊びで、トランプ遊びの一つである神経衰弱に似ています。 特にハマグリは、同じ貝以外は殻がぴったりと合わないことから、貝合わせによく使われたと言われています。 貝合わせは、主に貴族女性が楽しむ遊びでした。 二枚貝に描かれる絵柄の題材として人気があったのは、紫式部(むらさきしきぶ)が執筆した『源氏物語』です。 洲浜づくり 洲浜とは、砂を入れた台のことです。 洲浜に石や砂を並べて砂浜の風景を再現する遊びを洲浜づくりと呼ばれ、現代の箱庭遊びと似た遊びです。 洲浜づくりは、中国から伝わった盆景が元になって始まったといわれています。また、枯山水に代表される日本式庭園作りにも影響を与えたと考えられます。 薫物合 薫物合(たきものあわせ)とは、それぞれが調合した薫物(たきもの)を比べ、誰のが優れているかを競う遊びです。 薫物とは、香料や蜂蜜などを混ぜた練香の一種を指します。平安時代には、部屋や衣服に香を焚きしめる文化があり、一人ひとりが独自の配合の香りを持っていました。 自分だけの香りを作る文化から発展したのが、香りを持ち寄り、比較し合う薫物合です。薫物合は、貴族が自分の感性や教養、珍しい香料を手に入れる力などをアピールする場でもありました。 手紙、和歌 平安時代は、漢字やひらがなといった文字が生まれた時代でもあります。 主に貴族の間で文字が使われるようになると、手紙を書いたり和歌を読んだりする風習が生まれました。 当時の貴族にとって手紙とは、異性と交流するための大切な手段でした。 平安時代には、女性は人前で顔を見せないのがマナーとされていたため、男女が出会う場は少なかったといわれています。男性は、気になる女性に手紙を送り、相手から返事が来れば恋愛が始まるのが一般的でした。 手紙を通じてよい印象を与えようと、平安時代の男性貴族が用いた方法の一つが、香りを使うことです。具体的には、手紙に香を焚きしめたり、香木などを小さく砕いて和紙で包んだ文香(ふみこう)を添えたりといった方法がありました。 手紙を受け取った女性は、香りから相手の男性の人柄や容貌を想像したといわれています。 現在まで残る平安時代の娯楽 平安時代の娯楽の一部は、現在まで残っています。 多くの素晴らしい文学作品が平安時代に成立していることから、当時から物語を楽しむことは娯楽の一つだったのでしょう。 例えば紫式部の『源氏物語』、清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子』などは、平安時代に生まれた作品です。 これらの作品は、現代語訳や漫画化などを経て、現在でも多くの人に楽しまれています。 内容や設定などに影響を受けている作品も少なくありません。 その他に、ひいな遊びや毬杖のような庶民の娯楽、貝合わせなどの貴族の娯楽も、形を変えて現代でも楽しまれています。一方で、主にライフスタイルの変化により、楽しむ機会が少なくなった娯楽もあります。 平安時代のように和歌を読んだり手紙を書いたりする代わりに、現代ではeメールやSNSなどを通じてメッセージを送るのが一般的です。しかし、平安時代の貴族が手紙に添えたように、香りを楽しむ文化は現代にも続いています。 香りを比べる薫物合は、室町時代に確立した香道における組香の源流だといわれています。平安時代の遊びが、今の文化につながっていることを示すよい例といえるでしょう。 1000年前に生まれた娯楽に思いをはせよう 平安時代の暮らしは、当然のことながら現代とは大きく異なります。 しかし、娯楽に関しては、現代の私たちとさまざまな共通点があるといえるでしょう。中には平安時代から形を変えながら、現代も楽しまれている娯楽もあります。 次に遊ぶときは、1000年前に生まれた娯楽に思いを馳せてみましょう。
2024.10.12
- 平安貴族の暮らしと文化
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源氏物語に登場する「比翼連理(ひよくれんり)」とは
夫婦やカップルに対して使われる比翼連理という言葉は、『源氏物語』にも登場する歴史のある表現です。 中国で書かれた『長恨歌』に由来する比翼連理の意味や由来、『源氏物語』との関係などについて理解を深めましょう。 源氏物語に登場する「比翼連理(ひよくれんり)」 男女の仲を表すのに使われる「比翼連理」は、見た目からは意味を想像しにくい表現です。意味や由来、源氏物語での使用例を押さえておきましょう。 「比翼連理」とは 比翼連理(ひよくれんり)とは、仲睦まじい夫婦の様子を、空想上の鳥や植物に例えた表現です。 比翼連理の由来となったのは、比翼の鳥と連理の枝。 比翼の鳥とは、羽と目を1つずつしか持たない空想上の鳥で、オスとメスがペアで飛ぶとされています。 一方、連理の枝とは、隣り合った2本の木の枝や根が絡み合い、まるで1本の大木のように見えるという中国の伝説上の植物です。 どちらも2つのものが合わさって1つのものになっていることから、相思相愛の関係にある夫婦や婚約中の男女などに使われる表現として定着しました。 源氏物語では『長恨歌』に登場 平安時代に紫式部(むらさきしきぶ)によって書かれた長編小説『源氏物語』にも比翼連理が登場します。 比翼連理が四字熟語として使われるようになったきっかけとなったのが、中国の詩人である白居易(はくきょい)による詩『長恨歌』です。『長恨歌』を収めた白居易の詩集『白氏文集』は、当時のベストセラーでした。 『源氏物語』の中でも『白氏文集』は何度も言及されています。 特に源氏物語の冒頭の章である「桐壺」では、『長恨歌』の中の比翼連理について触れた部分が語られています。 源氏物語の主役である光源氏の父、桐壺帝と更衣が、身分の違いを超えて深く愛し合う様子を表す表現として、比翼連理が用いられているのです。 比翼連理という表現が、1000年以上前の平安時代から使われていたことを示す例です。 平安貴族のたしなみであった白居易の漢詩 白居易は、8世紀から9世紀にかけて、唐と呼ばれていた中国で活躍した詩人で、白楽天と呼ばれることもあります。 白居易の漢詩は、日本にも伝わり、平安時代の貴族の間で人気となりました。 11世紀に成立したとされている『源氏物語』も白居易の影響を強く受けています。 白居易、『長恨歌』とは 白居易は、中国で官僚として働きながら多くの詩を残しました。彼の作品は、分かりやすく平易な言葉を使いながら情景を美しく表現したものが多かったため、多くの人に愛されました。 白居易の代表作とされる『長恨歌』は、唐の皇帝である玄宗と絶世の美女・楊貴妃との恋を描いた叙事詩です。2人の出会いから身分違いの恋、楊貴妃の死後に嘆き悲しむ玄宗の様子などが120編にわたって描かれています。 白居易が平安貴族や源氏物語に与えた影響 『長恨歌』が含まれた白居易の文集『白氏文集』は、平安時代に日本に伝わり貴族たちの愛読書となりました。紫式部は、当時としては珍しい、漢文や漢詩の教養のある女性でした。平安時代において漢籍は男性が学ぶものとされていたためです。しかし、紫式部は幼少期に父から弟とともに漢籍の講義を受けていました。そのため、紫式部が書いた『源氏物語』には、白居易の影響が随所に見られます。 たとえば『源氏物語』の主人公は、天皇と桐壺の更衣と呼ばれる女性の間に生まれた光源氏です。後宮で働く女性の中でも特に身分が低い更衣と、天皇との恋愛という設定は、『長恨歌』をベースにしていると言われています。 紫式部の教養の高さが垣間見える、源氏物語 紫式部が記した『源氏物語』には、白居易の有名な叙事詩『長恨歌』に影響を受けたと考えられる設定や描写が少なくありません。 特に冒頭の「桐壺」の章では、桐壺帝と更衣の関係を比翼連理に例えるなど、『長恨歌』を参考にした部分が多く見られます。 紫式部は、幼い頃から漢文や漢詩の読み書きを得意としていたといわれています。もちろん、当時の貴族の間で流行していた『白氏文集』にも目を通していたでしょう。 『源氏物語』は、そうした紫式部の教養の高さが垣間見える作品です。
2024.10.12
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平安時代から続く、ひな祭りの歴史
3月3日のひな祭りにひな人形を飾る風習はいつ始まったのでしょうか。 ひな祭りの歴史は平安時代に遡るといわれています。 ただし、平安時代のひな祭りは今とは異なるものでした。 ひな人形はいつからある? 毎年3月3日は、ひな祭りと呼ばれ、ひな人形を飾ったりごちそうを食べたりする習慣があります。 少女の健やかな成長を祈る意味があることから、女の子がいる家庭では、特にひな祭りを大切なイベントとして家族や親族などで祝っていることが多いでしょう。 ひな祭りに相当する行事は、平安時代から存在しました。しかし、ひな人形を飾る風習が始まったのは江戸時代だといわれています。 ひな祭りの原型は中国から伝わった ひな祭りの原型は、中国から伝わった「上巳(じょうし、じょうみ)の節句」です。 ただし、「上巳の節句」の風習では、ひな人形を飾ることはしません。 平安時代には、「上巳の節句」に陰陽師を呼び、お祓いをしてもらう風習がありました。 当時の「上巳の節句」は、自身の無病息災を願う行事の日であり、特に女の子のためのお祭りという意味合いはなかったのです。 「上巳の節句」に行われるお祓いは「上巳の祓い」と呼ばれることもあります。このお祓いの中には、自身の生年月日を書いた紙の人形(ひとがた)に厄災を移し、川に流すという行程がありました。 現在でも、京都の下鴨神社における「流し雛」としてこの風習が残っています。 一説には、「上巳の祓い」で川に流されていた人形が、ひな人形の原型ともいわれています。「上巳の節句」とは、本来3月の最初の巳という意味。 しかし、室町時代には、3月3日が「上巳の節句」として定着しました。 平安時代の「ひいな遊び」 平安時代、主に幼い女児の遊びである「ひいな遊び」を、ひな人形やひな祭りの起源とする説があります。 少女たちが、おもちゃとして遊んでいた紙や木などでできた人形が「ひいな」、ひいなを用いる遊びが「ひいな遊び」でした。今でいう、ままごとのような遊びです。 「ひいな遊び」は、あくまでも少女たちが日常的に行う遊びであり、「上巳の節句」と直接の関係はなかったと考えられます。 しかし、時代を下るうちに素朴だったひいなは、豪勢な人形となって家の中に飾られるようになり、「上巳の祓い」の流し雛の風習とも結びついたことで、ひな人形が生まれたといわれています。 江戸幕府の定めた「五節句」 そもそも節句とは、年間を区切る節目の日のことです。 中国の陰陽五行に則って生まれた考え方で、もとは5つよりさらに多くの節句が定められていました。 たとえば、中国では大型連休として知られる春節や、9月の中秋節などが今でも大切な節句として祝われています。 一方、中国からもたらされた節句は、日本では独自の風習や季節感と混ざり合って減っていきました。現代でも残っているのは、江戸幕府の定めた「五節句」です。 五節句とは、人日(1月7日)、上巳(3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(9月9日)です。 江戸幕府は、上記の5日を祝日とし、特に3月3日と5月5日はひな人形や五月人形を飾る子供のお祭りとして庶民にも広まりました。 江戸中期には、女児の初めての「上巳の節句」を盛大に祝う、初節句の文化も始まったといわれています。それにともなって、ひな祭りはますます盛んになり、幕府から華美なひな人形を禁じる命令が出されるほどでした。 ひな祭りの習慣や楽しみ方 中国から伝わり、平安時代からさまざまに形を変えながら定着したひな祭り。 現在は、ひな人形を飾り、菱餅やハマグリのお吸い物などを食べて祝うのが定番です。 ひな祭りの食べ物やその由来 ひな祭りの際に食べる定番の食べ物としては、以下の3つが挙げられます。 ・ひなあられ ・菱餅 ・ハマグリのお吸い物 ひなあられとは、米や豆を原料とする小粒のお菓子です。 一般的に白・緑・黄・ピンクの4色、または白・ピンク・緑の3色などのカラフルな色がつけられており、それぞれの色は、季節や自然などを意味しています。 地域によって作り方や味(甘い・しょっぱい)に違いがあります。 菱餅は、ひな人形に備えるひし形の餅です。 上からピンク・白・緑の餅を重ねてあり、それぞれ桃の花・雪を冠った大地・新芽などを表しています。 また、ひし形には子孫繁栄などの意味があります。 また、お吸い物に入れられるハマグリは、平安時代の遊びである貝あわせにも用いられた二枚貝です。ハマグリは、一つひとつの形が微妙に異なるため、対だった貝以外とは合わないという特徴があります。 そのため、「生涯仲良く連れ添う夫婦」の象徴として、ひな祭りや結婚式などで食べられるようになりました。 ひな人形はいつまで飾る? ひな人形は、3月3日のひな祭りを祝うために飾られます。 そのため、ひな祭りが終わったら片付けられることが一般的です。 しかし、中には旧暦に従い4月3日まで飾る地域もあります。 ひな祭りを過ぎた後に飾ってはいけないという決まりはありません。 ただし、季節感を大切にするためにも意味で3月中旬(旧暦であれば4月中旬)までに片付けるとよいでしょう。 平安時代も今も子を思う気持ちは同じ 中国由来の節句の考え方や、日本独自の文化が融合して今のような形のひな祭りが生まれました。 ひな祭りの祝い方は変わっても、平安時代も今も子を思う気持ちに変わりはありません。 歴史に思いを馳せながら、ひな祭りを楽しみましょう。
2024.10.12
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