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イスラムの美しい幾何学模様の世界
同じパターンを繰り返す幾何学模様は、無機質であるにもかかわらずどこか美しさを感じられる模様です。芸術性の高さから多くの美術品にも取り入れられています。また、普段利用する日用品にも幾何学模様は使われています。イスラム文化圏で発展していった幾何学模様にはどのような歴史や魅力があるのでしょうか。ペルシャ絨毯にも利用される幾何学模様の魅力を深掘りしてみましょう。 イスラム文化と幾何学模様の関係 幾何学模様はイスラム美術における3大装飾の一つです。パターンの繰り返しにより構成されている幾何学模様は、無限に広がる宇宙を連想させます。イスラム文化と関係性の深い幾何学模様。なぜイスラム文化に根付いているかは、イスラム教の教えが関係しています。 なぜイスラム文化圏には幾何学模様デザインが多い? イスラム文化圏で幾何学模様デザインが良く使われているのは、イスラム教に偶像崇拝禁止の文化があるためです。一般的にイスラム教では偶像崇拝が禁止されているため、動物や人間などの現実世界の形や色を具体的かつ正確に再現する表現や描写ができません。 イスラム教において動物や人間などの生物は、万物の創造主であるイスラムの神アッラーによって作られたとされています。つまり、動物や人間などを作り出すのは神のみに許される行為なのです。そのため、絵や物であっても生物を表現するのが禁止されています。イスラム教では、人間が生物を作り出すのは業が深い行為の一種なのです。 偶像崇拝が禁止されているイスラム教ですが、イスラム美術から具象表現が完全に除外されたわけではありません。トルコやペルシャの綿密画や写本、絨毯、金属製品といった美術品や宮殿の装飾には、動物や人間の絵が描かれています。ただし、神に祈りをささげる神聖な場であるモスクには、動物や人間を表現した装飾はありません。例外として、トルコのディヴリーイの大モスクやディヤクバル大モスクには鳥やライオンなど動物のレリーフがあります。 このようなイスラム教における偶像崇拝禁止の文化により、幾何学模様がさまざまな場所で利用されるようになりました。幾何学模様は数学で計算された無限の美が特徴で、神が想像した完璧な世界を暗示しているといわれています。 イスラム文化圏では、いつ頃から幾何学模様が使われている? イスラム文化圏では、古代ギリシャやササン朝時代からあった模様が複雑かつ精密化されていき、幾何学模様が誕生しました。イスラム文化の中で幾何学模様が大きく発展したのは、7~13世紀まで続いたアッバース朝時代です。 この時代は、イスラムの黄金時代とも呼ばれています。首都バグダードに建てられた図書館では、哲学や医学、数学など数多くのギリシャ語文献がアラビア語に翻訳され提供されていました。その中には、幾何学の父と呼ばれるユークリッドの『原論』もありました。 アッバース朝時代では、翻訳された文献をとおして幾何学に触れる機会が増え、彫刻や建築に応用されていったのです。幾何学を活用した天文学や代数学などの学問もこの時代に発展しています。 イスラム文化圏でよく見られる幾何学模様は、5・6・8・10・12角形からなるパターンです。とくに5・10角形をベースにしたパターンは、ほかのパターンと比較すると複雑であり、イスラム文化で利用されるより前には見られなかった幾何学模様といわれています。 私たちの周りでも…身近な幾何学模様 延々と繰り返されるパターン模様が特徴の幾何学模様。イスラムでは、モスクの装飾にはもちろん、絨毯やタイル、ステンドグラス、食器、モロッコ雑貨などさまざまな場所で取り入れられています。幾何学模様は無機質な印象を受けますが、身近な日用品にも多く描かれているデザインです。存在感があるためおしゃれな印象を受けます。 また、幾何学模様はミツバチの巣やトンボの目などにも見られるように、自然界にも存在する模様です。人は何気なく見ている風景に溶け込んでいる幾何学模様に対して、無意識に親しみやすさを感じているといえるでしょう。 イスラムの幾何学模様はどうやって描かれている? 複雑で描くのが難しいように感じられる幾何学模様ですが、実はすべてコンパスと定規によって生み出すことが可能です。幾何学模様はコンパスで円を描くところからスタートします。円に対してさらに円を重ねたり、直線を引いたりすることにより、最終的によく見かける複雑な模様が生み出されます。 同じ角形のパターンでも、描かれる模様は無数にあるのも幾何学模様の特長です。日本でも正6角形からなる幾何学模様があり、亀甲模様と呼ばれています。西アジアで誕生し、中国や朝鮮を通って日本に伝わったとされています。 イスラム圏の街並みや生活用品で幾何学模様を楽しもう イスラム文化圏に旅行へ行くと、モスクをはじめとした街並みのいたるところに幾何学模様が描かれていたり、幾何学模様の商品が販売されていたりします。また、イスラム文化圏ではなくとも、日本でも人気のペルシャ絨毯やモロッコ雑貨などで幾何学模様を楽しめます。無機質でありながら無限の美を感じさせる幾何学模様の魅力をより味わいたい方は、モスクの見学や幾何学模様の生活用品を暮らしに取り入れてみてはいかがでしょうか。
2024.09.14
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ペルシャ絨毯が登場する映画があった
日本では高級品のイメージが強いペルシャ絨毯。実は日本で放映されたことのあるさまざまな映画にも登場しているのです。古くからの歴史と文化が織りなす伝統的なペルシャ絨毯の魅力をより知ることで、これまで知りえなかったペルシャ絨毯の魅力に気付けるかもしれません。また、映画も違った視点で楽しめるでしょう。 ペルシャ絨毯が登場する映画3選 日本でも昔から人気を集めているペルシャ絨毯。現在では高級絨毯として広く知られています。実は、ペルシャ絨毯が中心となった映画が複数あります。日本とイランの合作である『風の絨毯』や、バブル時代の三越が多額の予算をかけて製作した『燃える秋』、イランとフランスの合作である『ギャッベ』など、さまざまな映画でペルシャ絨毯が登場しているのです。 『風の絨毯』(2003年) 実話をもとに製作された『風の絨毯』は日本とイラン合作の映画で、ペルシャ絨毯が登場します。日本の飛騨高山とイランのイスファハンを舞台に、ペルシャ絨毯を通じて生まれた心の交流を描いた映画です。母を事故で失った日本人の少女と、病床の父を支えるイラン人少年のほのかな恋を織り交ぜた心の触れ合いを描いています。2つの国を舞台に文化の違いや国民性の違いを乗り越えて成長していく人々を描いたこの映画では、ペルシャ絨毯がきっかけでストーリーが動き出します。 400年前に消失した伝説の祭屋台を現代に復活させようとする中田金太。屋台に飾る見送り幕としてペルシャ絨毯を使おうと決めていました。そのデザインを画家の絹江に依頼します。絹江はペルシャ絨毯の輸入業を営む古美術商である永井誠の妻です。絹江がデザインを完成させ、後はイランにペルシャ絨毯を取りに行くだけとなりましたが、そんな矢先に絹江は交通事故で帰らぬ人となってしまいます。 悲しみに暮れる夫の永井誠とその娘さくらは、母の絹江がデザインしたペルシャ絨毯を受け取りにイランへと向かいました。永井誠の友人で絨毯仲売人のアクバルが暖かく2人を迎えますが、手違いがありペルシャ絨毯はまだ完成していません。誠は絶望し日本へ帰国しようとしますが、さくらの悲しみを知ったアクバルの甥っ子ルーズが奮闘し、さくらと2人で力を合わせ祭りの期日までに製作を間に合わせようとします。さまざまな人の協力を得て24時間体制でペルシャ絨毯は編まれることに。その中でさくらとルーズは次第に惹かれあっていくのでした。 ペルシャ絨毯を中心に物語が回っていく『風の絨毯』では、日本とイランの人々の魅力に触れるとともに、ペルシャ絨毯の魅力にも触れられる映画といえるでしょう。 『燃える秋』(1978年) 『燃える秋』はバブル期の日本で製作された映画で、作中にペルシャ絨毯が登場します。1970年代半ばごろ、三越がパフラヴィー朝成立50周年を記念し、三井物産とイラン絨毯公社協力のもと1,000枚のペルシャ絨毯を直輸入しました。1977年にはペルシア五千年美術絨毯展を開催するとともに、販促映画として『燃える秋』を10億円の予算をかけて製作したのです。東宝と共同での製作となり、企画の段階から三越が大きくかかわっています。 原作は五木寛之の『野性時代』に連載された同名の小説で、脚色は稲垣俊、監督は小林正樹が担当しました。ペルシャ絨毯に心惹かれた1人の女性が、1枚の絨毯に描かれた5000年の文化や歴史を知り、幸せや愛よりも大切な何かを見つけ生きていく姿を描いています。 この映画が製作された時代、三越はテヘラン支店を設置して本格的にペルシャ絨毯の販売に乗り出していました。各百貨店も流れに乗り遅れまいと一斉にペルシャ絨毯の販売をスタートさせ、イランやトルコからは日本で一攫千金を狙おうと多くの絨毯商が来日します。日本人好みのシルク絨毯を製作するクムでは、日本バイヤーの注文によりペルシャ絨毯に銘が織り込まれるようになりました。 また、日本でのペルシャ絨毯人気にあやかろうと、クムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでは、クム産を模倣したシルク絨毯が多く製作されています。なお、当時の三越はのちに三越事件と呼ばれるさまざまな不祥事により世間を騒がせていました。 『ギャッベ』(1996年) 『ギャッベ』は1996年にイランとフランスの合作で製作された映画です。色鮮やかなペルシャ絨毯ギャッベを前に語られる恋愛物語です。ある日、狼の遠吠えを真似る青年に出会い恋をしたギャベ。しかし、一族のもとへ帰ってきた叔父の結婚が先であるとし、父親は2人の結婚を許しませんでした。叔父は歌の上手い娘と泉のほとりで出会う夢を見てその後、素敵な結婚を果たします。 ギャベが結婚する日も近いと思いきや、母親の妊娠で話は延期になってしまいます。その後も各地を遊牧しながら絨毯を織る日々が続きました。母親の出産や妹の事故死などさまざまな体験をしたギャベは、ついに青年との駆け落ちを決行したのです。 青い絨毯を手に馬を走らせる2人に気づき、父親は銃を手に2人を追いました。銃声がこだました後、父親は自宅に戻りギャベが持ち出したペルシャ絨毯を一族の前に広げます。しかし、これは父親が売った芝居で、2人は40年経った現在も2人で仲良く小川にたたずむのでした。 『ギャッベ』には、遊牧民の間で作られていたギャッベと呼ばれるペルシャ絨毯が登場します。現在では、ギャッベもペルシャ絨毯の一種として芸術的な価値を持っているとされています。しかし、もとは移動しながら暮らす遊牧民がテントの床に敷くための、普段使い用の絨毯でした。ギャッベの名称は「雑な絨毯」を意味しており、消耗品として扱われていたことがわかります。 実は現在流通しているモダンギャッベは、遊牧民族であるカシュガイやルリが伝統として受け継いできたギャッベとは別物なのです。現代人の好みに合うようにアレンジして作られたものがモダンギャッベです。 『アラジン』の絨毯はペルシャ絨毯ではない? ミュージカルや実写映画にもなり話題のディズニー映画『アラジン』でも、魔法の絨毯が登場します。そのため、ペルシャ絨毯と聞くとアラジンに登場する空飛ぶ絨毯をイメージする人も多いのではないでしょうか。しかし、『アラジン』は架空の国がモデルとなっている映画です。イランをモデルにした話ではないため、絨毯もペルシャ絨毯という確証はありません。 主人公が住むアグラバーと呼ばれる都市は世界のどこにも存在していませんが、お城のモデルはインドの世界遺産タージマハルであるとされています。タージマハルはインド北部の都市アーグラにあります。そのため、アグラバーもこの都市の名前が由来ではないかと推察できるでしょう。映画に砂漠が出てきたり、アラビアンナイトと呼ばれる曲が使われていたりすることから、架空の中東都市をモデルにしていると考えられます。 また、アラジンには原作があります。原作の『アラジンと魔法のランプ』は『千夜一夜物語』の中の物語の一つです。原作の舞台は中国でペルシャ絨毯は登場しません。また、アラジンは中国人、魔法使いはアフリカ出身の設定です。なお、『千夜一夜物語』の中で魔法の絨毯が登場するのは『アフマッド王子と妖精パリ・バヌー』のみ。『アラジン』に登場する魔法の絨毯はディズニー映画オリジナルの設定だったのです。 ペルシャ絨毯の文化や歴史を知ると映画がもっと面白くなるかも ペルシャ絨毯はさまざまな映画の中で登場します。ペルシャ絨毯の文化や歴史を知ったうえで映画を鑑賞すると、よりペルシャ絨毯の魅力に触れながら楽しめるのではないでしょうか。これまでとは異なる視点で映画の面白さを感じられます。登場するペルシャ絨毯の文様を観察してみたり、映画の中での立ち位置をチェックしてみたりといろいろな楽しみを発見してみてください。
2024.09.14
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- 日本とペルシャ絨毯
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日本にあるモスク…イスラムと日本の深い関係
モスクとは、イスラム教における礼拝堂で、イスラム教徒はモスクで礼拝を行います。イスラム教は五行と呼ばれる5つの義務があり、その中の1つが礼拝です。モスクはイスラム教徒にとって礼拝を行うための大切な場所なのです。実は、イスラムと日本には深い関係があります。宗教とは無縁の人も多い日本ですが、イスラム教徒が礼拝に使用するモスクは日本各地に建てられています。 日本にはモスクがある? 宗教を持たない人も多い日本人にとって、モスクや礼拝などは無縁のものと思いがちですが、実は日本にもイスラム教徒のために建てられたモスクがいくつもあります。その数は年々増加しています。また、ドーム型の豪華なモスク以外にも、元の建築物を活かしてそのまま礼拝として利用しているモスクが多いのも特徴です。日本にあるモスクを見学し、イスラムの文化に触れてみるのもよいでしょう。 日本最初のモスクは神戸モスク 日本に初めて建てられたモスクは神戸にあります。神戸ムスリムモスクは、1935年に神戸在住のトルコ人とタタール人、インド人貿易商らの出資によって建てられたモスクです。日本最古の神戸ムスリムモスクは、第二次世界大戦の戦火や阪神淡路大震災の災害でも壊れずに済んだため、ミラクルモスクとして世界で名が知られています。 現在は、国内外から多くの観光客や見学者が訪れており、異人館とあわせて神戸市の観光スポットとしても人気を集めています。また、日本におけるイスラム文化と歴史の象徴ともいえるでしょう。神戸ムスリムモスクはイスラム教徒ではない人でも内部の見学が可能です。個人や少人数での見学は予約の必要もありません。なお、半ズボンやミニスカートなど肌の露出が多い服装の人は入館できないため注意しましょう。 神戸ムスリムモスクは北野異人館街から坂を少し下った場所にあります。異人館観光とあわせて神戸の異国情緒と多様性あふれる街並みを楽しめます。 日本最大のモスクは東京にある 東京都渋谷区の代々木上原にある東京ジャーミイは、約1,200人が同時に礼拝できる日本最大のモスクです。オスマントルコ様式のモスクで、代々木上原の閑静な住宅街に突如として現れる建築物。日本の建築ではあまり見られないドーム型の建物のため、遠くからでも異彩を放っています。 水やコンクリート、鉄筋以外の建築資材や調度品は、すべてトルコから運んできています。約100人ものトルコの職人が1年の歳月をかけて、1階文化センターや2階礼拝堂の内装を色鮮やかに装飾しており、アートとしても楽しめる点も魅力です。外装・内装ともにトルコ・イスラム芸術を代表するさまざまな工芸作品がちりばめられています。 2階の礼拝堂は別世界のような空間が広がっており、巨大なドーム型の天井からはきらびやかなシャンデリアが吊るされています。太陽光を取り込んだいくつものステンドグラスの鮮やかな輝きや繊細な幾何学模様など、その圧倒的な美しさと迫力で見るものを魅了してしまうでしょう。 東京ジャーミイの見学はどなたでも可能ですが服装の規定があります。男女ともにノースリーブや半ズボン、ミニスカートなどの肌を露出する服装での入場はできません。なお、女性は頭髪をスカーフやストールで覆う必要があります。礼拝所の入り口に貸出用のスカーフはありますが、数に限りがあるため準備しておくと安心です。 実は日本でも身近なモスク 無宗教の人も多い日本人にとってはあまりなじみがないモスク。しかし、日本では今モスクの数やイスラム教徒の数が増加傾向にあります。1999年には全国で15か所、2011年でも70か所しかなかった礼拝所モスクが、2021年3月時点では113か所に増えているのです。20年の歳月が経つ間に7倍以上に増えています。 また、イスラム教徒の人口も増加傾向にあります。日本で暮らすイスラム教徒は2020年末の時点で約23万人です。日本人や結婚で永住資格を持つ人は約4万7,000人です。10年前と比較すると1万~2万人増加しています。なかでも目立つのが、元はイスラム教徒ではなかったものが婚姻により入信するパターンです。 モスクの増加は、首都圏では23区内に、京阪神圏でも大阪や京都の主要部に集中して建築されています。日本のモスクは独創的なドーム型の美しい建築物ばかりではなく、雑居ビルの一室を間借りしたものや、倉庫や民家を居抜きで利用したものなどもあります。改装費用が確保できなかったり、近隣への配慮のためだったりなどで、元来の建物をそのまま使用しているケースもあるのです。 日本のモスクの中はどうなっている? 日本に建てられているモスクは、その場所によって特徴や大きさはさまざまです。なかには見学ができるモスクもあります。東アジアで最も美しい内装と呼ばれている東京ジャーミイは、世界の美しいモスクにも引けを取らない装飾があちこちに施されています。鮮やかなステンドグラスが装飾されたドーム型の天井や、遠くからでも場所を教えてくれる純白の塔ミナレットなど、建物全体がオスマントルコ様式の美しさを最大限発揮しているといえるでしょう。 見学ができるモスクでも、イスラム教徒が礼拝を行う神聖な場所であることにかわりはないため、服装に注意する必要があります。見学時は、半ズボンやミニスカート、ノースリーブなど肌の露出が多い服装は避けましょう。入館できない可能性が高い傾向です。また、女性の場合は場所によってスカーフで頭を覆う必要があります。スカーフの貸出を行っているモスクもありますが、数に限りがあります。モスクを訪れる予定がある場合はスカーフを持参しましょう。 イスラム教徒が通うモスクの近くには、特有の光景も モスクやイスラム教の人口が増加している日本において、モスクは異国情緒あふれる建築物だけではなく、古い建物を再利用して日本の景色に馴染んでいるものもあります。たとえば、大阪市西淀川区の工場や住宅が立ち並ぶ一角に、緑色にペイントされた建物があります。元は専門学校の校舎だった建物をイスラム教徒が寄付金を集め、買い取り設立された西日本最大級のモスクです。取り壊さずそのままの建物を利用しているため、街に溶け込んでいます。また、近隣はイスラム圏の食事を提供する飲食店もあり、イスラム教徒以外の人々も多くにぎわっています。 設立当初はイスラム教徒が多く訪れるようになり近隣のお店からも戸惑いの声が出ていましたが、次第に人と人とのコミュニケーションを交わすうちに共存が行われていきました。あるケーキ店では、モスクのイベントにあわせて300個を超すケーキの発注があり、経済的にもプラスに働いているといえるでしょう。 日本でも身近になったモスクやイスラム教 日本ではモスクやイスラム教徒の数が年々増えています。東京ジャーミイのような豪華絢爛な本格的モスクもあれば、建物を再利用して整備されたモスクもあります。イスラム教徒が礼拝を行う神聖な場所ですが、モスクによっては見学が可能です。多くのモスクでは服装の決まりがあるため、見学をしたい人はあらかじめルールをチェックしましょう。モスクを通してイスラムの芸術や文化、歴史に触れてみるのもお勧めです。
2024.09.14
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- 日本とペルシャ絨毯
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あの卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしていた?!
卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名です。卑弥呼とペルシャ絨毯といわれてもどのような関係があるのかわからない方も多いでしょう。ペルシャ絨毯といえば、長い歴史を持つイランの伝統的な織物製品の一つです。この2つの関係性をひも解いていくことで、日本の歴史とペルシャ絨毯の歴史、それぞれに対する興味を深めていきましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼とは 卑弥呼とは、2世紀末から3世紀前半にかけて昔の日本、倭国を統治していたとされる邪馬台国の女王です。日本の歴史の中で最も古い女王とされており、まだ文字のなかった時代の人物であるため、日本の史料には登場していません。卑弥呼の存在が明らかにされたのは、中国の魏の歴史書『三国志』の魏書においてです。日本の授業では『魏志倭人伝』とも呼ばれています。 魏書によると、倭国を男王が統治していた2世紀後半ごろは戦乱が絶えず、倭国の首長たちが相談して1人の女王を共立しました。それが卑弥呼です。卑弥呼が女王の座に就くと戦乱が収まり、倭国に平和が訪れたとされています。 卑弥呼は鬼道と呼ばれるまじないを用いて政治を行っていました。年を重ねても未婚のままで、弟が国政を助けていたとされています。また、女王となってからは人前に姿を見せず、顔を見たものはほとんどいません。1000人ほどの下働きの女性と1人の男性だけが女王の住む宮殿に出入りできました。 卑弥呼は単なる巫女ではなく、邪馬台国に君臨し30にもおよぶ倭の国々を統一して大陸との交流も行った、まさに女王と呼ぶにふさわしい存在だったといえます。 『魏志倭人伝』に残された記録 『魏志倭人伝』には太古の昔、卑弥呼の時代にペルシャ絨毯が伝わったと推測できる記述が残されています。『魏志倭人伝』では、239年に卑弥呼が魏国に使節を送ったとあります。そこで奴婢を含む数多くの品を明帝に献上しました。これにより、卑弥呼は親魏倭王の封号を与えられました。その後、魏の皇帝は答礼として金印紫綬と銅鏡100枚などの品を与えると決め、倭国へ使節を送り多くの品を贈ります。 その中には絨毯と思われる敷物も贈られたとの記録があります。ペルシャ絨毯が贈られたとされる明確な記載はありませんが、敷物と記録されていることから絨毯が贈られたと考えられるでしょう。 正倉院に残された、敷物とは ペルシャ絨毯と判明しているわけではありませんが、正倉院には中国から伝わった敷物である毛氈が所蔵されています。以前までは、カシミヤに似ているヤギの毛がフェルトの素材と考えられていましたが、近年、羊毛であると研究により明らかになりました。毛氈は、動物の毛に熱や圧力をかけて繊維をからませ、フェルト化したものです。紀元前と古くから中央アジアの遊牧民が敷物や壁掛けなどとして使っていたとされています。 そのほかにも、正倉院には歴史的に重要な物品が9,000点以上所蔵されています。所蔵されている中でも代表的な宝物は『鳥毛立女屏風』や『螺鈿紫檀五絃琵琶』などです。『鳥毛立女屏風』は、絵に使われている羽毛が日本の山鳥のものであるため舶来品ではなく、日本で制作されたと考えられています。『螺鈿紫檀五絃琵琶』は5本の弦で構成された珍しい琵琶で、5弦の琵琶は世界でも一つしか残っていません。正倉院では国家を代表する宝物が数多く所蔵されているとわかります。 ペルシャ絨毯の歴史を考えると、卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしたかも? 古くから絨毯と思われる敷物が日本に渡ってきていますが、日本に現存する最古のペルシャ絨毯は、京都の夏の風物詩である祇園祭の巡行で登場する大きな山鉾の懸装であるとされています。卑弥呼の時代に魏から贈られた敷物がペルシャ絨毯であったか、明確な記録は残っていません。しかし、歴史を振り返ってみると、日本にも古くから海外の絨毯が伝わってきていたことがわかるでしょう。
2024.09.14
- ペルシャ絨毯とは
- 日本とペルシャ絨毯
- ペルシャ絨毯の歴史
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京都に息づくペルシャ絨毯:豊臣秀吉を魅了し祇園祭を彩る
ペルシャ絨毯の歴史は長く、また日本に伝わってからも長い年月が経っています。今もなお日本では価値の高い織物製品として知られているペルシャ絨毯。歴史上の偉人である豊臣秀吉とも深いかかわりがあります。また、日本の伝統的な祭事である祇園祭ともかかわりを持っています。遠く離れたイランから日本へ伝わってきたペルシャ絨毯が、どのようにして日本人に受け入れられ愛されてきたかを知ることで、よりペルシャ絨毯への魅力を深めましょう。 秀吉の時代からペルシャ絨毯は日本にあった?! ペルシャ絨毯が本格的に日本へ入ってきたのは、17世紀以降といわれていますが、16世紀ごろの桃山時代にはペルシャ絨毯が伝わっていたとされる記録もあります。京都市東山区の鷲峰山高台寺に豊臣秀吉が加工させた陣羽織が所蔵されています。『鳥獣文様陣羽織』と呼ばれ、秀吉の正妻である高台院が京都東山に開いた高台寺に伝来したとされる陣羽織で、日本の重要文化財の一つです。 当時日本に伝わってきたペルシャ絨毯を秀吉が気に入り、美しい絨毯を裁断し陣羽織にして利用したといわれています。厳密には、綴れ織りのキリムを加工したものですが、ウールではなく金糸や銀糸が使用されているのが特徴です。輸出用に製作されたポロネーズ絨毯と同じく、16世紀後半~17世紀初頭にイスファハンもしくはカシャーンの宮廷工房で製作された製品と推察されています。 『鳥獣文様陣羽織』は、連続したひし形の枠の中で2頭の動物が闘争する様子や獣の頭が綴れ織りで表現されているのが特徴です。本来は敷物や壁掛けとして利用するために伝わった製品ですが、色鮮やかな色調や動物の闘争本能がむき出しとなった独特の文様が戦場を思わせることから、陣羽織に利用されたと予想されます。キリストの布教と貿易のためにスペインやポルトガルから訪れた南蛮船から伝わったとされるキリムを利用しており、大航海時代の片鱗が日本にも伝わっていたことがわかる製品です。 なお、高台寺は秀吉の菩薩を弔うために北政所が建立した寺院であり、現在も秀吉の伝世品が多く収められています。 京都の祇園祭に受け継がれる、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は京都の祇園祭とも縁のある織物製品です。京都祇園祭で巡行する山鉾のうち南観音山の前懸として、ペルシャ絨毯が用いられていました。懸装品として使用されていたのは、17世紀中期ごろに製作されたと考えられるポロネーズ絨毯です。そのほかにも、懸装品としては18世紀中ごろに日本へ伝わってきたペルシャ絨毯がいくつも利用されていましたが、のちの研究によりその多くが、ムガール朝インドのデカン地方で製作された絨毯と判明しました。 南観音山の前懸として使われていた、17世紀中期ごろにイランのイスファハンで作られたとされるペルシャ絨毯は1978年の祇園祭を最後に使用されていません。2014年以降は金糸や銀糸を含む19色のシルク糸で幾何学文様を再現した絨毯が使用されています。 祇園祭は千年以上の歴史を持つ八坂神社の祭礼で、1か月にわたって多彩な祭事が行われます。前祭と後祭で行われる山鉾巡行は、祇園祭の見どころの一つです。祇園祭の山鉾巡行に曳山を本格復帰させようと考えている鷹山の保存会は、曳山の左右を飾る胴懸にイランで織られたペルシャ絨毯を用いると発表しています。右側の胴懸にはイランの遊牧民カシュガイ族のデザインである水の神のシンボルであるカニが連なる文様が施されています。左側の胴懸には、16世紀にカシャーンの宮廷工房で作られた絨毯をもとに、蓮の花や子孫繁栄のシンボルであるザクロを表現した文様が描かれているのが特徴です。 日本・京都でも長く愛でられてきた、ペルシャ絨毯 日本におけるペルシャ絨毯は高級品というイメージで、ヨーロッパほど一般には普及していません。しかし、その鮮やかで繊細な文様に魅力を感じた日本人は、古くから宝物としてペルシャ絨毯を扱ってきました。秀吉が陣羽織として転用したり、山鉾の前懸として用いられたりと、日本の歴史や文化と深いかかわりを持つペルシャ絨毯。今後、日本においても徐々に広まっていくと予想されています。実用品としてだけではなく、これまでの日本の歴史や文化とのかかわりを知ったうえで鑑賞し、ペルシャ絨毯を楽しむのもよいでしょう。
2024.09.14
- ペルシャ絨毯とは
- 日本とペルシャ絨毯
- ペルシャ絨毯の歴史
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ペルシャ絨毯とシルクロード:カーペットベルトと呼ばれる所以
日本では高級絨毯としての魅力を持っているペルシャ絨毯。遠い国イランから日本に伝わってきた織物製品です。ペルシャ絨毯はかつてシルクロードを通じてさまざまな国へ運ばれていました。シルクロードは古来よりシルク製品や絨毯だけではなく、さまざまな製品や文化を運ぶ偉大な交易路です。ペルシャ絨毯をはじめとした、多くの製品や文化を世界に広げる手助けをしたシルクロードの歴史と役割を知ることで、ペルシャ絨毯の発展や魅力に迫っていきましょう。 シルクロードを渡った、ペルシャ絨毯 かつてシルクの交易路として利用されるようになり、その後さまざまな製品が行き交う大きな道となったシルクロード。商品の交換だけではなく文化の交流も盛んに行われていました。たとえば、クシャーナ朝の宗教である仏教は、キャラバン商人と僧侶によってインドから中央アジアと中国に伝わりました。かつて文化も運んだシルクロード周辺では、多数の都市で仏教遺跡を見かけます。 シルクロードとは シルクロードとは、19世紀にドイツ人地理学者リヒトホーフェンが作った言葉です。中央アジアを東西に横断する古代の交易路を指しています。紀元前2世紀~18世紀の間、シルクロードを通って多くの交易品や文化が行き来していました。シルクロードの歴史的価値が認められて、2014年にシルクロードの一部である長安から天山回廊の交易路網が世界遺産として登録されています。 シルクロードを通じてさまざまな交易品が世界に広がっていきました。主な交易品はシルクです。シルク製品は当時大変貴重だったため、中国で作られたシルク製品を求めて遠方のローマや西アジア、インドなどから多くの商人たちが中国まで足を運んでいました。その後、交易はシルク製品だけにとどまらず、シルクの生糸や染色などの技術取引にも発展し、世界中でシルク産業が発展したきっかけとなったのです。 また、シルク以外にも多くの交易品が行き交っており、中国は馬やルツェルン、ブドウの種などを受け取っていました。中国よりも東側では昔からブドウの木が栽培されワインが造られていましたが、中国人にとっては真新しい果物でした。ほかにもインゲン豆や玉ねぎ、きゅうり、にんじん、ザクロ、イチジクなどの農作物も中国に伝わっています。 また食品以外には、絨毯やカーテン、毛布、敷物などさまざまな織物製品が中央アジアや東地中海から中国に伝わってきており、羊毛や亜麻の加工方法、絨毯の織り方などの知識がなかった中国人に大きな変革をもたらしました。古代中国で高く評価されたのはパルティアのタペストリーや絨毯です。 中央アジアからは、中国で高い評価を受けていたラクダや軍需品、金銀、半貴石、ガラスなどが輸出されていました。とくにサマルカンドで製作されたガラスは品質が良く高い評価を受けています。そのほかにも、羊毛や皮、綿織物、金の刺繍などの製品だけではなくメロン、スイカ、桃などの果物も輸出されています。また、羊や狩猟犬、ライオン、ヒョウなどの動物もシルクロードを通じてやり取りされていました。 中国側からは美しい純白の花瓶や器、グラス、優美な文様の皿などの磁器が好まれ、多く運ばれていきました。ヨーロッパではこの磁器を製作する技術や知識がなかったため、大変価値が高く、高値でやり取りされています。 このようにシルクロードは古来より多くの国々に利用されており、さまざまな物品が行き交っていました。 シルクロードから中国に渡った絨毯 ペルシャ絨毯はトルコを通り、シルクロードを渡って中国に伝わりました。ペルシャ絨毯が元となり中国で製作されるようになったのが中国段通です。中国段通は、ペルシャ絨毯と同じように縦糸に対してパイル糸を結んでいき、1本1本カットして織り上げていきます。ペルシャ絨毯は、細い糸を利用しノット数を増やすことで繊細な文様を表現するとともに薄くて丈夫な特徴があります。 一方、中国段通は太い毛糸を用いて糸の量が少なくなり、厚みとボリュームのあるのが特徴です。また、独特の艶出しや、カービングによる浮き彫りとぼかしなどの技術が発展し、中国段通独自の味わいが生まれていきました。織りの密度が高いほど繊細な文様を表現できる点はペルシャ絨毯と共通しています。中国段通には表現方法の一つとしてぼかし技法というものがあります。絵画的文様や精巧な刺繍の文様、手書き友禅風など、さまざまな織りを可能とする技法です。 コントラストが強く色鮮やかなペルシャ絨毯に対して、中国段通は穏やかなグラデーションとふっくらした優しい風合いが魅力です。文様には、フランス王朝ロココ時代の美術文化を前面に表現したフランス柄や、伝統的な中国古来の壷の文様を描いた北京柄などが好んで描かれています。そのほかにも、無地の段通に花などの図柄が浮き彫りされている素凸柄、梅や菊などの花が両端に織り込まれた彩花柄などもあります。中国段通は厚みがありパイル表面がやわらかいため、足音や物を落とした時の音を吸収してくれるとともに、温もりを感じられる点が魅力です。 日本でも愛される、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は日本でも愛されている織物製品の一つです。ペルシャ絨毯が日本に伝わったのは17世紀~18世紀ごろといわれています。ポルトガル・スペインもしくはオランダ東インド会社との海上貿易により伝わりました。 また、京都市東山区の鷲峰山高台寺には、かの戦国武将豊臣秀吉が所有していたとされている陣羽織が所蔵されています。正式には絨毯ではなく綴れ織りのキリムを加工したものです。しかし、この陣羽織りにはウールではなく金糸や銀糸が使用されており、ポロネーズ絨毯同様に16世紀後半~17世紀初頭にイスファハンもしくはカシャーンの宮廷工房で製作されたものではないかと推察されています。 また、京都の祇園祭で街を練り歩く山鉾の懸装品としても、17世紀中期に製作されたと考えられるポロネーズ絨毯が使用されています。 シルクロードとカーペットベルト 中国の長安からローマを結んだ古くからの交易路であるシルクロード。もとは中国産のシルクが多く運ばれたことよりその名が付きました。また、このシルクロード近辺はカーペットロードとも呼ばれています。イランをはじめとした絨毯やラグの文化が根付いている地域が、シルクロード一帯に帯状になって広がっていることから、カーペットベルトの名が付きました。 カーペットベルトとは カーペットベルトとは、シルクロードの中でも伝統ある絨毯づくりを行っている地域一帯を指します。イスラム圏とほぼ重なるカーペットベルトでは、古代より絨毯の広がりや交流があったと考えられています。 なぜ絨毯(カーペット)文化が発達したのか カーペットベルトにおいて絨毯の製作や輸出が盛んになった理由は以下のとおりです。 ・乾燥気候かつ気温差の激しい地域で絨毯を必要とする環境がある ・原材料の羊毛が簡単に手に入る ・移動を続ける遊牧民は家具を使わない床生活のため ・東西に交易路が整備されている ・イスラムの習慣で礼拝時に絨毯を利用する習慣があったため ・古くから染織技術の伝統を持つ都市が多くある 文化に根付き進化した、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は、シルクロードを経てさまざまな国へ伝わり独自の進化を遂げました。製品そのものや織りの技術だけではなく、その独特な文様も各国へ伝わり、アレンジを加えられて親しまれています。たとえば、ペルシャ絨毯で好まれているアラベスク文様は日本では唐草模様として発展しました。イランは遠い国のように思えますが、このようにシルクロードを通して伝わってきたペルシャ絨毯やさまざまな製品によって、とても身近なものになっているといえるでしょう。イランから日本へはるばる運ばれてきたペルシャ絨毯の魅力は、ぜひ実物を手に取って感じてみることをお勧めします。
2024.09.14
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幻のペルシャ絨毯、ホスローの春とは
古くから現在まで高級品として知られているペルシャ絨毯。耐久性に優れた作りにより数千年前に製作されたペルシャ絨毯も現存しており、歴史的価値も高い織物製品です。ペルシャ絨毯の歴史において、有名な話にホスローの春があります。実物は現存していませんが、大変豪華で美しい絨毯であったとされています。 語り継がれる絨毯、ホスローの春とは ペルシャ絨毯の歴史は長く、さまざまな歴史的価値のある絨毯が発見され、博物館や美術館に所蔵されている一方、実物は現存していませんが伝承によって語り継がれた幻の絨毯があることをご存じでしょうか。『ホスローの春』は、豪華な装飾を施された幻のペルシャ絨毯と呼ばれています。 ホスロー1世 ホスロー1世とは、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主で、エフタルに侵攻され衰えていたササン朝ペルシアを再興した王です。在位は531~579年とされています。529年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が異教徒を取り締まり、アテネのアカデメイアを閉鎖すると、多数のギリシア人の哲学者や医学者がササン朝に逃げてきました。ホスロー1世はこの哲学者たちを保護したといわれています。エフタルを滅ぼした後は、561年にユスティニアヌス帝との間に50年の和平条約を結び、西方の国境を安定させました。その後、アラビア半島の現在のイエメンを占領し、ビザンツ帝国とインドを結ぶ貿易路を作っています。 ホスロー1世の時代は、ゾロアスター教を中心としたササン朝の文化が最も栄えた時代といわれています。また、ギリシア・ヘレニズムの文化の影響も受けており、金属細工やガラス工芸などの芸術作品が生み出され、シルクロード交易を通じて東アジアの日本にまで伝えられたのでした。 ホスローの春(春の絨毯)はどんな絨毯だった? 『ホスローの春』は別名・春の絨毯とも呼ばれる幻のペルシャ絨毯です。アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが書いた『諸使徒ならびに諸王の歴史』に、ササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていた絨毯の記述があります。記述からは、絨毯がどのような構造であるかはわかっていません。また、実在を証明する一次資料はなく、あくまで伝承に過ぎない絨毯です。 ササン朝(226~642年)はシリアから中央アジアまで広い地域を支配していた大帝国です。『ホスローの春』は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世(在位531~579年)のもとで、四季をテーマに製作された絨毯のうちの1枚とされています。サイズは縦140m×横27mの大きなサイズだったといわれています。また、バハレスタン絨毯の異名を持っており、バハレスタンのペルシャ語の意味は春の国です。 楽園のような美しい庭園が表現されていたといわれ、シルク生地に金糸や銀糸さらには宝石を用いて、花々が咲き乱れる春の風景が描かれていたそうです。推察ではありますが、つづれ織りのキリムに真珠やエメラルドなどの宝石や貴石を縫い付けたもの、パイル織で製作されていればつづれ織りを組み合わせたポロネーズ絨毯と同じくスフの地に宝石を縫い付けたものなどと考えられています。 ホスロー1世の死後、のちにササン朝ペルシアはアラブのイスラム教徒によって滅ぼされてしまいます。その際に『ホスローの春』は、2代正統カリフであるウマルのもとに戦利品として送られましたが、バラバラに分解され兵士たちに分配されたといわれています。そのため、実物は現存しておらず、幻の絨毯と呼ばれるようになりました。 幻となってしまった、ホスローの春 実物が現存せず、記述のみで語り継がれてきた幻のペルシャ絨毯『ホスローの春』。幻となってしまいましたが、王宮に飾られていたことから、当時からペルシャ絨毯が価値の高いものであったとわかります。『ホスローの春』の伝承により、古くから格式高いインテリアとして利用されてきたペルシャ絨毯の魅力をより深く印象付けられたのではないでしょうか。
2024.09.14
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ゾロアスター教とペルシャ絨毯:文化の交わりが生んだ美
ゾロアスター教とペルシャ絨毯と聞いても、共通点が浮かぶ人は少ないのではないでしょうか。ゾロアスター教は古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教であり、ペルシャ絨毯はイランの伝統的な織物製品です。一見交わることのないように感じられますが、実は長い歴史の中においては関係している場面もあります。2つの伝統的な文化が交わり生まれたペルシャ絨毯の美を楽しむためにも、ゾロアスター教の歴史や関係値をチェックしてみましょう。 ペルシャ絨毯とゾロアスター教との関係 ペルシャ絨毯もゾロアスター教も歴史が古く、イランにおいては多くの人に知られているものです。それぞれの歴史や特徴は知っていても、関係性については知らない方も多くいます。ペルシャ絨毯のさらなる魅力を発見するためにも、歴史をさかのぼりゾロアスター教との関係性を深堀してみるのもよいでしょう。 ゾロアスター教とは ゾロアスター教とは拝火教とも呼ばれており、古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教です。現在でもイランやインドを中心に、世界中に信者が存在します。また、世界3大宗教の基礎にもなっている宗教です。ザラスシュトラが説いたゾロアスター教の教えでは、善悪二元論の思想があります。 全知全能の神で、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダが創造したとされるこの世界には、善い神と悪い神がいるとされています。善い神は、人類の守護神であるスプンタ・マンユを筆頭にした7神。悪い神は、悪、苦痛、病気、死の源泉とされるアンラ・マンユを筆頭にした7神です。 今の時代は善い神と悪い神が戦っている時間であり、苦しい日々が続くのはアンラ・マンユたちが優勢なとき、楽しい日々が続くのはスプンタ・マンユが勝利し続けているからだとしています。もし、この世を1人の神が正義の下に創造していたとしたら、悪人はいないはずです。ゾロアスター教では、清く正しく生きていても人生に苦しみがつきものなのは、神にも善と悪があるからだと説いています。 ゾロマスター教では、1万2000年後に未来の終末が訪れ、アフラ・マズダが最後の審判を行うとされています。生きている者だけではなく死者も審判の対象となり、全人類が選別されるのです。悪人は地獄に落ち、滅び去ります。善人は永遠の命を授かり、天国で生きるとされています。 ゾロアスター教の時代から存在したペルシャ絨毯 ゾロアスター教は、紀元前2世紀に栄えたパルティア王国の人々の手によって聖典『アヴェスター』として編纂されました。その後のササン朝は、226~642年に栄えた王朝で、アケメネス朝の再興を目指すとともにゾロアスター教を国教化しました。第21代君主ホスロー1世の時代に最盛期を迎え、この時期に『ホスローの春』と呼ばれる幻のペルシャ絨毯が製作されたとされています。 『ホスローの春』の現物は残っておらず、アラブの史家タバリーが書いた『諸預言者ならびに諸王の歴史』の中に記述が残っている絨毯です。サイズは縦140m×横27mととても大きく、楽園のような美しい庭園の文様が施され、宝石や貴石などが縫いつけられた豪華絢爛なペルシャ絨毯であったとされています。『ホスローの春』はササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていました。 ホスロー1世が亡くなった後、ササン朝ペルシアがアラブのイスラム教徒によって侵攻された際、戦利品として『ホスローの春』が持ち帰られましたが、その後バラバラに切断され兵士たちに分配されたといわれています。 残念ながら『ホスローの春』の実物は現存せず書の記録のみですが、ゾロアスター教が国教化されていた古い時代から、宮殿や王宮などの敷物としてペルシャ絨毯が利用されていたことがわかります。 ゾロアスター教がペルシャ絨毯に与えた影響 ゾロアスター教は、古代に製作されたペルシャ絨毯の文様にも大きな影響を与えたとされています。ゾロアスター教は、農耕と牧畜を高貴な職業とする信仰であったため、樹木文様やペイズリーの起源になっているともいわれています。 樹木模様は糸杉模様とも呼ばれ、古代より東方では樹木が生命や不死の象徴であったため神聖な模様として尊ばれていました。樹木模様は永遠の生命を表しており、ペルシャにイスラムがもたらされたときには、すでにゾロアスター教徒が炎の形をなぞらえて絨毯に織り込んでいたともいわれています。ペイズリーの起源もイランにあるとされており、ゾロアスター教徒が拝する炎を意匠化したとする説があります。また、風に揺れる糸杉をモチーフにしているとの説も。 また、ゾロアスター教は産地独特の文様にも影響を与えています。タフリシュで製作されるメダリオン・コーナーはクロック・フェイスと呼ばれる独特な文様です。このデザインはゾロアスター教の唯一絶対神である太陽神をイメージしているといわれています。 ペルシャ絨毯の産地として知られるアルデビルは、ゾロアスター教の聖地を意味するアルタヴィルが由来ともいわれています。また、ナインではかつて、ゾロアスター教が掘った洞窟の中に機織り機を設置してウール素材の生地を製作していました。 ゾロアスター教の影響も残る、ペルシャ絨毯 古代ペルシア発祥の世界最古の宗教であるゾロアスター教は、イラン国内においてさまざまな影響を残しています。ペルシャ絨毯もその影響を受けたものの一つです。ペルシャ絨毯の歴史も古く、ゾロアスター教が国教化されていた時代でともに存在し、宮殿や王宮などで利用され大きな印象を残しています。また、ペルシャ絨毯の文様として親しまれている樹木模様・糸杉模様やペイズリーもゾロアスター教と深い関係があるとされています。ペルシャ絨毯は長い歴史の中で、さまざまな出来事や物と共存していたことがわかるでしょう。
2024.09.14
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ペルシャ絨毯の歴史:織物の芸術が紡ぐ千年の物語
ペルシャ絨毯はイランの伝統的な織物製品です。イラン国内かつ手織りで作られている絨毯をペルシャ絨毯と呼び、国内外問わず多くの人を魅了しています。人気のあまり偽物も多く出回っており、本物のペルシャ絨毯の価値は今後も上がっていくでしょう。オールドやアンティークなどの古いものも現存するペルシャ絨毯。その歴史はいつごろから始まっているのか気になる方も多くいます。長きにわたる歴史の中で、技術と伝統を磨き上げて作られたペルシャ絨毯の原点を探っていきましょう。 ペルシャ絨毯の歴史 ペルシャ絨毯は古くから、実用的な敷物や鑑賞用のタペストリーなどとして多くの人に親しまれてきました。イランという国の歴史も古く、国内には世界遺産にも指定されている5大遺跡があります。歴史ある国イランの文化の中で手織りされた美しいペルシャ絨毯はどのように誕生したのでしょうか。はっきりとした始まりはわかっていませんが、起源は4000~5000年前にまでさかのぼるといわれています。 紀元前:いまも残る、最古の絨毯 ペルシャ絨毯は紀元前から製作されていたと考えられています。およそ4000~5000年前の当時の絨毯は、現在製作されているパイル織りの絨毯ではなく、獣の毛を固めたようなものでした。絨毯は実用的な織物で、日常的に使用されることから保存状態がよいまま残ることは少なく、当時の絨毯はほとんど残っていません。 現在発見されている中で、現存する最古のペルシャ絨毯は『パジリク絨毯』です。およそ2500年前に作られたとされています。発見したのはロシアの考古学者セルゲイ・ルデンコです。シベリアのアルタイ山脈中パジリク渓谷にあるスキタイ王族の古墳から発見されました。古墳には高価で貴重な品物が数多く眠っている可能性があるため、盗掘が発生することも。しかし、パジリク絨毯は盗掘をまぬがれ、さらには凍結状態であったために劣化が最小限で済みました。 研究結果からは、羊毛とラクダの毛をベースに羊毛のパイルが織り込まれているとわかりました。2本の縦糸に一つひとつ糸を絡ませて織っていくこのスタイルは、現在のペルシャ絨毯の同じ織り方です。サイズは約1.8m×2mで、中央部に格子と5列のボーダー文様が施され、シカや馬を引く人、騎馬などが表現されています。絨毯の文様がアケメネス王朝ペルシャ期のデザインと似ていることと、ペルシャ絨毯に共通する織り方から、当時のアケメネス王がスキタイ王国へ贈ったものではないかと考えられています。しかし、最近では中央アジアで織られたものという説も。 また、パジリク古墳よりも西方にあるバシャダル古墳からは、パジリク絨毯よりもさらに130年さかのぼった時代に作られたとされるペルシャ結びで織られた絨毯が発見されました。パジリク絨毯発見の数年後にセルゲイ・ルデンコにより発見された絨毯の断片は、パジリク絨毯よりもさらに密度の高い織り方がされていました。今後もさらに古いペルシャ絨毯が発見されるかもしれません。 7世紀:語り継がれる、ホスローの春 古代ペルシャでは、空気、水、火、地の4つを神聖な元素とたたえるゾロアスター教が広く浸透していました。アラブに侵攻されイスラム教が入ってくるまでは、宗教といえばゾロアスター教でした。この時代に作られたとされる幻のペルシャ絨毯が『ホスローの春』です。実物は現存しておらず、アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが書いた『諸使徒ならびに諸王の歴史』に記述があるだけの絨毯です。そのため、どのような構造をしていたかはわかっていません。 『ホスローの春』はササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世のもとで製作され、ササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていたとされています。縦140m×横27mの巨大な絨毯で、シルク生地に金糸や銀糸さらには真珠やエメラルドなどの宝石や貴石を縫い付けたデザインであったとの話もあります。 ホスロー1世の死後、ササン朝ペルシアはアラブのイスラム教徒によって支配されました。その際に『ホスローの春』はバラバラにされ戦利品として兵士たちに分配されたとのことです。そのため『ホスローの春』は現在までに断片すら発見されておらず、幻のペルシャ絨毯といわれています。 16世紀:ペルシャ絨毯の黄金期 16世紀のサファヴィー朝は、ペルシャ絨毯の黄金期と呼ばれています。サファヴィー朝は1501年に神秘主義教団の指導者であったイスマーイールによって創始され、都をタブリーズに置きました。サファヴィー朝では建築や絵画、絨毯などが盛んに作られ、工芸と文化が発展した時代でもありました。 なかでも、シャーアッバース1世の時代にはイスファハンに都を移しモスクを建築しています。その後も新しい王宮、庁舎、邸宅などの建設ラッシュが巻き起こります。建築の増加にあわせて絨毯の需要も増え、数多くの絨毯工房が設立されました。宮廷工房も設立され、絨毯の素材となる羊の飼育から染料に使用する植物の栽培まで、宮廷内で一貫して行われるようになりました。 宮廷工房では、国内だけではなく海外の王族や高官への贈り物としての絨毯も織られています。また、輸出用の絨毯はイスファハンやカシャーン、ジョウシャガーンなどの工房でも多く製作されました。当時製作された海外向けの絨毯はポロネーズ絨毯と呼ばれ、現在世界で230枚発見されています。ポロネーズ絨毯は金糸を使用したシルクの美しい文様が特徴で、のちにインドのムガル朝やトルコのオスマン朝などにも影響を与えました。 18世紀以降:時代とともに受け継がれるペルシャ絨毯 18世紀以降もアフシャール朝やガージャール朝、パハラヴィー朝とペルシャ絨毯の伝統は受け継がれていきました。アフシャール朝に製作されたペルシャ絨毯はあまり現代に残されておらず、資料も限られています。1722年のアフガーンの侵略や1727年のナーデル・シャーの挙兵によりイランの絨毯製作は一度終焉したともいわれています。しかし、実際には宮廷の豪華な絨毯や海外向けの絨毯の製作が行われなくなっただけで、実用性のある遊牧での絨毯づくりは変わらず続いていたとする説が有力です。 ガージャール朝の時代ではペルシャ絨毯の伝統的な体制や方向性、絨毯そのものに大きな変化が見られました。とくに変化が顕著だったのが1870年代から第一次世界大戦までの織り機と輸出量が急増した時期です。ヨーロッパ市場でペルシャ絨毯のブームが巻き起こり需要が急激に増加しました。その影響で絨毯工場が次々に設立されていき、商業的生産の基盤が構築されました。 パハラヴィー朝ではガージャール朝から引き継がれた絨毯の振興策により、ナインやゴムなどの新興産地も登場し、都市工房での絨毯づくりが活性化されていきます。 近代:世界三大財産となり、偽物も増えつつある… 1979年のイスラム革命により王制が終焉を迎えた後も、絨毯産業は継続され輸出も続き、現在に至ります。時を経ても価値の高いペルシャ絨毯は、近年でも人気であり「世界三大財産」といわれています。しかし、技術の進歩からコピー品なども増えてきているのが現状です。 ペルシャ絨毯の受け継がれる伝統と美しさ イランで作られるペルシャ絨毯には、古くから受け継がれてきた伝統的な美しさがあります。長い歴史の上に立つ技術や手法により織られるペルシャ絨毯は何にも代えがたい魅力があるといっていいでしょう。しかし近年、需要の増加とともに不足する織り子の賃金上昇が注目され、ペルシャ絨毯そのものの価格も年々上昇しています。ペルシャ絨毯は高価で希少価値が高い織物製品ですが、織り子の賃金問題解決により、これからも伝統を受け継いで製作されていくでしょう。
2024.09.14
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アラベスク模様の意味: 装飾と文化の融合を解き明かす
モスクやペルシャ絨毯の装飾としてよく見られるアラベスク模様。パターン化された美しいモチーフの柄が魅力的で、ときに見る者を圧倒する迫力もあります。さまざまな調度品にも用いられている柄のため、目にしたことがある人も多いでしょう。ペルシャ絨毯の柄としても人気のあるアラベスク模様の特徴と歴史を通してアラベスク模様の魅力に触れていきましょう。 アラベスク模様に込められた意味 イスラムのモスクの建築装飾としてよく目にする、さまざまなモチーフがパターン化され繰り返し描かれているデザインをアラベスク模様といいます。宮殿やモスクの内外装に取り入れられ、その美しさから見る者の心を魅了しています。アラベスク模様の歴史や特徴を知り、模様やデザインへの興味を深めていきましょう。 アラベスク模様とは アラベスク模様とは、つるや花が規則的に絡み合った様子や神聖幾何学模様が繰り返し連なっている様子を描いた模様です。アラベスク模様がイスラム美術に取り入れられるようになったのは、イスラム教の偶像崇拝を禁止する教えがきっかけと考えられています。偶像崇拝が禁止されているイスラム教では、絵画や装飾品に人や動物を描くのを禁止されていました。そのため、つるや花の模様やコンパスで描いた円などの美しいモチーフが繰り返されるアラベスク模様が生まれたとされています。 アラベスク模様は、カリグラフィーや幾何学模様に並ぶイスラム美術の3大装飾の一つです。イスラム美術として広く応用されており、ヨーロッパやアジアなどにも広まっていきました。ヨーロッパでは豪華で上品なアラベスク模様がよく用いられています。また、日本でもつるをモチーフにした唐草模様として広く描かれています。アラベスク模様はヨーロッパやアジアなど世界中の装飾文化に影響を与えている模様といえるでしょう。 アラベスク模様は、モスクの建築装飾に用いられている印象が強いですが、調度品や宝石などにも広く利用されている模様です。モチーフが繰り返されるデザインは汎用性が高く、ペルシャ絨毯でもよく描かれています。 アラベスク模様はパターンの種類が多く数を特定するのは難しい模様です。モチーフの種類が豊富にあり、それらが組み合わさってアラベスク模様となるため、まったく同じ組み合わせのパターンになることが少ないといえます。モチーフには、ヤプラック、ペンジ、ハターイー、ゴンジャ、ルーミー、テペリックなどがあります。 アラベスク模様の意味 アラベスクは「アラビア風の」という意味を持ち、イタリア語からフランス語に派生した言葉です。アラベスクはヨーロッパ人視点で見ると、イスラムの植物文様を表す言葉でした。日本においてもアラベスクの言葉はよく使われていますが、実はイスラム美術においてはあまり使われていません。 ペルシャ語やトルコ語では「イスリーミー」と呼ばれ、つる草を意味しています。また、植物模様とも呼ばれています。アラベスク模様は、イスラム美術だけではなくヨーロッパ美術にも大きな影響を与えました。ルネッサンス期のヨーロッパ美術を見てみると、美術工芸品に多くのイスラム美術に影響を受けたと見られる装飾が施されています。 とくにタペストリーや陶器、金属細工、書物の装飾に多く反映されています。もともとイスラム美術で使われていたアラベスク模様の言葉ですが、ルネッサンス以降は動物や人物をつる模様と組み合わせたグロテスク様式の装飾を指すようになっていきました。 イスラム美術におけるアラベスク模様 小さなパターンやモチーフで構成されるアラベスク模様はさまざまな場所で取り入れられています。たとえば、モスクの装飾やタイル、金属細工、木彫細工、ペルシャ絨毯などです。見る者を圧倒するアラベスク模様はペルシャ絨毯の模様としても人気があり、サファヴィー朝時代には、アラベスク模様を主役にした製品も製作されています。20世紀ごろからは、ペルシャ絨毯においてはボーダーやガードのデザインとしての使用が多くなりました。 アラベスク模様の歴史 小さなパターンやモチーフで構成されるアラベスク模様はさまざまな場所で取り入れられています。たとえば、モスクの装飾やタイル、金属細工、木彫細工、ペルシャ絨毯などです。見る者を圧倒するアラベスク模様はペルシャ絨毯の模様としても人気があり、サファヴィー朝時代には、アラベスク模様を主役にした製品も製作されています。20世紀ごろからは、ペルシャ絨毯においてはボーダーやガードのデザインとしての使用が多くなりました。 アラベスク模様の歴史 アラベスク模様は、イスラム美術で用いられているためイスラムが発祥といわれています。しかし、さらに時代をさかのぼるとギリシャ、ローマ、ササン朝などが起源ではないかともいわれています。古代に描かれていたブドウの葉や、アカンサスをモチーフにギリシャでつる模様が描かれ始め、それがローマ帝国やヘレニズムの時代を流れてイスラム地域に伝わったともいわれているようです。 また、シルクロードを通じて中国から伝わったとされる日本の唐草模様も、元を辿ると起源は古代ギリシアの神殿に見られる草の模様であり、メソポタミアやエジプトから各地に伝わったとされています。 イスラム美術を語るうえで欠かせない、アラベスク模様 アラベスク模様は、モスクや調度品、宝石などさまざまなものに施されている模様です。イスラム教では偶像崇拝を禁止し、動物や人物を描けなかったことからアラベスク模様が重宝されました。イスラム美術においてはカリグラフィーや幾何学模様とともに3大装飾の一つに数えられるほどで、イスラム美術を語るうえでは欠かせない模様といえるでしょう。
2024.09.14
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