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ペルシャ絨毯が登場する映画があった
日本では高級品のイメージが強いペルシャ絨毯。実は日本で放映されたことのあるさまざまな映画にも登場しているのです。古くからの歴史と文化が織りなす伝統的なペルシャ絨毯の魅力をより知ることで、これまで知りえなかったペルシャ絨毯の魅力に気付けるかもしれません。また、映画も違った視点で楽しめるでしょう。 ペルシャ絨毯が登場する映画3選 日本でも昔から人気を集めているペルシャ絨毯。現在では高級絨毯として広く知られています。実は、ペルシャ絨毯が中心となった映画が複数あります。日本とイランの合作である『風の絨毯』や、バブル時代の三越が多額の予算をかけて製作した『燃える秋』、イランとフランスの合作である『ギャッベ』など、さまざまな映画でペルシャ絨毯が登場しているのです。 『風の絨毯』(2003年) 実話をもとに製作された『風の絨毯』は日本とイラン合作の映画で、ペルシャ絨毯が登場します。日本の飛騨高山とイランのイスファハンを舞台に、ペルシャ絨毯を通じて生まれた心の交流を描いた映画です。母を事故で失った日本人の少女と、病床の父を支えるイラン人少年のほのかな恋を織り交ぜた心の触れ合いを描いています。2つの国を舞台に文化の違いや国民性の違いを乗り越えて成長していく人々を描いたこの映画では、ペルシャ絨毯がきっかけでストーリーが動き出します。 400年前に消失した伝説の祭屋台を現代に復活させようとする中田金太。屋台に飾る見送り幕としてペルシャ絨毯を使おうと決めていました。そのデザインを画家の絹江に依頼します。絹江はペルシャ絨毯の輸入業を営む古美術商である永井誠の妻です。絹江がデザインを完成させ、後はイランにペルシャ絨毯を取りに行くだけとなりましたが、そんな矢先に絹江は交通事故で帰らぬ人となってしまいます。 悲しみに暮れる夫の永井誠とその娘さくらは、母の絹江がデザインしたペルシャ絨毯を受け取りにイランへと向かいました。永井誠の友人で絨毯仲売人のアクバルが暖かく2人を迎えますが、手違いがありペルシャ絨毯はまだ完成していません。誠は絶望し日本へ帰国しようとしますが、さくらの悲しみを知ったアクバルの甥っ子ルーズが奮闘し、さくらと2人で力を合わせ祭りの期日までに製作を間に合わせようとします。さまざまな人の協力を得て24時間体制でペルシャ絨毯は編まれることに。その中でさくらとルーズは次第に惹かれあっていくのでした。 ペルシャ絨毯を中心に物語が回っていく『風の絨毯』では、日本とイランの人々の魅力に触れるとともに、ペルシャ絨毯の魅力にも触れられる映画といえるでしょう。 『燃える秋』(1978年) 『燃える秋』はバブル期の日本で製作された映画で、作中にペルシャ絨毯が登場します。1970年代半ばごろ、三越がパフラヴィー朝成立50周年を記念し、三井物産とイラン絨毯公社協力のもと1,000枚のペルシャ絨毯を直輸入しました。1977年にはペルシア五千年美術絨毯展を開催するとともに、販促映画として『燃える秋』を10億円の予算をかけて製作したのです。東宝と共同での製作となり、企画の段階から三越が大きくかかわっています。 原作は五木寛之の『野性時代』に連載された同名の小説で、脚色は稲垣俊、監督は小林正樹が担当しました。ペルシャ絨毯に心惹かれた1人の女性が、1枚の絨毯に描かれた5000年の文化や歴史を知り、幸せや愛よりも大切な何かを見つけ生きていく姿を描いています。 この映画が製作された時代、三越はテヘラン支店を設置して本格的にペルシャ絨毯の販売に乗り出していました。各百貨店も流れに乗り遅れまいと一斉にペルシャ絨毯の販売をスタートさせ、イランやトルコからは日本で一攫千金を狙おうと多くの絨毯商が来日します。日本人好みのシルク絨毯を製作するクムでは、日本バイヤーの注文によりペルシャ絨毯に銘が織り込まれるようになりました。 また、日本でのペルシャ絨毯人気にあやかろうと、クムから遠く離れたイラン北西部のザンジャンやマラゲでは、クム産を模倣したシルク絨毯が多く製作されています。なお、当時の三越はのちに三越事件と呼ばれるさまざまな不祥事により世間を騒がせていました。 『ギャッベ』(1996年) 『ギャッベ』は1996年にイランとフランスの合作で製作された映画です。色鮮やかなペルシャ絨毯ギャッベを前に語られる恋愛物語です。ある日、狼の遠吠えを真似る青年に出会い恋をしたギャベ。しかし、一族のもとへ帰ってきた叔父の結婚が先であるとし、父親は2人の結婚を許しませんでした。叔父は歌の上手い娘と泉のほとりで出会う夢を見てその後、素敵な結婚を果たします。 ギャベが結婚する日も近いと思いきや、母親の妊娠で話は延期になってしまいます。その後も各地を遊牧しながら絨毯を織る日々が続きました。母親の出産や妹の事故死などさまざまな体験をしたギャベは、ついに青年との駆け落ちを決行したのです。 青い絨毯を手に馬を走らせる2人に気づき、父親は銃を手に2人を追いました。銃声がこだました後、父親は自宅に戻りギャベが持ち出したペルシャ絨毯を一族の前に広げます。しかし、これは父親が売った芝居で、2人は40年経った現在も2人で仲良く小川にたたずむのでした。 『ギャッベ』には、遊牧民の間で作られていたギャッベと呼ばれるペルシャ絨毯が登場します。現在では、ギャッベもペルシャ絨毯の一種として芸術的な価値を持っているとされています。しかし、もとは移動しながら暮らす遊牧民がテントの床に敷くための、普段使い用の絨毯でした。ギャッベの名称は「雑な絨毯」を意味しており、消耗品として扱われていたことがわかります。 実は現在流通しているモダンギャッベは、遊牧民族であるカシュガイやルリが伝統として受け継いできたギャッベとは別物なのです。現代人の好みに合うようにアレンジして作られたものがモダンギャッベです。 『アラジン』の絨毯はペルシャ絨毯ではない? ミュージカルや実写映画にもなり話題のディズニー映画『アラジン』でも、魔法の絨毯が登場します。そのため、ペルシャ絨毯と聞くとアラジンに登場する空飛ぶ絨毯をイメージする人も多いのではないでしょうか。しかし、『アラジン』は架空の国がモデルとなっている映画です。イランをモデルにした話ではないため、絨毯もペルシャ絨毯という確証はありません。 主人公が住むアグラバーと呼ばれる都市は世界のどこにも存在していませんが、お城のモデルはインドの世界遺産タージマハルであるとされています。タージマハルはインド北部の都市アーグラにあります。そのため、アグラバーもこの都市の名前が由来ではないかと推察できるでしょう。映画に砂漠が出てきたり、アラビアンナイトと呼ばれる曲が使われていたりすることから、架空の中東都市をモデルにしていると考えられます。 また、アラジンには原作があります。原作の『アラジンと魔法のランプ』は『千夜一夜物語』の中の物語の一つです。原作の舞台は中国でペルシャ絨毯は登場しません。また、アラジンは中国人、魔法使いはアフリカ出身の設定です。なお、『千夜一夜物語』の中で魔法の絨毯が登場するのは『アフマッド王子と妖精パリ・バヌー』のみ。『アラジン』に登場する魔法の絨毯はディズニー映画オリジナルの設定だったのです。 ペルシャ絨毯の文化や歴史を知ると映画がもっと面白くなるかも ペルシャ絨毯はさまざまな映画の中で登場します。ペルシャ絨毯の文化や歴史を知ったうえで映画を鑑賞すると、よりペルシャ絨毯の魅力に触れながら楽しめるのではないでしょうか。これまでとは異なる視点で映画の面白さを感じられます。登場するペルシャ絨毯の文様を観察してみたり、映画の中での立ち位置をチェックしてみたりといろいろな楽しみを発見してみてください。
2024.09.14
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日本にあるモスク…イスラムと日本の深い関係
モスクとは、イスラム教における礼拝堂で、イスラム教徒はモスクで礼拝を行います。イスラム教は五行と呼ばれる5つの義務があり、その中の1つが礼拝です。モスクはイスラム教徒にとって礼拝を行うための大切な場所なのです。実は、イスラムと日本には深い関係があります。宗教とは無縁の人も多い日本ですが、イスラム教徒が礼拝に使用するモスクは日本各地に建てられています。 日本にはモスクがある? 宗教を持たない人も多い日本人にとって、モスクや礼拝などは無縁のものと思いがちですが、実は日本にもイスラム教徒のために建てられたモスクがいくつもあります。その数は年々増加しています。また、ドーム型の豪華なモスク以外にも、元の建築物を活かしてそのまま礼拝として利用しているモスクが多いのも特徴です。日本にあるモスクを見学し、イスラムの文化に触れてみるのもよいでしょう。 日本最初のモスクは神戸モスク 日本に初めて建てられたモスクは神戸にあります。神戸ムスリムモスクは、1935年に神戸在住のトルコ人とタタール人、インド人貿易商らの出資によって建てられたモスクです。日本最古の神戸ムスリムモスクは、第二次世界大戦の戦火や阪神淡路大震災の災害でも壊れずに済んだため、ミラクルモスクとして世界で名が知られています。 現在は、国内外から多くの観光客や見学者が訪れており、異人館とあわせて神戸市の観光スポットとしても人気を集めています。また、日本におけるイスラム文化と歴史の象徴ともいえるでしょう。神戸ムスリムモスクはイスラム教徒ではない人でも内部の見学が可能です。個人や少人数での見学は予約の必要もありません。なお、半ズボンやミニスカートなど肌の露出が多い服装の人は入館できないため注意しましょう。 神戸ムスリムモスクは北野異人館街から坂を少し下った場所にあります。異人館観光とあわせて神戸の異国情緒と多様性あふれる街並みを楽しめます。 日本最大のモスクは東京にある 東京都渋谷区の代々木上原にある東京ジャーミイは、約1,200人が同時に礼拝できる日本最大のモスクです。オスマントルコ様式のモスクで、代々木上原の閑静な住宅街に突如として現れる建築物。日本の建築ではあまり見られないドーム型の建物のため、遠くからでも異彩を放っています。 水やコンクリート、鉄筋以外の建築資材や調度品は、すべてトルコから運んできています。約100人ものトルコの職人が1年の歳月をかけて、1階文化センターや2階礼拝堂の内装を色鮮やかに装飾しており、アートとしても楽しめる点も魅力です。外装・内装ともにトルコ・イスラム芸術を代表するさまざまな工芸作品がちりばめられています。 2階の礼拝堂は別世界のような空間が広がっており、巨大なドーム型の天井からはきらびやかなシャンデリアが吊るされています。太陽光を取り込んだいくつものステンドグラスの鮮やかな輝きや繊細な幾何学模様など、その圧倒的な美しさと迫力で見るものを魅了してしまうでしょう。 東京ジャーミイの見学はどなたでも可能ですが服装の規定があります。男女ともにノースリーブや半ズボン、ミニスカートなどの肌を露出する服装での入場はできません。なお、女性は頭髪をスカーフやストールで覆う必要があります。礼拝所の入り口に貸出用のスカーフはありますが、数に限りがあるため準備しておくと安心です。 実は日本でも身近なモスク 無宗教の人も多い日本人にとってはあまりなじみがないモスク。しかし、日本では今モスクの数やイスラム教徒の数が増加傾向にあります。1999年には全国で15か所、2011年でも70か所しかなかった礼拝所モスクが、2021年3月時点では113か所に増えているのです。20年の歳月が経つ間に7倍以上に増えています。 また、イスラム教徒の人口も増加傾向にあります。日本で暮らすイスラム教徒は2020年末の時点で約23万人です。日本人や結婚で永住資格を持つ人は約4万7,000人です。10年前と比較すると1万~2万人増加しています。なかでも目立つのが、元はイスラム教徒ではなかったものが婚姻により入信するパターンです。 モスクの増加は、首都圏では23区内に、京阪神圏でも大阪や京都の主要部に集中して建築されています。日本のモスクは独創的なドーム型の美しい建築物ばかりではなく、雑居ビルの一室を間借りしたものや、倉庫や民家を居抜きで利用したものなどもあります。改装費用が確保できなかったり、近隣への配慮のためだったりなどで、元来の建物をそのまま使用しているケースもあるのです。 日本のモスクの中はどうなっている? 日本に建てられているモスクは、その場所によって特徴や大きさはさまざまです。なかには見学ができるモスクもあります。東アジアで最も美しい内装と呼ばれている東京ジャーミイは、世界の美しいモスクにも引けを取らない装飾があちこちに施されています。鮮やかなステンドグラスが装飾されたドーム型の天井や、遠くからでも場所を教えてくれる純白の塔ミナレットなど、建物全体がオスマントルコ様式の美しさを最大限発揮しているといえるでしょう。 見学ができるモスクでも、イスラム教徒が礼拝を行う神聖な場所であることにかわりはないため、服装に注意する必要があります。見学時は、半ズボンやミニスカート、ノースリーブなど肌の露出が多い服装は避けましょう。入館できない可能性が高い傾向です。また、女性の場合は場所によってスカーフで頭を覆う必要があります。スカーフの貸出を行っているモスクもありますが、数に限りがあります。モスクを訪れる予定がある場合はスカーフを持参しましょう。 イスラム教徒が通うモスクの近くには、特有の光景も モスクやイスラム教の人口が増加している日本において、モスクは異国情緒あふれる建築物だけではなく、古い建物を再利用して日本の景色に馴染んでいるものもあります。たとえば、大阪市西淀川区の工場や住宅が立ち並ぶ一角に、緑色にペイントされた建物があります。元は専門学校の校舎だった建物をイスラム教徒が寄付金を集め、買い取り設立された西日本最大級のモスクです。取り壊さずそのままの建物を利用しているため、街に溶け込んでいます。また、近隣はイスラム圏の食事を提供する飲食店もあり、イスラム教徒以外の人々も多くにぎわっています。 設立当初はイスラム教徒が多く訪れるようになり近隣のお店からも戸惑いの声が出ていましたが、次第に人と人とのコミュニケーションを交わすうちに共存が行われていきました。あるケーキ店では、モスクのイベントにあわせて300個を超すケーキの発注があり、経済的にもプラスに働いているといえるでしょう。 日本でも身近になったモスクやイスラム教 日本ではモスクやイスラム教徒の数が年々増えています。東京ジャーミイのような豪華絢爛な本格的モスクもあれば、建物を再利用して整備されたモスクもあります。イスラム教徒が礼拝を行う神聖な場所ですが、モスクによっては見学が可能です。多くのモスクでは服装の決まりがあるため、見学をしたい人はあらかじめルールをチェックしましょう。モスクを通してイスラムの芸術や文化、歴史に触れてみるのもお勧めです。
2024.09.14
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あの卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしていた?!
卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名です。卑弥呼とペルシャ絨毯といわれてもどのような関係があるのかわからない方も多いでしょう。ペルシャ絨毯といえば、長い歴史を持つイランの伝統的な織物製品の一つです。この2つの関係性をひも解いていくことで、日本の歴史とペルシャ絨毯の歴史、それぞれに対する興味を深めていきましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼とは 卑弥呼とは、2世紀末から3世紀前半にかけて昔の日本、倭国を統治していたとされる邪馬台国の女王です。日本の歴史の中で最も古い女王とされており、まだ文字のなかった時代の人物であるため、日本の史料には登場していません。卑弥呼の存在が明らかにされたのは、中国の魏の歴史書『三国志』の魏書においてです。日本の授業では『魏志倭人伝』とも呼ばれています。 魏書によると、倭国を男王が統治していた2世紀後半ごろは戦乱が絶えず、倭国の首長たちが相談して1人の女王を共立しました。それが卑弥呼です。卑弥呼が女王の座に就くと戦乱が収まり、倭国に平和が訪れたとされています。 卑弥呼は鬼道と呼ばれるまじないを用いて政治を行っていました。年を重ねても未婚のままで、弟が国政を助けていたとされています。また、女王となってからは人前に姿を見せず、顔を見たものはほとんどいません。1000人ほどの下働きの女性と1人の男性だけが女王の住む宮殿に出入りできました。 卑弥呼は単なる巫女ではなく、邪馬台国に君臨し30にもおよぶ倭の国々を統一して大陸との交流も行った、まさに女王と呼ぶにふさわしい存在だったといえます。 『魏志倭人伝』に残された記録 『魏志倭人伝』には太古の昔、卑弥呼の時代にペルシャ絨毯が伝わったと推測できる記述が残されています。『魏志倭人伝』では、239年に卑弥呼が魏国に使節を送ったとあります。そこで奴婢を含む数多くの品を明帝に献上しました。これにより、卑弥呼は親魏倭王の封号を与えられました。その後、魏の皇帝は答礼として金印紫綬と銅鏡100枚などの品を与えると決め、倭国へ使節を送り多くの品を贈ります。 その中には絨毯と思われる敷物も贈られたとの記録があります。ペルシャ絨毯が贈られたとされる明確な記載はありませんが、敷物と記録されていることから絨毯が贈られたと考えられるでしょう。 正倉院に残された、敷物とは ペルシャ絨毯と判明しているわけではありませんが、正倉院には中国から伝わった敷物である毛氈が所蔵されています。以前までは、カシミヤに似ているヤギの毛がフェルトの素材と考えられていましたが、近年、羊毛であると研究により明らかになりました。毛氈は、動物の毛に熱や圧力をかけて繊維をからませ、フェルト化したものです。紀元前と古くから中央アジアの遊牧民が敷物や壁掛けなどとして使っていたとされています。 そのほかにも、正倉院には歴史的に重要な物品が9,000点以上所蔵されています。所蔵されている中でも代表的な宝物は『鳥毛立女屏風』や『螺鈿紫檀五絃琵琶』などです。『鳥毛立女屏風』は、絵に使われている羽毛が日本の山鳥のものであるため舶来品ではなく、日本で制作されたと考えられています。『螺鈿紫檀五絃琵琶』は5本の弦で構成された珍しい琵琶で、5弦の琵琶は世界でも一つしか残っていません。正倉院では国家を代表する宝物が数多く所蔵されているとわかります。 ペルシャ絨毯の歴史を考えると、卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしたかも? 古くから絨毯と思われる敷物が日本に渡ってきていますが、日本に現存する最古のペルシャ絨毯は、京都の夏の風物詩である祇園祭の巡行で登場する大きな山鉾の懸装であるとされています。卑弥呼の時代に魏から贈られた敷物がペルシャ絨毯であったか、明確な記録は残っていません。しかし、歴史を振り返ってみると、日本にも古くから海外の絨毯が伝わってきていたことがわかるでしょう。
2024.09.14
- ペルシャ絨毯とは
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- ペルシャ絨毯の歴史
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京都に息づくペルシャ絨毯:豊臣秀吉を魅了し祇園祭を彩る
ペルシャ絨毯の歴史は長く、また日本に伝わってからも長い年月が経っています。今もなお日本では価値の高い織物製品として知られているペルシャ絨毯。歴史上の偉人である豊臣秀吉とも深いかかわりがあります。また、日本の伝統的な祭事である祇園祭ともかかわりを持っています。遠く離れたイランから日本へ伝わってきたペルシャ絨毯が、どのようにして日本人に受け入れられ愛されてきたかを知ることで、よりペルシャ絨毯への魅力を深めましょう。 秀吉の時代からペルシャ絨毯は日本にあった?! ペルシャ絨毯が本格的に日本へ入ってきたのは、17世紀以降といわれていますが、16世紀ごろの桃山時代にはペルシャ絨毯が伝わっていたとされる記録もあります。京都市東山区の鷲峰山高台寺に豊臣秀吉が加工させた陣羽織が所蔵されています。『鳥獣文様陣羽織』と呼ばれ、秀吉の正妻である高台院が京都東山に開いた高台寺に伝来したとされる陣羽織で、日本の重要文化財の一つです。 当時日本に伝わってきたペルシャ絨毯を秀吉が気に入り、美しい絨毯を裁断し陣羽織にして利用したといわれています。厳密には、綴れ織りのキリムを加工したものですが、ウールではなく金糸や銀糸が使用されているのが特徴です。輸出用に製作されたポロネーズ絨毯と同じく、16世紀後半~17世紀初頭にイスファハンもしくはカシャーンの宮廷工房で製作された製品と推察されています。 『鳥獣文様陣羽織』は、連続したひし形の枠の中で2頭の動物が闘争する様子や獣の頭が綴れ織りで表現されているのが特徴です。本来は敷物や壁掛けとして利用するために伝わった製品ですが、色鮮やかな色調や動物の闘争本能がむき出しとなった独特の文様が戦場を思わせることから、陣羽織に利用されたと予想されます。キリストの布教と貿易のためにスペインやポルトガルから訪れた南蛮船から伝わったとされるキリムを利用しており、大航海時代の片鱗が日本にも伝わっていたことがわかる製品です。 なお、高台寺は秀吉の菩薩を弔うために北政所が建立した寺院であり、現在も秀吉の伝世品が多く収められています。 京都の祇園祭に受け継がれる、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は京都の祇園祭とも縁のある織物製品です。京都祇園祭で巡行する山鉾のうち南観音山の前懸として、ペルシャ絨毯が用いられていました。懸装品として使用されていたのは、17世紀中期ごろに製作されたと考えられるポロネーズ絨毯です。そのほかにも、懸装品としては18世紀中ごろに日本へ伝わってきたペルシャ絨毯がいくつも利用されていましたが、のちの研究によりその多くが、ムガール朝インドのデカン地方で製作された絨毯と判明しました。 南観音山の前懸として使われていた、17世紀中期ごろにイランのイスファハンで作られたとされるペルシャ絨毯は1978年の祇園祭を最後に使用されていません。2014年以降は金糸や銀糸を含む19色のシルク糸で幾何学文様を再現した絨毯が使用されています。 祇園祭は千年以上の歴史を持つ八坂神社の祭礼で、1か月にわたって多彩な祭事が行われます。前祭と後祭で行われる山鉾巡行は、祇園祭の見どころの一つです。祇園祭の山鉾巡行に曳山を本格復帰させようと考えている鷹山の保存会は、曳山の左右を飾る胴懸にイランで織られたペルシャ絨毯を用いると発表しています。右側の胴懸にはイランの遊牧民カシュガイ族のデザインである水の神のシンボルであるカニが連なる文様が施されています。左側の胴懸には、16世紀にカシャーンの宮廷工房で作られた絨毯をもとに、蓮の花や子孫繁栄のシンボルであるザクロを表現した文様が描かれているのが特徴です。 日本・京都でも長く愛でられてきた、ペルシャ絨毯 日本におけるペルシャ絨毯は高級品というイメージで、ヨーロッパほど一般には普及していません。しかし、その鮮やかで繊細な文様に魅力を感じた日本人は、古くから宝物としてペルシャ絨毯を扱ってきました。秀吉が陣羽織として転用したり、山鉾の前懸として用いられたりと、日本の歴史や文化と深いかかわりを持つペルシャ絨毯。今後、日本においても徐々に広まっていくと予想されています。実用品としてだけではなく、これまでの日本の歴史や文化とのかかわりを知ったうえで鑑賞し、ペルシャ絨毯を楽しむのもよいでしょう。
2024.09.14
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