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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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立体感のある浮世絵にはどんな技法が使われている?
浮世絵には、木版画と肉筆画の2種類があります。 肉筆画は、浮世絵師が直接筆をとって、紙に絵を描いていきます。 一方、木版画は、浮世絵師が描いた絵を、彫師が木の板に彫り、摺師が紙に摺り上げていく仕組みです。 木版画である浮世絵版画では、絵を描く浮世絵師だけではなく、彫師や摺師などの職人も重要な役割を担っています。 浮世絵に立体感を出す摺りの技法 浮世絵は、西洋から伝わった遠近法を取り入れてはいるものの、平面的な構成が特徴の絵画です。 立体感のある浮世絵に見せるためには、摺師の技法が関係してきます。 浮世絵に欠かせない、摺師の腕 浮世絵は分業制によって制作されている作品です。 摺師とは、浮世絵師が描き、彫師が彫った木版を、紙に摺り上げて作品として完成させる役割を担っています。 一般的に、色版のズレ予防のため最初に基準となる主版を摺り、後から色版を順番に摺り重ねていきます。 色版は、仕上がりが美しくなるよう、摺り面積の小さいものや薄い色から順に摺られていくのです。 摺師は、絵の全体バランスを見ながら、紙や絵の具などを微調整し、浮世絵師が想像していた完成形を具現化する重要なポジションです。 浮世絵を立体的に仕上げる摺りの技法 浮世絵師が描いた絵のイメージを、想像通り仕上げるためには、彫師や摺師の高い技術が欠かせません。 摺師の職人技として、空摺りやきめ出しなどがあります。 それぞれ、絵師の描いた絵の魅力を引き立たせるために必要な技術です。 空摺り 空摺りとは、版木に絵の具をつけないまま摺る技法です。 凸凹模様を紙につけるために用いられます。 風景画の雪や綿などの白くふわっとした質感や、人物画の衣装の文様や輪郭線などに立体感を持たせるために役立ちます。 きめ出し きめ出しとは、深く彫り込んだ色をつけない板に、色摺りの終わった版画をのせ、上から強い圧力をかけて画面に凸凹を表現する技法です。 雲や雪だるまのような色のない部分に立体感を持たせるために用いられます。 摺りの技術は実物を観賞すれば分かる 浮世絵を、斜めから見たり、単眼鏡などを用いて細部まで見たりすると、摺りの技術の細かさが分かります。 摺りの技法は、ほかにもいくつかあり、単に色を摺るよりも高度な技術であるため、摺りにこだわった作品は当時も価格が高くついていました。 浮世絵の奥深さは摺りの技術を知るとより分かる 浮世絵は、浮世絵師だけの力ではなく、彫師や摺師の職人技があって、魅力を放っています。 摺りによっては、色や立体感がまったく異なります。 高い技術を持った摺師による浮世絵は、より浮世絵師のイメージを具現化していたといえるでしょう。 摺師は、浮世絵制作において重要な仕事ですが、作品に名前が書かれることはほとんどありませんでした。 しかし、摺師が浮世絵の魅力を引き立たせていた存在であると知り、さらに摺りの技術を知ると、浮世絵鑑賞がより楽しくなるでしょう。
2024.12.01
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歌舞伎の定式幕の色にはどんな意味がある?
江戸時代に形式が確立され、長く日本で親しまれてきている歌舞伎。 日本の伝統芸能の一つでもあり、現代では海外からも人気の高い演劇です。 歌舞伎を見に行くと、舞台で最初に目にする黒・オレンジ・緑の3色で構成された幕。 目を引く色合いのこの幕の目的や意味を知らない方も多いでしょう。 歌舞伎を楽しむうえで、歌舞伎で活用されている道具たちの意味を知ると、より楽しみ方や視野が広がるかもしれません。 歌舞伎のあの”幕”の色には意味があった 歌舞伎の舞台で利用されている3色の幕は、定式幕といいます。 舞台上を隠すように覆っている定式幕には、実は意味があるのです。 定式幕の色の違いや意味などを知り、歌舞伎鑑賞の魅力を深めていきましょう。 歌舞伎で使われる「定式幕(じょうしきまく)」 定式幕とは、歌舞伎で利用される3色の幕で、江戸時代から利用されています。 定式には、一定の方式・形式、決まっている儀式などの意味があります。 歌舞伎では、大道具や小道具、衣装などさまざまなものが利用されます。 その多くは、公演の演目や登場する役柄によって何が必要であるか決まっているのです。 その中でも定式幕は、毎度利用される道具であることから定式幕の名がつきました。 定式幕は、歌舞伎の中で幕開きと終幕のタイミングで使われます。 舞台が始まる前、舞台の上は定式幕で隠されています。 演目がスタートすると、定式幕は舞台に向かって左側から右側に人力によって開かれる仕組みです。 終幕を迎えると、定式幕を右側から左側に向かって引き、舞台を閉じます。 西洋の舞台で用いられる幕は、一般的に上下に開閉されますが、日本伝統の歌舞伎公演で用いられる定式幕は、左右に開閉する特徴があります。 定式幕はなぜ3色? 定式幕にはなぜ特定の3色が利用されているのか、気になる人も多いでしょう。 しかし、この3色の配色になった明確な理由は判明していません。 一説では、伝統文化と深いつながりのある「陰陽五行説」が関係しているといわれています。 陰陽五行説とは、陰陽説と五行説からなる説です。 陰陽説は、この世のすべては、陰と陽の2つの要素から成り立っているという思想で、五行説は、この世のすべてを5つの要素にたとえ、絶えず変化しバランスを取りながら支えあっているという思想です。 五行説で登場する5つの要素には、それぞれに色が存在します。 歌舞伎の定式幕で利用されている3色は、この五行説の中に登場する5色からきているのではないかといわれています。 江戸三座(中村座・市村座・森田座) 歌舞伎に利用されている幕といわれると、黒・オレンジ・緑を思い浮かべますが、実は定式幕に利用されているのは、この3色だけではありません、また配色の並びも、実は1つではないのです。 定式幕の配色と並びは、江戸三座で異なります。 江戸三座とは、江戸町奉行所に舞台の公演を許可されていた、中村座・市村座・森田座の3つの歌舞伎の芝居小屋を指しています。 芝居小屋ごとに定式幕が異なっているのが特徴です。 中村座では、左から順に黒・白・オレンジが利用されています。 市村座では、左から黒・緑・オレンジの順で配色されています。 森田座では、左から黒・オレンジ・緑の並びとなっており、それぞれに違いがあるとわかるでしょう。 特に中村座では、緑の代わりに白が利用されており大きな違いがあります。 江戸時代から続く歌舞伎鑑賞を楽しもう 歌舞伎は、日本に古くから存在する伝統芸能で、江戸時代に確立されてから今日まで多くの人々を楽しませてきました。 歌舞伎の魅力は、舞台の演目そのものはもちろん、長い歴史の中で育まれてきた文化にもあります。 歌舞伎の楽しみ方は人それぞれ異なります。 舞台のストーリーを楽しむのもよし、役者の演技力に注目するのもよし、自分が興味のあるものに着目して鑑賞しましょう。 定式幕を意識するのも一つの楽しみ方で、座による違いがあることを知りチェックしてみると、より違った視点からも歌舞伎の干渉を楽しめるのではないでしょうか。
2024.12.01
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浮世絵に見る歌舞伎模様とその種類
歌舞伎は、日本の演劇であり伝統芸能の一つです。 はじまりは、京都で出雲阿国が始めたやや小躍りやかぶき踊りであるとされており、江戸時代に発展し現在の歌舞伎へと変化していきました。 歌舞伎模様にはどんな種類があった? 歌舞伎役者が身に付けていたものの柄は、江戸の女性たちや江戸っ子たちの間でしばしば流行りを見せていました。 演目を見に行った人たちだけではなく、浮世絵に描かれた歌舞伎役者の衣装も多くの人々の目を引きつけていたのです。 歌舞伎模様とは 歌舞伎模様とは、歌舞伎衣装をもとにした模様を総称したものです。 歌舞伎役者が身に付けていた衣装は、江戸時代の大衆の注目を浴びていました。 当時、歌舞伎役者は演出効果を狙い衣装に凝っていました。 また、大衆も歌舞伎役者衣装の柄を模倣して身に付け、歌舞伎模様は流行のものとなっていたのです。 歌舞伎役者が生み出した流行は、衣装の色や柄、帯の結び方、髪形、かぶりもの、役者の紋所、履物など多種多様です。 浮世絵や呉服屋の売り出しが流行を後押しして、江戸の女性たちはみな、浴衣や手ぬぐいなどに役者模様を取り入れていました。 有名な歌舞伎模様 歌舞伎役者が身に付けていた歌舞伎模様には、さまざまな種類があります。 多彩な歌舞伎模様の特徴を知ると、浮世絵を鑑賞したときに、着物にも着目して違った楽しみ方ができるでしょう。 市松模様 有名な歌舞伎模様の一つに、市松模様があります。 市松模様とは、異なる色彩の2つの四角形を交互に並べた格子柄です。 現代では、チェック柄とも呼ばれています。 また、見た目が石畳に似ていることから、石畳と呼ばれることもありました。 市松模様の流行を作ったのが、歌舞伎役者の「佐野川市松」です。 佐野川市松は、江戸の中村座で演じた「高野心中」の小姓役で人気を集めました。 その舞台で身に付けていた袴が市松模様であったことから、当時江戸を生きる女性たちの間で大流行したのです。 市松模様は、柄が途切れることなく連続していることから、繁栄を象徴しています。 そのため、市松模様には子孫繁栄や事業拡大などの願いが込められ、縁起の良い柄として多くの人々に親しまれています。 弁慶格子 弁慶格子は、2色の縦模様と2色の横模様が交差した柄です。 現代では、ギンガムチェック柄とも呼ばれています。 歌舞伎の演目「勧進帳」に登場する山伏姿の武蔵坊弁慶が、舞台衣装でこの柄をまとっていたことから弁慶格子と呼ばれるようになったそうです。 演目時の弁慶の衣装は、白地にグレーと黒で格子柄が作られていました。 格子の幅は、約6cmと広く作られており、縦よりも横のほうがやや太く作られています。 もとは白・黒・グレーを基調としたものが主流でしたが、藍色や柿色の格子柄もあり、「藍弁慶」や「柿弁慶」と名称が分けられ区別されていました。 浮世絵にも、弁慶格子を身に付けた女性の姿が残されています。 歌川国芳が描いた『縞揃女弁慶』では、作品名のとおり弁慶格子を身にまとった女性が描かれています。 鎌輪ぬ文様 (かまわぬ) 鎌輪ぬ文様とは、「鎌」「〇」「ぬ」の3文字で構成された柄で、「構わぬ」と読ませて荒ぶる江戸っ子の心意気を表現しています。 そもそもは、元禄時代に町奴(町人出身の侠客)が、火も水もいとわず身を捨てて弱きものを助けるという意思を宣言するために身に付けられたのがはじまりといわれています。 この文様を江戸の流行の渦に巻き込んだのが、七代目市川團十郎です。 市川團十郎は、近世後期の江戸歌舞伎を代表する役者で、「歌舞伎十八番」を制定した人物としても知られています。 卓越した演技力で人々の注目を集めていた市川團十郎が身に付けていた奇抜で大柄の文様を染め抜いた着物は、多くの江戸町民を魅了しました。 斧琴菊文様 斧琴菊文様とは、「斧」「琴」「菊」の文字または絵で構成された柄で、「よきこときく」と読ませたデザインです。 七代目市川團十郎とともに当時の歌舞伎で活躍していた三代目尾上菊五郎が好んで身に付けていたことから、江戸の女性たちの間で流行しました。 江戸時代の歌舞伎役者はファッションリーダーでもあった 江戸時代に活躍していた歌舞伎役者は、当時の人々にとってファッションの手本となっていました。 多くの庶民は、舞台上の歌舞伎役者の姿に憧れていました。 また、浮世絵でも歌舞伎役者の衣装は彩り豊かに描かれており、さらに歌舞伎模様の流行を広めたともいえるでしょう。
2024.12.01
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土用の丑の日はいつから始まった?
土用の丑の日に鰻を食べる。 この行動が、無意識のうちに習慣づいている人も多いのではないでしょうか。 しかし、なぜ土用の丑の日と呼ばれているのか、なぜ鰻を食べるのか、その理由を知らない人も多いでしょう。 土用の丑の日の由来や鰻を食べる理由を知ると、もっと土用の丑の日の鰻を楽しめます。 なぜか鰻が食べたくなる… 土用の丑の日に食べられる鰻やうな丼は、江戸時代にはすでに人々の間で食べられていました。 うな丼については、大久保今助と呼ばれる人物が考案したといわれています。 鰻の出前を頼んだとき、鰻だけで運んでいると到着したときには冷めてしまいます。 鰻は冷めてしまうとおいしくないということで、温かいご飯と一緒に頼むことを思いつきました。 出前では、鰻を温かいご飯の間に挟み、冷めないようにしたのでした。 これがうな丼のはじまりといわれています。 鰻は江戸時代から多くの人々に親しまれている食材です。 江戸時代に描かれた浮世絵にも、店頭で鰻をさばく様子とそれを堪能する人々の姿が残されています。 「土用の丑の日」はいつからはじまった? 土用の丑の日に鰻を食べる習慣はいつごろからはじまったのでしょうか。 このきっかけを作ったのは、平賀源内といわれています。 平賀源内とは、江戸時代の発明家と呼ばれる人物です。 卓越した才能と奇想天外なアイディアから、文系や理系、芸術系に至るまで、あらゆる分野で活躍しました。 好奇心が旺盛で、鎖国により外国との交流が少なかった時代にも、積極的に西洋技術や学問を吸収し、江戸時代の日本で発明を発信し続けました。 その平賀源内が、知り合いのうなぎ屋にお客さんをもっと呼び込みたいとお願いをされて「本日、土用丑の日」というキャッチコピーを考案し、土用の丑の日に鰻を食べる習慣が誕生したといわれています。 古くから日本では、土用の丑の日に「う」がつく食べ物をいただく習慣がありました。 これは、「う」がつく食べ物は縁起がいいとされ、無病息災を願う習わしがあったためです。 当時、食べられていた「う」のつく食べ物は、梅干しやうどん、ウリ類などです。 そこで、平賀源内は「う」のつく鰻を、土用の丑の日の食事としてクローズアップしたのでした。 このキャッチコピーは大盛況を生み、夏バテに鰻が効くこともあいまって、以降土用の丑の日に鰻を食べる習慣が根付いたといえるでしょう。 今も残る、平賀源内の販売戦略 平賀源内が江戸時代に発明した販売戦略は、現代にも引き継がれています。 また、鰻は古くから日本人の間で親しまれている食べ物であると分かりました。 今でも、土用の丑の日には、多くの鰻が売られています。 なお、土用の丑の日の「土用」は、中国の五行説に由来する言葉です。 旺盛に働くという意味の「土旺用事」から来ており、暦にあてはめられ立春・立夏・立秋・立冬の直前にあたる約18日間を指すようになりました。 特に、暑さで体調を崩しやすい夏の土用の日が、日本では古くから重要視されています。 江戸時代から続く、土用の丑の日に鰻を食べる習慣の由来を知ると、まんまと平賀源内の販売戦略に踊らされてしまったのかと感じるとともに、古くから親しまれている鰻を食べるきっかけの日を作ってくれたともとれるでしょう。 土用の丑の日には、ぜひ鰻やうな丼を楽しんでください。
2024.12.01
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江戸時代の庶民はどんな食事をしていた?
江戸時代は、肉食が禁止されており、今のように食の多様性は見られないため、庶民がどのような食事をとっていたかイメージが湧きづらい人も少なくないでしょう。 江戸時代における庶民の食事がどのようなものだったのか、当時の庶民の生活を色濃く描いていた浮世絵を通じて知れる場合があります。 江戸時代の庶民はどんな食事をとっていた? 肉食が禁止され、食品加工技術が今ほど発達していなかった江戸時代において、庶民はどのような食事をとっていたのでしょうか。 冷蔵庫もなければ冷凍庫もないため、食品の長期保存もできず、現代より食べられるものが限られている印象があります。 ご飯を炊くのは1日1回 江戸時代では、主食であるご飯を炊くタイミングが1日1回だったようです。 江戸時代の食事スタイルは、江戸時代初期においては朝夕の1日2食でした。 江戸時代中期の元禄年間には、この食事スタイルが変化し、現代にも通じる1日3食に定着したようです。 しかし、庶民の居住スペースである長屋は、土間含め6畳程度しかなく、調理スペースがかなり限られていたことは、想像に難くありません。 また、燃料も十分に備蓄できていなかったと考えられます。 薪だけでなく、燃やせるものは、古雑巾でも燃やして燃料にしていたと記録に残っているほどです。 そのため、燃料代の節約やスペースの関係上、炊飯は1日1回に留めていたようです。 食事の基本「一汁一菜」 食事は、基本的に一汁一菜の構成だったようです。 現代でも大体同じようなものと思いがちですが、実際は大きく内容が異なります。 ご飯にお味噌汁、漬物の3点が基本セットで、ときどきおかずが1品追加されていました。 食事のタイミングは、朝食が7時ごろ(明け六つ)、昼食が12時ごろ(昼九つ)、夕食が19時ごろ(暮れ六つ)とされており、食事中に白湯やお茶を飲む習慣はなかったようです。 とはいえ、食事内容は基本的に粗食で構成されており、漬物の種類はたくあん、梅干し、ぬかみそ漬け、なすび漬けなどをルーティンで回すことがほとんどでした。 奉公人に仕える町人でも、基本の3セットにおかずのイワシが一皿あった程度です。 商家の丁稚は、昼にひじきや油揚げの煮つけが着く程度、武家に関しても庶民と大きく内容が変わらなかったことから、現代と比較すると、いかに食事の内容が少ないものだったかがわかります。 醤油や砂糖、出汁…調味料が普及したのもこの頃 江戸初期までは調味料が普及しておらず、味付けの中心は塩や酢、味噌でした。 元禄年間に至ると醤油や砂糖、みりんや鰹節が普及するようになります。 結果として、さまざまな煮物料理が作られるようになりました。 現代では、マヨネーズやケチャップ、ドレッシングなどさまざまな調味料で溢れかえっていることを考えると、調味料の観点からも食生活が大きく異なっているとわかります。 江戸においては、肉体労働者が多く、味付けは、塩辛いものが好んで作られていたようです。 醤油も基本的には、薄口醤油が広く普及しており、濃口醬油は、関西からの下りものとして入手困難でした。 時代が進むと銚子や野田などで地の濃口醬油が製造されるようになったため、一気に庶民に広まったようです。 また、鍋で加熱調理するような調理方法(煮物、茹で物、汁物)が多く、魚のような高級食品は、裕福な家庭であったとしても2週間に1回程度でした。 調味料が普及したとしても、食事の内容は大きく変わらなかった印象を受けます。 飲食店や居酒屋まで! 食生活は、質素であったにもかかわらず、江戸時代にはすでに、飲食店や居酒屋までそろっていたというから驚きです。 江戸時代末期においては、鮨やそば、ウナギなどの屋台とともに、天ぷらの専門屋台が出店され、食文化の多様性が見られます。 また、それまでは屋台が中心でしたが、つまみを食べながら酒を飲むような居酒屋スタイルも増えていき、近代になるにつれて今はなじみのある外食文化が形成されました。 店舗型の飲食店としては、煮物を食べさせる煮売り屋、四文でなんでも食べられる四文屋などバラエティに富んだ店舗が運営されていた記録が残っています。 また、居酒屋の元祖は、神田川沿いで営業が始まった豊島屋とされています。 浮世絵に描かれた食事やその風景 庶民の生活を描いた浮世絵では、食事やその風景はどのように表現されていたのでしょうか。 代表的な作品を通じて当時の状況への理解を深めましょう。 『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』歌川広重 歌川広重の『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』は、道中の丸子宿で名物のとろろ汁をおいしそうに楽しんでいる人が描かれています。 酒、さかなの看板も見られることから、当時の外食文化の一面を感じられます。 『春の虹蜺』歌川国芳 歌川国芳は『春の虹蜺』と題して、ウナギを頬張るはつらつとした女性を鮮やかな色彩で表現しています。 土用の丑の日は、江戸時代に始まった文化とされているため、流行り始めたころの女性を捉えた作品であると推察できるでしょう。 『魚づくし』歌川広重 歌川広重が『魚づくし』の中でキンメダイやスズキを躍動感に溢れたタッチで表現しています。 ご飯・汁物・漬物ばかりの食事の中で魚は高級品です。 食材としての魅力に溢れた印象的な作品といえます。 江戸時代の食事の様子は浮世絵でも楽しめる 江戸時代の庶民における食事内容や食事の特徴について紹介してきました。 現代とは異なる食事内容だったため、改めて知ることで驚きがあったのではないでしょうか。 また、絵画を通じて具体的に当時の暮らしぶりを知ることは、江戸時代への興味関心を高めることにもつながります。 当時の生活状況を把握できる浮世絵は、歴史の史料的な価値や芸術的価値に富んだ貴重なもの。浮世絵を鑑賞するときは、こうした浮世絵のなかの登場人物一人ひとりの様子を見てみるのも面白いかもしれませんね。
2024.12.01
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広重の浮世絵に隠された遊び心「ヒロ」の文字を見つけられる?
現代では、芸術作品としての価値が高い浮世絵作品ですが、制作されていた江戸時代では、大衆から愛された娯楽でもありました。 役者絵や美人画、風景画などさまざまなジャンルがあり、有名な浮世絵師も数多く誕生しています。 中でも、歌川広重は風景画で人気を集め、のちに海外でも高く評価された浮世絵師の1人です。 名浮世絵師・歌川広重 歌川広重 生没年:1797年-1858年 代表作:『名所江戸百景』『東都名所』『東海道五十三次』 歌川広重とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている人物です。 19世紀後半のヨーロッパ美術家で流行したジャポニズムのブームを巻き起こしたきっかけの一つが、歌川広重の浮世絵であったといわれています。 現代では、歌川広重の作品を見たり聞いたりしたことがある人も多いでしょう。 しかし、江戸時代当時の歌川広重は、下積み時代が長く、出世作となる『東都名所』を描いたときすでに35歳になっていました。 名所絵により、江戸時代の民衆に旅行ブームを引き起こした歌川広重ですが、実は浮世絵師として活動し始めたころは、名所絵ではなく役者絵や武者絵、美人画などを手がけていたのです。 そのため、本来の才能を発揮する場がなく、注目を浴びるタイミングが遅れたといえるでしょう。 得意とする名所絵の『東都名所』をきっかけに、歌川広重の名は江戸中に知れ渡るようになりました。 歌川広重はこの作品を発表したのち、多くの名所絵を手がけるようになっていったのです。 名作『東海道五十三次』の楽しみ方 歌川広重の名作『東海道五十三次』は、道中の風景や人物、生き物などの魅力を伝えてくれる作品です。 作品数も多いため、人によってさまざまな楽しみ方ができるでしょう。 『東海道五十三次』とは 『東海道五十三次』とは、1833年、歌川広重が37歳のときに刊行した作品です。 江戸時代に入ると、徳川家康の命により国内の道路整備が進んでいきました。 最も人の往来が多かった東海道も整備され、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの約500kmの道のりを、2週間で旅できるようになりました。 歌川広重は、1832年に徳川幕府の八朔御馬進献の一行につき、東海道を江戸から京都へと旅しています。 『東海道五十三次』は、歌川広重が江戸へ帰ったあとに発表されています。 この作品は、大人気を博し、歌川広重を名所絵の第一人者にまで押し上げました。 『東海道五十三次』に描かれた、町や人々 『東海道五十三次』には、日本橋から京都までにある53の宿場町と日本橋、京都を含むあわせて55枚の絵で構成されています。 それぞれの浮世絵には、東海道中の名所や自然、名物、伝承などが描かれています。 また、四季の移り変わりや天気によって表情を変える風景を抒情的に描いているのが特徴的です。 『東海道五十三次』は、風景画ではありますが、景色だけではなく当時の人々の暮らしもあわせて描かれています。 朝、昼、夜と時間帯によって変わる人々の生活や宿場町の賑わいの様子は、旅行に憧れる庶民から高い人気を集めていました。 現代でも、江戸時代の人々の営みや街並み、服装、職業などを知るための史料としても活躍しています。 『東海道五十三次』は、実際にある風景を題材に描かれています。 そのため、現代の景色と江戸時代の景色を見比べてみるのも面白いでしょう。 よく見ると「ヒロ」の文字が!広重の遊び心 『東海道五十三次』作品の一つに『鳴海 名物有松紋』があります。 この作品は、愛知県の鳴海にある有松・鳴海絞と呼ばれる名産の絞り染めの商店が描かれています。 絵の左側に構えているお店の暖簾に、ひし形のマークが描かれており、よく見てみると絵を描いた本人である歌川広重の家紋になっているのです。 この紋は、歌川広重が自ら思案したもので、外側のひし形が「ロ」、中に描かれているのが「ヒ」となっており、カタカナで「ヒロ」を表現しています。 ユーモア溢れるデザインで、歌川広重の遊び心がうかがえます。 この作品のほかにも「ヒロ」の文字を取り入れた広重の作品はいくつもあります。こうした広重のちょっとした遊び心…浮世絵を鑑賞するときに探してみるのもいいかもしれませんね。 手に取って鑑賞できた浮世絵だからこその楽しみ方も 江戸時代当時に描かれていた浮世絵は、大衆が楽しめる娯楽であり芸術作品でした。 浮世絵師が、自分たちの作品に残した遊び心を探すのも、当時の民衆にとって楽しみ方の一つでもあったといえるでしょう。 歌川広重が描いた『東海道五十三次』では、ヒロのような遊び心がほかにも隠れていないか探してみたり、聖地巡礼しながら現在の風景と見比べてみたりなど、さまざまな鑑賞の仕方を楽しみましょう。
2024.12.01
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月岡芳年の集大成の一つ『月百姿 貞観殿月 源経基』とは
月岡芳年が数え47歳から54歳のときに発表された浮世絵・月百姿。 月をテーマとした作品がそろい、全100図とボリュームのある大判錦絵シリーズとなりました。 その作品の一つに『月百姿 貞観殿月 源経基』があります。 躍動感ある源経基の姿が描かれたこの作品には、ともに描かれている鹿や月に深い意味が込められています。 無残絵で知られる月岡芳年はさまざまなジャンルの浮世絵を描いている 明治時代に活躍した浮世絵師・月岡芳年は、その作品における大胆で衝撃的な表現から「血まみれ芳年」としても知られています。 歌舞伎の残酷シーンや戊辰戦争の戦場をテーマにした無残絵のイメージが強い浮世絵師ですが、武者絵や妖怪画、歴史画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけているのです。 「月百姿」や「新形三十六怪撰」、さらには「大日本名将鑑」など、彼の作品はその鮮烈な色彩とダイナミックな構図で、観る者に強い印象を与えています。 『貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、源経基が鹿を仕留めるシーンを描いています。 源経基が鹿を仕留める様子を描いた『月百姿 貞観殿月 源経基』とは 作品名:月百姿 貞観殿月 源経基 作者:月岡芳年 制作年:1888年 技法・材質:大判錦絵 寸法:36.2cm×25.1cm 『月百姿 貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、秋にちなんだ浮世絵としても知られています。 この作品では、弓の名手として有名な源経基が暴れる鹿を弓矢で仕留めるシーンが描かれています。 背景には紅葉が舞い散り、その紅葉を照らすように丸い月が描かれているのが特徴です。 秋の美しさとともに、鹿を弓で射る迫力のある瞬間が捉えられています。 秋の風情と武士の勇姿が融合した、芳年ならではの魅力ある作品です。 舞い散る紅葉や、弓を放った経基の着物の動きから躍動感を表現しています。 『貞観殿月 源経基』に描かれているシーンの物語とは この作品に描かれているシーンの物語は、源経基が牡鹿の姿をした鬼を退治するというものです。 源経基は、10世紀の高級廷臣であり、詩人としても名高く、特にその弓術に優れた将軍として知られています。 貞観殿は京都御所に位置しており、932年の秋、朱雀天皇がその庭園を散歩していると、巨大な牡鹿が現れます。 最初は紅葉と遊んでいましたが、突然天皇に襲いかかろうとした瞬間、経基は冷静に鏑矢を放ち、見事巨大な牡鹿の目の間に鏑矢が命中。 経基は天皇を救うことに成功したのでした。 『貞観殿月 源経基』で描かれている鹿に込められた意味 芳年は、このエピソードを秋の紅葉の季節、月明かりの中で描いており、経基の弓術が優れていることを伝える逸話として理解されています。 しかし、この物語にはさらに深い意味が隠されているのです。 鹿は藤原氏の氏神を祭る春日大社の使いであり、その鹿が幼帝に襲いかかる姿には寓意が込められていると考えられます。 つまり、鹿の暴走は将門や藤原純友の暴挙を暗示し、経基がその反乱を鎮圧することを表現しているのです。 この作品は、月が未来のできごとを暗示しているという意味で、月の不思議な力を示しています。 月に魅了された月岡芳年が描く『月百姿 貞観殿月 源経基』 1885年~1891年の晩年に発表された月百姿は、月岡芳年の最後の大作とも呼ばれています。 今回ご紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、そんな月百姿シリーズの一作品です。 源経基をはじめとした武将が描かれていたり、絶世の美女や動物、幽霊、怪物などメインとなる題材が多彩な点が特徴のシリーズ作品です。 すべての作品に月が関連しており、エピソードの背景を月が彩っています。 芳年が好んでいた写実的な画風と、どこか現実とは異なる神秘的で幻想的な雰囲気が魅力の一つです。 背景は、月が際立つよう極力シンプルな図にしている作品がある一方で、月をメインとなる題材と同じほどのサイズで描いた作品もあり、斬新な構図が目を引きます。 芳年の人生の集大成であり、真骨頂であると評されている月百姿。 今回紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、歴史的な武将を題材としています。 作品を通して歴史を理解するとともに、絵に隠された寓意を想像しながら、芳年の集大成となる月百姿シリーズを楽しんでください。 月百姿以外の作品でも月を印象的に描いている作品があるため、ほかの作品と比較しながら鑑賞するのもよいでしょう。
2024.11.26
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葛飾 北斎が弟子のために描いた絵手本『北斎漫画』とは
日本を代表する浮世絵師・葛飾北斎は、19歳で絵師の道に進んで以来、生涯にわたって驚くべき数々の作品を手がけました。 90歳で亡くなるまで画業に情熱を注ぎ続け、自ら「画狂人」と称するほど絵を愛し、その圧倒的な技術と独創的な表現で江戸時代から今に至るまで多くの人々を魅了しています。 日本を代表する浮世絵師「葛飾北斎」と代表作 北斎の代表作のひとつである『北斎漫画』には、当時の庶民の生活風景、動植物、風景や名所、幽霊、神仏などが多彩に描かれており、あらゆるテーマを網羅しているのが特徴です。 特に、軽妙で洒脱な筆遣いや、動きのあるダイナミックな構図は、北斎ならではの魅力です。 一瞬をとらえたユーモアに満ちた描写からも、観察力と独自の感性が存分に発揮されているとわかります。 彼の作品には、視点の斬新さや繊細なディテールへのこだわりが随所に表れており、その画力は今なお世界中の人々を惹きつけてやみません。 弟子の絵手本として描かれた『北斎漫画』とは 作品名:北斎漫画 作者:葛飾北斎 制作年:1814年-1878年 技法・材質:半紙本 寸法:22.8 cm × 15.9 cm 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子のために描いた絵手本として誕生し、当時の日本で「漫画」という言葉を広めるきっかけとなった作品です。 江戸時代には「漫筆」と呼ばれる、思いつくままに描くスタイルがあり、北斎はその自由な発想をさらに進化させて「漫画」という言葉を作り出しました。 ここでの「漫画」は、現在のストーリー性のある漫画とは異なり、日常の風景や人物、動植物などを軽妙に描き分けるスタイルを指しています。 絵手本である『北斎漫画』は、庶民の生活や自然に親しむ民衆に向けて制作され、粋なユーモアや風刺、また道徳観を織り交ぜて、多くの人々に親しまれました。 軽やかな筆致と風格ある構図で生き生きと表現された絵は、江戸時代の文化や美意識を感じさせるもので、当時の教養ある庶民に愛され、後世にわたってもその影響は計り知れません。 海外の芸術家にも影響を与えた絵手本『北斎漫画』 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子や絵の初心者のために描いた絵手本ですが、その完成度は絵手本の枠を超え、多くの人々を魅了する内容になっています。 表紙に記された「伝神開手」という言葉には「絵画の神髄を初心者に伝える」という意味が込められており、画業を始めたばかりの弟子たちへ北斎の芸術のエッセンスを伝授する意図が示されています。 全15編にわたり4000を超える図が収められ、庶民の暮らしや風俗、動植物、自然現象などが精緻かつ洒落とユーモアを交えて描かれている『北斎漫画』は、その内容の奥深さと豊かさで江戸時代の教養ある庶民にも愛されました。 さらに、19世紀に日本からヨーロッパへ磁器や陶器を輸出する際、緩衝材として用いられた浮世絵や北斎漫画がフランスの画家たちの目に留まりました。 クロード・モネ、フィンセント・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった印象派の画家たちがその表現に強い影響を受け、ヨーロッパ美術における日本美術の魅力が広まる一因となったのです。 名前に江戸時代当時の北斗七星信仰が隠れている 『北斎漫画』には、江戸時代当時の北斗七星信仰の影響が秘められています。 2編から10編までの編尾の画の後ろに、「北斎改 葛飾載斗」筆、同門人「魚屋北渓 斗園楼北泉」校正と記されており、北斎の「北」と載斗の「斗」で北斗、北渓の「北」と斗園の「斗」で北斗の文字が現れ、陰陽道や妙見菩薩信仰に通じる北斗七星信仰が感じられる仕掛けとなっています。 単なる絵手本に留まらない深い象徴性が込められているのです。 北斎の名と弟子たちの名に隠されたこうした背景が、江戸時代の人々の信仰や文化を映し出し、独特な魅力を放つ作品に仕上がっています。 『北斎漫画』五編 柿本貴僧正は歌人・柿本人麻呂の伝説を描いている 『北斎漫画』五編には、有名な歌人・柿本人麻呂が「柿本貴僧正」として登場し、伝説を元にした姿が描かれています。 『北斎漫画』の後半には百人一首の歌人たちが多く登場しており、その一人として描かれている人麻呂は、三つ目で鬼の顔をした僧侶として表現されています。 人麻呂は、日本の代表的な歌人として3490もの歌を残したことで知られていますが、彼の詳細な経歴はほとんど不明です。 歴史的には、政治的な争いに巻き込まれ、その結果、すべての経歴が抹消されてしまったという説もあります。 そのため、後世にはさまざまな伝説が生まれました。 特に有名な伝説の一つに、彼が恋してはいけない高貴な女性に恋い焦がれ、最終的には鬼に変わってしまったという話があります。 北斎は、この伝説にもとづいて柿本人麻呂を描いており、十編に登場する柿本人麻呂は、立派な人の姿で描かれています。 https://daruma3.jp/ukiyoe/382 風景画で有名な葛飾北斎は『北斎漫画』にみられるユーモアも持ち合わせている 風景画で名高い葛飾北斎ですが、その作品には鋭い観察眼から生まれたユーモアも見受けられます。 北斎は、ただ単に美しい風景を描くだけでなく、日常生活や自然の中での人々の様子を精細にとらえることで、彼らの生き生きとした姿を表現しました。 『北斎漫画』では、当時の人々の日常や動植物が描かれるだけでなく、そこに思わず微笑んでしまうようなユニークなエッセンスも加えられています。 『北斎漫画』では、さまざまなシーンが展開され、北斎は人々のしぐさや表情を生き生きととらえています。 また、風景や風俗を描く中で、ちょっとした笑いや粋な風情を感じさせる点は、北斎の人間味と遊び心が表現されているといえるでしょう。 北斎は画家としての技術だけでなく、観察力やユーモアのセンスも兼ね備えた偉大な芸術家であることが、『北斎漫画』を通じて感じられます。 彼の作品は、時代を超えて今なお多くの人々に愛され続けているのです。
2024.11.26
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なぜ浮世絵は世界に広まったのか?
浮世絵が世界中で流行したきっかけとは 19世紀後半、海外では日本美術が多くの画家に影響をおよぼすジャポニスムが流行しました。 ジャポニスムとは、西洋が東洋をどのように見て、描き、理解していたかを研究する学問であるオリエンタリズムの延長にある東洋美術への憧れを表現したもので、開国して以降、日本から海外へ伝わった江戸の浮世絵がジャポニスムの中心となっていました。 西洋画壇でも浮世絵愛好家が多く登場し、作品をコレクションする者から、自身の作品に浮世絵の技術や技法を取り入れる者までおり、浮世絵はさまざまな形で西洋美術に大きな影響を与えたのです。 また、絵画や版画の世界だけにとどまらず、西洋の芸術文化全体に新しい風を吹き込んだともいわれています。 1867年のパリ万国博覧会 ジャポニスムが流行するきっかけを作ったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会であるといわれています。 パリ万博は、フランスの首都で開催された万博で、最新の科学技術や産業技術、芸術作品、製品などを展示する国際的な博覧会です。 幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍「徳川慶喜」がこれを受け、日本美術の出品が実現しました。 江戸幕府は、狩野派の掛軸や画帳、浮世絵を出品、薩摩藩は、薩摩や琉球の特産物、佐賀藩は、磁器などを出品しました。 パリ万博は42カ国が参加し、来場者1500万人と大成功を収めており、このとき多くの人々に日本美術が注目されることになります。 日本美術は、これまでの西洋にはない大胆な構図と鮮やかな色彩などの特徴をもっており、西洋の芸術家たちからすると斬新で新鮮なものに映ったのです。 西洋画では、宗教や神話をモチーフにした絵がメインでしたが、日本の浮世絵では一般大衆の日常生活や風景などを描いた風俗画がメインでした。 また、シンメトリーな構図や遠近法など、西洋画が重視していた技法を使用しない独自の構図も衝撃を与えました。 その後、パリ万博は1878年、1889年、1900年、1937年と開催され、すべての博覧会に参加した日本の美術は、海外に広く知れ渡り、ジャポニスムの流行は1910年代ごろまで続いています。 鎖国中もオランダへの輸出品の包装紙として使われていた ジャポニスムの流行を作ったのは、パリ万博への日本美術の出品が大きな理由の一つとされていますが、実はそれよりも前に、日本の浮世絵はヨーロッパに渡っていました。 江戸時代、日本はヨーロッパに茶碗をはじめとした陶器を輸出しており、陶器が割れないよう緩衝材として、浮世絵が使われていたのです。 何気なく丸められた紙を広げてみると、そこには日本の自然や人々の暮らしが鮮やかな色彩で生き生きと描かれていました。 中でも、浮世絵師の葛飾北斎が描いた『北斎漫画』は、西洋人に大きな衝撃を与えました。 パリで活動していた版画家のフェリックス・ブラックモンが、包装紙として使われていた『北斎漫画』を偶然目にし、デッサン力の高さに衝撃を受け、仲間の画家たちに広めたことで、印象派の画家に影響を与えたともいわれています。 ヨーロッパに浮世絵を広めた画商「林忠正」 林忠正 生没年:1853年-1906年 林忠正は、初めて西洋で日本美術品を商った日本人といわれています。 パリ万博での仕事をきっかけに、日本美術や工芸品を広めようと決意した忠正はパリで日本美術を取り扱う店を構え、西洋の日本美術愛好家たちからの興味や関心を引き、ジャポニスム隆盛のきっかけを作りました。 パリ万博をきっかけに日本美術への理解と興味を深める 忠正は、ちょうど3回目のパリ万博が開催されていた年に、貿易商社の起立工商会社通訳として雇われ、パリに渡ります。 当時、パリ万博の影響もあって日本美術は西洋から関心を寄せられつつありました。 忠正は、万博で日本の展示品を鑑賞した画家や評論家の前で、流暢なフランス語で作品の解説を行い、熱心な解説がさらに海外の人々が日本美術への理解と興味を深めることを手助けしたといえます。 また、忠正自身も日本美術への理解と興味を深めていきました。 パリに滞在し日本美術を扱う店を創設する パリ万博が終了した後も、忠正はパリにとどまり、日本の美術品を取り扱う店を創設しました。 起立工商会社の副社長だった若井兼三郎とともに、美術新聞のルイ・ゴンスが主筆となり刊行していた『日本美術』に携わりながら、本格的に日本美術を学んでいったのです。 忠正は、ヨーロッパに日本美術を広めるために、工芸品や絵画を日本から直接輸入しました。 当時、日本での浮世絵は卑しいものとして捉えられていましたが、忠正はその価値を誰よりも早く察知し、芸術性を認めるべきであると日本人に対しても訴えています。 1886年には、世紀末のパリを代表する『パリ・イリュストレ』というビジュアル誌の日本特集号にフランス語の記事を寄稿し、2万5000部の大ベストセラーとなりました。 日本に初めて印象派の作品を紹介した人物でもある 1900年に開催されたパリ万博では、民間人として初となる事務官長に就任し、日本の出展ブースのプロデューサーとして、日本美術作品の魅力を世界にアピールするべく尽力しました。 また、長年美術界に貢献したとして、フランス政府からは教育文化功労章1級やレジオン・ドヌール3等賞などが贈られています。 フランス印象派の画家たちとも親交を深めるようになり、印象派の作品を日本へ初めて紹介したのも忠正であるといわれています。 忠正は、印象派の巨匠とも呼ばれているマネと親しく交流した唯一の日本人ともいわれているのです。 1905年に帰国した際は、約500点ものコレクションを持ち帰り、西洋近代美術館を建設しようと計画を立てます。 しかし、その夢を果たすことなく翌年に東京にて亡くなってしまいました。 国立西洋美術館が建設されたのは、忠正が亡くなってから50年後のことでした。 ヨーロッパでジャポニスムが流行した理由は? ジャポニスムが流行したのは、日本美術が西洋美術にはない特徴をもった絵画であったからであると考えられます。 自由なテーマ 当時のヨーロッパでは、宗教画や肖像画が主流であり、風景画は少数派でした。 絵画は、厳粛なテーマが多く、表現にも一定の制約があり、新鮮さのある作品があまり生まれない時代となっていました。 しかし、浮世絵はヨーロッパの絵画の概念を覆す特徴をもっていたのです。 浮世絵は、一般大衆の日常生活を描いた娯楽に近い作品であったため、美人画から役者絵、武者絵、花鳥画、風景画、相撲絵、妖怪画、春画など、テーマは多岐にわたります。 テーマに縛られることなく自由な浮世絵は、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたのでした。 多彩なテーマで描かれた浮世絵は、西洋の芸術家たちに大きなインスピレーションを与え、19世紀の美術界において革命をもたらすきっかけとなりました。 ダイナミックな構図 浮世絵は、西洋絵画にはないダイナミックな構図も特徴の一つです。 西洋絵画では、陰影や遠近法を用いて写実的な表現に焦点を当てていましたが、浮世絵では現実にはあり得ないであろう大胆な構図や誇張表現によって、ダイナミズムやリズム感を強調しています。 たとえば、北斎の『神奈川沖浪裏』では、圧倒的な迫力をもつ波が、人々を乗せた舟の上に覆いかぶさろうとしているかのようにデフォルメされて描かれ、一方で、背後には小さく富士山が描かれています。 一枚の絵の中に、現実ではあり得ない誇張されたシーンが描かれており、違和感なく見る者の心を惹きつけるその変幻自在な構図は、西洋の人々に大きな衝撃を与えました。 明るく鮮やかな色彩 浮世絵の大きな特徴は、そのポップで鮮やかな色彩です。 西洋絵画では、濃厚で深みのある色合いが好んで使われており、鑑賞する者に迫力や重みを感じさせる作品が多く描かれていました。 一方、日本の浮世絵では、明るく軽やかな色彩が多く、ポップな雰囲気のある作品が多くあります。 西洋の人々は、今までにない色使いに新鮮さを覚え、ジャポニスムの流行を作るきっかけとなったともいえるでしょう。 浮世絵の鮮やかな色彩により生み出される明るいポップな雰囲気は、西洋の伝統的な色使いに新しい視点をもたらし、のちの芸術運動にも大きな影響を与えたと考えられます。 大胆な余白による抜け感 浮世絵は、画面をすべて覆いつくすのではなく、大胆な余白を作りバランスを取る特徴があります。 西洋絵画では、画面を埋めつくす描写が一般的であり、背景には空や雲、壁、影など自然の風景や街の景色が全面に描かれました。 一方、浮世絵では、何も描かない空間をあえて作り、鑑賞する者に広がりや静けさを感じさせます。 余白は、多くの日本美術に見られる空間を活かした美意識ともいえ、絶妙な空白の感覚が、西洋の人々の目には新鮮に映り、無駄なものを排除し洗練された作品として魅力的に見えたといえるでしょう。 一つのテーマに特化した連作 浮世絵では、連作による作品制作が多く行われていました。 たとえば、北斎の『富嶽三十六景』や『富嶽百景』、歌川広重の『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などです。 連作は、一つのテーマを別々の視点から描いたり、季節や時間をずらして描いたりすることで、変化を楽しめるのが魅力の一つです。 当時の西洋絵画では、シリーズ作品や一つのテーマに対して繰り返し制作を行う方法は、一般的ではありませんでした。 そのため、西洋の芸術家たちは、連作の浮世絵がもつ独自の魅力に心惹かれ、大きな影響を与えたと考えられます。 印象派の画家であるモネは、浮世絵の連作からインスピレーションを得て『睡蓮』シリーズを描いたといわれています。 連作は、一つひとつの作品を独立した芸術として楽しむこともできれば、比較して季節や時間の移り変わりによって変化する表情を楽しむことも可能です。 浮世絵の連作は、西洋の芸術家たちの作品の捉え方や創作時のアプローチ方法に、新たな風を吹き込んだといえるでしょう。 安価で手に入りやすい 当時の日本で浮世絵は、大衆の娯楽品として手ごろな価格で流通していました。 浮世絵は芸術品ではなく、大衆の娯楽や情報を伝えるためのメディアとしての働きをもっており、さらに大量生産を可能とする仕組みができあがっていたため、多くの人々が浮世絵を手にする機会を得ていました。 多くの西洋絵画は、1点ものであり、制作にたくさんの時間と労力がかけられていたため、絵画といえば貴重で高価なものと考えていた人は多かったと考えられます。 そのため、浮世絵の量や種類の多さが収集家の心に火をつけ、貴重な作品を探しながらコレクションしていく熱狂性を生み出したといえるでしょう。 浮世絵に影響を受けた海外の芸術家 浮世絵は、西洋の鑑賞者だけではなく有名な芸術家たちにも大きな影響を与えています。 浮世絵からインスピレーションを受けた有名画家には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホなどがいます。 エドゥアール・マネ エドゥアール・マネは、近代美術の父とも呼ばれる画家で、19世紀パリのモダニズム的な生活風景を描いた作品で有名です。 代表作『オランピア』は、浮世絵の影響を受けているといわれており、透視図法や立体感を作り出す陰影など西洋絵画の技法が取り除かれ、はっきりとした輪郭線が描かれています。 浮世絵のテーマとしては一般的で、西洋絵画ではあまり見られない『舟遊び』を描いた作品では、メイン以外を省略し、遠近法を使わず俯瞰的で大胆な浮世絵のような構図を取り入れています。 また、小説家のエミール・ゾラの肖像画では、背景に襖絵や相撲絵などを描き入れていることから、浮世絵をはじめとした日本美術に関心を寄せていたことがうかがえるでしょう。 クロード・モネ クロード・モネは、印象派の画家であり、ジャポニスムから強い影響を受けた芸術家の一人です。 浮世絵の空間描写や光の色彩表現に心酔していたモネは、主題の選び方や俯瞰的な視点、平行線を用いた幾何学的な構図、両端をカットする大胆な配置など、浮世絵がもつ独自の特徴を巧みに西洋画に取り込んでいきました。 また、1876年には妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を制作しており、着物姿の女性が後ろ向きの体勢から身体をひねり振り返る構図で描かれています。 この女性が振り返るポーズは、浮世絵師である菱川師宣の『見返り美人図』を思わせます。 モネの代表作『睡蓮』シリーズは、琳派の屏風絵に影響を受けているともいわれており、また描かれた太鼓橋は、歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている太鼓橋をモデルにしているともいわれているのです。 フィンセント・ファン・ゴッホ 『ひまわり』で有名なポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に大きな影響を受けた芸術家の一人です。 ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰りパリで店を開いたとき、ゴッホは店でいくつもの浮世絵を鑑賞しました。 浮世絵にはまったゴッホは、生涯で約500点もの浮世絵を収集したといわれています。 中でも、歌川広重の作品を大変気に入っており、広重の代表作『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油絵で模写しています。 また、ゴッホがお世話になっていた画材屋の店主を描いた『タンギー爺さん』の背景には、浮世絵師の渓斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』や、広重の『冨士三十六景 さがみ川』などの浮世絵が描かれました。 ジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらなかった 浮世絵をはじめとした日本美術が、西洋の画家たちに大きな影響を与えたとする話は、聞いたことがある人も多いでしょう。 しかし、日本美術が海外へ影響を与えたのは、絵画ジャンルだけではありませんでした。 特に、19世紀後半に大流行したジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらず、工芸や作曲など、あらゆる芸術分野に影響を与えました。 パリ万博をきっかけに上流階級層が浮世絵を評価するようになってコレクターが次々と現れ、そこからさらに浮世絵を販売する商人も登場するようになり、さまざまな分野に浮世への魅力が広がっていったのです。 ガラス工芸家のエミール・ガレ ガラス工芸家のエミール・ガレは、自然の中に咲いている花や生き物に焦点を当て、繊細な表現で作品に落とし込んでいました。 当時の西洋美術では、山や木などの自然風景を描くことはあっても、自然に生きる花や鳥などの小さな生命たちに焦点を当てる概念がほとんどありませんでした。 そのため、日本の花鳥画や工芸品の自由な花鳥の表現は、西洋の人々には新鮮に映ったことでしょう。 ガレは、当時の西洋で不吉な虫とされていたトンボをたびたび作品に登場させており、北斎の花鳥画『桔梗に蜻蛉』が大きなインスピレーションになっているといわれています。 日本の浮世絵をきっかけに、今までの西洋美術にはなかったモチーフを用いた作品制作に挑戦したともいえるでしょう。 作曲家のクロード・ドビュッシー 『月の光』をはじめとしたクラシック音楽の作曲家として有名なドビュッシーも、浮世絵や日本の美術品に影響を受けた芸術家の一人です。 ドビュッシーは、絵画作品から着想を得て作曲をしていたといわれており、当時流行していたジャポニスムにも強い関心をもっていました。 浮世絵や仏像などを収集しており、ドビュッシーの代表作『海』の楽譜の表紙には、北斎の『神奈川沖浪裏』をイメージした絵が描かれています。 『海』という曲のイメージに北斎の作品がマッチするとして採用されたと考えられます。
2024.11.26
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