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月岡芳年の集大成の一つ『月百姿 貞観殿月 源経基』とは
月岡芳年が数え47歳から54歳のときに発表された浮世絵・月百姿。 月をテーマとした作品がそろい、全100図とボリュームのある大判錦絵シリーズとなりました。 その作品の一つに『月百姿 貞観殿月 源経基』があります。 躍動感ある源経基の姿が描かれたこの作品には、ともに描かれている鹿や月に深い意味が込められています。 無残絵で知られる月岡芳年はさまざまなジャンルの浮世絵を描いている 明治時代に活躍した浮世絵師・月岡芳年は、その作品における大胆で衝撃的な表現から「血まみれ芳年」としても知られています。 歌舞伎の残酷シーンや戊辰戦争の戦場をテーマにした無残絵のイメージが強い浮世絵師ですが、武者絵や妖怪画、歴史画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけているのです。 「月百姿」や「新形三十六怪撰」、さらには「大日本名将鑑」など、彼の作品はその鮮烈な色彩とダイナミックな構図で、観る者に強い印象を与えています。 『貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、源経基が鹿を仕留めるシーンを描いています。 源経基が鹿を仕留める様子を描いた『月百姿 貞観殿月 源経基』とは 作品名:月百姿 貞観殿月 源経基 作者:月岡芳年 制作年:1888年 技法・材質:大判錦絵 寸法:36.2cm×25.1cm 『月百姿 貞観殿月 源経基』は、月百姿シリーズの一作品で、秋にちなんだ浮世絵としても知られています。 この作品では、弓の名手として有名な源経基が暴れる鹿を弓矢で仕留めるシーンが描かれています。 背景には紅葉が舞い散り、その紅葉を照らすように丸い月が描かれているのが特徴です。 秋の美しさとともに、鹿を弓で射る迫力のある瞬間が捉えられています。 秋の風情と武士の勇姿が融合した、芳年ならではの魅力ある作品です。 舞い散る紅葉や、弓を放った経基の着物の動きから躍動感を表現しています。 『貞観殿月 源経基』に描かれているシーンの物語とは この作品に描かれているシーンの物語は、源経基が牡鹿の姿をした鬼を退治するというものです。 源経基は、10世紀の高級廷臣であり、詩人としても名高く、特にその弓術に優れた将軍として知られています。 貞観殿は京都御所に位置しており、932年の秋、朱雀天皇がその庭園を散歩していると、巨大な牡鹿が現れます。 最初は紅葉と遊んでいましたが、突然天皇に襲いかかろうとした瞬間、経基は冷静に鏑矢を放ち、見事巨大な牡鹿の目の間に鏑矢が命中。 経基は天皇を救うことに成功したのでした。 『貞観殿月 源経基』で描かれている鹿に込められた意味 芳年は、このエピソードを秋の紅葉の季節、月明かりの中で描いており、経基の弓術が優れていることを伝える逸話として理解されています。 しかし、この物語にはさらに深い意味が隠されているのです。 鹿は藤原氏の氏神を祭る春日大社の使いであり、その鹿が幼帝に襲いかかる姿には寓意が込められていると考えられます。 つまり、鹿の暴走は将門や藤原純友の暴挙を暗示し、経基がその反乱を鎮圧することを表現しているのです。 この作品は、月が未来のできごとを暗示しているという意味で、月の不思議な力を示しています。 月に魅了された月岡芳年が描く『月百姿 貞観殿月 源経基』 1885年~1891年の晩年に発表された月百姿は、月岡芳年の最後の大作とも呼ばれています。 今回ご紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、そんな月百姿シリーズの一作品です。 源経基をはじめとした武将が描かれていたり、絶世の美女や動物、幽霊、怪物などメインとなる題材が多彩な点が特徴のシリーズ作品です。 すべての作品に月が関連しており、エピソードの背景を月が彩っています。 芳年が好んでいた写実的な画風と、どこか現実とは異なる神秘的で幻想的な雰囲気が魅力の一つです。 背景は、月が際立つよう極力シンプルな図にしている作品がある一方で、月をメインとなる題材と同じほどのサイズで描いた作品もあり、斬新な構図が目を引きます。 芳年の人生の集大成であり、真骨頂であると評されている月百姿。 今回紹介した『月百姿 貞観殿月 源経基』は、歴史的な武将を題材としています。 作品を通して歴史を理解するとともに、絵に隠された寓意を想像しながら、芳年の集大成となる月百姿シリーズを楽しんでください。 月百姿以外の作品でも月を印象的に描いている作品があるため、ほかの作品と比較しながら鑑賞するのもよいでしょう。
2024.11.26
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明治時代の浮世絵の特徴と、江戸の浮世絵との違い
浮世絵は、日本の江戸時代に生まれ、栄えた絵画の一つです。 明治時代に入ると西洋の影響が強まり、浮世絵のスタイルやテーマも変化していきました。 浮世絵は、伝統的なスタイルを残しつつも、新しい技術やテーマを取り入れ発展していったのです。 明治時代にも浮世絵はあったのか 明治時代に入ると、日本では急速な近代化と西洋文化の導入が進みました。 浮世絵も、この時代の変化に大きな影響を受けています。 近代国家を描いた、明治の浮世絵 明治時代の近代国家を描いた浮世絵は、明治浮世絵と呼ばれています。時代にあわせて東京の新しい建物や蒸気機関車、港、西洋人、明治天皇などが描かれ、軍事や近代化を題材にした浮世絵も多く描かれました。 明治浮世絵では、江戸時代とは異なる新しい時代の幕開けが表現されていたといえます。 また、江戸時代、幕府に対する批判を制限するために行われていた検閲が廃止されたことで、ジャーナリズム的要素を持った浮世絵も多く見られるようになりました。 明治時代の浮世絵の特徴 明治時代の浮世絵には、江戸時代の浮世絵にはなかった特徴があります。 江戸時代の浮世絵との大きな違いは、赤絵や光線画の登場です。 赤絵とは、輸入顔料のアニリン染料を使った赤色が目立つ様子からつけられた、明治時代の浮世絵の総称です。 江戸時代の末期から鮮明な発色をする輸入顔料がよく用いられるようになり、毒々しいまでの赤や紫などの色を発色する特徴があります。しかし、派手な発色の明治時代初期の錦絵は、現代ではあまり人気がないようです。 光線画も、明治時代に登場した錦絵の一種です。 西洋絵画の遠近法、陰影法、明暗法などを取り入れた浮世絵で、小林清親が描いた浮世絵がはじまりとされています。小林清親は、写真術を下岡蓮杖から、西洋画法をワーグマン、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を組み合わせて光線画を確立しました。 明治時代を代表する浮世絵師たち 浮世絵といえば、江戸時代の娯楽というイメージが強い人も多いでしょう。 しかし、浮世絵は明治時代に入ってからも描き続けられていました。 江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍した浮世絵師も多くいます。 月岡芳年(つきおかよしとし) 月岡芳年は、明治時代に活躍した浮世絵師です。 月岡芳年といえば、血みどろ絵や無残絵が印象的ではないでしょうか。残酷な流血シーンをよく描いていた月岡芳年は、「血まみれ芳年」の異名を持っています。 歌川国芳の門人であり、初期の浮世絵には、国芳の流れを汲んだ作風が見受けられます。のちに、武者絵や血みどろ絵が有名となり、中期以降は熱心に絵画技法を学び続け、独自のスタイルを築き上げていきました。 代表的な作品には、『英名二十八衆句』や『新形三十六怪撰』などがあります。 『新形三十六怪撰』は、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、伝説、民話、史譚などの幅広いジャンルを参考にして幽霊や妖怪を描いた傑作です。 小林清親(こばやしきよちか) 小林清親は、明治時代に活躍した浮世絵師で、月岡芳年や河鍋暁斎と並んで最後の浮世絵師と呼ばれていた人物です。光線画と呼ばれる技法を生み出した浮世絵師で、光と影によって明暗を強調した作品を多く描いています。 27歳のときに母が亡くなり、そのタイミングで東京に戻った小林清親は、浮世絵師としての活動を本格化させていきました。絵画技法を学ぶために、当時来日していた西洋人画家に師事したといわれていますが、その人物が誰であったかは明らかになっていません。 小林清親は、光線画以外にも、戦争画や武者絵も多く手がけ、代表作には『於黄海我軍大捷第一図』『菅公配所之図』などがあります。 豊原国周(とよはらくにちか) 豊原国周は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。 1848年に3代歌川豊国の門下となり、当時は「門人八十八」と名乗っていましたが、1855年ごろより、最初に学びを得た豊原周信と歌川豊国の名前を組み合わせて「豊原国周」の名を利用するようになりました。 豊原国周には、ユニークな逸話も多く残されており、常識にとらわれない人物であったと考えられます。 生涯で妻を40人ほど変え、引越し回数は117回にも及ぶそうです。 浮世絵師としての技術はもちろん、奇想天外な行動や言動でも注目を集めていました。 豊原国周は、役者絵を得意としていた浮世絵師ですが、合戦浮世絵も手がけています。 代表作には『夷伐神風ノ図』『羽柴久吉 市川團十郎他』などがあります。 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ) 楊洲周延は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 浮世絵師の中には、風刺画を用いて幕府や明治政府を批判するものも多くいましたが、楊洲周延は、戊辰戦争にて幕府側に回った異色の浮世絵師としても知られています。 また、文明開化が進む明治時代にあって、江戸風の浮世絵を描き続けた人物でもあります。 楊洲周延が生きた時代では、横浜に日本初の写真館が開業し、写真の文化が普及しつつありました。 しかし、楊洲周延は幼いころに天然痘にかかり、顔にあばたが多く残っていたため、写真を嫌っていたといわれています。 さまざまなジャンルを描いていた楊洲周延が、生涯で最も力を入れていたのは美人画です。 代表作には『高貴納涼ノ図』『上野公園御臨幸之図』などがあります。 河鍋暁斎(かわなべきょうさい) 河鍋暁斎は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 幼いころから写生を好み、並外れた画力により優れた浮世絵を多く残しています。 前村洞和に弟子入りした河鍋暁斎は、師から「画鬼」とも呼ばれていました。 写生に対する興味や関心が人一倍強く、10歳のころに洪水で溢れたあとの神田川で生首を拾い、持ち帰って精密な写生を行ったというエピソードも残されています。 また晩年、死の前に床に臥せていた際、枕元の障子に自分のやせ衰えた姿と亡くなった後に入る角型の桶を描いています。死を前にしても、河鍋暁斎の写生欲はとどまることを知らなかったといえるエピソードです。 幅広いジャンルを手がけた河鍋暁斎の代表作には『明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図』『僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸』などがあります。 浮世絵の衰退と芸術作品としての復興 江戸時代に、貴族や武士階級のみならず町人にまで普及し栄えた浮世絵ですが、時代の流れによって明治時代以降、衰退していきます。 しかし、現在は浮世絵の価値が再認識され、多くの美術館や博物館で所蔵されているほか、個人の愛好家やコレクターによって鑑賞が楽しまれています。 春画の取り締まり 春画は、性的な内容を描写した絵画で、江戸時代に盛んに制作されていました。 当時、春画は庶民の娯楽として楽しまれていたのです。しかし、幕府は風紀の乱れを懸念し、公共の場での販売や展示を厳しく取り締まったのです。 春画の制作や販売には、発覚すれば厳しい罰則が科されることもありましたが、春画は裏で密かに制作され、販売され続けました。 明治時代になると、日本の社会や文化が大きく変化し、西洋の価値観や倫理が介入してきます。日本の伝統的な性風俗を卑しめる風潮が生まれ、1868年に作られた検閲制度により春画の制作や販売は、いっそう厳しく取り締まられるようになりました。その結果、人々は春画を目にする機会が減り、芸術作品としての春画は衰退していったのです。 印刷技術の発達と浮世絵の衰退 明治時代になると、木版印刷や版画技術に代わって、写真や近代的な印刷技術が普及していきました。 写真や印刷技術により、風景や人物をリアルに表現できるようになり、浮世絵の役割に取って代わり、浮世絵は徐々に衰退していったといわれています。 また、石板画や銅板画などの錦絵より安く制作できる印刷技術が発展したことも、人々の浮世絵に対する興味関心が離れていく原因の一つとなりました。 現在では芸術作品として復興 明治時代に衰退した浮世絵は、現在芸術作品として復興し、作品の美しさや独創性が再評価されています。 きっかけは、大正時代に渡辺庄三郎を中心として行われた新版画運動でした。 木版浮世絵と同じ制作方法で描かれた新版画は、より芸術性を重視した作品です。 写真との違いを強調することで、浮世絵の復興を目指しました。 現在、浮世絵は海外からも高い評価を受けており、世界中に愛好家やコレクターがいます。 浮世絵の大胆かつ繊細で美しい作品が、多くの人々に受け入れられているのです。 多くの美術館やギャラリーで浮世絵の展示が行われ、浮世絵の価値や歴史的な意義が伝えられています。 また、学術的な研究や解説書も増え、浮世絵の技法やその時代の背景について深く研究されています。 一度は衰退した浮世絵は、芸術作品としての地位を復興し、新たな時代の人々にも愛される存在となりました。 時代の変化の中で、芸術作品としての価値を高めた浮世絵 浮世絵は、江戸時代の風景や日常生活を鮮やかな色彩で描写し、人々の関心を集めていました。 明治時代のはじまりにも活躍した浮世絵師が多数いましたが、文化や技術の変化により徐々に衰退の一途を辿ります。 しかし、見事復興を果たし、現在では芸術作品としての価値はもちろん、日本の歴史や文化を知るための貴重な史料としても扱われています。
2024.11.15
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