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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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立体感のある浮世絵にはどんな技法が使われている?
浮世絵には、木版画と肉筆画の2種類があります。 肉筆画は、浮世絵師が直接筆をとって、紙に絵を描いていきます。 一方、木版画は、浮世絵師が描いた絵を、彫師が木の板に彫り、摺師が紙に摺り上げていく仕組みです。 木版画である浮世絵版画では、絵を描く浮世絵師だけではなく、彫師や摺師などの職人も重要な役割を担っています。 浮世絵に立体感を出す摺りの技法 浮世絵は、西洋から伝わった遠近法を取り入れてはいるものの、平面的な構成が特徴の絵画です。 立体感のある浮世絵に見せるためには、摺師の技法が関係してきます。 浮世絵に欠かせない、摺師の腕 浮世絵は分業制によって制作されている作品です。 摺師とは、浮世絵師が描き、彫師が彫った木版を、紙に摺り上げて作品として完成させる役割を担っています。 一般的に、色版のズレ予防のため最初に基準となる主版を摺り、後から色版を順番に摺り重ねていきます。 色版は、仕上がりが美しくなるよう、摺り面積の小さいものや薄い色から順に摺られていくのです。 摺師は、絵の全体バランスを見ながら、紙や絵の具などを微調整し、浮世絵師が想像していた完成形を具現化する重要なポジションです。 浮世絵を立体的に仕上げる摺りの技法 浮世絵師が描いた絵のイメージを、想像通り仕上げるためには、彫師や摺師の高い技術が欠かせません。 摺師の職人技として、空摺りやきめ出しなどがあります。 それぞれ、絵師の描いた絵の魅力を引き立たせるために必要な技術です。 空摺り 空摺りとは、版木に絵の具をつけないまま摺る技法です。 凸凹模様を紙につけるために用いられます。 風景画の雪や綿などの白くふわっとした質感や、人物画の衣装の文様や輪郭線などに立体感を持たせるために役立ちます。 きめ出し きめ出しとは、深く彫り込んだ色をつけない板に、色摺りの終わった版画をのせ、上から強い圧力をかけて画面に凸凹を表現する技法です。 雲や雪だるまのような色のない部分に立体感を持たせるために用いられます。 摺りの技術は実物を観賞すれば分かる 浮世絵を、斜めから見たり、単眼鏡などを用いて細部まで見たりすると、摺りの技術の細かさが分かります。 摺りの技法は、ほかにもいくつかあり、単に色を摺るよりも高度な技術であるため、摺りにこだわった作品は当時も価格が高くついていました。 浮世絵の奥深さは摺りの技術を知るとより分かる 浮世絵は、浮世絵師だけの力ではなく、彫師や摺師の職人技があって、魅力を放っています。 摺りによっては、色や立体感がまったく異なります。 高い技術を持った摺師による浮世絵は、より浮世絵師のイメージを具現化していたといえるでしょう。 摺師は、浮世絵制作において重要な仕事ですが、作品に名前が書かれることはほとんどありませんでした。 しかし、摺師が浮世絵の魅力を引き立たせていた存在であると知り、さらに摺りの技術を知ると、浮世絵鑑賞がより楽しくなるでしょう。
2024.12.01
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なぜ浮世絵は世界に広まったのか?
浮世絵が世界中で流行したきっかけとは 19世紀後半、海外では日本美術が多くの画家に影響をおよぼすジャポニスムが流行しました。 ジャポニスムとは、西洋が東洋をどのように見て、描き、理解していたかを研究する学問であるオリエンタリズムの延長にある東洋美術への憧れを表現したもので、開国して以降、日本から海外へ伝わった江戸の浮世絵がジャポニスムの中心となっていました。 西洋画壇でも浮世絵愛好家が多く登場し、作品をコレクションする者から、自身の作品に浮世絵の技術や技法を取り入れる者までおり、浮世絵はさまざまな形で西洋美術に大きな影響を与えたのです。 また、絵画や版画の世界だけにとどまらず、西洋の芸術文化全体に新しい風を吹き込んだともいわれています。 1867年のパリ万国博覧会 ジャポニスムが流行するきっかけを作ったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会であるといわれています。 パリ万博は、フランスの首都で開催された万博で、最新の科学技術や産業技術、芸術作品、製品などを展示する国際的な博覧会です。 幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍「徳川慶喜」がこれを受け、日本美術の出品が実現しました。 江戸幕府は、狩野派の掛軸や画帳、浮世絵を出品、薩摩藩は、薩摩や琉球の特産物、佐賀藩は、磁器などを出品しました。 パリ万博は42カ国が参加し、来場者1500万人と大成功を収めており、このとき多くの人々に日本美術が注目されることになります。 日本美術は、これまでの西洋にはない大胆な構図と鮮やかな色彩などの特徴をもっており、西洋の芸術家たちからすると斬新で新鮮なものに映ったのです。 西洋画では、宗教や神話をモチーフにした絵がメインでしたが、日本の浮世絵では一般大衆の日常生活や風景などを描いた風俗画がメインでした。 また、シンメトリーな構図や遠近法など、西洋画が重視していた技法を使用しない独自の構図も衝撃を与えました。 その後、パリ万博は1878年、1889年、1900年、1937年と開催され、すべての博覧会に参加した日本の美術は、海外に広く知れ渡り、ジャポニスムの流行は1910年代ごろまで続いています。 鎖国中もオランダへの輸出品の包装紙として使われていた ジャポニスムの流行を作ったのは、パリ万博への日本美術の出品が大きな理由の一つとされていますが、実はそれよりも前に、日本の浮世絵はヨーロッパに渡っていました。 江戸時代、日本はヨーロッパに茶碗をはじめとした陶器を輸出しており、陶器が割れないよう緩衝材として、浮世絵が使われていたのです。 何気なく丸められた紙を広げてみると、そこには日本の自然や人々の暮らしが鮮やかな色彩で生き生きと描かれていました。 中でも、浮世絵師の葛飾北斎が描いた『北斎漫画』は、西洋人に大きな衝撃を与えました。 パリで活動していた版画家のフェリックス・ブラックモンが、包装紙として使われていた『北斎漫画』を偶然目にし、デッサン力の高さに衝撃を受け、仲間の画家たちに広めたことで、印象派の画家に影響を与えたともいわれています。 ヨーロッパに浮世絵を広めた画商「林忠正」 林忠正 生没年:1853年-1906年 林忠正は、初めて西洋で日本美術品を商った日本人といわれています。 パリ万博での仕事をきっかけに、日本美術や工芸品を広めようと決意した忠正はパリで日本美術を取り扱う店を構え、西洋の日本美術愛好家たちからの興味や関心を引き、ジャポニスム隆盛のきっかけを作りました。 パリ万博をきっかけに日本美術への理解と興味を深める 忠正は、ちょうど3回目のパリ万博が開催されていた年に、貿易商社の起立工商会社通訳として雇われ、パリに渡ります。 当時、パリ万博の影響もあって日本美術は西洋から関心を寄せられつつありました。 忠正は、万博で日本の展示品を鑑賞した画家や評論家の前で、流暢なフランス語で作品の解説を行い、熱心な解説がさらに海外の人々が日本美術への理解と興味を深めることを手助けしたといえます。 また、忠正自身も日本美術への理解と興味を深めていきました。 パリに滞在し日本美術を扱う店を創設する パリ万博が終了した後も、忠正はパリにとどまり、日本の美術品を取り扱う店を創設しました。 起立工商会社の副社長だった若井兼三郎とともに、美術新聞のルイ・ゴンスが主筆となり刊行していた『日本美術』に携わりながら、本格的に日本美術を学んでいったのです。 忠正は、ヨーロッパに日本美術を広めるために、工芸品や絵画を日本から直接輸入しました。 当時、日本での浮世絵は卑しいものとして捉えられていましたが、忠正はその価値を誰よりも早く察知し、芸術性を認めるべきであると日本人に対しても訴えています。 1886年には、世紀末のパリを代表する『パリ・イリュストレ』というビジュアル誌の日本特集号にフランス語の記事を寄稿し、2万5000部の大ベストセラーとなりました。 日本に初めて印象派の作品を紹介した人物でもある 1900年に開催されたパリ万博では、民間人として初となる事務官長に就任し、日本の出展ブースのプロデューサーとして、日本美術作品の魅力を世界にアピールするべく尽力しました。 また、長年美術界に貢献したとして、フランス政府からは教育文化功労章1級やレジオン・ドヌール3等賞などが贈られています。 フランス印象派の画家たちとも親交を深めるようになり、印象派の作品を日本へ初めて紹介したのも忠正であるといわれています。 忠正は、印象派の巨匠とも呼ばれているマネと親しく交流した唯一の日本人ともいわれているのです。 1905年に帰国した際は、約500点ものコレクションを持ち帰り、西洋近代美術館を建設しようと計画を立てます。 しかし、その夢を果たすことなく翌年に東京にて亡くなってしまいました。 国立西洋美術館が建設されたのは、忠正が亡くなってから50年後のことでした。 ヨーロッパでジャポニスムが流行した理由は? ジャポニスムが流行したのは、日本美術が西洋美術にはない特徴をもった絵画であったからであると考えられます。 自由なテーマ 当時のヨーロッパでは、宗教画や肖像画が主流であり、風景画は少数派でした。 絵画は、厳粛なテーマが多く、表現にも一定の制約があり、新鮮さのある作品があまり生まれない時代となっていました。 しかし、浮世絵はヨーロッパの絵画の概念を覆す特徴をもっていたのです。 浮世絵は、一般大衆の日常生活を描いた娯楽に近い作品であったため、美人画から役者絵、武者絵、花鳥画、風景画、相撲絵、妖怪画、春画など、テーマは多岐にわたります。 テーマに縛られることなく自由な浮世絵は、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたのでした。 多彩なテーマで描かれた浮世絵は、西洋の芸術家たちに大きなインスピレーションを与え、19世紀の美術界において革命をもたらすきっかけとなりました。 ダイナミックな構図 浮世絵は、西洋絵画にはないダイナミックな構図も特徴の一つです。 西洋絵画では、陰影や遠近法を用いて写実的な表現に焦点を当てていましたが、浮世絵では現実にはあり得ないであろう大胆な構図や誇張表現によって、ダイナミズムやリズム感を強調しています。 たとえば、北斎の『神奈川沖浪裏』では、圧倒的な迫力をもつ波が、人々を乗せた舟の上に覆いかぶさろうとしているかのようにデフォルメされて描かれ、一方で、背後には小さく富士山が描かれています。 一枚の絵の中に、現実ではあり得ない誇張されたシーンが描かれており、違和感なく見る者の心を惹きつけるその変幻自在な構図は、西洋の人々に大きな衝撃を与えました。 明るく鮮やかな色彩 浮世絵の大きな特徴は、そのポップで鮮やかな色彩です。 西洋絵画では、濃厚で深みのある色合いが好んで使われており、鑑賞する者に迫力や重みを感じさせる作品が多く描かれていました。 一方、日本の浮世絵では、明るく軽やかな色彩が多く、ポップな雰囲気のある作品が多くあります。 西洋の人々は、今までにない色使いに新鮮さを覚え、ジャポニスムの流行を作るきっかけとなったともいえるでしょう。 浮世絵の鮮やかな色彩により生み出される明るいポップな雰囲気は、西洋の伝統的な色使いに新しい視点をもたらし、のちの芸術運動にも大きな影響を与えたと考えられます。 大胆な余白による抜け感 浮世絵は、画面をすべて覆いつくすのではなく、大胆な余白を作りバランスを取る特徴があります。 西洋絵画では、画面を埋めつくす描写が一般的であり、背景には空や雲、壁、影など自然の風景や街の景色が全面に描かれました。 一方、浮世絵では、何も描かない空間をあえて作り、鑑賞する者に広がりや静けさを感じさせます。 余白は、多くの日本美術に見られる空間を活かした美意識ともいえ、絶妙な空白の感覚が、西洋の人々の目には新鮮に映り、無駄なものを排除し洗練された作品として魅力的に見えたといえるでしょう。 一つのテーマに特化した連作 浮世絵では、連作による作品制作が多く行われていました。 たとえば、北斎の『富嶽三十六景』や『富嶽百景』、歌川広重の『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などです。 連作は、一つのテーマを別々の視点から描いたり、季節や時間をずらして描いたりすることで、変化を楽しめるのが魅力の一つです。 当時の西洋絵画では、シリーズ作品や一つのテーマに対して繰り返し制作を行う方法は、一般的ではありませんでした。 そのため、西洋の芸術家たちは、連作の浮世絵がもつ独自の魅力に心惹かれ、大きな影響を与えたと考えられます。 印象派の画家であるモネは、浮世絵の連作からインスピレーションを得て『睡蓮』シリーズを描いたといわれています。 連作は、一つひとつの作品を独立した芸術として楽しむこともできれば、比較して季節や時間の移り変わりによって変化する表情を楽しむことも可能です。 浮世絵の連作は、西洋の芸術家たちの作品の捉え方や創作時のアプローチ方法に、新たな風を吹き込んだといえるでしょう。 安価で手に入りやすい 当時の日本で浮世絵は、大衆の娯楽品として手ごろな価格で流通していました。 浮世絵は芸術品ではなく、大衆の娯楽や情報を伝えるためのメディアとしての働きをもっており、さらに大量生産を可能とする仕組みができあがっていたため、多くの人々が浮世絵を手にする機会を得ていました。 多くの西洋絵画は、1点ものであり、制作にたくさんの時間と労力がかけられていたため、絵画といえば貴重で高価なものと考えていた人は多かったと考えられます。 そのため、浮世絵の量や種類の多さが収集家の心に火をつけ、貴重な作品を探しながらコレクションしていく熱狂性を生み出したといえるでしょう。 浮世絵に影響を受けた海外の芸術家 浮世絵は、西洋の鑑賞者だけではなく有名な芸術家たちにも大きな影響を与えています。 浮世絵からインスピレーションを受けた有名画家には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホなどがいます。 エドゥアール・マネ エドゥアール・マネは、近代美術の父とも呼ばれる画家で、19世紀パリのモダニズム的な生活風景を描いた作品で有名です。 代表作『オランピア』は、浮世絵の影響を受けているといわれており、透視図法や立体感を作り出す陰影など西洋絵画の技法が取り除かれ、はっきりとした輪郭線が描かれています。 浮世絵のテーマとしては一般的で、西洋絵画ではあまり見られない『舟遊び』を描いた作品では、メイン以外を省略し、遠近法を使わず俯瞰的で大胆な浮世絵のような構図を取り入れています。 また、小説家のエミール・ゾラの肖像画では、背景に襖絵や相撲絵などを描き入れていることから、浮世絵をはじめとした日本美術に関心を寄せていたことがうかがえるでしょう。 クロード・モネ クロード・モネは、印象派の画家であり、ジャポニスムから強い影響を受けた芸術家の一人です。 浮世絵の空間描写や光の色彩表現に心酔していたモネは、主題の選び方や俯瞰的な視点、平行線を用いた幾何学的な構図、両端をカットする大胆な配置など、浮世絵がもつ独自の特徴を巧みに西洋画に取り込んでいきました。 また、1876年には妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を制作しており、着物姿の女性が後ろ向きの体勢から身体をひねり振り返る構図で描かれています。 この女性が振り返るポーズは、浮世絵師である菱川師宣の『見返り美人図』を思わせます。 モネの代表作『睡蓮』シリーズは、琳派の屏風絵に影響を受けているともいわれており、また描かれた太鼓橋は、歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている太鼓橋をモデルにしているともいわれているのです。 フィンセント・ファン・ゴッホ 『ひまわり』で有名なポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に大きな影響を受けた芸術家の一人です。 ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰りパリで店を開いたとき、ゴッホは店でいくつもの浮世絵を鑑賞しました。 浮世絵にはまったゴッホは、生涯で約500点もの浮世絵を収集したといわれています。 中でも、歌川広重の作品を大変気に入っており、広重の代表作『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油絵で模写しています。 また、ゴッホがお世話になっていた画材屋の店主を描いた『タンギー爺さん』の背景には、浮世絵師の渓斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』や、広重の『冨士三十六景 さがみ川』などの浮世絵が描かれました。 ジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらなかった 浮世絵をはじめとした日本美術が、西洋の画家たちに大きな影響を与えたとする話は、聞いたことがある人も多いでしょう。 しかし、日本美術が海外へ影響を与えたのは、絵画ジャンルだけではありませんでした。 特に、19世紀後半に大流行したジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらず、工芸や作曲など、あらゆる芸術分野に影響を与えました。 パリ万博をきっかけに上流階級層が浮世絵を評価するようになってコレクターが次々と現れ、そこからさらに浮世絵を販売する商人も登場するようになり、さまざまな分野に浮世への魅力が広がっていったのです。 ガラス工芸家のエミール・ガレ ガラス工芸家のエミール・ガレは、自然の中に咲いている花や生き物に焦点を当て、繊細な表現で作品に落とし込んでいました。 当時の西洋美術では、山や木などの自然風景を描くことはあっても、自然に生きる花や鳥などの小さな生命たちに焦点を当てる概念がほとんどありませんでした。 そのため、日本の花鳥画や工芸品の自由な花鳥の表現は、西洋の人々には新鮮に映ったことでしょう。 ガレは、当時の西洋で不吉な虫とされていたトンボをたびたび作品に登場させており、北斎の花鳥画『桔梗に蜻蛉』が大きなインスピレーションになっているといわれています。 日本の浮世絵をきっかけに、今までの西洋美術にはなかったモチーフを用いた作品制作に挑戦したともいえるでしょう。 作曲家のクロード・ドビュッシー 『月の光』をはじめとしたクラシック音楽の作曲家として有名なドビュッシーも、浮世絵や日本の美術品に影響を受けた芸術家の一人です。 ドビュッシーは、絵画作品から着想を得て作曲をしていたといわれており、当時流行していたジャポニスムにも強い関心をもっていました。 浮世絵や仏像などを収集しており、ドビュッシーの代表作『海』の楽譜の表紙には、北斎の『神奈川沖浪裏』をイメージした絵が描かれています。 『海』という曲のイメージに北斎の作品がマッチするとして採用されたと考えられます。
2024.11.26
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浮世絵の題材にもなった吉原遊郭
浮世絵とは江戸時代、庶民の娯楽の一つとして広まった文化です。 浮世絵は、江戸時代を暮らすさまざまな人や生活を題材にして制作されていました。 歌舞伎とともに江戸時代の娯楽であった遊郭もまた、題材の一つでした。 遊郭とは、遊女が集められた場所。遊女は、いわゆる春を売る女性たちのことです。 そして、江戸時代に人気のあった遊郭の一つ、吉原もよく浮世絵として描かれていました。 浮世絵のモチーフとなっている遊郭の歴史を知ることで、より浮世絵の楽しみ方の幅が広がるのではないでしょうか。 吉原遊郭はどんなところだったのか 江戸の吉原遊郭と聞くと、どのようなイメージを持っているでしょうか。 浮世絵の題材としてよく描かれている場所、華やかな恋愛文化が生まれた場所、江戸時代の娯楽として栄えた場所など、さまざまなイメージを思い浮かべるでしょう。 江戸時代に徳川幕府公認の遊郭として賑わいをみせていた吉原遊郭の歴史や浮世絵との関係性を知ると、江戸時代の娯楽や文化についての魅力を深められます。 遊郭の誕生 遊郭が初めて誕生したのは、1585年とされています。 豊臣秀吉が大阪の街に遊女たちを集めて建設されたのが遊郭です。 もともと遊女が売買春にあたる行為をすることはありましたが、決められた場所はありませんでした。そのため、遊女は遊女屋と呼ばれる店を転々としていたといわれています。 その後、京都にも遊女を集めて遊郭を建てています。 遊郭を設置する政策は、徳川幕府にも受け継がれていき、のちに全国約20か所に幕府公認の遊郭が設けられました。 その後、遊郭は、徳川幕府の厳しい規制の中で運営されていきます。 遊郭の多くは、市街の外れに建設され、建物の周囲に溝を掘ることで、遊女の外出や逃亡を防いでいました。 江戸時代の遊郭と、最も栄えた吉原遊郭 吉原遊郭とは、江戸幕府からの公認を受けていた江戸の遊郭です。 当時は、日本橋近くにあり、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転されました。 移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼んでいます。 吉原遊郭には数多くの遊女がおり、遊女たちは芸や娯楽を提供することで客を楽しませていました。 江戸時代に吉原遊郭は、文化や風俗の中心地として栄え、浮世絵作品にも頻繁に登場しています。 浮世絵師たちは、吉原の遊郭での日常や、遊女たちの姿を描き、これらの作品は庶民の間で広く愛されました。 吉原は、江戸時代の遊郭の中でも特に有名で、そこでの出来事や風俗は浮世絵によって詳細に描かれてきました。 遊女にもランクがあった 遊女とは、遊郭において性的なサービスを提供する女性を指す言葉です。 遊郭で働く遊女たちは、さらに細かいランク分けがされていました。 時代によって多少異なりますが、一般的に見習いの禿から始まり、デビューすると新造、端女郎、囲、御職、格子とランクが上がっていきます。 よく耳にする「太夫」は、遊女の中でも最高ランクの言葉です。 太夫になれるのは、1000人中2~5人と大変狭き門であったことがわかります。 太夫になるためには、容姿だけではなく、多彩な芸妓を持ち、大名などの会話に対応できるほどの知性や教養も必要でした。 なお、「花魁」は職名ではないため、ランクが決まっていません。 一般的に、客引きをする必要のない最上格の遊女を花魁と呼んでいました。 遊郭で生まれた文化 文化のゆりかごと呼ばれていた吉原遊郭をはじめとした花街は、江戸時代に栄えたさまざまな文化に深く関係しています。 吉原は、浮世絵をはじめ、茶の湯や歌舞伎、相撲、声曲、書、花、香、出版、祭礼、狂歌、俳譜など江戸時代を彩っていた文化を支えていました。 舞踏や音楽、茶道、詩歌などの芸を磨き、客を楽しませるための努力を重ねた遊女たちの技芸の美しさは、芸能の発展にも大きな影響を与えていたといわれています。 また、遊女の中でもトップランクにあたる太夫や花魁は、江戸時代の町人にとってアイドルやファッションリーダー的な存在でもありました。 花魁の華やかで美しい姿を描いた浮世絵をみて、女性たちは髪形やファッションを真似ていたそうです。 遊女たちの美しさや優雅さは、当時の社会に大きな影響を与えていたといえるでしょう。 浮世絵に描かれた吉原遊郭や遊女たち 江戸時代、吉原遊郭の街並みや、遊女たちの日常、芸妓を披露している姿などは、浮世絵師たちによって、鮮やかかつ華やかに表現されました。 当時の浮世絵には、江戸時代の都市風俗や文化を生き生きと表現したものが多くあります。 吉原遊郭で働く遊女たちの美しい着物姿や舞踏などが描かれており、現代では、江戸時代の生活や風俗を伝える貴重な史料にもなっています。 喜多川歌麿『青楼十二時』 喜多川歌麿の『青楼十二時』は、吉原遊郭で働く遊女の1日を描いた浮世絵です。 喜多川歌麿は、美人画で有名な浮世絵師です。 葛飾北斎と並んで、国内だけではなく、海外からも高い評価を受けています。 喜多川歌麿が描く美人画は、繊細な表情やしぐさ、顔の特徴などをうまく引き立たせており、浮世絵で女性の内面の美しさまで表現しているとして、多くの人々を魅了しました。 『青楼十二時』では、吉原遊郭で働く遊女のリアルな姿を描いています。 遊女の華やかな姿だけではなく、仕事の時間以外で見せる表情を描いたことで、人々の興味を引きつけました。 アイドルのオフショットを覗いているような気持ちにさせてくれる作品といえるでしょう。 また、『青楼十二時』では、遊女が寝ている姿が描かれていません。 寝顔が美人画として成立しないという理由もあるかもしれませんが、当時遊郭で働いていた遊女の不規則な生活リズムをリアルに表現していたともいえるでしょう。 溪斎英泉『江戸町一丁目 和泉屋内 泉壽』 溪斎英泉の『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』は、華やかな花魁の姿を描いた浮世絵です。 たくさんのかんざしで飾られた髪や、色鮮やかな着物姿が印象的な浮世絵で、この姿に当時の女性たちは、憧れを抱いていたそうです。 溪斎英泉は、美人画を得意とする浮世絵師で、切れ長の目にはっきりとした鼻筋、突き出た下唇などが特徴の絵をよく描いていました。 女性特有の丸みをうまく表現した作品も多く、どこか退廃的な印象を与える浮世絵を多く残しています。 『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』で描かれている花魁が身につけているギンガムチェックの模様は、弁慶格子とも呼ばれており、白地にグレーと黒の格子柄が特徴です。 歌川国貞『吉原遊郭婦家之図』 歌川国貞の『吉原遊郭婦家之図』では、吉原遊郭の建物内やそこで働く遊女たちの姿、利用客とのやり取りなどの様子が描かれています。 当時の吉原遊郭内の詳細や雰囲気がよく伝わってくる作品です。 歌川国貞は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画、武者絵、風景画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけていました。 二代歌川広重『東都 新吉原一覧』 二代歌川広重の『東都 新吉原一覧』は、江戸時代の吉原遊郭全体を上空から見下ろす視点で描かれた浮世絵です。 また、この作品には富士山が描かれていますが、方角的に本来はないはずの場所に存在しており、演出のために描かれたと考えられます。 二代歌川広重は、初代歌川広重の門人で、美人画や花鳥画、武者絵、風景画などを制作していた浮世絵師です。 初代が亡くなった翌年、二代目広重を襲名しています。 葛飾応為『吉原格子先之図』 葛飾応為の『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓の一場面を切り取って描かれた浮世絵です。 夜の吉原遊郭を行き交う人々と、格子戸の中で待つ遊女たちの様子が表現されています。 提灯の灯りによる陰影が特徴的な絵で、『吉原夜景図』とも呼ばれています。 葛飾応為は、葛飾北斎の三女であり、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。 父親譲りの画才で、ときには父である葛飾北斎の作品を代筆していたともいわれています。 遊郭や遊女の浮世絵は、庶民の憧れだったから 遊郭でもトップレベルの太夫や花魁は、男性にとってもアイドルのような存在で、せめて手元に絵だけでもと、浮世絵を手にしていたと考えられるでしょう。 また、江戸時代のファッションリーダーでもあった遊女たちを描いた浮世絵を参考に、多くの女性たちがファッションを楽しんでいました。 遊郭や太夫、花魁を描いた華やかな浮世絵は、庶民からの要望があつく、人気の題材であったといえるでしょう。
2024.11.24
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ゴッホの描いた花魁とは?ジャポニズムと浮世絵が与えた衝撃
江戸時代から日本の民衆に愛され続けてきた浮世絵作品。 現代でも、多くの人を魅了している芸術品ですが、実は日本だけではなく海外人気も高い作品なのです。 多くのファンやコレクターが世界中におり、浮世絵の影響を受けている有名な海外作家もいます。 その一人が「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。 彼は、浮世絵にどのような魅力を感じたのでしょうか。 ゴッホの『花魁』に見る、浮世絵の影響 ゴッホは浮世絵の魅力に衝撃を受け、作風が大きく変化したといわれています。 当初のゴッホは、祖国オランダの同時代にいた画家の影響を強く受けており、どちらかといえば地味な作風の絵を描いていました。 現代に残されている、絵具がキャンパスのうえを走り回るような躍動感ある作品が生まれるきっかけを作ったのが、浮世絵作品であるといわれています。 ゴッホとジャポニズム ゴッホとは、ポスト印象派の画家で、現代でも天才画家と称されて多くの作品が美術館に所蔵されたり、オークションにて高値で取引されたりしています。 ゴッホがインスピレーションを受けたとされるジャポニズムとは、19世紀後半ごろにヨーロッパで流行した日本趣味のことです。 当時のフランス画家たちは、日本から伝わってきた浮世絵や陶器の絵柄などに見られる、日本独自の構図や色彩構成に強い衝撃を受けたといわれています。 ゴッホも衝撃を受けた画家の一人で、浮世絵を模倣したり、肖像画の背景全体に浮世絵を配置したりした作品も多く残されています。 ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちの間では、写実性を高めるために輪郭線を明確に描かず、立体感や奥行きのある絵画技法が主流でした。 しかし、浮世絵作品では、はっきりと描かれた輪郭線や直接的な構図などが用いられており、これまでにない表現方法が、ヨーロッパの画家たちの目には新鮮に映ったのでしょう。 ゴッホの描いた『花魁』 浮世絵の鮮やかな色使いや大胆な構図に大きな影響を受けたゴッホは、浮世絵作品を模した絵画も多く残しています。 その一つが、溪斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』です。 ゴッホは、この作品を模写した油絵を制作しています。 また、花魁が描かれた作品には、カエルや鶴なども描かれており、ほかの浮世絵作品からモチーフを持ってきたと見られます。 『雲龍打掛の花魁』を模写した作品からだけでも、ゴッホの浮世絵に対する熱中ぶりが見て取れるでしょう。 ゴッホを魅了した溪斎英泉『雲龍打掛の花魁』 ゴッホを魅了した溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』がどのような作品であるか、知らない人も多いでしょう。 ゴッホの浮世絵を模した作品の鑑賞を楽しむうえで、もととなった作品や作家の詳細を知っておくと、より背景を想像でき楽しみ方の幅が広がります。 溪斎英泉とは 溪斎英泉とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、吉原の遊女といった女性を題材にした美人画や春画を多く手がけていました。 妖艶で刺激的な作品も多く、当時の民衆を虜にしていました。 また、春画や美人画に限らず、風景画でもすぐれた作品を多く残しています。 溪斎英泉が描く美人画の特徴は、間隔の離れた切れ長の目と筋の通った鼻、突き出た下唇などです。 妖艶な雰囲気を醸し出している表情の女性の絵が、人々から人気を集めていました。描かれている女性の姿勢は、屈曲していたり猫背だったりと、女性特有の丸みが表現されています。 どこか退廃的な雰囲気が漂う作品が多い傾向です。 ゴッホが影響を受けたとする『雲龍打掛の花魁』も、溪斎英泉を代表する美人画といえます。 なぜゴッホは『雲龍打掛の花魁』を知っていたのか ゴッホが『雲龍打掛の花魁』を知るきっかけになったのが、パリ・イリュストレ誌です。 1886年5月号で日本特集が組まれた際に、表紙として左右反転された溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』が、採用されたのです。 ゴッホの遺品から、当時の雑誌の表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、雑誌の表紙を模写したものと考えられています。 ゴッホの絵に見る、日本浮世絵の魅力 世界的な画家であるゴッホを魅了した浮世絵。 ゴッホはこの作品以外にも『タンギー爺さん』や『種まく人』など浮世絵の影響を受けた作品を多く残しています。 浮世絵にインスピレーションを受けたゴッホの絵を鑑賞する際は、モチーフとなった浮世絵作品と見比べてみるのもよいでしょう。
2024.11.22
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謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは何者なのか
江戸時代中期に突如として浮世絵業界に現れ、そして忽然と姿を消した「東洲斎写楽」。 その正体は、いまだ明らかにされておらず、さまざまな説が現代でも論じられています。 写楽が描いた役者絵は、世界的な知名度を誇る日本の名作です。その正体を知りたい人は、決して少なくなく、今でも多くの議論がなされています。 謎に包まれた、東洲斎写楽とは何者なのか 作家名:東洲斎写楽 代表作:『市川蝦蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽(以下:写楽)は、1794年5月から1795年1月のおよそ10か月間だけ活動していたとされる浮世絵師です。 所属の流派・出生・本名、そのすべてが不明で、活動期間もわずか10か月というあまりにも奇天烈な人物といえます。 短い期間に145点もの作品を描く鬼才の持ち主で、活動初期には、一挙に28点もの大首絵(役者の上半身を描いたもの)を仕上げたそうです。 彼の描いた役者絵は、現代でもその構図が使われるほど芸術的要素の強さが魅力です。 役者の特徴を捉えたデフォルメチックな表現方法は、後世に続く浮世絵師や海外の画家たちにも多大な影響を与えました。 東洲斎写楽とは 写楽は、江戸時代中期を代表する「4大浮世絵」とも呼ばれています。 ほかの3人が葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重であることからも、その知名度の高さがうかがえます。 なお、写楽が「東洲斎写楽」の落款(作者の署名のこと)を使っていたのは、デビューから2か月間のみです。 その後、8か月間は「写楽画」と名乗っていました。 落款の名が変わると同時に、写楽の画力は急速に衰えます。 一部界隈では「この時期から別の人物が写楽を名乗っていたのではないか」との説も浮上しています。それほどまでに、絵柄がまったく異なるのです。 東洲斎写楽が描いた、役者絵 写楽を代表する『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』を始め、彼の描いた役者絵は、江戸中に知れ渡る大ブームに発展しています。 その背景を語るうえで欠かせない存在が、江戸の大手版元(現代の出版社)である「蔦谷重三郎」です。 写楽の役者絵が一大ブームを起こしたのは、蔦谷重三郎によるプロデュースがあってこそでした。 一説では「蔦谷重三郎が写楽本人なのではないか」との説も存在します。 堅実な経営スタイルで知られる蔦谷重三郎。 かの有名な喜多川歌麿の作品を出版するときでさえ、ゆっくりと入念な準備を進めたそうです。 しかし、写楽の作品においては、類を見ないアクティブさを見せつけています。 当時、無名かつ無実績の新人である写楽の作品を、一挙に28点も掲載しました。 また、すべてに黒雲母摺と呼ばれる鉱物の粉末をちりばめた特別仕様で出版するという、稀に見る好待遇でデビューを迎えさせました。 慎重な性格の蔦谷重三郎が、デビュー前の新人になぜこのようなハイリスクな出版を行ったのかは、いまだ明らかになっていません。 しかし、彼のプロデュースにより、写楽の作品は江戸中を巻き込むほどの大成功を収めました。 東洲斎写楽が多くの人を魅了する理由 慎重さに定評のある蔦谷重三郎によって大々的にプロデュースされた写楽。 新人作家である彼が多くの人を魅了したのは、人物像が謎なだけでなく、役者絵に込められた躍動感と、絵画としての完成度にあります。 まず、28枚の役者のなかでも一際人気を集めた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』。 これらは写楽の作品でも、役者の人物像と見た目の特徴を、的確に捉えているといわれています。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」の登場人物の1人で、芸妓の身請け金を奪おうとする悪役「江戸兵衛」を演じる大谷鬼次を描いたものです。 あごを突き出してにらみつけるような鋭い眼光や開いた両手が、悪役らしさを生み出しています。 『市川鰕蔵の竹村定之進』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」にて、前半の主人公である竹村定之進を演じた市川鰕蔵を描いた作品です。 市川鰕蔵は、当時の歌舞伎役者の中でも歴代最高と呼ばれており、描かれた風貌からもその自信が現れているように感じられます。 写楽の作品は、対象の人物像を正確に捉えたところが評価される一方、あまりに役者の素を表しすぎたとして、役者から批判も発生したそうです。 良くも悪くも、写楽は忖度のないありのままを描いた浮世絵だったのです。 東洲斎写楽の謎…彼は誰だったのか? 突然の登場から、わずか10か月で姿を消した写楽ですが、その正体には複数の説があります。 蔦谷重三郎や市川鰕蔵も候補の1人として数えられ、果ては葛飾北斎が写楽の正体だという説も。 写楽の正体を探る研究は、長年続けられてきましたが、現在ではある人物が濃厚だといわれています。初期の落款に描かれた「東洲斎写楽」と、同じ作家名を名乗る江戸に住んでいたとされる人物です。 謎の多い写楽の正体 1817年に出版された『諸家人名 江戸方角分(現代のタウンページのようなもの)』によると、八丁掘という現代の東京都中央区に位置する場所に「[号]写楽斎 地蔵橋」との記述が発見されました。 これは、写楽という名の人物が住んでいた場所で、すでに故人であることを意味します。 さらには、1844年に出版された『増補 浮世絵類考』によると、東洲斎写楽が八丁掘に住んでいたことと、徳島藩お抱えの能役者であり、浮世絵師であったことが記されていました。 また、本名を「斉藤十郎兵衛」といいます。 現在では、斉藤十郎兵衛が写楽の正体ではないかと提唱されています。 同名の浮世絵師であることはもちろん、自身も役者であったからこそ見事な役者の大首絵を描けたと考えれば、異論の余地がないのも当然です。 しかし、同名の作家を名乗る偽物の可能性も捨てきれないことから、確証にはいたっていません。 実は写楽は1人ではなかった? 写楽の作品は、第1期〜第4期まであるとされ、3期目から急速に画力が衰えます。 明らかに画風が異なるため、写楽複数人説が浮上しました。 実際に、各期の作品を見ればわかりますが、浮世絵に詳しくない人でも、違いが明らかにわかるレベルです。 ただ、途中で作風を変更した可能性もあります。 写楽の作品が最ももてはやされたのは、第1期の作品。第2期も好評でしたが、1期ほどではなかったようです。 そのため「写楽本人が人気を再燃させるために画風を変えた」との説も唱えられています。 3期から落款の署名が変更されたことから、現在は、写楽複数人説が定説です。しかし、当の本人の正体も判明しておらず、真相はいまだ明らかにされていません。 浮世絵最大のミステリー、東洲斎写楽 現在定説とされている写楽の正体は、八丁堀に住んでいた能役者「斉藤十郎兵衛」が濃厚です。 また「途中から別の人物が作品を描いていた」という説も、ある程度の信憑性を獲得しています。 いずれにしても確証のある証拠はそろっていないため、仮説の域をでません。 江戸を席巻した浮世絵「写楽」の正体が明らかになる日が、いつの日かくるのかもしれません。
2024.11.22
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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北斎漫画とは?浮世絵師たちがこぞって真似た個性的なイラストたち
活躍した江戸時代から今日まで高い人気を誇っている葛飾北斎。 画号を30回以上変えたり、90回以上引っ越しを繰り返したりするユニークな面も持ち合わせています。浮世絵師としてあまりに有名な北斎ですが、実は漫画も刊行しているのです。 北斎漫画とは 北斎漫画とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎によって描かれた漫画のことです。北斎は、日本のみならず海外からも高い評価を受けている浮世絵師で、多くの海外芸術家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎がどのような人物であるかを知るとともに、北斎漫画にはどのような絵が描かれていたのか見ていきましょう。 北斎漫画の魅力を知れば、より葛飾北斎の偉大さや浮世絵の魅力も深まります。 葛飾北斎とは 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年-1849年 代表作:『冨嶽三十六景』『富嶽百景』 葛飾北斎は、数多くの名作を世に残した有名浮世絵作家です。 北斎は、東京都の墨田区で生まれ、4歳のころに江戸幕府御用達の鏡師である中島伊勢の養子となりました。鏡師とは、神社やお寺に納める青銅鏡を製作する職人です。 北斎は、6歳になるころには、すでに絵を描くことに興味を持っていたといわれています。 12歳のときに家業の鏡師は継がずに、貸本屋で下働きをはじめ、多くの本を読んで絵の技法を独学で学んだそうです。その後、14歳のころに木版彫刻師の弟子となり、木版印刷の技術を習得しました。 しかし、18歳になるころ、自分は木版を彫ることよりも絵を描く方が好きだと再認識し、彫刻師をやめて絵師になると決意します。 その後、勝川春朗や俵屋宗理、葛飾北斎など、さまざまな名を名乗り、浮世絵の制作活動を進めていきました。 北斎は、何度も画号を変えており、その数はなんと30回ともいわれています。 北斎の作品に描かれている画号により、描かれた時代がわかるとともに、絵の特徴の違いを比較してみるのも面白いでしょう。 北斎漫画とは 葛飾北斎が、弟子のために描いた絵手本である北斎漫画には、どのような内容が描かれているのか気になる人も多いでしょう。 北斎漫画は全15編からなり、初編から5編まで、6編から10編まで、11編から15編の3冊で構成されています。 初編の発行は、北斎が55歳になる1814年でした。 初編は、葛飾北斎が弟子の牧墨僊の自宅に滞在して描いた300点の下絵をまとめたものです。 当時を生きる町民や武士、僧侶などの人物や魚、動植物、風景などさまざまなイラストがいきいきと描かれているのが特徴です。 もともとは初編のみの刊行予定でしたが、想像以上に人気を集めたため続編が制作されることになりました。 2編では、初編で掲載できなかった人物や動植物、面白いお面などが描かれています。 3編では相撲絵や雀踊絵が描かれ、4編では戦う男、5編では偉人や建造物が描かれています。 6編は、弓を射る人や鉄砲を撃つ人など、戦う様子を描いており、7編では『冨嶽三十六景』で描かれているような波の絵も。 8編からは表情豊かな町民といったユニークなイラストも描かれ始めました。 この北斎漫画が最後の15編まで刊行されるのを待たずして、北斎は1849年に亡くなっています。 1849年に13編が刊行されているため、14・15編は北斎が亡くなってから刊行されたものです。 北斎漫画はなぜ描かれたのか 絵の才能に長けていた葛飾北斎から絵を学びたい人は、多くいました。 当時、北斎には弟子が200人以上もいたといわれています。 弟子がこれ以上増えてしまうと、直接指導ができなくなってしまうとして、葛飾北斎の絵を学びたい人に向けて北斎漫画が制作されたのでした。 浮世絵師たちが手本としたスケッチ="漫画" 北斎漫画が制作された当時は、芸術作品としてではなく、絵の書き方を習いたい人のために描かれたスケッチや絵手本のような役割を担っていました。 そのため、最初は人物や動植物、風景など、浮世絵でよく題材として扱われるモチーフを描いています。 後半になるにつれて、個性的でユニークなスケッチが増えていきます。 なぜ北斎漫画は尾張(名古屋)の版元から出版されたのか 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張に滞在していたころには、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行っており、人気を集めていました。 葛飾北斎は、1812年ごろ関西方面へ足を運んだといわれており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在しています。そこで、300枚以上のスケッチを描き上げました。このスケッチが、のちに門下の絵手本となる『北斎漫画』の原型です。 名古屋で描かれたため、名古屋の版元である永楽屋東四郎のもとで、初版が刊行されたのでした。 北斎漫画に描かれた絵手本 葛飾北斎が手がけた『北斎漫画』には、さまざまなジャンルのイラストが掲載されています。 また、後半になるにつれて珍しいユニークな絵も増えていくため、その違いを楽しむのも良いでしょう。 珍しい題材としては、お化けや仙人、妖怪なども描かれています。 葛飾北斎は偉大な浮世絵師だった 『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などの名作を生み出した、偉大な浮世絵師である葛飾北斎。 浮世絵師を目指す人からは、尊敬のまなざしで見られ、多くの人が葛飾北斎のもとで絵を学びたいと思ったことでしょう。 『北斎漫画』を出すころには、一人では見きれないほどの弟子を抱えていました。北斎が直接手をかけられなくても、多くの絵師が技術を上げられるよう、指南書となる北斎漫画を発行したのでした。 今では芸術作品としての価値が高い『北斎漫画』。 もとは、弟子たちに向けた絵手本であったことを踏まえて鑑賞してみると、また違った視点で楽しめるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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海外にも浮世絵師がいた?知られざる外国人浮世絵師たち
江戸時代は、1603年から1868年と265年もの長い年月、平和で安泰な時代でした。 長く平和な時代の中で人々は娯楽を求め、その一つとなったのが浮世絵です。 江戸時代初期から後期、そして現代に至るまで人々の娯楽として長く親しまれてきた浮世絵。 日本の伝統的な浮世絵が日本の開国を機に、どのように世界へ影響を与えたのか気になる人も多いでしょう。 また海外では、浮世絵に衝撃を受けた外国人たちが浮世絵師を目指す動きもありました。 日本の浮世絵に魅せられた、外国人浮世絵師たち 19世紀後半、日本の鎖国が終わると日本の芸術品や工芸品は、海を渡りヨーロッパやアメリカの画家たちに大きな衝撃を与えました。 浮世絵をはじめとした日本の美術品に見られる技法は、美術品以外にも建築やインテリアなどのさまざまな分野に影響を与えました。 それまでの西洋美術には見られなかった、自然への慈しみや余白の美しさ、そして非対称な表現などは、その後の西洋美術の画家たちの作風にも表れています。 ヘレン・ハイド 作家名:ヘレン・ハイド 生没年:1868年-1919年 代表作:『母と子』『田圃から』 ヘレン・ハイドは、1868年アメリカ合衆国のカリフォルニア州で生まれた女性版画師です。 ヘレン・ハイドは、1899年に来日し、翌年にはエミール・オルリックより木版の技術を学んでいます。 のちに、幕末から明治時代に活躍した日本画家の狩野友信から日本画の技術を学び、浮世絵師となりました。 ヘレン・ハイドは、日本の風景や日常生活を題材にした作品を制作し、その繊細かつ精巧な技術により注目を集めました。 中でも、当時の日本風俗を西欧人女性の視点から描いた『母と子』は、多くの日本人女性の共感を呼び、高い評価を得ています。 エミール・オルリック 作家名:エミール・オルリック 生没年:1870年-1932年 代表作:『日本の摺師』『日本の絵師』 エミール・オルリックは、1870年オーストリア生まれの版画家です。 幼いころから絵の才能を発揮し、私立絵画学校やミュンヘン美術院で美術や歴史画を学びました。 在学中に日本の浮世絵に強い影響を受け、エッチングやリトグラフなどの版画制作も学んでいます。 世界各地を旅しながら新しい技法を次々に学んでいき、一つのスタイルやジャンルにとらわれることなく、絵画作品を制作していました。 版画家としては、風景画や肖像画などさまざまな作品を制作しており、特に人物画において高い評価を得ています。 なお、エミール・オルリックは、狩野友信から日本画の筆法を学んでおり、その技法をヘレン・ハイドに教えています。 フリッツ・カペラリ 作家名:フリッツ・カペラリ 生没年:1884年-1950年 代表作:『柘榴に白鳥』『濠端の松』 フリッツ・カペラリは、1884年オーストリア生まれの版画家です。 第一次世界大戦の影響により、帰国できず日本に滞在していたフリッツ・カペラリは、1914年に在日オーストリア・ハンガリー大使館で、日本の風景をモチーフにした絵画の個展を開催しています。 1915年、新しい絵を描くための参考資料として複製の浮世絵を探しているとき、京橋にあった渡辺版画店で、版元の渡辺庄三郎と出会いました。 フリッツ・カペラリは、渡邊庄三郎にすすめられ、木版画の制作を始めたといわれています。 また、渡邊庄三郎と協力し、西洋の技法と日本の伝統的な技法を融合させた「新版画」を確立させました。 フリッツ・カペラリの作品は、日本の風景や美人画、花鳥画などが中心です。 葛飾北斎や鈴木春信、伊藤若冲などの影響があったことが作品を通して感じ取れます。 エリザベス・キース 作家名:エリザベス・キース 生没年:1887年-1956年 代表作:『朝鮮の人』『寺の賑い(朝鮮、金剛山)』 エリザベス・キースは、1887年スコットランド生まれの版画家です。 28歳のころ、日本で新東洋と呼ばれる雑誌を刊行していたロバートソン・スコットと結婚していた姉のエルスペットを訪ねて、初めて来日しました。 日本で見た風景や風俗に感動したエリザベス・キースは、浮世絵の技法を学び始めました。 その後、版元の渡邊庄三郎と出会い、木版画を多数制作しています。 姉と朝鮮や中国、シンガポール、フィリピン、東南アジアを旅しながら、各国の風景や暮らしを木版画で表現しました。 エリザベス・キースの作品は、高い描写力や原色を使った鮮やかで装飾的な色彩、構図の安定性などが特徴で、臨場感のある版画が多く残されています。 リリアン・メイ・ミラー 作家名:リリアン・メイ・ミラー 生没年:1895年-1943年 代表作:『雨中の傘』『紅葉の滝』 リリアン・メイ・ミラーは、1895年アメリカ生まれの女性版画家です。 9歳のころから3年間、狩野友信に日本画の筆法を学んでいます。 のちに、12歳からは歴史画を得意とする島田墨仙から水墨画や日本画を学び、「玉花」の号を与えられました。 1920年ごろ、渡邊庄三郎と出会い、木版画の制作を始めました。 リリアン・メイ・ミラーの作品には、浮世絵の影響を受けているものが多くあります。 このほかにも、『芝居小屋の通り』を描いたバーサ・ラムや、池田輝方・池田蕉園に師事したポール・ジャクレーなどがおり、多くの外国人浮世絵師が活躍していたとわかるでしょう。 多くの外国人を魅了したジャポニズムの影響 ジャポニズムとは19世紀後半〜20世紀はじめに、日本の美術品が西洋の芸術に影響を与えた現象を指します。 西洋の芸術家たちは、日本美術からインスピレーションを得て、それぞれの作品を制作しています。 ゴッホやモネなどのように、浮世絵の手法を取り入れた画家もいれば、実際に浮世絵を描いた画家(浮世絵師)もいることがわかりました。 現代のように、まだ日本が諸外国と頻繁に行き来していない時代や、戦争があった時代でも、こうして浮世絵に魅せられた外国人絵師がいたのです。
2024.11.15
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