目次
浮世絵が世界中で流行したきっかけとは
19世紀後半、海外では日本美術が多くの画家に影響をおよぼすジャポニスムが流行しました。
ジャポニスムとは、西洋が東洋をどのように見て、描き、理解していたかを研究する学問であるオリエンタリズムの延長にある東洋美術への憧れを表現したもので、開国して以降、日本から海外へ伝わった江戸の浮世絵がジャポニスムの中心となっていました。
西洋画壇でも浮世絵愛好家が多く登場し、作品をコレクションする者から、自身の作品に浮世絵の技術や技法を取り入れる者までおり、浮世絵はさまざまな形で西洋美術に大きな影響を与えたのです。
また、絵画や版画の世界だけにとどまらず、西洋の芸術文化全体に新しい風を吹き込んだともいわれています。
1867年のパリ万国博覧会
ジャポニスムが流行するきっかけを作ったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会であるといわれています。
パリ万博は、フランスの首都で開催された万博で、最新の科学技術や産業技術、芸術作品、製品などを展示する国際的な博覧会です。
幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍「徳川慶喜」がこれを受け、日本美術の出品が実現しました。
江戸幕府は、狩野派の掛軸や画帳、浮世絵を出品、薩摩藩は、薩摩や琉球の特産物、佐賀藩は、磁器などを出品しました。
パリ万博は42カ国が参加し、来場者1500万人と大成功を収めており、このとき多くの人々に日本美術が注目されることになります。
日本美術は、これまでの西洋にはない大胆な構図と鮮やかな色彩などの特徴をもっており、西洋の芸術家たちからすると斬新で新鮮なものに映ったのです。
西洋画では、宗教や神話をモチーフにした絵がメインでしたが、日本の浮世絵では一般大衆の日常生活や風景などを描いた風俗画がメインでした。
また、シンメトリーな構図や遠近法など、西洋画が重視していた技法を使用しない独自の構図も衝撃を与えました。
その後、パリ万博は1878年、1889年、1900年、1937年と開催され、すべての博覧会に参加した日本の美術は、海外に広く知れ渡り、ジャポニスムの流行は1910年代ごろまで続いています。
鎖国中もオランダへの輸出品の包装紙として使われていた
ジャポニスムの流行を作ったのは、パリ万博への日本美術の出品が大きな理由の一つとされていますが、実はそれよりも前に、日本の浮世絵はヨーロッパに渡っていました。
江戸時代、日本はヨーロッパに茶碗をはじめとした陶器を輸出しており、陶器が割れないよう緩衝材として、浮世絵が使われていたのです。
何気なく丸められた紙を広げてみると、そこには日本の自然や人々の暮らしが鮮やかな色彩で生き生きと描かれていました。
中でも、浮世絵師の葛飾北斎が描いた『北斎漫画』は、西洋人に大きな衝撃を与えました。
パリで活動していた版画家のフェリックス・ブラックモンが、包装紙として使われていた『北斎漫画』を偶然目にし、デッサン力の高さに衝撃を受け、仲間の画家たちに広めたことで、印象派の画家に影響を与えたともいわれています。
ヨーロッパに浮世絵を広めた画商「林忠正」
林忠正
生没年:1853年-1906年
林忠正は、初めて西洋で日本美術品を商った日本人といわれています。
パリ万博での仕事をきっかけに、日本美術や工芸品を広めようと決意した忠正はパリで日本美術を取り扱う店を構え、西洋の日本美術愛好家たちからの興味や関心を引き、ジャポニスム隆盛のきっかけを作りました。
パリ万博をきっかけに日本美術への理解と興味を深める
忠正は、ちょうど3回目のパリ万博が開催されていた年に、貿易商社の起立工商会社通訳として雇われ、パリに渡ります。
当時、パリ万博の影響もあって日本美術は西洋から関心を寄せられつつありました。
忠正は、万博で日本の展示品を鑑賞した画家や評論家の前で、流暢なフランス語で作品の解説を行い、熱心な解説がさらに海外の人々が日本美術への理解と興味を深めることを手助けしたといえます。
また、忠正自身も日本美術への理解と興味を深めていきました。
パリに滞在し日本美術を扱う店を創設する
パリ万博が終了した後も、忠正はパリにとどまり、日本の美術品を取り扱う店を創設しました。
起立工商会社の副社長だった若井兼三郎とともに、美術新聞のルイ・ゴンスが主筆となり刊行していた『日本美術』に携わりながら、本格的に日本美術を学んでいったのです。
忠正は、ヨーロッパに日本美術を広めるために、工芸品や絵画を日本から直接輸入しました。
当時、日本での浮世絵は卑しいものとして捉えられていましたが、忠正はその価値を誰よりも早く察知し、芸術性を認めるべきであると日本人に対しても訴えています。
1886年には、世紀末のパリを代表する『パリ・イリュストレ』というビジュアル誌の日本特集号にフランス語の記事を寄稿し、2万5000部の大ベストセラーとなりました。
日本に初めて印象派の作品を紹介した人物でもある
1900年に開催されたパリ万博では、民間人として初となる事務官長に就任し、日本の出展ブースのプロデューサーとして、日本美術作品の魅力を世界にアピールするべく尽力しました。
また、長年美術界に貢献したとして、フランス政府からは教育文化功労章1級やレジオン・ドヌール3等賞などが贈られています。
フランス印象派の画家たちとも親交を深めるようになり、印象派の作品を日本へ初めて紹介したのも忠正であるといわれています。
忠正は、印象派の巨匠とも呼ばれているマネと親しく交流した唯一の日本人ともいわれているのです。
1905年に帰国した際は、約500点ものコレクションを持ち帰り、西洋近代美術館を建設しようと計画を立てます。
しかし、その夢を果たすことなく翌年に東京にて亡くなってしまいました。
国立西洋美術館が建設されたのは、忠正が亡くなってから50年後のことでした。
ヨーロッパでジャポニスムが流行した理由は?
ジャポニスムが流行したのは、日本美術が西洋美術にはない特徴をもった絵画であったからであると考えられます。
自由なテーマ
当時のヨーロッパでは、宗教画や肖像画が主流であり、風景画は少数派でした。
絵画は、厳粛なテーマが多く、表現にも一定の制約があり、新鮮さのある作品があまり生まれない時代となっていました。
しかし、浮世絵はヨーロッパの絵画の概念を覆す特徴をもっていたのです。
浮世絵は、一般大衆の日常生活を描いた娯楽に近い作品であったため、美人画から役者絵、武者絵、花鳥画、風景画、相撲絵、妖怪画、春画など、テーマは多岐にわたります。
テーマに縛られることなく自由な浮世絵は、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたのでした。
多彩なテーマで描かれた浮世絵は、西洋の芸術家たちに大きなインスピレーションを与え、19世紀の美術界において革命をもたらすきっかけとなりました。
ダイナミックな構図
浮世絵は、西洋絵画にはないダイナミックな構図も特徴の一つです。
西洋絵画では、陰影や遠近法を用いて写実的な表現に焦点を当てていましたが、浮世絵では現実にはあり得ないであろう大胆な構図や誇張表現によって、ダイナミズムやリズム感を強調しています。
たとえば、北斎の『神奈川沖浪裏』では、圧倒的な迫力をもつ波が、人々を乗せた舟の上に覆いかぶさろうとしているかのようにデフォルメされて描かれ、一方で、背後には小さく富士山が描かれています。
一枚の絵の中に、現実ではあり得ない誇張されたシーンが描かれており、違和感なく見る者の心を惹きつけるその変幻自在な構図は、西洋の人々に大きな衝撃を与えました。
明るく鮮やかな色彩
浮世絵の大きな特徴は、そのポップで鮮やかな色彩です。
西洋絵画では、濃厚で深みのある色合いが好んで使われており、鑑賞する者に迫力や重みを感じさせる作品が多く描かれていました。
一方、日本の浮世絵では、明るく軽やかな色彩が多く、ポップな雰囲気のある作品が多くあります。
西洋の人々は、今までにない色使いに新鮮さを覚え、ジャポニスムの流行を作るきっかけとなったともいえるでしょう。
浮世絵の鮮やかな色彩により生み出される明るいポップな雰囲気は、西洋の伝統的な色使いに新しい視点をもたらし、のちの芸術運動にも大きな影響を与えたと考えられます。
大胆な余白による抜け感
浮世絵は、画面をすべて覆いつくすのではなく、大胆な余白を作りバランスを取る特徴があります。
西洋絵画では、画面を埋めつくす描写が一般的であり、背景には空や雲、壁、影など自然の風景や街の景色が全面に描かれました。
一方、浮世絵では、何も描かない空間をあえて作り、鑑賞する者に広がりや静けさを感じさせます。
余白は、多くの日本美術に見られる空間を活かした美意識ともいえ、絶妙な空白の感覚が、西洋の人々の目には新鮮に映り、無駄なものを排除し洗練された作品として魅力的に見えたといえるでしょう。
一つのテーマに特化した連作
浮世絵では、連作による作品制作が多く行われていました。
たとえば、北斎の『富嶽三十六景』や『富嶽百景』、歌川広重の『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などです。
連作は、一つのテーマを別々の視点から描いたり、季節や時間をずらして描いたりすることで、変化を楽しめるのが魅力の一つです。
当時の西洋絵画では、シリーズ作品や一つのテーマに対して繰り返し制作を行う方法は、一般的ではありませんでした。
そのため、西洋の芸術家たちは、連作の浮世絵がもつ独自の魅力に心惹かれ、大きな影響を与えたと考えられます。
印象派の画家であるモネは、浮世絵の連作からインスピレーションを得て『睡蓮』シリーズを描いたといわれています。
連作は、一つひとつの作品を独立した芸術として楽しむこともできれば、比較して季節や時間の移り変わりによって変化する表情を楽しむことも可能です。
浮世絵の連作は、西洋の芸術家たちの作品の捉え方や創作時のアプローチ方法に、新たな風を吹き込んだといえるでしょう。
安価で手に入りやすい
当時の日本で浮世絵は、大衆の娯楽品として手ごろな価格で流通していました。
浮世絵は芸術品ではなく、大衆の娯楽や情報を伝えるためのメディアとしての働きをもっており、さらに大量生産を可能とする仕組みができあがっていたため、多くの人々が浮世絵を手にする機会を得ていました。
多くの西洋絵画は、1点ものであり、制作にたくさんの時間と労力がかけられていたため、絵画といえば貴重で高価なものと考えていた人は多かったと考えられます。
そのため、浮世絵の量や種類の多さが収集家の心に火をつけ、貴重な作品を探しながらコレクションしていく熱狂性を生み出したといえるでしょう。
浮世絵に影響を受けた海外の芸術家
浮世絵は、西洋の鑑賞者だけではなく有名な芸術家たちにも大きな影響を与えています。
浮世絵からインスピレーションを受けた有名画家には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホなどがいます。
エドゥアール・マネ
エドゥアール・マネは、近代美術の父とも呼ばれる画家で、19世紀パリのモダニズム的な生活風景を描いた作品で有名です。
代表作『オランピア』は、浮世絵の影響を受けているといわれており、透視図法や立体感を作り出す陰影など西洋絵画の技法が取り除かれ、はっきりとした輪郭線が描かれています。
浮世絵のテーマとしては一般的で、西洋絵画ではあまり見られない『舟遊び』を描いた作品では、メイン以外を省略し、遠近法を使わず俯瞰的で大胆な浮世絵のような構図を取り入れています。
また、小説家のエミール・ゾラの肖像画では、背景に襖絵や相撲絵などを描き入れていることから、浮世絵をはじめとした日本美術に関心を寄せていたことがうかがえるでしょう。
クロード・モネ
クロード・モネは、印象派の画家であり、ジャポニスムから強い影響を受けた芸術家の一人です。
浮世絵の空間描写や光の色彩表現に心酔していたモネは、主題の選び方や俯瞰的な視点、平行線を用いた幾何学的な構図、両端をカットする大胆な配置など、浮世絵がもつ独自の特徴を巧みに西洋画に取り込んでいきました。
また、1876年には妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を制作しており、着物姿の女性が後ろ向きの体勢から身体をひねり振り返る構図で描かれています。
この女性が振り返るポーズは、浮世絵師である菱川師宣の『見返り美人図』を思わせます。
モネの代表作『睡蓮』シリーズは、琳派の屏風絵に影響を受けているともいわれており、また描かれた太鼓橋は、歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている太鼓橋をモデルにしているともいわれているのです。
フィンセント・ファン・ゴッホ
『ひまわり』で有名なポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に大きな影響を受けた芸術家の一人です。
ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰りパリで店を開いたとき、ゴッホは店でいくつもの浮世絵を鑑賞しました。
浮世絵にはまったゴッホは、生涯で約500点もの浮世絵を収集したといわれています。
中でも、歌川広重の作品を大変気に入っており、広重の代表作『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油絵で模写しています。
また、ゴッホがお世話になっていた画材屋の店主を描いた『タンギー爺さん』の背景には、浮世絵師の渓斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』や、広重の『冨士三十六景 さがみ川』などの浮世絵が描かれました。
ジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらなかった
浮世絵をはじめとした日本美術が、西洋の画家たちに大きな影響を与えたとする話は、聞いたことがある人も多いでしょう。
しかし、日本美術が海外へ影響を与えたのは、絵画ジャンルだけではありませんでした。
特に、19世紀後半に大流行したジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらず、工芸や作曲など、あらゆる芸術分野に影響を与えました。
パリ万博をきっかけに上流階級層が浮世絵を評価するようになってコレクターが次々と現れ、そこからさらに浮世絵を販売する商人も登場するようになり、さまざまな分野に浮世への魅力が広がっていったのです。
ガラス工芸家のエミール・ガレ
ガラス工芸家のエミール・ガレは、自然の中に咲いている花や生き物に焦点を当て、繊細な表現で作品に落とし込んでいました。
当時の西洋美術では、山や木などの自然風景を描くことはあっても、自然に生きる花や鳥などの小さな生命たちに焦点を当てる概念がほとんどありませんでした。
そのため、日本の花鳥画や工芸品の自由な花鳥の表現は、西洋の人々には新鮮に映ったことでしょう。
ガレは、当時の西洋で不吉な虫とされていたトンボをたびたび作品に登場させており、北斎の花鳥画『桔梗に蜻蛉』が大きなインスピレーションになっているといわれています。
日本の浮世絵をきっかけに、今までの西洋美術にはなかったモチーフを用いた作品制作に挑戦したともいえるでしょう。
作曲家のクロード・ドビュッシー
『月の光』をはじめとしたクラシック音楽の作曲家として有名なドビュッシーも、浮世絵や日本の美術品に影響を受けた芸術家の一人です。
ドビュッシーは、絵画作品から着想を得て作曲をしていたといわれており、当時流行していたジャポニスムにも強い関心をもっていました。
浮世絵や仏像などを収集しており、ドビュッシーの代表作『海』の楽譜の表紙には、北斎の『神奈川沖浪裏』をイメージした絵が描かれています。
『海』という曲のイメージに北斎の作品がマッチするとして採用されたと考えられます。