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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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歌舞伎の定式幕の色にはどんな意味がある?
江戸時代に形式が確立され、長く日本で親しまれてきている歌舞伎。 日本の伝統芸能の一つでもあり、現代では海外からも人気の高い演劇です。 歌舞伎を見に行くと、舞台で最初に目にする黒・オレンジ・緑の3色で構成された幕。 目を引く色合いのこの幕の目的や意味を知らない方も多いでしょう。 歌舞伎を楽しむうえで、歌舞伎で活用されている道具たちの意味を知ると、より楽しみ方や視野が広がるかもしれません。 歌舞伎のあの”幕”の色には意味があった 歌舞伎の舞台で利用されている3色の幕は、定式幕といいます。 舞台上を隠すように覆っている定式幕には、実は意味があるのです。 定式幕の色の違いや意味などを知り、歌舞伎鑑賞の魅力を深めていきましょう。 歌舞伎で使われる「定式幕(じょうしきまく)」 定式幕とは、歌舞伎で利用される3色の幕で、江戸時代から利用されています。 定式には、一定の方式・形式、決まっている儀式などの意味があります。 歌舞伎では、大道具や小道具、衣装などさまざまなものが利用されます。 その多くは、公演の演目や登場する役柄によって何が必要であるか決まっているのです。 その中でも定式幕は、毎度利用される道具であることから定式幕の名がつきました。 定式幕は、歌舞伎の中で幕開きと終幕のタイミングで使われます。 舞台が始まる前、舞台の上は定式幕で隠されています。 演目がスタートすると、定式幕は舞台に向かって左側から右側に人力によって開かれる仕組みです。 終幕を迎えると、定式幕を右側から左側に向かって引き、舞台を閉じます。 西洋の舞台で用いられる幕は、一般的に上下に開閉されますが、日本伝統の歌舞伎公演で用いられる定式幕は、左右に開閉する特徴があります。 定式幕はなぜ3色? 定式幕にはなぜ特定の3色が利用されているのか、気になる人も多いでしょう。 しかし、この3色の配色になった明確な理由は判明していません。 一説では、伝統文化と深いつながりのある「陰陽五行説」が関係しているといわれています。 陰陽五行説とは、陰陽説と五行説からなる説です。 陰陽説は、この世のすべては、陰と陽の2つの要素から成り立っているという思想で、五行説は、この世のすべてを5つの要素にたとえ、絶えず変化しバランスを取りながら支えあっているという思想です。 五行説で登場する5つの要素には、それぞれに色が存在します。 歌舞伎の定式幕で利用されている3色は、この五行説の中に登場する5色からきているのではないかといわれています。 江戸三座(中村座・市村座・森田座) 歌舞伎に利用されている幕といわれると、黒・オレンジ・緑を思い浮かべますが、実は定式幕に利用されているのは、この3色だけではありません、また配色の並びも、実は1つではないのです。 定式幕の配色と並びは、江戸三座で異なります。 江戸三座とは、江戸町奉行所に舞台の公演を許可されていた、中村座・市村座・森田座の3つの歌舞伎の芝居小屋を指しています。 芝居小屋ごとに定式幕が異なっているのが特徴です。 中村座では、左から順に黒・白・オレンジが利用されています。 市村座では、左から黒・緑・オレンジの順で配色されています。 森田座では、左から黒・オレンジ・緑の並びとなっており、それぞれに違いがあるとわかるでしょう。 特に中村座では、緑の代わりに白が利用されており大きな違いがあります。 江戸時代から続く歌舞伎鑑賞を楽しもう 歌舞伎は、日本に古くから存在する伝統芸能で、江戸時代に確立されてから今日まで多くの人々を楽しませてきました。 歌舞伎の魅力は、舞台の演目そのものはもちろん、長い歴史の中で育まれてきた文化にもあります。 歌舞伎の楽しみ方は人それぞれ異なります。 舞台のストーリーを楽しむのもよし、役者の演技力に注目するのもよし、自分が興味のあるものに着目して鑑賞しましょう。 定式幕を意識するのも一つの楽しみ方で、座による違いがあることを知りチェックしてみると、より違った視点からも歌舞伎の干渉を楽しめるのではないでしょうか。
2024.12.01
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浮世絵に見る歌舞伎模様とその種類
歌舞伎は、日本の演劇であり伝統芸能の一つです。 はじまりは、京都で出雲阿国が始めたやや小躍りやかぶき踊りであるとされており、江戸時代に発展し現在の歌舞伎へと変化していきました。 歌舞伎模様にはどんな種類があった? 歌舞伎役者が身に付けていたものの柄は、江戸の女性たちや江戸っ子たちの間でしばしば流行りを見せていました。 演目を見に行った人たちだけではなく、浮世絵に描かれた歌舞伎役者の衣装も多くの人々の目を引きつけていたのです。 歌舞伎模様とは 歌舞伎模様とは、歌舞伎衣装をもとにした模様を総称したものです。 歌舞伎役者が身に付けていた衣装は、江戸時代の大衆の注目を浴びていました。 当時、歌舞伎役者は演出効果を狙い衣装に凝っていました。 また、大衆も歌舞伎役者衣装の柄を模倣して身に付け、歌舞伎模様は流行のものとなっていたのです。 歌舞伎役者が生み出した流行は、衣装の色や柄、帯の結び方、髪形、かぶりもの、役者の紋所、履物など多種多様です。 浮世絵や呉服屋の売り出しが流行を後押しして、江戸の女性たちはみな、浴衣や手ぬぐいなどに役者模様を取り入れていました。 有名な歌舞伎模様 歌舞伎役者が身に付けていた歌舞伎模様には、さまざまな種類があります。 多彩な歌舞伎模様の特徴を知ると、浮世絵を鑑賞したときに、着物にも着目して違った楽しみ方ができるでしょう。 市松模様 有名な歌舞伎模様の一つに、市松模様があります。 市松模様とは、異なる色彩の2つの四角形を交互に並べた格子柄です。 現代では、チェック柄とも呼ばれています。 また、見た目が石畳に似ていることから、石畳と呼ばれることもありました。 市松模様の流行を作ったのが、歌舞伎役者の「佐野川市松」です。 佐野川市松は、江戸の中村座で演じた「高野心中」の小姓役で人気を集めました。 その舞台で身に付けていた袴が市松模様であったことから、当時江戸を生きる女性たちの間で大流行したのです。 市松模様は、柄が途切れることなく連続していることから、繁栄を象徴しています。 そのため、市松模様には子孫繁栄や事業拡大などの願いが込められ、縁起の良い柄として多くの人々に親しまれています。 弁慶格子 弁慶格子は、2色の縦模様と2色の横模様が交差した柄です。 現代では、ギンガムチェック柄とも呼ばれています。 歌舞伎の演目「勧進帳」に登場する山伏姿の武蔵坊弁慶が、舞台衣装でこの柄をまとっていたことから弁慶格子と呼ばれるようになったそうです。 演目時の弁慶の衣装は、白地にグレーと黒で格子柄が作られていました。 格子の幅は、約6cmと広く作られており、縦よりも横のほうがやや太く作られています。 もとは白・黒・グレーを基調としたものが主流でしたが、藍色や柿色の格子柄もあり、「藍弁慶」や「柿弁慶」と名称が分けられ区別されていました。 浮世絵にも、弁慶格子を身に付けた女性の姿が残されています。 歌川国芳が描いた『縞揃女弁慶』では、作品名のとおり弁慶格子を身にまとった女性が描かれています。 鎌輪ぬ文様 (かまわぬ) 鎌輪ぬ文様とは、「鎌」「〇」「ぬ」の3文字で構成された柄で、「構わぬ」と読ませて荒ぶる江戸っ子の心意気を表現しています。 そもそもは、元禄時代に町奴(町人出身の侠客)が、火も水もいとわず身を捨てて弱きものを助けるという意思を宣言するために身に付けられたのがはじまりといわれています。 この文様を江戸の流行の渦に巻き込んだのが、七代目市川團十郎です。 市川團十郎は、近世後期の江戸歌舞伎を代表する役者で、「歌舞伎十八番」を制定した人物としても知られています。 卓越した演技力で人々の注目を集めていた市川團十郎が身に付けていた奇抜で大柄の文様を染め抜いた着物は、多くの江戸町民を魅了しました。 斧琴菊文様 斧琴菊文様とは、「斧」「琴」「菊」の文字または絵で構成された柄で、「よきこときく」と読ませたデザインです。 七代目市川團十郎とともに当時の歌舞伎で活躍していた三代目尾上菊五郎が好んで身に付けていたことから、江戸の女性たちの間で流行しました。 江戸時代の歌舞伎役者はファッションリーダーでもあった 江戸時代に活躍していた歌舞伎役者は、当時の人々にとってファッションの手本となっていました。 多くの庶民は、舞台上の歌舞伎役者の姿に憧れていました。 また、浮世絵でも歌舞伎役者の衣装は彩り豊かに描かれており、さらに歌舞伎模様の流行を広めたともいえるでしょう。
2024.12.01
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土用の丑の日はいつから始まった?
土用の丑の日に鰻を食べる。 この行動が、無意識のうちに習慣づいている人も多いのではないでしょうか。 しかし、なぜ土用の丑の日と呼ばれているのか、なぜ鰻を食べるのか、その理由を知らない人も多いでしょう。 土用の丑の日の由来や鰻を食べる理由を知ると、もっと土用の丑の日の鰻を楽しめます。 なぜか鰻が食べたくなる… 土用の丑の日に食べられる鰻やうな丼は、江戸時代にはすでに人々の間で食べられていました。 うな丼については、大久保今助と呼ばれる人物が考案したといわれています。 鰻の出前を頼んだとき、鰻だけで運んでいると到着したときには冷めてしまいます。 鰻は冷めてしまうとおいしくないということで、温かいご飯と一緒に頼むことを思いつきました。 出前では、鰻を温かいご飯の間に挟み、冷めないようにしたのでした。 これがうな丼のはじまりといわれています。 鰻は江戸時代から多くの人々に親しまれている食材です。 江戸時代に描かれた浮世絵にも、店頭で鰻をさばく様子とそれを堪能する人々の姿が残されています。 「土用の丑の日」はいつからはじまった? 土用の丑の日に鰻を食べる習慣はいつごろからはじまったのでしょうか。 このきっかけを作ったのは、平賀源内といわれています。 平賀源内とは、江戸時代の発明家と呼ばれる人物です。 卓越した才能と奇想天外なアイディアから、文系や理系、芸術系に至るまで、あらゆる分野で活躍しました。 好奇心が旺盛で、鎖国により外国との交流が少なかった時代にも、積極的に西洋技術や学問を吸収し、江戸時代の日本で発明を発信し続けました。 その平賀源内が、知り合いのうなぎ屋にお客さんをもっと呼び込みたいとお願いをされて「本日、土用丑の日」というキャッチコピーを考案し、土用の丑の日に鰻を食べる習慣が誕生したといわれています。 古くから日本では、土用の丑の日に「う」がつく食べ物をいただく習慣がありました。 これは、「う」がつく食べ物は縁起がいいとされ、無病息災を願う習わしがあったためです。 当時、食べられていた「う」のつく食べ物は、梅干しやうどん、ウリ類などです。 そこで、平賀源内は「う」のつく鰻を、土用の丑の日の食事としてクローズアップしたのでした。 このキャッチコピーは大盛況を生み、夏バテに鰻が効くこともあいまって、以降土用の丑の日に鰻を食べる習慣が根付いたといえるでしょう。 今も残る、平賀源内の販売戦略 平賀源内が江戸時代に発明した販売戦略は、現代にも引き継がれています。 また、鰻は古くから日本人の間で親しまれている食べ物であると分かりました。 今でも、土用の丑の日には、多くの鰻が売られています。 なお、土用の丑の日の「土用」は、中国の五行説に由来する言葉です。 旺盛に働くという意味の「土旺用事」から来ており、暦にあてはめられ立春・立夏・立秋・立冬の直前にあたる約18日間を指すようになりました。 特に、暑さで体調を崩しやすい夏の土用の日が、日本では古くから重要視されています。 江戸時代から続く、土用の丑の日に鰻を食べる習慣の由来を知ると、まんまと平賀源内の販売戦略に踊らされてしまったのかと感じるとともに、古くから親しまれている鰻を食べるきっかけの日を作ってくれたともとれるでしょう。 土用の丑の日には、ぜひ鰻やうな丼を楽しんでください。
2024.12.01
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江戸時代の庶民はどんな食事をしていた?
江戸時代は、肉食が禁止されており、今のように食の多様性は見られないため、庶民がどのような食事をとっていたかイメージが湧きづらい人も少なくないでしょう。 江戸時代における庶民の食事がどのようなものだったのか、当時の庶民の生活を色濃く描いていた浮世絵を通じて知れる場合があります。 江戸時代の庶民はどんな食事をとっていた? 肉食が禁止され、食品加工技術が今ほど発達していなかった江戸時代において、庶民はどのような食事をとっていたのでしょうか。 冷蔵庫もなければ冷凍庫もないため、食品の長期保存もできず、現代より食べられるものが限られている印象があります。 ご飯を炊くのは1日1回 江戸時代では、主食であるご飯を炊くタイミングが1日1回だったようです。 江戸時代の食事スタイルは、江戸時代初期においては朝夕の1日2食でした。 江戸時代中期の元禄年間には、この食事スタイルが変化し、現代にも通じる1日3食に定着したようです。 しかし、庶民の居住スペースである長屋は、土間含め6畳程度しかなく、調理スペースがかなり限られていたことは、想像に難くありません。 また、燃料も十分に備蓄できていなかったと考えられます。 薪だけでなく、燃やせるものは、古雑巾でも燃やして燃料にしていたと記録に残っているほどです。 そのため、燃料代の節約やスペースの関係上、炊飯は1日1回に留めていたようです。 食事の基本「一汁一菜」 食事は、基本的に一汁一菜の構成だったようです。 現代でも大体同じようなものと思いがちですが、実際は大きく内容が異なります。 ご飯にお味噌汁、漬物の3点が基本セットで、ときどきおかずが1品追加されていました。 食事のタイミングは、朝食が7時ごろ(明け六つ)、昼食が12時ごろ(昼九つ)、夕食が19時ごろ(暮れ六つ)とされており、食事中に白湯やお茶を飲む習慣はなかったようです。 とはいえ、食事内容は基本的に粗食で構成されており、漬物の種類はたくあん、梅干し、ぬかみそ漬け、なすび漬けなどをルーティンで回すことがほとんどでした。 奉公人に仕える町人でも、基本の3セットにおかずのイワシが一皿あった程度です。 商家の丁稚は、昼にひじきや油揚げの煮つけが着く程度、武家に関しても庶民と大きく内容が変わらなかったことから、現代と比較すると、いかに食事の内容が少ないものだったかがわかります。 醤油や砂糖、出汁…調味料が普及したのもこの頃 江戸初期までは調味料が普及しておらず、味付けの中心は塩や酢、味噌でした。 元禄年間に至ると醤油や砂糖、みりんや鰹節が普及するようになります。 結果として、さまざまな煮物料理が作られるようになりました。 現代では、マヨネーズやケチャップ、ドレッシングなどさまざまな調味料で溢れかえっていることを考えると、調味料の観点からも食生活が大きく異なっているとわかります。 江戸においては、肉体労働者が多く、味付けは、塩辛いものが好んで作られていたようです。 醤油も基本的には、薄口醤油が広く普及しており、濃口醬油は、関西からの下りものとして入手困難でした。 時代が進むと銚子や野田などで地の濃口醬油が製造されるようになったため、一気に庶民に広まったようです。 また、鍋で加熱調理するような調理方法(煮物、茹で物、汁物)が多く、魚のような高級食品は、裕福な家庭であったとしても2週間に1回程度でした。 調味料が普及したとしても、食事の内容は大きく変わらなかった印象を受けます。 飲食店や居酒屋まで! 食生活は、質素であったにもかかわらず、江戸時代にはすでに、飲食店や居酒屋までそろっていたというから驚きです。 江戸時代末期においては、鮨やそば、ウナギなどの屋台とともに、天ぷらの専門屋台が出店され、食文化の多様性が見られます。 また、それまでは屋台が中心でしたが、つまみを食べながら酒を飲むような居酒屋スタイルも増えていき、近代になるにつれて今はなじみのある外食文化が形成されました。 店舗型の飲食店としては、煮物を食べさせる煮売り屋、四文でなんでも食べられる四文屋などバラエティに富んだ店舗が運営されていた記録が残っています。 また、居酒屋の元祖は、神田川沿いで営業が始まった豊島屋とされています。 浮世絵に描かれた食事やその風景 庶民の生活を描いた浮世絵では、食事やその風景はどのように表現されていたのでしょうか。 代表的な作品を通じて当時の状況への理解を深めましょう。 『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』歌川広重 歌川広重の『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』は、道中の丸子宿で名物のとろろ汁をおいしそうに楽しんでいる人が描かれています。 酒、さかなの看板も見られることから、当時の外食文化の一面を感じられます。 『春の虹蜺』歌川国芳 歌川国芳は『春の虹蜺』と題して、ウナギを頬張るはつらつとした女性を鮮やかな色彩で表現しています。 土用の丑の日は、江戸時代に始まった文化とされているため、流行り始めたころの女性を捉えた作品であると推察できるでしょう。 『魚づくし』歌川広重 歌川広重が『魚づくし』の中でキンメダイやスズキを躍動感に溢れたタッチで表現しています。 ご飯・汁物・漬物ばかりの食事の中で魚は高級品です。 食材としての魅力に溢れた印象的な作品といえます。 江戸時代の食事の様子は浮世絵でも楽しめる 江戸時代の庶民における食事内容や食事の特徴について紹介してきました。 現代とは異なる食事内容だったため、改めて知ることで驚きがあったのではないでしょうか。 また、絵画を通じて具体的に当時の暮らしぶりを知ることは、江戸時代への興味関心を高めることにもつながります。 当時の生活状況を把握できる浮世絵は、歴史の史料的な価値や芸術的価値に富んだ貴重なもの。浮世絵を鑑賞するときは、こうした浮世絵のなかの登場人物一人ひとりの様子を見てみるのも面白いかもしれませんね。
2024.12.01
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江戸時代に大ブームとなった『水滸伝』と浮世絵の深い関係
浮世絵は、江戸時代に流行った娯楽品であり、当時の世相や風俗を表現した絵画作品です。 今では世界で注目を集めており、史料価値と資産価値の高さから人気を博しています。 さまざまな題材で描かれる浮世絵ですが、今回は『水滸伝』をモチーフにした作品について深堀していきます。 当時、なぜこの作品が浮世絵の題材として選ばれたのかを探っていきましょう。 江戸時代の『水滸伝』ブーム 浮世絵の題材として取り上げられている『水滸伝』ですが、どのような作品なのでしょうか。 浮世絵は、作品が生み出された当時のブームが如実に反映されている点が特徴です。浮世絵に取り上げられるほど、当時の人々の興味関心を集めた作品について深堀してみましょう。 『水滸伝』とは 『水滸伝』は、明時代の中国で生み出された長編小説です。 ドラマで何度も取り上げられた『西遊記』や、一度は誰しもがはまった『三国志演義』、『金瓶梅』と並ぶ「四大奇書」に数えられる名作として普及しました。 北宋末期において、中国に蔓延った官僚汚職を正すまでのサクセスストーリーを描いた作品であり、日本の『南総里見八犬伝』のモチーフにもなったようです。 さまざまな理由で社会からはじき出された108人の好漢(英雄)が各地で立ち上がり、大小さまざまな戦を乗り越えて梁山泊に集結します。 その後、汚職にまみれた官僚(官吏)に立ち向かい、国を救っていくストーリー構成です。 浮世絵だけでなく、歌舞伎でもたびたび取り上げられる題材であり、巨悪に立ち向かう、義憤にかられる内容は、人々に痛快な印象を与える小説として、大人気コンテンツとして話題になりました。 なぜ江戸時代に『水滸伝』は流行したのか 『水滸伝』は江戸初期に伝来し、漢学者の間で興味が持たれており、岡島冠山が翻訳したことで『通俗忠義水滸伝』が刊行されました。 また、翻訳版の小説だけでなく、より読みやすい絵本や挿絵入りの読本に書き換えられることで広く流通するに至りました。 作品を手に取る対象が飛躍的に増えたため、読者層は加速度的に拡大します。 また、作品の舞台を中国から日本に置き換えた山東京伝の『忠臣水滸伝』や、曲亭馬琴の『傾城水滸伝』、『南総里見八犬伝』が生み出されたことによって、さらに人々の生活のなかで『水滸伝』が認知されるようになりました。 その結果、庶民の間で『水滸伝』のブームが沸き起こり、浮世絵の世界にもブームは波及することとなります。 歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵の中でも武者絵としてひとつのジャンルを切り開くまでに至りました。 さらに、狂歌や見世物も『水滸伝』を題材にした作品を生み出すことで、江戸末期には大衆文化を形づくるまでになりました。 浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 歌川国芳の代表的な浮世絵作品に『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』があります。 浮世絵師の歌川国芳は、1797年(寛政9年)に東京で生を受けました。 実家は染物屋を営んでおり、幼少期から聡明で、わずか7~8歳で好んで浮世絵の本を読むような子どもだったようです。 特に、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたと記録されています。 幼少期から浮世絵に触れ、模写することで浮世絵にまつわる技術を学んでいました。 12歳のときに描いた『鍾馗提剣図』は、長年浮世絵を描き続けた熟練者のような作品の仕上がりと評価されています。 この作品がのちに歌川豊国の目に留まり、歌川一門に弟子入りすることで浮世絵師としてのキャリアをスタートさせています。 幼少期の優れたエピソードはあるものの、実際の下積みは大変だったようです。 しかし、中国から伝わってきた『水滸伝』をモチーフにした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を手がけたことで、一躍人気浮世絵師としてに名が広まりました。 作中の登場人物を一人ひとり描いた作品ですが、当時幅広い人々が『水滸伝』に慣れ親しんでいたことが、人気の理由として考えられています。 また、浮世絵として作品を世に出したことも人気に火が付いた要因ではないでしょうか。 浮世絵は、庶民の生活や風俗を表現した作品であったため、大衆の娯楽として幅広く消費されるコンテンツでした。 表現技法は大きく肉筆画と木版画に分かれ、木版画から派生した錦絵という技法に昇華されてから飛躍的に発展していきました。 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、多彩な色使いが特徴的な錦絵と呼ばれるジャンルの浮世絵です。 また、一つの作品だけではなく複数の作品がシリーズ化して制作されているため、連作とも呼ばれています。 好みの登場人物の絵を鑑賞するだけではなく、かかわりのある人物を並べてストーリーを膨らませながら鑑賞するのも楽しみ方の一つです。 『水滸伝』が江戸文化に与えた影響は大きかった 中国から渡ってきた『水滸伝』は、江戸時代において幅広い人々に愛される作品だったとわかります。 翻訳後の小説以外にも、オマージュ作品や狂歌として昇華しただけでなく、浮世絵の題材に用いられるなど、江戸文化に与えた影響は、大きかったといえるでしょう。 原作の『水滸伝』を読んでから、歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を鑑賞して、登場人物のイメージ合わせをしてみたり、先に浮世絵で登場人物のイメージを湧かせてからほかの作品を見てみたりするなど、さまざまな鑑賞方法を楽しめます。
2024.11.24
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