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不思議 な描写で目を惹く鈴木其一『夏秋渓流図屛風』の魅力とは
鈴木其一は、江戸琳派の祖である酒井抱一に学び、琳派の伝統を受け継ぎながらも、独自の個性的な間隔により、琳派の造形を近代絵画につないだ画家です。 代表作の『夏秋渓流図屛風』は、其一の芸術性が集約された作品で、国の重要文化財にも指定されています。 琳派に新しい風を吹き込んだ鈴木其一と『夏秋渓流図屛風』 其一は、俵屋宗達や尾形光琳、酒井抱一と続いてきた琳派の系譜をさらに発展させ、大胆かつ斬新な表現方法により、現在でも高い評価を受けています。 本作は、江戸琳派の奇才とも称される其一の作風が見事に表現されており、従来の琳派の枠にとどまらない自由で大胆な構図が魅力の一つです。 渓流の流れや自然の移ろいを巧みに描いた本作は、近代絵画への先駆けともいわれ、其一の芸術的探求が具現化された作品です。 琳派を代表する鈴木其一が描いた『夏秋渓流図屏風』とは 作品名:夏秋渓流図屏風 作者:鈴木其一 制作年:19世紀 技法・材質:紙本金地着色(6曲1双) 寸法:(各)縦165.8cm 横363.2cm 所蔵:根津美術館 鈴木其一の代表作『夏秋渓流図屛風』は、檜の林と岩間を流れる渓流が描かれた六曲一双の屏風です。 本作では、左側に夏の風景が、右側には秋の風景が広がり、対比が際立っています。 夏の景色には、鮮やかな緑色の葉と咲き誇るヤマユリが印象的に描かれ、秋の場面では、桜の葉が深紅に染まり、季節の移ろいを巧みに表現しています。 本作は、限定されたモチーフの中で、強烈な色彩の対比と、独特な描写の妙が楽しめる点が魅力の一つです。 植物や川の緑青や群青の色彩が金地と対照をなす部分は、みる者の心を惹きつけます。 さらに、複雑な形をした岩肌をアメーバのように這う渓流、樹皮やヤマユリ、紅葉、桜の葉などの克明な描写は、リアルで生々しさがありながらも、非現実的な独自の世界観を生み出しています。 また、極端に単純化された岩笹をはじめとした自然のディティールと精密な描写の組み合わせは、みる者に不思議な感覚を与えるでしょう。 不思議な描写表現により、『夏秋渓流図屛風』が風景描写にとどまらないことを強く印象づけています。 写実性とデザイン性を融合させた奇妙な作品 琳派といえば装飾的でデザイン的な作風が想像されますが、鈴木其一の『夏秋渓流図屛風』は、現実の風景をスケッチしたかのような写実性が強調されています。 しかし、一見するとリアルな風景画のように見えますが、細部をよく鑑賞していくと、独特なデザイン性が潜んでいるのがわかります。 たとえば、夏の場面に描かれたヤマユリは、葉の裏まで精密に描かれ、まるで実物を見ているかのようなリアルさが感じられますが、一方で、クマザサの葉は単純化され、すべてが正面を向くという非現実的なデザインが施されているのです。 また、水流はアメーバのようにどろっとした描写がされており、檜や岩に生えた苔も、過剰なまでに多く描かれており、一見リアルな光景でありながらも奇妙な印象を与えます。 本作は、写実的な要素とデザイン化された要素が融合することで、作品全体が一種の違和感を生み出し、現実を超えた幻想的な世界観を生み出しています。 円山応挙の『保津川図屛風』を連想させる構図 『夏秋渓流図屛風』の構図は、渓流が屏風の右隻と左隻からそれぞれ手前に流れ落ちる形で描かれています。 群青と金泥で表現された水流は、透明感が欠けた不透明な塊のようにも見えます。 水流の重なり合う波と流れの大小だけで、奥行きが表現されている独特な構図は、円山応挙の名作『保津川図屛風』との関連性がうかがえるでしょう。 其一は、江戸を拠点としていた画家ですが、38歳のときに京都の土佐家で修業するという名目で、西日本を旅しています。 旅先でみたさまざまな風景をスケッチとして残しており、自然の景観や水流の描写を深く観察していたことがうかがえます。 応挙の作品も、旅の中で鑑賞した可能性があり、その影響が『夏秋渓流図屛風』に表れていると考えられるでしょう。 中国の花鳥画を思わせる画風で琳派らしさの少ない作品 『夏秋渓流図屛風』からは、中国の花鳥画を思わせる要素が強く感じられます。 一枚の絵の中に異なる質感の表現が共存する点は、中国の花鳥画に見られる特徴です。 そのため、其一は中国絵画から影響を受けていた可能性があるといわれています。 実際に、其一は中国絵画の模写的な作品も残しており、中国の技法や構成を取り入れていたと考えられるでしょう。 しかし、中国絵画がメインとなるモチーフを明確にし、周囲の要素をラフに描くことが多いのに対して、『夏秋渓流図屛風』ではリアルに描かれたヤマユリと、文様化されたクマザサのように、写実と抽象が混在し、明確なヒエラルキーが見られません。 表現の統一性の欠如が、みる者に奇妙さや不思議な感覚を与えているのです。 また、琳派では、風景を写実的に描くことは少なく、むしろ大胆な色彩や装飾的なデザインが強調されます。 『夏秋渓流図屛風』も色彩においては琳派の影響が見られますが、それ以外の要素においては琳派らしさがほとんど感じられず、むしろ異質な表現が目立ちます。 其一が描いた本作は、琳派の枠を超え、独自の芸術性を追求した結果、琳派とは異なる奇妙な魅力を放つ作品となっているのです。 琳派の作品に多彩な絵画表現を取り込んだ鈴木其一 今回ご紹介した『夏秋渓流図屛風』は、鮮やかな色彩と写実性とデザイン性が融合した奇妙な手法により、今もなお、多くの人たちの心を惹きつけています。 また、其一の描く作品の数々は、明治時代に日本を訪れていたフェノロサやフリーアなど、著名な日本美術愛好家の心をとらえ、海外の美術館でもいち早く紹介されています。 画狂や奇才とも呼ばれた其一が描くすばらしい作品を、ぜひ間近で鑑賞してみてください。
2024.11.29
- 屏風・襖絵
- 掛軸作品解説
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平安時代の合戦を描いた『平治物語絵巻』の魅力
『平治物語絵巻』とは、平安時代である1159年に起こった「平治の乱」をもとに書かれた軍記物語『平治物語』の内容を描いた絵巻物です。 『平治物語絵巻』の作者は明らかになっていない 平安時代に描かれた『平治物語絵巻』の作者は、今なお謎に包まれています。 住吉派の住吉内記が描いたとする説もありますが、確かな証拠はなく、真実は明らかになっていません。 絵巻は3巻と断簡から構成されており、どの巻も震えるような独特の書風が特徴です。 統一された書体は、一連の作品として共通していることから、少なくとも文章は一貫性を持って書かれていると考えられています。 しかし、絵の部分については、各巻の画風には共通性があるものの、描き方に微妙な違いが見られることから、複数の描き手がいたのではと推察されています。 平治物語をもとに描かれた『平治物語絵巻』とは 作品名:平治物語絵巻 作者:住吉内記ほか 制作年:1789年-1801年ごろ 技法・材質:ー 寸法:40.2×43.3cm 『平治物語絵巻』は、平安時代末期に実際に起こった平治の乱を描いた軍記物語『平治物語』をテーマにした絵巻物です。 平治の乱は、武士の源義朝と藤原信頼が手を組み、権力者の平清盛と側近である藤原通憲に対して挙兵した歴史的な戦いです。 平治の乱では結果的に源義朝・藤原信頼の敗北に終わり、この合戦をきっかけに平氏政権が誕生しました。 『平治物語絵巻』は、平治の乱から約100年後、鎌倉時代の13世紀後半に当時の戦記物語の伝統にもとづいて描かれました。 現存する『平治物語絵巻』は3つ 『平治物語絵巻』は、平治の乱にもとづく重要な絵巻物ですが、現存するものは3巻のみです。 「看聞御記」によると、1436年には比叡山に15巻の『平治物語絵巻』が保存されていたと記録が残っています。 しかし、現在確認されているのは、『三条殿夜討巻』『信西巻』『六波羅行幸巻』の3巻のみです。 現存する3巻は、それぞれ以下の場所に所蔵されています。 『三条殿夜討巻』:ボストン美術館(アメリカ合衆国マサチューセッツ州) 『信西巻』:静嘉堂文庫美術館(東京都千代田区丸の内) 『六波羅行幸巻』:東京国立博物館(東京都台東区) なお、『六波羅行幸巻』は国宝に指定されており、国内においてその価値が認められているのです。 また、絵巻の他にも「断簡」として14図が存在し、さまざまな所蔵先に分蔵されています。 三条殿夜討巻の見どころ 『三条殿夜討巻』のあらすじは、源義朝と藤原信頼軍が後白河上皇の御所である三条殿を襲撃し、上皇と二条天皇を幽閉するという内容です。 平清盛が熊野参詣で京にいない隙を突いて、源義朝と藤原信頼軍は御所三条殿に夜襲を仕掛けました。 彼らは屋敷に火を放ち、残虐の限りを尽くし、その様子が描かれています。 『三条殿夜討巻』の見どころは、炎上する三条殿の圧巻の描写です。 藤原信頼側の兵士が上皇方の兵士に襲いかかる姿や、身分の高い人たちが逃げ惑う中を馬で襲いかかるシーンが描かれています。 また、武士の姿は「つくり絵」と呼ばれる平安時代の技法を用いて描かれており、墨線で描かれた下絵にそって彩色を行うことで、細部にわたって丁寧に表現されています。 さらに、絵巻をよく観察すると描き直しや加筆の痕跡が見られ、初発的に描かれたことが伺えるでしょう。 信西巻の見どころ 『信西巻』は、信西の最期が描かれている絵巻です。 信西は平清盛のパートナー的存在であった学者・僧侶で、三条殿の夜襲の際には一時逃げ延びましたが、藤原信頼が主導する公卿会議で一族追補の決定が下され、最終的には見つかり自害に追い込まれます。 信西の首は切り落とされ、京都へ戻った源義朝・藤原信頼軍によって獄門にかけられました。 絵巻には、獄門にかけられた信西の首を見上げる人々の姿が描かれています。 『信西巻』では、群青色を用いた風景表現が特徴的です。 戦いの躍動感や武具甲冑の精緻な描写が印象的で、戦場の緊迫感を見事に伝えています。 六波羅行幸巻の見どころ 『六波羅行幸巻』では、源義朝・藤原信頼軍のクーデターを察知した平清盛が反撃を試みる様子が描かれています。 熊野参詣から帰還した平清盛は、二条天皇を自宅の六波羅邸へ脱出させようとしました。 二条天皇は、源義朝の軍に囲まれた中、女装して脱出に成功し、六波羅邸へ逃げ込みます。 絵巻には、二条天皇が六波羅邸に逃げ込む様子が躍動的に描かれています。 脱出成功の結果、源義朝・藤原信頼軍の攻撃は失敗し、断簡として分蔵されている六波羅合戦の巻には、源氏が敗退し、源義朝が東国へ落ちる様子が描かれていました。 詞書には波打つ文字が見られ、鎌倉時代前期の書家である弘誓院教家の晩年の書風が反映されているとされています。 これら3つの巻は、平安時代の武士社会や歴史的背景を知る上での貴重な資料にもなっています。 『平治物語絵巻』は歴史的な合戦の様子を細やかに表現した絵巻 今回ご紹介した『平治物語絵巻』は、平安時代の合戦をテーマにした絵巻であり、細やかな描写や豊かな色合いが特徴的です。 平治の乱における合戦の様子を、戦士たちの群像や精緻な甲冑の描写を通じて、観る者に強い印象を与えます。 特に、整然とした構図と色彩の美しさから、合戦絵巻の最高峰ともいわれているのです。 戦いの緊迫感や情景が生き生きと描かれ、当時の武士の姿や戦闘の様子が詳細に表現されている『平治物語絵巻』は、平安時代の文化や社会を理解するための貴重な資料でもあり、直接目にすることで、その迫力をよりいっそう感じられるでしょう。 興味のある方は、ぜひ間近でご覧いただき、その魅力を体感してみてください。
2024.11.26
- 掛軸の歴史
- 掛軸作品解説
- 絵巻・巻き物
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文字の読めない掛軸の”読み方”と”楽しみ方”
掛軸作品は、美しい絵だけではなく達筆に書かれた文字とその思想にも魅力があります。 古い掛軸では、文字の書体が現代と異なり読めない場合もあるでしょう。 絵や雰囲気だけでも楽しめますが、文字が読めるようになり、作家が書き綴った思いを自ら解読できるようになると、よりいっそう楽しみが広がると考えられます。 掛軸に書いてある文字が読めない… 昔に描かれた掛軸作品の文字が、現在利用されている文字とは大きく異なり、何が書いてあるのかわからないこともあるでしょう。 掛軸作品に書かれる文字は、現在広く利用されている楷書とは異なる場合も多く、なじみのない人にとっては解読が難しいといえます。 掛軸に書かれる文字の種類を知って、より芸術的価値を楽しみましょう。 掛軸にはどんな書体が用いられているか 古くから書かれ続けている掛軸の書体は、1種類だけではなく複数あります。 掛軸作品で用いられている主な書体は、楷書・行書・草書・篆書・隷書の5つ。時代によっても変化してきた書体の特徴を知り、掛軸作品への興味をより深めていきましょう。 楷書 楷書は、三国時代に生まれ、唐の時代に流行したといわれています。 書きやすく読みやすいことから、正式な書体として長く使用されてきました。 行書 行書は、隷書から派生した書体です。 楷書を簡略化した形にも見えますが、楷書よりも歴史が古い書体です。点画をつなげたり離したり、ある程度自由がきくため、個性の表現がしやすい書体といえます。 草書 草書は、篆隷を簡略化した書体です。 芸術性がありますが、読み解きには専門知識が必要な場合があります。 篆書 篆書は、現在分かっている中で最も古い漢字の書体といわれています。 秦の始皇帝が文字を統一するために制定したのが「小篆」、統一されるまで使われてきた文字を「大篆」と呼びます。 隷書 隷書は、秦の役人が業務を効率化するために篆書を書きやすくアレンジした書体。 波磔(はたく)と呼ばれる左右に波打つような運筆が特徴です。 掛軸の作者が知りたいとき 自宅の押し入れや倉庫に眠っている掛軸作品を発見したとき、まず作者が誰であり、どのような価値があるのか気になるものです。 作者を知るためには、まず落款や署名を確認します。 ただし、素人目では書かれている文字が解読できない場合も多いため、落款や署名を見つけたらプロの査定士に相談するのも一つの手です。 作者を知る方法は、ほかにも入手ルートや技法からも判断できます。 信頼できる人から譲り受けた掛軸であれば、価値のある可能性が高いでしょう。また、掛軸作品は作家によって描き方に個性がでます。 経験豊富な査定士であれば、作家のクセを見抜き、誰が描いた作品であるかを解明できる可能性が高いでしょう。 また、掛軸とともに木箱や書類などが保管されていた場合は、それらも作家を知るヒントになります。 捨てずに掛軸と一緒に査定の依頼をおすすめします。 掛軸に書かれている文字を読みたいとき 掛軸に書かれている文字を読み解きたいときは、以下の方法を試してみましょう。 ・辞書や専門書籍で解読する ・アプリを使ったり、SNSで相談する ・専門の業者へ解読を依頼する ・読める文字を手掛かりに解読する 正しい文字と見比べてみたり、知識のある人に相談することで、掛軸作品に書かれている文字を読めるかもしれません。 また、有名な漢詩や禅語であれば、読める文字から文脈を想像してみる方法もあります。 自ら想像を膨らませるのも掛軸作品の一種の楽しみ方ともいえるでしょう。 掛軸の文字が読めれば、その価値や思いに気付けるかも 掛軸は、芸術的な絵が印象の作品もあれば、美しい書体で書かれた思想が魅力の作品もあります。 芸術品や美術品の楽しみ方は人それぞれですが、掛軸の文字を読めるようになれば、作家の思いを感じられ、より深い価値や思いに気づけるかもしれません。
2024.10.12
- 掛軸とは
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技法を知るともっと楽しい、源氏物語絵巻
平安時代の有名な物語といえば、源氏物語。 古くから日本人に親しまれている物語で、現代でも源氏物語を原作として、アニメやマンガ、ドラマなどさまざまな作品が作られ、多くの人を楽しませています。 源氏物語絵巻の技法に見る、ストーリーの表現 源氏物語を絵で表現した源氏物語絵巻。 巻物に描かれた絢爛豪華な風景や美しい衣装が、物語の情緒を見事に表現しています。 源氏物語絵巻とは 『源氏物語絵巻』とは、平安時代中期に紫式部によって描かれた源氏物語を絵で表現した巻物で、国宝にも指定されています。 『源氏物語絵巻』は原作に近い時代の雰囲気を感じられる素晴らしい作品で、『伴大納言絵巻』『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』と並んで日本四大絵巻の一つに数えられています。 実は、過去には、この源氏物語絵巻は、12世紀中期に活躍した宮廷画家の藤原隆能によって描かれたといわれていました。 しかし、現在は宮廷を中心として制作されたといわれており、一流の画家や書道家が分担して絵画化されたと考えられるでしょう。 絵巻物では、源氏物語の中でも趣深く絵画化に適しているシーンを選び出して、描かれていると考えられます。 源氏物語が成立してから約150年後の12世紀ごろに描かれています。 現存する日本の絵巻物の中では、もっとも古い作品です。 源氏物語とは 源氏物語とは、11世紀のはじめごろ平安時代の中期に描かれた物語。 作者は紫式部で、夫である藤原宣孝が病死した悲しみを紛らわすために書いたといわれています。 主人公である光源氏の一生と恋模様を書いた物語で、全54帖(巻)です。 大きくは、3部構成に分けられている長編作品であり、光源氏とその一族の人生を70年にわたって書き綴っています。 第1部では、桐壷帝の子としてこの世に生を受けた光源氏が、多くの恋を経験しながら成長していく様子が描かれています。光源氏が宮廷内でも栄華を極めていく様子が見どころです。 第1部は1~33帖までが該当します。 第2部は、第1部が好評であったことから続編として執筆されました。 34~41帖までが該当します。 光源氏は宮廷で栄華を極めたものの、その後の人生には数多くの苦難が待ち受けていました。 最愛の妻を亡くし、光源氏が52歳でその生涯に幕を閉じるまでが書かれています。 第3部は、42~54帖まで書かれています。 光源氏が亡くなって以降の物語で、光源氏の息子である薫の人生や恋模様を書いた源氏物語の完結編です。 源氏物語絵巻に用いられた技法 源氏物語絵巻では、源氏物語の優美な世界を再現するべく、さまざまな技法を用いて描かれています。 引目鉤鼻(ひきめかぎばな) 引目鉤鼻とは、人物の顔の輪郭をふっくらと下膨れさせて描き、一直線の目、短く鉤型(くの字形)の鼻などを特徴とする技法です。 特に、身分の高い貴族の男女の顔を描くために使われていました。一直線の目やくの字の鼻といっても、ただ1本の線が引かれているわけではありません。 よくよく見ると分かるのですが、細い線を何重にも描き、微妙な心情を表現しているのです。 吹抜屋台(ふきぬきやたい) 吹抜屋台とは、屋内の様子を絵で表現するために、屋根や壁を描かずに部屋を描く技法。斜め上から屋内を見下ろす俯瞰的な構図が特徴です。 源氏物語は、室内を中心に話が進んでいくため、吹抜屋台の技法があらゆる場面で用いられています。 異時同図法(いじどうずほう) 時間の経過を表現するために、1つの場面に対して、同じ人物を何度も登場させる技法です。 現代のマンガ的表現である、コマ割りに通じる表現とされています。 絵巻物では、右から左に辿っていくと、時間の流れとともに人物の行動が変化していく様子が見て取れます。 平安貴族の優美さを表現した、源氏物語絵巻の技法 源氏物語を絵で表現した源氏物語絵巻。 源氏物語そのものや、登場する人物の繊細な表情や心情などの魅力を、さまざまな技法によって引き立たせています。 源氏物語絵巻は、日本の美意識と文学への興味を湧かせてくれる、奥深さのある作品といえるでしょう。
2024.10.12
- 掛軸の歴史
- 絵巻・巻き物
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掛軸に書かれている犬や子犬たち
掛軸作品に描かれる犬は、写実的で現実にいそうなものから、愛らしくデフォルメされたもの、墨でシンプルに描かれたものなど、実にさまざまです。 それぞれの作家の個性が発揮されている犬の掛軸を鑑賞して、有名作家の魅力を再認識していきましょう。 掛軸・日本絵画に登場する犬たち 掛軸作品には、人物画、仏教画、風景画などさまざまな題材がありますが、犬を描いた動物画も多く存在します。 また、著名な絵師が描いている犬の作品も多くあります。 伊藤若冲 伊藤若冲は、江戸時代中期に活動していた絵師。 リアルで色鮮やかな花や鳥を描く特徴があります。 写実性の高さと深い想像性を巧みに融合させた絵が魅力的で、曾我蕭白や長沢芦雪と並んで「奇想の画家」ともよばれており、彼は子犬の絵も多く手掛けていました。 シンプルな線で描かれた作品や、丸くデフォルメされた愛らしい姿に、点で描かれた目のギャップが多くの人の興味を引きつけているでしょう。 俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代初期に活躍したとされる絵師ですが、詳しい資料はあまり残されていません。 琳派の祖としても名が知られており、『風神雷神図屛風』は、国宝に指定されている有名作品です。 犬をモチーフにした作品も描いており、たらしこみの手法が用いられている特徴があります。また、足の毛並みを墨で細かく表現されている点も特徴です。 円山応挙 円山応挙は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師。 写実性の高い絵が特徴的で、日本写生画の祖ともよばれています。また、円山応挙は、見たままを描くのではなく、写生をもとに再構築する能力に長けていました。犬をモチーフにした絵も多く描いており、当時の庶民たちの間で高い人気を誇っていたそうです。 子犬のふわふわな質感とリアルな描写の虜になった人々は、当時だけでなく今でも数多くいるのではないでしょうか。 長沢芦雪 長沢芦雪は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師で、円山応挙の弟子でもあります。 しかし、画風は応挙と異なり、大胆な構図や斬新なクローズアップが特徴的です。 犬を題材にした作品も描いており、にやっと笑っているような口元の犬や、人間のようにだらっと座った姿勢の犬など、個性的な犬の絵を多く残しています。 仙厓義梵 仙厓義梵は、臨済宗の禅僧であり、禅宗の教えを説くために禅画を描いていた人物です。 プロの絵師とは異なる独特でゆるい画風が特徴的。 犬の絵も描いており、一筆書きで描いたような丸くシンプルな犬のお腹に紐を括り付けた絵は、個性的で多くの人の目を惹きつけるでしょう。 また絵とともに書かれた「きゃふん」という言葉も印象に残ります。 葛飾北斎 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した絵師で、海外からの人気も高い人物です。 富士山と大きな波をモチーフにした『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、誰もが一度は目にしたことがある有名作品です。 葛飾北斎も、犬を題材にした絵を描いています。 親犬の乳を飲む子犬や、親子で一緒に吠えている犬、街中にいる犬、子どもが子犬を抱きかかえている様子など、さまざまなシチュエーションで犬を描いていました。 柳川重信 柳川重信は、江戸時代後期に活躍した絵師。 葛飾北斎の弟子となり、曲亭馬琴が書いた長編小説『南総里見八犬伝』の表紙や挿絵を担当しています。タイトルから想像して、挿絵にはたくさんの犬が描かれています。かわいらしくデフォルメされた犬の絵は、現代でも人気の高い作品です。 小さな子犬が表紙にぎゅうぎゅうと詰めて描かれた挿絵は、犬好きにはたまらない作品でしょう。 竹内栖鳳 竹内栖鳳は、明治から大正、昭和にかけて活躍した画家です。 動物を描けば絵からにおいまで感じられるといわれるほど、動物の絵を得意としていました。また、「西の栖鳳、東の大観」「楳嶺四天王」などと称されるほどの鬼才の持ち主であったといわれています。 犬を描いた作品も多く制作しており、西洋の写実的な画法が特徴的です。 犬はいつから日本にいたのか 犬は縄文時代から日本で飼われており、縄文犬は狩猟犬や番犬としての役割を果たしていました。 弥生時代には、渡来人が稲作文化とともに犬も伝えています。 渡来人が伝えた犬は、狩猟犬や番犬ではなく食用目的であったと考えられています。 しかし、日本では食用として飼育する文化は根付きませんでした。 江戸時代には、狆とよばれる犬が武家といった上流階級の間で流行り、愛がん犬としてかわいがられていました。 また、江戸時代は犬の数が多く、外で当たり前のように放し飼いされていた時代でもあります。 日本人は、古くから犬とともに暮らしてきた文化があり、多くの画家が愛情をもって犬の絵を描いていたとわかるでしょう。 リアルな犬、かわいい子犬…いつの時代も犬は傍にいた 古くから日本人とともに生活してきた犬は、動物の中でも特に身近な存在といえるのではないでしょうか。 今回ご紹介したように、人の暮らしの中で共存してきた犬をモチーフにした掛軸作品は多く存在します。リアルな犬からかわいい子犬まで、いつの時代でも親しまれ、さまざまな表情やタッチで描かれてきました。 犬の掛軸作品を通して、各作家の魅力や掛軸の楽しみ方を深めていってください。
2024.10.12
- 掛軸の種類
- 有名掛軸作家
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ゆるキャラ?ユーモアあふれるかわいい禅画掛軸
禅宗の教えを説くために描かれる禅画。 プロの絵師ではなく、禅僧が描く独特の画風が特徴的です。 また、ゆるい絵が描かれた作品も多く、禅宗の教えに親しみを持てるよう工夫して描かれていたと考えられます。 ゆるキャラのようなかわいい掛軸たち 掛軸にはさまざまな作品があり、中には現代の私たちが見ても親しみが湧くような、いわゆる「ゆるキャラ」的なかわいい画風の作品も多く残されています。 かわいらしい作品がどのような目的で描かれていたか、どのような人物が描いていたかを知ることで、掛軸作品への興味を深めていきましょう。 かわいい禅画を多く残した、白隠と仙厓 白隠慧鶴と仙厓義梵は、絵師ではなく禅僧であることから、プロの絵師にはないユニークさのある絵が特徴です。 かわいらしい絵とともに禅宗の教えを説くことで、多くの人の心に残ったといえるでしょう。 禅宗の教えを伝えるために用いられた禅画を、二人の禅僧がどのように描いていたのかを知ることで、掛軸と禅宗の両方の魅力を再発見できるかもしれません。 白隠慧鶴 (はくいんえかく) 作家名:白隠慧鶴 (はくいんえかく) 生没年:1685年-1768年 代表作:『自画像画賛』『お福御灸図』 白隠慧鶴は、江戸時代の禅僧であり、禅の教えを人々に広く説くために、数多くの禅画を残しています。 禅僧としては、臨済宗の中興の祖とよばれるほどの名僧です。 現在、臨済宗の僧侶として教えを説いている人たちは、すべて白隠慧鶴の弟子であるともいわれているほど、禅宗に大きな影響を与えています。 禅の教えをわかりやすく伝えるために用いられたのが、禅画。 白隠慧鶴は、達磨や釈迦、菩薩などの仏教由来のモチーフから、七福神やお多福などの民間信仰のモチーフなどさまざまなものを題材に描いています。 ユーモアあふれる構図で、禅を問いかける作品を多く描きました。 仙厓義梵(せんがいぎぼん) 作家名:仙厓義梵(せんがいぎぼん) 生没年:1750年-1837年 代表作:『達磨像』『三福大福茶図』 仙厓義梵は、白隠慧鶴が禅画により広く禅宗の教えを説いているころに、美濃の農民の子として生まれました。11歳になるころには出家し、32歳以後は全国を行脚する長い旅に出ています。 40歳になると、栄西禅師が博多に創建した日本最古の禅寺である聖福寺の住持を任されました。そのため、仙厓と博多はなじみが深く「博多の仙厓さん」ともよばれています。 このころ、伽藍の復興の合間をぬって禅画を描き始めました。 仙厓は、高い画力を備えており、文人画家の浦上春琴に絶賛されるほどであるといわれています。 雪舟のように画僧としてのみ歴史に名を残すのではといわれていましたが、いつしか本格的な仏画を描くことをやめ、その後は、軽妙洒脱でゆるい画風の絵を多く手掛けるようになりました。 表情豊かな動物たちを描いた、長沢芦雪 長沢芦雪(ながさわろせつ) 作家名:長沢芦雪(ながさわろせつ) 生没年:1754年-1799年 代表作:『虎図』『宮島八景図』 長沢芦雪は江戸時代に活躍した絵師で、多くの動物画を手掛けていました。 円山応挙の弟子ではありますが、画風は奇抜で大胆な構図や、斬新なクローズアップが特徴的な絵を描いていました。 曽我蕭白や伊藤若冲と並んで「奇想の画家」ともよばれています。 掛軸の題材としては、犬やスズメ、サル、牛などさまざまな動物を起用しています。 迫力がありつつも、どこかかわいらしい表情豊かな動物たちの絵は、現代においても人気の高い作品です。 かわいい!今でも人気の高い癒しの掛軸 かわいらしい画風の掛軸は、多くの人が受け入れやすい絵であったと考えられます。 ゆるい画風のため、民衆もかしこまらずに楽しめて親しみやすかったと想像できるでしょう。 現代においても、掛軸作品に詳しくない人でも、ゆるふわでかわいらしい作品であれば鑑賞しやすいといえます。 かわいいだけじゃない、作者の思いが込められた掛軸作品 白隠や仙厓の描く禅画はかわいいだけではなく、禅の教えを解くという禅僧の思いが込められています。 文字だけの書画や、一般的な絵画では、禅宗の教えも印象に残りにくかったと考えられます。 かわいらしい絵で人々の心を惹きつけたからこそ、禅宗の教えを広く伝えられたといえるでしょう。 かわいい画風の掛軸は、現代の私たちにとっても親しみやすい作品です。 掛軸の魅力をより知りたい方は、まず親しみやすい絵から鑑賞を始めてみるのもよいでしょう。
2024.10.12
- 掛軸の種類
- 有名掛軸作家
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ギロリと見つめる虎や龍の『八方睨み』掛軸
掛軸作品には、書や風景、人物以外にも、さまざまな生き物が描かれた作品も多く存在します。 なかでも、虎や龍が睨みをきかせた迫力のある掛軸が、印象に残っている人もいるでしょう。 それぞれの生き物自体にも意味がありますが、睨みをきかせているシチュエーションにも意味が込められているのです。 虎や龍がギロリと見つめる…八方睨みの掛軸 虎や龍が強い目つきでこちらを睨んでいるような掛軸を、目にしたことがある人もいるでしょう。 迫力のある絵のため、少し怖いと感じることもあるのではないでしょうか。 しかし、八方睨みをきかせた掛軸の作品は、いわゆる魔除けの意味があるため、自宅に飾っておきたいものです。 睨みによって家を守護してくれていると考えると、「怖い」というイメージから見方が変わるかもしれません。 厄除け・魔除けの八方睨み 八方睨みとは、四方八方へ目をやり、睨みをきかせることを意味しています。 また、絵や画像において、どの角度から見ても目がこちらを睨んでいるように見える様子を表した言葉です。 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸作品は、災いが近づかないように外敵を睨んで追い払うとして、厄除けや魔除けの意味があるとされています。 虎は「一日にして千里を行き、千里を帰る」といわれるほど、強い生命力を保持しており、あらゆる厄災を追い払い、家運隆盛を導くとされる生き物です。 また、龍は地球の守り神のような存在で、天地を飛び回り流れを起こしているとされています。 龍が天に昇る姿が成功と象徴を表しているとして、仕事運や金運アップ、勝負ごとに勝つなどのご利益の意味が込められています。 虎も龍も大きなご利益をもたらしてくれる生き物とされており、その絵に八方睨みをさせることで、厄払いまでもできると期待されているのです。 八方睨みの虎や龍の作品 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸は、さまざまな有名絵師によって描かれています。 円山応挙や三尾呉石らは虎の絵を、狩野探幽は、龍の絵を描いています。 『遊虎図』(円山応挙) 円山応挙は、円山派の祖であり、江戸時代後期に活躍した天才絵師です。 掛軸作家としても有名ですが、香川県にある金毘羅宮の襖絵である『遊虎図』も有名作品の一つ。 当時の日本には虎がいなかったため、輸入された虎の毛皮から姿や形を想像して描かれたといわれています。顔が小さく、目がぎょろっと大きく描かれているのが特徴です。 円山応挙は、八方睨みの虎の絵以外にも、多くの虎や動物たちの絵を描いていて、特に、かわいらしい犬の絵を描くことでも有名です。 『水辺猛虎』『獣王』(三尾呉石) 狩野探幽とは、江戸時代初期に活躍した江戸狩野派の絵師です。 狩野派は、日本絵画史上最大の流派といわれており、室町時代後期から江戸時代末期までの約400年間にわたって権力者の御用絵師として活躍しました。 狩野探幽は、やまと絵や写生、古画などさまざまなジャンルの絵を研究し、画力を高めていました。 京都の妙心寺法堂の天井には、狩野探幽が描いた龍が、睨みをきかせています。 天井一面に描かれ迫力のあるこの『雲龍図』は、狩野探幽が55歳のときに描き、スケールや迫力が大きく京都随一の天井龍との呼び声が高い作品です。 僧侶たちの修行の様子を見守る仏法の守護神として、天井から様子を見ているとされています。 八方睨みの掛軸は、災難を遠ざけ開運を導く 八方睨みをきかせた虎や龍などの迫力ある掛軸は、災難を遠ざけ良い運気を導くとして古くから重宝されています。 さまざまな有名作家が描いた虎や龍の作品は、現地での鑑賞が可能です。 また、開運のために床の間へ掛軸として掛けられることも多くあります。 自宅に虎や龍の掛軸を飾り、家に運気が流れるようにしてみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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『○△□』(まるさんかくしかく)の掛軸にはどんな意味がある?
掛軸作品というと、風景や人物の絵が描かれている絵画や、名言や思想が書かれた書画などを思い浮かべる人も多いでしょう。 さまざまな背景をもって描かれる掛軸作品。 なかには、記号の○△□だけが描かれた作品もあります。 掛軸の『○△□(まるさんかくしかく)』に込められた、深い意味 絵でも書でもない記号が描かれた『○△□』には、どのような意味が込められているのか気になるでしょう。 『○△□』に込められた意味を知り、掛軸作品や禅についての理解を深めていくと、より芸術作品の楽しみ方が増えていきます。 『○△□』は仙厓義梵のミステリアスな作品 『○△□』とは、仙厓義梵(せんがい ぎぼん)が描いた禅画作品。 仙厓義梵は、独特なゆるい画風で禅画をメインに描いていた江戸時代の絵師です。 禅画とは、禅僧が禅の教えを説くために、教えを絵で表した絵画を指します。 『○△□』はシンプルな禅画で、紙の上に左から丸・三角・四角が少しずつ重なるように描かれています。英語圏では、この作品のタイトルを『The Universe』と呼ぶことも。 描かれた正確な時期はわかっていませんが、仙厓義梵が70代のころに使っていた達磨型印が記されているため、1819年から1828年ごろの作品と推測されています。 現在、この『○△□』は、出光美術館に所蔵されています。 『○△□』にはどんな意味がある? 記号だけが描かれた『○△□』には、どのような意味が込められているのでしょうか。 『○△□』の意味は、一つだけではなく、さまざまな考え方があります。 人によって解釈の分かれるこの作品は、仙厓義梵の最も難解な作品といわれています。 深みのある作品に込められた思想を紐解き、もう一度鑑賞し直してみると、これまでとは違った感動が待ち受けているかもしれません。 宇宙 ○は満月で、円満な悟道の境地に至るための修行の階梯を図示しているといわれており、この世のすべての存在を3つの図形に代表させ、大宇宙を書として表しているという説があります。 三密 『○△□』は、密教における三密を表しているとの見解もあります。 三密とは、密教の用語で身密・口密・意密の総称です。 3つの密を整えると即身成仏ができるという密教の教えがあり、『○△□』は丸を三密を全うした状況に見立てて、三角は悟りに達せない仙厓自身を表しているといわれています。 五大あるいは六大 大日経では、地、水、火、風、空を五大と呼び、空海がここに識を加えて、この6つを宇宙の要素である六大として考えました。 五大は、四角・丸・三角・半円・宝珠形の5つを図形化して組み合わせ五輪塔として表し、下三段には四角・丸・三角が入ります。 仙厓は、六大の思想に影響を受け、『○△□』でこの考え方を表現したのではないかともいわれています。 解釈の分かれる『○△□』に思いをはせる 仙厓義梵が描いた『○△□』は、現代までにさまざまな解釈がされてきており、実に難解な作品といえます。 いくつもの考え方を受け、もう一度『○△□』を鑑賞すると、また違った自分だけの解釈が生まれるかもしれません。 解釈の分かれる『○△□』を、宇宙や禅の心に思いをはせながら、掛軸鑑賞をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
- 掛軸の種類
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女性掛軸作家たちの歴史と作品を辿る
画家や作家は男性であることが多いですが、時代ごとに活躍した女性たちも存在します。 時代の変化とともに、活躍した女性たちの人物像を理解すると、より作品を楽しめるでしょう。 時代ごとに活躍した女性掛軸作家を追う 掛軸は、中国を起源としており、592年~710年(飛鳥時代)に日本に伝わったと考えられています。 掛軸作家というと、男性が多いイメージですが、各時代で活躍していたのは男性作家はもちろん、なかには女性にも、時代ごとに活躍した掛軸作家がいます。 安土桃山時代 1573年~1603年(桃山時代)には、織田信長と豊臣秀吉が茶道を好んだことで、床の間の様式が急激に発展しました。 桃山時代はわずか50年と短い時代ですが、それまでの時代に比べると変化が速く、華やかでわかりやすい掛軸作品が現代にまで残っています。 小野お通 小野お通の出生は史料がなく、一説では1567年ごろに誕生したといわれています。 出自や経歴などに所説はありますが、小野お通は諸国を巡り芸を行う「遊芸人」の一族に誕生したといわれており、古典学者の公卿である「九条稙通」のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」との呼び声高い公卿である「近衛信尹」から書を学んだとされています。 当時の女性としては、かなりの高等教育を受け、当代随一の女流書家として活動し、和歌や書画だけでなく、絵画、琴、舞踊などの才にも秀でていたといわれています。 小野お通の描いた書は、「お通流」と呼ばれて、当時の代表的な女筆となりました。 江戸時代 長い戦乱の時代が終わりを迎え、徳川家による支配が確かなものとなった江戸時代では、狩野永徳の孫である深幽が徳川家と親密な関係を築いたことにより、日本全国の大名諸侯の御用絵師のほとんどを「狩野派」が務めました。 画家を志す多くの若者は、狩野派に学ぶよう組織化されていきました。 多くの画家を輩出した江戸時代には、このような掛軸作家の背景があります。 江馬細香(えまさいこう) 江馬細香は、竹の絵が得意なことで有名な画家。 父親が大垣藩の医師である江馬細香は、京都の僧である玉潾に絵を学び、のちに、父親の紹介で漢学者でありながら、歴史や文学、美術などのさまざまな分野で活躍した頼山陽に教えを受けました。 1818年(文政初年)ごろに梁川星巌、梁川紅蘭、村瀬藤城らと詩社である「白鴎社」結成。 1848年(嘉永元)には詩社「咬菜社」を結成し、中心人物として活躍しました。 梁川紅蘭(やながわこうらん) 江馬細香とともに「白鴎社」を結成した梁川紅蘭は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した漢詩人です。 14歳に又従兄妹の梁川星巌の塾「梨花村草舎」へ入塾し、漢詩を学びます。 夫の星巌は19世紀初頭、頼山陽とともに日本文学における二大巨星といわれていました。梁川紅蘭は、絵画技術にも秀でており、絵画作品としては『群蝶図』が有名です。 生涯で漢詩を400作品以上も残したうえに、絵画も制作しています。 葛飾応為(かつしかおうい) 葛飾応為は、葛飾北斎の三女として生まれ、数少ない女性浮世絵師。 1810年(文化7年)に制作された『狂歌国尽』の挿絵が初作といわれています。 特に美人画に優れており、父親である北斎の肉筆美人画の代作や、北斎の春画の彩色を担当していたとの話もあるのです。父である北斎は「美人画にかけては応為には敵わない、彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。 明治時代以降 徳川幕府という後ろ盾を失った狩野派は解散となり、生活の苦しい画家は、新たな職業に就く者も現れました。 西洋画の流通により、明治初期には西洋の絵画に注目が集まったことで、日本の絵画の評価は低下していきます。 しかし、アメリカのアーネスト・フェノロサにより、日本の美術が評価された影響で、再び日本絵画は活気を取り戻していきます。 1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利した日本は、先進国としての文化を示すため、1907年に文展(文部省美術展覧会)を開催しました。 奥原晴湖(おくはらせいこ) 奥原晴湖は、明治時代の女性南画家。 16歳で南北合体画風を学びますが、渡辺崋山の影響を受けて南画に転向します。 1871年に開業して作ったのが「春暢家塾」。全盛期には、300人以上の門人がいたといわれています。 奥原晴湖の代表作は、『墨堤春色図』や『月ケ瀬梅渓図』で、埼玉県の龍淵寺にある奥原晴湖の墓は、指定文化財となっています。 上村松園(うえむらしょうえん) 上村松園は、気品ある美人画を得意とし、1948年に初めて女性で文化勲章を受章した日本画家です。 1890年に行われた第3回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が一等褒状を受賞します。 これを来日中であった英国ヴィクトリア女王の三男であるアーサー王子が買い上げたことで話題になりました。 1936年の『序の舞』は、1965年に発行された切手趣味週間の図案に採用され、2000年には重要文化財に指定されました。 野口小蘋(のぐちしょうひん) 野口小蘋は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、明治の女性南画家として奥原晴湖とともに双璧といわれていた画家の一人です。 幼少期に詩、書、画を好み才能を現します。 1871年に東京都千代田区の麹町に住み、本格的に画業を行います。美人画や肖像画などの人物画を得意とし、作品を英照皇太后に献上し、皇室や宮家の御用達絵師として数多くの作品を手がけました。 大正天皇即位の際、宮内庁からの下命で制作されたものが、三河悠紀地方の『風俗歌屏風』です。 島成園(しませいえん) 島成園は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家です。 20歳の時に文展に入選したことで、女性画家の流行を作りました。 大阪で頭角を見せた若い女性画家である島成園は、それまで東京や京都が中心だった当時の日本画壇において、画期的な活躍でした。 1916年には同年代の女性日本画家とともに「女四人の会」を結成し、女性画家の新たな時代を切り開きました。 なぜ女性掛軸作家の作品は少ないのか 平安末期である1008年に、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を手がけていたため、そのころから女性作家による文学作品は制作されていました。 しかし、職業として絵を描いている女性は、現代に比べると決して多くはありませんでした。 明治時代以降になって多くの女性画家が登場しますが、結婚とともに制作から離れたり、苗字が変わったりで作家としての歴史が追いにくいのが現状です。 女性ならではの画風や題材にも注目 掛軸作家は男性の多い職業なだけに、女性が職業としての画家を確立させていくためには、男性とは違う苦労があったに違いありません。 しかし、女性ならではの視点や表現で描かれた作品には、魅力がたくさんあります。 柔らかなタッチや曲線など、女性だからこそ描ける作品の特徴に注目して、鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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掛軸の発展を支えた、同朋衆の存在
掛軸は、現代の日本における代表的な芸術品ですが、その歴史には室町時代の「同朋衆」と呼ばれる集団の活躍が大きく関わっています。 もともと掛軸は、中国の漢時代より始まった文化とされており、日本に入ってきたのは、飛鳥時代との説があります。 その後、平安時代・鎌倉時代とその技術が受け継がれましたが、掛軸を芸術の1つとして確立したのが同朋衆です。 掛軸の発展にあった、同朋衆の存在 掛軸の歴史を語るうえで、欠かせない存在が「同朋衆」と呼ばれる集団です。 同朋衆は特定の人物名ではなく、主に将軍の近くで雑務や芸能を担当した芸術指南役の集団を指します。 同朋衆は室町時代、足利義満将軍に仕えた6人の法師が始まりといわれ、主に猿楽(能の起源とされる舞踊)や庭園を始め、工芸品や絵巻など芸術文化の発展をつかさどっていました。 掛軸だけでなく「いけばな・和室・わびさび文化・茶」など、現代の日本を代表する心や文化の形成にも、同朋衆が深く関わっていたといいます。 同朋衆は、日本文化の礎を築いた貢献者ともいえるでしょう。 同朋衆とは 室町時代に始まった同朋衆の集団およびその制度は、江戸時代初期まで続いたとされています。 戦国時代には、織田信長や豊臣秀吉にも仕えたそうです。 同朋衆の姿が確認できる資料はごく少数で、その姿が確認できるのは、当時描かれた絵画資料『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』のみで、この絵巻によると、同朋衆は僧侶のような服装をしており、合計5名の姿が確認されています。 『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』は将軍を中心とした同行人たちを描いた作品で、八幡宮の鳥居をくぐる様子が切り取られています。 なお、同朋衆は当時の関所をくぐる際、自由に行き来ができる身分だったそうです。 こういった背景を考えると、当時の幕府から重宝されていたことがわかります。 同朋衆が活躍した時代 同朋衆が現代の芸術の基礎を築いたのは、制度が発足した室町時代のことです。 当時は、中国より伝わった水墨画の文化が流行しており、中国との往来が頻繁な禅僧は、文化人としての地位を確立していました。 足利義満将軍の代に始まった同朋衆は、芸術を生業とする役職でしたが、当時の地位のなかで高い位置に属していたのです。 同朋衆は、掛軸を含む絵巻を始め、茶道・能楽・香道・庭園など、幅広いジャンルの芸を開花させました。ほかにも、銀閣寺に採用された「書院造り」を創案するなど、数々の功績を残しています。 このように、室町時代を代表する文化や芸術を称して「北山文化」や「東山文化」と呼びます。 同朋衆が掛軸文化の発展に寄与 そもそも掛軸は、絵画芸術ではなく礼拝の対象として使われた仏具の1つ。これを1つの絵画芸術として昇華したのは、ほかでもない同朋衆です。 現代でも、掛軸は茶室や床の間に飾られるものですが、この文化は室町時代に始まったとされています。 のちの安土桃山時代には、千利休が掛軸を茶席の重要な道具の1つとして説き、爆発的な掛軸ブームを呼びました。 客人をもてなす伝統文化「茶の湯」は、同朋衆が築いた掛軸文化と茶の技術が、のちの世に受け継がれて完成したものです。 また、掛軸と同朋衆の関係を説明するうえで欠かせない人物が3人います。 それが「能阿弥」「芸阿弥」「相阿弥」です。 室町時代から江戸時代まで続く同朋衆のなかで、3人は大きな役割を担ったといわれています。 足利家に仕えた同朋衆・三阿弥(さんあみ) 能阿弥 作家名:能阿弥 生没年:1397年〜1471 年 代表作:『白衣観音図』『花鳥図屏風』 能阿弥とは、元越前朝倉氏の家臣で、足利義教・義政の代に同朋衆として仕えた人物です。 息子に芸阿弥、孫に相阿弥を持ち、3代続く「三阿弥」としてその功績を称えられました。 主に幕府内の工芸品の鑑定や管理を行い、自身は水墨画を得意としていました。 のちに起こる「阿弥派(室町時代の画派の1つ)」の開祖とされ、将軍にも重宝されたそうです。 能阿弥は、茶道における書院飾りを完成させ、現代に続く茶の作法の原型を考案したといわれています。 また、絵画における代表作『白衣観音図』『花鳥図屏風』は、中国の画僧「牧谿」の趣を取り込んだ作品として有名です。 掛軸の作品においては『山水図』『雨中蓮下白鷺』が現存しています。 芸阿弥 作家名:芸阿弥 生没年: 1431年〜1485 年 代表作:『観瀑図』『夏秋山水図』 芸阿弥は能阿弥の息子にあたり、足利義政に同朋衆として仕えた人物。 主に絵画制作を中心として、工芸品の管理や鑑定など、芸術全般や客人のもてなしを取り仕切ったとされていますが、足利義政の代は、応仁の乱による混乱のため、工芸品の類がほとんど現存していません。 芸阿弥の作品で確認されているものとして『観瀑図』『夏秋山水図』が挙げられます。 相阿弥 作家名:相阿弥 生没年:生年不明〜1525 年 代表作:『廬山観瀑図』『四季山水図屏風』 相阿弥は、祖父「能阿弥」父「芸阿弥」に続き、足利将軍家に同朋衆として仕えた人物です。 水墨画を得意とし、芸術全般の指導や工芸品の管理、鑑定も務めたとされています。 代々伝わる阿弥派の絵画を完成形に導いた貢献者であり、書院飾り・造園・香道・連歌・茶道など多方面で活躍した職人でもあります。 周囲からは、文化人としての才を認められ「国工相阿」とも称されました。 なかでも、中国の名山「廬山」に流れる滝を描いた『廬山観瀑図』は有名です。 同朋衆が日本美術の発展に大きく貢献 同朋衆は、日本の伝統文化の原型を作ったといわれる職能集団です。 掛軸はもちろん、茶・能楽・庭園・絵画絵巻など、現代に受け継がれる工芸品や芸能は、同朋衆のおかげで存続したといっても過言ではありません。 日本の歴史では、あまり取り沙汰されない同朋衆ですが、後世に続く雪舟や千利休など著名な文化人たちは、同朋衆の築き上げた技術をもとに自身の作品を作り上げています。 同朋衆および三阿弥の作品は、東京の根津美術館や出光美術館など、全国の美術館や博物館で鑑賞できます。 気になる方は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
2024.10.04
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