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掛軸に書かれている犬や子犬たち
掛軸作品に描かれる犬は、写実的で現実にいそうなものから、愛らしくデフォルメされたもの、墨でシンプルに描かれたものなど、実にさまざまです。 それぞれの作家の個性が発揮されている犬の掛軸を鑑賞して、有名作家の魅力を再認識していきましょう。 掛軸・日本絵画に登場する犬たち 掛軸作品には、人物画、仏教画、風景画などさまざまな題材がありますが、犬を描いた動物画も多く存在します。 また、著名な絵師が描いている犬の作品も多くあります。 伊藤若冲 伊藤若冲は、江戸時代中期に活動していた絵師。 リアルで色鮮やかな花や鳥を描く特徴があります。 写実性の高さと深い想像性を巧みに融合させた絵が魅力的で、曾我蕭白や長沢芦雪と並んで「奇想の画家」ともよばれており、彼は子犬の絵も多く手掛けていました。 シンプルな線で描かれた作品や、丸くデフォルメされた愛らしい姿に、点で描かれた目のギャップが多くの人の興味を引きつけているでしょう。 俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代初期に活躍したとされる絵師ですが、詳しい資料はあまり残されていません。 琳派の祖としても名が知られており、『風神雷神図屛風』は、国宝に指定されている有名作品です。 犬をモチーフにした作品も描いており、たらしこみの手法が用いられている特徴があります。また、足の毛並みを墨で細かく表現されている点も特徴です。 円山応挙 円山応挙は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師。 写実性の高い絵が特徴的で、日本写生画の祖ともよばれています。また、円山応挙は、見たままを描くのではなく、写生をもとに再構築する能力に長けていました。犬をモチーフにした絵も多く描いており、当時の庶民たちの間で高い人気を誇っていたそうです。 子犬のふわふわな質感とリアルな描写の虜になった人々は、当時だけでなく今でも数多くいるのではないでしょうか。 長沢芦雪 長沢芦雪は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師で、円山応挙の弟子でもあります。 しかし、画風は応挙と異なり、大胆な構図や斬新なクローズアップが特徴的です。 犬を題材にした作品も描いており、にやっと笑っているような口元の犬や、人間のようにだらっと座った姿勢の犬など、個性的な犬の絵を多く残しています。 仙厓義梵 仙厓義梵は、臨済宗の禅僧であり、禅宗の教えを説くために禅画を描いていた人物です。 プロの絵師とは異なる独特でゆるい画風が特徴的。 犬の絵も描いており、一筆書きで描いたような丸くシンプルな犬のお腹に紐を括り付けた絵は、個性的で多くの人の目を惹きつけるでしょう。 また絵とともに書かれた「きゃふん」という言葉も印象に残ります。 葛飾北斎 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した絵師で、海外からの人気も高い人物です。 富士山と大きな波をモチーフにした『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、誰もが一度は目にしたことがある有名作品です。 葛飾北斎も、犬を題材にした絵を描いています。 親犬の乳を飲む子犬や、親子で一緒に吠えている犬、街中にいる犬、子どもが子犬を抱きかかえている様子など、さまざまなシチュエーションで犬を描いていました。 柳川重信 柳川重信は、江戸時代後期に活躍した絵師。 葛飾北斎の弟子となり、曲亭馬琴が書いた長編小説『南総里見八犬伝』の表紙や挿絵を担当しています。タイトルから想像して、挿絵にはたくさんの犬が描かれています。かわいらしくデフォルメされた犬の絵は、現代でも人気の高い作品です。 小さな子犬が表紙にぎゅうぎゅうと詰めて描かれた挿絵は、犬好きにはたまらない作品でしょう。 竹内栖鳳 竹内栖鳳は、明治から大正、昭和にかけて活躍した画家です。 動物を描けば絵からにおいまで感じられるといわれるほど、動物の絵を得意としていました。また、「西の栖鳳、東の大観」「楳嶺四天王」などと称されるほどの鬼才の持ち主であったといわれています。 犬を描いた作品も多く制作しており、西洋の写実的な画法が特徴的です。 犬はいつから日本にいたのか 犬は縄文時代から日本で飼われており、縄文犬は狩猟犬や番犬としての役割を果たしていました。 弥生時代には、渡来人が稲作文化とともに犬も伝えています。 渡来人が伝えた犬は、狩猟犬や番犬ではなく食用目的であったと考えられています。 しかし、日本では食用として飼育する文化は根付きませんでした。 江戸時代には、狆とよばれる犬が武家といった上流階級の間で流行り、愛がん犬としてかわいがられていました。 また、江戸時代は犬の数が多く、外で当たり前のように放し飼いされていた時代でもあります。 日本人は、古くから犬とともに暮らしてきた文化があり、多くの画家が愛情をもって犬の絵を描いていたとわかるでしょう。 リアルな犬、かわいい子犬…いつの時代も犬は傍にいた 古くから日本人とともに生活してきた犬は、動物の中でも特に身近な存在といえるのではないでしょうか。 今回ご紹介したように、人の暮らしの中で共存してきた犬をモチーフにした掛軸作品は多く存在します。リアルな犬からかわいい子犬まで、いつの時代でも親しまれ、さまざまな表情やタッチで描かれてきました。 犬の掛軸作品を通して、各作家の魅力や掛軸の楽しみ方を深めていってください。
2024.10.12
- 掛軸の種類
- 有名掛軸作家
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ゆるキャラ?ユーモアあふれるかわいい禅画掛軸
禅宗の教えを説くために描かれる禅画。 プロの絵師ではなく、禅僧が描く独特の画風が特徴的です。 また、ゆるい絵が描かれた作品も多く、禅宗の教えに親しみを持てるよう工夫して描かれていたと考えられます。 ゆるキャラのようなかわいい掛軸たち 掛軸にはさまざまな作品があり、中には現代の私たちが見ても親しみが湧くような、いわゆる「ゆるキャラ」的なかわいい画風の作品も多く残されています。 かわいらしい作品がどのような目的で描かれていたか、どのような人物が描いていたかを知ることで、掛軸作品への興味を深めていきましょう。 かわいい禅画を多く残した、白隠と仙厓 白隠慧鶴と仙厓義梵は、絵師ではなく禅僧であることから、プロの絵師にはないユニークさのある絵が特徴です。 かわいらしい絵とともに禅宗の教えを説くことで、多くの人の心に残ったといえるでしょう。 禅宗の教えを伝えるために用いられた禅画を、二人の禅僧がどのように描いていたのかを知ることで、掛軸と禅宗の両方の魅力を再発見できるかもしれません。 白隠慧鶴 (はくいんえかく) 作家名:白隠慧鶴 (はくいんえかく) 生没年:1685年-1768年 代表作:『自画像画賛』『お福御灸図』 白隠慧鶴は、江戸時代の禅僧であり、禅の教えを人々に広く説くために、数多くの禅画を残しています。 禅僧としては、臨済宗の中興の祖とよばれるほどの名僧です。 現在、臨済宗の僧侶として教えを説いている人たちは、すべて白隠慧鶴の弟子であるともいわれているほど、禅宗に大きな影響を与えています。 禅の教えをわかりやすく伝えるために用いられたのが、禅画。 白隠慧鶴は、達磨や釈迦、菩薩などの仏教由来のモチーフから、七福神やお多福などの民間信仰のモチーフなどさまざまなものを題材に描いています。 ユーモアあふれる構図で、禅を問いかける作品を多く描きました。 仙厓義梵(せんがいぎぼん) 作家名:仙厓義梵(せんがいぎぼん) 生没年:1750年-1837年 代表作:『達磨像』『三福大福茶図』 仙厓義梵は、白隠慧鶴が禅画により広く禅宗の教えを説いているころに、美濃の農民の子として生まれました。11歳になるころには出家し、32歳以後は全国を行脚する長い旅に出ています。 40歳になると、栄西禅師が博多に創建した日本最古の禅寺である聖福寺の住持を任されました。そのため、仙厓と博多はなじみが深く「博多の仙厓さん」ともよばれています。 このころ、伽藍の復興の合間をぬって禅画を描き始めました。 仙厓は、高い画力を備えており、文人画家の浦上春琴に絶賛されるほどであるといわれています。 雪舟のように画僧としてのみ歴史に名を残すのではといわれていましたが、いつしか本格的な仏画を描くことをやめ、その後は、軽妙洒脱でゆるい画風の絵を多く手掛けるようになりました。 表情豊かな動物たちを描いた、長沢芦雪 長沢芦雪(ながさわろせつ) 作家名:長沢芦雪(ながさわろせつ) 生没年:1754年-1799年 代表作:『虎図』『宮島八景図』 長沢芦雪は江戸時代に活躍した絵師で、多くの動物画を手掛けていました。 円山応挙の弟子ではありますが、画風は奇抜で大胆な構図や、斬新なクローズアップが特徴的な絵を描いていました。 曽我蕭白や伊藤若冲と並んで「奇想の画家」ともよばれています。 掛軸の題材としては、犬やスズメ、サル、牛などさまざまな動物を起用しています。 迫力がありつつも、どこかかわいらしい表情豊かな動物たちの絵は、現代においても人気の高い作品です。 かわいい!今でも人気の高い癒しの掛軸 かわいらしい画風の掛軸は、多くの人が受け入れやすい絵であったと考えられます。 ゆるい画風のため、民衆もかしこまらずに楽しめて親しみやすかったと想像できるでしょう。 現代においても、掛軸作品に詳しくない人でも、ゆるふわでかわいらしい作品であれば鑑賞しやすいといえます。 かわいいだけじゃない、作者の思いが込められた掛軸作品 白隠や仙厓の描く禅画はかわいいだけではなく、禅の教えを解くという禅僧の思いが込められています。 文字だけの書画や、一般的な絵画では、禅宗の教えも印象に残りにくかったと考えられます。 かわいらしい絵で人々の心を惹きつけたからこそ、禅宗の教えを広く伝えられたといえるでしょう。 かわいい画風の掛軸は、現代の私たちにとっても親しみやすい作品です。 掛軸の魅力をより知りたい方は、まず親しみやすい絵から鑑賞を始めてみるのもよいでしょう。
2024.10.12
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ギロリと見つめる虎や龍の『八方睨み』掛軸
掛軸作品には、書や風景、人物以外にも、さまざまな生き物が描かれた作品も多く存在します。 なかでも、虎や龍が睨みをきかせた迫力のある掛軸が、印象に残っている人もいるでしょう。 それぞれの生き物自体にも意味がありますが、睨みをきかせているシチュエーションにも意味が込められているのです。 虎や龍がギロリと見つめる…八方睨みの掛軸 虎や龍が強い目つきでこちらを睨んでいるような掛軸を、目にしたことがある人もいるでしょう。 迫力のある絵のため、少し怖いと感じることもあるのではないでしょうか。 しかし、八方睨みをきかせた掛軸の作品は、いわゆる魔除けの意味があるため、自宅に飾っておきたいものです。 睨みによって家を守護してくれていると考えると、「怖い」というイメージから見方が変わるかもしれません。 厄除け・魔除けの八方睨み 八方睨みとは、四方八方へ目をやり、睨みをきかせることを意味しています。 また、絵や画像において、どの角度から見ても目がこちらを睨んでいるように見える様子を表した言葉です。 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸作品は、災いが近づかないように外敵を睨んで追い払うとして、厄除けや魔除けの意味があるとされています。 虎は「一日にして千里を行き、千里を帰る」といわれるほど、強い生命力を保持しており、あらゆる厄災を追い払い、家運隆盛を導くとされる生き物です。 また、龍は地球の守り神のような存在で、天地を飛び回り流れを起こしているとされています。 龍が天に昇る姿が成功と象徴を表しているとして、仕事運や金運アップ、勝負ごとに勝つなどのご利益の意味が込められています。 虎も龍も大きなご利益をもたらしてくれる生き物とされており、その絵に八方睨みをさせることで、厄払いまでもできると期待されているのです。 八方睨みの虎や龍の作品 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸は、さまざまな有名絵師によって描かれています。 円山応挙や三尾呉石らは虎の絵を、狩野探幽は、龍の絵を描いています。 『遊虎図』(円山応挙) 円山応挙は、円山派の祖であり、江戸時代後期に活躍した天才絵師です。 掛軸作家としても有名ですが、香川県にある金毘羅宮の襖絵である『遊虎図』も有名作品の一つ。 当時の日本には虎がいなかったため、輸入された虎の毛皮から姿や形を想像して描かれたといわれています。顔が小さく、目がぎょろっと大きく描かれているのが特徴です。 円山応挙は、八方睨みの虎の絵以外にも、多くの虎や動物たちの絵を描いていて、特に、かわいらしい犬の絵を描くことでも有名です。 『水辺猛虎』『獣王』(三尾呉石) 狩野探幽とは、江戸時代初期に活躍した江戸狩野派の絵師です。 狩野派は、日本絵画史上最大の流派といわれており、室町時代後期から江戸時代末期までの約400年間にわたって権力者の御用絵師として活躍しました。 狩野探幽は、やまと絵や写生、古画などさまざまなジャンルの絵を研究し、画力を高めていました。 京都の妙心寺法堂の天井には、狩野探幽が描いた龍が、睨みをきかせています。 天井一面に描かれ迫力のあるこの『雲龍図』は、狩野探幽が55歳のときに描き、スケールや迫力が大きく京都随一の天井龍との呼び声が高い作品です。 僧侶たちの修行の様子を見守る仏法の守護神として、天井から様子を見ているとされています。 八方睨みの掛軸は、災難を遠ざけ開運を導く 八方睨みをきかせた虎や龍などの迫力ある掛軸は、災難を遠ざけ良い運気を導くとして古くから重宝されています。 さまざまな有名作家が描いた虎や龍の作品は、現地での鑑賞が可能です。 また、開運のために床の間へ掛軸として掛けられることも多くあります。 自宅に虎や龍の掛軸を飾り、家に運気が流れるようにしてみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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『○△□』(まるさんかくしかく)の掛軸にはどんな意味がある?
掛軸作品というと、風景や人物の絵が描かれている絵画や、名言や思想が書かれた書画などを思い浮かべる人も多いでしょう。 さまざまな背景をもって描かれる掛軸作品。 なかには、記号の○△□だけが描かれた作品もあります。 掛軸の『○△□(まるさんかくしかく)』に込められた、深い意味 絵でも書でもない記号が描かれた『○△□』には、どのような意味が込められているのか気になるでしょう。 『○△□』に込められた意味を知り、掛軸作品や禅についての理解を深めていくと、より芸術作品の楽しみ方が増えていきます。 『○△□』は仙厓義梵のミステリアスな作品 『○△□』とは、仙厓義梵(せんがい ぎぼん)が描いた禅画作品。 仙厓義梵は、独特なゆるい画風で禅画をメインに描いていた江戸時代の絵師です。 禅画とは、禅僧が禅の教えを説くために、教えを絵で表した絵画を指します。 『○△□』はシンプルな禅画で、紙の上に左から丸・三角・四角が少しずつ重なるように描かれています。英語圏では、この作品のタイトルを『The Universe』と呼ぶことも。 描かれた正確な時期はわかっていませんが、仙厓義梵が70代のころに使っていた達磨型印が記されているため、1819年から1828年ごろの作品と推測されています。 現在、この『○△□』は、出光美術館に所蔵されています。 『○△□』にはどんな意味がある? 記号だけが描かれた『○△□』には、どのような意味が込められているのでしょうか。 『○△□』の意味は、一つだけではなく、さまざまな考え方があります。 人によって解釈の分かれるこの作品は、仙厓義梵の最も難解な作品といわれています。 深みのある作品に込められた思想を紐解き、もう一度鑑賞し直してみると、これまでとは違った感動が待ち受けているかもしれません。 宇宙 ○は満月で、円満な悟道の境地に至るための修行の階梯を図示しているといわれており、この世のすべての存在を3つの図形に代表させ、大宇宙を書として表しているという説があります。 三密 『○△□』は、密教における三密を表しているとの見解もあります。 三密とは、密教の用語で身密・口密・意密の総称です。 3つの密を整えると即身成仏ができるという密教の教えがあり、『○△□』は丸を三密を全うした状況に見立てて、三角は悟りに達せない仙厓自身を表しているといわれています。 五大あるいは六大 大日経では、地、水、火、風、空を五大と呼び、空海がここに識を加えて、この6つを宇宙の要素である六大として考えました。 五大は、四角・丸・三角・半円・宝珠形の5つを図形化して組み合わせ五輪塔として表し、下三段には四角・丸・三角が入ります。 仙厓は、六大の思想に影響を受け、『○△□』でこの考え方を表現したのではないかともいわれています。 解釈の分かれる『○△□』に思いをはせる 仙厓義梵が描いた『○△□』は、現代までにさまざまな解釈がされてきており、実に難解な作品といえます。 いくつもの考え方を受け、もう一度『○△□』を鑑賞すると、また違った自分だけの解釈が生まれるかもしれません。 解釈の分かれる『○△□』を、宇宙や禅の心に思いをはせながら、掛軸鑑賞をゆっくり楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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女性掛軸作家たちの歴史と作品を辿る
画家や作家は男性であることが多いですが、時代ごとに活躍した女性たちも存在します。 時代の変化とともに、活躍した女性たちの人物像を理解すると、より作品を楽しめるでしょう。 時代ごとに活躍した女性掛軸作家を追う 掛軸は、中国を起源としており、592年~710年(飛鳥時代)に日本に伝わったと考えられています。 掛軸作家というと、男性が多いイメージですが、各時代で活躍していたのは男性作家はもちろん、なかには女性にも、時代ごとに活躍した掛軸作家がいます。 安土桃山時代 1573年~1603年(桃山時代)には、織田信長と豊臣秀吉が茶道を好んだことで、床の間の様式が急激に発展しました。 桃山時代はわずか50年と短い時代ですが、それまでの時代に比べると変化が速く、華やかでわかりやすい掛軸作品が現代にまで残っています。 小野お通 小野お通の出生は史料がなく、一説では1567年ごろに誕生したといわれています。 出自や経歴などに所説はありますが、小野お通は諸国を巡り芸を行う「遊芸人」の一族に誕生したといわれており、古典学者の公卿である「九条稙通」のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」との呼び声高い公卿である「近衛信尹」から書を学んだとされています。 当時の女性としては、かなりの高等教育を受け、当代随一の女流書家として活動し、和歌や書画だけでなく、絵画、琴、舞踊などの才にも秀でていたといわれています。 小野お通の描いた書は、「お通流」と呼ばれて、当時の代表的な女筆となりました。 江戸時代 長い戦乱の時代が終わりを迎え、徳川家による支配が確かなものとなった江戸時代では、狩野永徳の孫である深幽が徳川家と親密な関係を築いたことにより、日本全国の大名諸侯の御用絵師のほとんどを「狩野派」が務めました。 画家を志す多くの若者は、狩野派に学ぶよう組織化されていきました。 多くの画家を輩出した江戸時代には、このような掛軸作家の背景があります。 江馬細香(えまさいこう) 江馬細香は、竹の絵が得意なことで有名な画家。 父親が大垣藩の医師である江馬細香は、京都の僧である玉潾に絵を学び、のちに、父親の紹介で漢学者でありながら、歴史や文学、美術などのさまざまな分野で活躍した頼山陽に教えを受けました。 1818年(文政初年)ごろに梁川星巌、梁川紅蘭、村瀬藤城らと詩社である「白鴎社」結成。 1848年(嘉永元)には詩社「咬菜社」を結成し、中心人物として活躍しました。 梁川紅蘭(やながわこうらん) 江馬細香とともに「白鴎社」を結成した梁川紅蘭は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した漢詩人です。 14歳に又従兄妹の梁川星巌の塾「梨花村草舎」へ入塾し、漢詩を学びます。 夫の星巌は19世紀初頭、頼山陽とともに日本文学における二大巨星といわれていました。梁川紅蘭は、絵画技術にも秀でており、絵画作品としては『群蝶図』が有名です。 生涯で漢詩を400作品以上も残したうえに、絵画も制作しています。 葛飾応為(かつしかおうい) 葛飾応為は、葛飾北斎の三女として生まれ、数少ない女性浮世絵師。 1810年(文化7年)に制作された『狂歌国尽』の挿絵が初作といわれています。 特に美人画に優れており、父親である北斎の肉筆美人画の代作や、北斎の春画の彩色を担当していたとの話もあるのです。父である北斎は「美人画にかけては応為には敵わない、彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。 明治時代以降 徳川幕府という後ろ盾を失った狩野派は解散となり、生活の苦しい画家は、新たな職業に就く者も現れました。 西洋画の流通により、明治初期には西洋の絵画に注目が集まったことで、日本の絵画の評価は低下していきます。 しかし、アメリカのアーネスト・フェノロサにより、日本の美術が評価された影響で、再び日本絵画は活気を取り戻していきます。 1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利した日本は、先進国としての文化を示すため、1907年に文展(文部省美術展覧会)を開催しました。 奥原晴湖(おくはらせいこ) 奥原晴湖は、明治時代の女性南画家。 16歳で南北合体画風を学びますが、渡辺崋山の影響を受けて南画に転向します。 1871年に開業して作ったのが「春暢家塾」。全盛期には、300人以上の門人がいたといわれています。 奥原晴湖の代表作は、『墨堤春色図』や『月ケ瀬梅渓図』で、埼玉県の龍淵寺にある奥原晴湖の墓は、指定文化財となっています。 上村松園(うえむらしょうえん) 上村松園は、気品ある美人画を得意とし、1948年に初めて女性で文化勲章を受章した日本画家です。 1890年に行われた第3回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が一等褒状を受賞します。 これを来日中であった英国ヴィクトリア女王の三男であるアーサー王子が買い上げたことで話題になりました。 1936年の『序の舞』は、1965年に発行された切手趣味週間の図案に採用され、2000年には重要文化財に指定されました。 野口小蘋(のぐちしょうひん) 野口小蘋は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、明治の女性南画家として奥原晴湖とともに双璧といわれていた画家の一人です。 幼少期に詩、書、画を好み才能を現します。 1871年に東京都千代田区の麹町に住み、本格的に画業を行います。美人画や肖像画などの人物画を得意とし、作品を英照皇太后に献上し、皇室や宮家の御用達絵師として数多くの作品を手がけました。 大正天皇即位の際、宮内庁からの下命で制作されたものが、三河悠紀地方の『風俗歌屏風』です。 島成園(しませいえん) 島成園は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家です。 20歳の時に文展に入選したことで、女性画家の流行を作りました。 大阪で頭角を見せた若い女性画家である島成園は、それまで東京や京都が中心だった当時の日本画壇において、画期的な活躍でした。 1916年には同年代の女性日本画家とともに「女四人の会」を結成し、女性画家の新たな時代を切り開きました。 なぜ女性掛軸作家の作品は少ないのか 平安末期である1008年に、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を手がけていたため、そのころから女性作家による文学作品は制作されていました。 しかし、職業として絵を描いている女性は、現代に比べると決して多くはありませんでした。 明治時代以降になって多くの女性画家が登場しますが、結婚とともに制作から離れたり、苗字が変わったりで作家としての歴史が追いにくいのが現状です。 女性ならではの画風や題材にも注目 掛軸作家は男性の多い職業なだけに、女性が職業としての画家を確立させていくためには、男性とは違う苦労があったに違いありません。 しかし、女性ならではの視点や表現で描かれた作品には、魅力がたくさんあります。 柔らかなタッチや曲線など、女性だからこそ描ける作品の特徴に注目して、鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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かわいい?こわい?!達磨の掛軸は縁起物
禅寺を訪れたとき、ぎょろっとした大きな目がこちらを睨んでいるような、奇抜な人物画を見かけたことがある人も多いのではないでしょうか。 この人物画は、達磨図と呼ばれています。 達磨図は、禅を描く・悟りを描くための表現方法として用いられていたといわれています。 かわいい?こわい?!達磨の掛軸 達磨の掛軸というと、赤くて丸い達磨を想像しますが、実際に掛軸として描かれている多くの達磨は、達磨大師をモデルにしたものです。 縁起物として重宝された達磨 達磨は、古くから縁起物として知られていますが、なぜ縁起物として親しまれるようになったのか知らない方も多いでしょう。 達磨のルーツは、中国のおもちゃです。 唐の時代に酒胡子(しゅこし)と呼ばれるおもちゃが流行り、明の時代になると代わって不倒翁(ふとうおう)と呼ばれる転がしても倒れない人形が登場しました。 この不倒翁(ふとうおう)は、室町時代に日本に伝えられ、起き上がり小法師(こぼし)に発展していきました。 江戸時代に入ると起き上がり達磨が誕生します。 達磨が縁起物といわれる理由は、達磨がえらいお坊さんであったことや倒れてもすぐに起き上がることから、倒産せず商売繁盛するとされていたためです。 願い事をして達磨の目を書く風習は、達磨大師のようにいかなる困難も克服して、願い事が成就するよう願掛けのために行われています。 また、達磨は赤いイメージがありますが、さまざまな色があり、色によって縁起物としての意味が異なる特徴があります。 達磨大師とはどんな人だったのか 達磨の名前の由来でもある達磨大師は、実在した高僧の名で、ほかにも菩提多羅や達磨祖師などの名があります。 達磨大師は、4世紀の終わりごろに南天竺の香至国の第三王子として生まれました。 父である国王の死をきっかけに般若多羅尊者のもとで出家し、40年余り修行に努めています。 修行を終えた後は、インド各地を渡り歩き67年間布教を続けたといわれています。 その後は、中国各地で10年間布教しました。 また、崇山少林寺では壁に向かい9年間座禅を続け、悟りを開いたといわれています。 この姿から、人々は達磨大師のことを壁観婆羅門僧と呼んでいたそうです。 達磨大師は、反発する僧たちに毒を6回も盛られ、西暦528年10月5日に150歳で入寂したといわれています。 達磨大師の死後であるとされる613年12月に、聖徳太子が奈良の片岡山で飢えた人に出会い、食べ物や自分が身に付けていた紫の衣を与えました。 しかし、その人は亡くなってしまい、聖徳太子は墓を作り手厚く葬りました。 数日後に墓をあけると遺体はなく、紫の衣だけが残されていたのです。 この逸話は『日本書紀』や『元亨釈書』に記されており、この飢えた人が達磨大師の化身であったといわれており、片岡山に達磨寺が建設されました。 掛軸に描かれている「達磨」は「達磨大師」の姿であることが多く、今日縁起物として見かける達磨の置物とは少しイメージが異なるでしょう。 達磨掛軸を描いた有名作家たち 達磨掛軸は、多くの有名作家たちが描いています。 代表的な作家は、白隠慧鶴 (はくいんえかく)、仙厓義梵(せんがいぎぼん)、長沢芦雪(ながさわろせつ)、宮本武蔵(みやもとむさし)などです。 白隠慧鶴 (はくいんえかく) 作家名:白隠慧鶴 代表作:『達磨図』『半身達磨図』 生没年:1685年-1768年 白隠慧鶴は、500年にひとりと称えられた高僧で、臨済宗中興の祖でもあります。 称津駿州原宿(現在の沼津)で生まれ、全国を行脚した後に再び駿河で教えを説いた白隠は、その功績は富士山にも匹敵するともいわれました。 徳の高い高僧でありながらも、白隠慧鶴が描く禅画は、破天荒なインパクトがあるといわれています。 禅僧であり、達磨大師をはじめとした禅画を描く絵師でもあった白隠慧鶴の有名な作品は、『半身達磨図』です。 デフォルメされた菩薩達磨が座禅している姿が印象的です。 仙厓義梵(せんがいぎぼん) 作家名:仙厓義梵 代表作:『達磨図』など 生没年:1750年-1837年 仙厓義梵は、禅僧でありながらユーモアあふれる書画を描く絵師でもあります。 その自由奔放な絵画をとおして、禅の教えを広く伝えました。 江戸時代に九州で活動していた仙厓は、日本最古の禅寺である聖福寺の第123世(および125世)の住持でもあります。 臨済宗の古月派を代表する名僧としても有名です。 60歳代で虚白院へ隠棲してからは、晩年まで数多くの書画を描いたとされています。禅僧であり、達磨大師をはじめとした数多くの禅画を残しています。 長沢芦雪(ながさわろせつ) 作家名:長沢芦雪 代表作:『隻履達磨図』 生没年:1754年-1799年 長沢芦雪は、江戸時代に活躍した絵師で、円山応挙の弟子でもあります。 師匠とは対照的に、大胆な構図や斬新な着眼点で奇抜な絵画を多く描いていたため、奇想の絵師とも呼ばれていました。 常に新しい表現や技法を追求し、精力的に活動していた芦雪は、200年以上経った今も、名作が多くの人々に親しまれています。 芦雪は、達磨掛軸も手がけており、有名な作品は、『隻履達磨図』です。 宮本武蔵(みやもとむさし) 作家名:宮本武蔵(みやもとむさし) 代表作:『蘆葉達磨図』 生没年:1584年-1645年 二刀流の剣豪として有名な宮本武蔵。 実は画人でもあり、「二天」と号して絵画作品を多く制作しています。 個性豊かな水墨画を多く手がけており、禅にかかわる達磨図や布袋図などを多く描いていました。 本格的に絵を描き始めたのは、二天一流を創始した後の寛永17年ごろからといわれており、中国の梁楷や同じ武人であり画家の海北友松などから減筆体を学んだと考えられています。 達磨掛軸は縁起物として人気が高い 達磨掛軸は、縁起物として現代でも人気の高い掛軸作品です。 達磨と聞くと赤くて丸いものをイメージしますが、掛軸では達磨大師が多く描かれています。 高僧である達磨大師が描かれた掛軸は、縁起物として親しまれているため、高値での買取も期待できる作品です。 商売繁盛や開運出世などの願いが込められた達磨掛軸をお持ちの方は、自宅に飾るもよし、一度査定に出して価値を確認して見るのもよいでしょう。
2024.10.04
- 掛軸の種類
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あの有名な、『見返り美人』(菱川師宣)を掛軸で楽しもう
女性の後ろ姿と振り向いた瞬間を描いている『見返り美人図』は、最も有名な浮世絵作品の1つです。 女性の優雅で美しい後ろ姿は多くの人の目を引き、現代に至るまで多くの人の心を魅了しています。 この作品を描いた菱川師宣は、浮世絵の祖ともいわれており、菱川師宣がいなければ浮世絵の発展は進んでいなかったかもしれません。 江戸時代に浮世絵を広める大きな役割を果たした菱川師宣と『見返り美人図』の歴史や特徴を知り、美人画掛軸への魅力を深めていきましょう。 誰もが見たことのある、見返り美人図 『見返り美人図』は浮世絵の中でも人気のある美人画です。 美人画とは、江戸時代における流行りの美人の姿を描いた作品で、多くの作家が描いている画題の1つ。 美人画は、当時の絵師たちが理想とする美人を具現化して描いていたものでしたが、のちに芸者や水茶屋の看板娘、町娘なども描かれています。 また、美人画は、単なる芸術作品ではなく、当時流行っていたファッションが図柄に色濃く反映されていたことも特徴の一つで、版画技術が広まった江戸時代では、美人画が流行ファッションの情報源としての役割も果たしていたといわれています。 『見返り美人図』は肉筆浮世絵の元祖 『見返り美人図』とは、菱川師宣(ひしかわもろのぶ)が描いた肉筆浮世絵です。 菱川師宣は、浮世絵の祖と呼ばれるほど、浮世絵の歴史を語るのに欠かせない絵師の一人。 海と山に囲まれた大自然が広がる房州保田で生まれた菱川師宣は、幼少期から絵を描くことを好んでいました。 彼が若い頃は、長男として家業を継ぐために縫箔師の仕事を手伝っていました。この頃、図案のデザインに多く触れたことで、絵画的なセンスと技術を磨いていったとされています。 諸説ありますが、菱川師宣は16歳ごろに房州から海路を使い、江戸に出向いたといわれています。しかしそれは絵師としての道を進むためではなく、縫箔師の技術を学ぶことがきっかけだったとも。菱川師宣は、江戸で絵師の名門として知られる狩野派や土佐派、長谷川派の三大流派の技法を学び、技術に磨きをかけていきました。 菱川師宣がいつ頃から縫箔師ではなく絵師としての道1本で進み始めたかは、資料が残されていません。しかし、縫箔師としての活動を続ける中で、徐々に絵師の世界に足を踏み入れていったとされています。 菱川師宣は浮世絵の祖とも呼ばれていますが、実は、浮世絵を広めたのは菱川師宣だけではなく、ほかにも岩佐又兵衛など複数の絵師がいました。 こういった複数の絵師の活躍と出版産業の変化がうまく合わさり、浮世絵文化が誕生したといえるでしょう。 菱川師宣が浮世絵を大きく発展させるきっかけとなったのが、挿絵を大きくしたことでした。 それ以前の挿絵は、読者の理解を補助する添え物の役割としてで、あくまでもメインは文字でした。 しかし、菱川師宣は絵をメインとする描き方に逆転させたのです。これが文字を読むのが苦手だけど本を読みたいと考えている庶民の心を掴み、庶民が出版ブームの新たな消費者として取り込まれていったのでした。 菱川師宣は、版画だけではなく肉筆画でも才能を開花させ、絵巻や屏風、軸物などで多くの名作を残しており、特に晩年には多くの肉筆画の傑作を生み出しています。 肉筆浮世絵とは、版画の浮世絵と区別するために生まれた言葉で、浮世絵師が自らの筆で直接紙や絹に描いた浮世絵を指しています 菱川師宣の肉筆浮世絵の中でも最も有名なのが、あの『見返り美人図』。 このあまりに作品は、現在まで使われる「見返り美人」の言葉の語源となっています。 『見返り美人図』には、当時流行っていたファッションを取り入れ描かれています。 髪型は玉結びと呼ばれるものです。前髪を別に取って立て、背後の髪は輪っか状に結びます。べっ甲模様の差し櫛と笄を刺しており、笄の先端には家紋の透かし彫りまで描く凝りようです。 また、着物は当時高級品として知られていた紅で染めた生地に絞りが入れてあり、白や水色、金糸で刺繍された花柄が赤い着物に映えています。 帯も当時流行りの吉弥結びで描かれています。 『見返り美人図』を含めた当時の美人画は、現代でいうファッション誌のような役目を果たしていたといえるでしょう。 切手のデザインとしても有名に 『見返り美人図』の絵柄はその人気ぶりから切手にもなっています。 これまでに3度発行されており、1度目は1948年に切手の収集家向けに発行されている切手趣味週間シリーズの第2弾として登場しました。当時は浮世絵の切手自体が大変珍しかったため人気が集中し、1960年代の切手収集ブームを引き起こしたともいわれています。 その後、1991年には郵便事業120周年記念切手として、1996年には郵便切手の歩みシリーズとして合計3回発行され、現在でも中古市場で人気の高い絵柄となっています。 掛軸でも楽しまれる、見返り美人図 「浮世絵の祖」と呼ばれる菱川師宣が描いた『見返り美人図』は、大変有名かつ人気の作品であるため、レプリカ作品も多く市場に出回っています。 切手のデザインとしても有名な『見返り美人図』。 当時のファッションを取り入れたデザインは、その時代の流行りや暮らしぶりも想像しながら楽しめる作品です。 この作品は、東京国立博物館(東京/上野)に収蔵されており、展覧会などで鑑賞することができます。 近代の浮世絵ブームの火付け役ともなった人気の高い『見返り美人図』。 手元に置きたいと複製品を掛軸で楽しむ人が多いのも納得できる、素晴らしい作品です。
2024.10.04
- 掛軸の種類
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縁起のいい富士山の掛軸を床の間に掛けよう
迫力のあるシルエットと四季折々の変化によってさまざまな表情を魅せてくれる富士山。 日本の誇りともいうべき富士山は、古くから多くの人々を魅了し続けています。 富士山の山頂を目指す人もいれば、一瞬の絶景をカメラに収めようとする人、掛軸に描かれた美しい富士山を鑑賞して楽しむ人もいます。 富士山はさまざまな方法でいつも私たちを感動させてくれているのです。 言わずと知れた縁起物、富士山 古くから現代まで多くの人を魅了し続ける富士山は、縁起物としても知られています。 「一富士二鷹三茄子」でもおなじみで、初夢に見ると縁起がいいのが富士山です。 富士山が昔から縁起がいいといわれるのには、主に4つの理由があります。 1つ目はその末広がりの形。 富士山の姿は、山頂からふもとにかけて漢字の八を描くようにゆったりと末広がりになっています。末広がりの形は、古くから子孫繁栄や、商売繁盛など明るい将来を思わせる縁起物として扱われてきました。 また、富士山は語呂合わせで「不死」「無事」に似た発音をすることから、健康長寿や無病息災、家内安全などを願う対象とされています。 また、日本には神道における八百万の神という考え方があります。 物や自然などあらゆるものに神様が宿るとし、日本で最も標高の高い富士山は霊峰として信仰の対象となっているのです。 富士山のふもとと山頂には、木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)を祀る神社があります。 木花咲耶姫命には、火難除け、縁結び、子授け、安産などの御利益があるとされ、この準者に参拝に訪れる人も多くいます。 富士山は、季節や時間、方角、気象条件によって違った姿を現してくれるのも魅力の一つです。 特定の条件がそろわないと見られない富士山の絶景は、「〇〇富士」と呼び縁起物として知られています。 富士山の絶景は、多くの作家が描いていることでも有名です。特に有名な、赤富士や紅富士、逆さ富士、影富士などは、写真や絵画、掛軸などで一度は目にしたことがあるという人も多いでしょう。 赤富士は、いつもは青いさわやかな色をしている富士山が、朝日に照らされて赤く染まった様子を表しています。 赤富士が見られる条件は、山頂に雪が積もっていない夏から秋にかけての時期かつ空気が澄んでいる晴天の日の早朝です。昔から赤は厄除けに効くとされており、赤富士は厄除けや商売繁盛、願望成就、悪縁を切るなどの効果がある縁起物として知られています。 紅富士は、山頂付近に雪が積もっている冬から初春にかけて見られる風景です。 雪で白くなっている斜面が真っ赤に染まる様子は、とても幻想的です。赤富士と同じように赤い富士山であるため、縁起物としての意味合いが同様と考えてよいでしょう。 逆さ富士は、湖や水辺の水面に上下逆さまになった富士山がはっきりと写り込んだ様子をいいます。 きれいな逆さ富士を楽しめるのは良く晴れて空気が澄み、風がなく水面に波が立っていない状態のときです。逆さ富士は開運の御利益がある縁起物として知られています。 影富士は、富士山麓の地表や雲海に富士山の巨大なシルエットが映し出されている様子を指します。 影富士は、主に山頂から西側の5合目以上の高さで観察可能です。影富士はほかの特別な富士山とは異なり、自分の足で富士山に登らないと見られない貴重な景色です。 影富士が見られるのは時間帯や方角、気象条件などがすべてそろったときのみ。 その他にも縁起のいい富士山としてはダイヤモンド富士などがあげられます。 富士山信仰はいつからはじまった? 富士山は、その雄大な姿や幻想的な美しさから日本一の山として、国内だけではなく海外の人々をも魅了しています。 富士山は名山でもありますが、霊山の一つとして古くから信仰の対象にもなっているのです。 霊山とは、神仏を祀っている神聖な山のこと。 繰り返される噴火を鎮めるために浅間大神を祀ったのが、富士山の山岳信仰の始まりとされています。 平安時代末期に噴火活動が鎮静化されると、仏教の僧侶が富士山に入り修業を始めるように。 この頃には、日本古来の神々と仏教の仏は一体である、とする神仏習合の考えが誕生しました。これを機に、富士山の本当の姿とされる大日如来をはじめとした多くの仏像が奉納されるようになっていきます。 この信仰の形が、ふもとから富士山を拝む遙拝から、山中で修行を行い富士山の護神徳を拝しながら登山する形へと変化していきました。 富士山の掛軸はいつ掛ける? 富士山の掛軸は、年中掛けも可能な画題です。 また、縁起が良い絵柄のため、お正月にもよく飾られています。 新年の始まりには縁起の良いものを鑑賞したいものです。 富士山は初夢に見ると縁起が良い縁起物として知られているため、正月に飾ってその年1年をより良いものにしたいと考えるでしょう。 また、掛軸作品は、描かれている富士山の様子から、それぞれの絵に込められた意味が少し違うこともあります。 たとえば、真っ赤に染まった幻想的な姿に多くの人が心を奪われた赤富士や紅富士は、厄除けや商売繁盛、願望成就、悪縁を切るなどの効果が期待されています。 また、富士山単体で描かれた掛軸だけではなく、鶴亀などの縁起物と一緒に描かれた掛軸も大変人気の高い作品です。 富士山が描かれた掛軸を掛ける際は、細かく季節を問われることはありません。 しかし、縁起物としての意味合いが強いため、お正月やお祝い事の席で飾るのも良いでしょう。 富士山の掛軸は誰もが知る縁起物 富士山は、日本はもちろん、海外からも人気が高く、世界中の人々を虜にしている日本一の山です。 直接拝むこともあれば、掛軸に描かれた富士山の絵を鑑賞したり、拝んだりすることもあります。 富士山と一口にいっても、さまざまなシチュエーションの富士山掛軸が存在します。 たとえば、静かで澄み渡った水面に映る壮大な逆さ富士や、朝日に照らされた赤富士など、富士山は私たちにさまざまな表情を魅せてくれる、日本自慢の山。 このような美しい富士山の姿は、掛軸で鑑賞して楽しむのも一つの手段です。 さまざまな作家が自分の思い浮かべた富士山掛軸を制作しており、富士山の豊かな表情はもちろん作家の個性も楽しむことができるでしょう。 「一富士二鷹三茄子」といわれるほど縁起の良い富士山の掛軸を自宅に飾り、その年1年を幸せに過ごせるよう願掛けを行うのもお勧めです。 富士山は人気の画題のため数多くの掛軸作品が存在します。 自分の気に入った富士山の掛軸を自宅に飾り、美しい富士山の風景を楽しみましょう。
2024.10.04
- 掛軸の種類
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昇り龍の掛軸を飾りたい!骨董品的価値や縁起が良いとされる理由とは
日本では床の間や茶室に掛軸を飾る文化が古くからあります。 掛軸に描かれるモチーフはさまざまありますが、なかでも人気なのが龍の姿です。 特に天まで昇っていく様子が描かれた龍の掛軸は、縁起の良い掛軸として人気を集めています。 昇り龍の掛軸には前向きな意味が込められているため、意味や由来を知ることで適切なタイミングで飾れるでしょう。 龍の迫力のある掛軸が気になっている方は、ぜひ昇り龍の掛軸に込められた意味を探ってみてください。 昇り龍とは 龍は掛軸のモチーフとしてよく描かれています。 龍は神聖なものの象徴として古くから崇拝の対象となっている生き物で、水神の一種ともいわれています。 また、古代中国では四方四神という思想に出てくる守り神とされており、日本でも古来から天候を司る神として雨乞い祈願をすることもあり、農耕の神として広く浸透しています。 龍の発祥は中国とされており、現代にいたるまで中国文化を象徴する信仰の対象です。 中国では、石器時代に陶器の文様や像に龍らしきものが発見されています。 青銅器時代には、祭礼用の青銅器にも龍の姿が描かれるようになりました。 当時の人々は、自然が持つ巨大なエネルギーを人間にはない神秘的な能力を持つ動物によるものと考えていました。そこから空想的な生き物が生まれ、龍が誕生したといわれています。 日本では、弥生土器に龍のような図案が描かれており、弥生時代にはすでに中国の龍のイメージが伝わっていたと考えられています。 また、仏教で仏法の守護神とされている龍はインド神話に登場する「ナーガ」です。 ナーガは蛇の精霊の一種とされており、コブラが神格化され聖獣となった姿とされています。半人半蛇で四肢や髭、角などはなく、7つの頭を持った姿で描かれることも。 中国の龍とは異なるデザインですが、どちらも蛇をモチーフにしている共通点があります。 また、どちらも雨をもたらす水の神であったことも共通点の一つです。 現代の日本の龍神信仰は、中国とインドの龍のイメージが組み合わさって誕生したといえるでしょう。 中国とインドの龍と、日本にもともとあった水神や蛇神などの自然信仰が結びつき、独自の龍神信仰へと発展していきました。 やがて、日本の龍神は、雨を降らす神から稲作の豊穣神や天候を司る神に変化し、信仰されていきます。 また、龍神は水中に棲み天に昇る姿から、運気を上げる縁起の良い生き物のイメージが出来上がっていきました。 縁起の良い龍の掛軸でよくみられるのが、昇り龍の絵です。 龍が天に昇っていく姿を描いた掛軸には、勝負運上昇、立身出世など、上昇志向を後押しする意味合いが込められています。 掛軸に描かれる昇り龍の絵は、地上に降りてきた龍が人々に願いを叶える如意宝珠を授けた後に、再び天に昇っていく様子を描いています。そのため、降り龍には宝珠が描かれますが、多くの昇り龍には宝珠が描かれていません。 また、昇り龍は子どもの人生の大願成就を願うモチーフでもあります。 急流を登りきり登龍門を通過した鯉が、天まで昇ると龍神に変化するという言い伝えがあり、それが由来で大願成就の願いが込められるようになりました。 また、上野東照宮には、左甚五郎が制作した降り龍と昇り龍の彫刻が彫られていますが、頭が下を向いているほうが昇り龍と呼ばれています。偉大な人ほど頭を垂れることから、下を向いているほうを昇り龍と呼ぶそうです。 昇り龍の持っている玉…「如意宝珠」 掛軸に描かれる昇り龍や降り龍の絵には、如意宝珠と呼ばれる玉が一緒に描かれる場合があります。 描かれ方は作家によってさまざまで、手に持つ姿や口に加えている姿などがよく描かれています。 如意宝珠とは、あらゆる願いを叶える力を持った玉のこと。完全な球体で描かれることもあれば、玉ねぎのように先がとがった形で描かれることも。 如意宝珠の「如意」は意のままにという意味を持ち「宝珠」は宝物の意味を持っています。 如意は仏教発祥の言葉であることから、如意宝珠は仏教における宝物です。 また、サンスクリット語では、思考を意味する「チンタ」と、珠を意味する「マニ」を組み合わせて「チンターマニ」と呼ばれています。 仏教では、感情や感覚を苦と取るか楽と取るかを左右するのは思考であると考えられており、思考を変えることで苦から楽に変えられるとされています。そのため、思考の珠であるチンターマニは世界を変える力を持つ宝といわれるようになりました。 如意宝珠は龍王の脳からとれる珠で、龍の神通力の源とされています。 思考が存在するとさまざまな煩悩が生まれてしまうため、龍は如意宝珠を手元に置いている限り悟りを開けないのです。仏教では成仏を願う龍女が釈迦に如意宝珠を奉納して悟りを得たという話もあります。 昇り龍の掛軸はいつ掛ける? 昇り龍の掛軸は古くから日本で描かれてきた作品です。 力強く天まで昇っていく龍の姿には大願成就の願いが込められ、縁起物として人気を集めています。 登龍門の話とあわせて、子どもの健やかな成長や将来立身出世できるようにと願いを込めて、端午の節句に掛けられることもあります。 こうした前向きな意味が込められている昇り龍の掛軸は、季節を問わず飾れるため、お気に入りの昇り龍の掛軸を見つけたら年中掛けとして利用するのも良いでしょう。また、お祝い事や縁起物としてもお勧めです。 毎日見る掛軸なら、昇り龍のパワーをもらえる 龍は水神の一種とされており、起源は中国で日本では弥生時代にすでに伝わっていたと考えられています。 その後日本に入ってきた仏教は、インド神話に登場する蛇の精霊ナーガを守護神としていたことから、現代における日本の龍神は、中国の龍とインドの龍のイメージが混ざり合ったものと考えられるでしょう。 神様として崇められている神聖な龍を描いた作品は多く存在します。 その一つが昇り龍の掛軸。昇り龍の掛軸には、勝負運の上昇や立身出世、大願成就など縁起の良い意味が込められています。 龍がモチーフの絵は季節問わず飾れるため、年中掛けとしても利用しやすいといえるでしょう。お気に入りの昇り龍の掛軸を見つけたら、普段飾っておく掛軸の1つとして手元に置いておくとよいでしょう。 また、勝負事やお祝い事の際にも飾っておける掛軸なので、慶事掛けとしても飾ることができます。 このように飾って楽しむ機会の多い昇り龍の掛軸は、掛軸文化にあまり触れてこなかった方でも親しみやすい作品。 毎日目にする掛軸だからこそ、自身の思いや願いのこもったものを飾りたいですね。
2024.10.04
- 掛軸の種類
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掛軸にしたい言葉…お気に入りの言葉をいつも目に入る場所へ掛けよう
自分でつくる掛軸の愉しみ 日本の伝統的な芸術作品で古くから愛され続けている掛軸。 有名作家の書画や絵画を飾って楽しむだけではなく、自分で掛軸を書いて飾るのもまた魅力の一つです。 自分で掛軸を書く場合、どのような言葉を選べばよいか迷う人も多いでしょう。掛軸によく書かれている言葉には、禅語や季節の言葉、仏事の言葉などがあります。 掛軸作品をより楽しむために、文字の雰囲気と言葉の意味を理解して、気に入った言葉を掛軸に書いて飾ってみましょう。 どんな言葉を掛軸にする? 掛軸を自分で書くとき、どのような言葉を書けばよいか迷うものです。 見た目のバランスだけではなく、一言一言に込められている意味に耳を傾けてみるのも良いでしょう。 掛軸にはよく禅語が用いられます。 禅語は禅の教えを説いた言葉で、心の動きを知るための大切な言葉です。 そのため、掛軸として飾ることでその意味を自分の中に落とし込み、人生に生かすというのも良いでしょう。 また、禅語には客人をおもてなしする言葉もあるため、シーンに合わせて言葉を選んでみてください。 掛軸にしたい「禅語」 日日是好日(にちにちこれこうにち) 日日是好日とは、毎日が大切な日であるという意味と、その日に起こったことの良し悪しにかかわらずその日をありのままのいい日として受け入れるという意味があります。 どちらも1日1日が大切な時間であることを教えてくれる言葉です。 また、一喜一憂せずひたむきに頑張ることの大切さも説いています。 一期一会(いちごいちえ) 一期一会とは、一生に一度きりの機会という意味です。 一期一会は普段からよく使われる言葉の一つですが、実は茶道が発祥といわれています。 今この瞬間を流れる時間は一生に一度きりであるから、しっかりとおもてなしをするという茶室の主人の心遣いを表す言葉です。 和敬清寂(わけいせいじゃく) 和敬清寂は茶道の心得を示す言葉で、千利休が唱えたお茶の精神としても知られています。 和敬清寂とは、主人と客人がお互いの心を和らげて謹み敬い、茶の湯の席を清浄にするという意味です。 「和」は主人と客人がお互いに心を開いて相対すること、「敬」はお互いを敬うこと、「清」は心の清らかな状態を、「寂」はどのようなときも動じない心を表しています。 清坐一味友(せいざいちみのとも) 清坐一味友とは、小さな茶室に数人の仲間が集まり、1つの釜の茶を通じてともに味わい、心も一つになったすがすがしさを表す言葉です。 且坐喫茶(しゃざきっさ) 且坐喫茶とは「まあ座ってお茶でも飲んでいってください」と相手の緊張をほぐす意味があります。 掛軸にしたい「季節の言葉」 花知一様春(はなはしるいちようのはる) 花知一様春とは、花が咲いて春になり、やがて月がでて明月の秋となる様子を表す言葉です。 自分自身がそこに無心でいることで、本来の自分になれるという意味合いがあります。 雲悠々水潺々(くもゆうゆうみずせんせん) 雲悠々は雲が空をゆったりと漂い悠然としている様子を表しています。 水潺々は川の水がさらさらとひとときも休まず流れ続けている様子を表現している言葉です。 空には大きな雲が浮かび、小川がさらさらと流れる情景が目に浮かぶ涼しげな禅語で、夏に飾る掛軸としてお勧めの言葉といえます。 山是山水是水(やまはこれやまみずはこれみず) 山是山水是水とは、山は山、水は水とお互い別のものですが、自然を一緒に形成しているという意味があります。 山是山水是水も7月や8月など夏の暑い時期に掛けたい掛軸の言葉です。 山や水の文字から涼しさを感じられるでしょう。 自分は自分で他人にはなれませんが、誰もがありのままの自分で他人と接することでバランスが取れるのだと気づかせてくれる言葉です。 山高月上遅(やまたかくしてつきののぼることおそし) 山高月上遅とは、山が高いと月が昇るのも遅いが、高い山を昇りきった月はすでに光り輝いているという意味があり、大器晩成を表現した言葉です。 月が高い山に遮られてなかなか姿を現さないのと同じように、何かを達成するためにはそれに見合った労力や時間がかかります。 しかし、すぐに結果はでなくても諦めずにコツコツと続ければ努力が報われるという考えを表しています。 歳月不待人(さいげつひとをまたず) 歳月不待人とは、その名の通り歳月は人を待ってくれないという意味があります。 日常的にも良く使う言葉の一つで、掛軸としては12月によく飾られます。 歳月は人を待ってくれないため、今を楽しみましょうという意味も込められている言葉です。 12月にこの言葉の掛軸を飾り、今年が終わりに近づいて何かやり残していることはないかと振り返ってみるのも良いでしょう。 「仏事」にふさわしい掛軸の言葉 南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ) 南無阿弥陀仏は浄土宗、浄土真宗、天台宗などで唱えられている念仏です。 南無阿弥陀仏と唱えると死後に阿弥陀如来が自分のもとを訪れ救いに導いてくれ、極楽浄土を連れて行ってくれるといわれています。 南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ) 南無釈迦牟尼仏は曹洞宗、臨済宗、黄檗宗などの禅宗で唱えられている念仏です。 南無は仏様の御心のまま教えに帰依しますという意味があり、釈迦牟尼仏はお釈迦さまを意味します。 つまり、私はお釈迦さまの教えに帰依します、すべてお釈迦さまの御心にお任せしますという意味のお経です。 南無大師遍照金剛(なむだいしへんじょうこんごう) 南無大師遍照金剛は真言宗で唱えられている念仏です。 大師とは真言宗を開いた空海を表しています。遍照金剛は真言宗の本尊佛である大日如来を表現する言葉です。つまり、私は空海や大日如来の教えに帰依しますといった意味が込められています。 南無妙法蓮華経(なむみょうほうれんげきょう) 南無妙法蓮華経は日蓮宗で唱えられているお経です。 妙法を蓮華によってたとえたお経に心の底から帰依するという意味があります。法事では、南無妙法蓮華経が書かれた掛軸を飾ることもあります。 大切にしたい言葉を掛軸にしよう 絵や書の一つひとつに意味が込められている掛軸は、単なるインテリアではなく、見る人へ気持ちを伝えるための手段でもあります。 茶席で飾られる掛軸には、来客へのおもてなしの心が込められています。 見た目の良さも大切ですが、自分にあった言葉や大切にしたい言葉を選んで飾ることで、より掛軸作品が魅力的なものになるでしょう。 せっかく掛軸を自分で書くなら、言葉の意味を調べてお気に入りの一文を見つけてみてください。
2024.09.19
- 掛軸とは
- 掛軸の種類