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縁起のいい鯉の掛軸を鑑賞しよう
鯉は古くから縁起が良いとされ好まれてきた題材で、掛軸としても長く楽しまれてきました。 鯉が滝を登る姿や飛び跳ねる様子と水しぶきなどが、自然の美しさも感じさせてくれる作品です。 鯉の掛軸にはさまざまなシチュエーションを用いた作品があります。それぞれに意味が込められているため、鯉の掛軸を鑑賞する際は作品そのものの美しさに触れるだけではなく、描かれた意味にも心を傾けてみることで、より芸術作品としての魅力を感じられるでしょう。 縁起の良い「鯉」は掛軸でも人気 鯉が題材になった掛軸は現代でも人気のある作品の一つです。 鯉の滝登りや跳鯉、登竜門など画題はさまざまで、2匹の鯉が対になって泳ぐ遊鯉の画題も人気があります。 鯉の掛軸は縁起が良いとされており、さまざまな意味が込められています。 たとえば、鯉が滝を登る姿は鯉の力強さを感じさせてくれるとともに、滝を登った鯉はやがて龍になるという伝説があり、立身出世や金運上昇、商売繁盛などの意味が込められている掛軸です。 激流を鯉が登る姿は、さまざまな障害を乗り越えることや勢いがあることを意味し、目標を達成する強さ、勇気、忍耐力なども表現しています。また、子どもが滝を登る鯉のようにたくましく育つようにと願いを込めて、出産や入学などのお祝い事で飾られる場合もあります。 鯉の滝登りの起源は古代中国とされており、「急流の滝を登る鯉は、登竜門をくぐり天まで登って龍になる」という登竜門の故事から伝わりました。 この伝説の影響を受け、日本でも立身出世の象徴として盛んに鯉の絵画が描かれるようになったといわれています。 また、鯉はなわばりをもたない魚で、けんかをせず穏やかに泳いで暮らすことから、2匹が対になって泳ぐ遊鯉の掛軸は、夫婦円満・家庭円満の意味が込められている画題でもあります。 そして、松と鯉を組み合わせて描かれた掛軸も多く存在します。 「松鯉」と書いて「しょうり」と読めるため、勝利につながる縁起の良い画題とされています。そのため、勝負事の運気上昇や受験合格などの時期によく飾られる掛軸です。 同じ鯉の滝登りという画題でも、作家によって表現方法がさまざまである点も、鯉を題材とした掛軸作品の魅力といえます。 鯉は端午の節句でも掛軸として掛けられる 鯉の掛軸は端午の節句でもよく掛けられている作品です。 端午の節句とは、毎年5月5日に男の子の誕生を祝うとともに健やかな成長を祈る行事です。 古代中国では月と日に奇数の同じ数字が入ることを忌み嫌っており、重なる日の邪気を祓うためのさまざまな行事が存在しました。 端午は、はじめの午の日を意味しており、「午」を「ご」と発音することもあるため、数字の五と混同され、日本では5月5日に端午の節句として厄除けの儀式を行うようになったといわれています。 端午の節句では五月人形を飾ったり、鯉のぼりをあげたりします。 鯉のぼりをあげる理由と鯉の掛軸を飾る理由は共通のものです。 鯉が急流の滝を登り切り、天まで昇ると龍になるという中国登竜門の故事の言い伝えがあります。この言い伝えから鯉は生命力の強さと立身出世を象徴しているのです。 そのため、男の子の健やかな成長を願う端午の節句で縁起が良いとされる鯉のぼりがあげられたり、鯉の掛軸が飾られたりするようになりました。 また、鯉の掛軸には、鯉と金太郎がセットになって描かれている「鯉金(こいきん)」と呼ばれる作品があります。 鯉金は伝統的な画題で、江戸時代から男の子の立身出世や身体堅固の願いを込めて描かれてきました。 鯉を描いた有名作家とその作品 鯉を題材にした掛軸は縁起が良いとされ古くから描かれており、現代でも人気のある作品です。 鯉の掛軸は多くの作家が制作しており、鯉の滝登りや遊鯉など同じテーマであったとしても、まったく異なる雰囲気をもつ作品に仕上がっている特徴があります。 鯉の掛軸は、絵のタッチや表現方法だけではなく、鯉の構図にも注目して鑑賞してみましょう。作家によってさまざまな構図から描かれた鯉は、一つひとつ違った魅力を感じられるといえます。 森田光達 作家名:森田光達(もりたこうたつ) 生没年:1898年-1976年 森田光達は鯉の絵を得意とする日本画家で、鯉の光達とも呼ばれています。 1898年に鳥取県淀江町に生まれました。1918年に京都へ上り、戸島光阿弥に教えを受け、漆画を習得しています。 鯉を描いた作品は、『躍鯉』『松鯉』『双鯉図漆絵』などがあります。 立身出世や繁栄の象徴とされてきた鯉は、掛軸にも多く作品があり、端午の節句掛けとしてはもちろん、年中掛けとしても鑑賞されています。とくに『躍鯉』は男の子の健やかな成長を願う端午の節句への願いが込められた作品であるといえるでしょう。 森田光達が描く鯉を題材とした作品は、鳥取県立博物館や米子市美術館などに収蔵されています。 円山応挙 作家名:円山応挙(まるやまおうきょ) 生没年:1733年-1795年 円山応挙は日本写生画の祖と呼ばれる有名な画家です。 円山応挙も鯉の絵画を描いています。 円山応挙が描いた『龍門鯉魚図』は、鯉の滝登りの絵画の一標範になったといわれている作品です。 墨の濃淡を活用して鯉の体の立体感やうろこの質感を表現している点も魅力の一つですが、この作品の見ごたえは斬新な構図にあります。 『龍門鯉魚図』は独特なアングルで描かれており、滝を登る鯉の背中を真上から見た様子が描かれています。 一般的に、滝を眺めるときは滝壺近くから滝を見上げるか、崖の上から滝を見下ろすことになるでしょう。 しかし、円山応挙が描いたのは滝の中腹を駆け登る鯉の背中をまっすぐに見た図。 通常であれば空に浮かんでいない限り見られない構図といえます。 日常生活では見ることが叶わない斬新な視点から描かれたこの作品は、現代だけではなく当時の人々をも新鮮な驚きに包んだことでしょう。 また『龍門鯉魚図』はもともと2つの掛軸を対にして掛けることを意図して制作されています。 縁起物として、涼しげな姿として、鯉の掛軸は楽しまれている このように鯉は縁起の良いものとされ、掛軸にも多くの作品があります。 端午の節句に飾る行事掛けとしても利用でき、年中掛けとしても楽しめるでしょう。 また、滝の涼しげな図柄から夏の季節掛け掛軸としても人気を集めています。 鯉の生き生きとした動きや色彩、水面に描かれた波紋は見るものの心を引き込みます。 縁起の良い鯉の掛軸には金運上昇、商売繁盛などの願いも込められており、美術的な価値だけではなく心に温かい感動と幸福感をもたらしてくれる作品といえるでしょう。
2024.09.17
- 掛軸とは
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色鮮やかで美しい孔雀を題材とした掛軸
掛軸の題材としても特に目を引く美しさの孔雀。 圧倒的な美しさで人々を魅了してきた孔雀は、多くの著名作家によって描かれています。 神秘的な姿が魅力の孔雀は古くから日本芸術の画題として扱われてきました。孔雀はギリシャ神話で女神ヘラの象徴といわれ、仏教の世界では孔雀明王といわれています。またインドでは国鳥になっています。 世界中で時代を超えて人々の視線を集めてきた孔雀が、日本にもたらされ芸術作品に取り入れられていった軌跡を辿ってみましょう。孔雀の歴史や魅力を知ることで日本の美術作品の楽しみ方も増えるかもしれません。 孔雀はいつから日本にいた? 生きた宝石ともいわれる美しい鳥「孔雀」の絵が日本に入ってきたのは飛鳥時代といわれています。 日本書紀の記録によると、598年に朝鮮半島の新羅から推古天皇のもとへ献上品として孔雀が贈られました。 以来、日本で孔雀は仏教彫刻や仏教絵画として表現されてきました。 たとえば、狩野派発展の基礎を確立したとされる狩野元信は『四季花鳥図屏風』のなかで四季折々の花と一緒に艶やかな孔雀を描いています。 江戸時代に入ると、絵師たちは鶏や鶴など日本に生息する鳥以外にも孔雀やオウムなど舶来の鳥をモチーフに絵画を制作するようになりました。 孔雀は花鳥画の一部としてだけではなく、日本絵画の主役としても描かれるようになっていきます。 孔雀を主題として描いた有名作品の一つに、尾形光琳が描いた『孔雀立葵図屛風』があります。 江戸時代後期になると、写実派の絵師である森狙仙が印象的な孔雀の絵を描きました。 森狙仙といえば「猿描き狙仙」と称されるほど生き生きとした猿の絵を描くことで有名ですが、この写生に重きをおいた彼の画風は、孔雀をはじめとするほかの動物の絵画においてもその技術を存分に発揮しています。 縁起物としての孔雀 鮮やかで美しい羽根が印象的な孔雀は、生命力が強い鳥といわれており、毒蛇や害虫すらも食べてしまうといわれています。そのため、古来より孔雀は、邪気を払う鳥として信仰されてきました。 また、繁殖力も高いため子孫繁栄の意味をも持っている鳥です。そのため、結婚式用の着物には孔雀の柄がよく利用されています。 古くから不滅のシンボルとして世界中で崇められるとともに、孔雀の美しい羽と優雅な姿は富をイメージさせ、繁栄をもたらすとされてきました。特にインド文化では孔雀が富と吉祥の象徴とされており、寺院や宮殿の装飾や祭りでよく使用されています。 キリストの聖書では、扇のように広げられた孔雀の飾り羽は太陽を表しており、神の象徴として扱われています。また古代ギリシャ人は孔雀の肉は死後も腐らないと信じていたため、孔雀は不死の象徴となりました。 有名作家も描いた、美しい孔雀 飛鳥時代に日本へ伝わってきた孔雀は、多くの掛軸作家によって描かれています。 世界中の人々を魅了する孔雀を日本作家はどのように描き、表現しているのか気になるところです。また作家の画風や特徴が反映された孔雀画を見比べて鑑賞してみるのもよいでしょう。 有名作家が描いた孔雀作品を知り、孔雀掛軸の鑑賞の楽しみ方を見つけてみましょう。 円山応挙 作家名:円山応挙(まるやまおうきょ) 代表作:『牡丹孔雀図屏風』 生没年:1733年-1795年 円山応挙は日本写生画の祖といわれている画家で、江戸時代の半ばに京の都を活動の場としていました。 円山応挙が描く多くの作品は、優れた写生技術と余白の空間意識が見事に表現されています。 数多くの名作を生み出した円山応挙は、孔雀の絵を描いていることでも有名。円山応挙が描いた『牡丹孔雀図屏風』には、雄孔雀が太湖石に立ち美しい飾り羽をたらしている様子と、そのそばに歩み寄る雌孔雀が描かれています。 円山応挙は狩野派や舶来玩具に使われていた西洋の遠近法や陰影法、さらには中国の写生的な花鳥画に学んだ南蘋派などさまざまな画風から学び、絵の技術を磨いていきました。『牡丹孔雀図屛風』も円山応挙の高い写生技術と装飾的な画風が魅力を呼び、人々から人気を集めていました。 作品を細かくみていくと、雄孔雀の首から胸元にかけては羽毛が詰まって膨らんでいるような表現が、絵具をあまり盛らずに表現されています。 飾り羽は重なりを表現するかのように、下から繰り返し線を重ねて描かれているのが分かります。 これらの高い絵の技術により、量感や質感が巧みに表現されているのが魅力といえるでしょう。 長沢芦雪 作家名:長沢芦雪(ながさわろせつ) 代表作:『牡丹孔雀図』 生没年:1754年-1799年 長沢芦雪は20代後半で奇想の画家と呼ばれ、人気絵師として多くの有名作品を残しています。 そしてその長沢芦雪もまた迫力のある孔雀の絵を描いています。 『牡丹孔雀図』は、孔雀の羽の質感を表現しているかすれた墨線や、意識的に形をゆがませている玉模様、水墨画のにじみによりリアリティのある岩など、長沢芦雪の形態感覚や運動感覚が活かされた作品です。 空中には紋白蝶が飛んでおり、牡丹の花弁や地面に小さな蟻や蜘蛛まで描かれています。 随所に繊細な長沢芦雪の絵画技術がみられる『牡丹孔雀図』は、すみずみまで鑑賞したい作品といえるでしょう。 伊藤若冲 作家名:伊藤若冲(いとうじゃくちゅう) 代表作:『孔雀鳳凰図』 生没年:1716年-1800年 伊藤若冲は江戸時代に活躍した画家の一人。 独学で絵を学び、1800年に84歳で亡くなるまで多くの名作を生み出し続けました。 伊藤若冲作品の魅力は、卓越した技巧から生み出される色彩豊かで綿密な描写と、どこか超現実主義を思わせるような幻想的な表現力です。 斬新な発想力や常識に捉われない画法が今日まで多くの人を魅了しています。 伊藤若冲は動物や植物などの自然を題材にした作品を多く残しており、孔雀を題材にした作品も描いています。 『孔雀鳳凰図』は伊藤若冲の生誕300年にあたる2016年に発見された絵画です。 42歳前後に制作された絵といわれており、伊藤若冲の画風がまだ成熟する前の時期にあたります。そのため、この作品からは初々しさが感じられるものの、細部まで綿密に描かれた描写が魅力的な作品であるといえるでしょう。 縁起の良い孔雀掛軸を観賞しましょう 鮮やかで大きく広がった羽が印象的な孔雀を題材とした作品は、日本でも多く描かれており、写実的な作品から色鮮やかで幻想的な作品までさまざま。現に、孔雀を題材とした掛軸も多く残されています。 孔雀の幻想的な姿は、現在に至るまで多くの絵師たちの創作意欲を掻き立て、今もその作品は多くの人を魅了し続けています。 孔雀は古くから世界中で縁起の良い鳥とされ、子孫繁栄の意味や不死の象徴、富と繁栄をもたらすなどといわれてきました。 日本の絵師たちが描いた孔雀作品を鑑賞するとき、孔雀の絵に込められた意味や思い、歴史を想像して見ると、より一層深く作品を堪能することができるでしょう。
2024.09.17
- 掛軸とは
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茶室で見かける「喫茶去」の掛軸にはどんな意味が込められている?
茶室に掛軸が掛けられているのを目にしたことがある人もいるかもしれません。 茶室にある掛軸には絵が描かれている場合もあれば、書が書かれている場合もあります。 実は、茶室に飾られている掛軸は単なるインテリアではなく、さまざまな意味や気持ちが込められているのです。 例えば、茶掛け掛軸にはよく禅語が用いられています。 禅語とは禅宗の心を表現したもので、茶道と密接な関係があります。 禅語の一つとして有名な「喫茶去」という言葉。 こちらもお茶に深く関わりのある言葉です。喫茶去の意味や茶道と掛軸の関係性を探り、両者の魅力をより深めていきましょう。 茶席で見かける「喫茶去」の掛軸 「喫茶去」は、禅語の一つ。 茶道において飾る茶掛け掛軸に書かれているのを目にしたことがある人もいるでしょう。 「喫茶去」に“茶”の字が含まれていることから、お茶に関係する意味を持っているのだろうと推測できますが、具体的にどのような意味を持っているのか知らない人も多くいます。 茶の湯と関係の深い禅語である喫茶去の言葉の意味を知り、茶道と禅の関係性についてより理解を深めていきましょう。 「喫茶去」の意味 喫茶去とは禅語の一つで、お茶を飲む行動について示している言葉です。 「喫」は飲むこと、「茶」はお茶、「去」は去ることを示しています。 お茶を飲んで去る、とそのまま読むとあまり意味が分からないですが、実は、喫茶去には相反する2つの意味が込められています。 入矢義高の『禅語辞典』によると、喫茶去には「お茶を飲んでこい」「お茶を飲みに行ってこい」と、叱責の意味があるとしています。 つまり、お茶を飲んで出直してこい、と相手の怠惰を叱咤するものとして使われていました。 一方で、中国・唐時代の趙州従諗禅師の話がもとになった意味もあります。 こちらは「まあゆっくりお茶でも飲みましょう」という意味で使われているようです。 趙州従諗禅師の話では、趙州禅師のもとに新しくやってきた2人の行脚僧に対して、趙州禅師は「前にもこちらに来たことがあるか?」と尋ねました。 修行僧の1人が「来たことがありません」と答えると趙州禅師は続けて「喫茶子」と言いました。 趙州禅師はもう1人の修行僧にも同じように尋ねると、修行僧は「来たことがあります。」と答えました。趙州禅師はこの返事に対しても「喫茶子」と言ったのです。 院主が趙州禅師になぜ初めての者にも、前に来たことがある者にも茶を飲みに行けと言うのか尋ねたところ、趙州禅師は「院主どの!」と呼びかけ、それに「はい!」と答えた院主に対して「喫茶子」と言いました。 趙州従諗禅師が言った喫茶去の真意は、禅の修行を長年積んでこそ体得できるものでしょう。 この逸話から知っておくべきことは、どのような者に対しても分け隔てなく「お茶を飲みましょう」と言った趙州禅師の心の在り方ではないでしょうか。 このエピソードがもとになり、喫茶去は叱責ではなく「お茶でも飲みましょう」という意味合いであるといった考えが生まれ、今日に至ります。 茶道においては、お茶を出す者もいただく者も、喫茶去が持つお茶を飲みましょうという心を持ち、茶の湯の時間を楽しむことが大切です。 お茶と人に対するこの気持ちを心にとめてお茶をいただくためにも、喫茶去の掛軸を茶室に飾るとも考えられるでしょう。 茶席で掛軸は重要な茶道具 茶道における茶道具は何かと尋ねられたら、茶碗や茶杓を思い浮かべる人が多いでしょう。実は、掛軸も茶道において重要な役割を担っているのです。 茶道を嗜んでいると、茶室に入ると真っ先に掛軸へ目が行くという人もいるでしょう。 茶道と掛軸は密接な関係にあり、最も格式が高く大切な道具とも言われています。 茶道において掛軸が最も大切な道具と言われる所以は、茶道の根底には禅の心があり、掛軸には禅の文化を表現する禅語が書かれていることにあります。 たとえば、茶掛け掛軸には「一期一会」「和敬静寂」「日々是好日」などの禅語が好まれ書かれているのです。そして、「喫茶去」も禅の言葉であり、茶掛け掛軸によく書かれている言葉の一つです。 茶室に掛軸を掛ける理由としては、神聖な空間には格式の高いものを飾るべきというお茶の心からきているとされています。 また、掛軸には茶席の主人が客人をおもてなしする際の心が表現されています。 茶道における茶掛け掛軸には、その時々にあわせた作品が飾られ、意味合いも異なるということです。 茶道をたしなむとき、掛軸に書かれた禅の言葉の意味を考えたり、主人のおもてなしの心を想像してみたりすることで、これまでとは異なるお茶と掛軸作品の楽しみ方ができるでしょう。 「喫茶去」は分け隔てのないおもてなしの心 喫茶去は相反する2つの意味を持ち合わせた禅の言葉です。一つは「茶でも飲んで出直してきなさい」という相手を叱責する意味があります。もう一つは「またゆっくりお茶でも飲みましょう」というゆとりのある心を表現しています。 もともとは叱責の意味合いで使われていたようですが、趙州従諗禅師の返答の異なる2人の修行僧に「喫茶去」と答えたエピソードにより、現在では、この「お茶でも飲みましょう」という意味合いでの使われ方が広まっていったと考えられるでしょう。 お茶の心を表現したり、主人のおもてなしの心を表現したりする茶掛け掛軸。 お茶を楽しむ際は掛軸に書かれている禅語の意味にも目を向けてみると、より茶道の心と掛軸への興味が深まるでしょう。
2024.09.17
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茶会などで見る掛軸、「円相」とは?
日本の伝統的な芸術品である掛軸。 掛軸と一口にいっても書が書かれているものや絵が描かれているものなどさまざまです。 掛軸に丸い円が描かれている作品を見たことがある人もいるでしょう。 掛軸に描かれている円は、円相と呼ばれます。 禅の文化と深くかかわりのある図形で、茶道において掛ける茶掛け掛軸として欠かせない作品の一つ。円相の意味を知ることは禅の心を知ることにもつながるでしょう。また茶道の心にまで通ずるものがあります。 円相や禅宗、さらには茶道との関係性を理解し、掛軸への興味をより深めていきましょう。 掛軸の「円相」とは 円相とは、大乗仏教の一派である禅宗における書画の一つ。 円形の図を一筆で描いたものを指します。別名、一円相や円相図などとも呼ばれています。 禅では、悟りの境地を説明したり文字で表現したりすることを禁じられているため、見た人の心を映し出す円を悟りや真理の象徴として描かれていました。円相の書き方に決まりはなく、心でとらえるものとして書くことが大切とされています。 円相に込められた意味 円相は先述したように、禅における悟りや真理の象徴とされており、空・風・火・地を含む世界全体の究極の姿です。 「円窓」と書いて己の心を映す窓の意味で使われることも。 円相はよく臨済宗の位牌や塔婆の1番上に描かれています。また始まりも終わりもなく、角に引っかかることもない円の流れ続ける様子は、仏教の教えである捕らわれのない心や執着から解放された心を表しているともいわれています。 円相にはさまざまな意味が込められており、見る人によって解釈が異なるものといえるでしょう。 円相の掛軸が掛けられるシーン 円相が描かれた掛軸は、よく茶の湯の席の茶掛け掛軸として用いられています。 茶道で円相の掛軸が飾られるのは、茶道の根底に禅の文化があるためです。 茶道と禅宗のかかわりは鎌倉時代から続いており、当時宋で修行をしていた栄西が帰国した際に、一緒に抹茶を持ち帰ったとされています。禅宗の臨済宗を日本に伝えた僧である栄西により、抹茶と禅宗が広まっていきました。 また、道元によって曹洞宗が伝わり禅宗文化が徐々に根付いていきました。 その後、修行によって自らの心を鍛える武士たちが禅の文化を受け入れていき、あわせてお茶の文化も武士の間で親しまれていきます。 その後、千利休によって茶の湯が大成されました。 利休が思い描いていた茶の湯の理想は、禅宗が目指すすべての欲望や煩悩を消し去り、悟りの境地に至ることと同じでした。この理想をきっかけに、より禅の思想が強く反映された茶道が確立されていったと考えられます。 このように茶道と禅は密接な関係にあり、禅の思想を表す円相もまた茶道と密接な関係にあるため、茶掛け掛軸において円相が描かれた掛軸が良く用いられるといえるでしょう。 円相を描いた有名作家・作品 禅文化において、悟りや真理の象徴とされる円相はさまざまな作家によって描かれています。 円形の単純明快な図形でありながら、最も理解するのが難しい円相。そのような円相を高僧や有名作家はどのように表現しているのか気になるところです。 南陽慧忠 作家名:南陽慧忠(なんようえちゅう) 生没年:675年-776年 南陽慧忠は、中国の唐時代の禅僧です。 越州諸曁の人で姓は冉氏、名は虎茵。円相を初めて示したのが南陽慧忠といわれています。幼いころから仏法を学び経典に堪能だった南陽慧忠は、慧能の門下に入り悟りを得ました。慧能の入寂後は五嶺や四明山、天目山などを遊覧して回りさらに学びを深めていきました。 南陽慧忠の禅のスタイルは、五大禅匠の中でも異彩を放っており、無情説法を初めて説き禅の教学的理解を深めていくことの必要性を説いています。彼が初めて示した円相は耽源に伝授され、さらに潙仰宗の仰山慧寂に伝えられていき、以後潙仰宗によって後代まで示されることとなりました。 沢庵宗彭 作家名:沢庵宗彭(たくあんそうほう) 生没年:1573年-1646年 沢庵宗彭は江戸時代初期の禅僧です。 但馬国出石出身で、出石の宗鏡寺や堺の南宗寺、京都の大徳寺などの住職を歴任しています。大徳寺の住持を3日で去ったという逸話を残しています。 江戸幕府が成立すると、寺院諸法度により寺社への締め付けが厳しくなりました。 大徳寺の住持職を幕府が決め、幕府が認めた者にのみ天皇から賜る紫衣の着用を許可しない定めが作られると、沢庵宗彭は反対運動を行い出羽国へ流罪となってしまいます。紫衣とは、紫色の法衣や袈裟を指し、古くから宗派問わず高い徳を積んだ僧侶が朝廷から受け取るもので、僧侶の尊さを表すと同時に朝廷の収入源でもありました。 赦免後は家光の教えに従い、柳生宗矩の屋敷に仮住まいを置き、剣禅一味の境地を説きました。その後は品川の東海寺の創建に協力し、73歳で亡くなっています。沢庵宗彭が描いた『円相像』は、手書きとは思えない完璧な円です。 仙厓義梵 作家名:仙厓義梵(せんがいぎぼん) 生没年:1750年-1837年 仙厓義梵とは江戸時代後期の禅僧で、ユーモアに富んだ書画を通して禅の教えを広く伝えました。 仙厓義梵は11歳のときに臨済宗清泰寺で古月派に属する空印円虚のもとで悟りを得ます。19歳で武蔵国永田の月船禅慧の東輝庵の門下となり、印可を受けました。32歳のときに月船の遷化を契機に諸国行脚の旅に出ます。39歳で九州博多の聖福寺の盤谷紹適に招かれ、40歳で住職となりました。 仙厓義梵は『一円相画賛』を描いた禅僧です。 円相とは悟りの境地を表現するものでありますが、仙厓義梵はこれを「茶菓子だと思って食べよ」と謳っており、禅において大切にされてきた円相を簡単に捨て去ろうとする態度が読み取ることができます。 円相の掛軸は、描いた人・見る人の心を映す 円相は禅における悟りや真理の象徴とされている図です。 禅宗では悟りの境地を言葉で説明したり文字で表現したりしてはいけないとされているため、見た人の心を映し出す円を、悟りや真理の象徴として描いています。 円相の掛軸は、主に茶の湯の席で飾られます。 茶道の心と禅の心は通ずるものがあり、茶道の根底に禅文化があるとされていました。 そのため、茶道を行う茶室では円相の掛軸が好んで掛けられました。禅の心を表す円相の掛軸は描いた人や見る人の心を映すものとされており、現在でも掛軸に描かれる題材の一つです。茶道をたしなむ際は、茶室に円相の掛軸が掛けられているか確認してみるのも良いでしょう。
2024.09.17
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床の間にかける掛軸の選び方
現代でも和室や床の間の壁に飾られている掛軸。 家の様式の変化とともに掛軸を飾る文化も落ち着いてしまっていますが、日本の伝統文化として古くから親しまれています。また、お茶の文化とともに発展してきた掛軸文化は茶席でも活躍する芸術品です。 普段掛けや季節掛けなど特徴をもった掛軸の種類を知ることで、より掛軸鑑賞の楽しみ方が増えるでしょう。 掛軸はいつから床の間に飾られているのか 何気なく床の間に飾ってある掛軸が、いつの時代から飾られるようになったのか知らない人も多いでしょう。 掛軸文化は日本で古くから親しまれてきた伝統的文化です。掛軸の起源は中国であるとされており、飛鳥時代に初めて日本に入ってきたといわれています。 当時は仏教を広めるための道具として仏画の掛軸が伝わってきました。当時は、僧侶や貴族が掛けて拝するのが主な用途でした。その後、時代の変化とともに、掛軸のもつ目的も変化していきます。 床の間に掛軸を掛けだしたのは鎌倉時代から 鎌倉時代になると掛軸は仏画だけではなく、頂相や詩画軸も描かれるようになりました。頂相とは宗派の祖師の肖像画のことです。詩画軸は描かれた絵の上部に漢詩を書く画を指します。また、同時代に宋朝の表具形式が日本に伝わってきました。その後、日本独自の変化を遂げ日本掛軸の基本的な形式が確立するきっかけとされています。 鎌倉時代後期から室町時代にかけては、書斎を主室とする書院造りが流行り、書院には押板と呼ばれる奥行きの浅い横長の厚い板を敷いた部分があります。 もともと押板には礼拝用の花瓶・香炉・燭台の3点セットが置かれていました。慣習化されていった礼拝をしっかり行うために造り付けの床である押板床が発展していきます。 さらに室町時代に入ると、武家屋敷内で主君を迎える場所をほかよりも一段高くするために、押板が取り付けられました。 背景の障壁画にあわせて主君の権威や格式を表すために、掛軸を掛けるようになったのが現在の床の間の始まりとされています。 室町時代には「観賞用」「茶道具」として愉しまれるように 室町時代後期ごろからは、これまでの仏画掛軸を掛けて拝する文化から、絵画芸術としての文化が広まっていきました。 当時、中国画人が描いた書画を上中下の3段階に分類するようになり、のちにやまと表装と呼ばれる「真・行・草」と呼ばれる格式を表現する表装形態が確立されていきます。 また安土桃山時代には武人の間で茶の湯が盛んに行われました。 お茶の文化を大成させたといわれる千利休の影響もあり、茶の湯の席に掛軸を飾る文化が主流になっていきました。 掛軸には禅の心をあらわす禅語が書かれた書が一般的に用いられ、茶席は僧侶の精神性に触れて敬意を払う場として利用されるようになっていきます。また、茶道の心に通ずる禅語が書かれた掛軸は、茶道のなかで最も格式の高い大切な道具とされています。 現代では、床の間のない家も増えたが… 現代では、洋式の一軒家やマンションが増えたことで和室や床の間のない家庭も増えてきています。それと同時に掛軸を飾る文化も減少してきました。伝統工芸の一つ掛軸に接する機会が減ってきている現状があります。 しかし、掛軸は美しい自然や禅の心を感じられるかけがえのない日本の伝統です。 現代では洋装のリビングや玄関にあうような表装を施してくれる業者もあります。掛軸に関する知識や楽しみ方を知る機会が減ってしまったなか、掛軸がまた身近なものとなるためにはその選び方を大切にしたいものです。 床の間の掛軸のサイズは? 掛軸のサイズは一つではなく複数あります。 そのため自宅の床の間の大きさにあったサイズの掛軸を選ぶことが大切です。 標準的な掛軸のサイズは横幅が54.5cm、縦幅が190cmで、「尺五」と呼ばれています。この尺五を基準として、尺五より小さいサイズを「尺三」、大きいサイズを「尺八」と表します。おおよそのサイズは、尺三は横幅53cm、縦幅188cm、尺八は横幅64.5cm、縦幅190cmです。 床の間にあう掛軸のサイズは、掛軸の横幅が床の間の横幅の3分の1といわれています。掛軸を購入する際は、自宅の床の間のサイズを測ってから、横幅のサイズがあう掛軸を選ぶとよいでしょう。バランスが整い、より掛軸や空間を魅力的なものにしてくれるでしょう。 床の間の掛軸にはどんな書画がいい? 床の間に飾る掛軸はサイズをチェックすることも大切ですが、せっかく鑑賞して楽しむため、描いている絵や書にも着目したいものです。掛軸は主に年中掛けられる普段掛けと、季節の景色や情景を楽しむ季節掛けの2つに分けられます。どちらも違った楽しみ方や魅力があります。 床の間にあう普段掛け掛軸 普段掛け掛軸とは、季節問わず一年中掛けられる掛軸を指します。 年中掛けとも呼ばれています。普段掛け掛軸の定番は、山水画や四季の花が描かれた四季花などです。また魔除けの虎や吉祥の龍、幸運を表現するフクロウなども普段掛け掛軸として用いられています。そのほか、年中掛けられる掛軸としては赤富士や四神図、翁、寿老人、瓢箪などがあります。 掛軸は年中掛けっぱなしにしていると傷みが早くなってしまうため、定期的な掛け替えが必要です。そのため、普段掛け掛軸は2本以上もっておくとよいでしょう。最低でも2本もっておけば、交互に掛け替えられるためお勧めです。 普段掛け掛軸として利用しやすい定番の絵はありますが、必ず定番の絵でなければいけないわけではありません。掛軸には自分の好きな絵を飾ることも大切です。本来の掛軸は季節や用途にあわせて掛け替えるものですが、あまりハードルを上げすぎず普段からお気に入りの掛軸を掛けて鑑賞するのもよいでしょう。 床の間にあう季節掛け掛軸 季節掛け掛軸とは、季節にかかわる絵や書が書かれた掛軸を指します。 たとえば、季節を象徴する花や草木、景色、生き物などが描かれます。季節掛け掛軸は日本特有の美しい四季を楽しめる芸術品の一つです。 日本の四季は春夏秋冬の4つですが、季節掛け掛軸は、季節の移り変わりにあわせてさらに細かく分けられる場合もあります。 春の季節掛け掛軸の代表としては桜があります。 桜は誰もが知る日本を象徴する花です。春掛けの代表的な画題で、床の間に飾れば自宅でもお花見気分を味わえるでしょう。 ほかには木蓮があります。大きな紫色の花が見事に咲き誇る姿は気品を感じられる掛軸です。 夏の季節掛け掛軸の代表としては朝顔があります。 夏の花といわれて真っ先に思いつく花の一つが朝顔ではないでしょうか。夏の風物詩として知られる朝顔は、朝露が立ち込める夏の朝に次々と花開く姿が、情緒豊かで印象に残ります。古くから日本人に親しまれている花で、江戸時代には2度の朝顔ブームがあったとされています。 そのほか夏の掛軸の題材としてよく描かれているのが、カワセミです。 鮮やかな青色の羽をもち、動く宝石ともいわれています。実は季節を限定する生き物ではありませんが、青い羽根をもつカワセミが水辺にたたずむ姿は、さわやかで涼しげな印象を与えるため、夏の季節掛け掛軸として親しまれています。 秋の季節掛け掛軸としては紅葉が人気です。 夏は桜、秋は紅葉といわれるほど、日本の秋を美しく彩っている植物といえます。鮮やかな赤や黄色の葉は、掛軸に描いても映える画題です。鳥を一緒に描いて花鳥画とする場合もあれば、引きで描いて風景画とする場合もあります。さまざまな表情を見せてくれる紅葉は作家にとっても腕がなる画題といえるでしょう。 冬の季節掛け掛軸として人気が高いのは雪景が題材の画です。 雪景といってもさまざまな風景を題材にした掛軸があります。雪景色の山水画を描いた作品もあれば、日本の名所が雪に覆われている様子を描いた風景画の作品もあります。とくに神社仏閣の雪景は非常に美しく、古くから好んで描かれてきました。 仏事や慶事にも掛軸を選ぼう 仏事とは、法事や弔事、お盆、お彼岸などの仏教に関連する行事全般を指します。 また仏事で掛けられる掛軸を仏事掛けと呼びます。仏事掛けは主に字像と絵像の2種類です。字像とは文字が書かれた掛軸で、絵像は絵が描かれた掛軸を指します。字像の掛軸としてよく書かれている文字は「南無阿弥陀仏」です。絵像の場合は、「十三佛」や「観音菩薩」、「阿弥陀来」などが描かれた作品があります。 床の間の掛軸選びで、日本の心を愉しもう 古くから日本で親しまれてきた掛軸は、床の間に飾る鑑賞用としても親しまれてきましたが、茶席で茶の精神を表す大切な道具としても扱われてきました。 現代では床の間が減り、家庭で飾られることも少なくなりましたが、自宅に飾りたいと考えている方はぜひ掛軸の種類や特徴をみて自分好みの掛軸を見つけてみてください。 また、掛軸は長期間掛け続けてしまうと傷みが早くなるため2作品以上購入して、一定期間で取り替えると長く楽しめるかつ、さまざまな題材を楽しめるでしょう。
2024.09.16
- 掛軸とは
- 掛軸の種類
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茶掛の禅語にはどんなものがある?茶の湯で大切にされてきた禅の言葉
掛軸は古くから日本人の間で楽しまれてきた芸術品の一つです。 一般的に床の間にかけて飾られている掛軸をよく目にします。 また、日本では茶席でも掛軸を飾る文化が古くからあります。掛軸作品には花鳥画や山水画、浮世絵、仏画、書画などさまざまな種類がありますが、茶の湯とともに普及した茶掛掛軸にはどのような作品が用いられるのか気になる方もいるでしょう。 茶道は禅文化とのかかわりが深く、茶掛掛軸としてよく禅語が書かれた作品が用いられています。 茶掛掛軸とは 茶掛掛軸は日本のお茶の文化を味わうために欠かせない芸術品です。 日本では古くから茶の湯の席で掛軸作品を飾る文化がありました。 茶道と聞くと、茶碗や茶筅などを思い浮かべる人が多いでしょう。しかし、実際に茶道に触れて親しむようになってくると、掛軸が茶室の雰囲気を作っていることに気づきます。 実は、掛軸は茶道において最も大切な道具ともいわれているのです。 茶掛掛軸には茶道の根本にある禅の文化を表す禅語が書かれています。 また、円相と呼ばれる悟りや心理など禅の心を象徴的に表現した掛軸が飾られることもあります。 また、何が書かれているかも大切ですが、誰が書いたかも重要視するのが茶掛掛軸の特徴です。そのため、文字の上手い下手や好みで掛軸の良し悪しを図ることはありません。それだけ誰が書いた作品であるかを重視しているのです。 茶道は流派を大切にする日本の伝統的行為のため、家元が自ら書いた書で制作された掛軸は、何代にもわたって大切に飾られています。 ほかにも茶掛掛軸として天皇家ゆかりの人物や歌人、武将、文化人などさまざまな人物によって描かれた作品が掛軸として用いられています。 茶掛掛軸として用いられる禅語 茶道の心と禅の心を知るための拠り所として飾られる茶掛掛軸。 茶席ではお客さまをどのようにおもてなしするかを掛軸に書かれている言葉で表現することもあります。 そのため、茶道にとって茶掛掛軸は単なるインテリアではなく、客人をおもてなしするための重要な役割を果たしているのです。 茶掛掛軸によく書かれている禅語とは、禅僧が自らの悟りの境地や宗旨を表した語句を指します。掛軸に書かれている禅の心を表す言葉を読み解くのも茶道の楽しみ方の一つといえるでしょう。 一期一会 一期とは一生を表し、一会とは唯一の出会いを意味しています。 つまり、一生において一度きりの出会いということです。 一期一会という言葉は茶道の世界で生まれました。茶席で同じ客人に何度もお茶をたてることはあっても、今日のお茶会は二度とない一度きりの茶会。そのような気持ちで客人を全身全霊おもてなしできるよう茶会に臨むという茶人の心から生まれた言葉です。 人と接するときは一生で一度きりの出会いだと思うと、その一つひとつの機会がとても貴重なものに見えてくるでしょう。 和敬静寂 和敬清寂とは、茶をたてる主人と茶をいただく客人がお互いの心を和らげて敬いあい、さらに精神だけではなく茶道具や茶室、露地を清らかな状態に保つことで澄み切ったこだわりのない境地に達することができる、という意味を持っています。 考え方や価値観の異なる人々が一緒に生きていくためには、お互いを尊敬しあう心が必要です。そのような心は清らかで静かな心境からしか生まれないとされています。 日々是好日 日々是好日とは、過去をむやみに悔いたり、未来を必要以上に期待したりせず、いま現在を精一杯生きることに努めるよう説いた禅語です。 「昨日は嫌な一日だった」「今日はいつもよりいい日だった」というのは自分で作り上げた気持ちでしかなく、本来はいつの日でもかけがえのない尊い日であるはずということを示しています。 喫茶去 喫茶去も禅語の一つで、喫は飲むこと、茶はお茶、去は去ることを示しています。 もともとは「お茶を飲んできなさい」「お茶を飲んで目を覚ましてきなさい」といった相手の怠惰を叱責するための言葉でした。 しかし、のちに「お茶を召し上がれ」という意味に解釈され、相反する意味を持った禅語となりました。 拈華微笑 拈華微笑とは、仏教を説いたブッダと弟子の摩訶迦葉との間で交わされたやり取りを表した言葉です。言葉を使わずに心から心へ教えを伝えることを意味しています。 福寿海無量 福寿海無量とは、幸せの集まった海が無限に広がっている様子を表した言葉です。 禅の教えでは、幸福というのはいま自分がいる場所に広がっていると考えます。この考え方は禅の中でも最も重要な考え方の一つです。つまり、禅の考え方では禅語の福寿の海とはどこか知らない遠くの場所にあるのではなく、いま自分がいる場所に広がっているのです。 平常心是道 平常心是道には、日常に働く心の在り方がそのまま悟りであるという意味があります。 一般的に使われている平常心は、落ち着いて普段通りかつ冷静に努めることを意味していますが、禅語における平常心とは真っさらなありのままの心を素直に受け止めるという意味です。 和顔施 和顔施とは「人と接するときはいつも笑顔でいましょう」という意味があります。 仏教では眼施、和顔施、言辞施、身施、心施、床座施、房舎施という教えがあります。見返りを求めず人によい行いをすると自分も他人も幸せな気持ちになるというものです。 本来無一物 本来無一物とは六祖慧能大師の言葉で、事物はすべて本来空であり、執着するものは何一つないという意味があります。 人は何も持たずに生まれてきますが、地位や名誉、物欲、承認欲求などいろいろな執着に悩まされます。しかし、本来は何も持っていないのだから執着を捨ててありのままに素直に生きてみましょう、という教えです。 禅語が書かれた掛軸は、茶の湯の必需品だった 茶の湯の席では、茶道の根底にある禅の心を表すために禅語が書かれた掛軸を飾る文化があります。 禅語が書かれた茶掛掛軸は、茶道を極める重要な道具として、古くから丁重に扱われてきました。また、茶道では禅語以外にも季節にあわせた掛軸を飾り茶室を彩るなど、掛軸と密接な関係を築いているといえます。 茶道で用いる掛軸に決まりはなく、茶の湯の主人が目的にあわせ飾ることが多いようです。 茶掛掛軸として用いられている一期一会などの禅語は、茶の湯の席に限らず私たちが日常的に大切にしている言葉の一つでもあります。茶道を楽しむ際は、重要な役割を果たしている茶掛掛軸にも目を向けて、禅語の意味を考えながらお茶を楽しむのもよいでしょう。
2024.09.15
- 掛軸とは
- 掛軸の種類
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茶掛掛軸を高価買取してもらおう
茶掛掛軸は現代の日本においても価値が高く、作品によっては高価買取が目指せる芸術品です。 代々受け継がれてきた茶掛掛軸をお持ちの方や、自宅に飾っていた掛軸の価値を知りたい方は、経験豊富な査定士に依頼してもらうのもよいでしょう。 査定に出す前に、茶掛掛軸にどのような価値があるのかを知るために歴史や文化を辿ることも大切です。 なぜ茶道において掛軸が重宝されているのかを知ることで、より茶掛掛軸の魅力や価値を再発見できるでしょう。 掛軸は茶会で欠かせない存在 古くから日本で親しまれてきた掛軸文化。 起源は中国ですが日本に入ってから独自の発展を遂げ、多くの名作が生まれています。 掛軸の中でも茶会で用いられる掛軸を茶掛掛軸といいます。 茶道では茶碗や茶杓などお茶をたてる道具に目が行きがちですが、実は掛軸も茶の湯の場に欠かせない道具の一つなのです。 今日までの日本で掛軸文化が親しまれているのは、茶道において掛軸を飾る文化があったからといっても過言ではありません。それほど茶道と掛軸は深い関係性にあります。 茶の湯とともに普及した茶掛掛軸 掛軸の起源は中国とされており、日本には仏教とともに伝わったといわれています。 飛鳥時代にはすでに仏画として掛軸が入ってきていたと考えられているようです。本格的に掛軸が制作されるようになったのは平安時代のころです。 平安時代は、遣唐使として中国に渡っていた空海が曼荼羅を持ち帰ったことにより、日本でも曼荼羅政策が始まった時代。そこから仏画の制作や掛軸の表装技術が急速に発展していったといわれています。 平安時代ごろ、中国ではすでに水墨画や山水画の技法が確立され多く描かれていましたが、日本の現存する作品の多くが仏画であることから、日本では仏教のための仏画が主流であったと推察されます。 鎌倉時代に入ると中国の禅宗の影響を受け、多くの水墨画が日本に渡ってきました。 その中には仏画以外にも花鳥画や山水画などがあり、日本における掛軸の存在が仏教を広めるためのものだけではなく、芸術品としての価値があるものに変わっていきました。 このころから水墨画を芸術作品として鑑賞するために飾る文化が始まっています。 室町時代になると「わびさび」「幽玄」など日本独自の美意識が成熟していきました。 また、掛軸と縁の深い存在である床の間もこの時代に確立されています。 そして、床の間で最も重要視されたのが掛軸です。床の間は日常と芸術をつなぐ空間という目的をもって作られており、風景画や花鳥画、肖像画、書画などさまざまな絵画が飾られるようになりました。 また、室町時代では中国からもたらされた茶の文化により、茶道が広く普及し始めます。 茶室の床の間に飾る絵画として、掛軸が茶道においても重要な存在になっていきました。 安土桃山時代には、茶の湯を大成させた茶人として有名な千利休が茶道における掛軸の重要性を説くようになり、茶道をたしなむ人々の間で急速に掛軸が流行します。 ただ飾っておくだけではなく、客人や季節、時間帯などを意識して掛軸を掛け替える習慣が生まれ、場面ごとの格式を掛軸で表現する考え方が広まっていきました。 また、安土桃山時代では、織田信長や豊臣秀吉などの名だたる時の権力者も茶の湯を好んでおり、床の間の様式が著しく発展していきました。それに伴い掛軸として飾る絵画の技術や表装技術も進化を遂げていきます。 このように掛軸文化と茶道文化は密接な関係性にあり、今日でも日本人の生活に根付く芸術性の高い文化となっているのです。 茶室に掛軸を飾る意味 茶道において茶室に飾る掛軸を、茶掛掛軸と呼びます。 茶の湯の文化では古くから、神聖な空間である茶室に飾るものは格式高いものであるべきとする考え方がありました。 茶掛掛軸には禅宗の教えである禅語が書かれた書を用いることが多くあります。 ありがたい言葉が書かれている茶掛掛軸は、茶の湯の道具の中で最も格式が高いものとされています。そのため、茶室には掛軸作品が飾られるようになりました。 安土桃山時代に活躍した茶人の千利休も、秘伝書である南方緑に「掛物ほど第一の道具はなし」と記しています。 それほど掛軸は茶席において重要な役割を果たしているとされていたのです。 また、それだけではなくお花やお香、お茶碗などとともに、掛軸は季節感を出すための役割も持っています。 あるいは、季節感を表す以外にも、茶席の主人がお茶にかける思いや客人をもてなす言葉なども掛軸に表すことがありました。 さまざまな意味や思いを持って飾られる茶掛掛軸。 あまり茶道に馴染みのない人は、茶碗や茶杓などに目が行きがちですが、実は、茶道において、茶掛掛軸が最も格式高い道具で、重要な役割を果たしているのです。 もし茶道をたしなむ機会があれば、作法や振る舞いだけではなく、飾られている茶掛掛軸にも意識を向けてみましょう。 茶掛掛軸に書かれている書や絵から茶席の主人のおもてなしの精神を想像してみるのも茶道と掛軸の楽しみ方の一つといえるでしょう。 茶の湯ではどんな茶掛が鑑賞されている? 茶の湯で飾られる茶掛掛軸には禅語が書かれた作品が多く存在します。 ほかにも季節を表す絵が描かれた作品もよく利用されています。 掛軸は茶をたてる主人の心を表すものでもあるため、流派を大切にする茶道では家元が自ら書いた書や絵の掛軸は、何代にもわたって大切にされ丁重に扱われてきました。 茶掛掛軸に書かれる禅語としては、茶道の精神を表している「日日是好日」や「和敬清寂」などが好まれており、この言葉が書かれた掛軸は多く存在しています。 また、書で季節感を表すこともあります。 たとえば、春であれば「春光日々新」や「桃花笑春風」などです。夏になると「薫風自南来」や「山是山水是水」などが飾られます。暑さが和らぐ秋には「万里無片雲」や「清風明月」など、空気が冷たく澄み渡る冬には「庭寒月色深」「三冬鉄樹満林花」などがお勧めです。 また、茶道では書が書かれた掛軸が好まれていますが、中には季節の絵が描かれた掛軸を飾る場合もあります。 たとえば、春には桜や木蓮などの掛軸がよく用いられています。夏になると紫陽花や朝顔、川蝉などが題材としてよく描かれていました。秋には秋の七草や紅葉、稲穂などの絵が親しまれています。そして、冬には南天や雪景、寒牡丹などの絵が好まれます。 室町時代ごろから親しまれるようになった茶道と掛軸を組み合わせた文化。 茶掛掛軸を飾る文化は歴史の中だけではなく、現在もなお多くの茶席で楽しまれています。 茶掛掛軸を買取してもらうには 茶の湯文化とともに古くから日本人に愛されてきた掛軸作品。 中国を起源として仏教を広めるための仏画から始まり、広く民衆が楽しむための芸術品へと発展していきました。 多くの人々から親しまれるきっかけを作ったのは、茶の湯文化ともいえるでしょう。 神聖な茶室には格式の高いものを飾るべきという風習があり、茶の心と通ずるものがある禅語が書かれた茶掛掛軸は、茶道において最も格式の高い道具とされてきました。 そのため、茶道をたしなむ人々の間では、茶碗や茶杓などの道具ではなく掛軸を最も意識して選んでいたともいえるでしょう。 茶掛掛軸には主に禅語が書かれた書を用いますが、季節に合わせた絵画を飾ることもしばしばありました。 現代においても、茶掛掛軸には高い価値があるとされています。 特に禅僧によって書かれた墨蹟は歴史的価値があるといわれています。 墨蹟とは禅僧が書いた肉筆の筆跡のこと。 禅僧が残した墨蹟のある茶掛掛軸は高額査定が期待できます。 ご自宅で茶掛掛軸を保管している方で、作品の価値を知りたい方は一度査定士に依頼を頼みましょう。茶の湯において最も大切にされていた道具の茶掛掛軸。作品によっては高価買取が目指せますので、まずはお気軽に査定をご依頼ください。
2024.09.15
- 掛軸 買取
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風俗画掛軸の買取なら実績ある査定士へ相談しよう
風俗画とは、庶民の生活や日常の様子を描いた絵の総称です。 日本の風俗画がその名前をもって描かれたのは16世紀ごろから。 しかし、風俗描写自体は古くから利用されており、月次絵や名所絵、絵巻物などに多く見られました。江戸時代には浮世絵の題材として庶民の生活や遊里の事柄を描くことが多く、読本が流行り始めた江戸時代以降はとくに多くの人から好まれた題材だったといえるでしょう。 風俗画とは 風俗画とは、その名の通り風俗を題材とした絵画作品です。 日本では16世紀ごろから描かれ始めたとされています。しかし、風俗画描写自体はさらに古くから存在し、古代までさかのぼることが可能です。 奈良時代の法隆寺の天井裏や唐招提寺の梵天像台座などに描かれていた落書きは風俗画のような特徴をもっていました。平安時代の終わりから鎌倉時代にかけて盛んに制作された絵巻には、風俗描写とも捉えられる絵が多く描かれています。 風俗描写をメインにした作品が生まれ始めたのは室町時代の後半ごろで、独立した風俗画が誕生した時期といわれています。 桃山時代から江戸時代初期の近世初期風俗画は、屏風絵や襖絵をメインに制作されました。 狩野派を中心に洛中洛外図をはじめとするさまざまな風俗画が描かれるようになりましたが、時代の流れとともに対象を絞り込むようになり、個々の人物へも目を向けるようになっていきます。 時代が移り変わっていくとともに風俗画を描く作家も民間の絵師たちへ移行していきました。 また、風俗画は過去の出来事や同時代の事件などをモチーフとして描かれることもあり、「事件画」とも呼ばれています。 風俗画にはどんなものが描かれた? 風俗画には庶民の暮らしや様子を描いた作品が数多くあります。 狩野永徳が描いた『洛中洛外図』には、京の市中と郊外の風俗が細かな描写で生き生きと描かれています。 また、風俗画を描いていた有名な流派には、狩野派以外にも海北派や雲谷派、土佐派などがありました。その画風はどれも明るく楽しげな雰囲気の作品が多く、現世肯定の生活感情の反映が見られるといえます。 元和・寛永期ごろからは遊里芝居が好まれ、モチーフとした作品が多く制作されました。遊女の生活に焦点をおき、風俗画の私的な特徴が増したことで書き手の主体も狩野派から民間の町絵師たちに写っていきました。 風俗画の代表的な作品とは 庶民の生活を描いた風俗画は、現代でも多くの有名作品が現存しています。 風俗画は古くから描かれている絵画のため、中には作者がわからないまま博物館や美術館に所蔵されている作品もあります。代表的な風俗画の作品を知ることで、より風俗画に対する知見を深めていきましょう。 阿国歌舞伎図屏風 『阿国歌舞伎図屏風』は桃山時代に描かれた風俗画で、作者は明らかになっていません。 歌舞伎の祖出雲の阿国を描いた作品で、阿国は一座を率いて四条河原などでやや子踊りや歌舞伎踊りを披露していました。その踊りがのちの歌舞伎に発展したといわれています。慶長8年、北野天満宮の能舞台を借りて常設の興行を始めました。 絵を見てみると、刀を肩にかけた傾奇者、柱のそばに坐す茶屋のかか、道化役の猿若が描かれており、阿国歌舞伎の代表的演目である茶屋遊びが演じられている様子を描いた作品であることが見て取れます。 『阿国歌舞伎図屏風』には北野天満宮での興業の様子が描かれているため、制作時期は慶長8年前後ではないかと推察されています。 遊女禿図 『遊女禿図』は松野親信(まつのちかのぶ)によって描かれた江戸時代の風俗画です。 松野親信は江戸時代の浮世絵師の一人で、落款は伯照軒または伯笑軒としています。 懐月堂派の画風で肉筆美人画を多く描いていますが、その流派であったかは分かっていません。現代では、十数点の肉筆画の存在が知られており、版画作品は確認されていないようです。画風は懐月堂派に近しいものがありますが、より温雅であると評価されています。 紙本著色布晒舞図 『紙本著色布晒舞図』は英一蝶によって描かれた風俗画です。若衆歌舞伎の役者と思われる人物が布を晒すしぐさや波の様を布で表現し、さらしの舞を披露する様子を描いた作品といわれています。 英一蝶は狩野安信に入門し、狩野派風の町絵師として活躍していましたが入門後わずか2年で破門。 英一蝶は狩野派で描いてはいけないとされていた風俗画を得意としていたため、破門されたのではと推察されています。 英一蝶の芸術家としての活動は浮世絵だけにとどまらず、宝井其角や松尾芭蕉から俳句を学び、さらに玄竜門下から書道を学びました。また、吉原遊郭では芸人としても活躍しており、多彩な才能を発揮しています。 風俗画掛軸を買取してもらうには 風俗画とは主に庶民の日常生活を描いた絵画作品で、現代でも高い評価を受けている作品が多くあります。 自宅の倉庫に保管していた風俗画掛軸を見つけたら、一度査定に出してみてはいかがでしょうか。 古い風俗画掛軸の場合、作者や作品名がわからない場合もあるでしょう。しかし、詳細がわからないからとあきらめずに経験豊富な査定士に依頼すれば、適切な評価を付けてもらえる可能性があります。 また、古い掛軸ほど状態が悪く破れやシミがあると買取をしてもらえないのではと不安に思う方もいるでしょう。 しかし、掛軸自体がボロボロでも有名作家の作品であれば高価買取を狙える可能性もあります。そのため、自分で下手に修繕をせずまずはプロの査定士に正しい評価を付けてもらいましょう。
2024.09.15
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南画掛軸買取を査定士へ相談しよう
南画掛軸は現在でも人気の高い掛軸作品の一つで、作家や作品によっては高値でやり取りされる芸術品です。 有名な作家には与謝蕪村や池大雅などがいます。江戸時代から南画は盛んに描かれるようになり、現在でも多くの名作が残っています。南画掛軸の価値を知るためには、南画の歴史や特徴とともに有名作家とその作品を知ることも大切です。 南画掛軸の魅力を追求し、その価値を再認識しましょう。 南画とは 南画とは、日本の江戸時代後期に誕生した画派の一つです。 中国の元・明の絵画に影響を受けています。 中国絵画の一つに南宗画と呼ばれる画風があり、それに影響を受けたため南画と呼ばれています。南宗画は明の時代に生まれた言葉で、中国の江南地方の平坦な地形と温暖な気候風土の中で誕生した山水画のことです。 南画は江戸幕府の御用絵師であった狩野派の保守的な傾向に物足りなさを感じた絵師たちが、新たな表現や自由な創造、創作を求めて独自に中国の絵画を学んだことから始まっています。 南画の第一世代とされる作家は、祗園南海・服部南郭・柳沢淇園・彭城百川などです。 彼らは中国絵画を模写したり、中国から渡ってきた画譜を参考にしたりして中国風の山水画を描きました。 南画を文人画と呼ぶこともありますが、まったく同じ意味をあらわしているわけではありません。 文人画とは、中国の文人が描いた絵画を指します。 中国でいう文人とは、日本では学者を指していますが、学者たちが絵画を描くことはなかったため、真の意味での文人画は日本では生まれていないといえるでしょう。 しかし、日本の南画を描いた作家が文人画を手本にしたことで、南画が文人画と呼ばれることもあったようです。 南画を大成させた、与謝蕪村と池大雅 中国の南宗画をもとに誕生した南画を大成させたのは与謝蕪村と池大雅といわれています。 どちらも江戸時代中期に活躍した画家です。また二人は合作で作品を制作しており、当時からたくさんの人の目を引く作品を残しています。 与謝蕪村 作家名:与謝蕪村(よさぶそん) 代表作:『奥の細道図巻』『夜色楼台図』 生没年:1716年-1783年 与謝蕪村は池大雅とともに南画の大成者の一人として広く知られています。 また、画家として制作活動をする傍ら、俳人としても活躍していました。 松尾芭蕉や小林一茶と並び、江戸時代の俳諧の三大巨匠としても有名です。 与謝蕪村は、22歳で俳人が立ち上げた夜半亭に入門し俳句の修行をスタートさせました。当時から画家と俳人の両立を目指していたとされています。 27歳のときに早野巴人が亡くなり、同門の友人を頼って下総国結城に移り住んでから約10年間、絵画と俳句の基礎を固めながら関東から奥羽を旅しています。 諸国行脚を終えた与謝蕪村は、36歳のときに京都へ移り住みました。 本格的な障壁画や古典絵画などに触れ、絵画の技術と感性を磨いていきました。 39歳から3年間は、京都に滞在し画業に専念しています。天橋立に近い見性寺は与謝蕪村が仮住まいに定めた場所で、現在もなお与謝蕪村の作品が多く残されています。 また、与謝蕪村の作品の多くは重要文化財に指定されていることで有名です。 与謝蕪村の『奥の細道図巻』は、俳句と絵画を織り交ぜた俳画と呼ばれる独自のジャンルを確立した作品の一つです。 敬愛する松尾芭蕉の奥の細道を全文書き写し、そこに挿絵を入れた作品で、風景や風物の描写を文章に委ね人物のみを描くシンプルな魅力があります。 池大雅 作家名:池大雅(いけたいが) 代表作:『陸奥奇勝図』『白雲紅樹図』 生没年:1723年-1776年 池大雅は文人画の巨匠と呼ばれる人物です。 京都の町人の子として生まれ、7歳のときに万福寺で書を披露し絶賛され、早くから画家としての才能を開花させました。 禅僧と交流を深める中で大陸の文物に触れ合い、文人趣味の扇絵を描いていたとされています。その前後には柳沢淇園と出会い、絵の教えを受けています。 柳沢淇園が南画を得意としていたため、南画の基本を学んだほか、琳派からも技法を取り入れて絵の技術を磨いていきました。 旅行や登山が好きだった池大雅は、自らさまざまな場所に赴き、実際に見た景色を数多く描いていきました。 中国絵画の模倣だけでは終わらない独自の画風を確立して人気を集めていったとされています。 池大雅は特定の流派に属しておらず、自分が好むさまざまな技法を取り入れていたため、独自のスタイルを確立できたといえるでしょう。 自由を愛する清廉潔白な人柄であったとされる池大雅は、その人柄が垣間見える数多くの作品を世に残しており、多くの絵が国宝や重要文化財に指定されています。 『白雲紅樹図』は池大雅の傑作として古くから評価されている掛軸作品で、早い時期から重要文化財に指定されていました。 描法は緻密でありながらもゆったりとした雰囲気が失われないよう描かれたこの作品は、池大雅の特徴がもっともよく発揮されているといわれています。 南画掛軸買取は実績ある査定士へ相談を 中国の南宗画の影響を受けて江戸時代に登場した南画掛軸。 多くの有名作家が南画の作品を残しており、とくに有名なのが与謝蕪村や池大雅です。2人はそれぞれでも精力的に南画を制作して数々の名作を残しています。また合作でも『十便十宜』と呼ばれる名作を世に生み出しました。 南画掛軸は独自の画風で描かれている作品も多く、個性あふれる絵が魅力の掛軸です。作家や作品によっては高価買取も狙えるでしょう。 もし、自宅に南画掛軸が保管されている方は一度査定に出してみることをお勧めします。作品名や作家が不明で、どのような人が描いたか気になるという方も、査定士に依頼することでどのような作品か判明する場合があります。まずは気軽査定士へ相談してみましょう。
2024.09.15
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唐画掛軸は高額買取してもらえる?
唐絵とは、中国で描かれた作品と中国のものがモチーフの作品、中国風の作品などを総称したジャンルの絵画です。 中国が隋や唐と呼ばれる時代までは、色を付けた色彩豊かな絵画が好まれ、宋の時代からは墨の濃淡によって描く水墨画が盛んに制作されるようになりました。唐絵の掛軸は人気の作家や作品であれば高価買取も目指せる芸術品です。 所有する唐絵掛軸の価値を見極めるためには唐絵の特徴や歴史を知ることも必要でしょう。 唐絵とは 唐絵とは中国で制作された絵画と、日本で制作された中国風の絵画をまとめて指している言葉です。中国で描かれた作品だけだと思いがちですが、実は日本で描かれたものであっても中国の絵画に寄せた画風で描かれた作品は唐絵と呼びます。室町時代には当時の宋・元から伝わってきた水墨画を中心とした宋元画を唐絵と呼びました。 江戸時代に入ると、狩野永納(かのうえいのう)が元禄6年(1693)に刊行した『本朝画史』に狩野土佐氏是倭画之専門也、雪舟子是漢画之祖筆、狩野家是漢而兼倭者也と書かれているように、狩野派で漢画という名前を使い、このころからは日本人が描いた中国風の絵画は、漢画の呼び方で統一されています。 唐絵の歴史や特徴 唐絵が指す絵画は時代とともに変化してきました。 平安時代では中国から渡ってきた絵画だけではなく、中国の文化や風景をモチーフにして描かれた日本の絵画も唐絵と呼んでいます。 唐絵に対する呼称として、やまと絵と呼ばれる絵画があります。 やまと絵は、日本の文化の発展に合わせて生まれた絵画。鎌倉時代には中国の宋や元の絵画が日本に広く知れ渡っていき、新しい様式の中国画と中国画の影響を受けて描かれた日本画を総称して唐絵と呼んでいます。 中国の王朝が唐から宋・元へ変わっていったタイミングで、中国の絵画も宋元画と呼ばれるようになりましたが、鎌倉時代後半の日本では唐絵で統一して呼ばれていました。中国の唐絵は室町時代以降盛んに描かれるようになった水墨画に大きな影響を与えたといわれています。 いつの時代であっても、中国から伝わってきた絵画は唐絵と呼びますが、それ以外で唐絵に該当する絵画は時代によって多少の差があるといえるでしょう。 平安時代では中国を題材としていたら日本の作家が描いていても唐絵と呼びます。 鎌倉時代以降ではモチーフが中国と関係しているかどうかにかかわらず、中国の絵画に影響を受けて描かれたすべての作品を唐絵と呼びます。このように違いがありますが、唐絵は中国の影響を受けている作品であることに間違いはありません。 唐絵の主なモチーフは自然の風景や人物、花、鳥などです。 墨の濃淡を活用した美しい画風が特徴的です。 唐絵というと、中国の荒々しくも幽玄な山岳や河川が描かれた山水画をイメージする方も多いでしょう。しかし、唐絵の中にも人物や花鳥を描いた作品は多く存在します。また、唐絵は掛軸作品だけではなく、屏風や襖など多くの形で残されています。 唐絵の代表作『樹下美人図』 唐絵の有名な作品として『鳥毛立女屏風図』があります。 正倉院に伝わる屏風作品で六扇からなる作品です。 樹木の下に唐風の絵で美人をおいていることから、別名『樹下美人図』とも呼ばれています。 古代の美人画としても人気の高い作品で、ふくよかな出で立ちの女性が木の下に座った状態あるいは立った状態で描かれています。 そして、作品名の通りもともとは墨で描いた輪郭の内側に山鳥の羽毛が貼り付けられていました。 しかし時代が過ぎていき経年劣化が進んだ影響もあり、現在の『鳥毛立女屏風図』には羽毛がほとんど残っていません。しかし、顔や手に施された淡彩からは、いまだに少し色彩の名残が見られるでしょう。 樹下に人物を描く構図はインド起源の様式とされています。 そしてこの様式は、インドから中国、中国から日本へと伝わっていったと考えられています。 この『鳥毛立女屏風図』は作者不明とされていますが、唐で描かれた舶来品ではないかと推測されています。しかし、第五扇の下に天平勝宝四年の年号の記録があることと、わずかに残っている羽毛が日本産の山鳥のものであることがわかり、日本で描かれた作品という説も、長年の研究からその信ぴょう性が高まってきています。 唐絵掛軸の高額買取をしてもらうには 唐絵掛軸は中国で描かれた作品だけではなく、中国風の作品や中国のモチーフを描いた作品も該当します。 そのため、日本人が描いた絵画であっても、「やまと絵」ではなく「唐絵」と呼ぶ作品も多く存在します。中国で描かれた作品だけではないことが特徴的です。唐絵のモチーフには自然の風景や人物、花、鳥などがあります。中国の画というと、荒々しくも幽玄な山岳や河川など、中国の風景が描かれた山水画を想像する方もいるでしょう。しかし、唐絵は中国ならではの風景の絵画だけではなく、人物や花、鳥などが描かれた作品も多く現存しています。 唐絵掛軸は作品によって高額買取が可能な芸術作品です。 自宅に唐絵掛軸がある場合で価値を知りたい方はプロの査定士へ査定を依頼しましょう。 作家や作品の名前がわからなくても問題ありません。まずはそのまま持ち込んで相談してみてください。下手に修繕を行ってしまうと傷や汚れを広げてしまうリスクがあり、かえって掛軸の価値を下げてしまう可能性があります。 古くて傷みが激しい唐絵掛軸でもまずはそのまま査定に出してみましょう。
2024.09.15
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