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掛軸に書かれている犬や子犬たち
掛軸作品に描かれる犬は、写実的で現実にいそうなものから、愛らしくデフォルメされたもの、墨でシンプルに描かれたものなど、実にさまざまです。 それぞれの作家の個性が発揮されている犬の掛軸を鑑賞して、有名作家の魅力を再認識していきましょう。 掛軸・日本絵画に登場する犬たち 掛軸作品には、人物画、仏教画、風景画などさまざまな題材がありますが、犬を描いた動物画も多く存在します。 また、著名な絵師が描いている犬の作品も多くあります。 伊藤若冲 伊藤若冲は、江戸時代中期に活動していた絵師。 リアルで色鮮やかな花や鳥を描く特徴があります。 写実性の高さと深い想像性を巧みに融合させた絵が魅力的で、曾我蕭白や長沢芦雪と並んで「奇想の画家」ともよばれており、彼は子犬の絵も多く手掛けていました。 シンプルな線で描かれた作品や、丸くデフォルメされた愛らしい姿に、点で描かれた目のギャップが多くの人の興味を引きつけているでしょう。 俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代初期に活躍したとされる絵師ですが、詳しい資料はあまり残されていません。 琳派の祖としても名が知られており、『風神雷神図屛風』は、国宝に指定されている有名作品です。 犬をモチーフにした作品も描いており、たらしこみの手法が用いられている特徴があります。また、足の毛並みを墨で細かく表現されている点も特徴です。 円山応挙 円山応挙は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師。 写実性の高い絵が特徴的で、日本写生画の祖ともよばれています。また、円山応挙は、見たままを描くのではなく、写生をもとに再構築する能力に長けていました。犬をモチーフにした絵も多く描いており、当時の庶民たちの間で高い人気を誇っていたそうです。 子犬のふわふわな質感とリアルな描写の虜になった人々は、当時だけでなく今でも数多くいるのではないでしょうか。 長沢芦雪 長沢芦雪は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した絵師で、円山応挙の弟子でもあります。 しかし、画風は応挙と異なり、大胆な構図や斬新なクローズアップが特徴的です。 犬を題材にした作品も描いており、にやっと笑っているような口元の犬や、人間のようにだらっと座った姿勢の犬など、個性的な犬の絵を多く残しています。 仙厓義梵 仙厓義梵は、臨済宗の禅僧であり、禅宗の教えを説くために禅画を描いていた人物です。 プロの絵師とは異なる独特でゆるい画風が特徴的。 犬の絵も描いており、一筆書きで描いたような丸くシンプルな犬のお腹に紐を括り付けた絵は、個性的で多くの人の目を惹きつけるでしょう。 また絵とともに書かれた「きゃふん」という言葉も印象に残ります。 葛飾北斎 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した絵師で、海外からの人気も高い人物です。 富士山と大きな波をモチーフにした『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、誰もが一度は目にしたことがある有名作品です。 葛飾北斎も、犬を題材にした絵を描いています。 親犬の乳を飲む子犬や、親子で一緒に吠えている犬、街中にいる犬、子どもが子犬を抱きかかえている様子など、さまざまなシチュエーションで犬を描いていました。 柳川重信 柳川重信は、江戸時代後期に活躍した絵師。 葛飾北斎の弟子となり、曲亭馬琴が書いた長編小説『南総里見八犬伝』の表紙や挿絵を担当しています。タイトルから想像して、挿絵にはたくさんの犬が描かれています。かわいらしくデフォルメされた犬の絵は、現代でも人気の高い作品です。 小さな子犬が表紙にぎゅうぎゅうと詰めて描かれた挿絵は、犬好きにはたまらない作品でしょう。 竹内栖鳳 竹内栖鳳は、明治から大正、昭和にかけて活躍した画家です。 動物を描けば絵からにおいまで感じられるといわれるほど、動物の絵を得意としていました。また、「西の栖鳳、東の大観」「楳嶺四天王」などと称されるほどの鬼才の持ち主であったといわれています。 犬を描いた作品も多く制作しており、西洋の写実的な画法が特徴的です。 犬はいつから日本にいたのか 犬は縄文時代から日本で飼われており、縄文犬は狩猟犬や番犬としての役割を果たしていました。 弥生時代には、渡来人が稲作文化とともに犬も伝えています。 渡来人が伝えた犬は、狩猟犬や番犬ではなく食用目的であったと考えられています。 しかし、日本では食用として飼育する文化は根付きませんでした。 江戸時代には、狆とよばれる犬が武家といった上流階級の間で流行り、愛がん犬としてかわいがられていました。 また、江戸時代は犬の数が多く、外で当たり前のように放し飼いされていた時代でもあります。 日本人は、古くから犬とともに暮らしてきた文化があり、多くの画家が愛情をもって犬の絵を描いていたとわかるでしょう。 リアルな犬、かわいい子犬…いつの時代も犬は傍にいた 古くから日本人とともに生活してきた犬は、動物の中でも特に身近な存在といえるのではないでしょうか。 今回ご紹介したように、人の暮らしの中で共存してきた犬をモチーフにした掛軸作品は多く存在します。リアルな犬からかわいい子犬まで、いつの時代でも親しまれ、さまざまな表情やタッチで描かれてきました。 犬の掛軸作品を通して、各作家の魅力や掛軸の楽しみ方を深めていってください。
2024.10.12
- 掛軸の種類
- 有名掛軸作家
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ゆるキャラ?ユーモアあふれるかわいい禅画掛軸
禅宗の教えを説くために描かれる禅画。 プロの絵師ではなく、禅僧が描く独特の画風が特徴的です。 また、ゆるい絵が描かれた作品も多く、禅宗の教えに親しみを持てるよう工夫して描かれていたと考えられます。 ゆるキャラのようなかわいい掛軸たち 掛軸にはさまざまな作品があり、中には現代の私たちが見ても親しみが湧くような、いわゆる「ゆるキャラ」的なかわいい画風の作品も多く残されています。 かわいらしい作品がどのような目的で描かれていたか、どのような人物が描いていたかを知ることで、掛軸作品への興味を深めていきましょう。 かわいい禅画を多く残した、白隠と仙厓 白隠慧鶴と仙厓義梵は、絵師ではなく禅僧であることから、プロの絵師にはないユニークさのある絵が特徴です。 かわいらしい絵とともに禅宗の教えを説くことで、多くの人の心に残ったといえるでしょう。 禅宗の教えを伝えるために用いられた禅画を、二人の禅僧がどのように描いていたのかを知ることで、掛軸と禅宗の両方の魅力を再発見できるかもしれません。 白隠慧鶴 (はくいんえかく) 作家名:白隠慧鶴 (はくいんえかく) 生没年:1685年-1768年 代表作:『自画像画賛』『お福御灸図』 白隠慧鶴は、江戸時代の禅僧であり、禅の教えを人々に広く説くために、数多くの禅画を残しています。 禅僧としては、臨済宗の中興の祖とよばれるほどの名僧です。 現在、臨済宗の僧侶として教えを説いている人たちは、すべて白隠慧鶴の弟子であるともいわれているほど、禅宗に大きな影響を与えています。 禅の教えをわかりやすく伝えるために用いられたのが、禅画。 白隠慧鶴は、達磨や釈迦、菩薩などの仏教由来のモチーフから、七福神やお多福などの民間信仰のモチーフなどさまざまなものを題材に描いています。 ユーモアあふれる構図で、禅を問いかける作品を多く描きました。 仙厓義梵(せんがいぎぼん) 作家名:仙厓義梵(せんがいぎぼん) 生没年:1750年-1837年 代表作:『達磨像』『三福大福茶図』 仙厓義梵は、白隠慧鶴が禅画により広く禅宗の教えを説いているころに、美濃の農民の子として生まれました。11歳になるころには出家し、32歳以後は全国を行脚する長い旅に出ています。 40歳になると、栄西禅師が博多に創建した日本最古の禅寺である聖福寺の住持を任されました。そのため、仙厓と博多はなじみが深く「博多の仙厓さん」ともよばれています。 このころ、伽藍の復興の合間をぬって禅画を描き始めました。 仙厓は、高い画力を備えており、文人画家の浦上春琴に絶賛されるほどであるといわれています。 雪舟のように画僧としてのみ歴史に名を残すのではといわれていましたが、いつしか本格的な仏画を描くことをやめ、その後は、軽妙洒脱でゆるい画風の絵を多く手掛けるようになりました。 表情豊かな動物たちを描いた、長沢芦雪 長沢芦雪(ながさわろせつ) 作家名:長沢芦雪(ながさわろせつ) 生没年:1754年-1799年 代表作:『虎図』『宮島八景図』 長沢芦雪は江戸時代に活躍した絵師で、多くの動物画を手掛けていました。 円山応挙の弟子ではありますが、画風は奇抜で大胆な構図や、斬新なクローズアップが特徴的な絵を描いていました。 曽我蕭白や伊藤若冲と並んで「奇想の画家」ともよばれています。 掛軸の題材としては、犬やスズメ、サル、牛などさまざまな動物を起用しています。 迫力がありつつも、どこかかわいらしい表情豊かな動物たちの絵は、現代においても人気の高い作品です。 かわいい!今でも人気の高い癒しの掛軸 かわいらしい画風の掛軸は、多くの人が受け入れやすい絵であったと考えられます。 ゆるい画風のため、民衆もかしこまらずに楽しめて親しみやすかったと想像できるでしょう。 現代においても、掛軸作品に詳しくない人でも、ゆるふわでかわいらしい作品であれば鑑賞しやすいといえます。 かわいいだけじゃない、作者の思いが込められた掛軸作品 白隠や仙厓の描く禅画はかわいいだけではなく、禅の教えを解くという禅僧の思いが込められています。 文字だけの書画や、一般的な絵画では、禅宗の教えも印象に残りにくかったと考えられます。 かわいらしい絵で人々の心を惹きつけたからこそ、禅宗の教えを広く伝えられたといえるでしょう。 かわいい画風の掛軸は、現代の私たちにとっても親しみやすい作品です。 掛軸の魅力をより知りたい方は、まず親しみやすい絵から鑑賞を始めてみるのもよいでしょう。
2024.10.12
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ギロリと見つめる虎や龍の『八方睨み』掛軸
掛軸作品には、書や風景、人物以外にも、さまざまな生き物が描かれた作品も多く存在します。 なかでも、虎や龍が睨みをきかせた迫力のある掛軸が、印象に残っている人もいるでしょう。 それぞれの生き物自体にも意味がありますが、睨みをきかせているシチュエーションにも意味が込められているのです。 虎や龍がギロリと見つめる…八方睨みの掛軸 虎や龍が強い目つきでこちらを睨んでいるような掛軸を、目にしたことがある人もいるでしょう。 迫力のある絵のため、少し怖いと感じることもあるのではないでしょうか。 しかし、八方睨みをきかせた掛軸の作品は、いわゆる魔除けの意味があるため、自宅に飾っておきたいものです。 睨みによって家を守護してくれていると考えると、「怖い」というイメージから見方が変わるかもしれません。 厄除け・魔除けの八方睨み 八方睨みとは、四方八方へ目をやり、睨みをきかせることを意味しています。 また、絵や画像において、どの角度から見ても目がこちらを睨んでいるように見える様子を表した言葉です。 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸作品は、災いが近づかないように外敵を睨んで追い払うとして、厄除けや魔除けの意味があるとされています。 虎は「一日にして千里を行き、千里を帰る」といわれるほど、強い生命力を保持しており、あらゆる厄災を追い払い、家運隆盛を導くとされる生き物です。 また、龍は地球の守り神のような存在で、天地を飛び回り流れを起こしているとされています。 龍が天に昇る姿が成功と象徴を表しているとして、仕事運や金運アップ、勝負ごとに勝つなどのご利益の意味が込められています。 虎も龍も大きなご利益をもたらしてくれる生き物とされており、その絵に八方睨みをさせることで、厄払いまでもできると期待されているのです。 八方睨みの虎や龍の作品 八方睨みをきかせた虎や龍の掛軸は、さまざまな有名絵師によって描かれています。 円山応挙や三尾呉石らは虎の絵を、狩野探幽は、龍の絵を描いています。 『遊虎図』(円山応挙) 円山応挙は、円山派の祖であり、江戸時代後期に活躍した天才絵師です。 掛軸作家としても有名ですが、香川県にある金毘羅宮の襖絵である『遊虎図』も有名作品の一つ。 当時の日本には虎がいなかったため、輸入された虎の毛皮から姿や形を想像して描かれたといわれています。顔が小さく、目がぎょろっと大きく描かれているのが特徴です。 円山応挙は、八方睨みの虎の絵以外にも、多くの虎や動物たちの絵を描いていて、特に、かわいらしい犬の絵を描くことでも有名です。 『水辺猛虎』『獣王』(三尾呉石) 狩野探幽とは、江戸時代初期に活躍した江戸狩野派の絵師です。 狩野派は、日本絵画史上最大の流派といわれており、室町時代後期から江戸時代末期までの約400年間にわたって権力者の御用絵師として活躍しました。 狩野探幽は、やまと絵や写生、古画などさまざまなジャンルの絵を研究し、画力を高めていました。 京都の妙心寺法堂の天井には、狩野探幽が描いた龍が、睨みをきかせています。 天井一面に描かれ迫力のあるこの『雲龍図』は、狩野探幽が55歳のときに描き、スケールや迫力が大きく京都随一の天井龍との呼び声が高い作品です。 僧侶たちの修行の様子を見守る仏法の守護神として、天井から様子を見ているとされています。 八方睨みの掛軸は、災難を遠ざけ開運を導く 八方睨みをきかせた虎や龍などの迫力ある掛軸は、災難を遠ざけ良い運気を導くとして古くから重宝されています。 さまざまな有名作家が描いた虎や龍の作品は、現地での鑑賞が可能です。 また、開運のために床の間へ掛軸として掛けられることも多くあります。 自宅に虎や龍の掛軸を飾り、家に運気が流れるようにしてみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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女性掛軸作家たちの歴史と作品を辿る
画家や作家は男性であることが多いですが、時代ごとに活躍した女性たちも存在します。 時代の変化とともに、活躍した女性たちの人物像を理解すると、より作品を楽しめるでしょう。 時代ごとに活躍した女性掛軸作家を追う 掛軸は、中国を起源としており、592年~710年(飛鳥時代)に日本に伝わったと考えられています。 掛軸作家というと、男性が多いイメージですが、各時代で活躍していたのは男性作家はもちろん、なかには女性にも、時代ごとに活躍した掛軸作家がいます。 安土桃山時代 1573年~1603年(桃山時代)には、織田信長と豊臣秀吉が茶道を好んだことで、床の間の様式が急激に発展しました。 桃山時代はわずか50年と短い時代ですが、それまでの時代に比べると変化が速く、華やかでわかりやすい掛軸作品が現代にまで残っています。 小野お通 小野お通の出生は史料がなく、一説では1567年ごろに誕生したといわれています。 出自や経歴などに所説はありますが、小野お通は諸国を巡り芸を行う「遊芸人」の一族に誕生したといわれており、古典学者の公卿である「九条稙通」のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」との呼び声高い公卿である「近衛信尹」から書を学んだとされています。 当時の女性としては、かなりの高等教育を受け、当代随一の女流書家として活動し、和歌や書画だけでなく、絵画、琴、舞踊などの才にも秀でていたといわれています。 小野お通の描いた書は、「お通流」と呼ばれて、当時の代表的な女筆となりました。 江戸時代 長い戦乱の時代が終わりを迎え、徳川家による支配が確かなものとなった江戸時代では、狩野永徳の孫である深幽が徳川家と親密な関係を築いたことにより、日本全国の大名諸侯の御用絵師のほとんどを「狩野派」が務めました。 画家を志す多くの若者は、狩野派に学ぶよう組織化されていきました。 多くの画家を輩出した江戸時代には、このような掛軸作家の背景があります。 江馬細香(えまさいこう) 江馬細香は、竹の絵が得意なことで有名な画家。 父親が大垣藩の医師である江馬細香は、京都の僧である玉潾に絵を学び、のちに、父親の紹介で漢学者でありながら、歴史や文学、美術などのさまざまな分野で活躍した頼山陽に教えを受けました。 1818年(文政初年)ごろに梁川星巌、梁川紅蘭、村瀬藤城らと詩社である「白鴎社」結成。 1848年(嘉永元)には詩社「咬菜社」を結成し、中心人物として活躍しました。 梁川紅蘭(やながわこうらん) 江馬細香とともに「白鴎社」を結成した梁川紅蘭は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した漢詩人です。 14歳に又従兄妹の梁川星巌の塾「梨花村草舎」へ入塾し、漢詩を学びます。 夫の星巌は19世紀初頭、頼山陽とともに日本文学における二大巨星といわれていました。梁川紅蘭は、絵画技術にも秀でており、絵画作品としては『群蝶図』が有名です。 生涯で漢詩を400作品以上も残したうえに、絵画も制作しています。 葛飾応為(かつしかおうい) 葛飾応為は、葛飾北斎の三女として生まれ、数少ない女性浮世絵師。 1810年(文化7年)に制作された『狂歌国尽』の挿絵が初作といわれています。 特に美人画に優れており、父親である北斎の肉筆美人画の代作や、北斎の春画の彩色を担当していたとの話もあるのです。父である北斎は「美人画にかけては応為には敵わない、彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。 明治時代以降 徳川幕府という後ろ盾を失った狩野派は解散となり、生活の苦しい画家は、新たな職業に就く者も現れました。 西洋画の流通により、明治初期には西洋の絵画に注目が集まったことで、日本の絵画の評価は低下していきます。 しかし、アメリカのアーネスト・フェノロサにより、日本の美術が評価された影響で、再び日本絵画は活気を取り戻していきます。 1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利した日本は、先進国としての文化を示すため、1907年に文展(文部省美術展覧会)を開催しました。 奥原晴湖(おくはらせいこ) 奥原晴湖は、明治時代の女性南画家。 16歳で南北合体画風を学びますが、渡辺崋山の影響を受けて南画に転向します。 1871年に開業して作ったのが「春暢家塾」。全盛期には、300人以上の門人がいたといわれています。 奥原晴湖の代表作は、『墨堤春色図』や『月ケ瀬梅渓図』で、埼玉県の龍淵寺にある奥原晴湖の墓は、指定文化財となっています。 上村松園(うえむらしょうえん) 上村松園は、気品ある美人画を得意とし、1948年に初めて女性で文化勲章を受章した日本画家です。 1890年に行われた第3回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が一等褒状を受賞します。 これを来日中であった英国ヴィクトリア女王の三男であるアーサー王子が買い上げたことで話題になりました。 1936年の『序の舞』は、1965年に発行された切手趣味週間の図案に採用され、2000年には重要文化財に指定されました。 野口小蘋(のぐちしょうひん) 野口小蘋は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、明治の女性南画家として奥原晴湖とともに双璧といわれていた画家の一人です。 幼少期に詩、書、画を好み才能を現します。 1871年に東京都千代田区の麹町に住み、本格的に画業を行います。美人画や肖像画などの人物画を得意とし、作品を英照皇太后に献上し、皇室や宮家の御用達絵師として数多くの作品を手がけました。 大正天皇即位の際、宮内庁からの下命で制作されたものが、三河悠紀地方の『風俗歌屏風』です。 島成園(しませいえん) 島成園は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家です。 20歳の時に文展に入選したことで、女性画家の流行を作りました。 大阪で頭角を見せた若い女性画家である島成園は、それまで東京や京都が中心だった当時の日本画壇において、画期的な活躍でした。 1916年には同年代の女性日本画家とともに「女四人の会」を結成し、女性画家の新たな時代を切り開きました。 なぜ女性掛軸作家の作品は少ないのか 平安末期である1008年に、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を手がけていたため、そのころから女性作家による文学作品は制作されていました。 しかし、職業として絵を描いている女性は、現代に比べると決して多くはありませんでした。 明治時代以降になって多くの女性画家が登場しますが、結婚とともに制作から離れたり、苗字が変わったりで作家としての歴史が追いにくいのが現状です。 女性ならではの画風や題材にも注目 掛軸作家は男性の多い職業なだけに、女性が職業としての画家を確立させていくためには、男性とは違う苦労があったに違いありません。 しかし、女性ならではの視点や表現で描かれた作品には、魅力がたくさんあります。 柔らかなタッチや曲線など、女性だからこそ描ける作品の特徴に注目して、鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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書画掛軸買取なら | 日本・中国の有名作家がのこした書画も多数
毛筆で描かれた絵や書が一緒になった掛軸作品を美術館や博物館で見かけたことがある人も多いでしょう。 これらは書画と呼ばれ、古くから中国や日本で親しまれてきた芸術作品の一つです。 書画掛軸は歴史的価値が高く、作品や作家によっては高価買取が狙える作品といえます。 書画掛軸の価値をあらためて再認識するためにも日本や中国で描かれた書画の特徴や歴史を学びましょう。 書画とは 書画とは、毛筆で描かれた文字や絵の作品を指します。 書画は、文字だけが書かれた作品、絵だけが描かれた作品、書と絵の両方が描かれた作品の大きく3つの形に分かれています。主に中国や日本などの東アジア周辺諸国で発展していったジャンルです。 また書画作品は掛軸や巻物、書籍、屏風などに表装されるのが基本の形です。そのため、鑑賞目的ではない手紙や書簡は書画に該当しません。 ただし、もともとは鑑賞目的ではなくとも、書かれたのちに表装され飾られることもあります。歴史上の有名な人物が書いた書簡や、有名な人物に宛てられた手紙は歴史的価値が高いとされ、のちの時代で表装される場合があるのです。 資料としての価値のみの場合は古文書に分類されますが、芸術的・骨董的価値があると判断し、鑑賞を目的とすれば書画に該当する場合があります。 書画の中でも書と絵の両方が描かれた作品でよく見られるのは、描かれている絵画にちなんだ漢詩が書かれている作品です。 掛軸として表装されている作品を詩画軸または詩軸と呼びます。 書と絵の両方が描かれる書画は、作家自身が書を書き込む場合と、鑑賞した人が賛を送るために絵画に書を書き込む場合の2通りです。後者は画賛とも呼ばれています。 画賛は掛軸作品だけではなく、やまと絵や水墨画、肖像画などあらゆる絵画の余白部分に書き込まれる書です。 文字通り絵画に対して賞賛を送る目的で書かれるのが一般的ですが、絵に合わせた漢詩や和歌、俳句が後から書かれる場合もあります。 書画の歴史 書画は中国が起源とされています。 中国には詩書画一致や書画同源といわれる考え方があります。 詩・書・画はお互いに深い関係性でつながっており、3つが一体となって歴史を作ってきました。日本の書画は中国の作品に大きな影響を受けているため、奈良時代には釈迦の生涯と前世の物語を下方半分に書き、上方半分に物語をわかりやすく絵画で描いた『絵因果経』と呼ばれる絵巻物が制作されています。 『絵因果経』は日本に現存する一番古い絵巻物とされており、釈迦の生涯と前世の物語を描いた作品です。同じ画題の絵巻物は奈良時代以降も複数制作されています。 また書のみが書かれた書画作品も起源は中国にあります。 日本には仏教の教えとともに持ち込まれました。 仏教では経典を書写する写経と呼ばれる修行があり、墨で文字を美しく書くためとして書画が受け入れられたと考えられます。 その後、書は実用性だけではなく筆や墨の繊細な手法を用いて豊かな表現ができると広まり、芸術の一つとして捉えられるようになりました。 平安時代には『源氏物語』や『枕草子』、『伊勢物語』などさまざまな絵巻物が制作されています。 平安時代の絵巻物は、当時の中国から伝わった唐絵を日本独自にアレンジしたやまと絵で描かれました。 平安時代の絵巻物は、歴史的価値の高い作品として現代まで作品の内容が受け継がれています。 鎌倉時代には禅宗とともに水墨画が中国から日本に伝わってきました。 この時代から日本でも水墨画や墨彩画に書を入れた書画作品が多く輩出されています。 安土桃山時代から江戸時代にかけては、多種多様な画風の流派が多く誕生しています。 たとえば、やまと絵と水墨画を融合させ屏風や襖などに豪華絢爛な絵を描く狩野派や、同様に水墨画を基礎とした琳派、円山派、南画などです。水墨画に書を書くスタイルの作品が確立され、現代まで同様のスタイルが続いています。 特に有名な書画掛軸の作品や作家たち 中国や日本をはじめとした東アジア諸国で盛んに描かれていた書画掛軸。 もともと鑑賞用ではない手紙や書簡も、掛軸として表装され書画としての価値が生まれることもしばしばありました。中国や日本は書画掛軸を制作する有名な作家を多く輩出しています。 呉鎮(ご ちん) 作家名:呉鎮(ご ちん) 代表作:『洞庭漁隠』『蘆灘釣艇図巻』 生没年:1280年-1354年 呉鎮は元時代に活躍した中国の文人画家です。 黄公望・倪瓚・王蒙と並ぶ元末四大家の一人としても有名なため、名前を耳にしたことがある人も多いでしょう。また、元の山水画様式を確立させた人物でもあります。現在の浙江省嘉興市嘉善県である嘉興府嘉興県魏塘出身で、字は仲圭、号を梅花道人・梅花和尚といいます。 呉鎮は漢詩や書にも通じていましたが、一生のうちに仕官することなく易卜(えきぼく:易を使用した占い)や売画を行ったり、村塾を開いたりして生活を送っていました。 決して裕福ではありませんが、世俗を離れた生活を楽しんでいたとされています。 五代南唐・宋初の画家である巨然の点描法を学び、墨で竹を描く墨竹は北宋の文人である文同から学びを得ています。 雪舟 作家名:雪舟(せっしゅう) 代表作:『破墨山水図』 生没年:1420年-1506年 雪舟は室町時代に活躍した日本の水墨画家です。 10歳のころに禅宗の僧侶となるために臨済宗の寺院に預けられ、その後は相国寺にて修行を行っています。相国寺には室町幕府の御用絵師であり、日本の水墨画を代表する画僧の周文がいました。 当時から絵を描くことが好きだった雪舟は、周文から水墨画を学び才能を開花させていきます。 京都で名の知られた水墨画家となった雪舟は、日本での学びだけでは足りず、中国で本格的な水墨画を学びたいと考えるようになりました。 山口の守護大名大内氏の庇護を受けていた雪舟は、48歳のときに明と交易を行う船に同乗させてもらえることになり、待ち望んでいた中国での修行を開始します。中国各地を旅して幽玄で美しい風景を写生したり、本場中国の名画を模写したり、技術や感性に磨きをかけていきました。 やがて雪舟の作品は明でも評価されるようになり、天童山第一座の称号を取得しています。 以後の雪舟作品には天童山第一座の称号が書き入れられています。 2年の修行を終え帰国した雪舟でしたが、京都は応仁の乱により焼け野原となっていました。そのため雪舟は全国を旅しながら創作活動を続け、周防国や豊後国、石見国、美濃国など場所を転々としながら明の水墨画に独自の手法を取り入れた画風の作品を制作し続けました。 画家としての創作意欲は80代半ばを過ぎても衰えることを知らず、1506年に描いた山水画を生前最後の絵として87歳の生涯に幕を閉じています。 雪舟が描いた作品の一つである『破墨山水図』は、雪舟が描いた絵に対して6人の有名な詩僧が詩を書いた書画です。抽象的な風景表現が特徴的で、墨面のいきいきとした表情が楽しめます。 富岡鉄斎 作家名:富岡鉄斎(とみおかてっさい) 代表作:『楽此幽居図』『仙縁奇遇図』 生没年:1837年-1924年 富岡鉄斎は明治・大正時代の文人画家であり儒学者です。 世界的に評価されている近代日本画家であり、日本最後の文人とも謳われています。 遺作展は日本のみならず、イギリスやフランス、イタリアなどの西欧諸国からアメリカやブラジルなどの諸外国で開催されるほど世界的に人気の高い画家です。しかし、富岡鉄斎自身は生涯儒学に力を注ぎ、自らを画家と呼ぶことを嫌っていたとされています。 町人道徳哲学を家学とした家系に生まれた富岡鉄斎は、幼いころより町人道徳哲学を学び、少年のころに家を出て六孫王神社に弟子入りしています。 修業時代は儒学を学びつつ、大角南耕と窪田雪鷹から画の教えを受けていました。 師は自由な流派であったとされ、富岡鉄斎はやまと絵、琳派、浮世絵、大津絵などの学びを得たとされています。この学びが富岡鉄斎の描く作品に影響しているといえるでしょう。 書画掛軸の買取を相談してみよう 書のみの作品や絵のみの作品、書と絵が融合した作品のどれもが書画と呼ばれます。 また書画の特徴として、絵を描いた作家自身が書も書く場合と、絵を鑑賞した人が賛として書を書き入れる場合の2パターンがあります。 どちらも作品によっては高価買取が可能です。自宅にある書画の価値を知りたい方は、経験豊富な査定士に査定を頼みましょう。 査定を依頼する際は修繕を行わず、そのままの状態で出すことをお勧めします。作家や真贋が不明な場合でもまずは気軽に相談してみましょう。
2024.09.15
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肖像画掛軸の買取なら | 有名肖像画や歴史的価値の高いものまで
特定の人物をモデルとして描かれた肖像画。肖像画掛軸の中には歴史的価値が高い作品も多く存在します。 日本の名だたる戦国武将も肖像画として多く残されており、作品から歴史的背景を知ることもできるでしょう。 肖像画掛軸の高価買取を狙うのであれば、肖像画の背景や歴史、作品のモデルについて知ることも大切です。肖像画掛軸への知見を深めてさらなる魅力を発見しましょう。 肖像画とは 肖像画とは絵画ジャンルの一つで、特定の個人をモデルにした作品を指します。 描かれ方は多種多様で、モデルを見たまま写実的に描かれる場合もあれば、理想化されたり戯画化されたりして描かれる場合もあります。 肖像画はさまざまな表現方法で特定のモデルを引き立たせることも魅力の一つです。 肖像画が描かれ始めたのは古代エジプトといわれています。 当時のエジプト・アル=ファイユーム地方には、葬儀の様子を描いた一般人の肖像画が残されています。 この肖像画はフレスコ画以外では古代ローマ時代から残っている唯一の絵画です。 古代から描かれていた肖像画ですが、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教となった際、人間は神より劣るというキリストの教えにより特定の個人をモデルに描かれる肖像画の文化は一時的に廃れてしまいました。 その後、14世紀ごろに王侯や高位聖職者など高貴な身分の人々が画家に自分の肖像画を描くよう依頼し始めるようになります。 15世紀に入ると「古代の再生と人間性の復活」をスローガンにしたルネサンスの思想が広まり、さらに肖像画の制作が活発に行われました。芸術作品の一つとして独立した分野となった肖像画は多くの貴族たちをモデルに描かれていくようになります。ルネサンス時代が終わりバロック時代に移り変わっていくと、肖像画は一般庶民の間でも制作されるようになりました。また肖像画のジャンルも多様化し、宗教画の聖人にモデルの特徴を入れ込む肖像画や風俗画風の肖像画なども描かれています。 また、日本の肖像画としては『唐本御影』が有名です。 『唐本御影』は聖徳太子を描いており、日本で初めて描かれた肖像画といわれています。日本の旧一万円札に描かれていた聖徳太子、というとイメージがつく人も多いのではないでしょうか。 日本の絵画は中国からの影響を強く受けており、『唐本御影』も唐時代の肖像画の伝統を引き継いでいます。衣文に沿って薄く陰影があるのが特徴的で、この画風は中国で六朝時代(222年~589年)の肖像画に見られるのと同じ特徴です。 このほかにも歴史に名を残す戦国武将や、天皇、僧侶などの肖像画が国内でも数多く残っており、その面影を肖像画から伺い知ることができます。 肖像画掛軸の歴史 東洋や日本でも肖像画は古くから描かれてきました。 特に中国では早くから肖像画が絵画の主要ジャンルとして確立されています。 日本の絵画は中国絵画の影響を強く受けていますが、肖像画もその一つです。 平安時代までは礼拝用の絵画として制作され、その後は絵画や彫刻に神仏や人の姿を表す御影像が生まれました。西洋の肖像画は威厳を擬人化させた作品が多いのに対し、日本の肖像画は描かれた人の霊力がこの世に及ぶよう期待が込められていたり、親に対する親愛の情を表したりするために描かれていました。 肖像画掛軸は鎌倉時代から普及した 日本の肖像画掛軸は、鎌倉時代に中国との禅僧の往来が盛んになった時期に水墨画や掛軸とともに広く知れ渡りました。 禅宗は悟りの法を師匠から弟子へ教える流れを重視するため、師匠の法を受け継いだ証明のために弟子に贈る師匠の肖像画「頂相」や、禅宗の始祖である達磨大師をはじめとした祖師像の絵画などが日本へ伝わっています。 また、鎌倉時代に日本で広まった水墨画によって、これまでの掛けて拝する仏教仏画の掛軸世界から、山水画や花鳥画など芸術品としての魅力を備えた作品が多く制作されるようになりました。 肖像画に描かれた戦国武将たち 戦国時代の武将も肖像画に描かれています。 有名な武将では何枚も肖像画が残っている人もいるでしょう。肖像画にはいくつか種類があり、モデルとなる武将が生きているうちに描かれた肖像画を寿像といいます。 一般的には本人を目の前にして観察しながら描かれるため、多少の美化はあっても本人に近い絵が描かれるでしょう。 モデルとなる武将が亡くなった後に描かれる肖像画を遺像といいます。 多くの戦国武将の肖像画は遺像であるとされています。描かれる時期はモデルとなる武将によってさまざまで、死後間もない時期に描かれることもあれば、数百年経った後に描かれることも。遺像は一般的に一周忌や三回忌など供養のタイミングで制作されます。 徳川家康三方ヶ原戦役画像 作者:不明 制作年:江戸時代ごろ 徳川家康といえばふくよかな印象がありますが、『徳川家康三方ヶ原戦役画像』では30歳ごろのほっそりとした徳川家康の姿が描かれています。 『徳川家康三方ヶ原戦役画像 』は、1572年に三方ヶ原の合戦で武田信玄に敗れた家康が、この敗戦を肝に銘ずるために敗走時の姿を描かせたといわれています。 そのため、恰幅が良く堂々とした他の肖像画とは異なり、憔悴しきった徳川家康の表情が繊細に描かれているのです。『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は別名『しかみ像』とも呼ばれています。徳川家康はこの肖像画を慢心の自戒として生涯座右を離さなかったともいわれています。 また、近年では『徳川家康三方ヶ原戦役画像』を描かせたのは徳川家康自身ではないとされる説も。紀伊徳川家から嫁いだ従姫の嫁入り道具に入っていたことから、尾張家初代の徳川義直が徳川家康の苦難を思い返し忘れないようにと描かせたともいわれています。 松本図書父子肖像掛軸 作者:不明 制作年:不明 『松本図書父子肖像掛軸』は、会津中世の武士である松本氏を描いた肖像画掛軸です。 松本氏は会津中世の武士であり、会津地方の戦国大名である葦名氏の優秀な家臣でした。なお、松本氏の詳細な起源は分かっていません。 鎌倉時代以後、会津に住んでいた武士とされています。松本氏の肖像画掛軸が伝えられている松沢寺は松沢氏が開いたとされ、松本氏の住まいも近くにありました。 『松本図書父子肖像掛軸』は、中世の記録が少ない会津における貴重な絵画資料で、1976年には町指定重要文化財に登録されています。 武田信玄肖像画賛幅 作者:住吉内記広尚 制作年:江戸時代後期 『武田信玄肖像画賛幅』は武田信玄の肖像画賛幅です。 画賛とは画の余白に詩文が書き入れられた人物画を指します。 この肖像画に書かれている「知信仁勇巌」という言葉は、孫子の兵法に書かれている「将とは智信仁勇巌なり」にちなんだ言葉とされています。つまり、大勢を率いる大将は知恵・信頼・情け・勇気・厳しさを持ち合わせている必要があるという言葉です。 甲斐の虎とも呼ばれた戦国武将である武田信玄は、信濃の諏訪氏、小笠原氏を倒し、上杉謙信とも何度も合戦を繰り広げています。 さらに三方ヶ原の戦いでは織田信長・徳川家康が率いる軍に勝利しています。 この強さの秘訣は、勇猛なだけではなく儒学、兵法、詩歌にも秀でていたためとされ、『武田信玄肖像画賛幅』に書かれている詩がその一端をうかがわせるでしょう。 歴史的に価値のある肖像画掛軸を高額買取してもらうなら 肖像画は特定のモデルを描いた絵画ジャンルの一つです。 古代エジプトで制作が始まり、14世紀ごろから王侯や高位聖職者など高貴な身分の人々が、自身の肖像画を描かせたことで盛んになっていきました。 日本では鎌倉時代の水墨画の広がりと同時期に肖像画も広く知れ渡っています。戦国時代の武将たちも肖像画として残っており、今でも歴史的価値が高い作品も多く存在します。 これまで大切にしてきた肖像画掛軸や祖父母から引き継いだ掛軸をお持ちの方で、作品の価値が気になっている方もいるでしょう。肖像画掛軸の買取査定を依頼するなら、長年の査定経験がある専門の査定士への依頼をお勧めします。 名のある武士の肖像画はもちろん、作家やモデルがわからない肖像画でも、まずは一度査定を依頼してみましょう。
2024.09.14
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水墨画掛軸の買取は高額査定のチャンス?!中国・日本水墨画の歴史と特徴を知ろう
水墨画掛軸には山水画や花鳥画、詩画軸などさまざまな種類があります。国宝に指定されている作品も多く、作家や作品によっては高価買取が期待できるでしょう。中国の水墨画、日本の水墨画問わず、価値の高い作品が多く現存しています。水墨画の魅力や価値を理解するためには、それぞれの特徴や歴史、有名な作家、作品などを知ることも大切です。 水墨画とは 水墨画とは墨の濃淡で描かれた絵画を指します。 ぼかしやかすれ、にじみ、グラデーションなどによって表現されます。 また、筆使いによってもさまざまな表現が可能で、筆を運ぶ際の強弱や筆圧などを用いて繊細な表現を行う絵画です。 筆と墨だけのシンプルな作品でありながら細かい描写が可能です。 またモデルとするものをすべて描くのではなく、無駄をそぎ落とし描かれる水墨画は、自然や人生の奥深さ、わびさび、静寂、哀歓、素朴さなどを伝えるのに適した芸術作品で、見るものの心を魅了します。 中国水墨画掛軸とは 中国の水墨画掛軸は力強い線と筆使いが特徴的です。 筆を重視した手法を用いて描かれる水墨画は迫力のある絵が人気を集めています。 また、中国では書画同源や詩書画一致の思想があります。この思想は、詩と画は切り離すことはできず根本的に同じであるという考え方です。そのため中国水墨画掛軸には画だけ、書だけではなく画と書が一緒に描かれた作品が多く存在します。 たとえば、山水画や文人画の中には作家や鑑賞した人の詩文や感想が組み合わされた作品もあります。詩とそれに見合う書や詩で世界観を表現する中国水墨画掛軸は、芸術と文学を結び付けた独自の芸術品といえるでしょう。 中国水墨画掛軸の歴史 墨の一色のみを用いて描かれる絵画は、唐の時代から描かれていたとされています。 水墨画である山水画が多く描かれるようになったのも唐の時代です。 墨を活用すること自体は中国の殷の時代からありました。 墨を利用して描かれた絵画は漢の時代にもありましたが、当時の絵画は墨一色ではなく、墨の線に着色が施されていました。 その後、宋代では文人官僚の遊びとして水墨画が描かれるようになり、禅宗が広まっていった時代には禅宗にかかわる人物画が水墨画で描かれています。 また宋代では花卉雑画が水墨画のジャンルとして確立されるとともに宮廷では画院が設立され、花鳥画を中心として写実表現が追求されていきました。 宋代で山水画・文人画・花鳥画の3つのジャンルが確立されたといえるでしょう。 中国の水墨画は当時から現代にいたるまで長い間親しまれ続け、掛軸としても多くの人を魅了しています。 中国水墨画掛軸の特徴や魅力 中国の水墨画は、写実表現を追求する中で生まれた絵画とされています。 写実的表現を極めていった結果、色を足さずに墨の濃淡だけでモチーフを表現する方法が生まれました。 また、写実的表現といっても写真のような精密な描写は追及していない点や西洋絵画のような影を表現せずに描かれていることも特徴の一つです。 西洋画の写実的表現は、見たままの自然な姿をありのままに描写することに重きをおいていますが、中国の水墨画はモチーフとするものの本質を描こうとしているため、目的の違いから表現方法の違いが生まれたといえるでしょう。 また、中国水墨画は筆の水分量を調節し濃淡を活用することで一筆の中にグラデーションを作り出しています。線表現にも特徴があり、古くから描かれている仏画では抑揚の少ない均一な線で描く手法が用いられていたのに対し、山水画では輪郭線の中に線を引く皴法が積極的に活用されています。また、輪郭線を用いない没骨法と呼ばれる技法も生まれ、模索が繰り返されてきました。 中国水墨画掛軸の有名作品や作家 五代・北宋期に活躍した中国水墨画で有名な作家は以下のとおりです。 ・荊浩(けいこう) ・関同(かんどう) ・董源(とうげん) ・巨然(きょねん) ・李成(りせい) ・郭照(かくき) 荊浩の代表作といえば『匡廬図』や『雪景山水図』などです。 初期の水墨山水画を描いた代表的な作家で、その後の山水画に大きな影響を与えたとされています。 関同の代表作といえば『秋山晩翠図』や『山谿待渡図』などです。 シンプルな筆さばきでありながら雄大な山水画を描き、宋代の山水画に大きな影響を与えました。 董源の代表作といえば『瀟湘図巻』や『寒林重汀図』などです。 江南山水画の創始者としても知られており、淡い墨を重ねて江南地方の景色を描いています。また、麻の繊維をほぐしたように波打たせて山や岩を表現しており、立体感を演出した披麻皴と呼ばれる筆法を生み出した作家としても有名です。 巨然の代表作といえば『煙嵐暁景図』や『層巌叢樹図』などです。 巨然の師は董源であり、董源の画風を受け継いだ作品が特徴的で、董巨と称される江南山水画家として人気を集めていました。 李成の代表作といえば『喬松平遠図』があります。 五代・北宋の画家で、夢幻的な雰囲気の煙林平遠と呼ばれる山水画を描き、淡い墨で霧を表現している特徴があります。 郭照の代表作といえば『渓山秋霽図巻』や『早春図』などです。 北宋の宮廷画家、理論家の一人で、豊かな変化が魅力の自然風景を写実的かつ壮大な画風で表現している特徴があります。李郭とも呼ばれ、李成とともにその後の山水画に大きな影響を与えました。 日本水墨画掛軸とは 日本の水墨画掛軸の始まりは鎌倉時代に禅とともに受け入れられた中国の水墨画であるとされています。 当初は禅僧が修行の一環として禅林画や禅宗画を描いていましたが、その後、高僧の肖像画や山水画も描かれるようになっていきます。 日本の水墨画は中国の水墨画を模倣した作品が多く、特に人気のあった中国水墨画家には牧谿や夏珪、馬遠などがいます。 貴族や大名たちの間では、牧谿風の水墨画、夏珪風の水墨画といったように模倣作品が広く親しまれていました。 その後、室町時代に登場した雪舟の影響により、日本独自の水墨画の画風が確立されていきます。 日本の水墨画は、現代においても歴史的価値があるとされ、多くの有名作品が美術館に所蔵されたり、高価買取されたりしています。 日本水墨画掛軸の歴史 日本の水墨画は、奈良時代に唐から墨や墨で描かれた絵画の技法が伝わり始まったとされています。 当時は掛軸ではなく木簡や壁画などに墨で描いた文字や墨画が主流でした。 水墨画の大きな特徴である墨の濃淡だけでモチーフを表現する水墨画技法は、鎌倉時代に入ってから確立されていきました。 鎌倉時代に当時の中国から入ってきた水墨画は、禅の思想を表現する『達磨図』『瓢鮎図』などです。 禅宗が武士から広く支持を集めたことにより、水墨画も多く描かれるようになっていきます。 室町時代に入ると中国の模倣作品としての水墨画ではなく、日本独自の水墨画が発展していきます。室町幕府では足利家が禅宗を庇護したことにより禅宗の思想や文化が栄えていき、水墨画で有名な作品を残している如拙、周文、雪舟など多くの水墨画家を輩出しました。 日本では、中国の水墨画家である牧谿の作品が広く知られており、一番優れた絵師と評され牧谿の作品を模写した作品が多く制作されています。 初期の水墨画は人物画や花鳥画も多く描かれていましたが、15世紀ごろの戦国時代からは日本でも本格的な山水画が描かれるようになりました。 また、詩画軸が描かれ始めたのも戦国時代ごろからです。 詩画軸とは詩・書・画が一体となり作品の下方に絵が描かれ、余白部分を埋める形で漢詩文が書きこまれた作品を指します。 日本の水墨画は中国から伝わった当初から現在にいたるまで多くの人々を魅了し続けている芸術作品です。掛軸としても親しまれており、現代でも歴史的価値の高い作品が数多く現存しています。 日本水墨画掛軸の特徴や魅力 日本の三大巨匠と呼ばれる水墨画掛軸の有名作家は以下のとおりです。 ・雪舟(せっしゅう) ・牧谿(もっけい) ・狩野探幽(かのうたんゆう) 雪舟の代表作といえば『四季山水図巻(山水長巻)』や『天橋立図』などです。 雪舟は突出した画家としての才能から画聖とも呼ばれています。48歳で中国に渡り本場の水墨画を学んだ雪舟は、約3年の修行の中で中国各地の山岳や河川などの景勝地で写生を行い、中国の雄大な自然から創作意欲を得たことで、躍動感ある山水画を描いています。 牧谿の代表作といえば『観音猿鶴図』や『漁村夕照図』などです。 牧谿は中国の僧侶で日本の水墨画に大きな影響を与えた中国画家でもあります。伝統を重視した写実的な院体画を描いており、中国ではあまり有名な画家ではありませんでした。中国から日本へ渡ってきた水墨画の主流が院体画であったため、日本で広く知れ渡ったと考えられます。 狩野探幽の代表作といえば『四季松図屏風』や『東照宮縁起』などです。 16歳のころには江戸幕府の御用絵師として活躍した天才水墨画家として有名です。探幽独自の技法は探幽様式と呼ばれ、画面の余白をそのままに余韻を残し、景観に続きがあるかのように表現した手法が多くの人々を魅了しました。 日本と中国、いずれの水墨画掛軸も人気 中国の水墨画と日本の水墨画は異なる表現方法で描かれており、それぞれに独自の良さがあります。 現代においても、各水墨画掛軸は芸術作品や歴史的資料として価値のある作品として人々の興味を引いています。家族代々受け継がれてきた水墨画掛軸を所有していて、作品の価値を知りたいと感じている方は、一度査定を依頼してみましょう。 適切な価値を知りたい方は水墨画家を専門とする経験豊富な査定士への依頼がお勧めです。また、古くなった水墨画掛軸は傷や汚れがついている場合もあります。しかし、自身の判断だけで修繕を行うことはお勧めできません。かえって傷や汚れを広げてしまう恐れがあります。 まずは気軽に専門の買取業者へ相談してみてはいかがでしょうか。
2024.09.14
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美しい自然が描かれた山水画掛軸、高価買取してもらうには
山水画は日本のみならず海外からも高い評価を受けている美術品です。有名作家が描いた作品は現代でも高値で買取される可能性があります。自然の風景を独自の思想感で描いていく山水画は作家の精神性が表現された文学作品でもあります。山水画の特徴や種類、有名作家を知り、山水画への興味をより深めていきましょう。 山水画とは 山水画とは、墨と水の濃淡のみで美しい自然の風景を描いた水墨画を指します。中国が起源の絵画で、人物画・花鳥画と並んで東洋絵画の三大ジャンルの一つでもあります。山水画に描かれる風景の多くは単なる自然の景色ではありません。山水画には山岳を霊的・精神的な存在と考える中国人の自然観が反映されており、幽玄な雰囲気で描いたり、想像上の風景を描いたりする特徴があります。 高い精神性に基づいて理想郷のような風景や普遍的な自然が好んで描かれました。画風は唐代の王維、李思・李昭道父子、呉道玄の時代に始まり、唐滅亡後の五代のころに確立されたといわれています。南宋時代には情緒的な表現がよく見られ、元代には北宋と南宋の特徴が合わさり文人たちから高い人気を集め南宋の山水画が誕生しました。その後、明清時代には文人山水画が主流になっていきました。 日本では飛鳥時代から山水画が描かれています。各時代で中国山水画の影響を大きく受けながら数々の有名作品が制作されました。日本には山水画と別に、四季折々の景色や自然の風景を描いたやまと絵と呼ばれる日本伝統の絵画があります。しかし、鎌倉時代に宋代の画家たちの山水画が多く日本に渡ってくるようになったころ、やまと絵よりも山水画がもてはやされるようになりました。 山水画掛軸の種類や特徴とは 山水画は中国から伝わった水墨画の一種で、主に山岳や河川をメインに描かれた絵画です。ただし、自然の風景を見たままに描いているわけではなく、想像上の景色が描かれている特徴があります。そのため、単なる風景画とは異なる作品といえるでしょう。山水画は写実性よりも芸術的かつ文学的な意味合いを重視し、作者の思想や精神性を表現するために幽玄な自然の風景を再構成して描く手法がとられています。 山水画には「水墨山水」「彩色山水」「四神山水」がある 山水画とひと口にいっても、「水墨山水」「彩色山水」「四神山水」など複数の種類があります。 水墨山水は、深い山々や流れる川などの風景を墨の濃淡だけで描いた山水画を指します。水墨山水は禅の教えとともに日本に伝わりました。そのため水墨山水には描き手の思いや物語が表現されています。また水墨山水は、下から近景・中景・遠景の3つに描き分けられています。そのため、下から上に向かって眺めていくと、近くから遠くへ風景が移動していくような感覚を味わえるのです。また、作品によっては距離感だけではなく時の流れを感じられる場合もあります。 彩色山水とは、水墨画とは異なり色を用いて描かれます。絵のモデルは水墨山水と同様に山々や河川です。彩色山水も遠近法が取り入れられており、1番手前に河川を描き、その奥が古家、真ん中には木々を、さらに奥には滝、一番遠い位置に描かれるのが山岳です。彩色山水は山水画に色を加えることで、より鮮やかで明るい印象の風景が楽しめる作品といえます。きらめく川は美しい水色で塗り、生い茂る木々にはやわらかな緑色を、山肌には淡い黄土色で色づけるのも特徴の一つです。彩色山水は自然そのものがもつ生命の息吹や躍動感を表現できる山水画といえます。 四神山水とは四神相応の土地が描かれた山水画です。四神相応とは古来中国から伝わる風水の一種で、方位に関連する思想の一つです。東西南北にはそれぞれ方角を守る四神がおり、良い条件である土地の状態を四神相応と呼びます。四神は青龍・白虎・朱雀・玄武からなります。青龍は川を好み住むとされ、白虎は道を走り、朱雀は低地に溜まる大きな池に降り立ち、玄武は山で逆風の盾になるとされており、四神に相応する土地に都市や家を築けば期の流れが整い、幸に恵まれると古くから伝えられていました。四神山水はこの四神相応にあてはまる風景を描いた絵画で、開運、厄除け、家運隆盛をもたらすよう願いが込められているのです。 日本独自の美しい特徴のある山水画 日本の山水画には、四季を感じられる山や川など自然の風景が多く描かれています。その時代に入ってきた中国山水画の影響を受けながら描かれており、鎌倉時代に最盛期を迎えました。鎌倉時代では、雪舟によってこれまでの中国の模倣的作品を脱した日本独自の山水画文化が確立されていきました。日本独自の山水画は実景描写が特徴的です。また、他の花鳥画や人物画などと同じように装飾的となり、やまと絵との融合により日本独自の山水画様式が生まれていきました。 一方で、中国の山水画は、山や川、渓谷などの単なる風景画にはとどまらず、自然の風景を創造的に描いたり、霊獣が住む理想郷として描いたりします。また多くの中国山水画は、力強くはっきりした印象を与えます。にじみやぼかしがあまり見られないのも特徴的です。また中国掛軸の特徴として、中国には古来より「書画同源」「詩画一如」という考え方があります。書と画を一つの掛軸におさめ、一体的な芸術を楽しむことが多く、山水画にも絵だけではなく書が描かれている作品が多く生まれているのです。 特に有名な山水画掛軸の作品や作家たち 山水画は中国から仏教の教えとともに日本へ伝わり、多くの日本画家の手によって描かれている作品です。室町時代には雪舟によって日本独自の山水画が確立されていき、明治時代に入っても狩野芳崖をはじめとした山水画家により、多くの有名な作品が描かれていきました。中国を起源としながらも独自の発展を遂げていった日本山水画は、現代においても多くの作品が高値で買取されています。特にその時代を象徴する有名画家の山水画は、人気が高く高価買取が狙える作品といえるでしょう。 ご自身でお持ちの山水画作品の価値を知るきっかけとして、有名な山水画家の名前をおさえておくことも大切です。 雪舟 作家名:雪舟(せっしゅう) 代表作:『四季山水図』『山水長巻』 生没年:1420年-1506年 雪舟は1420年に備中国で生まれ、禅宗の僧侶になるため10歳のころには臨済宗の寺院である宝福寺に預けられました。当時から絵をかくのが好きだった雪舟は、相国寺にいた室町幕府御用達絵師で日本水墨画を代表する画僧である周文のもとで水墨画を学び、才能を開花させていきます。京都で名の知られる画家となった雪舟は中国で本格的に水墨画を学びたいと考えます。周防国の守護大名に頼み込み、48歳のときに明と交易を行う遣明船に乗り中国へ渡りました。雪舟は、山水画のように美しい中国各地の風景を写生したり、中国の名画を模写したりと修行に励みます。雪舟の絵は明でも称賛され、天童山第一座の称号を獲得しています。 狩野芳崖 作家名:狩野芳崖(かのうほうがい) 代表作:『溪山幽趣』『雪景山水』 生没年:1828年-1888年 狩野芳崖は1828年生まれの江戸時代後期から明治にかけて活躍した画家のひとりです。19歳のころ江戸へ出て、木挽町の狩野勝川院雅信に教えを受け、雪舟を中心に諸派絵画の研究に努めました。3年勉強したのちに師である雅信の助手として絵画を描いていましたが、師と色彩について意見が食い違うこともしばしばあり、破門の危機が繰り返し発生していました。狩野芳崖は減筆体で簡略化を図る江戸狩野派よりも雪舟の空間表現を手本としていたため、狩野派である師との衝突が頻繁に起こっていたと考えられます。 明治維新が進む当時の日本では、狩野芳崖が描く前衛的な絵画は長らく評価されませんでした。評価されない理由の一つに狩野芳崖の国粋主義に対する反発があります。明治維新後、急速に進む欧米化から日本の文化を守ろうとする国粋主義が前衛的な芸術をも否定したのです。狩野芳崖の作品には欧米の構図を取り入れたものもあり、日の目を浴びない日々が続きます。しかし、近代化が進み欧米文化が日本にも浸透してくると徐々に狩野芳崖の作品も評価されていき、日本画近代化の作品として受け入れられるようになりました。 山水画の掛軸買取はプロの買取業者へ相談を 山水画は中国が起源といわれており、日本には禅の教えとともに伝わりました。日本画家によって描かれた多くの山水画は中国山水画からの影響を受けています。しかし、室町時代に活躍した雪舟の手によって日本独自の山水画が確立されていきました。また、山水画と一口にいっても「水墨山水」「彩色山水」「四神山水」とさまざまな種類があります。それぞれ違った楽しみ方ができるのも魅力の一つです。 山水画の掛軸は作品によって高価買取が狙える美術品です。自宅の蔵を掃除したときに山水画が出てきて、価値を知りたいと考えている方もいるでしょう。山水画掛軸の価値を知りたい方は専門分野の査定士への査定依頼をお勧めします。長く放置して汚れや傷が付いた山水画も、まずはそのまま査定してもらいましょう。下手に修繕を行い汚れや傷が広がれば、価値を下げることにつながりかねません。有名作家の作品はもちろん、名前の知らない山水画もぜひ一度価値を確かめてみましょう。
2024.09.14
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菖蒲の掛軸はどんな時に飾る?その由来や有名作品とは
日本には美しい四季があり、掛軸でも季節を楽しむ文化が古くからあります。 菖蒲掛軸もその代表例。ではなぜ菖蒲の掛軸は多くの作家に描かれ、掛軸として親しまれているのでしょうか。その由来や、込められた思いなどを紐解いていきましょう。 菖蒲の掛軸の意味や由来とは 菖蒲の香りは邪気を清められるとされています。昔から中国では、5月に生まれてくる子どもは親を不幸にするとされていました。5月は不吉な月とされていて、そのせいで5月に生まれた子どもを捨ててしまう親が後を絶ちませんでした。子どもが捨てられるのを防ぐために、5月5日に魔除けや無病息災を願い邪気を払うさまざまな行事が誕生します。そこで、邪気を祓う菖蒲が利用されていました。 日本でも、旧暦の5月は梅雨の時期で水害や疫病が発生しやすく、作物も育ちにくくかびやすい、あまり良い月とはされていませんでした。水害や疫病を祓い、作物の豊作を祈るための行事として「さつき忌み」が誕生します。身を清めた女性が田植え前にヨモギや菖蒲で作った屋根の小屋で神様を迎え入れる行事です。 このように菖蒲には邪気を祓い清めてくれる効果があるとされ、植物そのものだけではなく掛け軸に描かれ厄除け祈願に用いられるようになりました。 菖蒲の掛軸を掛軸を飾る時期はいつ? 菖蒲の掛け軸は5月5日の端午の節句で飾られることが多くあります。 端午の節句は奈良時代から続く古き良き年中行事です。鎌倉時代ごろに、菖蒲と尚武が同じ読み方であることや、菖蒲の葉っぱが剣の形に見えることから端午は男の子の節句とされました。 そのため、端午の節句では男の子が健康ですくすくとたくましく成長できるよう祈り、厄除けを祈願するようになりました。子どもの成長を祈って、五月人形やこいのぼりを飾り、床の間には兜飾りと一緒に武者や菖蒲、鍾馗の掛軸をかける特徴があります。 菖蒲の掛軸を描いた作品や作家たち 端午の節句で厄除けとしてよく用いられる菖蒲の掛軸は、さまざまな作家によって描かれています。 小林古径 作家名:小林古径(こばやしこけい) 代表作:『紫苑紅蜀葵(しおんこうしょっき)』『楊貴妃』『菖蒲』 小林古径は1883年、新潟県中頸城郡高田土橋町(現・新潟県上越市大町)に生まれ、新古典主義と呼ばれる画風を確立した画家です。 1894年、11歳のときに東京美術学校で横山大観と同期だったとされる山田於菟三郎に日本画の教えを受け始めました。 その後、絵の道への興味が深まり、新潟で活動していた遊歴画家の青木香葩に教えを受け、歴史画を描きながら画家への道を目指します。1899年、16歳で上京して新聞小説等の挿絵画家として有名な梶田半古の画塾に入門。半古は当時、絵画共進会審査員も務める気鋭の画家でした。 1914年に描かれた『異端』は第1回再興日本美術院展で入選。その後、紅児会風の情緒的な表現から写実的な表現へと変化していきます。1922年には、前田青邨と一緒に日本美術院留学生としてヨーロッパに約一年滞在。西洋美術を学びます。 エジプト、ギリシャ、イタリア、フランスを周遊し帰国した後の画風は、線の表現が洗練され構図もより簡潔に変化しました。中世キリスト教美術とエジプト美術の様式美が影響を与えたとされています。 1944年には、帝室技芸員を拝命するとともに東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授となり、画家を指導する立場となります。1950年、67歳で文化勲章を受章。 1952年『菖蒲』の出典を最後に作品の出品は途絶え、1957年74歳で生涯を閉じました。 佐藤隆良 作家名:佐藤隆良(さとうたかよし) 代表作:『アグリジェント』『法起寺』『牡丹』 佐藤隆良は1950年、福島県生まれです。高校卒業後に画家を目指して上京しています。平山郁夫に教えを受け、1981年に開催された第66回日本美術院秋季展で『漁村』が初入選しました。2010年には鎌倉長谷寺宝物館で個展「祈りのひかり」を開催しています。個展をきっかけに開山1300年を迎える鋸山の日本寺の襖絵を依頼され制作しています。 佐藤隆良の受賞歴は以下のとおりです。 ・日本美術院展日本美術院奨励賞 ・日本美術院展春季展賞受賞 ・有芽の会展受賞 ・福島県展大賞受賞 北上聖牛 作家名:北上聖牛(きたがみせいぎゅう) 代表作:『青葉の蔭』『はなれ国の初夏』 北上聖牛は1891年、函館生まれで叔父は日本画家の北上峻山です。1907年、京都烏丸で薬屋を営む上羽氏のもとで約3年間、着物の染色や紋、上絵を行いました。その後、叔父にあたる北上峻山から約1年、教えを受けて日本画の絵具の扱い、古典派の美人画などを学びます。 1913年、京都で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入門し教えを受けます。1916年、第10回文展で『はなれ国の初夏』が初入選。1917年には、第11回文展で『睦しき日送り』が入選しています。1918年、京都の四季を画題にした『嵐山の春』が第1回帝展に入選。 1925年、京都で研究団体「冬心会」を設立しました。第1回道展には特別会員として『残月』を出品しています。写実的な花鳥画を得意とする画家で、1969年、78歳で息を引き取るまで熱心に作品を描き続けていました。 菖蒲に込められた意味を知ると、掛軸をもっと楽しめる 菖蒲には、古くから邪気を祓い清める力があるとされてきました。そのため、梅雨の時期にあたる旧暦の5月初めの端午の節句では、厄払いとして菖蒲湯に浸かる習慣があります。また、端午の節句では掛軸に描いた菖蒲を飾る習慣もあります。菖蒲の掛軸は厄除けとしても用いられているのです。 菖蒲の掛軸には季節を楽しむ目的以外にも、清めの目的があるとわかりました。菖蒲の掛軸を飾る時期は春分の日を過ぎてから5月いっぱいほどが目安です。菖蒲に込められた意味を振り返り、端午の節句をお祝いしましょう。
2024.09.14
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東京の掛軸買取なら | 高額査定を狙うなら実績ある査定士へ
掛軸は、日本国内のみならず世界からも高い評価を受けている美術作品です。 日本には古来中国から伝わり、古くから親しまれています。同じ掛軸でも中国と日本では画のタッチや文字と画の組み合わせなどにより違いがあります。日本ならではの繊細な筆感や美しい色彩を楽しめる日本画掛軸は、骨董品・美術品市場でも人気の作品です。 東京出身や東京にゆかりのある掛軸も多く存在し、歴史に名を残している著名作家の作品は、今でも高額で買取されています。中には自分の出身地とゆかりのある掛軸を飾りたいと考える人もいるのではないでしょうか。有名な作家の生い立ちや代表作品などを知り、より掛軸への興味を深めましょう。 東京には価値の高い掛軸がたくさんあります 掛軸とはそもそも、書や絵を床の間に飾り鑑賞を楽しめるよう仕立てた美術作品です。 西洋絵画とは異なり、飾らないときは巻物にして箱の中にしまっておける特徴があります。掛軸は画や書が描かれている本紙と額縁に当たる表層の組み合わせによっても楽しめるのが魅力の一つです。 買取において、一見価値がなさそうな古びた掛軸も、ふたを開けてみると実は名作だったということもあります。掛軸の価値はなかなか自分では判断できません。東京で掛軸の処分をお考えの方は、掛軸査定の専門家に一度お見せすることをお勧めします。作者がわからない、表装がされていない、しわやシミなどの汚れがあるなどの場合でも価値がつくこともあります。 東京にゆかりのある、掛軸作家と代表作 多くの掛軸作家が多彩な作品を残し、一般家庭においても床の間へ掛軸を飾り楽しむ時代。中には自分の出身地とゆかりのある掛軸を飾りたいと考える人もいるのではないでしょうか。長い日本掛軸の歴史において、東京にゆかりのある掛軸作家も多く存在します。 葛飾北斎 作家名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 代表作:『正宗娘おれん 瀬川菊之丞』『富嶽三十六景』『酔余美人図』 葛飾北斎(1760年-1849年)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。現在の東京都墨田区に生まれ、小さなころから絵を描くことに夢中でした。10代の終わりには、当時人気浮世絵師だった勝川春章に入門し、絵師となりました。代表作である「富嶽三十六景」は、46図におよぶシリーズものの浮世絵版画です。高い画力と思いもよらぬアイディアで、各地のさまざまな角度から眺めた富士山の姿を描いています。 富嶽三十六景に描かれている富士山はそれぞれ違った表情や魅力があり、たとえば陽の光に山肌を赤く染めた優美な姿や橋げたの奥に遠く望む富士山などさまざまなアイディアで富士山が描かれています。中でも多くの人を虜にしたのが、「波間の富士」の俗称を持つ「神奈川沖浪裏」です。船を飲み込む勢いの迫力ある大きな波の下に小さく富士を描いたその作品は、自然の脅威と人間の営み、それらを超越する霊峰の姿が見事に表されている魅力的な一枚です。 葛飾北斎は、およそ70年にもわたって絵を描き続け、多彩な作品を残しました。没後もますます高い評価を受け、現代においても世界の偉大な芸術家として国内外で人気を集めています。 片岡鶴太郎 作家名:片岡鶴太郎(かたおかつるたろう) 代表作:『東京夜景』『一富士二鷹三茄子』『彩雲不二』 片岡鶴太郎は日本のお笑い芸人、役者、画家とマルチに活躍するタレントです。 1954年に生まれ東京の下町で育ちました。画家としては、1995年に初の絵画展「とんぼのように」を東京で開催します。その後2001年にはフランス・パリで初の海外個展を開催。2011年には本格的な仏画を出店するなど、画家としても精力的に活動しています。2014年~2017年にかけては還暦と画業20周年を記念した個展「還暦紅」を全国20カ所で開催し、34万人を動員する大盛況を収めました。現在も群馬県草津、石川県山中、佐賀県伊万里、福島県飯坂に個人美術館を設立するなど、東京だけではなく全国で継続的に活動しています。 伊東明生 作家名:伊東明生(いとうめいせい) 代表作:『百事諧 ひゃくじ/ととのう』『南無阿彌佗佛』『龍虎二行書』 伊東明生は、1941年生まれ東京出身の画家です。日本水墨画協会に所属しており、市展、県展で入選を果たしています。現在は静岡に在住。 衣笠玉関 作家名:衣笠玉関(きぬがさぎょっかん) 代表作:『旭光照波』『お雛様』 衣笠玉関は、1950年生まれ東京在住の画家です。県展や市展に積極的に作品を出品し、個展も3回開催しています。得意な画は花鳥画と山水画です。 東京の掛軸買取は実績ある査定士へ相談を 東京にゆかりのある掛軸作家が描いた作品の中にも高価買取の対象となっている作品があります。 自宅や倉庫の大掃除を行っていて掛軸がでてきたときには、すぐに処分してしまわずに、まずは実績のある査定士に相談してみるのがお勧めです。 長い間ほこりをかぶって放置されていた掛軸は、汚れやシミが目立つ場合もあるでしょう。しかし、状態がきれいでなくとも価値のつく作品もあります。また、補修によって価値が変動することもあるため自己判断での修復は注意が必要です。自宅の倉庫から出てきた掛軸の価値を知っておきたいと考えている方は、実績や経験が豊富な専門の査定士へ査定をお願いしましょう。掛軸は、箱、落款、署名などがあればさらに価値が上がる可能性もあるため、査定前にチェックしてみてください。
2024.09.14
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