画家や作家は男性であることが多いですが、時代ごとに活躍した女性たちも存在します。
時代の変化とともに、活躍した女性たちの人物像を理解すると、より作品を楽しめるでしょう。
時代ごとに活躍した女性掛軸作家を追う
掛軸は、中国を起源としており、592年~710年(飛鳥時代)に日本に伝わったと考えられています。
掛軸作家というと、男性が多いイメージですが、各時代で活躍していたのは男性作家はもちろん、なかには女性にも、時代ごとに活躍した掛軸作家がいます。
安土桃山時代
1573年~1603年(桃山時代)には、織田信長と豊臣秀吉が茶道を好んだことで、床の間の様式が急激に発展しました。
桃山時代はわずか50年と短い時代ですが、それまでの時代に比べると変化が速く、華やかでわかりやすい掛軸作品が現代にまで残っています。
小野お通
小野お通の出生は史料がなく、一説では1567年ごろに誕生したといわれています。
出自や経歴などに所説はありますが、小野お通は諸国を巡り芸を行う「遊芸人」の一族に誕生したといわれており、古典学者の公卿である「九条稙通」のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」との呼び声高い公卿である「近衛信尹」から書を学んだとされています。
当時の女性としては、かなりの高等教育を受け、当代随一の女流書家として活動し、和歌や書画だけでなく、絵画、琴、舞踊などの才にも秀でていたといわれています。
小野お通の描いた書は、「お通流」と呼ばれて、当時の代表的な女筆となりました。
江戸時代
長い戦乱の時代が終わりを迎え、徳川家による支配が確かなものとなった江戸時代では、狩野永徳の孫である深幽が徳川家と親密な関係を築いたことにより、日本全国の大名諸侯の御用絵師のほとんどを「狩野派」が務めました。
画家を志す多くの若者は、狩野派に学ぶよう組織化されていきました。
多くの画家を輩出した江戸時代には、このような掛軸作家の背景があります。
江馬細香(えまさいこう)
江馬細香は、竹の絵が得意なことで有名な画家。
父親が大垣藩の医師である江馬細香は、京都の僧である玉潾に絵を学び、のちに、父親の紹介で漢学者でありながら、歴史や文学、美術などのさまざまな分野で活躍した頼山陽に教えを受けました。
1818年(文政初年)ごろに梁川星巌、梁川紅蘭、村瀬藤城らと詩社である「白鴎社」結成。
1848年(嘉永元)には詩社「咬菜社」を結成し、中心人物として活躍しました。
梁川紅蘭(やながわこうらん)
江馬細香とともに「白鴎社」を結成した梁川紅蘭は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した漢詩人です。
14歳に又従兄妹の梁川星巌の塾「梨花村草舎」へ入塾し、漢詩を学びます。
夫の星巌は19世紀初頭、頼山陽とともに日本文学における二大巨星といわれていました。梁川紅蘭は、絵画技術にも秀でており、絵画作品としては『群蝶図』が有名です。
生涯で漢詩を400作品以上も残したうえに、絵画も制作しています。
葛飾応為(かつしかおうい)
葛飾応為は、葛飾北斎の三女として生まれ、数少ない女性浮世絵師。
1810年(文化7年)に制作された『狂歌国尽』の挿絵が初作といわれています。
特に美人画に優れており、父親である北斎の肉筆美人画の代作や、北斎の春画の彩色を担当していたとの話もあるのです。父である北斎は「美人画にかけては応為には敵わない、彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。
明治時代以降
徳川幕府という後ろ盾を失った狩野派は解散となり、生活の苦しい画家は、新たな職業に就く者も現れました。
西洋画の流通により、明治初期には西洋の絵画に注目が集まったことで、日本の絵画の評価は低下していきます。
しかし、アメリカのアーネスト・フェノロサにより、日本の美術が評価された影響で、再び日本絵画は活気を取り戻していきます。
1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利した日本は、先進国としての文化を示すため、1907年に文展(文部省美術展覧会)を開催しました。
奥原晴湖(おくはらせいこ)
奥原晴湖は、明治時代の女性南画家。
16歳で南北合体画風を学びますが、渡辺崋山の影響を受けて南画に転向します。
1871年に開業して作ったのが「春暢家塾」。全盛期には、300人以上の門人がいたといわれています。
奥原晴湖の代表作は、『墨堤春色図』や『月ケ瀬梅渓図』で、埼玉県の龍淵寺にある奥原晴湖の墓は、指定文化財となっています。
上村松園(うえむらしょうえん)
上村松園は、気品ある美人画を得意とし、1948年に初めて女性で文化勲章を受章した日本画家です。
1890年に行われた第3回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が一等褒状を受賞します。
これを来日中であった英国ヴィクトリア女王の三男であるアーサー王子が買い上げたことで話題になりました。
1936年の『序の舞』は、1965年に発行された切手趣味週間の図案に採用され、2000年には重要文化財に指定されました。
野口小蘋(のぐちしょうひん)
野口小蘋は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、明治の女性南画家として奥原晴湖とともに双璧といわれていた画家の一人です。
幼少期に詩、書、画を好み才能を現します。
1871年に東京都千代田区の麹町に住み、本格的に画業を行います。美人画や肖像画などの人物画を得意とし、作品を英照皇太后に献上し、皇室や宮家の御用達絵師として数多くの作品を手がけました。
大正天皇即位の際、宮内庁からの下命で制作されたものが、三河悠紀地方の『風俗歌屏風』です。
島成園(しませいえん)
島成園は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家です。
20歳の時に文展に入選したことで、女性画家の流行を作りました。
大阪で頭角を見せた若い女性画家である島成園は、それまで東京や京都が中心だった当時の日本画壇において、画期的な活躍でした。
1916年には同年代の女性日本画家とともに「女四人の会」を結成し、女性画家の新たな時代を切り開きました。
なぜ女性掛軸作家の作品は少ないのか
平安末期である1008年に、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を手がけていたため、そのころから女性作家による文学作品は制作されていました。
しかし、職業として絵を描いている女性は、現代に比べると決して多くはありませんでした。
明治時代以降になって多くの女性画家が登場しますが、結婚とともに制作から離れたり、苗字が変わったりで作家としての歴史が追いにくいのが現状です。
女性ならではの画風や題材にも注目
掛軸作家は男性の多い職業なだけに、女性が職業としての画家を確立させていくためには、男性とは違う苦労があったに違いありません。
しかし、女性ならではの視点や表現で描かれた作品には、魅力がたくさんあります。
柔らかなタッチや曲線など、女性だからこそ描ける作品の特徴に注目して、鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。