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平安時代の合戦を描いた『平治物語絵巻』の魅力
『平治物語絵巻』とは、平安時代である1159年に起こった「平治の乱」をもとに書かれた軍記物語『平治物語』の内容を描いた絵巻物です。 『平治物語絵巻』の作者は明らかになっていない 平安時代に描かれた『平治物語絵巻』の作者は、今なお謎に包まれています。 住吉派の住吉内記が描いたとする説もありますが、確かな証拠はなく、真実は明らかになっていません。 絵巻は3巻と断簡から構成されており、どの巻も震えるような独特の書風が特徴です。 統一された書体は、一連の作品として共通していることから、少なくとも文章は一貫性を持って書かれていると考えられています。 しかし、絵の部分については、各巻の画風には共通性があるものの、描き方に微妙な違いが見られることから、複数の描き手がいたのではと推察されています。 平治物語をもとに描かれた『平治物語絵巻』とは 作品名:平治物語絵巻 作者:住吉内記ほか 制作年:1789年-1801年ごろ 技法・材質:ー 寸法:40.2×43.3cm 『平治物語絵巻』は、平安時代末期に実際に起こった平治の乱を描いた軍記物語『平治物語』をテーマにした絵巻物です。 平治の乱は、武士の源義朝と藤原信頼が手を組み、権力者の平清盛と側近である藤原通憲に対して挙兵した歴史的な戦いです。 平治の乱では結果的に源義朝・藤原信頼の敗北に終わり、この合戦をきっかけに平氏政権が誕生しました。 『平治物語絵巻』は、平治の乱から約100年後、鎌倉時代の13世紀後半に当時の戦記物語の伝統にもとづいて描かれました。 現存する『平治物語絵巻』は3つ 『平治物語絵巻』は、平治の乱にもとづく重要な絵巻物ですが、現存するものは3巻のみです。 「看聞御記」によると、1436年には比叡山に15巻の『平治物語絵巻』が保存されていたと記録が残っています。 しかし、現在確認されているのは、『三条殿夜討巻』『信西巻』『六波羅行幸巻』の3巻のみです。 現存する3巻は、それぞれ以下の場所に所蔵されています。 『三条殿夜討巻』:ボストン美術館(アメリカ合衆国マサチューセッツ州) 『信西巻』:静嘉堂文庫美術館(東京都千代田区丸の内) 『六波羅行幸巻』:東京国立博物館(東京都台東区) なお、『六波羅行幸巻』は国宝に指定されており、国内においてその価値が認められているのです。 また、絵巻の他にも「断簡」として14図が存在し、さまざまな所蔵先に分蔵されています。 三条殿夜討巻の見どころ 『三条殿夜討巻』のあらすじは、源義朝と藤原信頼軍が後白河上皇の御所である三条殿を襲撃し、上皇と二条天皇を幽閉するという内容です。 平清盛が熊野参詣で京にいない隙を突いて、源義朝と藤原信頼軍は御所三条殿に夜襲を仕掛けました。 彼らは屋敷に火を放ち、残虐の限りを尽くし、その様子が描かれています。 『三条殿夜討巻』の見どころは、炎上する三条殿の圧巻の描写です。 藤原信頼側の兵士が上皇方の兵士に襲いかかる姿や、身分の高い人たちが逃げ惑う中を馬で襲いかかるシーンが描かれています。 また、武士の姿は「つくり絵」と呼ばれる平安時代の技法を用いて描かれており、墨線で描かれた下絵にそって彩色を行うことで、細部にわたって丁寧に表現されています。 さらに、絵巻をよく観察すると描き直しや加筆の痕跡が見られ、初発的に描かれたことが伺えるでしょう。 信西巻の見どころ 『信西巻』は、信西の最期が描かれている絵巻です。 信西は平清盛のパートナー的存在であった学者・僧侶で、三条殿の夜襲の際には一時逃げ延びましたが、藤原信頼が主導する公卿会議で一族追補の決定が下され、最終的には見つかり自害に追い込まれます。 信西の首は切り落とされ、京都へ戻った源義朝・藤原信頼軍によって獄門にかけられました。 絵巻には、獄門にかけられた信西の首を見上げる人々の姿が描かれています。 『信西巻』では、群青色を用いた風景表現が特徴的です。 戦いの躍動感や武具甲冑の精緻な描写が印象的で、戦場の緊迫感を見事に伝えています。 六波羅行幸巻の見どころ 『六波羅行幸巻』では、源義朝・藤原信頼軍のクーデターを察知した平清盛が反撃を試みる様子が描かれています。 熊野参詣から帰還した平清盛は、二条天皇を自宅の六波羅邸へ脱出させようとしました。 二条天皇は、源義朝の軍に囲まれた中、女装して脱出に成功し、六波羅邸へ逃げ込みます。 絵巻には、二条天皇が六波羅邸に逃げ込む様子が躍動的に描かれています。 脱出成功の結果、源義朝・藤原信頼軍の攻撃は失敗し、断簡として分蔵されている六波羅合戦の巻には、源氏が敗退し、源義朝が東国へ落ちる様子が描かれていました。 詞書には波打つ文字が見られ、鎌倉時代前期の書家である弘誓院教家の晩年の書風が反映されているとされています。 これら3つの巻は、平安時代の武士社会や歴史的背景を知る上での貴重な資料にもなっています。 『平治物語絵巻』は歴史的な合戦の様子を細やかに表現した絵巻 今回ご紹介した『平治物語絵巻』は、平安時代の合戦をテーマにした絵巻であり、細やかな描写や豊かな色合いが特徴的です。 平治の乱における合戦の様子を、戦士たちの群像や精緻な甲冑の描写を通じて、観る者に強い印象を与えます。 特に、整然とした構図と色彩の美しさから、合戦絵巻の最高峰ともいわれているのです。 戦いの緊迫感や情景が生き生きと描かれ、当時の武士の姿や戦闘の様子が詳細に表現されている『平治物語絵巻』は、平安時代の文化や社会を理解するための貴重な資料でもあり、直接目にすることで、その迫力をよりいっそう感じられるでしょう。 興味のある方は、ぜひ間近でご覧いただき、その魅力を体感してみてください。
2024.11.26
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技法を知るともっと楽しい、源氏物語絵巻
平安時代の有名な物語といえば、源氏物語。 古くから日本人に親しまれている物語で、現代でも源氏物語を原作として、アニメやマンガ、ドラマなどさまざまな作品が作られ、多くの人を楽しませています。 源氏物語絵巻の技法に見る、ストーリーの表現 源氏物語を絵で表現した源氏物語絵巻。 巻物に描かれた絢爛豪華な風景や美しい衣装が、物語の情緒を見事に表現しています。 源氏物語絵巻とは 『源氏物語絵巻』とは、平安時代中期に紫式部によって描かれた源氏物語を絵で表現した巻物で、国宝にも指定されています。 『源氏物語絵巻』は原作に近い時代の雰囲気を感じられる素晴らしい作品で、『伴大納言絵巻』『鳥獣人物戯画』『信貴山縁起』と並んで日本四大絵巻の一つに数えられています。 実は、過去には、この源氏物語絵巻は、12世紀中期に活躍した宮廷画家の藤原隆能によって描かれたといわれていました。 しかし、現在は宮廷を中心として制作されたといわれており、一流の画家や書道家が分担して絵画化されたと考えられるでしょう。 絵巻物では、源氏物語の中でも趣深く絵画化に適しているシーンを選び出して、描かれていると考えられます。 源氏物語が成立してから約150年後の12世紀ごろに描かれています。 現存する日本の絵巻物の中では、もっとも古い作品です。 源氏物語とは 源氏物語とは、11世紀のはじめごろ平安時代の中期に描かれた物語。 作者は紫式部で、夫である藤原宣孝が病死した悲しみを紛らわすために書いたといわれています。 主人公である光源氏の一生と恋模様を書いた物語で、全54帖(巻)です。 大きくは、3部構成に分けられている長編作品であり、光源氏とその一族の人生を70年にわたって書き綴っています。 第1部では、桐壷帝の子としてこの世に生を受けた光源氏が、多くの恋を経験しながら成長していく様子が描かれています。光源氏が宮廷内でも栄華を極めていく様子が見どころです。 第1部は1~33帖までが該当します。 第2部は、第1部が好評であったことから続編として執筆されました。 34~41帖までが該当します。 光源氏は宮廷で栄華を極めたものの、その後の人生には数多くの苦難が待ち受けていました。 最愛の妻を亡くし、光源氏が52歳でその生涯に幕を閉じるまでが書かれています。 第3部は、42~54帖まで書かれています。 光源氏が亡くなって以降の物語で、光源氏の息子である薫の人生や恋模様を書いた源氏物語の完結編です。 源氏物語絵巻に用いられた技法 源氏物語絵巻では、源氏物語の優美な世界を再現するべく、さまざまな技法を用いて描かれています。 引目鉤鼻(ひきめかぎばな) 引目鉤鼻とは、人物の顔の輪郭をふっくらと下膨れさせて描き、一直線の目、短く鉤型(くの字形)の鼻などを特徴とする技法です。 特に、身分の高い貴族の男女の顔を描くために使われていました。一直線の目やくの字の鼻といっても、ただ1本の線が引かれているわけではありません。 よくよく見ると分かるのですが、細い線を何重にも描き、微妙な心情を表現しているのです。 吹抜屋台(ふきぬきやたい) 吹抜屋台とは、屋内の様子を絵で表現するために、屋根や壁を描かずに部屋を描く技法。斜め上から屋内を見下ろす俯瞰的な構図が特徴です。 源氏物語は、室内を中心に話が進んでいくため、吹抜屋台の技法があらゆる場面で用いられています。 異時同図法(いじどうずほう) 時間の経過を表現するために、1つの場面に対して、同じ人物を何度も登場させる技法です。 現代のマンガ的表現である、コマ割りに通じる表現とされています。 絵巻物では、右から左に辿っていくと、時間の流れとともに人物の行動が変化していく様子が見て取れます。 平安貴族の優美さを表現した、源氏物語絵巻の技法 源氏物語を絵で表現した源氏物語絵巻。 源氏物語そのものや、登場する人物の繊細な表情や心情などの魅力を、さまざまな技法によって引き立たせています。 源氏物語絵巻は、日本の美意識と文学への興味を湧かせてくれる、奥深さのある作品といえるでしょう。
2024.10.12
- 掛軸の歴史
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女性掛軸作家たちの歴史と作品を辿る
画家や作家は男性であることが多いですが、時代ごとに活躍した女性たちも存在します。 時代の変化とともに、活躍した女性たちの人物像を理解すると、より作品を楽しめるでしょう。 時代ごとに活躍した女性掛軸作家を追う 掛軸は、中国を起源としており、592年~710年(飛鳥時代)に日本に伝わったと考えられています。 掛軸作家というと、男性が多いイメージですが、各時代で活躍していたのは男性作家はもちろん、なかには女性にも、時代ごとに活躍した掛軸作家がいます。 安土桃山時代 1573年~1603年(桃山時代)には、織田信長と豊臣秀吉が茶道を好んだことで、床の間の様式が急激に発展しました。 桃山時代はわずか50年と短い時代ですが、それまでの時代に比べると変化が速く、華やかでわかりやすい掛軸作品が現代にまで残っています。 小野お通 小野お通の出生は史料がなく、一説では1567年ごろに誕生したといわれています。 出自や経歴などに所説はありますが、小野お通は諸国を巡り芸を行う「遊芸人」の一族に誕生したといわれており、古典学者の公卿である「九条稙通」のもとで和歌を学び、「寛永の三筆」との呼び声高い公卿である「近衛信尹」から書を学んだとされています。 当時の女性としては、かなりの高等教育を受け、当代随一の女流書家として活動し、和歌や書画だけでなく、絵画、琴、舞踊などの才にも秀でていたといわれています。 小野お通の描いた書は、「お通流」と呼ばれて、当時の代表的な女筆となりました。 江戸時代 長い戦乱の時代が終わりを迎え、徳川家による支配が確かなものとなった江戸時代では、狩野永徳の孫である深幽が徳川家と親密な関係を築いたことにより、日本全国の大名諸侯の御用絵師のほとんどを「狩野派」が務めました。 画家を志す多くの若者は、狩野派に学ぶよう組織化されていきました。 多くの画家を輩出した江戸時代には、このような掛軸作家の背景があります。 江馬細香(えまさいこう) 江馬細香は、竹の絵が得意なことで有名な画家。 父親が大垣藩の医師である江馬細香は、京都の僧である玉潾に絵を学び、のちに、父親の紹介で漢学者でありながら、歴史や文学、美術などのさまざまな分野で活躍した頼山陽に教えを受けました。 1818年(文政初年)ごろに梁川星巌、梁川紅蘭、村瀬藤城らと詩社である「白鴎社」結成。 1848年(嘉永元)には詩社「咬菜社」を結成し、中心人物として活躍しました。 梁川紅蘭(やながわこうらん) 江馬細香とともに「白鴎社」を結成した梁川紅蘭は、江戸時代後期から明治時代初期に活躍した漢詩人です。 14歳に又従兄妹の梁川星巌の塾「梨花村草舎」へ入塾し、漢詩を学びます。 夫の星巌は19世紀初頭、頼山陽とともに日本文学における二大巨星といわれていました。梁川紅蘭は、絵画技術にも秀でており、絵画作品としては『群蝶図』が有名です。 生涯で漢詩を400作品以上も残したうえに、絵画も制作しています。 葛飾応為(かつしかおうい) 葛飾応為は、葛飾北斎の三女として生まれ、数少ない女性浮世絵師。 1810年(文化7年)に制作された『狂歌国尽』の挿絵が初作といわれています。 特に美人画に優れており、父親である北斎の肉筆美人画の代作や、北斎の春画の彩色を担当していたとの話もあるのです。父である北斎は「美人画にかけては応為には敵わない、彼女は妙々と描き、よく画法に適っている」と語ったと伝えられています。 明治時代以降 徳川幕府という後ろ盾を失った狩野派は解散となり、生活の苦しい画家は、新たな職業に就く者も現れました。 西洋画の流通により、明治初期には西洋の絵画に注目が集まったことで、日本の絵画の評価は低下していきます。 しかし、アメリカのアーネスト・フェノロサにより、日本の美術が評価された影響で、再び日本絵画は活気を取り戻していきます。 1894年の日清戦争と1904年の日露戦争に勝利した日本は、先進国としての文化を示すため、1907年に文展(文部省美術展覧会)を開催しました。 奥原晴湖(おくはらせいこ) 奥原晴湖は、明治時代の女性南画家。 16歳で南北合体画風を学びますが、渡辺崋山の影響を受けて南画に転向します。 1871年に開業して作ったのが「春暢家塾」。全盛期には、300人以上の門人がいたといわれています。 奥原晴湖の代表作は、『墨堤春色図』や『月ケ瀬梅渓図』で、埼玉県の龍淵寺にある奥原晴湖の墓は、指定文化財となっています。 上村松園(うえむらしょうえん) 上村松園は、気品ある美人画を得意とし、1948年に初めて女性で文化勲章を受章した日本画家です。 1890年に行われた第3回内国勧業博覧会に出品した『四季美人図』が一等褒状を受賞します。 これを来日中であった英国ヴィクトリア女王の三男であるアーサー王子が買い上げたことで話題になりました。 1936年の『序の舞』は、1965年に発行された切手趣味週間の図案に採用され、2000年には重要文化財に指定されました。 野口小蘋(のぐちしょうひん) 野口小蘋は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、明治の女性南画家として奥原晴湖とともに双璧といわれていた画家の一人です。 幼少期に詩、書、画を好み才能を現します。 1871年に東京都千代田区の麹町に住み、本格的に画業を行います。美人画や肖像画などの人物画を得意とし、作品を英照皇太后に献上し、皇室や宮家の御用達絵師として数多くの作品を手がけました。 大正天皇即位の際、宮内庁からの下命で制作されたものが、三河悠紀地方の『風俗歌屏風』です。 島成園(しませいえん) 島成園は、大正から昭和初期にかけて活躍した女性日本画家です。 20歳の時に文展に入選したことで、女性画家の流行を作りました。 大阪で頭角を見せた若い女性画家である島成園は、それまで東京や京都が中心だった当時の日本画壇において、画期的な活躍でした。 1916年には同年代の女性日本画家とともに「女四人の会」を結成し、女性画家の新たな時代を切り開きました。 なぜ女性掛軸作家の作品は少ないのか 平安末期である1008年に、紫式部が『源氏物語』を、清少納言が『枕草子』を手がけていたため、そのころから女性作家による文学作品は制作されていました。 しかし、職業として絵を描いている女性は、現代に比べると決して多くはありませんでした。 明治時代以降になって多くの女性画家が登場しますが、結婚とともに制作から離れたり、苗字が変わったりで作家としての歴史が追いにくいのが現状です。 女性ならではの画風や題材にも注目 掛軸作家は男性の多い職業なだけに、女性が職業としての画家を確立させていくためには、男性とは違う苦労があったに違いありません。 しかし、女性ならではの視点や表現で描かれた作品には、魅力がたくさんあります。 柔らかなタッチや曲線など、女性だからこそ描ける作品の特徴に注目して、鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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掛軸の発展を支えた、同朋衆の存在
掛軸は、現代の日本における代表的な芸術品ですが、その歴史には室町時代の「同朋衆」と呼ばれる集団の活躍が大きく関わっています。 もともと掛軸は、中国の漢時代より始まった文化とされており、日本に入ってきたのは、飛鳥時代との説があります。 その後、平安時代・鎌倉時代とその技術が受け継がれましたが、掛軸を芸術の1つとして確立したのが同朋衆です。 掛軸の発展にあった、同朋衆の存在 掛軸の歴史を語るうえで、欠かせない存在が「同朋衆」と呼ばれる集団です。 同朋衆は特定の人物名ではなく、主に将軍の近くで雑務や芸能を担当した芸術指南役の集団を指します。 同朋衆は室町時代、足利義満将軍に仕えた6人の法師が始まりといわれ、主に猿楽(能の起源とされる舞踊)や庭園を始め、工芸品や絵巻など芸術文化の発展をつかさどっていました。 掛軸だけでなく「いけばな・和室・わびさび文化・茶」など、現代の日本を代表する心や文化の形成にも、同朋衆が深く関わっていたといいます。 同朋衆は、日本文化の礎を築いた貢献者ともいえるでしょう。 同朋衆とは 室町時代に始まった同朋衆の集団およびその制度は、江戸時代初期まで続いたとされています。 戦国時代には、織田信長や豊臣秀吉にも仕えたそうです。 同朋衆の姿が確認できる資料はごく少数で、その姿が確認できるのは、当時描かれた絵画資料『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』のみで、この絵巻によると、同朋衆は僧侶のような服装をしており、合計5名の姿が確認されています。 『足利将軍若宮八幡宮参詣絵巻』は将軍を中心とした同行人たちを描いた作品で、八幡宮の鳥居をくぐる様子が切り取られています。 なお、同朋衆は当時の関所をくぐる際、自由に行き来ができる身分だったそうです。 こういった背景を考えると、当時の幕府から重宝されていたことがわかります。 同朋衆が活躍した時代 同朋衆が現代の芸術の基礎を築いたのは、制度が発足した室町時代のことです。 当時は、中国より伝わった水墨画の文化が流行しており、中国との往来が頻繁な禅僧は、文化人としての地位を確立していました。 足利義満将軍の代に始まった同朋衆は、芸術を生業とする役職でしたが、当時の地位のなかで高い位置に属していたのです。 同朋衆は、掛軸を含む絵巻を始め、茶道・能楽・香道・庭園など、幅広いジャンルの芸を開花させました。ほかにも、銀閣寺に採用された「書院造り」を創案するなど、数々の功績を残しています。 このように、室町時代を代表する文化や芸術を称して「北山文化」や「東山文化」と呼びます。 同朋衆が掛軸文化の発展に寄与 そもそも掛軸は、絵画芸術ではなく礼拝の対象として使われた仏具の1つ。これを1つの絵画芸術として昇華したのは、ほかでもない同朋衆です。 現代でも、掛軸は茶室や床の間に飾られるものですが、この文化は室町時代に始まったとされています。 のちの安土桃山時代には、千利休が掛軸を茶席の重要な道具の1つとして説き、爆発的な掛軸ブームを呼びました。 客人をもてなす伝統文化「茶の湯」は、同朋衆が築いた掛軸文化と茶の技術が、のちの世に受け継がれて完成したものです。 また、掛軸と同朋衆の関係を説明するうえで欠かせない人物が3人います。 それが「能阿弥」「芸阿弥」「相阿弥」です。 室町時代から江戸時代まで続く同朋衆のなかで、3人は大きな役割を担ったといわれています。 足利家に仕えた同朋衆・三阿弥(さんあみ) 能阿弥 作家名:能阿弥 生没年:1397年〜1471 年 代表作:『白衣観音図』『花鳥図屏風』 能阿弥とは、元越前朝倉氏の家臣で、足利義教・義政の代に同朋衆として仕えた人物です。 息子に芸阿弥、孫に相阿弥を持ち、3代続く「三阿弥」としてその功績を称えられました。 主に幕府内の工芸品の鑑定や管理を行い、自身は水墨画を得意としていました。 のちに起こる「阿弥派(室町時代の画派の1つ)」の開祖とされ、将軍にも重宝されたそうです。 能阿弥は、茶道における書院飾りを完成させ、現代に続く茶の作法の原型を考案したといわれています。 また、絵画における代表作『白衣観音図』『花鳥図屏風』は、中国の画僧「牧谿」の趣を取り込んだ作品として有名です。 掛軸の作品においては『山水図』『雨中蓮下白鷺』が現存しています。 芸阿弥 作家名:芸阿弥 生没年: 1431年〜1485 年 代表作:『観瀑図』『夏秋山水図』 芸阿弥は能阿弥の息子にあたり、足利義政に同朋衆として仕えた人物。 主に絵画制作を中心として、工芸品の管理や鑑定など、芸術全般や客人のもてなしを取り仕切ったとされていますが、足利義政の代は、応仁の乱による混乱のため、工芸品の類がほとんど現存していません。 芸阿弥の作品で確認されているものとして『観瀑図』『夏秋山水図』が挙げられます。 相阿弥 作家名:相阿弥 生没年:生年不明〜1525 年 代表作:『廬山観瀑図』『四季山水図屏風』 相阿弥は、祖父「能阿弥」父「芸阿弥」に続き、足利将軍家に同朋衆として仕えた人物です。 水墨画を得意とし、芸術全般の指導や工芸品の管理、鑑定も務めたとされています。 代々伝わる阿弥派の絵画を完成形に導いた貢献者であり、書院飾り・造園・香道・連歌・茶道など多方面で活躍した職人でもあります。 周囲からは、文化人としての才を認められ「国工相阿」とも称されました。 なかでも、中国の名山「廬山」に流れる滝を描いた『廬山観瀑図』は有名です。 同朋衆が日本美術の発展に大きく貢献 同朋衆は、日本の伝統文化の原型を作ったといわれる職能集団です。 掛軸はもちろん、茶・能楽・庭園・絵画絵巻など、現代に受け継がれる工芸品や芸能は、同朋衆のおかげで存続したといっても過言ではありません。 日本の歴史では、あまり取り沙汰されない同朋衆ですが、後世に続く雪舟や千利休など著名な文化人たちは、同朋衆の築き上げた技術をもとに自身の作品を作り上げています。 同朋衆および三阿弥の作品は、東京の根津美術館や出光美術館など、全国の美術館や博物館で鑑賞できます。 気になる方は、ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。
2024.10.04
- 掛軸とは
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掛軸の出来栄えは「表具師」の腕次第?!
掛軸作品を飾るためには、表具による仕立てが必要です。 この仕事を担っているのが表具師と呼ばれる職人です。 専門的な技術や経験を活かし、作品を引き立てるための手助けをする仕事ともいえるでしょう。 掛軸作品を鑑賞する際は、表具師が仕立てた表装にも注目して見ると、これまでとは違う視点から作品を楽しめるでしょう。 掛軸に欠かせない表具師の存在 掛軸を飾るためには、表具が欠かせません。 表具とは、布や紙などを貼って巻物や掛軸、屏風、襖、衝立、額、画帖などを仕立てることをいいます。 また、表装とも呼ばれています。 表具師とは 表具師とは、紙に関する多くの仕事を担っている職業です。 たとえば、掛軸や屏風などの芸術作品や美術作品の修復、寺院の天井や壁の表装など日常とは異なる場面だけではなく、ふすまや障子など日常で使用する紙の建具も、表具師が担っています。 表具師は、表装師、経師、表補絵師などとも呼ばれています。 表具師は、紙のなんでも屋であり、専門性の高い技術力を駆使して、さまざまな作品の修復を手がけているのです。 表具師のセンスが現れる、色や模様 掛軸作品の見どころは、なんといっても描かれているモチーフや構図などです。 そのため、人気の掛軸作品においては、絵師たちが注目を集めています。 あまり意識していない人も多い表具は、掛軸作品の魅力を引き立たせるために、欠かせない存在です。 表具は、絵画作品を鑑賞や保存のために、布や紙に書画を貼り付けて掛軸や巻物、屏風などにして楽しめるようにする、東アジア独自の文化です。 日本に表具が伝わったのは、平安時代から鎌倉時代にかけてといわれています。 中国から伝わった表具は、日本で独特の発展を遂げていき、独自の様式が誕生しました。 表装は多彩な種類があり、配置や組み合わせによって、絵の意味や格を表したり、絵をより引き立たせたりする役割があります。 表装は古くから、色や柄などを表具師が選んでいました。 表具師が描かれた『三十二番職人歌合』とは 三十二番職人歌合とは、12世紀から16世紀ごろに内容がまとめられた4種5作の職人歌合の一つです。 15世紀末ごろから注目を浴び始めた職人をテーマに、32種類の職種をピックアップして構成された絵巻物です。 この作品の中で、表具師は「へうほうゑ師(表補絵師)」として登場しています。 主役を引き立てる表装には、センス抜群の表装師の存在があった 表装や表具は、掛軸作品の魅力を引き立たせるためのものであるため、主張が強すぎてもよくありません。 また、掛軸の絵柄や背景にマッチしていない表装をしてしまうと、掛軸作品の価値を下げてしまうおそれがあるでしょう。 そのため、主役を引き立てる表装の組み合わせを決める表装師は、センスのいる仕事であるといえます。 掛軸作品の魅力を後押しする表装にも目を向けて、掛軸作品の鑑賞を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.10.04
- 掛軸とは
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日本と中国の水墨画は表現や筆遣いなどに違いがあります
墨の濃淡や線の太さなど筆の使い方によって多彩な表現ができる水墨画。 中国から日本へ伝わり独自の進化を遂げ、風景や人物を美しく描いた作品が数多く生み出されています。力強いタッチで描かれた迫力のある作品や、繊細な筆使いで豊かな表情を描写している作品など、作家・作品によって水墨画から受け取れるイメージはさまざまです。 また、起源である中国と日本でも表現や筆使いに違いがみられます。 水墨画は、独特の墨の質感や線の表現方法による繊細な美しさが特徴であり、シンプルでありながら奥深い美術品です。違いを知ることでより、見る者の心に感動を与える水墨画の魅力を感じられるでしょう。 中国から日本へ伝来した水墨画 水墨画は、墨の濃淡や筆の使い方でさまざまな表現を行う絵画です。 水墨画の始まりは、唐時代の中国であるとされています。古くは殷の時代から既に墨が利用されており、墨で描いた絵画も漢の時代には存在したといわれています。 その後、唐の時代に入りさらに進化していき、墨の濃淡で表現する絵画が描かれるようになりました。唐時代の後半には、水墨画は山水画の技法として広く知れ渡っていきました。 中国から日本に水墨画が入ってきたのは、14世紀前半の鎌倉時代末期とされています。 禅宗文化とともに山水画が日本へ伝わってきました。このとき伝わってきたのは禅の思想を表す達磨図や瓢鮎図でした。墨の濃淡で精神世界を表現している禅宗美術は、武士の心に通じるものがあるとして人気を集め、禅僧の手によって日本でも広がっていきます。鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍したのが黙庵(もくあん)や可翁(かおう)などの禅僧です。 室町時代に入ると、足利将軍家の庇護を受けた禅宗文化が繁栄していき、水墨画は日本独自の発展を遂げていきました。 室町時代後半に登場する雪舟(せっしゅう)の描く水墨画によって、水墨画は全盛期を迎えます。雪舟が現れるまでの日本の水墨画は、中国から伝わってきた人気絵師たちが描く水墨画の特徴や癖を真似して描く方法が主流でした。 雪舟は、日本で修行を続けていましたが、当時の日本の画風になじめずなかなか納得のいく作品を生み出せずにいました。より自分らしい新たな水墨画を描こうと中国に渡り学びを続けます。しかし、中国でも雪舟が納得するような師はおらず「天地こそが我が師なり」という言葉とともに中国中を回って山河の四季を描き続けたとされています。 雪舟が日本独自の水墨画の画風を確立させてからは、私淑した雪村周継(せっそんしゅうけい)らに受け継がれ、絢爛豪華な画風が好まれた桃山時代以降も水墨画は重要な技法として学ばれていきました。 また、雪舟のいる室町時代に活躍した宗湛(そうたん)の跡を継いだのが、狩野派の始祖となる狩野正信(かのうまさのぶ)です。 狩野派は室町時代中期から江戸時代末期にかけての約400年間、日本画壇の中心となって活躍した流派でした。江戸時代後期からは多くの人を惹きつけていた狩野派や琳派などが次第に衰えていき新しい流派が登場していきます。水墨画は、南画と円山・四条派に引き継がれ現代へと続いていきました。 日本と中国の水墨画の違いとは 鎌倉時代に中国から日本に伝わったとされる水墨画。 当初は中国から伝わってきた水墨画を模写する方法が主流でしたが、雪舟の登場により日本独自の画風が確立され、中国の水墨画と大きな違いがみられるようになりました。 日本と中国の水墨画では筆の使い方や自然の表現方法、線の書き方、墨の使い方などに違いがみられます。違いを知ることで自分がどちらの画風を好んで見ているかを知るきっかけにもなるでしょう。 輪郭線の描き方の違い 中国の水墨画は力強い線と筆使いが特徴的です。対象の外形を輪郭線でとらえる描き方が一般的で、輪郭線をはっきりと描く特徴もあります。また、対象の肌感や質感を線や墨で表現し、自然の光や陰影はあまり反映させない画風です。 日本の水墨画でも輪郭線は描かれますが、墨のにじみによる繊細な表現方法が特徴です。日本の水墨画では、にじみ・ぼかし・たらしこみと呼ばれる3つの技法が活用されています。 季節感の表現の違い 中国の水墨画は、山や川そのものの特徴に注目して描いている作品が多い傾向です。中国の山水画は唐代の王維、李思・李昭道父子、呉道玄や唐滅亡後の五代の時代に確立されました。自然の風景を幽玄な雰囲気で描く特徴があり、風景画というよりも山を神聖なものと捉え、霊獣の住みかである神秘的なものとして描く傾向があります。 中国の水墨画は理想郷を描いているイメージ。中国の高い精神性が水墨画に反映されているといえるでしょう。そのため、中国の水墨画は実際には存在しない風景が描かれていることも多くあります。 日本の水墨画では、山や川の自然な風景に季節感を盛り込むことが多い傾向です。現に、年中掛けと呼ばれる掛軸のほかに、季節掛けと呼ばれる四季にあわせて掛軸を掛け替える風習があるほど、日本人は四季折々の自然美を大切にしています。 筆や墨の使い方の違い 中国の水墨画では筆の使い方を重視します。筆を運ぶときの勢いを利用して強弱を表現する方法が主流です。 一方で日本の水墨画は墨の使い方を重視します。にじみやぼかしなどの墨の技法を利用して柔らかい印象を表現する描き方が多い傾向です。 にじみ にじみとは、まず絵を描く前に和紙に霧吹きや刷毛で水を吹きかけます。その上に墨をおいてにじませて描く手法です。水を吹きかけて墨をのせる方法もあれば、薄い墨を先に張りその上に濃い墨をのせてにじませていく方法もあります。 ぼかし ぼかしとは、にじみ同様和紙に水を張り、軽く筆を動かしながら墨を広げていき、遠くにぼやけて見えるような表現方法をする手法です。 たらしこみ たらしこみとは、水を張ったり薄い墨で描いたりした箇所が乾く前に墨をたらしこむ手法です。にじみと似た手法ですが、たらしこみは水や墨が和紙に染み込まないよう水を吸いにくい紙を用いて描かれます。 日本独自の進化を遂げた、水墨画 中国から鎌倉時代に伝わったとされる水墨画は時代が進むにつれて独自に発展していきました。 禅宗の影響を受けて描かれた時代から、中国絵師の作品の模写を経て、室町時代後期に雪舟によって確立された日本独自の画風が現在もなお受け継がれています。筆の使い方を重視する中国とは違い、墨の使い方を重視する日本の水墨画は、墨の濃淡を活かして四季折々の自然の美しさを表現しています。 独自の技法の発達 日本の水墨画独自の技術である、たらしこみ。 水が染みにくい紙を用いて、先に張った水や墨が乾かないうちに異なる濃淡の墨を上からたらす手法です。たらしこみにより、先に張った水や墨と混じり合うことでできる自然な形や、濃淡による陰影や立体感を加えられます。 この手法は俵屋宗達が確立した手法といわれています。その後、琳派の絵師に受け継がれ、琳派の代名詞的な技法となりました。 日本でたらしこみの技法が生まれた理由には、日本の水質が関係していると考えられます。硬水の中国とは違い、日本の水は軟水です。墨を利用するとき、軟水の方がより滑らかなにじみがでるため、繊細なたらしこみを活かすのに向いていたと考えられます。水質は水墨画を描くうえで妥協できない重要な要素です。絵師の中には少しでも良い水を求めて朝露で墨を摺ったという話も残っています。 また、たらしこみ技術が発展したのは日本ならではの紙も関係しているでしょう。たらしこみは水がにじみにくい紙を利用する必要があったため、日本の丈夫な和紙がそれを可能にしたといえます。 水墨画の三大画題とは 水墨画の画題はさまざまですが、最も有名で描かれているのが山水画・人物画・花鳥画で、三大画題ともよばれています。山水画では、日本の四季折々の自然美が印象的な作品が多く生み出されています。花鳥図の代表として有名なのが、狩野元信(かのうもとのぶ)の『山水花鳥図』です。四季それぞれの山水に花鳥をあしらったこの作品は、水墨をメインとしながらも花鳥部分に淡彩を施している特徴があります。 中国の力強く美しい水墨画 日本の水墨画とは違い、中国の水墨画は力強い美しさがあります。筆の使い方を重視しており、輪郭線をはっきりと描き迫力のある自然美が魅力の一つです。また、日本とは違い季節感をあまり重視していません。中国の水墨画は対象物そのものに焦点を当てて描かれていることも特徴的です。 水墨画の三大巨匠とは 日本には三大巨匠とよばれる有名な絵師が3人います。 雪舟・牧谿・狩野探幽の3人はそれぞれ日本の水墨画に大きな影響を及ぼした人物。歴史の中でどのような水墨画を描き人々に影響を与えたのかを知ることで、より水墨画の鑑賞を楽しめるでしょう。 雪舟 作家名:雪舟(せっしゅう) 代表作:『天橋立図』『山水長巻』 生没年:1420年-1506年 雪舟は絵の才能を見出され京都に出て相国寺で修業に励みます。 しかし、当時主流だった繊細な画風になじめず34歳のころ山口へ移転しました。山口で修業をし14年が過ぎた48歳ごろ、水墨画家として頭角を現し始めていた雪舟は遣明船の一員として中国へ渡る機会が与えられました。 3年の旅の中で見た中国のダイナミックな山水画は、雪舟が得意としていた画風だったこともあり、その後の日本画の型にはまらない水墨画作成のきっかけとなったのです。 雪舟の生み出した作品のうち、国宝に指定されている6点はすべて60代半ばから晩年に描かれた作品です。 牧谿 作家名:牧谿(もっけい) 代表作:『漁村夕照図』『観音猿鶴図』 生没年:1127年-1279年 牧谿は13世紀後半の中国南宋末元の僧で、水墨画家としても日本で高く評価されている人物です。牧谿の水墨画は湿潤な空気感が特徴的です。牧谿の作品は室町時代以降の日本の水墨画に大きな影響を与えています。人気のあまり贋作が大量発生するほどでした。日本では輸入により中国の院体画家の作品が入ってきていたため、牧谿をはじめとする院体画家の画風が狩野派などの大きな流派の画家たちに影響を与えていきました。 狩野探幽 作家名:狩野探幽(かのうたんゆう) 代表作:『両帝図屏風』『雪中梅竹遊禽図襖』 生没年:1602年-1674年 狩野探幽は江戸時代の狩野派絵師の一人です。狩野探幽の画風は、余白を活かした詩情豊かな構成や繊細かつやわらかい筆使いが特徴的で、落ち着きのある味わい深さが感じられます。有名な作品の一つに『雲龍図』があります。鳴き龍ともよばれ大徳寺の法堂の天井に描かれた作品です。龍の絵の真下で手を叩くと共鳴して龍の鳴き声のような音が堂内に響き渡ります。 それぞれの文化や歴史の違いを楽しめる、水墨画 日本の水墨画は中国が起源といわれていますが、日本に入ってから独自の発展を遂げ、日本ならではの画風を確立していきました。そのきっかけを与えたのが雪舟とされています。 中国の水墨画と日本の水墨画にはさまざまな違いがありますが、どちらも魅力的な面を多く持っています。そしてそれらの違いを知ることで、水墨画を鑑賞するときの楽しみ方も増えるのではないでしょうか。歴史と特徴を知り、これまで以上に水墨画の深い芸術を味わいましょう。
2024.09.14
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狩野派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
室町時代~江戸時代にかけて幕府の御用絵師として活躍した狩野派と呼ばれる絵師集団がいました。歴史上でも最も大きな絵師集団とされています。狩野派絵師が手掛けた作品は金色を多く使い、迫力のある豪華絢爛な作品が多い傾向です。 血縁関係者を中心に集まった狩野派は幕府の命を受けて大量の作品を制作するために独自の学習方法や工房制作スタイルを生み出し、日本画界に大きな影響を与えました。狩野派の掛軸の価値を知るためにも、歴史や画風などについて理解を深めましょう。 日本絵画史上最大の画派、狩野派とは 狩野派とは、幕府の御用絵師として室町時代~江戸時代にかけて約400年にわたり襖や障壁画を手掛けてきた絵師の流派を指します。 創始者は室町時代に活躍した絵師の狩野正信(かのうまさのぶ)。狩野派は、幕府の名を受けて数多くの作品を描いています。狩野正信から始まり、狩野家の血縁者を中心に集まった狩野派は、家の格式や序列によってどの城や寺院の障壁画を手掛けるかが決められていました。戦国時代が明けて江戸時代に入り安定した社会が訪れると、狩野家は幕府から障壁画の制作を数多く依頼されるようになり、狩野正信は一門を率いて任にあたりました。 また、狩野派の絵師や作品は近代日本画へも大きな影響を与えています。 各所で壁画や屏風絵を大量に制作するために構築された、工房制作の体制と学習方法は日本絵画史において画期的な変革であったといえるでしょう。工房制作となっても現存する作品からも見て取れるよう、狩野派の技術はとても高かったとうかがえます。 狩野派の歴史や主要な絵師たちを知り、それぞれの作品に込められた思いを想像して楽しみましょう。 狩野派の歴史 狩野派は、室町時代に狩野正信の手によって誕生しました。 室町幕府から始まり織田信長、豊臣秀頼、江戸幕府と御用絵師として約400年もの間、数多くの歴史的な作品を作り続けました。これほど長く幕府の下で絵の制作を行った流派はほかにありません。 伝統的なスタイルを守り続けるもの、革新的な画風を確立するものなど、さまざまな絵師を輩出しながら長く制作を行い続けました。 江戸幕府が始まったころには、京都から江戸へ移転し、京都に残った京狩野と江戸に移り住んだ江戸狩野に分かれることもありました。京狩野は独自の画風を確立し幕末まで独自のスタイルを継承しています。江戸狩野は幕府の命を受けたり、分家や門人筋の仕事を請け負ったりと幅広く活躍していました。全国各地に広がる巨大企業のような様相で、幕末の狩野芳崖(かのうほうがい)や橋本雅邦(はしもとがほう)などが明治維新後に横山大観(よこやまたいかん)らを育成することになります。 狩野派の有名絵師や作品 狩野正信 作家名:狩野正信(かのうまさのぶ) 代表作:『周茂叔愛蓮図』『崖下布袋図』 生没年:1434年-1503年 狩野正信は狩野派の始祖とされる室町時代に活躍した絵師です。第8代将軍の足利義政の下で幕府御用達絵師として絵を描いていました。中国から伝わった水墨画を学び、足利義政や禅寺の要望に合わせて好みの絵師の画風を真似して絵を描きあげていました。 これまで将軍家に仕えた絵師たちは禅の修行を積んだ画僧とよばれる人たちでしたが、狩野正信は僧の修行を積まずに幕府御用達絵師に抜擢された革新的な人物です。 狩野元信 作家名:狩野元信(かのうもとのぶ) 代表作:『四季花鳥図屏風』『瀟湘八景図』 生没年:1476年-1559年 狩野元信は室町後期に活躍した絵師です。狩野派の始祖である狩野正信の長男と次男のどちらかであるといわれています。誕生した狩野派の基礎を確立させ発展に貢献した人物として有名です。1513年頃に大徳寺大仙院客殿襖絵を制作。水墨でありながらも随所に濃彩を施した障壁画で、桃山期障壁画の先駆となる作品といえます。 狩野元信は、幕府だけではなく宮廷や公武、町衆など幅広い層からの需要に応えるため多くの門人とともに障屏画や絵馬、扇画面などさまざまな作品を制作しました。 狩野永徳 作家名:狩野永徳(かのうえいとく) 代表作:『唐獅子図』『檜図屏 風』 生没年:1543年-1590年 狩野永徳は狩野正信のひ孫にあたる人物で、狩野派の御曹司として幼いころから絵師としての才能を幕府に期待されていました。9歳になる頃には室町幕府将軍に拝謁しています。また、公家との関わりも深く、五摂家の障壁画も描いています。当時の戦国武将は狩野永徳を高く評価しており、織田信長が天下統一を目指して建てた安土城や豊臣秀吉の邸宅である聚楽第の障壁画を手掛けるなど、権力者たちから人気を集めていました。 狩野永徳が唐獅子や大樹を題材に描いた『唐獅子図屏風』は、織田信長が本能寺で襲撃されたとき、豊臣秀吉が備中高松城で攻めていた毛利氏に対して和睦の証として贈呈したものといわれています。しかし、近年の調査によると元から屛風図だったものではなく、豊臣秀吉の城の障壁画を屏風のように仕立てた作品であることが分かってきました。 狩野探幽 作家名:狩野探幽(かのうたんゆう) 代表作:『雪中梅竹遊禽図襖』『富士山図』 生没年:1602年-1674年 狩野探幽は、狩野永徳の次男「狩野孝信」の長男として、江戸時代に活躍した絵師です。狩野探幽は、狩野永徳が築き上げてきた安土桃山時代を象徴するような豪華絢爛で迫力のある画風とは打って変わり、軽淡瀟栖な画風を確立させました。余白を存分に生かした繊細で詩情あふれる数多くの作品は、狩野派一族の地位を不動のものにしました。 狩野探幽が作り上げた画風はその後の規範となり、狩野派だけではなく光琳や応挙をはじめとする江戸時代の絵画界に大きな影響を与えたとされています。狩野探幽は1662年に60歳で画家としての最高位である法院を授かり、その後も晩年まで精力的に作品を描き続けました。 狩野芳崖 作家名:狩野芳崖(かのうほうがい) 代表作:『不動明王』『悲母観音』 生没年:1828年-1888年 狩野芳崖は明治時代に活躍した絵師で、家は長府藩の御用絵師を担っていました。江戸木挽町の狩野勝川院雅信に教えを受け、雪舟を中心に諸派絵画の研究を行います。 明治10年代半ばに米国人哲学者のアーネスト・フェノロサと出会い、西洋絵画の空間表現や色彩などを学び、日本画の革新に努めました。その後、東京美術学校の創立に尽力し、教授に任命されるものの開校を前に亡くなっています。 狩野派の画風、特徴 狩野派が描く作品は、現代美術のようにひとり一人の個性が生きた作品ではなく、これまでの伝統的な粉本や筆の使い方を忠実に再現し、描かれていました。現代の個性あふれる芸術に触れていると、芸術性や創造性が欠けていると指摘されることもありますが、忠実に再現する学びの方法は当時ほかの流派でもみられる一般的な学習方法でした。 狩野派の始祖である狩野正信が描く作品は、中国の水墨画とやまと絵のやわらかい表現を併せ持つ日本人の感性に響く画風です。この画風を幕府が気に入り御用絵師としての歴史がスタートしたといえるでしょう。 2代目である狩野元信が描く作品は、狩野正信同様に中国と日本の水墨画を融合させたものです。狩野元信は、狩野派として多くの作品を手掛けていくために、工房制作の体制づくりを本格的に進めます。武家や公家、有力寺院などからも依頼を受けるようになり、狩野派としての地位を確立させました。 江戸の狩野派を代表する狩野探幽は、これまでの画風を覆し、瀟洒で枯淡な作品を多く描いていきました。江戸の平和な世界を制作に反映させていたといわれています。 狩野派の基本に忠実な画風とは一線を画す制作をしていたのが狩野山雪。京都に残った狩野派は京狩野とよばれ、その一人である狩野山雪は狩野派としては異端的表現で制作を行い、奇想画家の一人にも数えられています。 また、明治時代に活躍した狩野芳崖もこれまでの伝統を打ち破り、新しい日本画の制作に打ち込みました。伝統的な狩野派の画風に西洋画の技法を応用し、近代日本画の確立に貢献したとされています。古くから日本画に用いられてきた技法である輪郭線を描かず、対象物と背景を自然に融合させる画風を確立しました。 狩野派の作品は掛軸としても残されている 幕府の御用絵師として、障壁画や屛風絵を多く描いてきた狩野派絵師たちですが、掛軸作品も多く残されています。 工房制作スタイルで大量生産を行ってきたため作品数は多い傾向ですが、その分、贋作も多く出回っています。このため、掛軸が本物であるかどうかを自身で見極めるのは難しいでしょう。 倉庫や蔵から発見した狩野派と思われる掛軸の真贋を見極めるには、プロの査定士への査定依頼がお勧めです。 狩野派の掛軸作品は高値で買取が可能なものも多くあります。汚れや傷みがひどい場合でもそのままお持ちください。修復を行ってしまうと、かえって掛軸を傷つけてしまったり、修理費用の方が高くついてしまう可能性があります。もし、狩野派掛軸と思われる作品をお持ちであれば、まずは査定を依頼してみましょう。
2024.09.14
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土佐派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
日本独特の様式美を持つやまと絵を継承し、伝統的な日本画を描いた土佐派。 宮廷絵師として活躍し、狩野派と同じく大きな流派として今でも知られています。 このため、土佐派の作品には掛軸も多く残されています。土佐派についてより理解を深め、土佐派作品の魅力をより感じましょう。 美しい大和絵を描いた、土佐派とは 土佐派は狩野派とともに絵師の流派における日本の二大流派として挙げられます。 土佐光信(とさみつのぶ)や土佐光茂(とさみつもち)などを代表とする室町時代に活躍した土佐派は、やまと絵を継承した画風で宮廷の絵画制作を管理する責任者である宮廷絵所預までのぼりつめています。しかし一方で、伝統形式の維持に重きをおき転落の一途を辿った、鎌倉時代以前のやまと絵には及ばないなどと、低い評価を受けることもありました。 これは一説に、狩野永納(かのうえいのう)が書いた『本朝画史』が関係していると考えられています。 『本朝画史』にて、土佐派は古代から続く伝統を継承し集大成としているだけの前時代の流派として語られています。こちらの記述の印象を受け、低い評価がなされていることも考えられるでしょう。しかし、作品の中で狩野派は土佐の倭と雪舟(せっしゅう)の漢を兼ねた画風と表している点から、土佐の伝統的な倭の画風は狩野派にとっても、魅力的なものであったとも捉えられます。 さまざまな評価が飛び交う中、土佐派はどのようにその地位を築き上げ活躍していったのでしょうか。土佐派の歴史を読み解いていくとともに、代表的な絵師や作品、土佐派の画風を知り、土佐派の魅力に迫りましょう。 土佐派の歴史 土佐派とは、室町時代の初期から伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承していた流派です。 その始まりは15世紀初めに土佐行広(とさゆきひろ)が土佐の家名を称したこととされています。行広の本来の姓は藤原でしたが、絵所預に任命された際に土佐の姓を名乗り始めました。しかし、一説には14世紀半ばの藤原行光までさかのぼるともいわれています。 土佐行広の手により始まった土佐派はその後、多くの画人を輩出した土佐派は、1469年に土佐光信が宮廷絵所預と呼ばれる宮廷の屏風や障子などの絵画制作を任された公的機関である絵所を取りまとめる最高責任者に任命されました。そして、画壇での主導的立場を確立しています。 家系としては土佐光茂、土佐光元(とさみつもと)と続いていきますが狩野派の活躍や、1569年の土佐光元の戦死により土佐派は劣勢となり、宮廷絵所預の地位は失われてしまいました。その後は、弟子の土佐光吉(とさみつよし)が大阪府南西部の和泉国堺で絵師としての家系の維持に努めました。 江戸時代に入ると、土佐光則(とさみつのり)がお家再興のために子の土佐光起(とさみつおき)とともに京都に戻っています。土佐光則が亡くなった後、土佐光起は絵所預の地位を再び授かり、土佐派の再興を実現しました。土佐光起は、狩野派をはじめとする漢画系流派の水墨表現や中国絵画の写実表現をも取り込み、やまと絵を一気に発展させたのです。その後、土佐派は幕末まで活躍しました。 土佐派の有名絵師や作品 土佐行広 作家名:土佐行広(とさゆきひろ) 代表作:『仏涅槃図』『融通念仏縁起絵巻』 生没年:不詳 土佐行広は、土佐派の祖と呼ばれる人物です。一説には、藤原行光のやまと絵を継承し、土佐の姓を名乗って土佐派の基盤を作ったとされています。朝廷と足利将軍家どちらの絵画制作も任され活躍しました。やわらかな筆使いと穏やかで落ち着きのある色彩が特徴の作品が残されています。 土佐光信 作家名:土佐光信(とさみつのぶ) 代表作:『北野天神縁起絵巻』『清水寺縁起絵巻』 生没年:1434年-1525年頃 土佐光信の生没年は定かではありません。一説によると1525年に92歳で亡くなったとされています。肖像画の名手とうたわれた土佐光信は、室町時代後期の宮廷絵所預と足利幕府の御用絵師として、土佐派の権威を確立しました。主に絵巻や扇面画、肖像画、仏画などの作品を幅広く描いています。土佐派において、古くからの伝統的なやまと絵に漢画に用いられる線描法を取り入れた人物ともされています。晩年の土佐光信は枯淡な画風が特徴的です。 土佐光則 作家名:土佐光則 (とさみつのり) 代表作:『源氏物語画帖』『鷹図屏風』 生没年:1583年-1638年 土佐光則は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。父である土佐光吉とともに堺に移り住み制作を続ける一方で、正月に仙洞御所へときどき扇絵を献上していましたが、官位を得るまでにはいたりませんでした。1629年から1634年にかけては、狩野山楽、山雪、探幽、安信などの狩野派を代表する絵師とともに『当麻寺縁起絵巻』の制作に参加しています。 また、土佐光則は、平安時代の細画と呼ばれるミニアチュアール絵画技法を継承し、繊細な絵画制作を行っていました。一ミリの幅に三本の線を描き、その線の間に彩色の顔料をのせてもはみ出して左右の線に重なることはなかったといわれるほど高度な技法を身に付けていたとされています。細かく繊細すぎて人間の目では識別できないといわれる土佐光則の表現を、美術史学者・小林忠は「ミクロンの絵画世界」と評しました。 土佐派の描くミニアチュール画法は、土佐光則によってピークを迎えたといえるでしょう。 土佐光起 作家名:土佐光起(とさみつおき) 代表作:『源氏物語絵巻』『春秋花鳥図屏風』 生没年:1617年-1691年 土佐光起は、江戸時代初期に活躍した絵師です。父は土佐光則、子は土佐光成。衰退していた土佐派を復興させ、宮廷の絵所預に再度任命されるなどの活躍を見せました。繊細で筆使いと巧緻な彩色で伝統的なやまと絵として花鳥を描いていましたが、江戸時代初期の流行りに方向性を変え、狩野派が描く宋元画や技法を取り入れています。やまと絵の伝統的な画風と克明ではっきりとした写生描法を融合させ、江戸時代の土佐派の画風を確立しました。 土佐光起が描いた『源氏物語絵巻』は紫式部が書いた長編物語である源氏物語を絵画として表現しています。作品の中では雪が降っていて、建物の外に出て遊ぶ女性と邸内には光源氏と紫の上が描かれています。 土佐光貞 作家名:土佐光貞(とさみつさだ) 代表作:『雪月花図』『井出玉川図』 生没年:1738年-1806年 土佐光貞は、江戸時代中期から後期にかけて土佐派の別家として活躍した絵師です。土佐派別家の創設者とされています。別家を創設した土佐光貞は、従六位上から従四位上に昇叙を果たし、内匠大属、左近衛将監、土佐守などを歴任しました。土佐派の中でも絵師としての才能が優れており、別家の評価の高さから土佐派の歴史における後半は、本家より別家の方が繁栄することになります。 土佐派の画風、特徴 土佐派の画風は、古くからの伝統的なやまと絵を継承したものです。 やまと絵とは、四季折々の自然やそこに生きる人や生き物を繊細かつ優美に描いた日本の伝統的な絵画様式を指します。大和絵とも書き、さらに古くは倭絵と記されていました。中国の伝統的な「唐絵」に対をなすものとして、「やまと絵」という言葉が用いられています。唐絵は、漢詩文の教養に基づいて描かれていたのに対し、やまと絵は和歌や日本古来の物語と密接に関わりを持っています。 やまと絵は、平安時代の貴族文化の中で障子や屏風に描かれたり、物語の挿絵や絵巻の形で描かれたりして発展していきました。 公家社会を中心に制作をしていた土佐派が題材としていたものは、絵巻物や風俗画、似絵などです。繊細で丁寧な筆使いを特徴とする土佐派は、武家社会で好まれていた大型で迫力のある動物はあまり描かず、小さな鳥といった小動物を取り入れ、風景と調和させたような構図を描く特徴があります。 そのような古くからの伝統があるやまと絵を継承する土佐派の描いた作品から、その画風や特徴を見ていきましょう。 『清水寺縁起絵巻』 『清水寺縁起絵巻』は1517年に土佐光信によって描かれました。清水寺の建立について描かれており、詞書は三条実香他が書いた作品です。土佐光信の晩年の作品で、円熟した画風が特徴で、古くからの伝統的絵画やまと絵の絵巻の最後を飾る作品といえるでしょう。 『春秋花鳥図屏風』 『春秋花鳥図屏風』は17世紀後半、土佐光起によって描かれた作品です。向かって右側には満開の桜に柳が芽吹く春の景色を描き、左側に松と紅葉した楓の大樹を重ねて秋の景色を描いています。金色の屏風に鮮やかな色彩で描かれたこの作品は、狩野派にも共通する大画面形式を構成に取り入れながらも、やまと絵らしい繊細で美しい造形感覚を反映させた土佐光起の代表作です。 『斎宮女御像』 もう1点、土佐光起によって描かれた『斎宮女御像』を紹介します。平安時代中期の皇族であり、三十六歌仙の一人である斎宮女御を描いた作品です。几帳と呼ばれる屏障具とともに気品と憂愁を感じさせる姿を描いています。やまと絵の本領を発揮した歌仙像とされています。 土佐派の作品は掛軸としても残されている 土佐派は狩野派とともに、宮廷絵所預や幕府の御用絵師として多くの作品を輩出してきた日本の二大流派のひとつです。 宮廷絵所預として活躍していたと思ったら任を解かれ、その後もう一度宮廷絵所預に任命されるなど大きく制作環境が変化している土佐派。宮廷の絵師として長い間制作に取り組み、数多くの作品を残しています。土佐派の作品が多い分、贋作はどうしても出回ってしまうでしょう。 自宅で見つけた土佐派の掛軸が偽物か本物か確認しておきたい場合は、掛軸の知識や査定経験の多い査定士に依頼することをお勧めします。 真作かどうかの見極めは自分で簡単に行えるものではありません。自己判断せずプロの目を頼りましょう。絵師や作品によっては高い価値が付くものもあります。汚れやしわなどは無理に修復せず、まずはそのまま査定してもらいましょう。
2024.09.14
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琳派の掛軸買取なら、実績ある査定士へ相談を
琳派は桃山時代から続く有名な日本画の流派です。 江戸時代中期に活躍した尾形光琳(おががたこうりん)の名をとって琳派と呼ばれていますが、当時からこの流派の名前で呼ばれていたわけではありません。尾形光琳が生きた時代では彼らに対して特別な名称はなく、それぞれが尊重しあい私淑し、絵を描いていました。 近代に入ってから、尾形光琳に通じる画風や特徴を持つ絵画を描いていた絵師たちをまとめて琳派と呼ぶようになったようです。 装飾性やデザイン性の高さが特徴の琳派の作品。ヨーロッパの印象派や現代の日本画にも大きな影響を与えたとされています。そんな琳派の歴史や作品を通してより日本画や掛軸などへの興味を深めていきましょう。 高いデザイン性で人気を博した、琳派とは 桃山時代後期から近代まで約400年間継承されてきた琳派。 私淑と呼ばれる独自の継承スタイルにより長い間受け継がれてきました。私淑は、同じ流派の家のもとに生まれたり、その流派で絵を制作している人物に弟子入りしたりして、流派の画風や技法を学ぶことを求められません。誰かの師事を必要とせず、個人的に尊敬する人を模範として学ぶことで、琳派を名乗ることが可能でした。 とはいえ、琳派という呼び名は近代になってから過去を振り返り名づけられたものです。 そのため、当時はただ尾形光琳らの画風に憧れ、参考にして作品の制作にあたっていた画家が多くいたというだけのことでしょう。私淑により琳派では流派の特徴を継承しつつも絵師ひとり一人の個性が大きく反映された作品が数多く生み出されています。そして、近代までに多くの偉大な作家を輩出しています。 琳派の歴史 琳派は桃山時代に始まったとされる流派で、豊臣秀吉が天下を取り徳川家康に敗れるまでの戦乱の世にて始まったといわれています。 当時、戦乱の世ではあったもののヨーロッパや琉球、朝鮮、明などの文化との接触が多くあり、戦国の簡素な機能美が好まれる一方で、芸術や工芸には豪華絢爛で鮮やかなテイストも求められました。混沌とした時代の中で、当時画家としての芸術的センスの高さで有名だった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)に才能を認められた俵屋宗達(たわらやそうたつ)は、二人で共同制作を行い、数多くの大作を手掛けていました。 その後、二人の作品に感銘を受けて俵屋宗達を師と呼び模写したのが尾形光琳です。 尾形光琳が生きた時代は俵屋宗達らのおよそ100年後の世界。つまり、同じ時代に生き師事を受けたわけではありません。ここに尊敬する絵師の作品を模範として学ぶ、私淑の流れが生まれたと考えられるでしょう。尾形光琳が生きた時代からさらにときがたち、酒井抱一(さかいほういつ)が尾形光琳らの作品を支持し、琳派としての画風が受け継がれていきました。 琳派の名前の由来にもなっている尾形光琳は、京都の裕福な呉服屋で生まれています。 のちに実家の経営が傾き、経済的に困難な状態を迎えてしまいます。苦境を脱するために芸術活動を始め、俵屋宗達に私淑しました。俵屋宗達の作品や画風を基礎としながらも尾形光琳としてのアレンジも加えていき、独自の画風を確立していきました。その後、尾形光琳とその作品が公家や大名などの目に留まり、第一線で活躍する絵師にまでのぼりつめたのです。尾形光琳が亡くなったあとも、その画風や作品は多くの人の興味を引き、私淑する絵師も多くいました。その一人が酒井抱一です。 酒井抱一は江戸時代後期に江戸にて活躍した絵師で、尾形光琳の作品に尊敬を抱き私淑し、京都で始まった琳派を江戸でも広めた人物です。酒井抱一には鈴木其一(すずききいつ)という弟子がいました。琳派としては珍しく直接手ほどきを行っていました。このように琳派は私淑により自由な広がりを見せ、長くそして大きく日本画へ影響を与えています。 琳派の有名絵師や作品 俵屋宗達 作家名:俵屋宗達(たわらやそうたつ) 代表作:『風神雷神図屏風』『狗子図』 生没年:不詳 俵屋宗達は本阿弥光悦とともに琳派のきっかけになった人物とされています。 江戸時代初期に京都で活躍した絵師ですが、経歴や生没年などの伝記資料がまったく残っていません。 当時、俵屋宗達は絵屋を営んでおり扇絵や屏風絵、色紙、水墨画などの制作を行い人気を集めていました。俵屋宗達の名が広く知れ渡ったのは本阿弥光悦との出会いがきっかけとされています。俵屋宗達は当時多彩な才能を持つ芸術家であった本阿弥光悦に腕を見込まれ、広島の厳島神社の平家納経の修繕作業を手伝いました。 その後、本阿弥光悦に才能を認められ、ともに数多くの共同作品を制作するようになっていきます。 共同作品はダイナミックかつ巧みな筆使いでありながらも余白を活かす斬新な構図で制作され、日本画の新たな境地を開拓していきました。多くの共同作品は話題を集め、ついには皇室や江戸幕府の将軍家からも声がかかるほどでした。1630年に俵屋宗達は僧侶に与えられる法橋と呼ばれる高い位を授かります。町人として異例の大出世を成し遂げた俵屋宗達はその後も町絵師として制作を続け生涯を終えたといわれています。 本阿弥光悦 作家名:本阿弥光悦(ほんあみこうえつ) 代表作:『扇面月兎画賛』『舟橋蒔絵硯箱』 生没年:1558年-1637年 本阿弥光悦は1558年に京都で生まれ、家は日本刀の査定や研磨を家業とする裕福な町衆でした。刀剣の製造では木工や金工、漆工、革細工、染色、貝細工など、さまざまな工芸技術が必要となるため、本阿弥光悦は幼いころから芸術に対する審美眼や技術を培っていったと考えられます。 また、工芸だけではなく書や和歌などにも興味を抱き、多くの教養を身に付けていきました。父親が分家するのをきっかけに刀剣家業から離れ、芸術作品の制作に取り組むようになりました。本阿弥光悦が総合芸術家としての才能を開花させたのは40代に入ってからとされています。当時、画家として名が広がらないことに悩んでいた俵屋宗達に平家納経の修繕を手伝わせ、見事才能を開花させました。 本阿弥光悦は57歳のとき、徳川家康より京都の最北部に位置する鷹ヶ峯に約9万坪の広大な土地をもらいました。この地に多彩な芸術家たちが制作に専念できるよう光悦村と呼ばれる芸術村を築きます。村内には56もの家屋敷が軒を連ね、画家だけにとどまらず蒔絵師、筆屋、紙屋、織物屋、金工、陶工など多くの芸術家たちが昼夜創作活動に明け暮れました。 尾形光琳 作家名:尾形光琳(おがたこうりん) 代表作:『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』 生没年:1663年−1743年 尾形光琳は江戸時代中期に活躍した絵師です。 1658年、京都有数の呉服商である雁金屋の次男として誕生し、書や絵画、茶道、能楽などをたしなむ趣味人であった父の影響を受け、小さいころから幅広い文化芸能に触れていきます。 その後、雁金屋の経営が傾き、30歳のころに父が亡くなります。莫大な遺産はあったものの尾形光琳はまともに働きもせず遊びまわっていたため、あっという間に底が尽きてしまいました。そのため、40歳を目前にして画家として生計を立てていく覚悟を決めました。尾形光琳は絵画制作において、小さいころから文化芸能に触れてきたこともあり、優れた構図感覚や色彩感覚を発揮します。 尾形光琳は装飾的な作品を得意としており、特に富裕層に好まれました。 44歳のときに法橋の称号を得てからも精力的に絵画制作に取り組み、47歳のころ江戸に拠点を移しています。大名や豪商に向けた屏風絵制作を行っていたこの時期には、水墨画の巨匠とされる雪舟や雪村の模写も取り入れ画風研究を進めました。5年後には京都へ戻り晩年期を過ごしたとされています。 また、尾形光琳以降も彼らを私淑する画家は多く、酒井抱一や鈴木其一などの絵師も生み出しました。鈴木其一は琳派には珍しく酒井抱一に直接師事を受け技法を学んでいます。 琳派の画風、特徴 琳派の作品は、たらしこみや金箔・銀箔を使ったきらびやかな背景、大胆な構図設定が特徴的です。 琳派の作品として有名なのが俵屋宗達の『風神雷神図屏風』。 雨風を起こす風神と稲妻を起こす雷神が対になって屏風に描かれた作品です。金箔できらびやかな背景に二曲一双の屏風の左端と右端にそれぞれ風神と雷神が描かれています。画題を両端に描く構図は俵屋宗達が工房仕事で手掛けていた扇子のデザインから構想を得たものともいわれています。 国宝である『燕子花図屏風』は尾形光琳が描いた作品で、金色の背景に気高く咲き誇るカキツバタの群生を描いた鮮やかなこの作品は、六曲一双の対の屏風として日本の美術界を代表する存在です。凛と咲いているカキツバタの美しさはもちろん、計算された余白のバランスがより一層作品の魅力を引き立て見る者を魅了しています。 琳派の作品は掛軸としても残されている 琳派は私淑により広がっていった日本画の流派です。 作品から自身で学ぶことはあっても基本的には直接師事を受ける必要がないことから、琳派の伝統を継承しつつも絵師それぞれ個性を生かした作品が多く制作されている特徴があります。そのため、琳派の作品は現代でも多く残されています。 人気の絵師や作品も多いことから贋作が出回っていることに注意が必要です。 祖父母が大切に飾っていた掛軸を譲り受け、調べてみたところ琳派だった、倉庫から琳派の掛軸が見つかったなどさまざまな理由で、手元に琳派と思われる掛軸をお持ちの方もいるでしょう。自身で真贋を見極めるのは難しいため、本物の作品であるか知りたい方や掛軸の価値を知りたい方は、掛軸の査定経験のある査定士への依頼をお勧めします。 査定してもらうまでは掛軸の本当の価値がわかりません。修理や修繕を行わずまずは気軽に相談してみましょう。
2024.09.14
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日本の掛軸の歴史:中国から伝来し独自の文化を作り上げるまで
日本の掛軸文化は、中国から伝わり独自の変化を遂げてきました。 日本の掛軸では、にじみやぼかし、たらしこみなど繊細な表現を可能とする手法がよく用いられています。その特徴や歴史を紐解いていきましょう。 日本独自の文化となった、掛軸の歴史 日本の掛軸文化は古来中国より伝わったとされています。 中国古来の掛軸文化と日本で独自の変化を遂げた掛軸文化の大きな違いは、水墨画の表現方法。 水墨画は、鎌倉時代に日本と中国で禅僧の往来が盛んになった時期に、禅宗とともに伝わり盛んとなりました。中国の水墨画は輪郭線をはっきりと描き、力強い画が多い傾向です。 一方で、日本の水墨画は「にじみ」や「ぼかし」を活かした描き方が主流となりました。また、薄い墨で描いた上に濃い墨をたらして描く「たらしこみ」は、日本独自の水墨画文化です。墨を重ねて濃淡を表現することで、他にはない深い味わいが表現できます。 もう一つ、日本独自に発展した掛軸文化が大和表具です。 表具とは、掛軸を飾れる状態にしたり保存しやすくしたりする役割があります。中国の表装である文人表具はシンプルな作りが特徴です。一方で、大和表具は「草」「行」「真」の3つの形式に分けられます。「草」は中廻しの柱が行よりも細い特徴があります。また、「行」は外廻しが中廻しの天地のみに付いているのが特徴の一つです。「真」は仏仕立てとも呼ばれ、仏教関係で利用されます。 平安時代に中国から伝来した掛軸の歴史 掛軸文化は、飛鳥時代から平安時代に中国から伝わったとされています。もともとは仏教を広めるための礼拝道具の一つでしたが、僧侶と貴族の間でも楽しまれるようになりました。巻物型にして桐箱などに入れることで、破損しにくく良い保存状態のまま持ち運びが可能になり、どこででも仏画の掛軸を拝めるようになったことも特徴の一つです。 日本に持ち帰ったのは、遣唐使として平安時代に中国(当時の唐)へ向かった空海といわれています。曼荼羅を持ち帰り、それをきっかけに仏画の制作や掛軸の技術が発展していきました。 歴史の流れとともに変化した日本の掛軸文化 鎌倉時代には中国から水墨画が伝えられました。水墨画の流行により掛軸のこれまでの役割である「掛けて拝する」という仏教画としての世界から、花鳥風月の水墨画など日本独自の進化を遂げた美しい美術作品が多く制作されました。 室町時代には、茶道が流行った影響により茶室の床の間に掛軸を飾るケースが増えていきます。日本独自の建築様式である床の間に利用されることで、日本独自の文化として掛軸が大きく進化していきます。茶道をきっかけに来客者や季節の行事によって適切な掛軸を付け替える習慣が根付いていきました。 明治時代になると、掛軸は一般家庭の床の間にも飾られるようになりました。僧侶や貴族の間で楽しまれていた芸術が日本人の生活様式に深く浸透したのが明治時代といえるでしょう。現代では、一般住宅の洋式化が進み和室の床の間が減少した影響もあり、掛軸を自宅に飾る人は減少傾向にあります。ただし、美術館や博物館などでさまざまな掛軸を楽しめることから、和の芸術作品として現代の人々にも愛され続けているとわかるでしょう。 日本掛軸の歴史における重要な作品や作家たち 日本独自の進化を遂げた掛軸文化により、美しい作品が日本の掛軸には多くあります。歴史における重要な作品や作家を知ることで、日本掛軸の価値に気づけることもあるでしょう。 雪舟 作家名:雪舟(せっしゅう) 代表作:『天橋立図』『秋冬山水画』『破墨山水図』 雪舟は、日本の山水画(水墨画)の時代を作った人物です。1420年、備中国赤浜(現:岡山県総社市)に生まれ、幼いころに地元の宝福寺に預けられたのち、周防国(山口県)に移る30代半ばまでの前半生については明確に分かっていません。1460年に遣使船で中国へ渡航し、現地の禅僧から水墨画を学びました。雪舟の作品は一つ一つのモチーフは荒さを備えた動的なものでありながら、作品全体を見てみるとどっしりと安定感があり、巧妙な構築性を備えています。 棟方志功 作家名:棟方志功 (むなかたしこう) 代表作:『勝鬘譜善知鳥版画曼荼羅』『二菩薩釈迦十大弟子』『女人観世音板画巻』 棟方志功は神仏画を多く残しており、今でも人気の画家です。1903年に青森県で生まれ、囲炉裏の煤で目を傷め極度の近眼に。1921年、雑誌「白樺」に掲載されていたゴッホのヒマワリを見て衝撃を受け、ゴッホになるべく油絵画家を志すことになります。しかし、近眼の影響により写生が難しく、奥行きのある構図が創れずに行き詰ってしまいます。その後、川上澄生の木版画に感銘を受け、木版画に転向しました。 北大路魯山人 作家名:北大路魯山人(きたおおじろさんじん) 代表作:『西行庵画賛』『蓮図』『吹寄図』 北大路魯山人は多才であり、絵画においては水墨画が非常に人気でした。 1883年、京都上賀茂神社の社家に生まれ、1904年に東京に移り住み日本美術展覧会に千字文の書を出品して1等を受賞しています。その後は、陶芸や漆芸、書、絵画などさまざまな分野で芸術的才能を開花させました。絵画については戦前の一時期に集中的に制作を行い、日本画や南画、水墨画、水彩画など多くの画風で作品を残しています。 掛軸には長い歴史があり、素晴らしい作品が多くある 掛軸の歴史は長く、中国から日本へ伝わったあと独自の発展を遂げています。日本・中国どちらも掛軸には高価買取の対象となっている作品もあります。高価買取を狙うのであれば、実績豊富な査定士に相談してみるのがお勧めです。また、複数の査定士に依頼して比較するのも適切な価値を知るための手段の一つです。長い間しまっていた掛軸は傷や破れが生じていることもあるでしょう。 状態がきれいじゃないと価値が付かないと考え、すぐに修復したい気持ちになりますが、まずはそのまま査定士に依頼しましょう。補修によってダメージが大きくなってしまえば価値に悪影響を与えるため注意が必要です。査定に出すときは掛軸の箱があるとなお良いでしょう。また掛軸に落款、署名などがあれば価値がより高まる可能性もあります。自宅で飾っている掛軸の価値を知りたい方はぜひ専門の査定士へ査定を依頼してみましょう。
2024.08.06
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