日本独特の様式美を持つやまと絵を継承し、伝統的な日本画を描いた土佐派。
宮廷絵師として活躍し、狩野派と同じく大きな流派として今でも知られています。
このため、土佐派の作品には掛軸も多く残されています。土佐派についてより理解を深め、土佐派作品の魅力をより感じましょう。
目次
美しい大和絵を描いた、土佐派とは
土佐派は狩野派とともに絵師の流派における日本の二大流派として挙げられます。
土佐光信(とさみつのぶ)や土佐光茂(とさみつもち)などを代表とする室町時代に活躍した土佐派は、やまと絵を継承した画風で宮廷の絵画制作を管理する責任者である宮廷絵所預までのぼりつめています。しかし一方で、伝統形式の維持に重きをおき転落の一途を辿った、鎌倉時代以前のやまと絵には及ばないなどと、低い評価を受けることもありました。
これは一説に、狩野永納(かのうえいのう)が書いた『本朝画史』が関係していると考えられています。
『本朝画史』にて、土佐派は古代から続く伝統を継承し集大成としているだけの前時代の流派として語られています。こちらの記述の印象を受け、低い評価がなされていることも考えられるでしょう。しかし、作品の中で狩野派は土佐の倭と雪舟(せっしゅう)の漢を兼ねた画風と表している点から、土佐の伝統的な倭の画風は狩野派にとっても、魅力的なものであったとも捉えられます。
さまざまな評価が飛び交う中、土佐派はどのようにその地位を築き上げ活躍していったのでしょうか。土佐派の歴史を読み解いていくとともに、代表的な絵師や作品、土佐派の画風を知り、土佐派の魅力に迫りましょう。
土佐派の歴史
土佐派とは、室町時代の初期から伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承していた流派です。
その始まりは15世紀初めに土佐行広(とさゆきひろ)が土佐の家名を称したこととされています。行広の本来の姓は藤原でしたが、絵所預に任命された際に土佐の姓を名乗り始めました。しかし、一説には14世紀半ばの藤原行光までさかのぼるともいわれています。
土佐行広の手により始まった土佐派はその後、多くの画人を輩出した土佐派は、1469年に土佐光信が宮廷絵所預と呼ばれる宮廷の屏風や障子などの絵画制作を任された公的機関である絵所を取りまとめる最高責任者に任命されました。そして、画壇での主導的立場を確立しています。
家系としては土佐光茂、土佐光元(とさみつもと)と続いていきますが狩野派の活躍や、1569年の土佐光元の戦死により土佐派は劣勢となり、宮廷絵所預の地位は失われてしまいました。その後は、弟子の土佐光吉(とさみつよし)が大阪府南西部の和泉国堺で絵師としての家系の維持に努めました。
江戸時代に入ると、土佐光則(とさみつのり)がお家再興のために子の土佐光起(とさみつおき)とともに京都に戻っています。土佐光則が亡くなった後、土佐光起は絵所預の地位を再び授かり、土佐派の再興を実現しました。土佐光起は、狩野派をはじめとする漢画系流派の水墨表現や中国絵画の写実表現をも取り込み、やまと絵を一気に発展させたのです。その後、土佐派は幕末まで活躍しました。
土佐派の有名絵師や作品
土佐行広
作家名:土佐行広(とさゆきひろ)
代表作:『仏涅槃図』『融通念仏縁起絵巻』
生没年:不詳
土佐行広は、土佐派の祖と呼ばれる人物です。一説には、藤原行光のやまと絵を継承し、土佐の姓を名乗って土佐派の基盤を作ったとされています。朝廷と足利将軍家どちらの絵画制作も任され活躍しました。やわらかな筆使いと穏やかで落ち着きのある色彩が特徴の作品が残されています。
土佐光信
作家名:土佐光信(とさみつのぶ)
代表作:『北野天神縁起絵巻』『清水寺縁起絵巻』
生没年:1434年-1525年頃
土佐光信の生没年は定かではありません。一説によると1525年に92歳で亡くなったとされています。肖像画の名手とうたわれた土佐光信は、室町時代後期の宮廷絵所預と足利幕府の御用絵師として、土佐派の権威を確立しました。主に絵巻や扇面画、肖像画、仏画などの作品を幅広く描いています。土佐派において、古くからの伝統的なやまと絵に漢画に用いられる線描法を取り入れた人物ともされています。晩年の土佐光信は枯淡な画風が特徴的です。
土佐光則
作家名:土佐光則 (とさみつのり)
代表作:『源氏物語画帖』『鷹図屏風』
生没年:1583年-1638年
土佐光則は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した絵師です。父である土佐光吉とともに堺に移り住み制作を続ける一方で、正月に仙洞御所へときどき扇絵を献上していましたが、官位を得るまでにはいたりませんでした。1629年から1634年にかけては、狩野山楽、山雪、探幽、安信などの狩野派を代表する絵師とともに『当麻寺縁起絵巻』の制作に参加しています。
また、土佐光則は、平安時代の細画と呼ばれるミニアチュアール絵画技法を継承し、繊細な絵画制作を行っていました。一ミリの幅に三本の線を描き、その線の間に彩色の顔料をのせてもはみ出して左右の線に重なることはなかったといわれるほど高度な技法を身に付けていたとされています。細かく繊細すぎて人間の目では識別できないといわれる土佐光則の表現を、美術史学者・小林忠は「ミクロンの絵画世界」と評しました。
土佐派の描くミニアチュール画法は、土佐光則によってピークを迎えたといえるでしょう。
土佐光起
作家名:土佐光起(とさみつおき)
代表作:『源氏物語絵巻』『春秋花鳥図屏風』
生没年:1617年-1691年
土佐光起は、江戸時代初期に活躍した絵師です。父は土佐光則、子は土佐光成。衰退していた土佐派を復興させ、宮廷の絵所預に再度任命されるなどの活躍を見せました。繊細で筆使いと巧緻な彩色で伝統的なやまと絵として花鳥を描いていましたが、江戸時代初期の流行りに方向性を変え、狩野派が描く宋元画や技法を取り入れています。やまと絵の伝統的な画風と克明ではっきりとした写生描法を融合させ、江戸時代の土佐派の画風を確立しました。
土佐光起が描いた『源氏物語絵巻』は紫式部が書いた長編物語である源氏物語を絵画として表現しています。作品の中では雪が降っていて、建物の外に出て遊ぶ女性と邸内には光源氏と紫の上が描かれています。
土佐光貞
作家名:土佐光貞(とさみつさだ)
代表作:『雪月花図』『井出玉川図』
生没年:1738年-1806年
土佐光貞は、江戸時代中期から後期にかけて土佐派の別家として活躍した絵師です。土佐派別家の創設者とされています。別家を創設した土佐光貞は、従六位上から従四位上に昇叙を果たし、内匠大属、左近衛将監、土佐守などを歴任しました。土佐派の中でも絵師としての才能が優れており、別家の評価の高さから土佐派の歴史における後半は、本家より別家の方が繁栄することになります。
土佐派の画風、特徴
土佐派の画風は、古くからの伝統的なやまと絵を継承したものです。
やまと絵とは、四季折々の自然やそこに生きる人や生き物を繊細かつ優美に描いた日本の伝統的な絵画様式を指します。大和絵とも書き、さらに古くは倭絵と記されていました。中国の伝統的な「唐絵」に対をなすものとして、「やまと絵」という言葉が用いられています。唐絵は、漢詩文の教養に基づいて描かれていたのに対し、やまと絵は和歌や日本古来の物語と密接に関わりを持っています。
やまと絵は、平安時代の貴族文化の中で障子や屏風に描かれたり、物語の挿絵や絵巻の形で描かれたりして発展していきました。
公家社会を中心に制作をしていた土佐派が題材としていたものは、絵巻物や風俗画、似絵などです。繊細で丁寧な筆使いを特徴とする土佐派は、武家社会で好まれていた大型で迫力のある動物はあまり描かず、小さな鳥といった小動物を取り入れ、風景と調和させたような構図を描く特徴があります。
そのような古くからの伝統があるやまと絵を継承する土佐派の描いた作品から、その画風や特徴を見ていきましょう。
『清水寺縁起絵巻』
『清水寺縁起絵巻』は1517年に土佐光信によって描かれました。清水寺の建立について描かれており、詞書は三条実香他が書いた作品です。土佐光信の晩年の作品で、円熟した画風が特徴で、古くからの伝統的絵画やまと絵の絵巻の最後を飾る作品といえるでしょう。
『春秋花鳥図屏風』
『春秋花鳥図屏風』は17世紀後半、土佐光起によって描かれた作品です。向かって右側には満開の桜に柳が芽吹く春の景色を描き、左側に松と紅葉した楓の大樹を重ねて秋の景色を描いています。金色の屏風に鮮やかな色彩で描かれたこの作品は、狩野派にも共通する大画面形式を構成に取り入れながらも、やまと絵らしい繊細で美しい造形感覚を反映させた土佐光起の代表作です。
『斎宮女御像』
もう1点、土佐光起によって描かれた『斎宮女御像』を紹介します。平安時代中期の皇族であり、三十六歌仙の一人である斎宮女御を描いた作品です。几帳と呼ばれる屏障具とともに気品と憂愁を感じさせる姿を描いています。やまと絵の本領を発揮した歌仙像とされています。
土佐派の作品は掛軸としても残されている
土佐派は狩野派とともに、宮廷絵所預や幕府の御用絵師として多くの作品を輩出してきた日本の二大流派のひとつです。
宮廷絵所預として活躍していたと思ったら任を解かれ、その後もう一度宮廷絵所預に任命されるなど大きく制作環境が変化している土佐派。宮廷の絵師として長い間制作に取り組み、数多くの作品を残しています。土佐派の作品が多い分、贋作はどうしても出回ってしまうでしょう。
自宅で見つけた土佐派の掛軸が偽物か本物か確認しておきたい場合は、掛軸の知識や査定経験の多い査定士に依頼することをお勧めします。
真作かどうかの見極めは自分で簡単に行えるものではありません。自己判断せずプロの目を頼りましょう。絵師や作品によっては高い価値が付くものもあります。汚れやしわなどは無理に修復せず、まずはそのまま査定してもらいましょう。