特定の人物をモデルとして描かれた肖像画。肖像画掛軸の中には歴史的価値が高い作品も多く存在します。
日本の名だたる戦国武将も肖像画として多く残されており、作品から歴史的背景を知ることもできるでしょう。
肖像画掛軸の高価買取を狙うのであれば、肖像画の背景や歴史、作品のモデルについて知ることも大切です。肖像画掛軸への知見を深めてさらなる魅力を発見しましょう。
肖像画とは
肖像画とは絵画ジャンルの一つで、特定の個人をモデルにした作品を指します。
描かれ方は多種多様で、モデルを見たまま写実的に描かれる場合もあれば、理想化されたり戯画化されたりして描かれる場合もあります。
肖像画はさまざまな表現方法で特定のモデルを引き立たせることも魅力の一つです。
肖像画が描かれ始めたのは古代エジプトといわれています。
当時のエジプト・アル=ファイユーム地方には、葬儀の様子を描いた一般人の肖像画が残されています。
この肖像画はフレスコ画以外では古代ローマ時代から残っている唯一の絵画です。
古代から描かれていた肖像画ですが、4世紀末にキリスト教がローマ帝国の国教となった際、人間は神より劣るというキリストの教えにより特定の個人をモデルに描かれる肖像画の文化は一時的に廃れてしまいました。
その後、14世紀ごろに王侯や高位聖職者など高貴な身分の人々が画家に自分の肖像画を描くよう依頼し始めるようになります。
15世紀に入ると「古代の再生と人間性の復活」をスローガンにしたルネサンスの思想が広まり、さらに肖像画の制作が活発に行われました。芸術作品の一つとして独立した分野となった肖像画は多くの貴族たちをモデルに描かれていくようになります。ルネサンス時代が終わりバロック時代に移り変わっていくと、肖像画は一般庶民の間でも制作されるようになりました。また肖像画のジャンルも多様化し、宗教画の聖人にモデルの特徴を入れ込む肖像画や風俗画風の肖像画なども描かれています。
また、日本の肖像画としては『唐本御影』が有名です。
『唐本御影』は聖徳太子を描いており、日本で初めて描かれた肖像画といわれています。日本の旧一万円札に描かれていた聖徳太子、というとイメージがつく人も多いのではないでしょうか。
日本の絵画は中国からの影響を強く受けており、『唐本御影』も唐時代の肖像画の伝統を引き継いでいます。衣文に沿って薄く陰影があるのが特徴的で、この画風は中国で六朝時代(222年~589年)の肖像画に見られるのと同じ特徴です。
このほかにも歴史に名を残す戦国武将や、天皇、僧侶などの肖像画が国内でも数多く残っており、その面影を肖像画から伺い知ることができます。
肖像画掛軸の歴史
東洋や日本でも肖像画は古くから描かれてきました。
特に中国では早くから肖像画が絵画の主要ジャンルとして確立されています。
日本の絵画は中国絵画の影響を強く受けていますが、肖像画もその一つです。
平安時代までは礼拝用の絵画として制作され、その後は絵画や彫刻に神仏や人の姿を表す御影像が生まれました。西洋の肖像画は威厳を擬人化させた作品が多いのに対し、日本の肖像画は描かれた人の霊力がこの世に及ぶよう期待が込められていたり、親に対する親愛の情を表したりするために描かれていました。
肖像画掛軸は鎌倉時代から普及した
日本の肖像画掛軸は、鎌倉時代に中国との禅僧の往来が盛んになった時期に水墨画や掛軸とともに広く知れ渡りました。
禅宗は悟りの法を師匠から弟子へ教える流れを重視するため、師匠の法を受け継いだ証明のために弟子に贈る師匠の肖像画「頂相」や、禅宗の始祖である達磨大師をはじめとした祖師像の絵画などが日本へ伝わっています。
また、鎌倉時代に日本で広まった水墨画によって、これまでの掛けて拝する仏教仏画の掛軸世界から、山水画や花鳥画など芸術品としての魅力を備えた作品が多く制作されるようになりました。
肖像画に描かれた戦国武将たち
戦国時代の武将も肖像画に描かれています。
有名な武将では何枚も肖像画が残っている人もいるでしょう。肖像画にはいくつか種類があり、モデルとなる武将が生きているうちに描かれた肖像画を寿像といいます。
一般的には本人を目の前にして観察しながら描かれるため、多少の美化はあっても本人に近い絵が描かれるでしょう。
モデルとなる武将が亡くなった後に描かれる肖像画を遺像といいます。
多くの戦国武将の肖像画は遺像であるとされています。描かれる時期はモデルとなる武将によってさまざまで、死後間もない時期に描かれることもあれば、数百年経った後に描かれることも。遺像は一般的に一周忌や三回忌など供養のタイミングで制作されます。
徳川家康三方ヶ原戦役画像
作者:不明
制作年:江戸時代ごろ
徳川家康といえばふくよかな印象がありますが、『徳川家康三方ヶ原戦役画像』では30歳ごろのほっそりとした徳川家康の姿が描かれています。
『徳川家康三方ヶ原戦役画像 』は、1572年に三方ヶ原の合戦で武田信玄に敗れた家康が、この敗戦を肝に銘ずるために敗走時の姿を描かせたといわれています。
そのため、恰幅が良く堂々とした他の肖像画とは異なり、憔悴しきった徳川家康の表情が繊細に描かれているのです。『徳川家康三方ヶ原戦役画像』は別名『しかみ像』とも呼ばれています。徳川家康はこの肖像画を慢心の自戒として生涯座右を離さなかったともいわれています。
また、近年では『徳川家康三方ヶ原戦役画像』を描かせたのは徳川家康自身ではないとされる説も。紀伊徳川家から嫁いだ従姫の嫁入り道具に入っていたことから、尾張家初代の徳川義直が徳川家康の苦難を思い返し忘れないようにと描かせたともいわれています。
松本図書父子肖像掛軸
作者:不明
制作年:不明
『松本図書父子肖像掛軸』は、会津中世の武士である松本氏を描いた肖像画掛軸です。
松本氏は会津中世の武士であり、会津地方の戦国大名である葦名氏の優秀な家臣でした。なお、松本氏の詳細な起源は分かっていません。
鎌倉時代以後、会津に住んでいた武士とされています。松本氏の肖像画掛軸が伝えられている松沢寺は松沢氏が開いたとされ、松本氏の住まいも近くにありました。
『松本図書父子肖像掛軸』は、中世の記録が少ない会津における貴重な絵画資料で、1976年には町指定重要文化財に登録されています。
武田信玄肖像画賛幅
作者:住吉内記広尚
制作年:江戸時代後期
『武田信玄肖像画賛幅』は武田信玄の肖像画賛幅です。
画賛とは画の余白に詩文が書き入れられた人物画を指します。
この肖像画に書かれている「知信仁勇巌」という言葉は、孫子の兵法に書かれている「将とは智信仁勇巌なり」にちなんだ言葉とされています。つまり、大勢を率いる大将は知恵・信頼・情け・勇気・厳しさを持ち合わせている必要があるという言葉です。
甲斐の虎とも呼ばれた戦国武将である武田信玄は、信濃の諏訪氏、小笠原氏を倒し、上杉謙信とも何度も合戦を繰り広げています。
さらに三方ヶ原の戦いでは織田信長・徳川家康が率いる軍に勝利しています。
この強さの秘訣は、勇猛なだけではなく儒学、兵法、詩歌にも秀でていたためとされ、『武田信玄肖像画賛幅』に書かれている詩がその一端をうかがわせるでしょう。
歴史的に価値のある肖像画掛軸を高額買取してもらうなら
肖像画は特定のモデルを描いた絵画ジャンルの一つです。
古代エジプトで制作が始まり、14世紀ごろから王侯や高位聖職者など高貴な身分の人々が、自身の肖像画を描かせたことで盛んになっていきました。
日本では鎌倉時代の水墨画の広がりと同時期に肖像画も広く知れ渡っています。戦国時代の武将たちも肖像画として残っており、今でも歴史的価値が高い作品も多く存在します。
これまで大切にしてきた肖像画掛軸や祖父母から引き継いだ掛軸をお持ちの方で、作品の価値が気になっている方もいるでしょう。肖像画掛軸の買取査定を依頼するなら、長年の査定経験がある専門の査定士への依頼をお勧めします。
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