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なぜ浮世絵は世界に広まったのか?
浮世絵が世界中で流行したきっかけとは 19世紀後半、海外では日本美術が多くの画家に影響をおよぼすジャポニスムが流行しました。 ジャポニスムとは、西洋が東洋をどのように見て、描き、理解していたかを研究する学問であるオリエンタリズムの延長にある東洋美術への憧れを表現したもので、開国して以降、日本から海外へ伝わった江戸の浮世絵がジャポニスムの中心となっていました。 西洋画壇でも浮世絵愛好家が多く登場し、作品をコレクションする者から、自身の作品に浮世絵の技術や技法を取り入れる者までおり、浮世絵はさまざまな形で西洋美術に大きな影響を与えたのです。 また、絵画や版画の世界だけにとどまらず、西洋の芸術文化全体に新しい風を吹き込んだともいわれています。 1867年のパリ万国博覧会 ジャポニスムが流行するきっかけを作ったのは、1867年に開催されたパリ万国博覧会であるといわれています。 パリ万博は、フランスの首都で開催された万博で、最新の科学技術や産業技術、芸術作品、製品などを展示する国際的な博覧会です。 幕末だった当時の日本に、日本の農業製品や産業製品、芸術品を展覧会に出品してほしいと声がかかり、第15代将軍「徳川慶喜」がこれを受け、日本美術の出品が実現しました。 江戸幕府は、狩野派の掛軸や画帳、浮世絵を出品、薩摩藩は、薩摩や琉球の特産物、佐賀藩は、磁器などを出品しました。 パリ万博は42カ国が参加し、来場者1500万人と大成功を収めており、このとき多くの人々に日本美術が注目されることになります。 日本美術は、これまでの西洋にはない大胆な構図と鮮やかな色彩などの特徴をもっており、西洋の芸術家たちからすると斬新で新鮮なものに映ったのです。 西洋画では、宗教や神話をモチーフにした絵がメインでしたが、日本の浮世絵では一般大衆の日常生活や風景などを描いた風俗画がメインでした。 また、シンメトリーな構図や遠近法など、西洋画が重視していた技法を使用しない独自の構図も衝撃を与えました。 その後、パリ万博は1878年、1889年、1900年、1937年と開催され、すべての博覧会に参加した日本の美術は、海外に広く知れ渡り、ジャポニスムの流行は1910年代ごろまで続いています。 鎖国中もオランダへの輸出品の包装紙として使われていた ジャポニスムの流行を作ったのは、パリ万博への日本美術の出品が大きな理由の一つとされていますが、実はそれよりも前に、日本の浮世絵はヨーロッパに渡っていました。 江戸時代、日本はヨーロッパに茶碗をはじめとした陶器を輸出しており、陶器が割れないよう緩衝材として、浮世絵が使われていたのです。 何気なく丸められた紙を広げてみると、そこには日本の自然や人々の暮らしが鮮やかな色彩で生き生きと描かれていました。 中でも、浮世絵師の葛飾北斎が描いた『北斎漫画』は、西洋人に大きな衝撃を与えました。 パリで活動していた版画家のフェリックス・ブラックモンが、包装紙として使われていた『北斎漫画』を偶然目にし、デッサン力の高さに衝撃を受け、仲間の画家たちに広めたことで、印象派の画家に影響を与えたともいわれています。 ヨーロッパに浮世絵を広めた画商「林忠正」 林忠正 生没年:1853年-1906年 林忠正は、初めて西洋で日本美術品を商った日本人といわれています。 パリ万博での仕事をきっかけに、日本美術や工芸品を広めようと決意した忠正はパリで日本美術を取り扱う店を構え、西洋の日本美術愛好家たちからの興味や関心を引き、ジャポニスム隆盛のきっかけを作りました。 パリ万博をきっかけに日本美術への理解と興味を深める 忠正は、ちょうど3回目のパリ万博が開催されていた年に、貿易商社の起立工商会社通訳として雇われ、パリに渡ります。 当時、パリ万博の影響もあって日本美術は西洋から関心を寄せられつつありました。 忠正は、万博で日本の展示品を鑑賞した画家や評論家の前で、流暢なフランス語で作品の解説を行い、熱心な解説がさらに海外の人々が日本美術への理解と興味を深めることを手助けしたといえます。 また、忠正自身も日本美術への理解と興味を深めていきました。 パリに滞在し日本美術を扱う店を創設する パリ万博が終了した後も、忠正はパリにとどまり、日本の美術品を取り扱う店を創設しました。 起立工商会社の副社長だった若井兼三郎とともに、美術新聞のルイ・ゴンスが主筆となり刊行していた『日本美術』に携わりながら、本格的に日本美術を学んでいったのです。 忠正は、ヨーロッパに日本美術を広めるために、工芸品や絵画を日本から直接輸入しました。 当時、日本での浮世絵は卑しいものとして捉えられていましたが、忠正はその価値を誰よりも早く察知し、芸術性を認めるべきであると日本人に対しても訴えています。 1886年には、世紀末のパリを代表する『パリ・イリュストレ』というビジュアル誌の日本特集号にフランス語の記事を寄稿し、2万5000部の大ベストセラーとなりました。 日本に初めて印象派の作品を紹介した人物でもある 1900年に開催されたパリ万博では、民間人として初となる事務官長に就任し、日本の出展ブースのプロデューサーとして、日本美術作品の魅力を世界にアピールするべく尽力しました。 また、長年美術界に貢献したとして、フランス政府からは教育文化功労章1級やレジオン・ドヌール3等賞などが贈られています。 フランス印象派の画家たちとも親交を深めるようになり、印象派の作品を日本へ初めて紹介したのも忠正であるといわれています。 忠正は、印象派の巨匠とも呼ばれているマネと親しく交流した唯一の日本人ともいわれているのです。 1905年に帰国した際は、約500点ものコレクションを持ち帰り、西洋近代美術館を建設しようと計画を立てます。 しかし、その夢を果たすことなく翌年に東京にて亡くなってしまいました。 国立西洋美術館が建設されたのは、忠正が亡くなってから50年後のことでした。 ヨーロッパでジャポニスムが流行した理由は? ジャポニスムが流行したのは、日本美術が西洋美術にはない特徴をもった絵画であったからであると考えられます。 自由なテーマ 当時のヨーロッパでは、宗教画や肖像画が主流であり、風景画は少数派でした。 絵画は、厳粛なテーマが多く、表現にも一定の制約があり、新鮮さのある作品があまり生まれない時代となっていました。 しかし、浮世絵はヨーロッパの絵画の概念を覆す特徴をもっていたのです。 浮世絵は、一般大衆の日常生活を描いた娯楽に近い作品であったため、美人画から役者絵、武者絵、花鳥画、風景画、相撲絵、妖怪画、春画など、テーマは多岐にわたります。 テーマに縛られることなく自由な浮世絵は、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたのでした。 多彩なテーマで描かれた浮世絵は、西洋の芸術家たちに大きなインスピレーションを与え、19世紀の美術界において革命をもたらすきっかけとなりました。 ダイナミックな構図 浮世絵は、西洋絵画にはないダイナミックな構図も特徴の一つです。 西洋絵画では、陰影や遠近法を用いて写実的な表現に焦点を当てていましたが、浮世絵では現実にはあり得ないであろう大胆な構図や誇張表現によって、ダイナミズムやリズム感を強調しています。 たとえば、北斎の『神奈川沖浪裏』では、圧倒的な迫力をもつ波が、人々を乗せた舟の上に覆いかぶさろうとしているかのようにデフォルメされて描かれ、一方で、背後には小さく富士山が描かれています。 一枚の絵の中に、現実ではあり得ない誇張されたシーンが描かれており、違和感なく見る者の心を惹きつけるその変幻自在な構図は、西洋の人々に大きな衝撃を与えました。 明るく鮮やかな色彩 浮世絵の大きな特徴は、そのポップで鮮やかな色彩です。 西洋絵画では、濃厚で深みのある色合いが好んで使われており、鑑賞する者に迫力や重みを感じさせる作品が多く描かれていました。 一方、日本の浮世絵では、明るく軽やかな色彩が多く、ポップな雰囲気のある作品が多くあります。 西洋の人々は、今までにない色使いに新鮮さを覚え、ジャポニスムの流行を作るきっかけとなったともいえるでしょう。 浮世絵の鮮やかな色彩により生み出される明るいポップな雰囲気は、西洋の伝統的な色使いに新しい視点をもたらし、のちの芸術運動にも大きな影響を与えたと考えられます。 大胆な余白による抜け感 浮世絵は、画面をすべて覆いつくすのではなく、大胆な余白を作りバランスを取る特徴があります。 西洋絵画では、画面を埋めつくす描写が一般的であり、背景には空や雲、壁、影など自然の風景や街の景色が全面に描かれました。 一方、浮世絵では、何も描かない空間をあえて作り、鑑賞する者に広がりや静けさを感じさせます。 余白は、多くの日本美術に見られる空間を活かした美意識ともいえ、絶妙な空白の感覚が、西洋の人々の目には新鮮に映り、無駄なものを排除し洗練された作品として魅力的に見えたといえるでしょう。 一つのテーマに特化した連作 浮世絵では、連作による作品制作が多く行われていました。 たとえば、北斎の『富嶽三十六景』や『富嶽百景』、歌川広重の『東海道五十三次』や『名所江戸百景』などです。 連作は、一つのテーマを別々の視点から描いたり、季節や時間をずらして描いたりすることで、変化を楽しめるのが魅力の一つです。 当時の西洋絵画では、シリーズ作品や一つのテーマに対して繰り返し制作を行う方法は、一般的ではありませんでした。 そのため、西洋の芸術家たちは、連作の浮世絵がもつ独自の魅力に心惹かれ、大きな影響を与えたと考えられます。 印象派の画家であるモネは、浮世絵の連作からインスピレーションを得て『睡蓮』シリーズを描いたといわれています。 連作は、一つひとつの作品を独立した芸術として楽しむこともできれば、比較して季節や時間の移り変わりによって変化する表情を楽しむことも可能です。 浮世絵の連作は、西洋の芸術家たちの作品の捉え方や創作時のアプローチ方法に、新たな風を吹き込んだといえるでしょう。 安価で手に入りやすい 当時の日本で浮世絵は、大衆の娯楽品として手ごろな価格で流通していました。 浮世絵は芸術品ではなく、大衆の娯楽や情報を伝えるためのメディアとしての働きをもっており、さらに大量生産を可能とする仕組みができあがっていたため、多くの人々が浮世絵を手にする機会を得ていました。 多くの西洋絵画は、1点ものであり、制作にたくさんの時間と労力がかけられていたため、絵画といえば貴重で高価なものと考えていた人は多かったと考えられます。 そのため、浮世絵の量や種類の多さが収集家の心に火をつけ、貴重な作品を探しながらコレクションしていく熱狂性を生み出したといえるでしょう。 浮世絵に影響を受けた海外の芸術家 浮世絵は、西洋の鑑賞者だけではなく有名な芸術家たちにも大きな影響を与えています。 浮世絵からインスピレーションを受けた有名画家には、エドゥアール・マネ、クロード・モネ、フィンセント・ファン・ゴッホなどがいます。 エドゥアール・マネ エドゥアール・マネは、近代美術の父とも呼ばれる画家で、19世紀パリのモダニズム的な生活風景を描いた作品で有名です。 代表作『オランピア』は、浮世絵の影響を受けているといわれており、透視図法や立体感を作り出す陰影など西洋絵画の技法が取り除かれ、はっきりとした輪郭線が描かれています。 浮世絵のテーマとしては一般的で、西洋絵画ではあまり見られない『舟遊び』を描いた作品では、メイン以外を省略し、遠近法を使わず俯瞰的で大胆な浮世絵のような構図を取り入れています。 また、小説家のエミール・ゾラの肖像画では、背景に襖絵や相撲絵などを描き入れていることから、浮世絵をはじめとした日本美術に関心を寄せていたことがうかがえるでしょう。 クロード・モネ クロード・モネは、印象派の画家であり、ジャポニスムから強い影響を受けた芸術家の一人です。 浮世絵の空間描写や光の色彩表現に心酔していたモネは、主題の選び方や俯瞰的な視点、平行線を用いた幾何学的な構図、両端をカットする大胆な配置など、浮世絵がもつ独自の特徴を巧みに西洋画に取り込んでいきました。 また、1876年には妻のカミーユをモデルにした『ラ・ジャポネーズ』を制作しており、着物姿の女性が後ろ向きの体勢から身体をひねり振り返る構図で描かれています。 この女性が振り返るポーズは、浮世絵師である菱川師宣の『見返り美人図』を思わせます。 モネの代表作『睡蓮』シリーズは、琳派の屏風絵に影響を受けているともいわれており、また描かれた太鼓橋は、歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている太鼓橋をモデルにしているともいわれているのです。 フィンセント・ファン・ゴッホ 『ひまわり』で有名なポスト印象派の画家フィンセント・ファン・ゴッホも、浮世絵に大きな影響を受けた芸術家の一人です。 ハンブルク出身のユダヤ系画商ビングが、日本から大量の美術品を持ち帰りパリで店を開いたとき、ゴッホは店でいくつもの浮世絵を鑑賞しました。 浮世絵にはまったゴッホは、生涯で約500点もの浮世絵を収集したといわれています。 中でも、歌川広重の作品を大変気に入っており、広重の代表作『名所江戸百景』の『大はしあたけの夕立』や『亀戸梅屋舗』を油絵で模写しています。 また、ゴッホがお世話になっていた画材屋の店主を描いた『タンギー爺さん』の背景には、浮世絵師の渓斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』や、広重の『冨士三十六景 さがみ川』などの浮世絵が描かれました。 ジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらなかった 浮世絵をはじめとした日本美術が、西洋の画家たちに大きな影響を与えたとする話は、聞いたことがある人も多いでしょう。 しかし、日本美術が海外へ影響を与えたのは、絵画ジャンルだけではありませんでした。 特に、19世紀後半に大流行したジャポニスムの影響は絵画だけにとどまらず、工芸や作曲など、あらゆる芸術分野に影響を与えました。 パリ万博をきっかけに上流階級層が浮世絵を評価するようになってコレクターが次々と現れ、そこからさらに浮世絵を販売する商人も登場するようになり、さまざまな分野に浮世への魅力が広がっていったのです。 ガラス工芸家のエミール・ガレ ガラス工芸家のエミール・ガレは、自然の中に咲いている花や生き物に焦点を当て、繊細な表現で作品に落とし込んでいました。 当時の西洋美術では、山や木などの自然風景を描くことはあっても、自然に生きる花や鳥などの小さな生命たちに焦点を当てる概念がほとんどありませんでした。 そのため、日本の花鳥画や工芸品の自由な花鳥の表現は、西洋の人々には新鮮に映ったことでしょう。 ガレは、当時の西洋で不吉な虫とされていたトンボをたびたび作品に登場させており、北斎の花鳥画『桔梗に蜻蛉』が大きなインスピレーションになっているといわれています。 日本の浮世絵をきっかけに、今までの西洋美術にはなかったモチーフを用いた作品制作に挑戦したともいえるでしょう。 作曲家のクロード・ドビュッシー 『月の光』をはじめとしたクラシック音楽の作曲家として有名なドビュッシーも、浮世絵や日本の美術品に影響を受けた芸術家の一人です。 ドビュッシーは、絵画作品から着想を得て作曲をしていたといわれており、当時流行していたジャポニスムにも強い関心をもっていました。 浮世絵や仏像などを収集しており、ドビュッシーの代表作『海』の楽譜の表紙には、北斎の『神奈川沖浪裏』をイメージした絵が描かれています。 『海』という曲のイメージに北斎の作品がマッチするとして採用されたと考えられます。
2024.11.26
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ジャポニズムあふれるゴッホの名作『タンギー爺さん』
ゴッホは、ヨーロッパを代表する有名な画家の1人であり、日本の浮世絵作品に魅了された海外画家の1人でもあります。 ゴッホが描いた作品の背景を知ることで、日本の浮世絵作品の素晴らしさを再認識していきましょう。 ゴッホの名作『タンギー爺さん』の魅力 ゴッホは数多くの名作をこの世に残しており、その一つが『タンギー爺さん』です。 この作品には、ゴッホらしい作風が表現されているとともに、日本の浮世絵に対する敬意も表現されているのです。 ジャポニズムあふれる名作『タンギー爺さん』 ゴッホの有名作品である『タンギー爺さん』は、1887年に描かれた油彩画で、鮮やかな色彩と自信に満ちたモチーフのデザインが特徴的です。 『ペール・タンギーの肖像』とも呼ばれており、現在は、パリのロダン美術館に所蔵されています。 ゴッホが魅せられた、ジャポニズム ゴッホは、日本の浮世絵に大きな影響を受けたといわれています。 たとえば、安藤広重や葛飾北斎などの作品です。 題材はもちろん影のないフラットな色彩やパターンが、これまでのヨーロッパ美術にはなかった技法であったため、ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちは、大きな衝撃を受けました。 ゴッホは、日本画は平穏の探求を表していると述べています。 ゴッホは、パリにいた時代、浮世絵への興味がピークに達しており、弟のテオと一緒に日本の浮世絵作品を400点以上収集したといわれています。 また、集めるだけでは物足りず、コレクションを利用して浮世絵の展覧会も開催していたのです。 これらの行動からゴッホがどれほど浮世絵に傾倒していたかがわかるでしょう。 『タンギー爺さん』を観賞する ゴッホが描いた有名作品の一つ、『タンギー爺さん』。 このタンギー爺さんが誰であるか、詳しく知らない人も多いのではないでしょうか。 タンギー爺さんという人物を知るとともに、作品に描かれた題材からゴッホの浮世絵に対する興味や愛がどれほどのものであったかを見ていきましょう。 タンギー爺さんとは誰なのか 『タンギー爺さん』に描かれている人物は、ジュリアン・フランソワ・タンギーと呼ばれる画商のことです。 画商であるとともに、画材を販売する絵具挽き屋でもありました。 当時、ゴッホの絵をいち早く売り出した人物として知られています。 性格は陽気で、人望の厚い人柄と芸術や芸術家に対する敬意・熱意から、タンギーのお店はパリでは最も好まれていた画材店でした。 タンギーは、周囲の人々から「ペール・タンギー」の愛称で呼ばれていたそうです。 実は同じ構図の絵画が2作ある ゴッホが描いた『タンギー爺さん』は、ほぼ同じ構図の作品が2つ存在しています。そのため、タンギーを題材にした作品は、別の肖像画を含めて合計3点です。 最初の肖像画は、1886~1887年の冬に描かれました。 この作品には、鮮やかな色彩は使われておらず、茶色をメインとして唇に赤、エプロンに緑が使われている程度でした。 一方、1887年に描かれた2点の『タンギー爺さん』では、鮮やかな色彩が用いられています。 タンギー爺さんの背後にある浮世絵作品 『タンギー爺さん』の作品の背景には、日本の浮世絵作品をモチーフにした絵が多く描かれています。 タンギーは、画商でもありますが、自分のお店で浮世絵の取り扱いはしていませんでした。そのため、『タンギー爺さん』の背景に描かれた数々の浮世絵作品は、ゴッホ自身の浮世絵に対する愛やこだわりであったと考えられます。 『タンギー爺さん』の背景に描かれている『雲龍打掛の花魁』は、渓斎英泉の有名な美人画です。 ゴッホとタンギー爺さんは画家とモデルを超えた関係だった ゴッホとタンギー爺さんは、単なる画家と画商の関係だけではなく、ゴッホの理解者でもあったと考えられます。タンギーは、貧しい芸術家の生活をサポートするために、画材代の支払いを絵画の売却ですることを認めていました。 そのため、当時まだ無名であった画家が多く出入りしており、ゴッホもその画家の1人でした。 タンギーは、ゴッホが亡くなったとき、葬儀に参列した数少ない人物です。 『タンギー爺さん』には、浮世絵への愛だけではなく、タンギー爺さんに対する愛も込められている素晴らしい作品といえるでしょう。
2024.11.22
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ゴッホの描いた花魁とは?ジャポニズムと浮世絵が与えた衝撃
江戸時代から日本の民衆に愛され続けてきた浮世絵作品。 現代でも、多くの人を魅了している芸術品ですが、実は日本だけではなく海外人気も高い作品なのです。 多くのファンやコレクターが世界中におり、浮世絵の影響を受けている有名な海外作家もいます。 その一人が「フィンセント・ファン・ゴッホ」です。 彼は、浮世絵にどのような魅力を感じたのでしょうか。 ゴッホの『花魁』に見る、浮世絵の影響 ゴッホは浮世絵の魅力に衝撃を受け、作風が大きく変化したといわれています。 当初のゴッホは、祖国オランダの同時代にいた画家の影響を強く受けており、どちらかといえば地味な作風の絵を描いていました。 現代に残されている、絵具がキャンパスのうえを走り回るような躍動感ある作品が生まれるきっかけを作ったのが、浮世絵作品であるといわれています。 ゴッホとジャポニズム ゴッホとは、ポスト印象派の画家で、現代でも天才画家と称されて多くの作品が美術館に所蔵されたり、オークションにて高値で取引されたりしています。 ゴッホがインスピレーションを受けたとされるジャポニズムとは、19世紀後半ごろにヨーロッパで流行した日本趣味のことです。 当時のフランス画家たちは、日本から伝わってきた浮世絵や陶器の絵柄などに見られる、日本独自の構図や色彩構成に強い衝撃を受けたといわれています。 ゴッホも衝撃を受けた画家の一人で、浮世絵を模倣したり、肖像画の背景全体に浮世絵を配置したりした作品も多く残されています。 ゴッホをはじめとしたヨーロッパの画家たちの間では、写実性を高めるために輪郭線を明確に描かず、立体感や奥行きのある絵画技法が主流でした。 しかし、浮世絵作品では、はっきりと描かれた輪郭線や直接的な構図などが用いられており、これまでにない表現方法が、ヨーロッパの画家たちの目には新鮮に映ったのでしょう。 ゴッホの描いた『花魁』 浮世絵の鮮やかな色使いや大胆な構図に大きな影響を受けたゴッホは、浮世絵作品を模した絵画も多く残しています。 その一つが、溪斎英泉が描いた『雲龍打掛の花魁』です。 ゴッホは、この作品を模写した油絵を制作しています。 また、花魁が描かれた作品には、カエルや鶴なども描かれており、ほかの浮世絵作品からモチーフを持ってきたと見られます。 『雲龍打掛の花魁』を模写した作品からだけでも、ゴッホの浮世絵に対する熱中ぶりが見て取れるでしょう。 ゴッホを魅了した溪斎英泉『雲龍打掛の花魁』 ゴッホを魅了した溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』がどのような作品であるか、知らない人も多いでしょう。 ゴッホの浮世絵を模した作品の鑑賞を楽しむうえで、もととなった作品や作家の詳細を知っておくと、より背景を想像でき楽しみ方の幅が広がります。 溪斎英泉とは 溪斎英泉とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、吉原の遊女といった女性を題材にした美人画や春画を多く手がけていました。 妖艶で刺激的な作品も多く、当時の民衆を虜にしていました。 また、春画や美人画に限らず、風景画でもすぐれた作品を多く残しています。 溪斎英泉が描く美人画の特徴は、間隔の離れた切れ長の目と筋の通った鼻、突き出た下唇などです。 妖艶な雰囲気を醸し出している表情の女性の絵が、人々から人気を集めていました。描かれている女性の姿勢は、屈曲していたり猫背だったりと、女性特有の丸みが表現されています。 どこか退廃的な雰囲気が漂う作品が多い傾向です。 ゴッホが影響を受けたとする『雲龍打掛の花魁』も、溪斎英泉を代表する美人画といえます。 なぜゴッホは『雲龍打掛の花魁』を知っていたのか ゴッホが『雲龍打掛の花魁』を知るきっかけになったのが、パリ・イリュストレ誌です。 1886年5月号で日本特集が組まれた際に、表紙として左右反転された溪斎英泉の『雲龍打掛の花魁』が、採用されたのです。 ゴッホの遺品から、当時の雑誌の表紙が擦り切れた状態で発見されたことから、雑誌の表紙を模写したものと考えられています。 ゴッホの絵に見る、日本浮世絵の魅力 世界的な画家であるゴッホを魅了した浮世絵。 ゴッホはこの作品以外にも『タンギー爺さん』や『種まく人』など浮世絵の影響を受けた作品を多く残しています。 浮世絵にインスピレーションを受けたゴッホの絵を鑑賞する際は、モチーフとなった浮世絵作品と見比べてみるのもよいでしょう。
2024.11.22
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モネの描いた”見返り美人図”…浮世絵の影響が垣間見える名作とは
クロード・モネとは、19世紀後半に活躍した印象派を代表するフランスの画家です。 代表作の『印象・日の出』は、印象派と呼ばれる名前の由来ともなっています。 生涯を通して多くの美しい絵画を残したモネは、多くの画家に影響を与えました。 実は、風景画を多く手がけてきたモネは、浮世絵に大きな影響を受けた画家の一人。30代のころに浮世絵収集をしており、231点もの浮世絵コレクション を集めるほど日本美術に高い関心を持っていました。 浮世絵に魅せられていたモネは、『ラ・ジャポネーズ』という作品を残しています。 『ラ・ジャポネーズ』をとおして、モネが浮世絵をはじめとした日本美術にどのような関心を持っていたのか紐解いていきましょう。 モネの描いた『ラ・ジャポネーズ』とジャポニズム 熱心な浮世絵コレクターとしても知られているモネは、ジャポニズムの影響を受けて『ラ・ジャポネーズ』という油彩画を制作しています。 『ラ・ジャポネーズ』は、1876年4月に開催された第2回印象派展に出品され、注目を浴びました。 会場で購入はされませんでしたが、衣装の繊細な表現に対して多くの賛辞が寄せられていたそうです。 なお、『ラ・ジャポネーズ』は、同月に行われた競売で2010フランという高値で落札されています。 モネが『ラ・ジャポネーズ』を制作した当時のフランスでは、ジャポニズムが大流行していました。 ジャポニズムは、19世紀後半にヨーロッパで流行していた日本趣味を指しています。 ヨーロッパで活動する多くの画家が、日本の美術作品に衝撃を受けインスピレーションを得ており、モネもその一人でした。 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムのブームが始まった当初に制作された作品です。この作品では、日本的なモチーフを取り入れるのみにとどめられていますが、のちのモネ作品では、モチーフだけではなく技法も取り入れて制作が行われています。 『見返り美人図』 を彷彿とさせる、モネの『ラ・ジャポネーズ』 とは モネが描いた『ラ・ジャポネーズ』は、日本の着物を着た金髪の女性が描かれた油彩画です。 作品の構図や色彩をよく見てみると、日本の浮世絵師である菱川師宣が描いた『見返り美人図』を彷彿とさせます。 『見返り美人図』を描いた菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれている人物です。 本の挿絵としての役割を担っていた浮世絵版画を一つの作品と捉え、メインで制作することで、浮世絵と呼ばれるジャンルを確立させました。 その菱川師宣が描いた肉筆画が、『見返り美人図』です。 『ラ・ジャポネーズ』は、『見返り美人図』からインスパイアを受けて描かれたと考えられており、フランスと日本のモチーフが混じり合って描かれている点が印象的です。鮮やかな赤の着物には、猛々しい武士の姿が描かれています。 また、背景の壁に貼りつけられている多くの団扇の中には、日本の風景画や浮世絵などが描かれています。 『ラ・ジャポネーズ』はまさしく、フランスで大流行したジャポニズムの影響により生まれた、西洋と東洋の文化が混じり合ったユニークな作品といえるでしょう。 鮮やかな色彩が多くの人の目を引き、印象派の繊細な筆使いで光と影を巧みに表現している点も魅力の一つです。 印象派・モネは有名な浮世絵コレクターだった フランスの印象派を代表する画家クロード・モネは、日本の文化に魅了された海外芸術家の一人でもあります。 特に浮世絵を好んでおり、生涯にわたって浮世絵を収集していました。 ノルマンディー地方のジヴェルニーに、モネが晩年を過ごした家があります。 季節の移り変わりとともに、さまざまな花を咲かせる庭園を持ち、家の中には青と白の陶器で作られたタイルが目を引く台所や、黄色で統一されたダイニングルームなどがある家です。 また、庭にある竹やぶを抜けると池にかかる一つの橋が目に飛び込んできます。 自宅の様子から、モネが日本の文化をこよなく愛していたことが伝わってくるでしょう。 さらに多くの人を驚かせていたのは、自宅内に所狭しと飾られている浮世絵の数々です。 その数は、およそ231点。 モネは、特定の浮世絵だけではなく、さまざまな浮世絵師の作品を集めていました。 『ラ・ジャポネーズ』で描かれた妻・カミーユ 『ラ・ジャポネーズ』は、ジャポニズムの影響を受けたモネによって描かれた作品ですが、絵の中の人物が誰であるか、知らない人も多いでしょう。 実は、『ラ・ジャポネーズ』に描かれている赤い着物を着た女性は、モネの妻カミーユです。 カミーユは本来褐色の髪であるため、この作品では金髪のカツラをかぶせて描いたといわれています。 また、『ラ・ジャポネーズ』には、『緑衣の女』と呼ばれる対になる作品があります。 モデルは『ラ・ジャポネーズ』と同様にカミーユが務めました。なお、『緑衣の女』が描かれた当時、まだモネとカミーユは結婚前でした。 モネは、妻であるカミーユをモデルにした作品を数多く制作しています。 カミーユは、結婚前からモデルを務めており、その中で恋に落ちていったといわれています。 カミーユは、モネとの間に長男のジョンと次男のミシェルの2人の息子を授かりますが、32歳という若さで亡くなりました。モネは、カミーユの死に際を描いた『死の床のカミーユ』という作品を残しています。 有名画家モネの描いた”見返り美人”を観賞しよう モネが描いた絵画は、ジャポニズムの影響を受けている作品も多くあります。 絵画を鑑賞する上で、作品から日本の文化を探してみるのも面白いでしょう。 モネの歴史や日本文化との関係性を知ると、よりいっそう親しみが湧き、これまでとは違った視点で作品を楽しめるのではないでしょうか。
2024.11.22
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海外にも浮世絵師がいた?知られざる外国人浮世絵師たち
江戸時代は、1603年から1868年と265年もの長い年月、平和で安泰な時代でした。 長く平和な時代の中で人々は娯楽を求め、その一つとなったのが浮世絵です。 江戸時代初期から後期、そして現代に至るまで人々の娯楽として長く親しまれてきた浮世絵。 日本の伝統的な浮世絵が日本の開国を機に、どのように世界へ影響を与えたのか気になる人も多いでしょう。 また海外では、浮世絵に衝撃を受けた外国人たちが浮世絵師を目指す動きもありました。 日本の浮世絵に魅せられた、外国人浮世絵師たち 19世紀後半、日本の鎖国が終わると日本の芸術品や工芸品は、海を渡りヨーロッパやアメリカの画家たちに大きな衝撃を与えました。 浮世絵をはじめとした日本の美術品に見られる技法は、美術品以外にも建築やインテリアなどのさまざまな分野に影響を与えました。 それまでの西洋美術には見られなかった、自然への慈しみや余白の美しさ、そして非対称な表現などは、その後の西洋美術の画家たちの作風にも表れています。 ヘレン・ハイド 作家名:ヘレン・ハイド 生没年:1868年-1919年 代表作:『母と子』『田圃から』 ヘレン・ハイドは、1868年アメリカ合衆国のカリフォルニア州で生まれた女性版画師です。 ヘレン・ハイドは、1899年に来日し、翌年にはエミール・オルリックより木版の技術を学んでいます。 のちに、幕末から明治時代に活躍した日本画家の狩野友信から日本画の技術を学び、浮世絵師となりました。 ヘレン・ハイドは、日本の風景や日常生活を題材にした作品を制作し、その繊細かつ精巧な技術により注目を集めました。 中でも、当時の日本風俗を西欧人女性の視点から描いた『母と子』は、多くの日本人女性の共感を呼び、高い評価を得ています。 エミール・オルリック 作家名:エミール・オルリック 生没年:1870年-1932年 代表作:『日本の摺師』『日本の絵師』 エミール・オルリックは、1870年オーストリア生まれの版画家です。 幼いころから絵の才能を発揮し、私立絵画学校やミュンヘン美術院で美術や歴史画を学びました。 在学中に日本の浮世絵に強い影響を受け、エッチングやリトグラフなどの版画制作も学んでいます。 世界各地を旅しながら新しい技法を次々に学んでいき、一つのスタイルやジャンルにとらわれることなく、絵画作品を制作していました。 版画家としては、風景画や肖像画などさまざまな作品を制作しており、特に人物画において高い評価を得ています。 なお、エミール・オルリックは、狩野友信から日本画の筆法を学んでおり、その技法をヘレン・ハイドに教えています。 フリッツ・カペラリ 作家名:フリッツ・カペラリ 生没年:1884年-1950年 代表作:『柘榴に白鳥』『濠端の松』 フリッツ・カペラリは、1884年オーストリア生まれの版画家です。 第一次世界大戦の影響により、帰国できず日本に滞在していたフリッツ・カペラリは、1914年に在日オーストリア・ハンガリー大使館で、日本の風景をモチーフにした絵画の個展を開催しています。 1915年、新しい絵を描くための参考資料として複製の浮世絵を探しているとき、京橋にあった渡辺版画店で、版元の渡辺庄三郎と出会いました。 フリッツ・カペラリは、渡邊庄三郎にすすめられ、木版画の制作を始めたといわれています。 また、渡邊庄三郎と協力し、西洋の技法と日本の伝統的な技法を融合させた「新版画」を確立させました。 フリッツ・カペラリの作品は、日本の風景や美人画、花鳥画などが中心です。 葛飾北斎や鈴木春信、伊藤若冲などの影響があったことが作品を通して感じ取れます。 エリザベス・キース 作家名:エリザベス・キース 生没年:1887年-1956年 代表作:『朝鮮の人』『寺の賑い(朝鮮、金剛山)』 エリザベス・キースは、1887年スコットランド生まれの版画家です。 28歳のころ、日本で新東洋と呼ばれる雑誌を刊行していたロバートソン・スコットと結婚していた姉のエルスペットを訪ねて、初めて来日しました。 日本で見た風景や風俗に感動したエリザベス・キースは、浮世絵の技法を学び始めました。 その後、版元の渡邊庄三郎と出会い、木版画を多数制作しています。 姉と朝鮮や中国、シンガポール、フィリピン、東南アジアを旅しながら、各国の風景や暮らしを木版画で表現しました。 エリザベス・キースの作品は、高い描写力や原色を使った鮮やかで装飾的な色彩、構図の安定性などが特徴で、臨場感のある版画が多く残されています。 リリアン・メイ・ミラー 作家名:リリアン・メイ・ミラー 生没年:1895年-1943年 代表作:『雨中の傘』『紅葉の滝』 リリアン・メイ・ミラーは、1895年アメリカ生まれの女性版画家です。 9歳のころから3年間、狩野友信に日本画の筆法を学んでいます。 のちに、12歳からは歴史画を得意とする島田墨仙から水墨画や日本画を学び、「玉花」の号を与えられました。 1920年ごろ、渡邊庄三郎と出会い、木版画の制作を始めました。 リリアン・メイ・ミラーの作品には、浮世絵の影響を受けているものが多くあります。 このほかにも、『芝居小屋の通り』を描いたバーサ・ラムや、池田輝方・池田蕉園に師事したポール・ジャクレーなどがおり、多くの外国人浮世絵師が活躍していたとわかるでしょう。 多くの外国人を魅了したジャポニズムの影響 ジャポニズムとは19世紀後半〜20世紀はじめに、日本の美術品が西洋の芸術に影響を与えた現象を指します。 西洋の芸術家たちは、日本美術からインスピレーションを得て、それぞれの作品を制作しています。 ゴッホやモネなどのように、浮世絵の手法を取り入れた画家もいれば、実際に浮世絵を描いた画家(浮世絵師)もいることがわかりました。 現代のように、まだ日本が諸外国と頻繁に行き来していない時代や、戦争があった時代でも、こうして浮世絵に魅せられた外国人絵師がいたのです。
2024.11.15
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浮世絵は漫画のルーツになった?!浮世絵に見る、日本マンガの原点
江戸時代から人気を集めている浮世絵。 一方、日本国内だけではなく海外からも高い評価を受けている日本マンガ。 一見共通点などなさそうに見える2つの作品ですが、実は、漫画のルーツは浮世絵であるとする考えがあります。 浮世絵と漫画の共通点を探り、どちらの作品についても理解を深めていきましょう。 浮世絵は漫画のルーツになった? いまや日本が世界に誇る文化の一つにもなった日本マンガ。その原点は、浮世絵ともいわれているのをご存じでしょうか。 浮世絵が日本マンガのルーツになったといわれる所以は、浮世絵独自の輪郭線にあります。 浮世絵独自の「輪郭線」 江戸時代に庶民の間で流行した浮世絵は、日本独自の描かれ方をしていました。 その一つが、輪郭線です。 リアルさを追求していた当時の西洋絵画では、線が用いられず色の明暗を利用して陰影をつけ、形を表現していました。 一方、平面的に捉えられる日本の浮世絵は、線によって人物や風景を描いています。線で囲んだ部分を、それぞれ単色で表しているのも特徴の一つです。 現代まで描かれている日本の漫画を見てみると、多くの作品が人物や風景などのモチーフを線で描いています。 海外のアニメーション作品を確認してみると、3Ⅾで制作されているため線はありません。 キャラクターをよく見てみるとわかりますが、海外ではアニメーションでも西洋絵画同様に、リアルさを追及していると考えられるでしょう。 気の向くままに描いた画…『北斎漫画』 漫画の祖は、鳥羽僧正(とばそうじょう)の鳥獣戯画ともいわれていますが、漫画を大衆に広めたのは、葛飾北斎(かつしかほくさい)といわれています。 葛飾北斎は、浮世絵師として知られていますが、実は最も有名な日本の漫画家でもあるのです。 世間で『北斎漫画』と呼ばれているのは、北斎のスケッチ画集のことです。 北斎自身が、特別な理由もなく気の向くままに描いた絵という意味を込めて、漫画と名付けたといわれています。そのため、現代における漫画とは、様相が異なっていたと考えられるでしょう。 北斎が描いた画集は、北斎が亡くなった後、1878年までに全十五編の漫画として断続的に刊行されました。描かれていたのは、人物や動植物などをはじめとしたさまざまモチーフの絵で、その数は4000にもおよびます。 この『北斎漫画』は、日本だけではなく、欧州を中心とした海外でも『ホクサイスケッチ』の名で親しまれています。 エドガー・ドガやメアリー・カサットなど、多くの海外芸術家にも影響を与えており、『北斎漫画』は、『冨嶽三十六景』と並ぶ北斎の代表作のひとつといえるでしょう。 心の内を絵にした、『幻燈写心競 洋行』 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)が描いた『幻燈写心競 洋行』では、日本のマンガによく使われる手法が取り入れられており、『幻燈写心競 洋行』がルーツとなっているのではないかと考えられます。 その手法が、登場人物の心の内を背景に描くものです。 『幻燈写心競 洋行』では、洋書を読む女性の後方に円を浮かべ、その中に洋書に登場したであろう美しい海外建築物が描かれています。 洋書を読み夢見る乙女の心の中を、背景で表現しています。 このように、実際の世界と想像の世界をリンクさせた構図は、現代の漫画にも通じる技法です。 この手法により、一つの絵の中で登場人物の様子だけではなく、心の内に秘めた想いといった、複雑な心の描写を描けるようになりました。 浮世絵以前の漫画のルーツ『鳥獣戯画』 いまや世界に誇れる漫画大国となった日本の漫画の起源とされているのが、鳥羽僧正の『鳥獣戯画』です。 平安時代から鎌倉時代にかけて描かれた絵巻物で、動物たちを擬人化して描いている特徴があります。 全部で4巻あり、全長は約44mにもおよびます。 とくに有名な甲巻では、ウサギや猫などの動物たちが絵の中を縦横無尽に駆け回る斬新でモダンな雰囲気が描かれているのが魅力です。 『鳥獣戯画』を描いたのは、平安後期の高僧である鳥羽僧正とする説が広く知られていますが、確証はありません。 各巻で筆致が異なることから、複数の絵師によって描かれたのではないかとする見方もあります。 平安中期の比叡山の僧である義清が、『今昔物語集』に「嗚呼絵」(戯画)をよく描いたと記していることや、戯画が多くの寺院に伝わっていることから、絵の才に優れた僧侶が余技として描く伝承があったのではないかとも考えられています。 日本の漫画文化の1つは浮世絵にあった 日本国内のみならず海外でも絶大な人気を誇る日本マンガ。 そのルーツは、江戸時代の浮世絵にあるとされています。 浮世絵の特徴であり魅力の一つである輪郭線を用いて描く手法は、現在の漫画にも活用されています。 また、登場人物の背景に回想シーンを浮かべる手法も、江戸時代の浮世絵が原点とされているのです。 浮世絵について詳しくない人でも、漫画のルーツであり、共通点を持っていると知ると、親しみが湧いてくるのではないでしょうか。 漫画と共通する特徴を気にしながら浮世絵鑑賞を楽しむと、新たな発見ができるかもしれません。 浮世絵を鑑賞する際は、ぜひ漫画にも活かされている輪郭線や回想シーンの描き方にも注目してみましょう。
2024.08.13
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浮世絵コレクター・シーボルト。新たに葛飾北斎の肉筆画も見つかる
シーボルトはオランダの医師であると同時に、日本芸術のコレクターでもありました。近年、シーボルトの記録をきっかけに、作家不明だった肉筆画が葛飾北斎の作品であったと判明しています。シーボルトがどのような人物であったかを知ると同時に、シーボルトを魅了した浮世絵作品たちにも触れていきましょう。 シーボルトは浮世絵コレクターだった 江戸時代末期、長崎出島のオランダ商館に医師として来日したシーボルト。 西洋人として初めて出島の外に出て鳴滝塾を開き、日本人に最新の西洋医学を教えたとして有名です。日本の医学は、シーボルトの教えにより飛躍的発展を遂げたといっても過言ではありません。 そんなシーボルトは、実は日本の文化や芸術にも興味があり、浮世絵コレクターとしての一面も持っていました。 多くの浮世絵作品を集めたシーボルト シーボルトは、日本の美術にも関心が高く、浮世絵を多くコレクションしていました。最初は、出島の外で往診を行っていたことがきっかけです。診察料を取らずに往診を行っていたため、患者が感謝の気持ちを込めて贈り物を託すようになりました。このやり取りをきっかけに、シーボルトのコレクションは増えていきました。 シーボルトが、ヤン・コック=ブロムホフ(出島商館長)、ヨハネス・ファン=オーフェルメール=フィッセル(出島商館員)と持ち帰った浮世絵の数は1200点以上。日本の文化と芸術は、それほどまでにシーボルトを魅了したともいえるでしょう。 シーボルトの浮世絵コレクション シーボルトは、ドイツのヴュルツブルク出身で、1796年2月17日生まれです。医学者の家で育ったシーボルトは、ヴュルツブルク大学医学部に入学。医学をはじめ動物学・植物学・民族学などを学びました。卒業後、近くの町医者として働いていましたが、知らない国の自然を学びたいと考え、世界中で貿易をしていたオランダの陸軍軍医になりました。 シーボルトは、1823年8月11日に長崎へ到着。長崎の町で病人の診察を行いました。翌年、もう一度長崎を訪れた際に鳴滝塾を開き、医者たちに医学を教えています。1826年には、オランダ商館長の江戸参府に同行しました。その後、シーボルトは長崎で暮らす女性・楠本たきと結ばれ、娘・いねが生まれます。 しかし、のちに有名なシーボルト事件が起こり、シーボルトは国外追放となってしまいます。シーボルトが日本を調査するために集めていた物品の中に、日本地図や将軍家の家紋が入っている着物など、日本からの持ち出しを禁止されているものが複数あったためでした。 30年後の1859年、シーボルトはふたたび日本を訪れています。塾を開いていた鳴滝に住み、昔の門人たちや娘・いねたちと関わりあいながら日本の研究を続けました。幕府にも招かれヨーロッパの学問を教えています。3年後、日本を去り、1866年にドイツのミュンヘンで亡くなりました。 シーボルトが所有していた謎の絵は、葛飾北斎のものだった オランダのライデン国立民族学博物館に所蔵されていた、作者不明の6枚の絵が、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎が描いた西洋風肉筆画であることが近年判明しました。長らく作者不明であったのは、作者を示す署名や落款がなかったためでした。シーボルトはこの絵を江戸で葛飾北斎から受け取ったと考えられますが、当時検閲が厳しく、オランダ人が絵師に安易に接触しないよう規制をかけられていました。 そのため、葛飾北斎はわざと署名や落款を押さずに検閲を通過できるようにしたと考えられます。近年の作家名判明には、どのようなことでも細かく記録を取るシーボルトの性格が役に立ったといえます。ドイツに保管されていた絵画コレクションの中に「88~93 江戸と江戸近郊の図6枚、幕府御用絵師北斎による西洋風に描かれた風景画」のメモが残されていました。この記録に書かれている特徴と、作者不明とされていた6枚の絵画の特徴が一致したため、葛飾北斎の作品であると判明したのです。 北斎の貴重な作品、もしかしたらまだ世界のどこかにあるかも? シーボルトは浮世絵コレクターとして有名です。しかし、シーボルトだけではなく日本の芸術に魅了されて浮世絵をコレクションする人々は、海外にも多く存在するでしょう。シーボルトの記録がきっかけで作家が葛飾北斎であると判明した6枚の絵は、いつもとは異なる西洋画風の絵のタッチを見られる貴重な作品です。当時の時代背景により作家の判明まで時間を要しましたが、歴史と芸術を同時に味わえる作品ともいえるでしょう。
2024.08.13
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新千円札に浮世絵デザイン!海外から「Great Wave」と呼ばれる名作
新千円札のデザインに採用されたのは日本の浮世絵です。 葛飾北斎が描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は海外からの人気も高い作品で、新札の発表は日本国内だけではなく、海外でも話題になっています。 2024年、新千円札に浮世絵が! 現在、財務省が発表した2024年度から使用される1万円札、5千円札、千円札のデザインが話題に。 新千円札には、江戸時代に活躍した浮世絵師、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が採用されました。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、荒れ狂う海と大きな波、その後ろに見える富士山の構図が特徴的な浮世絵です。 今回一新される紙幣の図柄には、新元号の時代に引き継いでいきたい日本を代表する歴史や伝統、文化、美しい自然にちなんだ人物や作品が選ばれたそうです。 上記の選定理由から、青色の新千円札には、日本の象徴でもある富士山を描いた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が採用されています。 葛飾北斎は、江戸時代を代表する人気浮世絵師で、現在もなお高い人気を誇っています。 また、日本国内だけではなく海外からも高い評価を受けており、葛飾北斎の名と『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、世界の芸術家に大きな影響を与えた浮世絵師・作品です。 新札の発行日は、2024年7月3日に決定しています。 新千円札に描かれている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』をきっかけに、浮世絵の存在を知り興味を持つ人もいるでしょう。 ぜひそこから、浮世絵を鑑賞したり購入したりと、日本の伝統的な芸術作品の楽しみを見つけてみてください。 日本だけではない!海外でも有名な『神奈川沖浪裏』 2024年度から一新される新札の中で、千円札のデザインとして採用された『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。 日本で最も有名な絵画の1つであり、日本を象徴する富士山の絵が描かれています。 多くの日本人が一度は目にしたことがあるのはもちろん、海外でも非常に人気の高い作品なのです。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』には、大自然の脅威とそれに立ち向かう小さな人の姿、そして遠くに富士山が描かれています。 静と動、遠と近の鮮明な対比がテーマになっている浮世絵です。 この作品は、海外の有名芸術家にも大きな衝撃を与えており、画家であるゴッホは、弟のテオに宛てた手紙の中でこの浮世絵を絶賛しています。また、フランスの作曲家であるドビュッシーが、仕事場に『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』を掲げ、交響曲『海』を作曲したのは有名な話です。 海外でも高い人気を誇っている『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。 ロンドンの大英博物館には、3枚もの『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』が所蔵されています。なぜ同じ絵が3枚も存在しているのか、疑問に感じた人もいるでしょう。 実は、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は肉筆画ではなく浮世絵版画であるためです。 浮世絵版画とは、浮世絵師が描いた原画を彫師が木の板に彫り、摺師がそれを紙に摺って制作されます。そのため、原画が描かれた版木があれば、何度も摺って量産することが可能です。ただし、何度も摺ると版木の状態が変化していき、最初と後半で違った印象の作品ができあがります。 さまざまなバージョンの作品が存在することは、制作された当時も人気が高かった証明ともいえるでしょう。 海外人気の高い葛飾北斎の作品には、多くのコレクターも存在しています。 海外からの反応もアツい!新千円札のGreat Wave 新千円札に採用された葛飾北斎の『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、海外では『Great Wave』の名で、大変人気を集めています。そのため、新札発表後に海外では、新札に選ばれた人物よりも、葛飾北斎の名や『Great Wave』が話題になったのです。 海外からの反応がアツい『Great Wave』を起用した千円札は、海外観光客の新しい定番土産にもなるかもしれません。 新千円札を手にした外国人観光客の反応も楽しみ キャッシュレス化が進みつつある中、新札の話題はそれほど多くありませんが、葛飾北斎の人気を考えると、外国人観光客の反応も楽しみになります。 また、新札をきっかけに浮世絵に興味を持ち、購入や鑑賞を楽しむ人が増えることも期待できます。 新札に描かれた『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』の魅力を知り、実際の浮世絵も楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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