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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは何者なのか
江戸時代中期に突如として浮世絵業界に現れ、そして忽然と姿を消した「東洲斎写楽」。 その正体は、いまだ明らかにされておらず、さまざまな説が現代でも論じられています。 写楽が描いた役者絵は、世界的な知名度を誇る日本の名作です。その正体を知りたい人は、決して少なくなく、今でも多くの議論がなされています。 謎に包まれた、東洲斎写楽とは何者なのか 作家名:東洲斎写楽 代表作:『市川蝦蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽(以下:写楽)は、1794年5月から1795年1月のおよそ10か月間だけ活動していたとされる浮世絵師です。 所属の流派・出生・本名、そのすべてが不明で、活動期間もわずか10か月というあまりにも奇天烈な人物といえます。 短い期間に145点もの作品を描く鬼才の持ち主で、活動初期には、一挙に28点もの大首絵(役者の上半身を描いたもの)を仕上げたそうです。 彼の描いた役者絵は、現代でもその構図が使われるほど芸術的要素の強さが魅力です。 役者の特徴を捉えたデフォルメチックな表現方法は、後世に続く浮世絵師や海外の画家たちにも多大な影響を与えました。 東洲斎写楽とは 写楽は、江戸時代中期を代表する「4大浮世絵」とも呼ばれています。 ほかの3人が葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重であることからも、その知名度の高さがうかがえます。 なお、写楽が「東洲斎写楽」の落款(作者の署名のこと)を使っていたのは、デビューから2か月間のみです。 その後、8か月間は「写楽画」と名乗っていました。 落款の名が変わると同時に、写楽の画力は急速に衰えます。 一部界隈では「この時期から別の人物が写楽を名乗っていたのではないか」との説も浮上しています。それほどまでに、絵柄がまったく異なるのです。 東洲斎写楽が描いた、役者絵 写楽を代表する『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』を始め、彼の描いた役者絵は、江戸中に知れ渡る大ブームに発展しています。 その背景を語るうえで欠かせない存在が、江戸の大手版元(現代の出版社)である「蔦谷重三郎」です。 写楽の役者絵が一大ブームを起こしたのは、蔦谷重三郎によるプロデュースがあってこそでした。 一説では「蔦谷重三郎が写楽本人なのではないか」との説も存在します。 堅実な経営スタイルで知られる蔦谷重三郎。 かの有名な喜多川歌麿の作品を出版するときでさえ、ゆっくりと入念な準備を進めたそうです。 しかし、写楽の作品においては、類を見ないアクティブさを見せつけています。 当時、無名かつ無実績の新人である写楽の作品を、一挙に28点も掲載しました。 また、すべてに黒雲母摺と呼ばれる鉱物の粉末をちりばめた特別仕様で出版するという、稀に見る好待遇でデビューを迎えさせました。 慎重な性格の蔦谷重三郎が、デビュー前の新人になぜこのようなハイリスクな出版を行ったのかは、いまだ明らかになっていません。 しかし、彼のプロデュースにより、写楽の作品は江戸中を巻き込むほどの大成功を収めました。 東洲斎写楽が多くの人を魅了する理由 慎重さに定評のある蔦谷重三郎によって大々的にプロデュースされた写楽。 新人作家である彼が多くの人を魅了したのは、人物像が謎なだけでなく、役者絵に込められた躍動感と、絵画としての完成度にあります。 まず、28枚の役者のなかでも一際人気を集めた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』。 これらは写楽の作品でも、役者の人物像と見た目の特徴を、的確に捉えているといわれています。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」の登場人物の1人で、芸妓の身請け金を奪おうとする悪役「江戸兵衛」を演じる大谷鬼次を描いたものです。 あごを突き出してにらみつけるような鋭い眼光や開いた両手が、悪役らしさを生み出しています。 『市川鰕蔵の竹村定之進』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」にて、前半の主人公である竹村定之進を演じた市川鰕蔵を描いた作品です。 市川鰕蔵は、当時の歌舞伎役者の中でも歴代最高と呼ばれており、描かれた風貌からもその自信が現れているように感じられます。 写楽の作品は、対象の人物像を正確に捉えたところが評価される一方、あまりに役者の素を表しすぎたとして、役者から批判も発生したそうです。 良くも悪くも、写楽は忖度のないありのままを描いた浮世絵だったのです。 東洲斎写楽の謎…彼は誰だったのか? 突然の登場から、わずか10か月で姿を消した写楽ですが、その正体には複数の説があります。 蔦谷重三郎や市川鰕蔵も候補の1人として数えられ、果ては葛飾北斎が写楽の正体だという説も。 写楽の正体を探る研究は、長年続けられてきましたが、現在ではある人物が濃厚だといわれています。初期の落款に描かれた「東洲斎写楽」と、同じ作家名を名乗る江戸に住んでいたとされる人物です。 謎の多い写楽の正体 1817年に出版された『諸家人名 江戸方角分(現代のタウンページのようなもの)』によると、八丁掘という現代の東京都中央区に位置する場所に「[号]写楽斎 地蔵橋」との記述が発見されました。 これは、写楽という名の人物が住んでいた場所で、すでに故人であることを意味します。 さらには、1844年に出版された『増補 浮世絵類考』によると、東洲斎写楽が八丁掘に住んでいたことと、徳島藩お抱えの能役者であり、浮世絵師であったことが記されていました。 また、本名を「斉藤十郎兵衛」といいます。 現在では、斉藤十郎兵衛が写楽の正体ではないかと提唱されています。 同名の浮世絵師であることはもちろん、自身も役者であったからこそ見事な役者の大首絵を描けたと考えれば、異論の余地がないのも当然です。 しかし、同名の作家を名乗る偽物の可能性も捨てきれないことから、確証にはいたっていません。 実は写楽は1人ではなかった? 写楽の作品は、第1期〜第4期まであるとされ、3期目から急速に画力が衰えます。 明らかに画風が異なるため、写楽複数人説が浮上しました。 実際に、各期の作品を見ればわかりますが、浮世絵に詳しくない人でも、違いが明らかにわかるレベルです。 ただ、途中で作風を変更した可能性もあります。 写楽の作品が最ももてはやされたのは、第1期の作品。第2期も好評でしたが、1期ほどではなかったようです。 そのため「写楽本人が人気を再燃させるために画風を変えた」との説も唱えられています。 3期から落款の署名が変更されたことから、現在は、写楽複数人説が定説です。しかし、当の本人の正体も判明しておらず、真相はいまだ明らかにされていません。 浮世絵最大のミステリー、東洲斎写楽 現在定説とされている写楽の正体は、八丁堀に住んでいた能役者「斉藤十郎兵衛」が濃厚です。 また「途中から別の人物が作品を描いていた」という説も、ある程度の信憑性を獲得しています。 いずれにしても確証のある証拠はそろっていないため、仮説の域をでません。 江戸を席巻した浮世絵「写楽」の正体が明らかになる日が、いつの日かくるのかもしれません。
2024.11.22
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歌舞伎と浮世絵の深い関係
江戸時代から人々の人気を集めていた浮世絵と歌舞伎は、現在でも多くの人々から愛されています。 しかし、多種多様な娯楽がある現代では、浮世絵や歌舞伎に触れる機会が減り、詳しく知らない人も多いでしょう。 浮世絵や歌舞伎、またその関係性や歴史を知ることで、より両者の魅力を感じられます。 浮世絵と歌舞伎の関係とは 浮世絵のジャンルの一つに、役者絵があります。 役者絵とは、歌舞伎役者を描いた作品。 浮世絵と歌舞伎には深い関係があり、当時の人の浮世絵師が歌舞伎の人気役者を描くことで、相乗効果により浮世絵と歌舞伎が繁盛しました。 江戸時代、浮世絵は安く販売されていたため、人気歌舞伎役者が描かれた役者絵は、多くの歌舞伎ファンを魅了していたといえるでしょう。 浮世絵・歌舞伎はいつ始まった? 浮世絵と歌舞伎はともに、江戸時代に始まった娯楽です。 歌舞伎は、江戸時代に絶大な人気があった男性俳優による古典演劇です。当時、歌舞伎小屋は、遊郭とあわせて江戸の二大悪所といわれていました。歌舞伎小屋や遊郭は、貴族や武士、町人などの身分に関係なく、誰もが自由に楽しめる空間として扱われていたのです。 一方、浮世絵も江戸時代の町人から大変人気を集めていた絵画です。 木版画による大量生産で安価に入手できたため、大衆へ広まったといわれています。浮世絵の中でも、初めて役者絵を描いたとされているのは、鳥居派初代当主の鳥居清信です。 役者絵は、舞台に上がる役者1人を描いた1枚絵からはじまり、のちに2~3人の歌舞伎役者を描くために、サイズが大きい大判が使用されるようになっていきました。 また、2枚以上の絵がセットになっている続絵と呼ばれる作品も多く残されています。 江戸時代の庶民文化、浮世絵と歌舞伎 江戸時代に庶民の娯楽として注目を集めていた歌舞伎に出演する役者もまた、高い人気を誇っていました。 人気のあまり役者たちのファッションを真似する人も現れ、庶民への影響力が大変大きかったといえるでしょう。 役者のファッションや持ち物などに注目が行くきっかけを作ったのは、浮世絵ともいえます。 歌舞伎を見に行く人もそうでない人も、役者絵として描かれた歌舞伎役者のファッションを真似ていたと考えられます。 役者絵は主に、歌舞伎役者の全身を描いた全身絵と、役者の上半身を描いた大首絵、役者の顔を強調して描いた大顔絵の3種類です。 人気の役者絵は飛ぶように売れた 歌舞伎とともに人気となった役者絵には、人気役者の舞台姿を描いたものだけではなく、楽屋の様子や日常の姿を描いたものもあります。 それゆえ、現代にあるブロマイドのような存在でした。 役者絵が最も流行したのは、1789年~1801年といわれています。 人気浮世絵師が人気役者を描くと、相乗効果で役者絵は飛ぶように売れました。 浮世絵の中の役者と歌舞伎 浮世絵の中で表現される役者と歌舞伎は、多くの歌舞伎ファンを魅了したことでしょう。 その中でも、歴代の市川團十郎を描いた作品や、水滸伝ブームを引き起こした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』、謎の絵師が描いた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、当時絶大な人気を誇っていました。 市川團十郎 市川團十郎といえば、歌舞伎の宗家である成田屋の名跡です。 初代市川團十郎は、荒事という人並外れた力で敵を倒す家芸を確立しました。 隈取という顔を紅、藍、墨で彩ったメイクを始めたのも、初代市川團十郎です。 のちに、2代目が隈取を完成させています。 3代目は、将来を期待されていましたが、22歳と若くして亡くなりました。 実力派と呼ばれた4代目、華やかで人気のあった5代目、花形俳優と賞賛された6代目、歌舞伎十八番を確立した7代目と、それぞれ異なる活躍をみせています。 歌舞伎界一の人気と美貌を持ち合わせていた8代目は、謎の自殺を遂げています。 歴代の市川團十郎を描いていた浮世絵師は、当時の人気トップばかりでした。 初代と2代目を描いたのは、鳥居清倍。4代目を描いたのは、勝川春章です。 5代目は勝川春章、勝川春好、東洲斎写楽によって描かれています。 6代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国政、7代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国貞です。 9代目は月岡芳年、豊原国周によって描かれています。 歴代の市川團十郎も市川團十郎を描いた浮世絵師も人気が高かったため、当時役者絵は大人気でした。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵木版画で歌川国芳が描いた連作です。 最初の刊行は、1827年といわれています。 初出版では、智多星吴用、九紋龍史進、行者武松、黒旋風李逵、花和尚魯智深の5人が描かれています。 1830年まで出版されていたとされる一方で、1836年ごろまで出版されていたともいわれており、出版時期は定かではありません。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個は、歌川国芳の出世作で、版元の加賀屋吉兵衛に注目されて水滸伝ブームを生み出しました。 悪がはびこる世の中で、108人の世間からはじき出された英雄たちが集結し、国を救うために活躍するストーリーです。 しかし、現代においては、108人の全図は確認されていません。 三代目大谷鬼次の江戸兵衛 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、東洲斎写楽が描いた有名作品です。 東洲斎写楽とは、1794年5月に彗星のごとく現れわずか10か月の活動期間で姿を消した謎の絵師といわれています。 スマートに描かれた全身絵が一般的だった役者絵を、顔を大きく役者の顔の特徴を強調しデフォルメした大首絵で表現したのです。 贔屓にしている役者の顔が大きく描かれているため、歌舞伎役者ファンに人気の作品となりました。 流行猫の狂言づくし 歌舞伎と浮世絵の人気はとどまることなく、その自由さや刺激的な面があるゆえに、たびたび規制がかけられることがありました。 1841年~1843年に行われた天保の改革では、庶民の娯楽・贅沢が厳しく取り締まられ、歌舞伎だけでなく役者絵も規制の対象となり、価格や色数までに制限がかかるほどでした。 しかし、人気絵師たちは泣き寝入りすることなく、ユーモアと反骨心で政府を煙に巻きます。 人気の役者を猫やうさぎなどの動物に例えて、パロディ画として表現したのです。 代表的なパロディ画は、歌川国芳が描いた『流行猫の狂言づくし』です。 幕府から役者絵であると指摘された際に「これは猫です」といい、幕府の規制をかいくぐっていました。 タイトルや構成に過去の有名な物語である『忠臣蔵』や『勧進帳』などを借りることで、「昔話です」と、幕府の目から逃れ、規制がかけられていた時代も庶民を楽しませていました。 江戸時代に生まれ、今も日本文化として残る浮世絵と歌舞伎 江戸時代に生まれ、400年ほどの歴史ある歌舞伎や浮世絵は、現在も日本の文化として残っています。 浮世絵と歌舞伎は、海外でも人気が高い娯楽です。 歌舞伎と浮世絵の歴史や関係性を理解すると、より浮世絵や歌舞伎の鑑賞が楽しくなるでしょう。
2024.11.15
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