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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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立体感のある浮世絵にはどんな技法が使われている?
浮世絵には、木版画と肉筆画の2種類があります。 肉筆画は、浮世絵師が直接筆をとって、紙に絵を描いていきます。 一方、木版画は、浮世絵師が描いた絵を、彫師が木の板に彫り、摺師が紙に摺り上げていく仕組みです。 木版画である浮世絵版画では、絵を描く浮世絵師だけではなく、彫師や摺師などの職人も重要な役割を担っています。 浮世絵に立体感を出す摺りの技法 浮世絵は、西洋から伝わった遠近法を取り入れてはいるものの、平面的な構成が特徴の絵画です。 立体感のある浮世絵に見せるためには、摺師の技法が関係してきます。 浮世絵に欠かせない、摺師の腕 浮世絵は分業制によって制作されている作品です。 摺師とは、浮世絵師が描き、彫師が彫った木版を、紙に摺り上げて作品として完成させる役割を担っています。 一般的に、色版のズレ予防のため最初に基準となる主版を摺り、後から色版を順番に摺り重ねていきます。 色版は、仕上がりが美しくなるよう、摺り面積の小さいものや薄い色から順に摺られていくのです。 摺師は、絵の全体バランスを見ながら、紙や絵の具などを微調整し、浮世絵師が想像していた完成形を具現化する重要なポジションです。 浮世絵を立体的に仕上げる摺りの技法 浮世絵師が描いた絵のイメージを、想像通り仕上げるためには、彫師や摺師の高い技術が欠かせません。 摺師の職人技として、空摺りやきめ出しなどがあります。 それぞれ、絵師の描いた絵の魅力を引き立たせるために必要な技術です。 空摺り 空摺りとは、版木に絵の具をつけないまま摺る技法です。 凸凹模様を紙につけるために用いられます。 風景画の雪や綿などの白くふわっとした質感や、人物画の衣装の文様や輪郭線などに立体感を持たせるために役立ちます。 きめ出し きめ出しとは、深く彫り込んだ色をつけない板に、色摺りの終わった版画をのせ、上から強い圧力をかけて画面に凸凹を表現する技法です。 雲や雪だるまのような色のない部分に立体感を持たせるために用いられます。 摺りの技術は実物を観賞すれば分かる 浮世絵を、斜めから見たり、単眼鏡などを用いて細部まで見たりすると、摺りの技術の細かさが分かります。 摺りの技法は、ほかにもいくつかあり、単に色を摺るよりも高度な技術であるため、摺りにこだわった作品は当時も価格が高くついていました。 浮世絵の奥深さは摺りの技術を知るとより分かる 浮世絵は、浮世絵師だけの力ではなく、彫師や摺師の職人技があって、魅力を放っています。 摺りによっては、色や立体感がまったく異なります。 高い技術を持った摺師による浮世絵は、より浮世絵師のイメージを具現化していたといえるでしょう。 摺師は、浮世絵制作において重要な仕事ですが、作品に名前が書かれることはほとんどありませんでした。 しかし、摺師が浮世絵の魅力を引き立たせていた存在であると知り、さらに摺りの技術を知ると、浮世絵鑑賞がより楽しくなるでしょう。
2024.12.01
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江戸時代の庶民はどんな食事をしていた?
江戸時代は、肉食が禁止されており、今のように食の多様性は見られないため、庶民がどのような食事をとっていたかイメージが湧きづらい人も少なくないでしょう。 江戸時代における庶民の食事がどのようなものだったのか、当時の庶民の生活を色濃く描いていた浮世絵を通じて知れる場合があります。 江戸時代の庶民はどんな食事をとっていた? 肉食が禁止され、食品加工技術が今ほど発達していなかった江戸時代において、庶民はどのような食事をとっていたのでしょうか。 冷蔵庫もなければ冷凍庫もないため、食品の長期保存もできず、現代より食べられるものが限られている印象があります。 ご飯を炊くのは1日1回 江戸時代では、主食であるご飯を炊くタイミングが1日1回だったようです。 江戸時代の食事スタイルは、江戸時代初期においては朝夕の1日2食でした。 江戸時代中期の元禄年間には、この食事スタイルが変化し、現代にも通じる1日3食に定着したようです。 しかし、庶民の居住スペースである長屋は、土間含め6畳程度しかなく、調理スペースがかなり限られていたことは、想像に難くありません。 また、燃料も十分に備蓄できていなかったと考えられます。 薪だけでなく、燃やせるものは、古雑巾でも燃やして燃料にしていたと記録に残っているほどです。 そのため、燃料代の節約やスペースの関係上、炊飯は1日1回に留めていたようです。 食事の基本「一汁一菜」 食事は、基本的に一汁一菜の構成だったようです。 現代でも大体同じようなものと思いがちですが、実際は大きく内容が異なります。 ご飯にお味噌汁、漬物の3点が基本セットで、ときどきおかずが1品追加されていました。 食事のタイミングは、朝食が7時ごろ(明け六つ)、昼食が12時ごろ(昼九つ)、夕食が19時ごろ(暮れ六つ)とされており、食事中に白湯やお茶を飲む習慣はなかったようです。 とはいえ、食事内容は基本的に粗食で構成されており、漬物の種類はたくあん、梅干し、ぬかみそ漬け、なすび漬けなどをルーティンで回すことがほとんどでした。 奉公人に仕える町人でも、基本の3セットにおかずのイワシが一皿あった程度です。 商家の丁稚は、昼にひじきや油揚げの煮つけが着く程度、武家に関しても庶民と大きく内容が変わらなかったことから、現代と比較すると、いかに食事の内容が少ないものだったかがわかります。 醤油や砂糖、出汁…調味料が普及したのもこの頃 江戸初期までは調味料が普及しておらず、味付けの中心は塩や酢、味噌でした。 元禄年間に至ると醤油や砂糖、みりんや鰹節が普及するようになります。 結果として、さまざまな煮物料理が作られるようになりました。 現代では、マヨネーズやケチャップ、ドレッシングなどさまざまな調味料で溢れかえっていることを考えると、調味料の観点からも食生活が大きく異なっているとわかります。 江戸においては、肉体労働者が多く、味付けは、塩辛いものが好んで作られていたようです。 醤油も基本的には、薄口醤油が広く普及しており、濃口醬油は、関西からの下りものとして入手困難でした。 時代が進むと銚子や野田などで地の濃口醬油が製造されるようになったため、一気に庶民に広まったようです。 また、鍋で加熱調理するような調理方法(煮物、茹で物、汁物)が多く、魚のような高級食品は、裕福な家庭であったとしても2週間に1回程度でした。 調味料が普及したとしても、食事の内容は大きく変わらなかった印象を受けます。 飲食店や居酒屋まで! 食生活は、質素であったにもかかわらず、江戸時代にはすでに、飲食店や居酒屋までそろっていたというから驚きです。 江戸時代末期においては、鮨やそば、ウナギなどの屋台とともに、天ぷらの専門屋台が出店され、食文化の多様性が見られます。 また、それまでは屋台が中心でしたが、つまみを食べながら酒を飲むような居酒屋スタイルも増えていき、近代になるにつれて今はなじみのある外食文化が形成されました。 店舗型の飲食店としては、煮物を食べさせる煮売り屋、四文でなんでも食べられる四文屋などバラエティに富んだ店舗が運営されていた記録が残っています。 また、居酒屋の元祖は、神田川沿いで営業が始まった豊島屋とされています。 浮世絵に描かれた食事やその風景 庶民の生活を描いた浮世絵では、食事やその風景はどのように表現されていたのでしょうか。 代表的な作品を通じて当時の状況への理解を深めましょう。 『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』歌川広重 歌川広重の『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』は、道中の丸子宿で名物のとろろ汁をおいしそうに楽しんでいる人が描かれています。 酒、さかなの看板も見られることから、当時の外食文化の一面を感じられます。 『春の虹蜺』歌川国芳 歌川国芳は『春の虹蜺』と題して、ウナギを頬張るはつらつとした女性を鮮やかな色彩で表現しています。 土用の丑の日は、江戸時代に始まった文化とされているため、流行り始めたころの女性を捉えた作品であると推察できるでしょう。 『魚づくし』歌川広重 歌川広重が『魚づくし』の中でキンメダイやスズキを躍動感に溢れたタッチで表現しています。 ご飯・汁物・漬物ばかりの食事の中で魚は高級品です。 食材としての魅力に溢れた印象的な作品といえます。 江戸時代の食事の様子は浮世絵でも楽しめる 江戸時代の庶民における食事内容や食事の特徴について紹介してきました。 現代とは異なる食事内容だったため、改めて知ることで驚きがあったのではないでしょうか。 また、絵画を通じて具体的に当時の暮らしぶりを知ることは、江戸時代への興味関心を高めることにもつながります。 当時の生活状況を把握できる浮世絵は、歴史の史料的な価値や芸術的価値に富んだ貴重なもの。浮世絵を鑑賞するときは、こうした浮世絵のなかの登場人物一人ひとりの様子を見てみるのも面白いかもしれませんね。
2024.12.01
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広重の浮世絵に隠された遊び心「ヒロ」の文字を見つけられる?
現代では、芸術作品としての価値が高い浮世絵作品ですが、制作されていた江戸時代では、大衆から愛された娯楽でもありました。 役者絵や美人画、風景画などさまざまなジャンルがあり、有名な浮世絵師も数多く誕生しています。 中でも、歌川広重は風景画で人気を集め、のちに海外でも高く評価された浮世絵師の1人です。 名浮世絵師・歌川広重 歌川広重 生没年:1797年-1858年 代表作:『名所江戸百景』『東都名所』『東海道五十三次』 歌川広重とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている人物です。 19世紀後半のヨーロッパ美術家で流行したジャポニズムのブームを巻き起こしたきっかけの一つが、歌川広重の浮世絵であったといわれています。 現代では、歌川広重の作品を見たり聞いたりしたことがある人も多いでしょう。 しかし、江戸時代当時の歌川広重は、下積み時代が長く、出世作となる『東都名所』を描いたときすでに35歳になっていました。 名所絵により、江戸時代の民衆に旅行ブームを引き起こした歌川広重ですが、実は浮世絵師として活動し始めたころは、名所絵ではなく役者絵や武者絵、美人画などを手がけていたのです。 そのため、本来の才能を発揮する場がなく、注目を浴びるタイミングが遅れたといえるでしょう。 得意とする名所絵の『東都名所』をきっかけに、歌川広重の名は江戸中に知れ渡るようになりました。 歌川広重はこの作品を発表したのち、多くの名所絵を手がけるようになっていったのです。 名作『東海道五十三次』の楽しみ方 歌川広重の名作『東海道五十三次』は、道中の風景や人物、生き物などの魅力を伝えてくれる作品です。 作品数も多いため、人によってさまざまな楽しみ方ができるでしょう。 『東海道五十三次』とは 『東海道五十三次』とは、1833年、歌川広重が37歳のときに刊行した作品です。 江戸時代に入ると、徳川家康の命により国内の道路整備が進んでいきました。 最も人の往来が多かった東海道も整備され、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの約500kmの道のりを、2週間で旅できるようになりました。 歌川広重は、1832年に徳川幕府の八朔御馬進献の一行につき、東海道を江戸から京都へと旅しています。 『東海道五十三次』は、歌川広重が江戸へ帰ったあとに発表されています。 この作品は、大人気を博し、歌川広重を名所絵の第一人者にまで押し上げました。 『東海道五十三次』に描かれた、町や人々 『東海道五十三次』には、日本橋から京都までにある53の宿場町と日本橋、京都を含むあわせて55枚の絵で構成されています。 それぞれの浮世絵には、東海道中の名所や自然、名物、伝承などが描かれています。 また、四季の移り変わりや天気によって表情を変える風景を抒情的に描いているのが特徴的です。 『東海道五十三次』は、風景画ではありますが、景色だけではなく当時の人々の暮らしもあわせて描かれています。 朝、昼、夜と時間帯によって変わる人々の生活や宿場町の賑わいの様子は、旅行に憧れる庶民から高い人気を集めていました。 現代でも、江戸時代の人々の営みや街並み、服装、職業などを知るための史料としても活躍しています。 『東海道五十三次』は、実際にある風景を題材に描かれています。 そのため、現代の景色と江戸時代の景色を見比べてみるのも面白いでしょう。 よく見ると「ヒロ」の文字が!広重の遊び心 『東海道五十三次』作品の一つに『鳴海 名物有松紋』があります。 この作品は、愛知県の鳴海にある有松・鳴海絞と呼ばれる名産の絞り染めの商店が描かれています。 絵の左側に構えているお店の暖簾に、ひし形のマークが描かれており、よく見てみると絵を描いた本人である歌川広重の家紋になっているのです。 この紋は、歌川広重が自ら思案したもので、外側のひし形が「ロ」、中に描かれているのが「ヒ」となっており、カタカナで「ヒロ」を表現しています。 ユーモア溢れるデザインで、歌川広重の遊び心がうかがえます。 この作品のほかにも「ヒロ」の文字を取り入れた広重の作品はいくつもあります。こうした広重のちょっとした遊び心…浮世絵を鑑賞するときに探してみるのもいいかもしれませんね。 手に取って鑑賞できた浮世絵だからこその楽しみ方も 江戸時代当時に描かれていた浮世絵は、大衆が楽しめる娯楽であり芸術作品でした。 浮世絵師が、自分たちの作品に残した遊び心を探すのも、当時の民衆にとって楽しみ方の一つでもあったといえるでしょう。 歌川広重が描いた『東海道五十三次』では、ヒロのような遊び心がほかにも隠れていないか探してみたり、聖地巡礼しながら現在の風景と見比べてみたりなど、さまざまな鑑賞の仕方を楽しみましょう。
2024.12.01
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葛飾 北斎が弟子のために描いた絵手本『北斎漫画』とは
日本を代表する浮世絵師・葛飾北斎は、19歳で絵師の道に進んで以来、生涯にわたって驚くべき数々の作品を手がけました。 90歳で亡くなるまで画業に情熱を注ぎ続け、自ら「画狂人」と称するほど絵を愛し、その圧倒的な技術と独創的な表現で江戸時代から今に至るまで多くの人々を魅了しています。 日本を代表する浮世絵師「葛飾北斎」と代表作 北斎の代表作のひとつである『北斎漫画』には、当時の庶民の生活風景、動植物、風景や名所、幽霊、神仏などが多彩に描かれており、あらゆるテーマを網羅しているのが特徴です。 特に、軽妙で洒脱な筆遣いや、動きのあるダイナミックな構図は、北斎ならではの魅力です。 一瞬をとらえたユーモアに満ちた描写からも、観察力と独自の感性が存分に発揮されているとわかります。 彼の作品には、視点の斬新さや繊細なディテールへのこだわりが随所に表れており、その画力は今なお世界中の人々を惹きつけてやみません。 弟子の絵手本として描かれた『北斎漫画』とは 作品名:北斎漫画 作者:葛飾北斎 制作年:1814年-1878年 技法・材質:半紙本 寸法:22.8 cm × 15.9 cm 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子のために描いた絵手本として誕生し、当時の日本で「漫画」という言葉を広めるきっかけとなった作品です。 江戸時代には「漫筆」と呼ばれる、思いつくままに描くスタイルがあり、北斎はその自由な発想をさらに進化させて「漫画」という言葉を作り出しました。 ここでの「漫画」は、現在のストーリー性のある漫画とは異なり、日常の風景や人物、動植物などを軽妙に描き分けるスタイルを指しています。 絵手本である『北斎漫画』は、庶民の生活や自然に親しむ民衆に向けて制作され、粋なユーモアや風刺、また道徳観を織り交ぜて、多くの人々に親しまれました。 軽やかな筆致と風格ある構図で生き生きと表現された絵は、江戸時代の文化や美意識を感じさせるもので、当時の教養ある庶民に愛され、後世にわたってもその影響は計り知れません。 海外の芸術家にも影響を与えた絵手本『北斎漫画』 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子や絵の初心者のために描いた絵手本ですが、その完成度は絵手本の枠を超え、多くの人々を魅了する内容になっています。 表紙に記された「伝神開手」という言葉には「絵画の神髄を初心者に伝える」という意味が込められており、画業を始めたばかりの弟子たちへ北斎の芸術のエッセンスを伝授する意図が示されています。 全15編にわたり4000を超える図が収められ、庶民の暮らしや風俗、動植物、自然現象などが精緻かつ洒落とユーモアを交えて描かれている『北斎漫画』は、その内容の奥深さと豊かさで江戸時代の教養ある庶民にも愛されました。 さらに、19世紀に日本からヨーロッパへ磁器や陶器を輸出する際、緩衝材として用いられた浮世絵や北斎漫画がフランスの画家たちの目に留まりました。 クロード・モネ、フィンセント・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった印象派の画家たちがその表現に強い影響を受け、ヨーロッパ美術における日本美術の魅力が広まる一因となったのです。 名前に江戸時代当時の北斗七星信仰が隠れている 『北斎漫画』には、江戸時代当時の北斗七星信仰の影響が秘められています。 2編から10編までの編尾の画の後ろに、「北斎改 葛飾載斗」筆、同門人「魚屋北渓 斗園楼北泉」校正と記されており、北斎の「北」と載斗の「斗」で北斗、北渓の「北」と斗園の「斗」で北斗の文字が現れ、陰陽道や妙見菩薩信仰に通じる北斗七星信仰が感じられる仕掛けとなっています。 単なる絵手本に留まらない深い象徴性が込められているのです。 北斎の名と弟子たちの名に隠されたこうした背景が、江戸時代の人々の信仰や文化を映し出し、独特な魅力を放つ作品に仕上がっています。 『北斎漫画』五編 柿本貴僧正は歌人・柿本人麻呂の伝説を描いている 『北斎漫画』五編には、有名な歌人・柿本人麻呂が「柿本貴僧正」として登場し、伝説を元にした姿が描かれています。 『北斎漫画』の後半には百人一首の歌人たちが多く登場しており、その一人として描かれている人麻呂は、三つ目で鬼の顔をした僧侶として表現されています。 人麻呂は、日本の代表的な歌人として3490もの歌を残したことで知られていますが、彼の詳細な経歴はほとんど不明です。 歴史的には、政治的な争いに巻き込まれ、その結果、すべての経歴が抹消されてしまったという説もあります。 そのため、後世にはさまざまな伝説が生まれました。 特に有名な伝説の一つに、彼が恋してはいけない高貴な女性に恋い焦がれ、最終的には鬼に変わってしまったという話があります。 北斎は、この伝説にもとづいて柿本人麻呂を描いており、十編に登場する柿本人麻呂は、立派な人の姿で描かれています。 https://daruma3.jp/ukiyoe/382 風景画で有名な葛飾北斎は『北斎漫画』にみられるユーモアも持ち合わせている 風景画で名高い葛飾北斎ですが、その作品には鋭い観察眼から生まれたユーモアも見受けられます。 北斎は、ただ単に美しい風景を描くだけでなく、日常生活や自然の中での人々の様子を精細にとらえることで、彼らの生き生きとした姿を表現しました。 『北斎漫画』では、当時の人々の日常や動植物が描かれるだけでなく、そこに思わず微笑んでしまうようなユニークなエッセンスも加えられています。 『北斎漫画』では、さまざまなシーンが展開され、北斎は人々のしぐさや表情を生き生きととらえています。 また、風景や風俗を描く中で、ちょっとした笑いや粋な風情を感じさせる点は、北斎の人間味と遊び心が表現されているといえるでしょう。 北斎は画家としての技術だけでなく、観察力やユーモアのセンスも兼ね備えた偉大な芸術家であることが、『北斎漫画』を通じて感じられます。 彼の作品は、時代を超えて今なお多くの人々に愛され続けているのです。
2024.11.26
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葛飾北斎が描いた晩年の名作とは
葛飾北斎は、江戸時代を代表する浮世絵の1人です。 彼が描いた風景画や肉筆画は、後世に語り継がれる名作として扱われ、日本に限らず世界的な評価を受けています。 しかし、葛飾北斎が手がけた作品数は、およそ3万点にものぼるといわれ、代表作の多くは晩年期に描かれているのです。 どのような生涯を送った人物なのか、晩年の葛飾北斎が描いた作品に迫ります。 真の絵師を目指した、葛飾北斎 作家名:葛飾北斎 代表作:『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『雪中虎図』『酔余美人図』 葛飾北斎は、日本の歴史に存在する芸術家の中でも、世界的知名度を誇る浮世絵師です。 本所割下水、現在の墨田区に生まれた葛飾北斎は、墨田区から台東区の範囲でおよそ90回以上も引っ越しを行ったことで知られ、90年におよぶ生涯のほとんどを墨田区で過ごしたといいます。 彼が残した浮世絵の作品数は、細かいデッサンも含むとおよそ3万点を超えるそうです。 また、葛飾北斎という画号も、複数あるうちの1つに過ぎません。 葛飾北斎の画号は、全部で30はあるといわれています。 活動期間ごとに「春朗期・宗理期・葛飾北斎期・戴斗期・為一期・画狂老人卍期」の主に6期に分かれており、それぞれで作品の傾向が異なります。 なお、葛飾北斎の代表作である『富嶽三十六景』は、晩年の少し前である為一期に作られたものです。 当時、葛飾北斎は72歳という高齢でした。 葛飾北斎は、晩年まで浮世絵を描き続けたことでも有名で、死の直前に「5年の寿命があれば本当の絵師になれたものを」との言葉を残したそうです。 葛飾北斎は、生涯をすべて浮世絵に費やした、日本を代表する芸術家といえます。 肉筆画を描いた晩年期 葛飾北斎といえば、風景画である『富嶽三十六景』が非常に有名です。 しかし、晩年期の彼は、風景画以外の肉筆画(一点ものの作品)も多く描いており、題材も大きく変化しました。 晩年の葛飾北斎は、画号を「画狂老人卍」と名乗っており、このころの代表作として『朱描鍾馗図』『雲龍図』『西瓜図』『富士越龍図』が挙げられます。 しかし、作品たちを見ると、錦絵(多種類の色彩が特徴の絵画)をほとんど描かなかったことがわかります。 題材も風景画から動植物や武者絵など、幅広いジャンルに変化しました。 対象の立体感を演出する技法は、葛飾北斎の作品たちに見られる特徴ですが『朱描鍾馗図』『雲龍図』からもその趣がうかがえます。 『西瓜図』 『西瓜図』は、葛飾北斎が80歳の1839年に制作された肉筆画です。 縦長の画面の中に、切られた西瓜に白い和紙・菜切り包丁・上には桂剥きされた西瓜の皮が描かれています。 背景の淡いグラデーションと清涼感のある西瓜の朱色が作品の魅力で「蔬果図(野菜や果物をデッサンしたもの)」の1つとされています。 しかし、専門家の間では、七夕をイメージした見立絵との見解も。 その理由は、画の構図が蔬果図らしくない点にあります。 西瓜は、水の入った桶を、西瓜の皮は5色の絹糸、包丁と和紙は、七夕で使う梶の葉のメタファーとされており、いずれも七夕に必要な飾りを指しているためではないかとの説があります。 葛飾北斎の作品について研究するものの間では、当作品は、七夕を連想させる見立絵という見解が浮上しているのです。 『富士越龍』 『富士越龍図』は、晩年の葛飾北斎が最後に仕上げたといわれる1849年の肉筆画です。 雪の積もる富士山をメインに、黒い雲の中を龍が駆けのぼる様が描かれています。 一説によると、葛飾北斎の娘である葛飾応為が制作したとの考察も。 なお『富士越龍図』は、同様の構図の作品が2つあり、紙版と絹版にわかれます。 どちらが先に制作されたものなのか明らかになってはいませんが、落款があることから、どちらも正当な葛飾北斎の作品です。 『富士越龍図』に描かれた天をのぼる龍は、さらなる高みを目指したいという葛飾北斎の気持ちを現したためではないかともいわれています。 画狂老人卍 晩年の葛飾北斎は、落款に「画狂老人卍」という画号を用いていました。 現代人が見るとチープなネーミングに映るかもしれませんが、このワードにはれっきとした意味が込められているのです。 晩年の落款「画狂老人卍」 葛飾北斎は、その生涯でおよそ30回にもおよぶ画号の変更を行った変人としても有名です。 当時、浮世絵師が己の画号を変えるのは珍しいことではありませんでした。 しかし、30回も変えるのは普通ではありません。 それでも、葛飾北斎が画号を変え続けたのは「初心を忘れないため」という説と「画号を弟子に売って生活費にあてていた」という説の2つが考察されています。 売れっ子だった葛飾北斎ですが、その割に生活は貧乏だったそうです。 そのため、どちらの説も信憑性があり、真実は明らかになっていません。 「画狂老人卍」というネーミングをつけた理由は、主に2つあるといわれています。 1つ目は「画狂老人」という画号を気に入っている点です。 葛飾北斎は「画狂老人卍」を名乗る30年前、1805年からおよそ1年間だけ「画狂老人」という画号を落款に使っていました。 大昔に使ったフレーズを再度使っていることから、気に入ったフレーズであることがうかがえます。 また「卍」のワードは、葛飾北斎が所属していた川柳の会で使われていたニックネームです。 葛飾北斎は、64歳のころから川柳を趣味にしていた時期があり、周囲から「卍さん」の呼称で親しまれました。 過去の画号にも頻繁に卍を使っていた背景からも、気に入って画号に加えた可能性は高いでしょう。 2つ目の理由は、宗教的な意味合いです。 卍の1文字は、日蓮宗における徳の象徴とされています。 葛飾北斎は、熱心な日蓮宗の教徒であったため、卍のネーミングと日蓮宗は、深く関係していることがうかがえます。 画狂・北斎の最期の言葉 晩年、葛飾北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年の寿命があれば、真の絵師になれたものを)」といい、辞世の句で「ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだ後は魂となって夏の草原をのびのび飛んでいこう)」と詠みました。 最期の言葉から、葛飾北斎は90年という生涯を浮世絵師として過ごし、技術の研鑽を最後まで怠らなかった人物だとわかります。 現在も北斎の浮世絵は世界を圧倒している 葛飾北斎は、その生涯のすべてを浮世絵に捧げた偉人です。 彼が残した作品の数々は、日本に限らず世界にも浸透し、世界中の芸術家へ多大な影響を与えました。 事実、19世紀の画家を代表するセザンヌが描いた『サント=ヴィクトワール山』は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が意識されています。 また、葛飾北斎の作品は西洋絵画だけでなく、音楽や花瓶など、ほかのジャンルにも影響を与えたともいわれています。 葛飾北斎は、芸術の分野を進歩させた世界的な浮世絵といえるでしょう。
2024.11.24
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謎多き浮世絵師・東洲斎写楽とは何者なのか
江戸時代中期に突如として浮世絵業界に現れ、そして忽然と姿を消した「東洲斎写楽」。 その正体は、いまだ明らかにされておらず、さまざまな説が現代でも論じられています。 写楽が描いた役者絵は、世界的な知名度を誇る日本の名作です。その正体を知りたい人は、決して少なくなく、今でも多くの議論がなされています。 謎に包まれた、東洲斎写楽とは何者なのか 作家名:東洲斎写楽 代表作:『市川蝦蔵の竹村定之進』『三代坂田半五郎の藤川水右衛門』『三代目大谷鬼次の奴江戸兵衛』 東洲斎写楽(以下:写楽)は、1794年5月から1795年1月のおよそ10か月間だけ活動していたとされる浮世絵師です。 所属の流派・出生・本名、そのすべてが不明で、活動期間もわずか10か月というあまりにも奇天烈な人物といえます。 短い期間に145点もの作品を描く鬼才の持ち主で、活動初期には、一挙に28点もの大首絵(役者の上半身を描いたもの)を仕上げたそうです。 彼の描いた役者絵は、現代でもその構図が使われるほど芸術的要素の強さが魅力です。 役者の特徴を捉えたデフォルメチックな表現方法は、後世に続く浮世絵師や海外の画家たちにも多大な影響を与えました。 東洲斎写楽とは 写楽は、江戸時代中期を代表する「4大浮世絵」とも呼ばれています。 ほかの3人が葛飾北斎・喜多川歌麿・歌川広重であることからも、その知名度の高さがうかがえます。 なお、写楽が「東洲斎写楽」の落款(作者の署名のこと)を使っていたのは、デビューから2か月間のみです。 その後、8か月間は「写楽画」と名乗っていました。 落款の名が変わると同時に、写楽の画力は急速に衰えます。 一部界隈では「この時期から別の人物が写楽を名乗っていたのではないか」との説も浮上しています。それほどまでに、絵柄がまったく異なるのです。 東洲斎写楽が描いた、役者絵 写楽を代表する『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』を始め、彼の描いた役者絵は、江戸中に知れ渡る大ブームに発展しています。 その背景を語るうえで欠かせない存在が、江戸の大手版元(現代の出版社)である「蔦谷重三郎」です。 写楽の役者絵が一大ブームを起こしたのは、蔦谷重三郎によるプロデュースがあってこそでした。 一説では「蔦谷重三郎が写楽本人なのではないか」との説も存在します。 堅実な経営スタイルで知られる蔦谷重三郎。 かの有名な喜多川歌麿の作品を出版するときでさえ、ゆっくりと入念な準備を進めたそうです。 しかし、写楽の作品においては、類を見ないアクティブさを見せつけています。 当時、無名かつ無実績の新人である写楽の作品を、一挙に28点も掲載しました。 また、すべてに黒雲母摺と呼ばれる鉱物の粉末をちりばめた特別仕様で出版するという、稀に見る好待遇でデビューを迎えさせました。 慎重な性格の蔦谷重三郎が、デビュー前の新人になぜこのようなハイリスクな出版を行ったのかは、いまだ明らかになっていません。 しかし、彼のプロデュースにより、写楽の作品は江戸中を巻き込むほどの大成功を収めました。 東洲斎写楽が多くの人を魅了する理由 慎重さに定評のある蔦谷重三郎によって大々的にプロデュースされた写楽。 新人作家である彼が多くの人を魅了したのは、人物像が謎なだけでなく、役者絵に込められた躍動感と、絵画としての完成度にあります。 まず、28枚の役者のなかでも一際人気を集めた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』『市川鰕蔵の竹村定之進』。 これらは写楽の作品でも、役者の人物像と見た目の特徴を、的確に捉えているといわれています。 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」の登場人物の1人で、芸妓の身請け金を奪おうとする悪役「江戸兵衛」を演じる大谷鬼次を描いたものです。 あごを突き出してにらみつけるような鋭い眼光や開いた両手が、悪役らしさを生み出しています。 『市川鰕蔵の竹村定之進』は、河原崎座の「恋女房染分手綱」にて、前半の主人公である竹村定之進を演じた市川鰕蔵を描いた作品です。 市川鰕蔵は、当時の歌舞伎役者の中でも歴代最高と呼ばれており、描かれた風貌からもその自信が現れているように感じられます。 写楽の作品は、対象の人物像を正確に捉えたところが評価される一方、あまりに役者の素を表しすぎたとして、役者から批判も発生したそうです。 良くも悪くも、写楽は忖度のないありのままを描いた浮世絵だったのです。 東洲斎写楽の謎…彼は誰だったのか? 突然の登場から、わずか10か月で姿を消した写楽ですが、その正体には複数の説があります。 蔦谷重三郎や市川鰕蔵も候補の1人として数えられ、果ては葛飾北斎が写楽の正体だという説も。 写楽の正体を探る研究は、長年続けられてきましたが、現在ではある人物が濃厚だといわれています。初期の落款に描かれた「東洲斎写楽」と、同じ作家名を名乗る江戸に住んでいたとされる人物です。 謎の多い写楽の正体 1817年に出版された『諸家人名 江戸方角分(現代のタウンページのようなもの)』によると、八丁掘という現代の東京都中央区に位置する場所に「[号]写楽斎 地蔵橋」との記述が発見されました。 これは、写楽という名の人物が住んでいた場所で、すでに故人であることを意味します。 さらには、1844年に出版された『増補 浮世絵類考』によると、東洲斎写楽が八丁掘に住んでいたことと、徳島藩お抱えの能役者であり、浮世絵師であったことが記されていました。 また、本名を「斉藤十郎兵衛」といいます。 現在では、斉藤十郎兵衛が写楽の正体ではないかと提唱されています。 同名の浮世絵師であることはもちろん、自身も役者であったからこそ見事な役者の大首絵を描けたと考えれば、異論の余地がないのも当然です。 しかし、同名の作家を名乗る偽物の可能性も捨てきれないことから、確証にはいたっていません。 実は写楽は1人ではなかった? 写楽の作品は、第1期〜第4期まであるとされ、3期目から急速に画力が衰えます。 明らかに画風が異なるため、写楽複数人説が浮上しました。 実際に、各期の作品を見ればわかりますが、浮世絵に詳しくない人でも、違いが明らかにわかるレベルです。 ただ、途中で作風を変更した可能性もあります。 写楽の作品が最ももてはやされたのは、第1期の作品。第2期も好評でしたが、1期ほどではなかったようです。 そのため「写楽本人が人気を再燃させるために画風を変えた」との説も唱えられています。 3期から落款の署名が変更されたことから、現在は、写楽複数人説が定説です。しかし、当の本人の正体も判明しておらず、真相はいまだ明らかにされていません。 浮世絵最大のミステリー、東洲斎写楽 現在定説とされている写楽の正体は、八丁堀に住んでいた能役者「斉藤十郎兵衛」が濃厚です。 また「途中から別の人物が作品を描いていた」という説も、ある程度の信憑性を獲得しています。 いずれにしても確証のある証拠はそろっていないため、仮説の域をでません。 江戸を席巻した浮世絵「写楽」の正体が明らかになる日が、いつの日かくるのかもしれません。
2024.11.22
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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北斎漫画とは?浮世絵師たちがこぞって真似た個性的なイラストたち
活躍した江戸時代から今日まで高い人気を誇っている葛飾北斎。 画号を30回以上変えたり、90回以上引っ越しを繰り返したりするユニークな面も持ち合わせています。浮世絵師としてあまりに有名な北斎ですが、実は漫画も刊行しているのです。 北斎漫画とは 北斎漫画とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎によって描かれた漫画のことです。北斎は、日本のみならず海外からも高い評価を受けている浮世絵師で、多くの海外芸術家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎がどのような人物であるかを知るとともに、北斎漫画にはどのような絵が描かれていたのか見ていきましょう。 北斎漫画の魅力を知れば、より葛飾北斎の偉大さや浮世絵の魅力も深まります。 葛飾北斎とは 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年-1849年 代表作:『冨嶽三十六景』『富嶽百景』 葛飾北斎は、数多くの名作を世に残した有名浮世絵作家です。 北斎は、東京都の墨田区で生まれ、4歳のころに江戸幕府御用達の鏡師である中島伊勢の養子となりました。鏡師とは、神社やお寺に納める青銅鏡を製作する職人です。 北斎は、6歳になるころには、すでに絵を描くことに興味を持っていたといわれています。 12歳のときに家業の鏡師は継がずに、貸本屋で下働きをはじめ、多くの本を読んで絵の技法を独学で学んだそうです。その後、14歳のころに木版彫刻師の弟子となり、木版印刷の技術を習得しました。 しかし、18歳になるころ、自分は木版を彫ることよりも絵を描く方が好きだと再認識し、彫刻師をやめて絵師になると決意します。 その後、勝川春朗や俵屋宗理、葛飾北斎など、さまざまな名を名乗り、浮世絵の制作活動を進めていきました。 北斎は、何度も画号を変えており、その数はなんと30回ともいわれています。 北斎の作品に描かれている画号により、描かれた時代がわかるとともに、絵の特徴の違いを比較してみるのも面白いでしょう。 北斎漫画とは 葛飾北斎が、弟子のために描いた絵手本である北斎漫画には、どのような内容が描かれているのか気になる人も多いでしょう。 北斎漫画は全15編からなり、初編から5編まで、6編から10編まで、11編から15編の3冊で構成されています。 初編の発行は、北斎が55歳になる1814年でした。 初編は、葛飾北斎が弟子の牧墨僊の自宅に滞在して描いた300点の下絵をまとめたものです。 当時を生きる町民や武士、僧侶などの人物や魚、動植物、風景などさまざまなイラストがいきいきと描かれているのが特徴です。 もともとは初編のみの刊行予定でしたが、想像以上に人気を集めたため続編が制作されることになりました。 2編では、初編で掲載できなかった人物や動植物、面白いお面などが描かれています。 3編では相撲絵や雀踊絵が描かれ、4編では戦う男、5編では偉人や建造物が描かれています。 6編は、弓を射る人や鉄砲を撃つ人など、戦う様子を描いており、7編では『冨嶽三十六景』で描かれているような波の絵も。 8編からは表情豊かな町民といったユニークなイラストも描かれ始めました。 この北斎漫画が最後の15編まで刊行されるのを待たずして、北斎は1849年に亡くなっています。 1849年に13編が刊行されているため、14・15編は北斎が亡くなってから刊行されたものです。 北斎漫画はなぜ描かれたのか 絵の才能に長けていた葛飾北斎から絵を学びたい人は、多くいました。 当時、北斎には弟子が200人以上もいたといわれています。 弟子がこれ以上増えてしまうと、直接指導ができなくなってしまうとして、葛飾北斎の絵を学びたい人に向けて北斎漫画が制作されたのでした。 浮世絵師たちが手本としたスケッチ="漫画" 北斎漫画が制作された当時は、芸術作品としてではなく、絵の書き方を習いたい人のために描かれたスケッチや絵手本のような役割を担っていました。 そのため、最初は人物や動植物、風景など、浮世絵でよく題材として扱われるモチーフを描いています。 後半になるにつれて、個性的でユニークなスケッチが増えていきます。 なぜ北斎漫画は尾張(名古屋)の版元から出版されたのか 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張に滞在していたころには、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行っており、人気を集めていました。 葛飾北斎は、1812年ごろ関西方面へ足を運んだといわれており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在しています。そこで、300枚以上のスケッチを描き上げました。このスケッチが、のちに門下の絵手本となる『北斎漫画』の原型です。 名古屋で描かれたため、名古屋の版元である永楽屋東四郎のもとで、初版が刊行されたのでした。 北斎漫画に描かれた絵手本 葛飾北斎が手がけた『北斎漫画』には、さまざまなジャンルのイラストが掲載されています。 また、後半になるにつれて珍しいユニークな絵も増えていくため、その違いを楽しむのも良いでしょう。 珍しい題材としては、お化けや仙人、妖怪なども描かれています。 葛飾北斎は偉大な浮世絵師だった 『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などの名作を生み出した、偉大な浮世絵師である葛飾北斎。 浮世絵師を目指す人からは、尊敬のまなざしで見られ、多くの人が葛飾北斎のもとで絵を学びたいと思ったことでしょう。 『北斎漫画』を出すころには、一人では見きれないほどの弟子を抱えていました。北斎が直接手をかけられなくても、多くの絵師が技術を上げられるよう、指南書となる北斎漫画を発行したのでした。 今では芸術作品としての価値が高い『北斎漫画』。 もとは、弟子たちに向けた絵手本であったことを踏まえて鑑賞してみると、また違った視点で楽しめるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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