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浮世絵に描かれた大迫力の”刺青”

現代では、ファッションとして身体に彫る人が増えてきた刺青ですが、遡ると平安時代から受け継がれている文化だったとご存知でしょうか。
文化として根差してきた刺青は、江戸時代に至ると度々浮世絵の題材として取り上げられていました。

そして、今なお浮世絵作品として世に残っています。
刺青の文化的背景を知らないと価値ある作品か分からない場合も少なくありません。
これから紹介する刺青文化と浮世絵の代表作を知ることで、作品にまつわる理解を深めていきましょう。

 

江戸時代の刺青の役割

刺青が盛んに行われた江戸時代における、刺青の持つ役割について紐解いていきましょう。
まずは、「刺青」と「入墨」の違いについて知る必要があります。
大きな違いはないとされていますが、「刺青」はかつて「しせい」と呼ばれており、谷崎潤一郎の小説にて「いれずみ」と当て字されてから、今の呼び方が広く使われるようになりました。

江戸時代においては、罪人のしるしとして「入墨」と表記されるため、それぞれの言葉の持つ役割は、やや異なっていると言えます。

罪人の証としての「入墨」

前述の通り、「入墨」と表記する場合は、罪人の証として顔や身体の皮膚に彫り込まれたしるしを指します。
当初は、任侠といった渡世人の間で、お守りの役割がある念仏の「南無阿弥陀仏」をはじめとした経文を、身体の一部に彫り込むことから始まりました。
通常の生活とは違う世界で生き残る人にとって、心の支えになったようです。

一方で、刑罰の一種として取り込まれるようになったのは、江戸時代中期とされています。
入墨は、一度彫ると簡単には消せません。
人口増加による犯罪件数の増加を抑制するために、一般人と区別する方法として広く活用されました。

入墨刑に用いられるデザインは、地域ごとに異なっていたようです。
例えば、江戸であれば腕関節の下側に2本線が入れられていましたが、大阪では腕の関節あたりに2本線が入れられるなどの違いがあったようです。
また、おでこに丸や犬の字を彫り込む地域もありました。
悪目立ちする分、一定の抑制効果は見込めそうです。

しかし、渡世人や罪人に彫り込まれるだけのためにあったのであれば、入墨が現代に至るまで脈々と続いてきた文化になりそうにありません。
入墨が、後世に受け継がれるまでに発達した背景には、一体何があるのでしょうか。

ファッションとしての「彫り物」

江戸時代では、任侠の世界に生きる人もしくは罪を犯した人以外にも、入墨を身体に彫り込んだ人がいます。
それは、遊女やとび職人です。

浮世絵としても、遊女やとび職人が刺青を入れた作品が世に多く残っています。
長年、入墨文化が受け継がれてきたのは、浮世絵から推測できるように、遊女やとび職人をはじめとした一定層の一般庶民にも入墨が根差していたからだと考えられます。

また、現代においてはタトゥーと呼び名を変え、ファッションとしての「彫り物」が残っています。
仁王像などをモチーフにした和彫りの絵柄や、おしゃれな洋風のイメージを身体に彫り込むことでファッションとして楽しむ機会が増えました。

 

浮世絵に見る、刺青

代表的な浮世絵作品を通して、刺青について深堀りしていきましょう。
浮世絵は、当時の人々の暮らしや世相を垣間見るための史料としても役立ちます。

『当世四天王』落合芳幾

入墨が描かれている浮世絵作品の一つに、落合芳幾が描いた『当世四天王』があります。
落合芳幾は、江戸時代後期から明治にかけて活躍した浮世絵師であり、歌川国芳の門下に属していました。
月岡芳国とは同門の兄弟弟子で、一時は人気を二分するほど力を持った画家です。

『当座四天王』は、肩から刺青が彫られた男性たちが力強く描かれており、落合芳幾の代表作として知られています。

『いたさう』月岡芳年

月岡芳年が描いた『いたさう』にも、入墨が登場します。
月岡芳年は、歌川国芳の門下に属しており、江戸時代後期から明治中期まで活躍しました。

作品には、遊女がこれから刺青を彫り込もうとしている場面を切り取って描かれています。
遊女といえば、江戸吉原のイメージが強いですが、遊女の始まりは大阪や京都といった上方とされており、関西から入墨ブームが始まったとされています。
ブームになった入墨は「起請彫り」といい、なじみの客に対する「愛の証」として、客の名前や年齢の数に等しいホクロを身体に彫り込んだものです。
現代においても、身体に恋人の名前をタトゥーとして彫り込む人も少なくありませんが、数百年も前から同じような行為はあったのでした。

とはいえ、心から慕って彫り込む例は多くなかったようです。
遊女の生活環境は劣悪だったとされており、置かれた環境から逃げ出すためには、なじみ客との結婚しか手段がありませんでした。
黙って逃げても厳しい折檻が待ち受けていたため、なじみ客に射止められ、晴れて遊郭以外の世界に旅立つことを夢見る女性が多かったことは、想像に難くありません。
そのため、意外と気軽に名前を入墨で彫り込んでいたと言い伝えられています。

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』歌川国芳

『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)- 浪子燕青-』歌川国芳 [引用元:wikipedia]
『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)- 浪子燕青-』歌川国芳 [引用元:wikipedia]

歌川国芳の『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』にも、迫力のある入墨が描かれています。
歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
前述した落合芳幾や月岡芳年を門下生とし、数多くの作品を世に残してきました。

歌川国芳の代表作である『通俗水滸伝豪傑百八人之一個(壱人)』は、中国の歴史小説である水滸伝が元ネタとして取り扱われています。
江戸時代に入り、入墨ブームが興り、その世相と歴史小説作品を掛け合わせたこの浮世絵は、躍動感に溢れている点が特徴です。

 

江戸時代の入墨文化を浮世絵でみてみよう

江戸時代の入墨文化は、罪人だけでなく遊女をはじめとした一般庶民の中でも流行していたと分かりました。
世相が表現された浮世絵を見ることで、当時の生活や文化に触れられます。
浮世絵は入墨文化だけでなく、当時の風俗を知れる貴重な史料です。
江戸時代の人々の暮らしや文化を知りたい方は、浮世絵作品をぜひ鑑賞しましょう。

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