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浮世絵に描かれたかわいい猫・怖い猫・面白い猫たち

浮世絵のモチーフとしてもよく用いられている猫。
現在では多くの人々に愛されている動物です。
人と暮らし、人々の生活に溶け込んでいる猫は、いったいいつごろから日本でなじみ深い動物になったのでしょうか。
その歴史は、奈良時代にまでさかのぼります。

猫と人間の深い関係

現代では、自宅で猫を飼う人もいれば、一方で人懐っこい野良猫もいます。
人々が暮らす街中に溶け込んでいる猫たちは、古くから人々と生活をともにしてきていたようです。
歴史をさかのぼって人々と猫の関係性を見ていくとともに、猫がモチーフになっている芸術作品にも触れていきましょう。

猫は昔から人間のそばにいた

一般的に、奈良時代に中国から仏教が伝えられた際に、経典をネズミから守るため、船に一緒に乗せられたのが、日本に猫が伝わった始まりとされていました。
しかし、近年、長崎県壱岐市のカラカミ遺跡で、イエネコとみられる動物の骨が発掘されたのです。貯蔵していた穀物をネズミや昆虫から守るために飼われていたと考えられています。

この発見により、今からおよそ2100年前の弥生時代には、日本に猫がいたのではないかとする説が濃厚になりました。
どちらにせよ古代日本では、愛玩目的ではなく書物や食料を守るために猫が飼われていたようです。

その後、平安時代には、現在の猫と同じように愛玩動物として飼われるようになりましたが、まだ数が少なく貴重な存在であったため、高貴な身分の人のみが猫を飼っていました。安土桃山時代から江戸時代にかけては、ネズミによる食料被害を減らすべく、猫を放し飼いにする作戦が実行されました。

猫による対策効果は高く、ネズミによる被害は減ったそうです。
しかし、猫が貴重な存在であることには変わりなかったため、本物の猫の代わりに猫の絵が重宝されていたとする史料もあります。

その後、縁起の良い動物として招き猫が誕生したように、猫は守り神としても親しまれていきました。庶民でも手の届きやすい存在になったころ、ネズミ駆除として多くの人々によって猫を飼うことが習慣化していきました。
江戸時代には、猫がモチーフになった浮世絵作品が多数制作されています。縁起物として親しまれてきた猫は、芸術のモチーフにもなり、長く人々から愛されてきたことがわかるでしょう。

猫を愛した浮世絵師、歌川国芳

歌川国芳は、浮世絵界きっての愛猫家として知られています。
明治期の浮世絵研究者・飯島虚心が書いた『浮世絵師歌川列伝』でも、歌川国芳の猫への溺愛ぶりが記録されています。
『浮世絵師歌川列伝』によると、歌川国芳は常に5・6匹の猫を飼っており、1・2匹の猫を懐に入れて暮らすほど、猫好きだったようです。

『枕辺深閏梅』(下巻口絵における国芳の自画像)歌川国芳
『枕辺深閏梅』(下巻口絵における国芳の自画像)歌川国芳[出典:wikipedia]

また、猫が亡くなったときは、供養を行うだけではなく、自宅には猫の仏壇が置かれていました。
猫への愛情が伝わる弟子とのエピソードがあります。
ある日、亡くなった猫の供養を弟子である歌川芳宗にお金を渡して頼みました。しかし、歌川芳宗は猫の亡骸を橋から捨てて、もらったお金を吉原の遊郭で使い果たしてしまいました。

供養に行ったふりをして帰ってきた歌川芳宗に対して、歌川国芳が猫の戒名を訪ねたことで、嘘がばれてしまいます。その後、芳宗は破門されたといいます。

 

無類の猫好きである歌川国芳は、猫をモチーフにした浮世絵も多数制作していました。
『其のまま地口猫飼好五十三疋』は、歌川広重の『東海道五十三次』をオマージュした作品です。
53の宿場町にちなんだダジャレとともに猫の姿が描かれており、思わず笑ってしまうユーモアあふれる作品です。
猫の描写や表現が豊かな作品たちは、いまもなお多くの人々に愛されています。

『行猫の狂言つくし』歌川国芳
『行猫の狂言つくし』歌川国芳

 

浮世絵に描かれた猫たち

江戸時代に流行した浮世絵には、猫を題材にした作品も多く存在します。
愛らしい猫が描かれた親しみのある作品から、浮世絵の世界を深めていくのもお勧めです。

豊原周延

作家名:豊原周延(とよはらちかのぶ)
生没年:1838年-1912年

 

豊原周延は別名・楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)ともいい、戊辰戦争で幕府側について戦った異色の浮世絵師として知られています。
幼少のころは狩野派で絵画技法を学び、その後は、渓斎英泉の門人から浮世絵を教わりました。のちに、歌川国芳や歌川国貞にも師事し、師の他界後は、歌川国貞の門人であった豊原国周から学びを受けます。

絵の学びを続ける中、幕末の戊辰戦争が勃発。
豊原国周は、江戸の高田藩士で結成された神木隊として上野戦争に参戦しました。
その後、箱館戦争を戦うなど激動のときを過ごしたのでした。そのため、本格的に浮世絵師として活動できたのは、40歳を過ぎてからでした。
優美な美人画や躍動感ある役者絵、戦争絵、時事画題、歴史画などさまざまなジャンルを描き、明治という時代を彩っていきます。

『猫』揚州周宜[出典:江戸東京博物館]
『猫』揚州周宜[出典:江戸東京博物館]

色鮮やかな着物を着た女性と子ども、そしておもちゃに戯れる猫の姿が描かれています。猫は、紐でくくられているようにも見え、おそらく飼い猫であることが分かります。

一筆斎文調

作家名:一筆斎文調(いっぴつさいぶんちょう)
生没年:不詳

一筆斎文調は、1760年ごろから浮世絵を描いていた浮世絵師といわれています。
もとは狩野派の石川幸元の門人とされており、のちに浮世絵へ転向した絵師です。
勝川春章と『絵本舞台扇』を共作し、これまでの形式化した役者絵に新しい風を吹かせたとして高い評価を受けています。
浮世絵作品の数は少なく、とりわけ肉筆画は、ほとんど残されていません。

『(不明)』一筆斎文調
『(不明)』一筆斎文調[出典:演劇博物館デジタル]

一筆斎文調の描いたこの絵には、足元に小さな子猫がいます。江戸の暮らしには、猫が人々とともにいたことが分かる作品といえるでしょう。

鈴木春信

作家名:鈴木春信(すずきはるのぶ)
生没年:1725?年-1770年

 

鈴木春信は、錦絵の誕生や発展に大きく貢献した浮世絵師として知られています。錦絵が誕生するまでは、紅摺絵の技法を用いて浮世絵を制作していました。
鈴木春信は、浮世絵を制作しながら、近所に住む発明家の平賀源内と交流を持ち、ともに錦絵の技術研究を行っていたといわれています。版元からの資金援助も受け、錦絵の手法の発展に力を注いでいきました。

多色摺りの技術向上を続けていた鈴木春信の版木を譲り受けた版元は、暦や依頼者の名前を削り取り印刷して販売します。
この浮世絵が錦織のように鮮やかで美しかったことから、錦絵と呼ばれるようになりました。

 

『(不明)』鈴木晴信
『(不明)』鈴木晴信[出典:ボストン美術館]

鈴木晴信もまた、江戸の人々と暮らす猫を描いています。この作品では、子どもが猫を抱える様子が。猫の首には首飾りらしきものがつけられており、飼い猫であろうことが想像できます。

歌川國貞

作家名:歌川國貞(うたがわくにさだ)
生没年:1786年-1865年

歌川国芳は、江戸時代末期に活躍を見せた絵師で「奇想の絵師」とも呼ばれています。
小さいころから絵の才能があり、7・8歳ごろには、江戸中期の浮世絵師である北尾重政や北尾政美の絵を集めた本を好んで読んでいたそうです。
このころから絵の勉強は始まっており、著名な絵師の作品を模写する中で、浮世絵の技術を身に付けていきました。

歌川国芳が大衆からの人気を集めたのは、決して早くなく30歳のころでした。
明代中国の小説・水滸伝をモチーフにした連作浮世絵『通俗水滸伝豪傑百八人之一人』が大ヒット。
その後も、ユーモアあふれる作品を数多く生み出していきました。

『娘と猫』歌川國貞
『娘と猫』歌川國貞[出典:歌川國貞]
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