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「江戸のメディア王」蔦屋重三郎の功績とは
浮世絵制作における、版元の役割 江戸時代、版元は現代の出版社やプロデューサーに匹敵する存在でした。 浮世絵の企画から販売まで、全工程の采配を振るい、時代の空気を読みながら魅力的な作品を世に送り出しました。 制作工程において、版元は絵師をはじめとするチームをとりまとめるプロデューサー。企画に最適な絵師を選定し、下絵から版木の制作、摺りに至るまで、熟練の職人たちを指揮していきました。その目は常に品質に向けられ、一枚一枚の仕上がりにこだわりを持って臨んでいました。 販売戦略においても、版元は卓越した手腕を発揮しました。 新作の宣伝から価格設定、流通網の確立まで、緻密な計画を立てて展開していきました。都市部で生まれた浮世絵は、版元の築いた販売網を通じて、多くの人々の手に渡ることになるのです。 さらには、人材発掘の目利きとしても、版元は傑出した才能を持っていました。 蔦屋重三郎が喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出したことは、その代表例と言えるでしょう。文化人との交流を通じて、常に新しい才能の発掘に心を砕いていました。 浮世絵は、江戸時代の庶民文化を映す鏡でもありました。 歌舞伎役者の似顔絵や名所の風景画を通じて、人々の暮らしに彩りを添えていきました。版元は、そうした文化的価値の創造者としての役割も担っていたのです。 今日の私たちも知る有名な作品もあります。例えば『大谷鬼次の奴江戸兵衛』(東洲斎写楽)や『東海道五十三次』(歌川広重)なども、当時から現代にいたるまで多くの人に愛される浮世絵作品の代表でしょう。 しかし、時には幕府の規制との綱引きもありました。 版元たちは、その才覚と創意工夫で乗り越えていきました。蔦屋重三郎が寛政の改革後に示した復活力は、その典型と言えるでしょう。 このように版元は、単なる事業者を超えた、江戸文化の担い手でした。彼らの存在があってこそ、浮世絵は日本が世界に誇る芸術として、今日まで輝き続けているのです。 江戸のメディア王と呼ばれた蔦屋重三郎 版元のなかでも特に有名なのは、やはり蔦屋重三郎でしょう。 江戸時代中期から後期にかけて、「江戸のメディア王」として君臨した蔦屋重三郎。その名は、優れた目利き力と革新的な企画力、そして縦横無尽のネットワークによって、数々の才能を世に送り出した版元として、今なお色褪せることがありません。 江戸の人々の心を掴んだ重三郎の手腕は、まさに慧眼そのものでした。 吉原遊郭で生を受けた彼は、後に書物商として身を立てますが、この生い立ちこそが、江戸の庶民文化への深い洞察力を育んだのです。浮世絵、洒落本、黄表紙本―――。次々と世に送り出される作品は、江戸っ子たちの心を見事に掴んでいきました。 彼の転機は喜多川歌麿との出会いにありました。北川豊章の名で活動していた歌麿は、確かな才能を持ちながら、人見知りゆえに日の目を見ることがありませんでした。重三郎は歌麿を吉原の狂歌の会に誘い、即興での挿絵を披露させます。この一手で歌麿の名は狂歌師たちの間に広まり、1788年の『画本虫撰』で、ついに時代の寵児となったのです。 『画本虫撰』は、植物や虫、蛇、蛙を精緻に描き、人気狂歌師たちの歌を添えた多色摺りの絵本でした。歌麿の繊細な筆致と贅を尽くした彫摺技術は、読者を魅了せずにはおきません。 重三郎は更なる高みを目指し、歌麿に春画の制作を依頼。『歌まくら』と名付けられたその作品は、江戸の人々の度肝を抜く傑作となりました。 東洲斎写楽もまた、重三郎が見出した逸材の一人です。 写楽の役者絵は、大胆不敵な構図と表現力で一世を風靡。重三郎は28枚もの作品を一気に発表するという斬新な手法で、写楽の名を轟かせたのです。 葛飾北斎、歌川広重といった風景画の巨匠たちの作品も、重三郎の手によって世に送り出されました。さらには山東京伝、十返舎一九といった戯作者の著作も手がけ、江戸の町人文化に新たな息吹を吹き込んでいきます。 重三郎の真骨頂は、才能の発掘だけでなく、その才を最大限に引き出す企画力にもありました。歌麿の美人大首絵シリーズは、その代表例と言えるでしょう。胸から上を大きく描くという斬新な構図で、様々な女性の姿を見事に描き分け、大きな反響を呼びました。 幕府の規制にも巧みに対応した重三郎。寛政の改革で財産の半分を没収される苦境に立たされても、持ち前の創意工夫で見事に復活を遂げています。 その成功の礎には、広大なネットワークの存在がありました。蔦唐丸の名で狂歌師としても活動した重三郎は、文化人との交流を深め、その人脈を活かして次々と新しい才能を世に送り出していきました。 重三郎の功績は、単なる商業的成功だけではなく、江戸時代後期の文化芸術を大きく発展させ、現代でも高く評価される浮世絵の黄金期を築き上げたことだといえるでしょう。その慧眼と企画力、深い文化的造詣は、江戸の出版界に革新をもたらし、庶民の娯楽文化を豊かなものへと変えていきました。 蔦屋重三郎の功績は現代にまで続く… 1797年、48歳という若さで脚気により世を去った重三郎。その事業は番頭の勇助に引き継がれ、「蔦屋重三郎」の名は4代目まで続きます。現代の「TSUTAYA」は直接の子孫による事業ではありませんが、創業者が重三郎の精神に範を求めたという事実は、彼の影響力の大きさを物語っているのではないでしょうか。 蔦屋重三郎――。彼は単なる商人ではありませんでした。卓越した目利きと革新的な企画力を持ち、江戸文化の発展に大きく寄与した、まさに「江戸のメディア王」だったのです。その存在は、江戸時代の出版文化や芸術の隆盛に欠かすことができず、その精神は時代を超えて、今なお私たちの心に響き続けているのです。
2024.12.28
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江戸時代の庶民はどんな食事をしていた?
江戸時代は、肉食が禁止されており、今のように食の多様性は見られないため、庶民がどのような食事をとっていたかイメージが湧きづらい人も少なくないでしょう。 江戸時代における庶民の食事がどのようなものだったのか、当時の庶民の生活を色濃く描いていた浮世絵を通じて知れる場合があります。 江戸時代の庶民はどんな食事をとっていた? 肉食が禁止され、食品加工技術が今ほど発達していなかった江戸時代において、庶民はどのような食事をとっていたのでしょうか。 冷蔵庫もなければ冷凍庫もないため、食品の長期保存もできず、現代より食べられるものが限られている印象があります。 ご飯を炊くのは1日1回 江戸時代では、主食であるご飯を炊くタイミングが1日1回だったようです。 江戸時代の食事スタイルは、江戸時代初期においては朝夕の1日2食でした。 江戸時代中期の元禄年間には、この食事スタイルが変化し、現代にも通じる1日3食に定着したようです。 しかし、庶民の居住スペースである長屋は、土間含め6畳程度しかなく、調理スペースがかなり限られていたことは、想像に難くありません。 また、燃料も十分に備蓄できていなかったと考えられます。 薪だけでなく、燃やせるものは、古雑巾でも燃やして燃料にしていたと記録に残っているほどです。 そのため、燃料代の節約やスペースの関係上、炊飯は1日1回に留めていたようです。 食事の基本「一汁一菜」 食事は、基本的に一汁一菜の構成だったようです。 現代でも大体同じようなものと思いがちですが、実際は大きく内容が異なります。 ご飯にお味噌汁、漬物の3点が基本セットで、ときどきおかずが1品追加されていました。 食事のタイミングは、朝食が7時ごろ(明け六つ)、昼食が12時ごろ(昼九つ)、夕食が19時ごろ(暮れ六つ)とされており、食事中に白湯やお茶を飲む習慣はなかったようです。 とはいえ、食事内容は基本的に粗食で構成されており、漬物の種類はたくあん、梅干し、ぬかみそ漬け、なすび漬けなどをルーティンで回すことがほとんどでした。 奉公人に仕える町人でも、基本の3セットにおかずのイワシが一皿あった程度です。 商家の丁稚は、昼にひじきや油揚げの煮つけが着く程度、武家に関しても庶民と大きく内容が変わらなかったことから、現代と比較すると、いかに食事の内容が少ないものだったかがわかります。 醤油や砂糖、出汁…調味料が普及したのもこの頃 江戸初期までは調味料が普及しておらず、味付けの中心は塩や酢、味噌でした。 元禄年間に至ると醤油や砂糖、みりんや鰹節が普及するようになります。 結果として、さまざまな煮物料理が作られるようになりました。 現代では、マヨネーズやケチャップ、ドレッシングなどさまざまな調味料で溢れかえっていることを考えると、調味料の観点からも食生活が大きく異なっているとわかります。 江戸においては、肉体労働者が多く、味付けは、塩辛いものが好んで作られていたようです。 醤油も基本的には、薄口醤油が広く普及しており、濃口醬油は、関西からの下りものとして入手困難でした。 時代が進むと銚子や野田などで地の濃口醬油が製造されるようになったため、一気に庶民に広まったようです。 また、鍋で加熱調理するような調理方法(煮物、茹で物、汁物)が多く、魚のような高級食品は、裕福な家庭であったとしても2週間に1回程度でした。 調味料が普及したとしても、食事の内容は大きく変わらなかった印象を受けます。 飲食店や居酒屋まで! 食生活は、質素であったにもかかわらず、江戸時代にはすでに、飲食店や居酒屋までそろっていたというから驚きです。 江戸時代末期においては、鮨やそば、ウナギなどの屋台とともに、天ぷらの専門屋台が出店され、食文化の多様性が見られます。 また、それまでは屋台が中心でしたが、つまみを食べながら酒を飲むような居酒屋スタイルも増えていき、近代になるにつれて今はなじみのある外食文化が形成されました。 店舗型の飲食店としては、煮物を食べさせる煮売り屋、四文でなんでも食べられる四文屋などバラエティに富んだ店舗が運営されていた記録が残っています。 また、居酒屋の元祖は、神田川沿いで営業が始まった豊島屋とされています。 浮世絵に描かれた食事やその風景 庶民の生活を描いた浮世絵では、食事やその風景はどのように表現されていたのでしょうか。 代表的な作品を通じて当時の状況への理解を深めましょう。 『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』歌川広重 歌川広重の『東海道五拾三次之 鞠子 名物茶店』は、道中の丸子宿で名物のとろろ汁をおいしそうに楽しんでいる人が描かれています。 酒、さかなの看板も見られることから、当時の外食文化の一面を感じられます。 『春の虹蜺』歌川国芳 歌川国芳は『春の虹蜺』と題して、ウナギを頬張るはつらつとした女性を鮮やかな色彩で表現しています。 土用の丑の日は、江戸時代に始まった文化とされているため、流行り始めたころの女性を捉えた作品であると推察できるでしょう。 『魚づくし』歌川広重 歌川広重が『魚づくし』の中でキンメダイやスズキを躍動感に溢れたタッチで表現しています。 ご飯・汁物・漬物ばかりの食事の中で魚は高級品です。 食材としての魅力に溢れた印象的な作品といえます。 江戸時代の食事の様子は浮世絵でも楽しめる 江戸時代の庶民における食事内容や食事の特徴について紹介してきました。 現代とは異なる食事内容だったため、改めて知ることで驚きがあったのではないでしょうか。 また、絵画を通じて具体的に当時の暮らしぶりを知ることは、江戸時代への興味関心を高めることにもつながります。 当時の生活状況を把握できる浮世絵は、歴史の史料的な価値や芸術的価値に富んだ貴重なもの。浮世絵を鑑賞するときは、こうした浮世絵のなかの登場人物一人ひとりの様子を見てみるのも面白いかもしれませんね。
2024.12.01
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広重の浮世絵に隠された遊び心「ヒロ」の文字を見つけられる?
現代では、芸術作品としての価値が高い浮世絵作品ですが、制作されていた江戸時代では、大衆から愛された娯楽でもありました。 役者絵や美人画、風景画などさまざまなジャンルがあり、有名な浮世絵師も数多く誕生しています。 中でも、歌川広重は風景画で人気を集め、のちに海外でも高く評価された浮世絵師の1人です。 名浮世絵師・歌川広重 歌川広重 生没年:1797年-1858年 代表作:『名所江戸百景』『東都名所』『東海道五十三次』 歌川広重とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている人物です。 19世紀後半のヨーロッパ美術家で流行したジャポニズムのブームを巻き起こしたきっかけの一つが、歌川広重の浮世絵であったといわれています。 現代では、歌川広重の作品を見たり聞いたりしたことがある人も多いでしょう。 しかし、江戸時代当時の歌川広重は、下積み時代が長く、出世作となる『東都名所』を描いたときすでに35歳になっていました。 名所絵により、江戸時代の民衆に旅行ブームを引き起こした歌川広重ですが、実は浮世絵師として活動し始めたころは、名所絵ではなく役者絵や武者絵、美人画などを手がけていたのです。 そのため、本来の才能を発揮する場がなく、注目を浴びるタイミングが遅れたといえるでしょう。 得意とする名所絵の『東都名所』をきっかけに、歌川広重の名は江戸中に知れ渡るようになりました。 歌川広重はこの作品を発表したのち、多くの名所絵を手がけるようになっていったのです。 名作『東海道五十三次』の楽しみ方 歌川広重の名作『東海道五十三次』は、道中の風景や人物、生き物などの魅力を伝えてくれる作品です。 作品数も多いため、人によってさまざまな楽しみ方ができるでしょう。 『東海道五十三次』とは 『東海道五十三次』とは、1833年、歌川広重が37歳のときに刊行した作品です。 江戸時代に入ると、徳川家康の命により国内の道路整備が進んでいきました。 最も人の往来が多かった東海道も整備され、江戸の日本橋から京都の三条大橋までの約500kmの道のりを、2週間で旅できるようになりました。 歌川広重は、1832年に徳川幕府の八朔御馬進献の一行につき、東海道を江戸から京都へと旅しています。 『東海道五十三次』は、歌川広重が江戸へ帰ったあとに発表されています。 この作品は、大人気を博し、歌川広重を名所絵の第一人者にまで押し上げました。 『東海道五十三次』に描かれた、町や人々 『東海道五十三次』には、日本橋から京都までにある53の宿場町と日本橋、京都を含むあわせて55枚の絵で構成されています。 それぞれの浮世絵には、東海道中の名所や自然、名物、伝承などが描かれています。 また、四季の移り変わりや天気によって表情を変える風景を抒情的に描いているのが特徴的です。 『東海道五十三次』は、風景画ではありますが、景色だけではなく当時の人々の暮らしもあわせて描かれています。 朝、昼、夜と時間帯によって変わる人々の生活や宿場町の賑わいの様子は、旅行に憧れる庶民から高い人気を集めていました。 現代でも、江戸時代の人々の営みや街並み、服装、職業などを知るための史料としても活躍しています。 『東海道五十三次』は、実際にある風景を題材に描かれています。 そのため、現代の景色と江戸時代の景色を見比べてみるのも面白いでしょう。 よく見ると「ヒロ」の文字が!広重の遊び心 『東海道五十三次』作品の一つに『鳴海 名物有松紋』があります。 この作品は、愛知県の鳴海にある有松・鳴海絞と呼ばれる名産の絞り染めの商店が描かれています。 絵の左側に構えているお店の暖簾に、ひし形のマークが描かれており、よく見てみると絵を描いた本人である歌川広重の家紋になっているのです。 この紋は、歌川広重が自ら思案したもので、外側のひし形が「ロ」、中に描かれているのが「ヒ」となっており、カタカナで「ヒロ」を表現しています。 ユーモア溢れるデザインで、歌川広重の遊び心がうかがえます。 この作品のほかにも「ヒロ」の文字を取り入れた広重の作品はいくつもあります。こうした広重のちょっとした遊び心…浮世絵を鑑賞するときに探してみるのもいいかもしれませんね。 手に取って鑑賞できた浮世絵だからこその楽しみ方も 江戸時代当時に描かれていた浮世絵は、大衆が楽しめる娯楽であり芸術作品でした。 浮世絵師が、自分たちの作品に残した遊び心を探すのも、当時の民衆にとって楽しみ方の一つでもあったといえるでしょう。 歌川広重が描いた『東海道五十三次』では、ヒロのような遊び心がほかにも隠れていないか探してみたり、聖地巡礼しながら現在の風景と見比べてみたりなど、さまざまな鑑賞の仕方を楽しみましょう。
2024.12.01
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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花鳥画浮世絵を高く買取してもらおう | 高額査定のコツやポイントまで
江戸時代ごろから人気を集めているジャンル「浮世絵」。 さらに、そこから複数のテーマに分類され、さまざまな題材が描かれている浮世絵が誕生しています。 現代でも人気のジャンルの一つが、花鳥画浮世絵です。 有名浮世絵師が描いた作品も多く残されており、作家や作品によっては高価買取が狙えます。 浮世絵の美しい花鳥画…高額買取してもらえる? 浮世絵の中でも寛政期以降に人気を広げた花鳥画浮世絵。 浮世絵は、日本画の中でも人気なジャンルの一つで、さらにさまざまなテーマに分かれています。 武将絵や美人画、役者絵、風景画、花鳥画など題材が豊富なのも特徴の一つです。花鳥画浮世絵も人気ジャンルの一つで、作品や作家によって買取価格が高くなると予想されます。 買取時に価値の把握ができるよう、花鳥画浮世絵がどのようなものか知り、高価買取のポイントを押さえることが大切です。 花鳥画浮世絵とは そもそも浮世絵とは、江戸時代から大正時代に描かれた町人の日常生活を表現した絵のことです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、その一つが花鳥画浮世絵です。 花鳥画そのものは、花や鳥、昆虫などをモチーフにした絵画を指します。 花鳥画の起源は、六朝時代の中国です。 宋時代以降には、民間の間で寓意を取り入れた花鳥画が広がりを見せます。 日本では、平安時代ごろから花鳥画の制作が始まり、南北朝時代には、禅僧による水墨画の花鳥画が描かれるようになりました。 その後、室町時代に色鮮やかな花鳥画が誕生し、隆盛期を迎えます。 桃山時代には、日本ならではの様式が確立され、江戸時代中期ごろからは、写実的な作品が多く制作されるようになりました。 花鳥画浮世絵は、俳諧や狂歌などの当時の文芸との関係性が深かったため広がりを見せました。寛政期を境に、当時の浮世絵2大ジャンルであった美人画と役者絵は、徐々に後退しています。 のちに風景画や花鳥画などがメインとなった浮世絵が多く描かれるようになりました。 花鳥画浮世絵は高く売れる? 江戸時代に暮らす人々の生活を描いた浮世絵には、ジャンルがさまざまあり、花鳥画浮世絵もその一つです。 花鳥画浮世絵は、日本だけではなく海外からも高く評価されている絵画で、作品によっては高価買取が狙えます。花鳥画浮世絵の価値は、描いた絵師が誰であるかも大きく関係しています。 歴史的に有名な絵師が描いた花鳥画浮世絵であれば、高値で買い取ってもらえることも。描いた絵師を確認するためには、落款やサインをチェックしましょう。 また、鑑定書や付属品がある場合は、一緒に査定に出すと評価が上がります。 有名絵師が描いた花鳥画浮世絵ほど、偽物も出回っています。 そのため、自宅にある花鳥画浮世絵の真贋や価値を知りたい方は、プロの査定士への査定依頼がお勧めです。 著名な浮世絵師も花鳥画を描いた 江戸時代の始まりとともに町民の間に広がりを見せた浮世絵。 日本絵画の一つでジャンルもさまざまあります。 有名な浮世絵師も花鳥画浮世絵を多く手掛けています。花鳥画浮世絵を描いた有名浮世絵師は、西村重長・歌川広重・小林清親などです。 有名な浮世絵師と人気作品をチェックし、自宅にある花鳥画浮世絵は、高価買取してもらえるかの判断材料にしましょう。 江戸時代初期に活躍した、西村重長 作家名:西村重長(にしむらしげなが) 代表作:『新吉原月見之座舗』『竹田新からくり』 生没年:1697年?-1756年 西村重長は、江戸時代の初期に活躍した浮世絵師です。 鳥居派の中でもとくに鳥居清信風の漆絵による役者絵を描いていました。その後は、西川祐信や奥村政信風のテイストも取り入れ、漆絵美人画や浮世絵、花鳥画、歴史画、風景画などの紅摺絵も描いています。 西村重長は、多彩な浮世絵師で墨線を使わず、紅、黄、緑、鼠色で摺った無線絵の一種である「没骨の水絵」と呼ばれる技法の作品も多く描きました。それらの作品は、のちに石川豊信・鈴木春信・礒田湖龍斎らの画風にも影響を与えたといわれています。 また、江戸通油町(現・東日本橋)の地主でもあり、晩年は神田で古書店を開業しています。 西村重長は、多くの浮世絵作品を手掛け、花鳥画浮世絵も描いたとされていますが、現代まで残されている作品は少ないのが現状です。 歌川広重の描いた、花鳥画 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『名所江戸百景 水道橋駿河台』『東都名所 日本橋之白雨』 生没年:1797年-1858年 歌川広重は、多くの人気風景画を残していることで有名ですが、実は花鳥画も多く手掛けています。その数は数百点にものぼるといわれており、多くの作品が短冊型で制作されています。 歌川広重が描く花鳥画浮世絵の特徴は、静止画でありながらも躍動感のある生き生きとした鳥の描写です。 ツバメやカワセミ、千鳥などが飛翔する様子や枝にとまった瞬間の様子、身体をさかさまにして枝にぶら下がる様子など、さまざまなシチュエーションの鳥を描いています。歌川広重が描いた花鳥画浮世絵には『水葵に鴛鴦』『萼あじさいに川蝉』などがあります。 ”最後の浮世絵師”小林清親の描いた、花鳥画 作家名:小林清親(こばやしきよちか) 代表作:『東京五大橋之一両国真景』『於黄海我軍大捷第一図』 生没年:1847年-1915年 小林清親は、15歳の時に父が亡くなったことをきっかけに元服して家督を継ぎ、幕臣となりました。 第15代将軍徳川慶喜のもとで多くの合戦に参加しています。 その後、江戸幕府がなくなると、母親とともに徳川慶喜らを追って静岡に移住しました。母が亡くなった27歳ごろには、東京に戻り絵師としての活動を本格化させました。 西洋画家に師事したといわれていますが、誰に師事したかは明確になっておらず、一説では、イギリス人の風刺画家「チャールズ・ワーグマン」に師事していたといわれています。 小林清親の本格的なデビューは、1876年と明治時代に入ってからでした。 風刺画や風景画を多く手掛けていた小林清親ですが『鶏と蜻蛉』『柿に目白』など花鳥画も描いています。 人気の花鳥画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 現代でも人気の高いジャンルの一つである花鳥画浮世絵。 多くの有名浮世絵師によって描かれており、作品や作家によっては、高価買取が狙えるでしょう。高価買取を狙いたい方は、まず手持ちの花鳥画浮世絵が、どの浮世絵師によって描かれているかのチェックがお勧めです。 また、買取価格には、作品の保存状態も大きく影響します。 破れやシワ、シミなどが目立つ状態だと、買取価格は下がってしまうでしょう。作品の買取を考えている場合は、保管方法にも気を遣うことが大切です。 自宅に眠っている花鳥画浮世絵がある方は、ぜひ一度プロの査定士へ査定を依頼してみてくださいね。
2024.08.13
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世界を魅了し続ける、美しい浮世絵のベロ藍
浮世絵の魅力の一つとして、水や空の鮮やかな色彩表現があります。 これを可能にしたのが、ベロ藍とよばれる人工顔料です。 ベロ藍は、世界を魅了し続ける日本の浮世絵の表現を発展させるために欠かせないものでした。 歴史や特徴を知るとともに、用いられている作品の魅力を探っていき、浮世絵に対する興味をより深めていきましょう。 透明感ある美しい青、ベロ藍 浮世絵師の歌川広重(うたがわひろしげ)や葛飾北斎(かつしかほくさい)の作品にみられる鮮やかなブルーの発色に見入られた人も多いのではないでしょうか。 この2人の有名浮世絵師をはじめとした数多くの浮世絵作品に、鮮やかなブルーの発色を示す「ベロ藍」が用いられています。 ベロ藍とは ベロ藍とは、江戸時代に海外から輸入されてきた人工顔料です。 18世紀初頭ごろにドイツ・ベルリンの染料業者が偶然発見したといわれています。 化学的な合成顔料で、日本には、1747年に初輸入されたこの顔料は、別名・プルシアンブルーともよばれています。 発見された地名の名をとってベルリン藍とよばれていたのが、省略されてベロ藍となりました。 これまで日本で用いられていた青は、植物系のつゆ草や本藍でしたが、ベロ藍のような透明感あふれる青色ではありませんでした。 植物由来の顔料は、発色や色の定着がしにくかったため、空や海の表現が難しかったといえます。 ベロ藍は、水に良く溶けて鮮やかな発色を示しながらも、濃淡により遠近感を表現しやすい特徴があります。また、変色しにくいことも重宝された理由の一つです。 ベロ藍が日本に輸入されたことで色彩の種類が増え、浮世絵版画の表現を大きく広げたといえるでしょう。 鮮明でさわやかな藍色は、見る人の心を魅了しました。 北斎の浮世絵に欠かせなかった、ベロ藍 作家名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 代表作:『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『冨嶽三十六景 相州七里浜』 葛飾北斎は、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師の一人で、今もなお日本だけにとどまらず、海外からも高い評価を受けている人物です。勝川春章の門下に入り師事を受けつつも、狩野派や土佐派、堤等琳、西洋画、明画など、さまざまな画風を学びます。葛飾北斎の画風が多彩かつ高度であったのは、多くの流派や絵画から学びを得ていたからといえるでしょう。 葛飾北斎の作品にも、海外から輸入されてきたベロ藍が使用されています。 ベロ藍を用いた代表的な作品は、『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』と『冨嶽三十六景 相州七里浜』などです。 『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』は、躍動感ある波とその荒波に向かっていく小舟、そして波の後方に富士山を描いた、遠近感による迫力が見どころの作品です。この浮世絵に描かれている小舟は、押送船とよばれるもので、漁場で獲った鮮魚を輸送するために利用されていました。 静と動を意識させる魅力的な作品『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』では、水しぶきをあげる大きな青色の波や海にベロ藍が用いられています。 また、1色ではなく濃淡の異なる2つのベロ藍を摺り重ねて、巧みに波を立体的に表現している点も特徴の一つです。 『冨嶽三十六景 相州七里浜』でも、ベロ藍が用いられています。 この作品は、『冨嶽三十六景』シリーズ初期の藍摺りで、北斎にしては珍しく人物が描かれていない風景画です。 鎌倉市街の西はずれにある砂浜・七里ヶ浜から、江の島越しに富士山を望んだ風景を描いています。『冨嶽三十六景』ベロ藍のみを用いて、濃淡により情景を表現している特徴があります。 広重の浮世絵でも印象的なベロ藍 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『東海道五十三次 江尻宿 三保遠望』『名所江戸百景 増上寺塔赤羽根』 歌川広重は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、当時人気を集めていた名所絵を描いていたことで有名です。 歌川広重が描いた『東海道五十三次』シリーズは、現在でも人気のある作品で、不朽の名作といえるでしょう。 風景画として描かれた東海道の景色は、制作当初から人々の注目を浴びており、江戸に旅行ブームを引き起こしたともいわれています。 また、歌川広重の浮世絵は、葛飾北斎の作品と同様に海外でも人気を集め、ヨーロッパ美術界に巻き起こったジャポニスム文化の火付け役にもなりました。 数々の有名風景画を残している歌川広重の作品でも、ベロ藍が用いられています。 代表的な作品は、『東海道五十三次 江尻宿 三保遠望』『名所江戸百景 増上寺塔赤羽根』などです。 『東海道五十三次 江尻宿 三保遠望』では、現実の色に捉われることなく、自由な発想で浮世絵を彩っていく歌川広重の特徴が大きく活かされています。 空が黄色のグラデーションになっており、水面はさわやかな藍色で表現されています。 『名所江戸百景 増上寺塔赤羽根』は、増上寺の五重塔越しに、古川と赤羽橋という有馬家に存在した2つの名所を望んだ作品です。 この作品には、鮮やかな赤や黄色、藍などさまざまな色が用いられており、色彩豊かな特徴があります。真っ赤な増上寺の横を一直線に流れる、ベロ藍を用いて摺られたさわやかな藍の川が流れています。全体的に発色がよく華やかな印象を与える一枚です。 ベロ藍で浮世絵はより美しくなった 江戸時代に浮世絵が誕生した当初は、墨一色から始まりました。 墨の濃淡により巧みに表現していた時代から、紅や緑をメインとした数色で摺る紅摺り絵が誕生します。 その後、多様な色彩を用いた錦絵に発展していきます。錦絵の浮世絵をより人気の高い芸術作品に押し上げたのが、ベロ藍であるといっても過言ではありません。 当時日本にはなかった鮮やかな発色をするベロ藍は、浮世絵における海や川、空などの青色を表現するために重宝されました。 ベロ藍の登場により、浮世絵の色彩表現が豊かになり、数々の名作が誕生したといえるでしょう。 また、ベロ藍を用いた色鮮やかで美しい浮世絵は、海外でも高い評価を受けるとともに、海外の有名画家にも大きな影響を及ぼしました。 ベロ藍が表現する海や空を観賞しよう 江戸時代から続く浮世絵は、ベロ藍の登場により表現の幅が広がり、多くの有名作品が誕生しました。 透明感ある鮮やかな藍色は、水や空の表現を多彩なものにしたといえます。 世界中で評価を受けている葛飾北斎や歌川広重も、ベロ藍を用いた多くの名作を残しています。 いまやベロ藍は、日本の浮世絵を代表する魅力のひとつといえるでしょう。 ジャパンブルーともよばれ世界を魅了するベロ藍を、多くの有名浮世絵作品の鑑賞により楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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浮世絵のぼかしが表現する、空や時間のグラデーション
多くの浮世絵作品で美しく表現されているグラデーションは、摺師の技術により描かれています。主に天候や時間、季節を表すために用いられるぼかしの技術。この技術が絵師の描いた原画に命を吹き込んでいるともいえます。芸術的な美しさを表現するために欠かせないぼかしの技術について知見を深め、浮世絵鑑賞をより楽しめるようにしましょう。 浮世絵のグラデーション技法、「ぼかし」とは 浮世絵の摺りの技術で「ぼかし」と呼ばれるものがあります。浮世絵の色をぼかしたい部分の版木に水を含ませた布や刷毛をあてて濡らし、その上に絵具をおいてにじんできたところで紙に摺る技法です。この技法により、上から下へ徐々に色が薄くなっていく美しいグラデーションを表現できます。ぼかしの技術は、手法によりいくつかに種類が分かれています。 板ぼかし 板ぼかしとは、版木そのものに手を加える技法です。色面を出すための版木の部分を、平刀で斜めに彫ることで、紙につく色が平均的にならないようにします。摺ったときに自然なグラデーションの表現が可能です。 吹きぼかし(一文字ぼかし、天ぼかし) 吹きぼかしは、摺りの技法によるグラデーション表現の一種です。版木の上端に水平かつ直線的なぼかしを入れ、主に空を表現するぼかしを一文字ぼかしや天ぼかしといいます。 ぼかしによるグラデーションは、絵にメリハリをつけたり、奥行き感を出したりするために用いられていました。グラデーションの配色によって季節や時間、天候などの表現も可能です。鮮やかな青色で晴天の様子を、朱を用いれば夕焼けの様子、墨で描くと冬や雪、雨、夜などを表現できます。ぼかしによる美しいグラデーションは、浮世絵の魅力や可能性を広げる技法といえます。 ぼかしの技術は、摺師の腕の見せ所 吹きぼかしは、摺りの技法によるグラデーション表現の一種です。版木の上端に水平かつ直線的なぼかしを入れ、主に空を表現するぼかしを一文字ぼかしや天ぼかしといいます。 ぼかしによるグラデーションは、絵にメリハリをつけたり、奥行き感を出したりするために用いられていました。グラデーションの配色によって季節や時間、天候などの表現も可能です。鮮やかな青色で晴天の様子を、朱を用いれば夕焼けの様子、墨で描くと冬や雪、雨、夜などを表現できます。ぼかしによる美しいグラデーションは、浮世絵の魅力や可能性を広げる技法といえます。 葛飾北斎『冨嶽三十六景 凱風快晴』 葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『冨嶽三十六景 凱風快晴』でも、美しいグラデーションが表現されています。日本人になじみ深い富士山が、赤く染まっている様子を描いた作品です。富士山の赤と空の藍のコントラストが印象深い作品ですが、実はグラデーションにより立体感が表現され、迫力のある印象を生み出しているのです。 作品の上部から帯状にぼかしを入れることで、空の広がりを表現しています。また、地平線部分にも淡いぼかしを入れることで奥行き感が出ています。富士山の自然の美を際立たせているのは、ぼかしによるグラデーションであるともいえるでしょう。 歌川広重『江戸名所百景 大はしあたけの夕立』 隅田川にかかる大はしを俯瞰で描いた『江戸名所百景大はしあたけの夕立』。突然の雨に降られるなか、橋を渡る人々の光景を描いた作品です。歌川広重(うたがわひろしげ)による浮世絵作品で、こちらにもぼかしによるグラデーションがうまく利用されています。作品上部には、摺師による当てなぼかしの技術により漆黒の暗雲が表現されており、激しい雨が降る悪天候が見て取れるでしょう。作品下部にもぼかし技法が取り入れられており、川の深さを濃い藍のグラデーションで表現しています。 『江戸名所百景大はしあたけの夕立』は、のちにゴッホが油彩模写で描いたことでも有名な浮世絵作品です。 実物の浮世絵を観賞すると、もっと「ぼかし」のすごさが分かる 浮世絵に用いられているぼかしによるグラデーションは、画像よりも実物を見るとよりその魅力に引き込まれます。摺師によるぼかしの技術のすごさや美しさを実感するためには、直接作品を鑑賞するのがお勧めです。ぼかし技法によるグラデーションで表現された、絵の背景を想像するのも楽しみ方の一つといえます。当時の技術が生んだ、美しい浮世絵の世界をぜひ見て楽しんでください。
2024.08.13
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北斎も広重も…シリーズで楽しませた、連作浮世絵の魅力
江戸時代から多くの人の心を魅了し続けている浮世絵。 1枚で完成する作品や和紙を2枚3枚と連ねて大きな作品を描く続絵、同じモチーフをさまざまな構図や構成で描く連作など、多種多様な作品が制作されています。 シリーズものとして大変人気を集めた連作の浮世絵作品も多く残されており、現在でも人気がある浮世絵ジャンルです。 連作浮世絵とは 連作浮世絵とは、1つのテーマに沿って制作されているシリーズ作品のことです。 名所絵や風景画、道中絵などお題を絞って制作されます。 同じテーマでもさまざまな表情を見せてくれる連作は、見る人を飽きさせない魅力のある作品で、多様な角度から描かれた作品を見比べながら楽しめます。 有名な連作浮世絵をぜひ観賞してみましょう。 歌川広重『東海道五十三次』 作家名:歌川広重(うたがわひろしげ) 代表作:『名所江戸百景』『東海道五十三次』 歌川広重は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、名所絵作品が有名です。 歌川広重が描いた数々の名所絵によって、江戸に旅行ブームが巻き起こったといっても過言ではありません。 歌川広重は、歌川豊広の門下に入って叙情的な作風を学んでいき、のちに名所絵の第一人者と呼ばれるほどの浮世絵師となります。 歌川広重の名作のひとつといえば『東海道五十三次』。 1833年ごろに制作された、日本橋から京都の間にある宿場町の風景を題材にした連作で、全55作品から成り立っています。 東海道中の名所や自然、名物、伝承などが、四季や天気の移り変わりとともに美しく表現された作品です。 また、時間帯までも描き分けており、そこで働き暮らす人々の活動や宿場町の賑わいの様子なども描いている点が魅力です。 叙情的な風景とともに、江戸時代を生きる人々の暮らしを描いた『東海道五十三次』は、当時の生活を知るための史料としても高い評価を得ています。 葛飾北斎『富嶽三十六景』 作家名:葛飾北斎(かつしかほくさい) 代表作:『北斎漫画』『富嶽三十六景』 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師の一人で、多彩な画風で人々を魅了していました。 その人気は日本国内だけにとどまらず、海外からも高い評価を受けています。 90歳で他界するまで、約3万点もの多くの作品を描き続けた葛飾北斎。 現代では、新紙幣のデザインに葛飾北斎が描いた『神奈川沖浪裏』が採用されることでも話題を集めました。 葛飾北斎は、さまざまな名前で活動していたり、同じ場所にとどまらず何度も引越しを繰り返したりしていたことでも有名です。 画号の変更は30回、引越しは93回したともいわれています。衣食住よりも絵を描くことを優先していた葛飾北斎は、家事をまったくしなかったために家の汚れが限界を迎えると、引越しをしていたといわれています。 葛飾北斎は、勝川春章の門人でしたが、ほかの流派である狩野派や土佐派、堤等琳、西洋画、明画などからも絵の技法や画風を学んでおり、のちの多彩な画風の礎を築いたといえるでしょう。一説には、ほかの流派を学んだことで破門されたともいわれています。 葛飾北斎の名作といえば、1831年ごろに制作された『富嶽三十六景』です。 三十六景としていますが、裏富士と呼ばれる10作品を加えた全46作品で構成された浮世絵の連作です。 この作品では、さまざまな地域や季節、時間帯、構図、色彩で富士山が描かれていますが、すべての作品が実在する構図で描かれているわけではありません。 葛飾北斎の独創的な視点から描かれた富士山も多く、デザイン性に富んだ作品が人々を魅了しました。 また、『富嶽三十六景』の中でもとくに有名なのが『神奈川沖浪裏』ではないでしょうか。 日本国内のみならず海外からも高い評価を受けているこの作品の魅力は、荒々しく大胆な大波と富士山の遠近法によるダイナミックな構図。波の細部までこだわった『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎の浮世絵に対する強い思いが見え隠れしています。 月岡芳年『大日本名将鑑』 作家名:月岡芳年(つきおかよしとし) 代表作:『新形三十六怪撰』『大日本名将鑑』 月岡芳年は、幕末から明治時代前期に活躍した浮世絵師で、血みどろ絵・残虐絵と呼ばれる『英名二十八衆句』で、一躍注目を浴びました。 また、月岡芳年は最後の浮世絵師とも称され、亡くなる直前まで浮世絵制作に没頭していたといわれています。 浮世絵の枠にとどまらない活躍を見せていた月岡芳年。 浮世絵作品には、洋風絵画でよく見られる明暗や逆光などの技法も積極的に取り入れていました。 月岡芳年の有名作品として、1877年ごろに制作された『大日本名将鑑』があります。 天照大神から江戸幕府3代将軍・徳川家光までの、神話や歴史上の偉人、英雄を51人も描いた作品です。 写実性が高く、月岡芳年の個性を十分に楽しめる作品といえるでしょう。また、単純な構図では描かれていない点から、月岡芳年のデッサン力の高さが垣間見えます。 歌川国芳『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 作家名:歌川国芳(うたがわくによし) 代表作:『相馬の古内裏』『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』 歌川国芳は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、奇抜な発想から生み出されるユーモラスあふれる浮世絵作品で人気を集めました。 現代でも、武者絵や風刺画などで有名な歌川国芳ですが、江戸時代当時はなかなか日の目を見ず、注目を浴びたのは30歳を過ぎてからでした。 当時、歌川国芳を一躍有名にしたのが『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる浮世絵の連作です。 1827年ごろに制作されたとみられるこの作品は、明の小説・水滸伝をモチーフにしており、登場キャラクターが一人ひとり描かれています。 作品名には百八人とありますが、現在は重複する人物を含めた74作品が確認されています。 魅力的なキャラクターたちがエキゾチックかつ躍動感あふれる姿で描かれている点が魅力の一つです。 鳥居清長『袖の巻』 作家名:鳥居清長(とりいきよなが) 代表作:『風俗東之錦』『袖の巻』 鳥居清長は、江戸時代中期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画などを得意としていました。とくに役者絵のモチーフになる歌舞伎とは、切っても切れない縁があります。 父・鳥居清元の代から江戸歌舞伎の看板絵を手がけており、鳥居清信も跡を継いで看板絵を描いていました。しかし、鳥居清信は看板絵だけにとどまらず、役者絵としても歌舞伎役者を描き人気を集めたのです。 鳥居清長の有名な連作に『袖の巻』があります。 『袖の巻』は、全12図からなる春画の連作です。春画とは、枕絵や危絵とも呼ばれる、昔の性風俗画を指します。 『袖の巻』は、浮世絵としてはめずらしい横長にトリミングされたレイアウトが特徴的。シンプルな線描で制作された作品で、耽美な世界を引き立たせています。 シリーズで楽しむ、連作浮世絵の魅力 同じテーマの作品をさまざまな角度から楽しめる連作浮世絵。 多くの有名絵師たちが連作の浮世絵を残していて、当時も今も多くの人を楽しませています。 一枚一枚鑑賞するのもよいですが、シリーズ作品の表現方法を比較しながら鑑賞するのも、連作浮世絵の楽しみ方の一つ。 ぜひ、連作浮世絵を見比べて、作品ごとに見せてくれる表情や表現を楽しんでみてください。
2024.08.13
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