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葛飾北斎が描いた晩年の名作とは

葛飾北斎は、江戸時代を代表する浮世絵の1人です。
彼が描いた風景画や肉筆画は、後世に語り継がれる名作として扱われ、日本に限らず世界的な評価を受けています。
しかし、葛飾北斎が手がけた作品数は、およそ3万点にものぼるといわれ、代表作の多くは晩年期に描かれているのです。
どのような生涯を送った人物なのか、晩年の葛飾北斎が描いた作品に迫ります。

 

真の絵師を目指した、葛飾北斎

葛飾北斎 自画像 [引用元:wikipedia]
葛飾北斎 自画像 [引用元:wikipedia]

作家名:葛飾北斎
代表作:『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『雪中虎図』『酔余美人図』

 

葛飾北斎は、日本の歴史に存在する芸術家の中でも、世界的知名度を誇る浮世絵師です。
本所割下水、現在の墨田区に生まれた葛飾北斎は、墨田区から台東区の範囲でおよそ90回以上も引っ越しを行ったことで知られ、90年におよぶ生涯のほとんどを墨田区で過ごしたといいます。
彼が残した浮世絵の作品数は、細かいデッサンも含むとおよそ3万点を超えるそうです。

また、葛飾北斎という画号も、複数あるうちの1つに過ぎません。
葛飾北斎の画号は、全部で30はあるといわれています。
活動期間ごとに「春朗期・宗理期・葛飾北斎期・戴斗期・為一期・画狂老人卍期」の主に6期に分かれており、それぞれで作品の傾向が異なります。

なお、葛飾北斎の代表作である『富嶽三十六景』は、晩年の少し前である為一期に作られたものです。
当時、葛飾北斎は72歳という高齢でした。
葛飾北斎は、晩年まで浮世絵を描き続けたことでも有名で、死の直前に「5年の寿命があれば本当の絵師になれたものを」との言葉を残したそうです。
葛飾北斎は、生涯をすべて浮世絵に費やした、日本を代表する芸術家といえます。

 

肉筆画を描いた晩年期

葛飾北斎といえば、風景画である『富嶽三十六景』が非常に有名です。
しかし、晩年期の彼は、風景画以外の肉筆画(一点ものの作品)も多く描いており、題材も大きく変化しました。

晩年の葛飾北斎は、画号を「画狂老人卍」と名乗っており、このころの代表作として『朱描鍾馗図』『雲龍図』『西瓜図』『富士越龍図』が挙げられます。
しかし、作品たちを見ると、錦絵(多種類の色彩が特徴の絵画)をほとんど描かなかったことがわかります。

題材も風景画から動植物や武者絵など、幅広いジャンルに変化しました。
対象の立体感を演出する技法は、葛飾北斎の作品たちに見られる特徴ですが『朱描鍾馗図』『雲龍図』からもその趣がうかがえます。

『西瓜図』

『西瓜図』葛飾北斎 [引用元:wikipedia]
『西瓜図』葛飾北斎 [引用元:wikipedia]

『西瓜図』は、葛飾北斎が80歳の1839年に制作された肉筆画です。
縦長の画面の中に、切られた西瓜に白い和紙・菜切り包丁・上には桂剥きされた西瓜の皮が描かれています。
背景の淡いグラデーションと清涼感のある西瓜の朱色が作品の魅力で「蔬果図(野菜や果物をデッサンしたもの)」の1つとされています。
しかし、専門家の間では、七夕をイメージした見立絵との見解も。
その理由は、画の構図が蔬果図らしくない点にあります。
西瓜は、水の入った桶を、西瓜の皮は5色の絹糸、包丁と和紙は、七夕で使う梶の葉のメタファーとされており、いずれも七夕に必要な飾りを指しているためではないかとの説があります。
葛飾北斎の作品について研究するものの間では、当作品は、七夕を連想させる見立絵という見解が浮上しているのです。

『富士越龍』

『富士越龍』 葛飾北斎 [引用元:wikipedia]
『富士越龍』 葛飾北斎 [引用元:wikipedia]

『富士越龍図』は、晩年の葛飾北斎が最後に仕上げたといわれる1849年の肉筆画です。
雪の積もる富士山をメインに、黒い雲の中を龍が駆けのぼる様が描かれています。
一説によると、葛飾北斎の娘である葛飾応為が制作したとの考察も。

なお『富士越龍図』は、同様の構図の作品が2つあり、紙版と絹版にわかれます。
どちらが先に制作されたものなのか明らかになってはいませんが、落款があることから、どちらも正当な葛飾北斎の作品です。
『富士越龍図』に描かれた天をのぼる龍は、さらなる高みを目指したいという葛飾北斎の気持ちを現したためではないかともいわれています。

 

画狂老人卍

晩年の葛飾北斎は、落款に「画狂老人卍」という画号を用いていました。
現代人が見るとチープなネーミングに映るかもしれませんが、このワードにはれっきとした意味が込められているのです。

晩年の落款「画狂老人卍」

葛飾北斎は、その生涯でおよそ30回にもおよぶ画号の変更を行った変人としても有名です。
当時、浮世絵師が己の画号を変えるのは珍しいことではありませんでした。
しかし、30回も変えるのは普通ではありません。

それでも、葛飾北斎が画号を変え続けたのは「初心を忘れないため」という説と「画号を弟子に売って生活費にあてていた」という説の2つが考察されています。
売れっ子だった葛飾北斎ですが、その割に生活は貧乏だったそうです。
そのため、どちらの説も信憑性があり、真実は明らかになっていません。

「画狂老人卍」というネーミングをつけた理由は、主に2つあるといわれています。
1つ目は「画狂老人」という画号を気に入っている点です。
葛飾北斎は「画狂老人卍」を名乗る30年前、1805年からおよそ1年間だけ「画狂老人」という画号を落款に使っていました。
大昔に使ったフレーズを再度使っていることから、気に入ったフレーズであることがうかがえます。

また「卍」のワードは、葛飾北斎が所属していた川柳の会で使われていたニックネームです。
葛飾北斎は、64歳のころから川柳を趣味にしていた時期があり、周囲から「卍さん」の呼称で親しまれました。
過去の画号にも頻繁に卍を使っていた背景からも、気に入って画号に加えた可能性は高いでしょう。

2つ目の理由は、宗教的な意味合いです。
卍の1文字は、日蓮宗における徳の象徴とされています。
葛飾北斎は、熱心な日蓮宗の教徒であったため、卍のネーミングと日蓮宗は、深く関係していることがうかがえます。

画狂・北斎の最期の言葉

晩年、葛飾北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年の寿命があれば、真の絵師になれたものを)」といい、辞世の句で「ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだ後は魂となって夏の草原をのびのび飛んでいこう)」と詠みました。
最期の言葉から、葛飾北斎は90年という生涯を浮世絵師として過ごし、技術の研鑽を最後まで怠らなかった人物だとわかります。

 

現在も北斎の浮世絵は世界を圧倒している

葛飾北斎は、その生涯のすべてを浮世絵に捧げた偉人です。
彼が残した作品の数々は、日本に限らず世界にも浸透し、世界中の芸術家へ多大な影響を与えました。
事実、19世紀の画家を代表するセザンヌが描いた『サント=ヴィクトワール山』は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が意識されています。
また、葛飾北斎の作品は西洋絵画だけでなく、音楽や花瓶など、ほかのジャンルにも影響を与えたともいわれています。
葛飾北斎は、芸術の分野を進歩させた世界的な浮世絵といえるでしょう。

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