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葛飾 北斎が弟子のために描いた絵手本『北斎漫画』とは
日本を代表する浮世絵師・葛飾北斎は、19歳で絵師の道に進んで以来、生涯にわたって驚くべき数々の作品を手がけました。 90歳で亡くなるまで画業に情熱を注ぎ続け、自ら「画狂人」と称するほど絵を愛し、その圧倒的な技術と独創的な表現で江戸時代から今に至るまで多くの人々を魅了しています。 日本を代表する浮世絵師「葛飾北斎」と代表作 北斎の代表作のひとつである『北斎漫画』には、当時の庶民の生活風景、動植物、風景や名所、幽霊、神仏などが多彩に描かれており、あらゆるテーマを網羅しているのが特徴です。 特に、軽妙で洒脱な筆遣いや、動きのあるダイナミックな構図は、北斎ならではの魅力です。 一瞬をとらえたユーモアに満ちた描写からも、観察力と独自の感性が存分に発揮されているとわかります。 彼の作品には、視点の斬新さや繊細なディテールへのこだわりが随所に表れており、その画力は今なお世界中の人々を惹きつけてやみません。 弟子の絵手本として描かれた『北斎漫画』とは 作品名:北斎漫画 作者:葛飾北斎 制作年:1814年-1878年 技法・材質:半紙本 寸法:22.8 cm × 15.9 cm 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子のために描いた絵手本として誕生し、当時の日本で「漫画」という言葉を広めるきっかけとなった作品です。 江戸時代には「漫筆」と呼ばれる、思いつくままに描くスタイルがあり、北斎はその自由な発想をさらに進化させて「漫画」という言葉を作り出しました。 ここでの「漫画」は、現在のストーリー性のある漫画とは異なり、日常の風景や人物、動植物などを軽妙に描き分けるスタイルを指しています。 絵手本である『北斎漫画』は、庶民の生活や自然に親しむ民衆に向けて制作され、粋なユーモアや風刺、また道徳観を織り交ぜて、多くの人々に親しまれました。 軽やかな筆致と風格ある構図で生き生きと表現された絵は、江戸時代の文化や美意識を感じさせるもので、当時の教養ある庶民に愛され、後世にわたってもその影響は計り知れません。 海外の芸術家にも影響を与えた絵手本『北斎漫画』 『北斎漫画』は、葛飾北斎が弟子や絵の初心者のために描いた絵手本ですが、その完成度は絵手本の枠を超え、多くの人々を魅了する内容になっています。 表紙に記された「伝神開手」という言葉には「絵画の神髄を初心者に伝える」という意味が込められており、画業を始めたばかりの弟子たちへ北斎の芸術のエッセンスを伝授する意図が示されています。 全15編にわたり4000を超える図が収められ、庶民の暮らしや風俗、動植物、自然現象などが精緻かつ洒落とユーモアを交えて描かれている『北斎漫画』は、その内容の奥深さと豊かさで江戸時代の教養ある庶民にも愛されました。 さらに、19世紀に日本からヨーロッパへ磁器や陶器を輸出する際、緩衝材として用いられた浮世絵や北斎漫画がフランスの画家たちの目に留まりました。 クロード・モネ、フィンセント・ゴッホ、ポール・ゴーギャンといった印象派の画家たちがその表現に強い影響を受け、ヨーロッパ美術における日本美術の魅力が広まる一因となったのです。 名前に江戸時代当時の北斗七星信仰が隠れている 『北斎漫画』には、江戸時代当時の北斗七星信仰の影響が秘められています。 2編から10編までの編尾の画の後ろに、「北斎改 葛飾載斗」筆、同門人「魚屋北渓 斗園楼北泉」校正と記されており、北斎の「北」と載斗の「斗」で北斗、北渓の「北」と斗園の「斗」で北斗の文字が現れ、陰陽道や妙見菩薩信仰に通じる北斗七星信仰が感じられる仕掛けとなっています。 単なる絵手本に留まらない深い象徴性が込められているのです。 北斎の名と弟子たちの名に隠されたこうした背景が、江戸時代の人々の信仰や文化を映し出し、独特な魅力を放つ作品に仕上がっています。 『北斎漫画』五編 柿本貴僧正は歌人・柿本人麻呂の伝説を描いている 『北斎漫画』五編には、有名な歌人・柿本人麻呂が「柿本貴僧正」として登場し、伝説を元にした姿が描かれています。 『北斎漫画』の後半には百人一首の歌人たちが多く登場しており、その一人として描かれている人麻呂は、三つ目で鬼の顔をした僧侶として表現されています。 人麻呂は、日本の代表的な歌人として3490もの歌を残したことで知られていますが、彼の詳細な経歴はほとんど不明です。 歴史的には、政治的な争いに巻き込まれ、その結果、すべての経歴が抹消されてしまったという説もあります。 そのため、後世にはさまざまな伝説が生まれました。 特に有名な伝説の一つに、彼が恋してはいけない高貴な女性に恋い焦がれ、最終的には鬼に変わってしまったという話があります。 北斎は、この伝説にもとづいて柿本人麻呂を描いており、十編に登場する柿本人麻呂は、立派な人の姿で描かれています。 https://daruma3.jp/ukiyoe/382 風景画で有名な葛飾北斎は『北斎漫画』にみられるユーモアも持ち合わせている 風景画で名高い葛飾北斎ですが、その作品には鋭い観察眼から生まれたユーモアも見受けられます。 北斎は、ただ単に美しい風景を描くだけでなく、日常生活や自然の中での人々の様子を精細にとらえることで、彼らの生き生きとした姿を表現しました。 『北斎漫画』では、当時の人々の日常や動植物が描かれるだけでなく、そこに思わず微笑んでしまうようなユニークなエッセンスも加えられています。 『北斎漫画』では、さまざまなシーンが展開され、北斎は人々のしぐさや表情を生き生きととらえています。 また、風景や風俗を描く中で、ちょっとした笑いや粋な風情を感じさせる点は、北斎の人間味と遊び心が表現されているといえるでしょう。 北斎は画家としての技術だけでなく、観察力やユーモアのセンスも兼ね備えた偉大な芸術家であることが、『北斎漫画』を通じて感じられます。 彼の作品は、時代を超えて今なお多くの人々に愛され続けているのです。
2024.11.26
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葛飾北斎が描いた晩年の名作とは
葛飾北斎は、江戸時代を代表する浮世絵の1人です。 彼が描いた風景画や肉筆画は、後世に語り継がれる名作として扱われ、日本に限らず世界的な評価を受けています。 しかし、葛飾北斎が手がけた作品数は、およそ3万点にものぼるといわれ、代表作の多くは晩年期に描かれているのです。 どのような生涯を送った人物なのか、晩年の葛飾北斎が描いた作品に迫ります。 真の絵師を目指した、葛飾北斎 作家名:葛飾北斎 代表作:『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『雪中虎図』『酔余美人図』 葛飾北斎は、日本の歴史に存在する芸術家の中でも、世界的知名度を誇る浮世絵師です。 本所割下水、現在の墨田区に生まれた葛飾北斎は、墨田区から台東区の範囲でおよそ90回以上も引っ越しを行ったことで知られ、90年におよぶ生涯のほとんどを墨田区で過ごしたといいます。 彼が残した浮世絵の作品数は、細かいデッサンも含むとおよそ3万点を超えるそうです。 また、葛飾北斎という画号も、複数あるうちの1つに過ぎません。 葛飾北斎の画号は、全部で30はあるといわれています。 活動期間ごとに「春朗期・宗理期・葛飾北斎期・戴斗期・為一期・画狂老人卍期」の主に6期に分かれており、それぞれで作品の傾向が異なります。 なお、葛飾北斎の代表作である『富嶽三十六景』は、晩年の少し前である為一期に作られたものです。 当時、葛飾北斎は72歳という高齢でした。 葛飾北斎は、晩年まで浮世絵を描き続けたことでも有名で、死の直前に「5年の寿命があれば本当の絵師になれたものを」との言葉を残したそうです。 葛飾北斎は、生涯をすべて浮世絵に費やした、日本を代表する芸術家といえます。 肉筆画を描いた晩年期 葛飾北斎といえば、風景画である『富嶽三十六景』が非常に有名です。 しかし、晩年期の彼は、風景画以外の肉筆画(一点ものの作品)も多く描いており、題材も大きく変化しました。 晩年の葛飾北斎は、画号を「画狂老人卍」と名乗っており、このころの代表作として『朱描鍾馗図』『雲龍図』『西瓜図』『富士越龍図』が挙げられます。 しかし、作品たちを見ると、錦絵(多種類の色彩が特徴の絵画)をほとんど描かなかったことがわかります。 題材も風景画から動植物や武者絵など、幅広いジャンルに変化しました。 対象の立体感を演出する技法は、葛飾北斎の作品たちに見られる特徴ですが『朱描鍾馗図』『雲龍図』からもその趣がうかがえます。 『西瓜図』 『西瓜図』は、葛飾北斎が80歳の1839年に制作された肉筆画です。 縦長の画面の中に、切られた西瓜に白い和紙・菜切り包丁・上には桂剥きされた西瓜の皮が描かれています。 背景の淡いグラデーションと清涼感のある西瓜の朱色が作品の魅力で「蔬果図(野菜や果物をデッサンしたもの)」の1つとされています。 しかし、専門家の間では、七夕をイメージした見立絵との見解も。 その理由は、画の構図が蔬果図らしくない点にあります。 西瓜は、水の入った桶を、西瓜の皮は5色の絹糸、包丁と和紙は、七夕で使う梶の葉のメタファーとされており、いずれも七夕に必要な飾りを指しているためではないかとの説があります。 葛飾北斎の作品について研究するものの間では、当作品は、七夕を連想させる見立絵という見解が浮上しているのです。 『富士越龍』 『富士越龍図』は、晩年の葛飾北斎が最後に仕上げたといわれる1849年の肉筆画です。 雪の積もる富士山をメインに、黒い雲の中を龍が駆けのぼる様が描かれています。 一説によると、葛飾北斎の娘である葛飾応為が制作したとの考察も。 なお『富士越龍図』は、同様の構図の作品が2つあり、紙版と絹版にわかれます。 どちらが先に制作されたものなのか明らかになってはいませんが、落款があることから、どちらも正当な葛飾北斎の作品です。 『富士越龍図』に描かれた天をのぼる龍は、さらなる高みを目指したいという葛飾北斎の気持ちを現したためではないかともいわれています。 画狂老人卍 晩年の葛飾北斎は、落款に「画狂老人卍」という画号を用いていました。 現代人が見るとチープなネーミングに映るかもしれませんが、このワードにはれっきとした意味が込められているのです。 晩年の落款「画狂老人卍」 葛飾北斎は、その生涯でおよそ30回にもおよぶ画号の変更を行った変人としても有名です。 当時、浮世絵師が己の画号を変えるのは珍しいことではありませんでした。 しかし、30回も変えるのは普通ではありません。 それでも、葛飾北斎が画号を変え続けたのは「初心を忘れないため」という説と「画号を弟子に売って生活費にあてていた」という説の2つが考察されています。 売れっ子だった葛飾北斎ですが、その割に生活は貧乏だったそうです。 そのため、どちらの説も信憑性があり、真実は明らかになっていません。 「画狂老人卍」というネーミングをつけた理由は、主に2つあるといわれています。 1つ目は「画狂老人」という画号を気に入っている点です。 葛飾北斎は「画狂老人卍」を名乗る30年前、1805年からおよそ1年間だけ「画狂老人」という画号を落款に使っていました。 大昔に使ったフレーズを再度使っていることから、気に入ったフレーズであることがうかがえます。 また「卍」のワードは、葛飾北斎が所属していた川柳の会で使われていたニックネームです。 葛飾北斎は、64歳のころから川柳を趣味にしていた時期があり、周囲から「卍さん」の呼称で親しまれました。 過去の画号にも頻繁に卍を使っていた背景からも、気に入って画号に加えた可能性は高いでしょう。 2つ目の理由は、宗教的な意味合いです。 卍の1文字は、日蓮宗における徳の象徴とされています。 葛飾北斎は、熱心な日蓮宗の教徒であったため、卍のネーミングと日蓮宗は、深く関係していることがうかがえます。 画狂・北斎の最期の言葉 晩年、葛飾北斎は死の直前「天我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし(あと5年の寿命があれば、真の絵師になれたものを)」といい、辞世の句で「ひと魂でゆく気散じや夏の原(死んだ後は魂となって夏の草原をのびのび飛んでいこう)」と詠みました。 最期の言葉から、葛飾北斎は90年という生涯を浮世絵師として過ごし、技術の研鑽を最後まで怠らなかった人物だとわかります。 現在も北斎の浮世絵は世界を圧倒している 葛飾北斎は、その生涯のすべてを浮世絵に捧げた偉人です。 彼が残した作品の数々は、日本に限らず世界にも浸透し、世界中の芸術家へ多大な影響を与えました。 事実、19世紀の画家を代表するセザンヌが描いた『サント=ヴィクトワール山』は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』が意識されています。 また、葛飾北斎の作品は西洋絵画だけでなく、音楽や花瓶など、ほかのジャンルにも影響を与えたともいわれています。 葛飾北斎は、芸術の分野を進歩させた世界的な浮世絵といえるでしょう。
2024.11.24
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浮世絵のなかにスカイツリー?江戸時代のミステリーと言われる作品
数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。 その作品名は『東都三ツ股之図』。 作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。 なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。 浮世絵にスカイツリー? 話題の起こりは2011年のこと。 神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。 同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。 当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。 スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』 スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。 こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。 作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。 スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。 なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。 絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。 当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。 また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。 そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。 ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。 考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。 『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は 作家名:歌川国芳[1798〜1861] 代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』 歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。 当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。 そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。 12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。 その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。 当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。 代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。 『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか 歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。 作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。 そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。 また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。 『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない 現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。 しかし、1つ問題があります。 それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。 スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。 したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。 そうすると、気になるのが塔の正体です。 一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。 しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。 『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。 火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。 そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。 本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。 井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。 現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。 国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年〜1849年 代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』 葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。 世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。 大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。 富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。 なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。 この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。 これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。 歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』 作家名:歌川広重 生没年:1797年〜1858年 代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』 歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。 もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。 彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。 そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。 富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。 これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。 相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。 現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう 不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。 浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。 歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。
2024.11.22
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北斎漫画とは?浮世絵師たちがこぞって真似た個性的なイラストたち
活躍した江戸時代から今日まで高い人気を誇っている葛飾北斎。 画号を30回以上変えたり、90回以上引っ越しを繰り返したりするユニークな面も持ち合わせています。浮世絵師としてあまりに有名な北斎ですが、実は漫画も刊行しているのです。 北斎漫画とは 北斎漫画とは、江戸時代後期に活躍した浮世絵師・葛飾北斎によって描かれた漫画のことです。北斎は、日本のみならず海外からも高い評価を受けている浮世絵師で、多くの海外芸術家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎がどのような人物であるかを知るとともに、北斎漫画にはどのような絵が描かれていたのか見ていきましょう。 北斎漫画の魅力を知れば、より葛飾北斎の偉大さや浮世絵の魅力も深まります。 葛飾北斎とは 作家名:葛飾北斎 生没年:1760年-1849年 代表作:『冨嶽三十六景』『富嶽百景』 葛飾北斎は、数多くの名作を世に残した有名浮世絵作家です。 北斎は、東京都の墨田区で生まれ、4歳のころに江戸幕府御用達の鏡師である中島伊勢の養子となりました。鏡師とは、神社やお寺に納める青銅鏡を製作する職人です。 北斎は、6歳になるころには、すでに絵を描くことに興味を持っていたといわれています。 12歳のときに家業の鏡師は継がずに、貸本屋で下働きをはじめ、多くの本を読んで絵の技法を独学で学んだそうです。その後、14歳のころに木版彫刻師の弟子となり、木版印刷の技術を習得しました。 しかし、18歳になるころ、自分は木版を彫ることよりも絵を描く方が好きだと再認識し、彫刻師をやめて絵師になると決意します。 その後、勝川春朗や俵屋宗理、葛飾北斎など、さまざまな名を名乗り、浮世絵の制作活動を進めていきました。 北斎は、何度も画号を変えており、その数はなんと30回ともいわれています。 北斎の作品に描かれている画号により、描かれた時代がわかるとともに、絵の特徴の違いを比較してみるのも面白いでしょう。 北斎漫画とは 葛飾北斎が、弟子のために描いた絵手本である北斎漫画には、どのような内容が描かれているのか気になる人も多いでしょう。 北斎漫画は全15編からなり、初編から5編まで、6編から10編まで、11編から15編の3冊で構成されています。 初編の発行は、北斎が55歳になる1814年でした。 初編は、葛飾北斎が弟子の牧墨僊の自宅に滞在して描いた300点の下絵をまとめたものです。 当時を生きる町民や武士、僧侶などの人物や魚、動植物、風景などさまざまなイラストがいきいきと描かれているのが特徴です。 もともとは初編のみの刊行予定でしたが、想像以上に人気を集めたため続編が制作されることになりました。 2編では、初編で掲載できなかった人物や動植物、面白いお面などが描かれています。 3編では相撲絵や雀踊絵が描かれ、4編では戦う男、5編では偉人や建造物が描かれています。 6編は、弓を射る人や鉄砲を撃つ人など、戦う様子を描いており、7編では『冨嶽三十六景』で描かれているような波の絵も。 8編からは表情豊かな町民といったユニークなイラストも描かれ始めました。 この北斎漫画が最後の15編まで刊行されるのを待たずして、北斎は1849年に亡くなっています。 1849年に13編が刊行されているため、14・15編は北斎が亡くなってから刊行されたものです。 北斎漫画はなぜ描かれたのか 絵の才能に長けていた葛飾北斎から絵を学びたい人は、多くいました。 当時、北斎には弟子が200人以上もいたといわれています。 弟子がこれ以上増えてしまうと、直接指導ができなくなってしまうとして、葛飾北斎の絵を学びたい人に向けて北斎漫画が制作されたのでした。 浮世絵師たちが手本としたスケッチ="漫画" 北斎漫画が制作された当時は、芸術作品としてではなく、絵の書き方を習いたい人のために描かれたスケッチや絵手本のような役割を担っていました。 そのため、最初は人物や動植物、風景など、浮世絵でよく題材として扱われるモチーフを描いています。 後半になるにつれて、個性的でユニークなスケッチが増えていきます。 なぜ北斎漫画は尾張(名古屋)の版元から出版されたのか 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張に滞在していたころには、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行っており、人気を集めていました。 葛飾北斎は、1812年ごろ関西方面へ足を運んだといわれており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在しています。そこで、300枚以上のスケッチを描き上げました。このスケッチが、のちに門下の絵手本となる『北斎漫画』の原型です。 名古屋で描かれたため、名古屋の版元である永楽屋東四郎のもとで、初版が刊行されたのでした。 北斎漫画に描かれた絵手本 葛飾北斎が手がけた『北斎漫画』には、さまざまなジャンルのイラストが掲載されています。 また、後半になるにつれて珍しいユニークな絵も増えていくため、その違いを楽しむのも良いでしょう。 珍しい題材としては、お化けや仙人、妖怪なども描かれています。 葛飾北斎は偉大な浮世絵師だった 『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』などの名作を生み出した、偉大な浮世絵師である葛飾北斎。 浮世絵師を目指す人からは、尊敬のまなざしで見られ、多くの人が葛飾北斎のもとで絵を学びたいと思ったことでしょう。 『北斎漫画』を出すころには、一人では見きれないほどの弟子を抱えていました。北斎が直接手をかけられなくても、多くの絵師が技術を上げられるよう、指南書となる北斎漫画を発行したのでした。 今では芸術作品としての価値が高い『北斎漫画』。 もとは、弟子たちに向けた絵手本であったことを踏まえて鑑賞してみると、また違った視点で楽しめるでしょう。
2024.11.22
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浮世絵にはどんなジャンルがある?
浮世絵と聞くと、小・中学校の社会の教科書に載っているものをイメージする人も多いでしょう。 しかし、実際に実物を鑑賞する機会というのは、なかなか少ないかもしれません。 貴重な文化財というイメージがあるため、美術館や博物館でしか鑑賞できない印象を持っている人も多いでしょう。 今では貴重な文化財である浮世絵ですが、江戸時代では大衆に親しまれていた風俗画で、当時、多くの絵師を生み、数多くの作品が制作されています。 江戸時代当時、浮世絵は庶民の身近にあり、今でいうポスターのような役割を担っていました。 浮世絵とはどのようなものだったのか、またどのようなジャンルがあるのか、それぞれのジャンルの特徴について理解を深めましょう。 浮世絵とは 浮世絵とは、江戸時代初期から後期までの300年近くを通して栄え、当時の壮大な風景や歌舞伎役者の姿などが描かれた絵画です。 当時の流行や風俗、人々の生活の様子などを題材に、さまざまな表現技法を用いて作成されました。 多くの浮世絵師が、さまざまな技法やスタイルを用いて描き、今でも代表的な作品として葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川豊国の『市川團十郎』などがあります。 これらの作品は、非常に有名で歴史の教科書や資料集などにも掲載されており、美術品としてだけでなく歴史を知る上で貴重な資料となっています。 浮世絵にはどんなジャンルがある? 江戸時代の大衆から人気を集めていた浮世絵は、現在、芸術的価値が高まっている作品や、歴史的価値の高い作品などさまざまあります。 浮世絵には、当時の人々の暮らしなど身近なものから、江戸時代の雄大な景色を描いた風景画、当時のスターである歌舞伎役者の表情や演技を描いた役者絵など、江戸時代の様子が繊細に描かれた作品が多く存在しているのです。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあり、美人画・相撲画・武者絵・風景画・花鳥画・役者絵・大首絵・春画などがあります。 それぞれの浮世絵の特徴と代表的な作品、作家をあげていきます。 美人画 美人画は、その名の通り、美しい女性を描いたジャンルです。 江戸時代を通して大変人気のあるジャンルでした。女性の美しさや優雅さを表現し、風流な情景を描いた美人画は、当時の人々に憧れを感じさせるようなものでした。 美人画の代表的な作者に、喜多川歌麿がいます。 喜多川歌麿は、18世紀から19世紀の初めにかけて活躍した浮世絵作家です。 喜多川歌麿の描く浮世絵は、やわらかな色彩と繊細な筆遣いで、女性の美しさを顕著に表現しており、大変高く評価されています。 喜多川歌麿の代表的な作品の一つに、『江戸高名美人』があります。 当時評判だった水茶屋美人を名前入りで描いた作品で、モデルは吉野おぎん・ひら野屋おせよ・菊もとお半・木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑです。 ほかにも葛飾北斎・歌川広重らも美人画を描いています。 美人画は、その時代の女性の美しさや流行をとらえた作品が多く、日本の美意識や風俗を伝える貴重なものとなっているでしょう。 相撲絵 相撲絵は、江戸時代でも盛んだった相撲の文化を浮世絵の技法で美しく繊細に表現した作品です。 江戸時代の民衆に人気のあるスポーツであった相撲をテーマとし、広く描かれた作品です。相撲の試合の様子のほか、力士の日常生活や、観客の様子なども描かれています。 相撲絵の代表的な作品の一つは、勝川春英の『梶浜と陣巻』です。 そのほか、東洲斎写楽の『大童山土俵入』なども有名な作品で、個性ある力士の顔の特徴をうまくとらえて描かれています。 歌川広重の『名所江戸百景』の作品の中には、相撲に関係する描写が残っています。 武者絵 武者絵は、日本の武士や戦場などを描いたものです。 江戸時代の18世紀後半から19世紀初めに盛んに制作されました。武士の勇ましさを称え、武士道の精神や武家文化を表現したものです。 武士絵は、当時の戦国時代を生き生きと描き、武士の印象を後世に伝える作品となっています。 代表的な作品に、歌川国芳の『宮本武蔵と巨鯨』があります。 これは、剣豪として有名な宮本武蔵が大きな鯨と激しい戦いを繰り広げる様子が描かれている作品です。 ほかには、歌川貞秀の『川中嶋大合戦越後方之図』も有名で、大判3枚続の木版に迫力ある合戦の様子が描かれています。 武者絵は、浮世絵の特徴でもある多彩な色使いや大胆な構図によって、迫力のある武士の姿が描かれている魅力的な作品といえるでしょう。 風景画 風景画は、自然や都市の景観などを描いたものです。 美しい景色や風景などを表現し、観察力や表現力を通じて自然の美しさや神秘さを表現しています。 風景画で有名な作品は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。富嶽三十六景の風景の表現力や色彩感覚は、ほかの作家にも大きな影響を与えました。 ほかにも歌川広重は、江戸時代の街並みや名所を美しく表現した作家です。 花鳥画 花鳥画は、その名の通り、花や鳥を題材にした日本の伝統的なジャンルです。 日本の美しさに対する意識や自然観を反映した作品が多く、花や鳥の美しさや生き生きとした生命力を描写し、観る人を惹き込むような作品といえます。 花鳥画は日本の自然、季節の移り変わりを感じさせる作品が多く、その美しさと心情は日本だけでなく、世界中の人々に愛される作品です。 代表的な作品に、葛飾北斎の『菊に虻』があります。 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、風景画がが有名ですが、花鳥画も多く描いています。 『菊に虻』は、ボリュームのある華やかな花の花びら一枚一枚や葉脈を繊細に描いているのが特徴です。 また、歌川広重の『桜に四十雀』や『やまぶきに鶯』も有名で、鳥や草花が自然の中で優雅に描かれており、躍動感あるその美しい描写が人々を楽しませてくれます。 役者絵 役者絵とは、歌舞伎や能など演劇で活躍する役者や舞台の様子を描いた作品です。 役者絵は、江戸時代に盛んとなり、主に歌舞伎興行や広告などとして利用され、一般の人にも親しまれました。 ほかの浮世絵とは少し異なり、役者絵は当時の歌舞伎の興行や役者の人気を反映させたものでした。 また、見て楽しむ絵としての役割だけでなく、歌舞伎広告や宣伝の役割を担っていました。 現代では、役者絵は当時の伝統文化や歴史を伝えるための貴重な資料といえるでしょう。 代表的な作品に歌川豊国の『歓進帳』があります。 この作品では、能の演目『安宅』をもとに作られた歌舞伎の演目が描かれており、歌舞伎の舞台に登場する役者たちの姿が生き生きと描かれています。 また、歌川国貞の『曾我物語圖會』も有名で、同じく歌舞伎役者の姿や名場面などが描かれ、当時の歌舞伎の様子が伝わる作品です。 大首絵 大首絵とは、歌舞伎役者の肖像を描いた絵画です。 浮世絵といえばこのジャンルを思い浮かべる人も多いでしょう。 大首絵は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、風貌や魅力を美しく描いた作品で、浮世絵の中でも歌舞伎文化を象徴する作品の一つ。 歌舞伎役者は当時のスターであり、民衆の憧れであったため、役者の姿が描かれた浮世絵は、民衆の娯楽として親しまれました。また、役者たちは、民衆の流行にも影響を与えたため、その絵画のファッションや装飾は、当時の人たちの流行に影響を与えました。 大首絵は、当時の歌舞伎役者の魅力や時代の特徴を記す貴重な資料として扱われています。 代表的な作品には、歌川豊国の『市川團十郎』や東洲斎写楽の『三世大谷鬼次の奴江戸兵衛』などがあります。これらは、歌舞伎役者の姿を大胆に描写した作品として有名です。 役者の風貌や衣装など、細部まで描写され、芸術性とリアリティの高い作品となっています。 春画 春画とは、性的な行為を描いた作品で、今でいうポルノ作品にあたり、江戸時代の人々に広く親しまれ、受け入れられてきました。 春画は、性的な興奮や快楽の楽しみだけでなく、江戸時代の風俗や性文化を伝える資料でもあり、日本の伝統的な美術作品として評価されています。 絵画の性質上、一般的に公開されることは少ないですが、日本の文化や歴史を知るための貴重な資料です。 春画を描いた絵師の中にも専門的に手がけた作家もおり、その描写は、鮮烈な色彩で情熱的な表現が伝わる作品になっています。 性質上タブー視されがちなジャンルではありますが、その美しく繊細な作品の技法は、芸術性も高く、日本の伝統的な美術品として評価されています。 代表的な作品は、喜多川歌麿の『歌満くら』です。 春画の最高傑作ともいわれているこの作品は、露出が少ないものの男女の風情ある空気感が多くの人々を魅了しました。 また、葛飾北斎の『蛸と海女』は、春画本である『喜能会之故真通』に掲載されていたもので、絵の背景を文字が埋め尽くしており、現代でいう官能小説のような役割を持っている作品です。 人気ジャンルだった「役者絵」と歌舞伎 江戸時代の娯楽として人々の憧れであった歌舞伎は、今でいうアイドルのような存在でした。そのため、役者絵は今でいうブロマイドのような存在で、人々の人気を集めていました。 今では美術品としてのイメージの強い浮世絵ですが、江戸時代は庶民にとって身近な存在でした。 役者絵に描かれるファッションや装飾は、流行の最先端であり、今でいうインフルエンサーのような存在だったでしょう。 東洲斎写楽は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、特に役者絵のジャンルで有名です。 写楽は、本当の名前が隠されており、通称である『写楽』の名で知られています。その正体は謎に包まれていて、短期間の間に多くの作品を残したにもかかわらず、その姿や経歴などは知られていません。 写楽は役者絵を得意とし、独特な表現で多くの名作を生み出しました。 写楽の作品は、役者の個性や演技の特徴をとらえ、鮮やかで繊細に、かつ表情も生き生きと描写されています。写楽は、役者絵のほかにも春画や美人画などの作品も残していますが、役者絵の分野では特に秀でていました。 江戸時代の歌舞伎は、一般の人々に人気のあるエンターテイメントであり、歌舞伎役者はスターとして人々に愛され、親しまれてきました。 役者絵では、そのような歌舞伎役者の姿や演技の様子が描かれ、歌舞伎を観劇できる人もできない人も楽しませる身近な娯楽でした。 浮世絵にはさまざまなジャンルがあった これまでにあげた以外にも、歴史を題材にした歴史絵や、戦国時代の合戦を描いた戦国絵巻などさまざまなジャンルが存在し、時代によって変化してきました。 流行が変化すると、浮世絵もさまざまな変化を遂げながらも、庶民の身近に存在しました。 当時は、庶民にとって身近な浮世絵ですが、現代では日本の歴史や文化、風俗や当時の生活の様子などを伝える貴重な芸術作品として親しまれています。 多くの人に愛され、日本だけではなく世界中に多くの浮世絵ファンがいるといえるでしょう。
2024.11.18
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浮世絵に描かれた大きな鯨!江戸時代の捕鯨・名将の逸話
古来より、日本と鯨には密接な関係性があります。 日本では捕鯨が盛んに行われており、鯨は当時の人々の食料として重宝されていました。日本人が生きていくために必要とされていた鯨は、浮世絵でもたびたび描かれています。 巨大な鯨を複数の大判を連ねた続絵で描いた作品は、圧倒的なスケールで人々を魅了していました。 日本人の生活や娯楽に結びついている鯨と捕鯨の歴史をたどり、浮世絵作品の楽しみ方に深みを与えましょう。 浮世絵に描かれた鯨 巨大な鯨は、浮世絵のモチーフにもよくなっており、多くの有名浮世絵師によって描かれています。 有名な作品としては、歌川国芳の『宮本武蔵の鯨退治』、葛飾北斎の『千絵の海 五島鯨突』などがあります。 絵師による描き方の違いを比較しながら楽しむのもよいでしょう。 歌川国芳『宮本武蔵の鯨退治』 歌川国芳(うたがわくによし)の『宮本武蔵の鯨退治』は、宮本武蔵が鯨退治をしたという伝説を基に描かれた作品。 宮本武蔵とは、江戸時代初期に活躍した剣豪で、二天一流剣法の祖ともいわれ、日本の剣道史上もっとも有名な剣豪の1人です。 生涯無敗を誇ったとされる宮本武蔵の苛烈な生き様は、宮本武蔵死後も歌舞伎や浄瑠璃、小説などでたびたび描かれています。 『宮本武蔵の鯨退治』は、伝説的な強さを誇る宮本武蔵が鯨を退治する様子が描かれています。 3枚続きの大判に大きな鯨の絵が描かれ、迫力のある作品です。 波が斜めに描かれている様子から、海が平衡感覚を失うほど荒れ狂っている様が伝わります。空は灰色で暗雲が立ち込めています。 この悪条件の中、宮本武蔵が刀1本で鯨に立ち向かい、剣を突き立てている勇ましい姿が描かれており、ダイナミックな構図が魅力的です。 宮本武蔵の表情には自信が感じられ、その圧倒的な強さを表現しているといえるでしょう。 葛飾北斎『千絵の海 五島鯨突』 葛飾北斎(かつしかほくさい)も鯨の浮世絵を描いており『千絵の海 五島鯨突』は、『千絵の海』シリーズの1つとして知られています。 五島の海に姿を表した大きな鯨を、30艘ほどの船で取り囲み、鯨を入り江に追い込む様子が描かれています。 鯨は尻尾を振り上げ、巨大な波しぶきをたてながら暴れているようにも見えるでしょう。また、銛はまだ刺さっておらず、これから船団が鯨に近づいていき、一斉に銛を打ちこむ様子であるといえます。 肥前国(現在の長崎県)西端にある列島の五島では、現在でも漁業が盛んな地域です。 捕鯨は、紀州熊野灘(現在の和歌山県)や土佐湾(現在の高知県)と並んで、盛んに行われていました。 日本人はいつから捕鯨をしていたのか 四方を海に囲まれた日本では、古来より漁業が盛んに行われてきました。 また、日本の近海が鯨の回遊路にあたっていたため、鯨も大切な食料として盛んに捕鯨を行っていました。 さまざまな鯨が行き交う路の近くに日本列島が存在している環境から、日本人が鯨を捕獲して食す文化が育まれていったと考えられます。 縄文時代から鯨を捕獲する文化は始まっていたとされ、江戸時代初期に入ると鯨組による組織的な捕鯨が開始されました。 のちに網取り式捕鯨と呼ばれる効率的な捕獲方法も開発され、日本における鯨の供給量は増大していきます。 当時、日本にはまだ生肉類を保存する技術がありませんでした。そのため、赤肉や皮類は塩蔵して全国各地へ出荷されています。また、内臓は主に産地でのみ消費されていました。 江戸時代後期になると、アメリカの捕鯨船が日本近海で鯨を乱獲し、資源の確保が悪化してしまいます。 日本の沿岸捕鯨は一時的に衰退の一途をたどりました。その後、明治時代後期にノルウェーから伝わった近代捕鯨が導入され、供給量は回復していきました。 鯨に対峙する様子をダイナミックに描いた浮世絵 江戸時代を中心に当時の捕鯨は、現代よりも技術がなかったため命がけで鯨と対峙していたといえます。 当時の時代背景や捕鯨環境を考えると、浮世絵として描かれている鯨の作品を見る視点も変わってくるのではないでしょうか。 ダイナミックな構図で描かれた迫力のある鯨絵を、当時の様子を想像しながらぜひ楽しんでみてください。
2024.08.15
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人気の浮世絵・武者絵は高価買取が期待できます
浮世絵はさまざまな題材を描き、美人画や風景画などいくつもの人気ジャンルがあります。 その中でも武者絵は、国内外で高い人気を得ているものです。武者絵は、江戸時代から明治時代にかけて多く制作され、次々と人気絵師を生み出しました。 武者絵は、国内でも海外でも評価が高く、慎重に業者を選べば高価買取も期待できるジャンルです。作品の状態や絵師・描かれた題材・描かれた年代などにより、価格は大きく変動します。そのため、真贋や価値を適正に見極められる買取業者を選ぶことが大切です。 武者絵の浮世絵は高価買取のチャンス 武者絵の浮世絵は人気のジャンルであり、作家や作品によっては高価買取が期待できます。 有名な絵師の作品や保存状態の良い作品には高値がつきやすく、鑑定書や付属品の有無などにより価格が変動するのが一般的です。 作品の価値を適正に査定できる買取業者に持ち込むことで、高価買取のチャンスと巡り会えるかもしれません。 武者絵の浮世絵を買取してもらう際は、専門の買取業者に依頼しましょう。 武者絵とは 武者絵とは、歴史や伝説・神話に登場する武士や英雄の姿、戦いが描かれた絵を指します。 江戸時代から明治時代にかけて、武者絵は多くの浮世絵師の手によって描かれました。 武者絵の代表的な絵師として、浮世絵を確立させた菱川師宣(ひしかわもろのぶ)や、武者絵の最盛期を作り上げたといわれる歌川国芳(うたがわくによし)などが挙げられます。武者絵は、美人画や風景画と比較しても遜色ないほどの人気を誇り、徳川家以外の武将を英雄視することを危惧した江戸幕府により、規制の対象にもなりました。 武者絵は買取してもらえる? 武者絵は国内外で人気の高いジャンルであり、買取業者にて査定・買取を依頼できます。 買取価格は、作品の状態や作者・描かれた時代などにより変動するため、武者絵の知識や査定の経験が豊富で、作品を適切に評価できる買取業者を選ぶことが大切です。 有名浮世絵師も描いた、武士の世界 浮世絵の中でも人気のジャンルである武者絵は、数々の有名浮世絵師により描かれました。 歴史や伝説の中で語られてきた多くの武将や英雄を、名のある絵師たちはどのように描いたのでしょうか。 菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵の先駆者として語られることの多い絵師であり、江戸時代前期に活躍しました。 1630年ごろ(寛永年間の中期)に、現在の千葉県鋸南町保田で生まれたと推定され、幼少期から絵の才能を発揮し、狩野派や土佐派などに触れ、独学に近い形で絵を修行したのち江戸に出ます。 江戸に出てからは絵本の挿絵で人気を博しました。 挿絵では市井の女性や名所の風景などを木版画で描き、これが浮世絵へと発展していきます。 菱川師宣が好んで描いた題材は江戸の庶民であり、中でも「見返り美人」は浮世の女性を色鮮やかに描いた肉筆画で、彼の代表作といえるでしょう。 また、彼の作品には『武家百人一首』や『大江山酒呑童子図』、『大和武者絵』など、多くの武者絵も残されています。 菱川師宣は「墨摺り(すみずり)」という技法で武者絵を多数制作しました。 墨摺りとは、墨一色で版画を刷り、濃淡や線のタッチだけで多彩な表現を可能にする技法です。 さらに、墨で表現された絵の上に色彩を加える技法も駆使し、色合いや雰囲気などをより細やかに描き出すことも得意としていました。国内外で、今なお高い人気を誇る浮世絵を創始した功績は計り知れません。 勝川春亭 勝川春亭(かつかわしゅんてい)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、武者絵や役者絵で名を馳せた勝川春英の門人です。 本名は、山口長十郎(中川長十郎との説もあり)ですが、勝川を称し、松高斎や戯墨庵・耕煙山樵・及壺・宮山人などの号を持ちました。 勝川春亭は数多くの錦絵(木版画浮世絵の一種で分業が特徴)を描き、役者絵や美人画・名所絵など多様な作品を残しましたが、錦絵で最も多く描いたのが武者絵でした。2枚や3枚の絵を横に連ねて一つの画面を作る「二枚続」や「三枚続」など、武者絵としては斬新な手法を積極的に取り入れ、迫力ある作品を残しています。勝川春亭の用いた形式は、次の世代の歌川国芳を輩出する土台となりました。 代表作のひとつである武者絵『巴御前武蔵三郎左衛門有国(ともえごぜんむさしさぶろうざえもんありくに)』は、平家の残党である武蔵三郎を、源義仲軍の女性武将・巴御前が討伐するシーンを描いた作品です。 巴御前の勇敢さや、討たれる武蔵三郎の悲壮さを迫力ある画面に表現しています。 また、『石橋山合戦(いしばしやまかっせん)』は、源頼朝軍の佐々木高綱が、殿(しんがり)として平家軍の追撃を立ち阻む様子が激しいタッチで描かれた、三枚続の大作です。 歌川国芳 歌川国芳(うたがわくによし)は、1797年(寛政9年)ごろに江戸で生まれました。 幼少期から浮世絵に親しみましたが、12歳ごろの作品である『鍾馗提剣図(しょうきていけんず)』が人気浮世絵師の歌川豊国に高く評価され、豊国のもとで修行に励むことになります。 しかし、師である豊国や兄弟子の歌川国貞の人気に追いつくことのできない不遇の時代が続きました。 歌川国芳にとっての転機は、1827年ごろに中国の古典小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)』でした。 江戸でも人気のあった水滸伝の登場人物を一人ひとり描いたこの作品がきっかけで、彼は「武者絵の国芳」という異名を獲得します。歌川国芳の武者絵は、画面から飛び出さんばかりの迫力ある構成と、躍動感あふれる人物描写が特徴でした。 『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』の一つ『浪裏白跳張順(ろうりはくちょうちょうじゅん)』は、水滸伝の登場人物である張順を描いた作品で、作中の豪傑たちのダイナミックな描写には、歌川国芳による武者絵の特色が存分に発揮されています。 また、風刺やユーモアを交えた作品で江戸幕府を批判し、江戸町人の人気を得たという反骨精神も、彼の魅力を物語る一面といえるでしょう。 武者絵には歴史上の人物も数多く描かれた 武者絵には、多くの人々に馴染み深い、歴史上の人物も数多く描かれています。 太平の世である江戸時代では、戦国時代の武将は伝説上の人物のようになっていたのでしょう。 有名な浮世絵師たちによって描かれた、歴史上の人物を画題とした作品とは、どのようなものでしょうか。 『加藤清正公図』(葛飾北斎) 『加藤清正公図』は、ゴッホやドガにも影響を与えたとして世界的にも有名な、葛飾北斎による作品です。 葛飾北斎は、1760年(宝暦10年)に現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くことに熱心でした。 成長して浮世絵の彫師として下積みの時代を送りますが、あるとき絵師になることを決心し、勝川春章の門人となりました。19歳ごろから勝川春朗として錦絵を世に出しますが、その後は勝川派から離れ、美人画や風景画・妖怪絵など多彩な作品を残しています。 そんな葛飾北斎が40歳のときに描いた肉筆の武者絵が『加藤清正公図』です。 加藤清正は、豊臣秀吉の先鋒として活躍した戦国武将で、秀吉の死後は徳川家康に従いました。関ヶ原の戦いの後は肥後熊本藩主となり、現在の熊本城を築城した人物としても有名です。 『加藤清正公図』は、葛飾北斎の武者絵の中でも傑作とされており、猛将らしい清正公の気迫や宴席での余裕ある雰囲気などを巧妙に描いています。色彩や構図にも独特の美しさがあり、葛飾北斎の画力がいかに優れているかを感じられるでしょう。 『藤原保昌月下弄笛図 』(月岡芳年) 月岡芳年(つきおかよしとし)は1839年(天保10年)に生まれ、幕末から明治半ばにかけて浮世絵師として活躍しました。 本名を月岡米次郎(つきおかよねじろう)といい、12歳で歌川国芳に弟子入りし、武者絵や役者絵を次々と発表します。 27歳のときに、兄弟子の落合芳幾と競作した『英名二十八衆句』は、その凄惨な流血描写や死体描写から「血みどろ絵」や「無惨絵」と呼ばれ、江戸川乱歩や三島由紀夫など後世の文学者らの興味を集めたことでも有名です。月岡芳年は、幕末から明治にかけて激動の時代を生き、戊辰戦争や西南戦争などの戦争も錦絵に描きました。 月岡芳年が1883年(明治16年)に残した大判の三枚続が『藤原保昌月下弄笛図』です。 傑作のひとつに数えられるこの作品は、盗賊の「袴垂(はかまだれ)」が、貴族であり優れた武人でもある藤原保昌(ふじわらのやすまさ)を切り殺そうと隙をうかがうも、笛を吹きながら付け入る隙を与えない保昌を相手に、動けずにいる緊迫した場面を描いた作品です。多くの分野で多彩な才能を見せる月岡芳年は、浮世絵の人気を支えた歌川国芳にも比肩しうるほどの人気を誇っています。 『武田上杉川中島大合戦』(歌川国芳) 江戸時代後期に活躍した歌川国芳は、30歳ごろに江戸で流行していた中国の小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』で一躍人気絵師となりました。歌川国芳の出世作として知られるこの作品は、その後の水滸伝ブームの火付け役となりました。 そして、「武者絵の国芳」とあだ名された歌川国芳の、躍動感あふれる大胆な構図と類まれな画才が存分に発揮された作品が『武田上杉川中島大合戦』です。 武田信玄と上杉謙信との間で5度にわたり繰り広げられた川中島の戦いは、1561年(永禄4年)に行われた4戦目に佳境を迎えます。この合戦における最大の見どころは、何といっても武田信玄と上杉謙信の一騎打ちでしょう。 画面右の謙信が斬り掛かり、画面中央の信玄がそれを軍配で受け止める場面が、流れる川の激しさとともに大迫力で描かれています。鮮やかな色彩とダイナミックな構図で見る者を惹きつけるこの作品は、「武者絵の国芳」の真骨頂といえるでしょう。 人気の浮世絵・武者絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 武者絵の浮世絵は、歴史や伝説上の人物の活躍、有名な合戦や物語の一場面を描いた絵です。 江戸時代から明治時代にかけて、多くの人気浮世絵師がさまざまな武者絵を描き、好評を博しました。武者絵は愛好家が多数おり、海外での人気も高いため、優良な買取業者を選べば高価買取が期待できます。 人気浮世絵師が描いた作品には高値がつきやすいですが、落款や署名があればさらに価値が高まるでしょう。保存状態や付属品の有無も価格を左右するため、保管の仕方に気をつけなければなりません。 また、一点物である肉筆画や、木版画の初摺りも、希少価値という観点から評価額が高い傾向があります。 適正な価格をつけてもらうためには、プロの査定士に見てもらうのが最適です。 人気の浮世絵・武者絵の買取はプロの査定士のいる浮世絵買取店に相談してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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富士山や江戸の町…風景画浮世絵を買取してもらおう
江戸時代から明治時代にかけて、庶民の娯楽として広まった浮世絵。 なかでも、風景を描いた作品は、独創性に富んだものが多く、幅広い層に人気があります。 葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』など、誰しも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 浮世絵の買取を希望する場合は、専門の買取業者に査定をお願いするのがお勧めです。 有名な作品や、状態の良い作品は、高く売れるチャンスがあります。 風景画浮世絵をお持ちの方は、買取業者に持ち込んでみてはいかがでしょうか。 風景画の浮世絵は高価買取のチャンス 風景画の浮世絵は、独特の色彩表現や構図により国内外で人気があります。 有名な絵師の作品や、劣化が少なく保存状態の良いもの、大きなサイズのものなどは、高価買取のチャンスです。浮世絵の多くは木版画として大量に印刷され、庶民にも入手しやすかったため、思わぬところに保管されている場合があります。 風景画浮世絵とは 風景画浮世絵とは、江戸町人の生活を描いた浮世絵の中で、主に風景に焦点を当てた作品です。 「浮世」つまり仏教用語でいうところの「儚い世」が、やがて「現世の楽しみ」を意味するようになります。そして浮世絵では、遊女や役者などの町人の暮らしから歴史物語など、多様な題材が描かれるようになりました。 日本における風景画は、中国美術の影響が色濃い「山水画」として発達しましたが、浮世絵の1ジャンルとして独立したのは、18世紀末ごろです。 幕府が武者絵や役者絵に対する規制を強めると、風景画というものが脚光を浴びるようになります。 風景画浮世絵で描かれるのは、江戸や京都の街並み、富士山の眺めなど、日本人に馴染み深い景観です。 山水画のような理想化された自然の風景ではなく、日本人なら誰もが見たことがあるような写実的でどこか身近な風景こそが、浮世絵で描かれる風景画です。 風景画の代表作といえば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』を思い浮かべる人は多いでしょう。風景画浮世絵は、美しく身近な自然や街並みの姿を描くのみならず、当時を生きた人々の価値観や感性をも反映しています。 風景画浮世絵は買取してもらえる? 風景画浮世絵は、美術品としての価値があるだけでなく、当時の生活や文化を今に伝える貴重な資料でもあるため、多くの需要があります。 そのため、多くの買取業者が存在し、査定や買取を行っています。 しかし、作者や作品の状態、描かれたテーマなどにより買取価格が大きく変動することも。 風景画浮世絵を査定してもらう際は、真贋を見極め適正な価格つけられる業者を選ぶことが重要です。 誰もが知る『富嶽三十六景』は代表的な風景画 風景を描いた浮世絵として、大半の人が思い浮かべるのは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。 激しい白波に翻弄される小舟と、遠景に佇む富士山を描いた『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』。 這うように青黒く広がる樹海と、朝日を浴びて真っ赤に染まる富士山を描いた『凱風快晴(がいふうかいせい)』。 これらは、誰もが一度は目にしたことがあると言っても過言ではない、あまりに有名な風景画浮世絵です。 『富嶽三十六景』とは 『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』は、1831年〜1834年(天保2年〜5年)にかけて刊行された、葛飾北斎(かつしかほくさい)による大判の版画集です。 葛飾北斎の晩年に描かれた風景画のシリーズで、さまざまな季節や場所から眺めた富士山が色鮮やかに描写されています。 富嶽三十六景の刊行当時、葛飾北斎は70歳を超えていましたが、老いてなおその画力は、さらに洗練されていきました。富士山をテーマにしていますが、富士山を眺める人々やその周辺の様子などを巧みに描いており、葛飾北斎の観察力や構図力・色彩センスが存分に感じられるシリーズです。 なかでも『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、富嶽三十六景の代表作であるだけでなく、浮世絵を代表する作品として世界中で知られています。画面手前では荒れ狂う白波に小舟が揉まれ、画面奥には泰然と構えた富士山の姿が対照的に描かれています。 信仰の対象や観光地として人々の心に深く根ざしていた富士山。 当時流行した、藍色の絵具や鮮やかな赤色を用いて描いた『富嶽三十六景』は、国内外に大きな反響を巻き起こし、そのあまりの人気ぶりに、当初の36図版に加えて追加の10版が刊行され、富嶽三十六景は全46景となったほどです。 三大役物 富嶽三十六景の中でも、「三大役物」と呼ばれ、ひときわ人気の高い作品があります。 その3つとは『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』・『凱風快晴(がいふうかいせい)』・『山下白雨(さんかはくう)』です。 『神奈川沖浪裏』 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎による作品の中でも最もよく知られたものの一つです。白波の迫力と、遠くに見える富士山の落ち着いた姿が対照的に描かれています。 『凱風快晴』 『凱風快晴』という題名に心あたりがない場合でも、「赤富士」といえばすぐにわかる人は多いかもしれません。『凱風快晴』の画面で、朝日に照らされ真っ赤に染まる富士山と裾野に広がる樹海の背景には、真っ白な雲と青空が広がっています。 空と雲と富士山という単純すぎるほどの構成要素ですが、それぞれが細部まで緻密に描かれ、見るほどに魅力が増す傑作です。 『山下白雨』 『山下白雨』は、「黒富士」とも称され、富士の裾野に黒雲が広がり、稲妻が宙を引き裂く様が描かれています。雷雨のふもととは対照的に、山頂付近は明るい色調で描かれ、富士山の高さや雄大さが巧みに表現されています。 「黒富士」と「赤富士」では、描かれている雲の形や光の様子が異なり、季節ごと変化する富士山の姿を感じられるでしょう。 歌川広重が描いた風景画『名所江戸百景』 江戸時代後期の浮世絵師である歌川広重(うたがわひろしげ)は、風景画の名手として知られています。 『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』や『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』など、多くの優れた作品を残しました。 『名所江戸百景』 『名所江戸百景』は、1856年〜1858年(安政3年〜5年)にかけて歌川広重が制作した連作浮世絵です。 江戸の名所や景観・町人たちの暮らしを描いた作品群であり、浮世絵師・歌川広重の集大成とも位置付けられます。名所として古くから知られる場所だけでなく、何気ない江戸近郊の景観が、四季ごとに斬新な構図で描かれています。 『大はしあたけの夕立』 『大はしあたけの夕立』は、隅田川にかかる「大はし」の上を、雨から身を隠しながら渡る人々と、対岸の「あたけ」(安宅丸という船が繋留されていたことに由来)がぼやけて見えないほどの豪雨を描いた作品です。 墨の濃淡で表現された直線により、雨の強さや方向性が示されており、橋と河岸が斜めに交差する構図により、奥行きやダイナミックな雰囲気が演出されています。また、版木に水を含ませることにより絵具を滲ませ、遠くに見える対岸の街並みをぼかした表現も特徴的です。 橋を渡る人々の慌てた様子や、激しく叩きつける雨の音までも聞こえてくるような、リアルさが感じられる作品でもあります。 この作品は、印象派の画家ゴッホが模写したことでも知られ、歌川広重の画力が如実に伝わってくる傑作と言えるでしょう。 『亀戸梅屋舗』 名所江戸百景の一枚である『亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)』は、江戸の亀戸にあった梅の名所を描いた絵。 画面の一番手前に、視界を遮るように大きく描かれた梅の木が特徴的です。 背景には梅屋敷の庭や訪れる人々が見えます。 画面上半分の赤と、下半分の青が対比を強調しており、鮮やかな色彩にも歌川広重の多彩な表現を感じられるでしょう。 1857年(安政5年)にシリーズの30作目として描かれた作品で、春の風景を題材にして人気を博しました。 この作品の「梅屋敷」とは、豪商・伊勢屋彦左衛門(いせやひこざえもん)の別荘として建てられた「清香庵」を指します。 清香庵の梅林は、大変見事であると評判で、8代将軍である徳川吉宗も訪れたほどの名所でした。 『大はしあたけの夕立』とともに、『亀戸梅屋舗』もゴッホが模写した絵として知られています。ゴッホは浮世絵の中でも、歌川広重の作品から特に大きな影響を受けました。切り取られた構図や装飾的な色使い、強い輪郭線などを自分の作品で試すために、ゴッホは歌川広重の作品を模写したといわれています。 『浅草金龍山』 『浅草金龍山』もまた、歌川広重の傑作『名所江戸百景』を代表する作品です。 この作品は、浅草に現存する浅草寺雷門から見える雪景色を描いた一枚です。 浅草寺は、正式名称を「金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)」といい、「浅草観音(あさくさかんのん)」の呼び名でも知られています。 江戸時代の浅草は、庶民の集まる娯楽の場であり、浅草寺はその象徴として江戸の人々に愛されており、江戸の名所を描いた歌川広重の作品の中でも、特に人気の高い作品です。 『浅草金龍山』の大きな特徴は、画面手前の上部に大きく描かれた雷門の大提灯です。 この提灯を、あえて切り取るように描くことにより、画面に奥行きと臨場感を与えることに成功しています。 雷門の柱と提灯の大きさが、遠景の小さな寺と対照的であり、雪の白さをより際立たせている点も見事です。 こうした歌川広重のトリミング手法は、当時の印象派絵画にも多大な影響を与えたといわれています。 人気の風景画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! ご自宅やご実家に眠っている風景画浮世絵はありませんか。 江戸時代から明治時代にかけて広まった、独自の日本文化・浮世絵。美人画や役者絵・名所絵などさまざまなジャンルがあります。 その中でも風景画浮世絵は、国内外のコレクターや美術館・博物館による人気が高く、高価買取が期待できるジャンルです。 浮世絵の買取価格は、作者や作品の題材・保存の状態や付属品の有無などにより、大きく変動します。 そのため、高価買取のためには、専門知識豊富なプロの査定士の判断が不可欠です。状態の良いものは希少であり、高い買取価格がつく可能性もあります。シワやシミなどのダメージがあっても、有名作品であれば高値がつくことも。 適正な価格をつけてもらうためにも、信頼できる買取業者でプロの査定士に相談してみることをお勧めします。
2024.08.13
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浮世絵の最高額作品、葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』
浮世絵をはじめとした美術作品は、作品の質や画家の知名度などにより、時代が経つにつれて価値が上がっていくものもあります。 浮世絵は、日本だけではなく世界的に人気の美術作品です。 そのため、オークションでは、希少性の高い作品に驚くほどの価格がつくことも。 浮世絵の中でも、どのような作品が高額でやり取りされているのか確認してみましょう。 最高額の浮世絵、『神奈川沖浪裏』 最も高い金額でやり取りされた浮世絵は、葛飾北斎(かつしかほくさい)が描いた『神奈川沖浪裏』です。 近年、浮世絵は海外のオークションでも人気が高まる一方。相場も大きく右肩上がりになっています。 『神奈川沖浪裏』のオークションは、2023年3月にニューヨークのクリスティーズで行われました。 入札価格は、なんと、280万ドル(約3億6000万円)。 過去の最高額も同じく『神奈川沖浪裏』で、2021年に159万ドルで落札されています。 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎が描いた傑作『富獄三十六景』の中の一作品であり、富士山の手前に大きな波が描かれたこの作品を、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 『富獄三十六景』は、富士山をさまざまな地域から描いた浮世絵で、その中で描かれている『神奈川沖浪裏』は、荒れ狂う海を進む押送船と富士山がテーマです。 葛飾北斎は、長寿であり遅咲きの浮世絵師として知られています。 この『神奈川沖浪裏』が描かれたのも、葛飾北斎が70歳のころです。 葛飾北斎の作品は、海を渡りゴッホやゴーギャンなど、海外の偉大な画家にも大きな影響を与えています。 葛飾北斎の作品を見てみると、1人の絵師が描いたとは思えないほど画風が違っているのです。これは、若くして狩野派や土佐派、西洋画法など、さまざまな画風の絵画を学んできたためと考えられます。 なぜ浮世絵は最高額を更新しつづけているのか 海外のオークションで浮世絵が最高額を更新しつづけるのには、海外人気の高い葛飾北斎が関係していると考えられます。 もちろん、葛飾北斎は日本でも人気の高い絵師の1人です。 しかし、アメリカの雑誌が1998年に発表した「この1000年でもっとも偉大な業績を残した100人」に日本人として葛飾北斎が選ばれており、日本と海外では人気の度合いに大きな差があるといえるでしょう。 2017年には、イギリス・ロンドンにある大英博物館で特別展「北斎 - 大波の彼方へ」が開催され、大盛況を納めています。 海外人気が高い理由としては、葛飾北斎の斬新な画風が考えられます。 ルネサンス期から続くヨーロッパの絵画技法は、19世紀半ばごろに画一的になり、盛り上がりに欠ける一面がありました。その時期に、葛飾北斎の浮世絵がフランス・パリの万国博覧会で出展され、多くのヨーロッパ人に衝撃を与えたのです。 モネやルノワールなど印象派のフランス画家が、浮世絵をモチーフにした作品を次々に描き、ジャポニズムと呼ばれました。 浮世絵や葛飾北斎は、日本以上に海外からの人気を得ており、オークションを中心に最高額を更新しているといえるでしょう。 これからも浮世絵は最高額を更新する可能性が 海外人気が高く、オークションでも高値で取引されている浮世絵。 葛飾北斎が描いた『神奈川沖浪裏』は、2023年3月に280万ドル(約3億6000万円)で落札されています。 海外では、多くの有名画家が葛飾北斎の浮世絵に衝撃を受けています。 日本趣味や日本の芸術が西洋の芸術作品に影響を及ぼす、ジャポニズムと呼ばれる現象も引き起こしているのです。 このように、海外で高い人気を誇る浮世絵は、美術投資の一つとしても注目されています。 作品によっては、オークションにて高値でやり取りされることから、投資価値のある美術品として購入する人も増加傾向にあります。 海外での浮世絵人気は、今後も高まっていく可能性があり、オークションの最高額を更新する日もそう遠くはないでしょう。
2024.08.13
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浮世絵は漫画のルーツになった?!浮世絵に見る、日本マンガの原点
江戸時代から人気を集めている浮世絵。 一方、日本国内だけではなく海外からも高い評価を受けている日本マンガ。 一見共通点などなさそうに見える2つの作品ですが、実は、漫画のルーツは浮世絵であるとする考えがあります。 浮世絵と漫画の共通点を探り、どちらの作品についても理解を深めていきましょう。 浮世絵は漫画のルーツになった? いまや日本が世界に誇る文化の一つにもなった日本マンガ。その原点は、浮世絵ともいわれているのをご存じでしょうか。 浮世絵が日本マンガのルーツになったといわれる所以は、浮世絵独自の輪郭線にあります。 浮世絵独自の「輪郭線」 江戸時代に庶民の間で流行した浮世絵は、日本独自の描かれ方をしていました。 その一つが、輪郭線です。 リアルさを追求していた当時の西洋絵画では、線が用いられず色の明暗を利用して陰影をつけ、形を表現していました。 一方、平面的に捉えられる日本の浮世絵は、線によって人物や風景を描いています。線で囲んだ部分を、それぞれ単色で表しているのも特徴の一つです。 現代まで描かれている日本の漫画を見てみると、多くの作品が人物や風景などのモチーフを線で描いています。 海外のアニメーション作品を確認してみると、3Ⅾで制作されているため線はありません。 キャラクターをよく見てみるとわかりますが、海外ではアニメーションでも西洋絵画同様に、リアルさを追及していると考えられるでしょう。 気の向くままに描いた画…『北斎漫画』 漫画の祖は、鳥羽僧正(とばそうじょう)の鳥獣戯画ともいわれていますが、漫画を大衆に広めたのは、葛飾北斎(かつしかほくさい)といわれています。 葛飾北斎は、浮世絵師として知られていますが、実は最も有名な日本の漫画家でもあるのです。 世間で『北斎漫画』と呼ばれているのは、北斎のスケッチ画集のことです。 北斎自身が、特別な理由もなく気の向くままに描いた絵という意味を込めて、漫画と名付けたといわれています。そのため、現代における漫画とは、様相が異なっていたと考えられるでしょう。 北斎が描いた画集は、北斎が亡くなった後、1878年までに全十五編の漫画として断続的に刊行されました。描かれていたのは、人物や動植物などをはじめとしたさまざまモチーフの絵で、その数は4000にもおよびます。 この『北斎漫画』は、日本だけではなく、欧州を中心とした海外でも『ホクサイスケッチ』の名で親しまれています。 エドガー・ドガやメアリー・カサットなど、多くの海外芸術家にも影響を与えており、『北斎漫画』は、『冨嶽三十六景』と並ぶ北斎の代表作のひとつといえるでしょう。 心の内を絵にした、『幻燈写心競 洋行』 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ)が描いた『幻燈写心競 洋行』では、日本のマンガによく使われる手法が取り入れられており、『幻燈写心競 洋行』がルーツとなっているのではないかと考えられます。 その手法が、登場人物の心の内を背景に描くものです。 『幻燈写心競 洋行』では、洋書を読む女性の後方に円を浮かべ、その中に洋書に登場したであろう美しい海外建築物が描かれています。 洋書を読み夢見る乙女の心の中を、背景で表現しています。 このように、実際の世界と想像の世界をリンクさせた構図は、現代の漫画にも通じる技法です。 この手法により、一つの絵の中で登場人物の様子だけではなく、心の内に秘めた想いといった、複雑な心の描写を描けるようになりました。 浮世絵以前の漫画のルーツ『鳥獣戯画』 いまや世界に誇れる漫画大国となった日本の漫画の起源とされているのが、鳥羽僧正の『鳥獣戯画』です。 平安時代から鎌倉時代にかけて描かれた絵巻物で、動物たちを擬人化して描いている特徴があります。 全部で4巻あり、全長は約44mにもおよびます。 とくに有名な甲巻では、ウサギや猫などの動物たちが絵の中を縦横無尽に駆け回る斬新でモダンな雰囲気が描かれているのが魅力です。 『鳥獣戯画』を描いたのは、平安後期の高僧である鳥羽僧正とする説が広く知られていますが、確証はありません。 各巻で筆致が異なることから、複数の絵師によって描かれたのではないかとする見方もあります。 平安中期の比叡山の僧である義清が、『今昔物語集』に「嗚呼絵」(戯画)をよく描いたと記していることや、戯画が多くの寺院に伝わっていることから、絵の才に優れた僧侶が余技として描く伝承があったのではないかとも考えられています。 日本の漫画文化の1つは浮世絵にあった 日本国内のみならず海外でも絶大な人気を誇る日本マンガ。 そのルーツは、江戸時代の浮世絵にあるとされています。 浮世絵の特徴であり魅力の一つである輪郭線を用いて描く手法は、現在の漫画にも活用されています。 また、登場人物の背景に回想シーンを浮かべる手法も、江戸時代の浮世絵が原点とされているのです。 浮世絵について詳しくない人でも、漫画のルーツであり、共通点を持っていると知ると、親しみが湧いてくるのではないでしょうか。 漫画と共通する特徴を気にしながら浮世絵鑑賞を楽しむと、新たな発見ができるかもしれません。 浮世絵を鑑賞する際は、ぜひ漫画にも活かされている輪郭線や回想シーンの描き方にも注目してみましょう。
2024.08.13
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