数年前「江戸時代に描かれた浮世絵に東京のスカイツリーがある」という話題があがりました。
その作品名は『東都三ツ股之図』。
作者は、浮世絵師の歌川国芳で、当作品を描いたのは1831年ごろといわれています。
なぜ浮世絵にスカイツリーらしきものが描かれているのか、その謎を解き明かしましょう。
目次
浮世絵にスカイツリー?
話題の起こりは2011年のこと。
神奈川県川崎市「川崎・砂子の里資料館」(現在の名称は「川崎浮世絵ギャラリー」)にて開催されるイベントに向けて館長の方が準備を進めていたところ、作品に白くて異様に高い塔が見えることに気がつきました。
同年は、スカイツリーが開業する1年前だったこともあり、大きな注目を集めたそうです。
当時は、テレビや雑誌で特集が組まれるなど、メディアをあげて該当の浮世絵が大きく取り上げられました。
スカイツリーらしきものが描かれた『東都三ツ股之図』
スカイツリーが映っていると疑惑の『東都三ツ股之図』。
こちらは、現代に描かれた作品ではなく、江戸時代に描かれたれっきとした浮世絵作品です。
作品には、貝取りの舟とその両岸・対岸同士を結ぶ橋に、職人と思わしき2人の人物と2つの塔が描かれています。
スカイツリーとおぼしき建物は、2つある建物の右側です。
なぜ、この塔がスカイツリーではないかと話題になったのかというと、その理由は、塔の高さです。
絵の構図から、該当の塔は相当に高さのある建物だと分かります。
当時、江戸界隈では、江戸城を越える建物は建築が許可されておらず、当然浮世絵にあるような塔は、技術的にも建てられるはずがありません。
また、塔の風貌がスカイツリーに酷似している点も、スカイツリー説を助長しました。
そのため、話題にあがった当初は「この浮世絵はどこを描いたものなのか」「あの塔はなんなのか」について調査する方が、後を絶たなかったそうです。
ただ『東都三ツ股の図』を描いた作者は、変わり者で知られる歌川国芳。
考察者から「歌川国芳の独創性なら描きかねない」といわれるほど、風変わりな作品を多数生み出した人物です。
『東都三ツ股の図』を描いた歌川国芳と は
作家名:歌川国芳[1798〜1861]
代表作『相馬の古内裏』『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』『其のまま地口猫飼好五十三疋』
歌川国芳は、江戸時代末期に活躍した江戸生まれ江戸育ちの浮世絵師です。
当時、数ある大衆芸術のなかでも浮世絵は全盛期にあり、葛飾北斎や歌川広重など著名な浮世師たちが多数の作品を生み出していました。
そのような群雄割拠の浮世絵業界のなかで、歌川国芳が有名になれたのは、ひとえに奇抜な発想力と高い画力があったためです。
12歳で描いた『鍾馗提剣図』をきっかけに絵の才能を認められ、当時の人気浮世絵師であった歌川豊国に弟子入りします。
その後『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』と呼ばれる武者絵により、江戸中で話題の浮世師にまでのぼり詰めました。
当時の浮世絵は、美人画や役者絵が主流でしたが、歌川国芳の作品は、武者絵や風刺画などさまざまなジャンルがあります。
代表作である『相馬の古内裏』は、山東京伝の読本『善知安方忠義伝』をテーマにした武者絵です。巨大な妖怪「ガシャドクロ」が絵の大半を占めるこの作品は、高い評価を獲得しています。
『東都三ツ股の図』は江戸に実在した景色なのか
歌川国芳の『東都三ツ股之図』で描かれている風景は、現在の東京都中央区中州にあたる場所だといわれています。
作品名にある「三ツ股」は、当時の隅田川・小名木川・箱崎川の合流所を指す言葉です。
そうすると、描かれている橋は「永代橋」にあたり、中州の説に合致します。
また、中州説が合っているならば、塔がある岸は隅田川の東岸です。
『東都三ツ股の図』で描かれたのはスカイツリーではない
現状、浮世絵の場所は、現在の中州にあたる場所である説が濃厚です。
しかし、1つ問題があります。
それは、現在のスカイツリーの場所と浮世絵にある塔のポイントがまったく異なる点です。
スカイツリーは墨田区に建っていますが、浮世絵の塔が指す場所は、現在の江東区に位置します。
したがって、少なくともスカイツリー説は、誤りな可能性が濃厚です。
そうすると、気になるのが塔の正体です。
一説によると火の見櫓か井戸掘り櫓ではないかと唱えられていますが、はっきりとした証拠はありません。
しかし、1850年の『深川佐賀町惣絵図』によると、塔の位置あたりに火の見櫓が建っていたことが記されていたそうです。
『東都三ツ股之図』にある左の塔には、監視台とおぼしきものが確認できます。
火の見櫓ならば上部に監視台が備えられているため、左の塔が火の見櫓にあたるといわれています。また、間近に火の見櫓が2本建つとは考えづらいため、左が火の見櫓なら、右も同様とはいえないでしょう。
そこで唱えられたのが「井戸掘り櫓説」です。
本来、井戸掘り櫓の高さは10mで、火の見櫓と同等かそれ以上の高さを誇ります。隅田川周辺は埋め立て地なため、通常より長めの井戸掘り櫓が立てられた可能性も否定できません。
井戸掘り櫓は使用後に解体されるため、ほかの風景画に映り込んでいない理由も納得できます。
現在は井戸掘り櫓の説が定説とされていますが、事実は定かではありません。
国芳だけではなかった!”謎の塔”が描かれた浮世絵
作家名:葛飾北斎
生没年:1760年〜1849年
代表作『冨嶽三十六景 凱風快晴』『肉筆画帖 鷹』『酔余美人図』
葛飾北斎は、江戸生まれの墨田区育ちの浮世絵師です。
世界的な知名度を持ち、多くの海外芸術家に影響をおよぼしたとされています。
大の引っ越し好きで、およそ90年にもおよぶ生涯で、90回以上もの引っ越しを繰り返したそうです。代表的な作品は『冨嶽三十六景』。
富士山とその周辺の風景を収めた、全46枚からなる風景版画です。
なかでも『凱風快晴』『神奈川沖浪裏』『山下白雨』は有名で、現在でもさまざまな芸術作品のモチーフとされています。
この葛飾北斎が謎の塔を描いたとされる作品が『冨嶽三十六景 東都浅艸本願寺』です。
これは、富士山を背景に東京浅草本願寺と瓦職人を描いた1枚で、左に建築中の火の見櫓が描かれています。
歌川広重『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』
作家名:歌川広重
生没年:1797年〜1858年
代表作『亀戸梅屋敷』『名所江戸百景』『浅草田甫酉の町詣』
歌川広重は、江戸時代後期生まれの浮世絵師です。
もともとは、父の跡継ぎで火消同心(現在の消防士)をしていましたが、35歳で後継を息子に譲り、浮世絵師の道へと進みました。
彼の作品のなかでも、江戸の市中や郊外を描いた風景画『名所江戸百景』は、世界的な知名度を誇る歌川広重の集大成です。
そのような歌川広重が、謎の塔とおぼしきものを描いた作品は『名所江戸百景 両国回向院元柳橋』。
富士山を背景に、櫓らしき建物が建てられています。
これは「相撲櫓」といい、相撲の興行時に組まれる櫓です。
相撲櫓は客寄せのための太鼓や旗が備え付けられるもののため、本作品で描かれたのは相撲櫓とみて間違いないでしょう。
現在の景色と浮世絵を比較しながら鑑賞してみよう
不思議な世界を体験できるのも、浮世絵の楽しみ方です。
浮世絵といえば役者絵や風景画など荘厳なイメージを抱く方も多いですが、一方で妖怪や風刺を題材にした大衆的な作品も数多く存在します。
歌川国芳の『東都三ツ股之図』は、浮世絵の楽しみ方を再認識させてくれた、ユーモアのある1枚といえるでしょう。