葛飾北斎の娘である葛飾応為もまた、江戸時代後期に浮世絵師として活躍していました。
世間では、父・葛飾北斎の名は、知らない人はいないほど有名ですが、娘である葛飾応為も浮世絵師として大変才能があったと知っている人は少ないでしょう。
葛飾応為がどのような作品を描き、また父である北斎を支えてきたのかを知り、浮世絵師としての葛飾応為の魅力を感じましょう。
葛飾北斎の娘、葛飾応為
葛飾応為とは、江戸時代の後期に活躍した浮世絵師で、あの有名浮世絵師・葛飾北斎の三女でもあります。
父である北斎が「おーい!」といつも読んでいたことから、画号を「応為」にしたという、ユニークな逸話も残されています。
葛飾北斎には、2人の息子と3人の娘がいました。
中でも応為は、父譲りの画才で北斎の画業を支えていたといわれています。
1度は、3代目堤等琳の門人の南沢等明のもとへ嫁ぎましたが、針仕事をまったく行わず、等明の描いた絵を稚拙に思い笑ったため、離縁されてしまったそうです。
実家に戻った応為は、父・北斎とともに画業に没頭しました。
葛飾応為の絵師としての実力は、北斎も認めるほどのもので、父の画業を手伝いながら自らも浮世絵師として活動していたそうです。
また、家庭教師として商家や武家の娘たちに絵も教えていました。
応為は、特に美人画を得意としており、女性ならではの感性や繊細な描写により、北斎とはまた異なる魅力的な美人画を描いています。
父・北斎が亡くなったあとは、門人や親戚の家を点々としながら暮らしていたといわれています。
そして、北斎の死後8年が経ったとき、絵の仕事をするために出かけると言い残し、家に帰ってくることはありませんでした。
このとき、応為は67歳でした。
応為の最後は諸説ありますが、仏門に帰依し、加賀前田家に扶持されたのちに金沢で没したといわれています。
現存している葛飾応為としての作品は少ないですが、近年の研究では、葛飾北斎の作品の中に応為が描いたとされる作品が見つかっています。
たとえば、葛飾北斎が描いた『手踊り図』も、応為の手が加えられているそうです。
発見された作品が、葛飾北斎の代わりとなり浮世絵を描けるほど、技術と才能があったことの証明となるでしょう。
葛飾応為の描いた浮世絵
葛飾応為がどのような浮世絵を描いていたのか、気になる人も多いのではないでしょうか。父である北斎も唸らせた応為の作品の特徴を知り、より浮世絵への魅力を深めていきましょう。
『吉原格子先之図』
『吉原格子先之図』は、葛飾応為の代表作の一つです。
浮世絵版画ではなく肉筆画の作品です。
絵には落款が押されていませんが、作品内に描かれた提灯に隠し落款が見つかっています。
この印により、応為によって描かれたのではないかと推測されています。
『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓を歩き回る人々の様子を描いた作品で、提灯の灯りによる陰影が特徴的です。
『吉原夜景図』とも呼ばれており、現在は東京都の太田記念美術館に所蔵されています。
『夜桜美人図』
『夜桜美人図』は、『春夜美人図』とも呼ばれる作品で、こちらも落款が押されていません。
明確にはなっていませんが、作風から葛飾応為によって描かれたとされています。
夜を照らす満点の星空の下で、若い女性が短冊と筆を持ち何かをしたためている様子を描いた作品です。
灯篭の灯りによる陰影や、等級を意識した描き分けが行われている星などの繊細な描写が魅力的です。
現存する作品は少ない
葛飾応為は、父の才能を受け継いだ素晴らしい浮世絵師であったとされています。
しかし、現存する作品は十数点と少なく、その多くが肉筆画です。
応為が手がけたとされる木版画で、現在判明している作品は、絵本の『絵入日用女重宝句』と『煎茶手引の種』に描かれている図のみです。
父である北斎を支え、自身も名作を残した葛飾応為
葛飾応為は、天才浮世絵師でもあり父でもある葛飾北斎も一目おく存在でした。
若くして絵の才能を発揮し、若干14歳にして浮世絵師としての仕事を任されるほどであったといわれています。
また、葛飾北斎になりすまして描いた作品もあるといわれるほどです。
現存する作品は多くありませんが、その一つひとつの作品を見ていくと、確かに父の影響を受けた素晴らしい絵師であったとわかるでしょう。