浮世絵とは江戸時代、庶民の娯楽の一つとして広まった文化です。
浮世絵は、江戸時代を暮らすさまざまな人や生活を題材にして制作されていました。
歌舞伎とともに江戸時代の娯楽であった遊郭もまた、題材の一つでした。
遊郭とは、遊女が集められた場所。遊女は、いわゆる春を売る女性たちのことです。
そして、江戸時代に人気のあった遊郭の一つ、吉原もよく浮世絵として描かれていました。
浮世絵のモチーフとなっている遊郭の歴史を知ることで、より浮世絵の楽しみ方の幅が広がるのではないでしょうか。
目次
吉原遊郭はどんなところだったのか
江戸の吉原遊郭と聞くと、どのようなイメージを持っているでしょうか。
浮世絵の題材としてよく描かれている場所、華やかな恋愛文化が生まれた場所、江戸時代の娯楽として栄えた場所など、さまざまなイメージを思い浮かべるでしょう。
江戸時代に徳川幕府公認の遊郭として賑わいをみせていた吉原遊郭の歴史や浮世絵との関係性を知ると、江戸時代の娯楽や文化についての魅力を深められます。
遊郭の誕生
遊郭が初めて誕生したのは、1585年とされています。
豊臣秀吉が大阪の街に遊女たちを集めて建設されたのが遊郭です。
もともと遊女が売買春にあたる行為をすることはありましたが、決められた場所はありませんでした。そのため、遊女は遊女屋と呼ばれる店を転々としていたといわれています。
その後、京都にも遊女を集めて遊郭を建てています。
遊郭を設置する政策は、徳川幕府にも受け継がれていき、のちに全国約20か所に幕府公認の遊郭が設けられました。
その後、遊郭は、徳川幕府の厳しい規制の中で運営されていきます。
遊郭の多くは、市街の外れに建設され、建物の周囲に溝を掘ることで、遊女の外出や逃亡を防いでいました。
江戸時代の遊郭と、最も栄えた吉原遊郭
吉原遊郭とは、江戸幕府からの公認を受けていた江戸の遊郭です。
当時は、日本橋近くにあり、明暦の大火後に浅草寺裏の日本堤に移転されました。
移転前を元吉原、移転後を新吉原と呼んでいます。
吉原遊郭には数多くの遊女がおり、遊女たちは芸や娯楽を提供することで客を楽しませていました。
江戸時代に吉原遊郭は、文化や風俗の中心地として栄え、浮世絵作品にも頻繁に登場しています。
浮世絵師たちは、吉原の遊郭での日常や、遊女たちの姿を描き、これらの作品は庶民の間で広く愛されました。
吉原は、江戸時代の遊郭の中でも特に有名で、そこでの出来事や風俗は浮世絵によって詳細に描かれてきました。
遊女にもランクがあった
遊女とは、遊郭において性的なサービスを提供する女性を指す言葉です。
遊郭で働く遊女たちは、さらに細かいランク分けがされていました。
時代によって多少異なりますが、一般的に見習いの禿から始まり、デビューすると新造、端女郎、囲、御職、格子とランクが上がっていきます。
よく耳にする「太夫」は、遊女の中でも最高ランクの言葉です。
太夫になれるのは、1000人中2~5人と大変狭き門であったことがわかります。
太夫になるためには、容姿だけではなく、多彩な芸妓を持ち、大名などの会話に対応できるほどの知性や教養も必要でした。
なお、「花魁」は職名ではないため、ランクが決まっていません。
一般的に、客引きをする必要のない最上格の遊女を花魁と呼んでいました。
遊郭で生まれた文化
文化のゆりかごと呼ばれていた吉原遊郭をはじめとした花街は、江戸時代に栄えたさまざまな文化に深く関係しています。
吉原は、浮世絵をはじめ、茶の湯や歌舞伎、相撲、声曲、書、花、香、出版、祭礼、狂歌、俳譜など江戸時代を彩っていた文化を支えていました。
舞踏や音楽、茶道、詩歌などの芸を磨き、客を楽しませるための努力を重ねた遊女たちの技芸の美しさは、芸能の発展にも大きな影響を与えていたといわれています。
また、遊女の中でもトップランクにあたる太夫や花魁は、江戸時代の町人にとってアイドルやファッションリーダー的な存在でもありました。
花魁の華やかで美しい姿を描いた浮世絵をみて、女性たちは髪形やファッションを真似ていたそうです。
遊女たちの美しさや優雅さは、当時の社会に大きな影響を与えていたといえるでしょう。
浮世絵に描かれた吉原遊郭や遊女たち
江戸時代、吉原遊郭の街並みや、遊女たちの日常、芸妓を披露している姿などは、浮世絵師たちによって、鮮やかかつ華やかに表現されました。
当時の浮世絵には、江戸時代の都市風俗や文化を生き生きと表現したものが多くあります。
吉原遊郭で働く遊女たちの美しい着物姿や舞踏などが描かれており、現代では、江戸時代の生活や風俗を伝える貴重な史料にもなっています。
喜多川歌麿『青楼十二時』
喜多川歌麿の『青楼十二時』は、吉原遊郭で働く遊女の1日を描いた浮世絵です。
喜多川歌麿は、美人画で有名な浮世絵師です。
葛飾北斎と並んで、国内だけではなく、海外からも高い評価を受けています。
喜多川歌麿が描く美人画は、繊細な表情やしぐさ、顔の特徴などをうまく引き立たせており、浮世絵で女性の内面の美しさまで表現しているとして、多くの人々を魅了しました。
『青楼十二時』では、吉原遊郭で働く遊女のリアルな姿を描いています。
遊女の華やかな姿だけではなく、仕事の時間以外で見せる表情を描いたことで、人々の興味を引きつけました。
アイドルのオフショットを覗いているような気持ちにさせてくれる作品といえるでしょう。
また、『青楼十二時』では、遊女が寝ている姿が描かれていません。
寝顔が美人画として成立しないという理由もあるかもしれませんが、当時遊郭で働いていた遊女の不規則な生活リズムをリアルに表現していたともいえるでしょう。
溪斎英泉『江戸町一丁目 和泉屋内 泉壽』
溪斎英泉の『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』は、華やかな花魁の姿を描いた浮世絵です。
たくさんのかんざしで飾られた髪や、色鮮やかな着物姿が印象的な浮世絵で、この姿に当時の女性たちは、憧れを抱いていたそうです。
溪斎英泉は、美人画を得意とする浮世絵師で、切れ長の目にはっきりとした鼻筋、突き出た下唇などが特徴の絵をよく描いていました。
女性特有の丸みをうまく表現した作品も多く、どこか退廃的な印象を与える浮世絵を多く残しています。
『江戸町一丁目和泉屋内泉壽』で描かれている花魁が身につけているギンガムチェックの模様は、弁慶格子とも呼ばれており、白地にグレーと黒の格子柄が特徴です。
歌川国貞『吉原遊郭婦家之図』
歌川国貞の『吉原遊郭婦家之図』では、吉原遊郭の建物内やそこで働く遊女たちの姿、利用客とのやり取りなどの様子が描かれています。
当時の吉原遊郭内の詳細や雰囲気がよく伝わってくる作品です。
歌川国貞は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、役者絵や美人画、春画、武者絵、風景画などさまざまなジャンルの浮世絵を手がけていました。
二代歌川広重『東都 新吉原一覧』
二代歌川広重の『東都 新吉原一覧』は、江戸時代の吉原遊郭全体を上空から見下ろす視点で描かれた浮世絵です。
また、この作品には富士山が描かれていますが、方角的に本来はないはずの場所に存在しており、演出のために描かれたと考えられます。
二代歌川広重は、初代歌川広重の門人で、美人画や花鳥画、武者絵、風景画などを制作していた浮世絵師です。
初代が亡くなった翌年、二代目広重を襲名しています。
葛飾応為『吉原格子先之図』
葛飾応為の『吉原格子先之図』は、夜の吉原遊廓の一場面を切り取って描かれた浮世絵です。
夜の吉原遊郭を行き交う人々と、格子戸の中で待つ遊女たちの様子が表現されています。
提灯の灯りによる陰影が特徴的な絵で、『吉原夜景図』とも呼ばれています。
葛飾応為は、葛飾北斎の三女であり、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。
父親譲りの画才で、ときには父である葛飾北斎の作品を代筆していたともいわれています。
遊郭や遊女の浮世絵は、庶民の憧れだったから
遊郭でもトップレベルの太夫や花魁は、男性にとってもアイドルのような存在で、せめて手元に絵だけでもと、浮世絵を手にしていたと考えられるでしょう。
また、江戸時代のファッションリーダーでもあった遊女たちを描いた浮世絵を参考に、多くの女性たちがファッションを楽しんでいました。
遊郭や太夫、花魁を描いた華やかな浮世絵は、庶民からの要望があつく、人気の題材であったといえるでしょう。