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浮世絵の祖と呼ばれる、菱川師宣の功績
歴史的文化遺産を残した偉人たちのなかでも菱川師宣は、「浮世絵の祖」とも呼ばれる著名な浮世絵師です。 江戸時代を生きる人々を描いた彼の作品たちは、浮世絵を大衆的な文化から芸術にまで昇華させた実績を誇ります。 当時は画期的ともいえる鮮やかな色彩と独特な構図は、後世に続く葛飾北斎や歌川広重らの作品にも受け継がれた技術です。 菱川師宣は、まさしく「浮世絵の祖」と呼ばれるにふさわしい人物といえるでしょう。 浮世絵の祖といわれた菱川師宣 作家名:菱川師宣 生没年:1630?年~1694年 代表作:『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』など 菱川師宣は、浮世絵の歴史に大きな影響を与えた江戸時代初期の浮世絵師です。 後世に続く数々の版画技術を生み出した張本人であり、当時本の挿絵でしかなかった浮世絵を1つの芸術に昇華させた貢献者といえます。 代表作は、肉筆画の『見返り美人図』です。 そのほか、掛け軸や屏風絵など幅広いジャンルも手掛けており、なかでも『歌舞伎図屏風』は、国の重要文化財に指定されています。 菱川師宣の功績は、浮世絵の技法を確立しただけでなく、浮世絵を大衆文化にまで広めたことにもあります。 当時、絵画は高級品で、富裕層しか入手できない代物でした。 しかし、菱川師宣が浮世絵を1枚絵として木版画で大量生産することで、安価で入手できるようになり「一般の人々でも買える絵」として浮世絵が広まりました。 浮世絵が大衆文化として確立したのは、菱川師宣のおかげといえるでしょう。 菱川師宣は、1人の職人であると同時に、優秀なビジネスマンだったことがうかがえます。 菱川師宣とは 安房国平北郡保田村、現在の千葉県に位置する地域で誕生した菱川師宣は、第4子の長男でした。 彼の幼少期については情報がほとんどありません。 生年も明確にはわかっていませんが、1630年ごろ(寛永年間の中ごろ)と推定されています。しかし、生い立ちに関する記載が、1680年の絵手本『大和武者絵』の冒頭にて記されています。 以下は、大和武者絵から抜粋した記述です。 「ここに房州の海辺菱川氏という絵師、船のたよりをもとめて、むさしの御城下にちっきょして、自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ、和国絵の風俗三家の手跡を筆の海にうつして、これに基づいてみずから工夫して、あとこの道一流をじゅくして、うき世絵師の名をとれり」 『大和武者絵』より引用 「自然と絵をすきて青柿のへたより心をよせ」とあるように、幼少期から絵を描くのが好きな少年だったことが想像できます。また、代々家が縫箔師(金箔を布地に施す職人)であったことから、菱川師宣は当初、縫箔師として江戸に修行にでたといわれています。 しかし、絵を描くのが好きだった菱川師宣は、名門絵師である「狩野派・土佐派・長谷川派」の手法を独学で学び、オリジナルの画風を生み出しました。 菱川師宣の使う版画技法は、絵の真似ごとがルーツだったのです。特定の一派に所属せず、絵画手法を習得している背景から、抜群の描画センスを持っていたといえるでしょう。 その後、縫箔師から絵の道に転向したのがいつのことなのか、はっきりとした情報はありません。 しかし、1671年刊行の『私可多咄』に無記名で挿絵を描いていたことから、それより前に転向していたのは確かでしょう。 1年後の1672年には、墨摺絵本『武家百人一首』にて、正式に菱川師宣の名でデビュー。 当時、幕府のお抱え絵師である「御用絵師」以外で刊本に署名をしたのは、菱川師宣が初めてだったといわれています。江戸時代初期の刊本は、文章がメインで挿絵はあくまでおまけ程度でしたが、菱川師宣は挿絵主体の画期的な絵本を刊行し、その順位を逆転させました。 彼が挿絵主体で作った絵本『大和絵のこんげん』は、瞬く間に大ヒット。 江戸の中で着実に知名度を上げていきました。 菱川師宣の代表作・見返り美人図 菱川師宣の代表作とされる『見返り美人図』が描かれたのは、晩年の1688年ごろから1697年のことです。 江戸の町娘をモデルにしたといわれており、女性をあえて正面から描かない手法は、画期的なものでした。 また、著名な人物ではなく「どこにでもいる町娘」をモデルに取り上げたのも、江戸の人々を描く菱川師宣らしさが現れています。 なお、『見返り美人図』は、1948年発行の5年切手の図案に採用されています。 菱川師宣の作品は『歌舞伎図屏風』を始め、国の重要文化財とされていますが『見返り美人図』は指定されていません。 理由は定かではありませんが、ほかの作品たちが文化財に指定されている背景から、今後改めて重要文化財に指定される可能性はあります。 現在は、東京国立博物館にて保管されているため、気になる方は鑑賞しにいくのもおすすめです。 なお、歌舞伎図屏風も同じ場所で展示されています。 菱川師宣の作品 菱川師宣の作品といえば『見返り美人図』と『歌舞伎図屏風』が代表的ですが、そのほかにも文化遺産として大切に保管されている作品が数多くあります。 当人の作品のほとんどは、日本や世界中の博物館や美術館にて保管されており、鑑賞が可能です。 現物が残っていない、または行方がわからない作品もありますが、もしかしたらどこかの家の骨董品として残っているかもしれません。 菱川師宣が制作した作品のなかで、現存するものには『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』などがあります。 このうち『吉原の体』『北楼及び演劇図巻』は、遊郭である吉原や歌舞伎の舞台裏を題材とした作品です。後世に残る浮世絵は、女性や遊郭をテーマにした作品が多数存在しますが、当時のなかでは非常に珍しいものだったそうです。 一方、『四季風俗図巻』『江戸風俗図屏風』では、江戸に住む人々の暮らしが描かれています。 見返り美人図も不特定の町娘がモデルだったように、その時代に生きていた人たちの「今」を記録した絵が、菱川師宣らしさといえます。 今でこそ国の重要文化財に指定されるほどですが、菱川師宣の作品は、常に大衆に向けて作られたものだといえるでしょう。 江戸の人々を生き生きと描いた、菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵を世に広めた1人の職人であり、大量生産できる画期的な印刷手法や本を作り上げたビジネスマンでもあります。 浮世絵で有名な偉人のなかでも、菱川師宣は芸術家とビジネスの両立を達成した人物といえるでしょう。 後世に続く浮世絵文化でも、菱川師宣は重要な役割を果たしました。 菱川師宣の作品は、アメリカ・ワシントンDCにあるフリーア美術館や東京国立博物館など、さまざまな場所で鑑賞できます。 菱川師宣の作品をその目で見たい方は、一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
2024.11.15
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歌舞伎と浮世絵の深い関係
江戸時代から人々の人気を集めていた浮世絵と歌舞伎は、現在でも多くの人々から愛されています。 しかし、多種多様な娯楽がある現代では、浮世絵や歌舞伎に触れる機会が減り、詳しく知らない人も多いでしょう。 浮世絵や歌舞伎、またその関係性や歴史を知ることで、より両者の魅力を感じられます。 浮世絵と歌舞伎の関係とは 浮世絵のジャンルの一つに、役者絵があります。 役者絵とは、歌舞伎役者を描いた作品。 浮世絵と歌舞伎には深い関係があり、当時の人の浮世絵師が歌舞伎の人気役者を描くことで、相乗効果により浮世絵と歌舞伎が繁盛しました。 江戸時代、浮世絵は安く販売されていたため、人気歌舞伎役者が描かれた役者絵は、多くの歌舞伎ファンを魅了していたといえるでしょう。 浮世絵・歌舞伎はいつ始まった? 浮世絵と歌舞伎はともに、江戸時代に始まった娯楽です。 歌舞伎は、江戸時代に絶大な人気があった男性俳優による古典演劇です。当時、歌舞伎小屋は、遊郭とあわせて江戸の二大悪所といわれていました。歌舞伎小屋や遊郭は、貴族や武士、町人などの身分に関係なく、誰もが自由に楽しめる空間として扱われていたのです。 一方、浮世絵も江戸時代の町人から大変人気を集めていた絵画です。 木版画による大量生産で安価に入手できたため、大衆へ広まったといわれています。浮世絵の中でも、初めて役者絵を描いたとされているのは、鳥居派初代当主の鳥居清信です。 役者絵は、舞台に上がる役者1人を描いた1枚絵からはじまり、のちに2~3人の歌舞伎役者を描くために、サイズが大きい大判が使用されるようになっていきました。 また、2枚以上の絵がセットになっている続絵と呼ばれる作品も多く残されています。 江戸時代の庶民文化、浮世絵と歌舞伎 江戸時代に庶民の娯楽として注目を集めていた歌舞伎に出演する役者もまた、高い人気を誇っていました。 人気のあまり役者たちのファッションを真似する人も現れ、庶民への影響力が大変大きかったといえるでしょう。 役者のファッションや持ち物などに注目が行くきっかけを作ったのは、浮世絵ともいえます。 歌舞伎を見に行く人もそうでない人も、役者絵として描かれた歌舞伎役者のファッションを真似ていたと考えられます。 役者絵は主に、歌舞伎役者の全身を描いた全身絵と、役者の上半身を描いた大首絵、役者の顔を強調して描いた大顔絵の3種類です。 人気の役者絵は飛ぶように売れた 歌舞伎とともに人気となった役者絵には、人気役者の舞台姿を描いたものだけではなく、楽屋の様子や日常の姿を描いたものもあります。 それゆえ、現代にあるブロマイドのような存在でした。 役者絵が最も流行したのは、1789年~1801年といわれています。 人気浮世絵師が人気役者を描くと、相乗効果で役者絵は飛ぶように売れました。 浮世絵の中の役者と歌舞伎 浮世絵の中で表現される役者と歌舞伎は、多くの歌舞伎ファンを魅了したことでしょう。 その中でも、歴代の市川團十郎を描いた作品や、水滸伝ブームを引き起こした『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』、謎の絵師が描いた『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、当時絶大な人気を誇っていました。 市川團十郎 市川團十郎といえば、歌舞伎の宗家である成田屋の名跡です。 初代市川團十郎は、荒事という人並外れた力で敵を倒す家芸を確立しました。 隈取という顔を紅、藍、墨で彩ったメイクを始めたのも、初代市川團十郎です。 のちに、2代目が隈取を完成させています。 3代目は、将来を期待されていましたが、22歳と若くして亡くなりました。 実力派と呼ばれた4代目、華やかで人気のあった5代目、花形俳優と賞賛された6代目、歌舞伎十八番を確立した7代目と、それぞれ異なる活躍をみせています。 歌舞伎界一の人気と美貌を持ち合わせていた8代目は、謎の自殺を遂げています。 歴代の市川團十郎を描いていた浮世絵師は、当時の人気トップばかりでした。 初代と2代目を描いたのは、鳥居清倍。4代目を描いたのは、勝川春章です。 5代目は勝川春章、勝川春好、東洲斎写楽によって描かれています。 6代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国政、7代目を描いているのは、歌川豊国、歌川国貞です。 9代目は月岡芳年、豊原国周によって描かれています。 歴代の市川團十郎も市川團十郎を描いた浮世絵師も人気が高かったため、当時役者絵は大人気でした。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個 『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』は、浮世絵木版画で歌川国芳が描いた連作です。 最初の刊行は、1827年といわれています。 初出版では、智多星吴用、九紋龍史進、行者武松、黒旋風李逵、花和尚魯智深の5人が描かれています。 1830年まで出版されていたとされる一方で、1836年ごろまで出版されていたともいわれており、出版時期は定かではありません。 通俗水滸伝豪傑百八人之一個は、歌川国芳の出世作で、版元の加賀屋吉兵衛に注目されて水滸伝ブームを生み出しました。 悪がはびこる世の中で、108人の世間からはじき出された英雄たちが集結し、国を救うために活躍するストーリーです。 しかし、現代においては、108人の全図は確認されていません。 三代目大谷鬼次の江戸兵衛 『三代目大谷鬼次の江戸兵衛』は、東洲斎写楽が描いた有名作品です。 東洲斎写楽とは、1794年5月に彗星のごとく現れわずか10か月の活動期間で姿を消した謎の絵師といわれています。 スマートに描かれた全身絵が一般的だった役者絵を、顔を大きく役者の顔の特徴を強調しデフォルメした大首絵で表現したのです。 贔屓にしている役者の顔が大きく描かれているため、歌舞伎役者ファンに人気の作品となりました。 流行猫の狂言づくし 歌舞伎と浮世絵の人気はとどまることなく、その自由さや刺激的な面があるゆえに、たびたび規制がかけられることがありました。 1841年~1843年に行われた天保の改革では、庶民の娯楽・贅沢が厳しく取り締まられ、歌舞伎だけでなく役者絵も規制の対象となり、価格や色数までに制限がかかるほどでした。 しかし、人気絵師たちは泣き寝入りすることなく、ユーモアと反骨心で政府を煙に巻きます。 人気の役者を猫やうさぎなどの動物に例えて、パロディ画として表現したのです。 代表的なパロディ画は、歌川国芳が描いた『流行猫の狂言づくし』です。 幕府から役者絵であると指摘された際に「これは猫です」といい、幕府の規制をかいくぐっていました。 タイトルや構成に過去の有名な物語である『忠臣蔵』や『勧進帳』などを借りることで、「昔話です」と、幕府の目から逃れ、規制がかけられていた時代も庶民を楽しませていました。 江戸時代に生まれ、今も日本文化として残る浮世絵と歌舞伎 江戸時代に生まれ、400年ほどの歴史ある歌舞伎や浮世絵は、現在も日本の文化として残っています。 浮世絵と歌舞伎は、海外でも人気が高い娯楽です。 歌舞伎と浮世絵の歴史や関係性を理解すると、より浮世絵や歌舞伎の鑑賞が楽しくなるでしょう。
2024.11.15
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明治時代の浮世絵の特徴と、江戸の浮世絵との違い
浮世絵は、日本の江戸時代に生まれ、栄えた絵画の一つです。 明治時代に入ると西洋の影響が強まり、浮世絵のスタイルやテーマも変化していきました。 浮世絵は、伝統的なスタイルを残しつつも、新しい技術やテーマを取り入れ発展していったのです。 明治時代にも浮世絵はあったのか 明治時代に入ると、日本では急速な近代化と西洋文化の導入が進みました。 浮世絵も、この時代の変化に大きな影響を受けています。 近代国家を描いた、明治の浮世絵 明治時代の近代国家を描いた浮世絵は、明治浮世絵と呼ばれています。時代にあわせて東京の新しい建物や蒸気機関車、港、西洋人、明治天皇などが描かれ、軍事や近代化を題材にした浮世絵も多く描かれました。 明治浮世絵では、江戸時代とは異なる新しい時代の幕開けが表現されていたといえます。 また、江戸時代、幕府に対する批判を制限するために行われていた検閲が廃止されたことで、ジャーナリズム的要素を持った浮世絵も多く見られるようになりました。 明治時代の浮世絵の特徴 明治時代の浮世絵には、江戸時代の浮世絵にはなかった特徴があります。 江戸時代の浮世絵との大きな違いは、赤絵や光線画の登場です。 赤絵とは、輸入顔料のアニリン染料を使った赤色が目立つ様子からつけられた、明治時代の浮世絵の総称です。 江戸時代の末期から鮮明な発色をする輸入顔料がよく用いられるようになり、毒々しいまでの赤や紫などの色を発色する特徴があります。しかし、派手な発色の明治時代初期の錦絵は、現代ではあまり人気がないようです。 光線画も、明治時代に登場した錦絵の一種です。 西洋絵画の遠近法、陰影法、明暗法などを取り入れた浮世絵で、小林清親が描いた浮世絵がはじまりとされています。小林清親は、写真術を下岡蓮杖から、西洋画法をワーグマン、日本画を川鍋暁斎・柴田是真に学び、それらの技法を組み合わせて光線画を確立しました。 明治時代を代表する浮世絵師たち 浮世絵といえば、江戸時代の娯楽というイメージが強い人も多いでしょう。 しかし、浮世絵は明治時代に入ってからも描き続けられていました。 江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍した浮世絵師も多くいます。 月岡芳年(つきおかよしとし) 月岡芳年は、明治時代に活躍した浮世絵師です。 月岡芳年といえば、血みどろ絵や無残絵が印象的ではないでしょうか。残酷な流血シーンをよく描いていた月岡芳年は、「血まみれ芳年」の異名を持っています。 歌川国芳の門人であり、初期の浮世絵には、国芳の流れを汲んだ作風が見受けられます。のちに、武者絵や血みどろ絵が有名となり、中期以降は熱心に絵画技法を学び続け、独自のスタイルを築き上げていきました。 代表的な作品には、『英名二十八衆句』や『新形三十六怪撰』などがあります。 『新形三十六怪撰』は、歌舞伎、浄瑠璃、謡曲、伝説、民話、史譚などの幅広いジャンルを参考にして幽霊や妖怪を描いた傑作です。 小林清親(こばやしきよちか) 小林清親は、明治時代に活躍した浮世絵師で、月岡芳年や河鍋暁斎と並んで最後の浮世絵師と呼ばれていた人物です。光線画と呼ばれる技法を生み出した浮世絵師で、光と影によって明暗を強調した作品を多く描いています。 27歳のときに母が亡くなり、そのタイミングで東京に戻った小林清親は、浮世絵師としての活動を本格化させていきました。絵画技法を学ぶために、当時来日していた西洋人画家に師事したといわれていますが、その人物が誰であったかは明らかになっていません。 小林清親は、光線画以外にも、戦争画や武者絵も多く手がけ、代表作には『於黄海我軍大捷第一図』『菅公配所之図』などがあります。 豊原国周(とよはらくにちか) 豊原国周は、江戸時代後期から明治時代にかけて活躍した浮世絵師です。 1848年に3代歌川豊国の門下となり、当時は「門人八十八」と名乗っていましたが、1855年ごろより、最初に学びを得た豊原周信と歌川豊国の名前を組み合わせて「豊原国周」の名を利用するようになりました。 豊原国周には、ユニークな逸話も多く残されており、常識にとらわれない人物であったと考えられます。 生涯で妻を40人ほど変え、引越し回数は117回にも及ぶそうです。 浮世絵師としての技術はもちろん、奇想天外な行動や言動でも注目を集めていました。 豊原国周は、役者絵を得意としていた浮世絵師ですが、合戦浮世絵も手がけています。 代表作には『夷伐神風ノ図』『羽柴久吉 市川團十郎他』などがあります。 楊洲周延(ようしゅうちかのぶ) 楊洲周延は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 浮世絵師の中には、風刺画を用いて幕府や明治政府を批判するものも多くいましたが、楊洲周延は、戊辰戦争にて幕府側に回った異色の浮世絵師としても知られています。 また、文明開化が進む明治時代にあって、江戸風の浮世絵を描き続けた人物でもあります。 楊洲周延が生きた時代では、横浜に日本初の写真館が開業し、写真の文化が普及しつつありました。 しかし、楊洲周延は幼いころに天然痘にかかり、顔にあばたが多く残っていたため、写真を嫌っていたといわれています。 さまざまなジャンルを描いていた楊洲周延が、生涯で最も力を入れていたのは美人画です。 代表作には『高貴納涼ノ図』『上野公園御臨幸之図』などがあります。 河鍋暁斎(かわなべきょうさい) 河鍋暁斎は、江戸時代後期から明治時代初期にかけて活躍した浮世絵師です。 幼いころから写生を好み、並外れた画力により優れた浮世絵を多く残しています。 前村洞和に弟子入りした河鍋暁斎は、師から「画鬼」とも呼ばれていました。 写生に対する興味や関心が人一倍強く、10歳のころに洪水で溢れたあとの神田川で生首を拾い、持ち帰って精密な写生を行ったというエピソードも残されています。 また晩年、死の前に床に臥せていた際、枕元の障子に自分のやせ衰えた姿と亡くなった後に入る角型の桶を描いています。死を前にしても、河鍋暁斎の写生欲はとどまることを知らなかったといえるエピソードです。 幅広いジャンルを手がけた河鍋暁斎の代表作には『明治元戊辰年五月十五日 東台戦争落去之図』『僧正坊 鞍馬天狗 牛若丸』などがあります。 浮世絵の衰退と芸術作品としての復興 江戸時代に、貴族や武士階級のみならず町人にまで普及し栄えた浮世絵ですが、時代の流れによって明治時代以降、衰退していきます。 しかし、現在は浮世絵の価値が再認識され、多くの美術館や博物館で所蔵されているほか、個人の愛好家やコレクターによって鑑賞が楽しまれています。 春画の取り締まり 春画は、性的な内容を描写した絵画で、江戸時代に盛んに制作されていました。 当時、春画は庶民の娯楽として楽しまれていたのです。しかし、幕府は風紀の乱れを懸念し、公共の場での販売や展示を厳しく取り締まったのです。 春画の制作や販売には、発覚すれば厳しい罰則が科されることもありましたが、春画は裏で密かに制作され、販売され続けました。 明治時代になると、日本の社会や文化が大きく変化し、西洋の価値観や倫理が介入してきます。日本の伝統的な性風俗を卑しめる風潮が生まれ、1868年に作られた検閲制度により春画の制作や販売は、いっそう厳しく取り締まられるようになりました。その結果、人々は春画を目にする機会が減り、芸術作品としての春画は衰退していったのです。 印刷技術の発達と浮世絵の衰退 明治時代になると、木版印刷や版画技術に代わって、写真や近代的な印刷技術が普及していきました。 写真や印刷技術により、風景や人物をリアルに表現できるようになり、浮世絵の役割に取って代わり、浮世絵は徐々に衰退していったといわれています。 また、石板画や銅板画などの錦絵より安く制作できる印刷技術が発展したことも、人々の浮世絵に対する興味関心が離れていく原因の一つとなりました。 現在では芸術作品として復興 明治時代に衰退した浮世絵は、現在芸術作品として復興し、作品の美しさや独創性が再評価されています。 きっかけは、大正時代に渡辺庄三郎を中心として行われた新版画運動でした。 木版浮世絵と同じ制作方法で描かれた新版画は、より芸術性を重視した作品です。 写真との違いを強調することで、浮世絵の復興を目指しました。 現在、浮世絵は海外からも高い評価を受けており、世界中に愛好家やコレクターがいます。 浮世絵の大胆かつ繊細で美しい作品が、多くの人々に受け入れられているのです。 多くの美術館やギャラリーで浮世絵の展示が行われ、浮世絵の価値や歴史的な意義が伝えられています。 また、学術的な研究や解説書も増え、浮世絵の技法やその時代の背景について深く研究されています。 一度は衰退した浮世絵は、芸術作品としての地位を復興し、新たな時代の人々にも愛される存在となりました。 時代の変化の中で、芸術作品としての価値を高めた浮世絵 浮世絵は、江戸時代の風景や日常生活を鮮やかな色彩で描写し、人々の関心を集めていました。 明治時代のはじまりにも活躍した浮世絵師が多数いましたが、文化や技術の変化により徐々に衰退の一途を辿ります。 しかし、見事復興を果たし、現在では芸術作品としての価値はもちろん、日本の歴史や文化を知るための貴重な史料としても扱われています。
2024.11.15
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浮世絵が江戸時代に流行したのはなぜ?庶民の一大ブームに迫る
今では、希少価値の高い美術品としてのイメージが強い浮世絵。 江戸時代の初期から後期までの300年もの間、浮世絵は人々にとって身近な存在であり続けました。 浮世絵とひと口にいってもさまざまなジャンルが存在します。 浮世絵に描かれた題材を知ることで、流行の理由が見えてくるでしょう。 江戸時代に浮世絵が流行した理由とは ジャンルが多彩な浮世絵は、現在では芸術品として人々に親しまれていますが、江戸時代には、庶民も楽しめる娯楽でした。浮世絵が、日本だけにとどまらず海外でも人気を集めたのには、どのような理由があったか気になる人もいるでしょう。浮世絵が流行った理由を知ることで、より作品の魅力が深まります。 浮世絵に描かれた身近な題材 浮世絵が江戸時代の民衆から人気を集めた理由の一つに、身近な題材が描かれていたことが挙げられます。 浮世絵では、江戸時代の自然豊かな風景を描いた風景画、美しい花や鳥を描いた花鳥画、歌舞伎役者の姿を描いた役者絵、戦場で奮起する武士を描いた武者絵、力士の勇猛な姿を描いた相撲絵などが描かれていました。 例えば、日本特有の四季折々の景色を描いた風景画。 春には華やかで美しい桜が、夏には海や川のせせらぎとともに生き生きとした新緑が、秋には眩しいくらいの紅葉や収穫の様子が、冬には真っ白な雪が人々の暮らす町に降り積もる様子などが描かれており、日本の四季の美しさと人々の暮らしがよりリアルに伝わるでしょう。 当時を生きる人々の身近にあったものが題材となっていたことで、多くの人が親しみを感じられたといえます。 平和なときが長く続いた江戸時代は、町民文化が栄え、人々は娯楽を求めていました。 そこに登場した浮世絵は、時代にあった楽しみの一つであったといえるでしょう。 木版画技術の向上 浮世絵が民衆の間で流行した理由として、木版画技術の向上が挙げられます。 江戸時代、木版画技術が発展したことで、浮世絵は大量生産が可能になりました。そのため、浮世絵が安価で出回るようになり、庶民が入手しやすい状況が生まれました。 また、木版画が開発された当初は、墨一色を使った白黒で摺られています。 時代とともに技術が向上していき、墨絵に筆を使って着色していく丹絵や紅を使用した紅絵が描かれるようになり、その後、絵具に膠や漆を混ぜた漆絵も登場し、多様な手法が誕生していきました。 さらに技術が発展していき、多色摺りの錦絵が開発され、浮世絵の流行はピークに達しました。 錦絵は、浮世絵師の鈴木春信が研究を重ね完成させた技法といわれています。多色摺りが可能になったことで、浮世絵の表現方法が一気に広がったといえるでしょう。 多彩な表現が可能になった浮世絵は、より人々の興味を引きつけ、大衆から人気を集めていました。 庶民に広がった絵画鑑賞 芸者や歌舞伎役者などを描いた役者絵は、浮世絵の中でもより庶民の身近にありました。 歌舞伎は、当時のエンターテイメントの中心であり、歌舞伎役者は、現代でいうアイドルのような存在です。 浮世絵では、歌舞伎役者の華やかな衣装や表情が生き生きと描かれており、江戸時代の大衆を魅了していました。 浮世絵には、ブロマイドやファッション誌のような役割もありました。 木版画技術の発展により安価で手に入るようになったことから、人気歌舞伎役者の絵を自宅で鑑賞したり、描かれた人物のファッションを真似したりと、さまざまな楽しみ方が生まれたといえます。 浮世絵は、流行の最先端を知るための資料であったともいえるでしょう。 なお、現代では10,000円ほどで購入できる浮世絵が、江戸時代では20文前後で販売されていました。 当時、蕎麦1杯が16文程度であったため、現代の価格に直すと数百円から1,000円ほどで浮世絵が購入できたと考えられます。 現在まで高い人気である「ジャポニズム」 ジャポニズムとは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、西洋の芸術や文化に日本の要素が取り入れられ、西洋社会に影響を与えたことを指します。 この期間、日本の浮世絵や陶磁器、木工品などの美術品がヨーロッパや北アメリカで注目され、西洋の芸術家やデザイナーたちに大きな影響を与えました。 ジャポニズムの特徴は、日本の美術や工芸品に見られる独特のデザインや技法が西洋の芸術作品に取り入れられたことです。 特に、浮世絵の影響は顕著で、その明るく繊細な色彩や平面的な表現、独特な構図が、印象派やポスト印象派などの西洋の芸術に影響を与えました。 ゴッホたちも惚れ込んだ浮世絵 ゴッホは、パリで浮世絵を鑑賞し、その鮮やかな色彩や構図に魅了されたといわれています。 当時の西洋では、肖像画や宗教画、戦争画などの題材が多く描かれていました。 日本の浮世絵は風俗画と呼ばれるジャンルで、人々の暮らしをメインにした絵画です。 西洋にはなかった題材を描いていた点も、西洋の画家たちに大きな衝撃を与えたと考えられるでしょう。 西洋画家の中でもゴッホは特に、熱狂的な浮世絵愛好家であったといわれています。 ゴッホの大胆な構図や鮮やかな色使いは、浮世絵からインスピレーションを受けているといわれるほどです。 弟のテオに向けた手紙の中には、葛飾北斎の名が度々登場したり、浮世絵の話題がよく綴られていたりしました。 ゴッホの作品である『タンギー爺さん』の背景にも、浮世絵が登場しています。 弟と2人暮らしをしていた際には、浮世絵の収集を熱心に行っており、浮世絵への大きな愛が伝わってきます。 国内外の展覧会も人気 浮世絵は、国内のみにとどまらず、海外でも高い評価を受けており、コレクターも多くいるなど、その人気は、国内外で常時展覧会が開催されるほどです。 浮世絵人気が高まる中、ひときわ注目を集めているのが「春画」です。 葛飾北斎が描いた『蛸と海女』は、グロテスクな内容といわれることもある作品ですが、19世紀後半にフランスの美術批評家であるエドモン・ド・ゴンクールが評価して以来、ヨーロッパの美術界では、有名な作品となっています。 日本における春画は、19世紀ごろからタブー視されていました。 しかし近年、海外で春画を題材にした研究書が多数出版されたことをきっかけに、春画コレクションを対象としたリサーチが行われています。 このことから、春画に対する興味が人々の間に広がりつつあるともいえるでしょう。 時代を超え世界へ広がる、浮世絵の人気 日本の代表的な文化である浮世絵は、時代を超えて世界中で愛される芸術品です。 海外からの評価が高いとはいえ、日本でも古くから親しまれている作品であるため、国内で鑑賞する機会も多くあります。 浮世絵の時代背景を知ると、より楽しく鑑賞できるでしょう。
2024.11.15
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浮世絵の「復刻版」とは?オリジナル版やコピー品との違い
江戸時代から民衆の間で高い人気を誇っていた浮世絵作品。 版画の技法を取り入れたことで大量生産が可能となり、多くの町民が楽しめた芸術作品でした。 浮世絵版画は、現代でも高い人気を誇っており、人気浮世絵師の作品は高値でやり取りされています。 浮世絵の「オリジナル版」「復刻版」とは 浮世絵版画とは、浮世絵師が描いたデザインを木版に彫って、紙に摺り上げた作品を指します。木版を完成させてしまえば、何度も摺れるため大量生産を可能にした制作方法です。 なお、浮世絵師が自ら筆をとって紙に描き上げた作品は、肉筆画といい、これは1点ものです。 浮世絵版画には、オリジナル版と復刻版と呼ばれる2つの種類があります。 どちらであるかによって、作品の価値が大きく異なるため、浮世絵版画の買取や購入を検討している方は、違いについて詳しく知っておきましょう。 オリジナル版と復刻版の違い 浮世絵版画のオリジナル版とは、江戸時代から明治のはじめごろにかけて制作されていた木版画の作品を指します。 浮世絵版画は、浮世絵師自らがデザインし、彫師によって木版に彫られ、摺師によって紙に摺り上げていく工程を経て完成するのです。 オリジナル版の中でも、初期に摺られた浮世絵を初刷り、重版として摺られたものを後摺りと呼びます。 一方、復刻版とは、人気作家の作品を現代に復活させるべく制作されたもののことです。人気浮世絵師の絵をもとに、現代の彫師が新たに木版を彫り、摺師によって摺り上げられた作品が復刻版に該当します。 復刻版の骨董品価値 浮世絵は、日本のみならず海外からも人気の高い芸術作品であり、現代においても多くのファンやコレクターが存在します。しかし、浮世絵版画のオリジナル版は、何枚も刷り上げられたとはいえ、現代まで現存している作品は、数に限りがあるでしょう。 復刻版は、オリジナルのデザインをもとにプロの彫師が木版を制作しているため、オリジナル版と遜色ないクオリティといえます。 しかし、骨董品としてみたときには、オリジナル版と比較すると歴史的価値や希少価値が劣るため、価格も低くなると考えられるでしょう。 復刻版は、高価買取を狙うものではなく、自宅で観賞用として楽しむものであるといえます。 復刻版とコピー品(印刷)は違うのか 印刷機でコピーされた作品は、復刻版とは呼びません。 復刻版は、オリジナルデザインを用紙に印刷したものではなく、一度木版に彫られ、一枚一枚摺り上げられています。 復刻版と聞くと、印刷されたポスターのようなものを想像する人もいるでしょう。 しかし、復刻版は、単なる印刷ではなく、彫師や摺師が手間をかけて制作しており、オリジナル版と同様に紙に摺る工程を行っているため、木版画ならではの特徴を楽しめるのも魅力の一つです。 版画作品は、作品を裏から見てみると色のにじみが見受けられます。 このにじみが木版画の証拠であるとともに、味わいの一つともいえるでしょう。 また、復刻版は贋作でもありません。 贋作は、現代において印刷や版画で刷られた作品を、当時のオリジナルと偽って販売、転売したものです。 復刻版は、復刻版として販売がされており、オリジナル版を尊重して扱われています。 圧倒的に価値の高い「初版(初摺り)」の浮世絵版画 オリジナル版の浮世絵版画には、初摺りと後摺りがあると紹介しました。 初刷りは、オリジナル版の中でも価値の高い作品です。 初刷りでは、絵を描いた浮世絵師が、自ら彫師や摺師が摺り上げる場面に立ち会い、色や表現の指示などを行っている場合があります。 自分が想像している完成図を表現できるよう、こだわりを持って刷られている可能性が高いのです。 そのため、オリジナル版の中でも初摺りは、浮世絵師が自らかかわったとする希少価値がつくといえるでしょう。 復刻版のある浮世絵は人気の証拠 人気の高い浮世絵は、明治期以降も復刻版が多く刷られていました。 その作品の人気の高さ故でもありますが、骨董品としての価値が高いのは、やはり当時の浮世絵師や版元たちがかかわったオリジナルだといえるでしょう。
2024.11.15
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人気の浮世絵・武者絵は高価買取が期待できます
浮世絵はさまざまな題材を描き、美人画や風景画などいくつもの人気ジャンルがあります。 その中でも武者絵は、国内外で高い人気を得ているものです。武者絵は、江戸時代から明治時代にかけて多く制作され、次々と人気絵師を生み出しました。 武者絵は、国内でも海外でも評価が高く、慎重に業者を選べば高価買取も期待できるジャンルです。作品の状態や絵師・描かれた題材・描かれた年代などにより、価格は大きく変動します。そのため、真贋や価値を適正に見極められる買取業者を選ぶことが大切です。 武者絵の浮世絵は高価買取のチャンス 武者絵の浮世絵は人気のジャンルであり、作家や作品によっては高価買取が期待できます。 有名な絵師の作品や保存状態の良い作品には高値がつきやすく、鑑定書や付属品の有無などにより価格が変動するのが一般的です。 作品の価値を適正に査定できる買取業者に持ち込むことで、高価買取のチャンスと巡り会えるかもしれません。 武者絵の浮世絵を買取してもらう際は、専門の買取業者に依頼しましょう。 武者絵とは 武者絵とは、歴史や伝説・神話に登場する武士や英雄の姿、戦いが描かれた絵を指します。 江戸時代から明治時代にかけて、武者絵は多くの浮世絵師の手によって描かれました。 武者絵の代表的な絵師として、浮世絵を確立させた菱川師宣(ひしかわもろのぶ)や、武者絵の最盛期を作り上げたといわれる歌川国芳(うたがわくによし)などが挙げられます。武者絵は、美人画や風景画と比較しても遜色ないほどの人気を誇り、徳川家以外の武将を英雄視することを危惧した江戸幕府により、規制の対象にもなりました。 武者絵は買取してもらえる? 武者絵は国内外で人気の高いジャンルであり、買取業者にて査定・買取を依頼できます。 買取価格は、作品の状態や作者・描かれた時代などにより変動するため、武者絵の知識や査定の経験が豊富で、作品を適切に評価できる買取業者を選ぶことが大切です。 有名浮世絵師も描いた、武士の世界 浮世絵の中でも人気のジャンルである武者絵は、数々の有名浮世絵師により描かれました。 歴史や伝説の中で語られてきた多くの武将や英雄を、名のある絵師たちはどのように描いたのでしょうか。 菱川師宣 菱川師宣は、浮世絵の先駆者として語られることの多い絵師であり、江戸時代前期に活躍しました。 1630年ごろ(寛永年間の中期)に、現在の千葉県鋸南町保田で生まれたと推定され、幼少期から絵の才能を発揮し、狩野派や土佐派などに触れ、独学に近い形で絵を修行したのち江戸に出ます。 江戸に出てからは絵本の挿絵で人気を博しました。 挿絵では市井の女性や名所の風景などを木版画で描き、これが浮世絵へと発展していきます。 菱川師宣が好んで描いた題材は江戸の庶民であり、中でも「見返り美人」は浮世の女性を色鮮やかに描いた肉筆画で、彼の代表作といえるでしょう。 また、彼の作品には『武家百人一首』や『大江山酒呑童子図』、『大和武者絵』など、多くの武者絵も残されています。 菱川師宣は「墨摺り(すみずり)」という技法で武者絵を多数制作しました。 墨摺りとは、墨一色で版画を刷り、濃淡や線のタッチだけで多彩な表現を可能にする技法です。 さらに、墨で表現された絵の上に色彩を加える技法も駆使し、色合いや雰囲気などをより細やかに描き出すことも得意としていました。国内外で、今なお高い人気を誇る浮世絵を創始した功績は計り知れません。 勝川春亭 勝川春亭(かつかわしゅんてい)は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師で、武者絵や役者絵で名を馳せた勝川春英の門人です。 本名は、山口長十郎(中川長十郎との説もあり)ですが、勝川を称し、松高斎や戯墨庵・耕煙山樵・及壺・宮山人などの号を持ちました。 勝川春亭は数多くの錦絵(木版画浮世絵の一種で分業が特徴)を描き、役者絵や美人画・名所絵など多様な作品を残しましたが、錦絵で最も多く描いたのが武者絵でした。2枚や3枚の絵を横に連ねて一つの画面を作る「二枚続」や「三枚続」など、武者絵としては斬新な手法を積極的に取り入れ、迫力ある作品を残しています。勝川春亭の用いた形式は、次の世代の歌川国芳を輩出する土台となりました。 代表作のひとつである武者絵『巴御前武蔵三郎左衛門有国(ともえごぜんむさしさぶろうざえもんありくに)』は、平家の残党である武蔵三郎を、源義仲軍の女性武将・巴御前が討伐するシーンを描いた作品です。 巴御前の勇敢さや、討たれる武蔵三郎の悲壮さを迫力ある画面に表現しています。 また、『石橋山合戦(いしばしやまかっせん)』は、源頼朝軍の佐々木高綱が、殿(しんがり)として平家軍の追撃を立ち阻む様子が激しいタッチで描かれた、三枚続の大作です。 歌川国芳 歌川国芳(うたがわくによし)は、1797年(寛政9年)ごろに江戸で生まれました。 幼少期から浮世絵に親しみましたが、12歳ごろの作品である『鍾馗提剣図(しょうきていけんず)』が人気浮世絵師の歌川豊国に高く評価され、豊国のもとで修行に励むことになります。 しかし、師である豊国や兄弟子の歌川国貞の人気に追いつくことのできない不遇の時代が続きました。 歌川国芳にとっての転機は、1827年ごろに中国の古典小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人(つうぞくすいこでんごうけつひゃくはちにんのひとり)』でした。 江戸でも人気のあった水滸伝の登場人物を一人ひとり描いたこの作品がきっかけで、彼は「武者絵の国芳」という異名を獲得します。歌川国芳の武者絵は、画面から飛び出さんばかりの迫力ある構成と、躍動感あふれる人物描写が特徴でした。 『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』の一つ『浪裏白跳張順(ろうりはくちょうちょうじゅん)』は、水滸伝の登場人物である張順を描いた作品で、作中の豪傑たちのダイナミックな描写には、歌川国芳による武者絵の特色が存分に発揮されています。 また、風刺やユーモアを交えた作品で江戸幕府を批判し、江戸町人の人気を得たという反骨精神も、彼の魅力を物語る一面といえるでしょう。 武者絵には歴史上の人物も数多く描かれた 武者絵には、多くの人々に馴染み深い、歴史上の人物も数多く描かれています。 太平の世である江戸時代では、戦国時代の武将は伝説上の人物のようになっていたのでしょう。 有名な浮世絵師たちによって描かれた、歴史上の人物を画題とした作品とは、どのようなものでしょうか。 『加藤清正公図』(葛飾北斎) 『加藤清正公図』は、ゴッホやドガにも影響を与えたとして世界的にも有名な、葛飾北斎による作品です。 葛飾北斎は、1760年(宝暦10年)に現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くことに熱心でした。 成長して浮世絵の彫師として下積みの時代を送りますが、あるとき絵師になることを決心し、勝川春章の門人となりました。19歳ごろから勝川春朗として錦絵を世に出しますが、その後は勝川派から離れ、美人画や風景画・妖怪絵など多彩な作品を残しています。 そんな葛飾北斎が40歳のときに描いた肉筆の武者絵が『加藤清正公図』です。 加藤清正は、豊臣秀吉の先鋒として活躍した戦国武将で、秀吉の死後は徳川家康に従いました。関ヶ原の戦いの後は肥後熊本藩主となり、現在の熊本城を築城した人物としても有名です。 『加藤清正公図』は、葛飾北斎の武者絵の中でも傑作とされており、猛将らしい清正公の気迫や宴席での余裕ある雰囲気などを巧妙に描いています。色彩や構図にも独特の美しさがあり、葛飾北斎の画力がいかに優れているかを感じられるでしょう。 『藤原保昌月下弄笛図 』(月岡芳年) 月岡芳年(つきおかよしとし)は1839年(天保10年)に生まれ、幕末から明治半ばにかけて浮世絵師として活躍しました。 本名を月岡米次郎(つきおかよねじろう)といい、12歳で歌川国芳に弟子入りし、武者絵や役者絵を次々と発表します。 27歳のときに、兄弟子の落合芳幾と競作した『英名二十八衆句』は、その凄惨な流血描写や死体描写から「血みどろ絵」や「無惨絵」と呼ばれ、江戸川乱歩や三島由紀夫など後世の文学者らの興味を集めたことでも有名です。月岡芳年は、幕末から明治にかけて激動の時代を生き、戊辰戦争や西南戦争などの戦争も錦絵に描きました。 月岡芳年が1883年(明治16年)に残した大判の三枚続が『藤原保昌月下弄笛図』です。 傑作のひとつに数えられるこの作品は、盗賊の「袴垂(はかまだれ)」が、貴族であり優れた武人でもある藤原保昌(ふじわらのやすまさ)を切り殺そうと隙をうかがうも、笛を吹きながら付け入る隙を与えない保昌を相手に、動けずにいる緊迫した場面を描いた作品です。多くの分野で多彩な才能を見せる月岡芳年は、浮世絵の人気を支えた歌川国芳にも比肩しうるほどの人気を誇っています。 『武田上杉川中島大合戦』(歌川国芳) 江戸時代後期に活躍した歌川国芳は、30歳ごろに江戸で流行していた中国の小説『水滸伝』の登場人物を描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之壹人』で一躍人気絵師となりました。歌川国芳の出世作として知られるこの作品は、その後の水滸伝ブームの火付け役となりました。 そして、「武者絵の国芳」とあだ名された歌川国芳の、躍動感あふれる大胆な構図と類まれな画才が存分に発揮された作品が『武田上杉川中島大合戦』です。 武田信玄と上杉謙信との間で5度にわたり繰り広げられた川中島の戦いは、1561年(永禄4年)に行われた4戦目に佳境を迎えます。この合戦における最大の見どころは、何といっても武田信玄と上杉謙信の一騎打ちでしょう。 画面右の謙信が斬り掛かり、画面中央の信玄がそれを軍配で受け止める場面が、流れる川の激しさとともに大迫力で描かれています。鮮やかな色彩とダイナミックな構図で見る者を惹きつけるこの作品は、「武者絵の国芳」の真骨頂といえるでしょう。 人気の浮世絵・武者絵の買取は、プロの査定士へ相談を! 武者絵の浮世絵は、歴史や伝説上の人物の活躍、有名な合戦や物語の一場面を描いた絵です。 江戸時代から明治時代にかけて、多くの人気浮世絵師がさまざまな武者絵を描き、好評を博しました。武者絵は愛好家が多数おり、海外での人気も高いため、優良な買取業者を選べば高価買取が期待できます。 人気浮世絵師が描いた作品には高値がつきやすいですが、落款や署名があればさらに価値が高まるでしょう。保存状態や付属品の有無も価格を左右するため、保管の仕方に気をつけなければなりません。 また、一点物である肉筆画や、木版画の初摺りも、希少価値という観点から評価額が高い傾向があります。 適正な価格をつけてもらうためには、プロの査定士に見てもらうのが最適です。 人気の浮世絵・武者絵の買取はプロの査定士のいる浮世絵買取店に相談してみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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富士山や江戸の町…風景画浮世絵を買取してもらおう
江戸時代から明治時代にかけて、庶民の娯楽として広まった浮世絵。 なかでも、風景を描いた作品は、独創性に富んだものが多く、幅広い層に人気があります。 葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『名所江戸百景』など、誰しも一度は目にしたことがあるのではないでしょうか。 浮世絵の買取を希望する場合は、専門の買取業者に査定をお願いするのがお勧めです。 有名な作品や、状態の良い作品は、高く売れるチャンスがあります。 風景画浮世絵をお持ちの方は、買取業者に持ち込んでみてはいかがでしょうか。 風景画の浮世絵は高価買取のチャンス 風景画の浮世絵は、独特の色彩表現や構図により国内外で人気があります。 有名な絵師の作品や、劣化が少なく保存状態の良いもの、大きなサイズのものなどは、高価買取のチャンスです。浮世絵の多くは木版画として大量に印刷され、庶民にも入手しやすかったため、思わぬところに保管されている場合があります。 風景画浮世絵とは 風景画浮世絵とは、江戸町人の生活を描いた浮世絵の中で、主に風景に焦点を当てた作品です。 「浮世」つまり仏教用語でいうところの「儚い世」が、やがて「現世の楽しみ」を意味するようになります。そして浮世絵では、遊女や役者などの町人の暮らしから歴史物語など、多様な題材が描かれるようになりました。 日本における風景画は、中国美術の影響が色濃い「山水画」として発達しましたが、浮世絵の1ジャンルとして独立したのは、18世紀末ごろです。 幕府が武者絵や役者絵に対する規制を強めると、風景画というものが脚光を浴びるようになります。 風景画浮世絵で描かれるのは、江戸や京都の街並み、富士山の眺めなど、日本人に馴染み深い景観です。 山水画のような理想化された自然の風景ではなく、日本人なら誰もが見たことがあるような写実的でどこか身近な風景こそが、浮世絵で描かれる風景画です。 風景画の代表作といえば、葛飾北斎の『富嶽三十六景』や歌川広重の『東海道五十三次』を思い浮かべる人は多いでしょう。風景画浮世絵は、美しく身近な自然や街並みの姿を描くのみならず、当時を生きた人々の価値観や感性をも反映しています。 風景画浮世絵は買取してもらえる? 風景画浮世絵は、美術品としての価値があるだけでなく、当時の生活や文化を今に伝える貴重な資料でもあるため、多くの需要があります。 そのため、多くの買取業者が存在し、査定や買取を行っています。 しかし、作者や作品の状態、描かれたテーマなどにより買取価格が大きく変動することも。 風景画浮世絵を査定してもらう際は、真贋を見極め適正な価格つけられる業者を選ぶことが重要です。 誰もが知る『富嶽三十六景』は代表的な風景画 風景を描いた浮世絵として、大半の人が思い浮かべるのは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』ではないでしょうか。 激しい白波に翻弄される小舟と、遠景に佇む富士山を描いた『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』。 這うように青黒く広がる樹海と、朝日を浴びて真っ赤に染まる富士山を描いた『凱風快晴(がいふうかいせい)』。 これらは、誰もが一度は目にしたことがあると言っても過言ではない、あまりに有名な風景画浮世絵です。 『富嶽三十六景』とは 『富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)』は、1831年〜1834年(天保2年〜5年)にかけて刊行された、葛飾北斎(かつしかほくさい)による大判の版画集です。 葛飾北斎の晩年に描かれた風景画のシリーズで、さまざまな季節や場所から眺めた富士山が色鮮やかに描写されています。 富嶽三十六景の刊行当時、葛飾北斎は70歳を超えていましたが、老いてなおその画力は、さらに洗練されていきました。富士山をテーマにしていますが、富士山を眺める人々やその周辺の様子などを巧みに描いており、葛飾北斎の観察力や構図力・色彩センスが存分に感じられるシリーズです。 なかでも『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』は、富嶽三十六景の代表作であるだけでなく、浮世絵を代表する作品として世界中で知られています。画面手前では荒れ狂う白波に小舟が揉まれ、画面奥には泰然と構えた富士山の姿が対照的に描かれています。 信仰の対象や観光地として人々の心に深く根ざしていた富士山。 当時流行した、藍色の絵具や鮮やかな赤色を用いて描いた『富嶽三十六景』は、国内外に大きな反響を巻き起こし、そのあまりの人気ぶりに、当初の36図版に加えて追加の10版が刊行され、富嶽三十六景は全46景となったほどです。 三大役物 富嶽三十六景の中でも、「三大役物」と呼ばれ、ひときわ人気の高い作品があります。 その3つとは『神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)』・『凱風快晴(がいふうかいせい)』・『山下白雨(さんかはくう)』です。 『神奈川沖浪裏』 『神奈川沖浪裏』は、葛飾北斎による作品の中でも最もよく知られたものの一つです。白波の迫力と、遠くに見える富士山の落ち着いた姿が対照的に描かれています。 『凱風快晴』 『凱風快晴』という題名に心あたりがない場合でも、「赤富士」といえばすぐにわかる人は多いかもしれません。『凱風快晴』の画面で、朝日に照らされ真っ赤に染まる富士山と裾野に広がる樹海の背景には、真っ白な雲と青空が広がっています。 空と雲と富士山という単純すぎるほどの構成要素ですが、それぞれが細部まで緻密に描かれ、見るほどに魅力が増す傑作です。 『山下白雨』 『山下白雨』は、「黒富士」とも称され、富士の裾野に黒雲が広がり、稲妻が宙を引き裂く様が描かれています。雷雨のふもととは対照的に、山頂付近は明るい色調で描かれ、富士山の高さや雄大さが巧みに表現されています。 「黒富士」と「赤富士」では、描かれている雲の形や光の様子が異なり、季節ごと変化する富士山の姿を感じられるでしょう。 歌川広重が描いた風景画『名所江戸百景』 江戸時代後期の浮世絵師である歌川広重(うたがわひろしげ)は、風景画の名手として知られています。 『東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)』や『名所江戸百景(めいしょえどひゃっけい)』など、多くの優れた作品を残しました。 『名所江戸百景』 『名所江戸百景』は、1856年〜1858年(安政3年〜5年)にかけて歌川広重が制作した連作浮世絵です。 江戸の名所や景観・町人たちの暮らしを描いた作品群であり、浮世絵師・歌川広重の集大成とも位置付けられます。名所として古くから知られる場所だけでなく、何気ない江戸近郊の景観が、四季ごとに斬新な構図で描かれています。 『大はしあたけの夕立』 『大はしあたけの夕立』は、隅田川にかかる「大はし」の上を、雨から身を隠しながら渡る人々と、対岸の「あたけ」(安宅丸という船が繋留されていたことに由来)がぼやけて見えないほどの豪雨を描いた作品です。 墨の濃淡で表現された直線により、雨の強さや方向性が示されており、橋と河岸が斜めに交差する構図により、奥行きやダイナミックな雰囲気が演出されています。また、版木に水を含ませることにより絵具を滲ませ、遠くに見える対岸の街並みをぼかした表現も特徴的です。 橋を渡る人々の慌てた様子や、激しく叩きつける雨の音までも聞こえてくるような、リアルさが感じられる作品でもあります。 この作品は、印象派の画家ゴッホが模写したことでも知られ、歌川広重の画力が如実に伝わってくる傑作と言えるでしょう。 『亀戸梅屋舗』 名所江戸百景の一枚である『亀戸梅屋舗(かめいどうめやしき)』は、江戸の亀戸にあった梅の名所を描いた絵。 画面の一番手前に、視界を遮るように大きく描かれた梅の木が特徴的です。 背景には梅屋敷の庭や訪れる人々が見えます。 画面上半分の赤と、下半分の青が対比を強調しており、鮮やかな色彩にも歌川広重の多彩な表現を感じられるでしょう。 1857年(安政5年)にシリーズの30作目として描かれた作品で、春の風景を題材にして人気を博しました。 この作品の「梅屋敷」とは、豪商・伊勢屋彦左衛門(いせやひこざえもん)の別荘として建てられた「清香庵」を指します。 清香庵の梅林は、大変見事であると評判で、8代将軍である徳川吉宗も訪れたほどの名所でした。 『大はしあたけの夕立』とともに、『亀戸梅屋舗』もゴッホが模写した絵として知られています。ゴッホは浮世絵の中でも、歌川広重の作品から特に大きな影響を受けました。切り取られた構図や装飾的な色使い、強い輪郭線などを自分の作品で試すために、ゴッホは歌川広重の作品を模写したといわれています。 『浅草金龍山』 『浅草金龍山』もまた、歌川広重の傑作『名所江戸百景』を代表する作品です。 この作品は、浅草に現存する浅草寺雷門から見える雪景色を描いた一枚です。 浅草寺は、正式名称を「金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)」といい、「浅草観音(あさくさかんのん)」の呼び名でも知られています。 江戸時代の浅草は、庶民の集まる娯楽の場であり、浅草寺はその象徴として江戸の人々に愛されており、江戸の名所を描いた歌川広重の作品の中でも、特に人気の高い作品です。 『浅草金龍山』の大きな特徴は、画面手前の上部に大きく描かれた雷門の大提灯です。 この提灯を、あえて切り取るように描くことにより、画面に奥行きと臨場感を与えることに成功しています。 雷門の柱と提灯の大きさが、遠景の小さな寺と対照的であり、雪の白さをより際立たせている点も見事です。 こうした歌川広重のトリミング手法は、当時の印象派絵画にも多大な影響を与えたといわれています。 人気の風景画浮世絵の買取は、プロの査定士へ相談を! ご自宅やご実家に眠っている風景画浮世絵はありませんか。 江戸時代から明治時代にかけて広まった、独自の日本文化・浮世絵。美人画や役者絵・名所絵などさまざまなジャンルがあります。 その中でも風景画浮世絵は、国内外のコレクターや美術館・博物館による人気が高く、高価買取が期待できるジャンルです。 浮世絵の買取価格は、作者や作品の題材・保存の状態や付属品の有無などにより、大きく変動します。 そのため、高価買取のためには、専門知識豊富なプロの査定士の判断が不可欠です。状態の良いものは希少であり、高い買取価格がつく可能性もあります。シワやシミなどのダメージがあっても、有名作品であれば高値がつくことも。 適正な価格をつけてもらうためにも、信頼できる買取業者でプロの査定士に相談してみることをお勧めします。
2024.08.13
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役者絵は高額買取が期待できる浮世絵!買取業者の選び方やポイントとは
江戸時代から明治時代にかけて、浮世絵は庶民を中心に親しまれた文化でした。 その浮世絵の中でも、歌舞伎役者の姿を描いた作品が「役者絵」と呼ばれ、多くの人気作品が存在します。 人気の浮世絵・役者絵は高価買取が期待できる? 浮世絵にはいくつかのジャンルがありますが、役者絵はその中でも人気ジャンルの一つです。 役者絵の買取価格は、作者や作品の状態・希少性などさまざまな要素で決まるため、適正な価値を正しく知っておく必要もあります。 役者絵(役者浮世絵)とは 役者絵とは、浮世絵の中でも特に、歌舞伎役者を描いた作品を指します。 1603年(慶長8年)、出雲の阿国が京都で「かぶき踊り」を創始、1624年(寛永元年)に京橋に中村座ができたことが歌舞伎の始まりです。当初は女性も出演していましたが、風紀を乱すという理由で幕府により禁止され、その後は男性俳優による古典演劇へと発展していきました。 その歌舞伎役者の舞台姿や似顔を版画にしたものが役者絵です。 最初の役者絵は、鳥居派の浮世絵師によって描かれました。当時はまだ役者の顔に似せて描かれてはおらず、類型的な表現にとどめられていました。 その後、勝川派の勝川春章(かつかわしゅんしょう)によって「似顔(にがお・実際の役者の顔に似せて描く)」が考案され、役者絵の形が次第に出来上がっていきます。 さらに、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)が、役者の個性をデフォルメした「大首絵」を描いたことが話題に。 歌川豊国(うたがわとよくに)や歌川国貞(うたがわくにさだ)など、歌舞伎役者をより魅力的に描き出す浮世絵師たちが、次々に頭角を現しました。 役者浮世絵は高く売れる? 役者絵は人気が高く、鳥居派や勝川派・歌川派など、多くの有名浮世絵師によって手がけられてきました。 また、美術品としての価値が高いため需要があり、高価で取引されることも珍しくありません。役者絵の買取価格は、作者や作品の状態・付属品の有無などさまざまな要素で変動します。 役者絵を高価で買取して欲しい場合は、専門的な知識と経験を持つプロの査定士に依頼するのが良いでしょう。 人気歌舞伎役者の浮世絵 人気の歌舞伎役者の役者絵は、江戸時代から数多く残されています。 なかでも、歌舞伎界で現代まで続く人気を持つ「市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)」の役者絵は、多くの人々を魅了していました。 市川團十郎とは 市川團十郎は、歌舞伎役者の名跡(みょうせき) であり、江戸歌舞伎の始祖と言われる初代から現在の13代目まで、300年以上にわたって続いています。 歌舞伎における名跡とは、血縁や師弟関係により代々受け継がれてきた芸名です。 名跡の大きさや歴史の長さに応じて、役者の格や地位が決まりますが、市川團十郎の名跡は、歌舞伎界で最も権威ある大名跡だと言えます。 初代・市川團十郎は、ダイナミックな演技である「荒事(あらごと)」を得意とし、市川宗家の礎を築きました。 その後を継いだ歴代の市川團十郎も、写実的な演技である「実事(じつごと)」や優しく柔和な演技「和事(わごと)」など、個性に応じてさまざまな芸風を磨き上げ、歌舞伎の発展に貢献したのです。 市川團十郎は、歌舞伎の名跡としてだけでなく、浮世絵の題材としても非常に人気が高く、多くの浮世絵師によって役者絵が描かれました。 東洲斎写楽が大首絵(歌舞伎役者や遊女などの上半身を描いた浮世絵版画)を描いた5代目。歌舞伎十八番(初代から4代目までが得意とした18の作品)を定め、敵役である「色悪(いろあく)」の芸を確立させた7代目。上品で美しい容姿により多くのファンを魅了した8代目などが浮世絵に描かれています。 なかでも8代目市川團十郎は、「死絵(しにえ)」という、役者を追悼する浮世絵が多数描かれたことでも有名です。 市川團十郎を描いた、浮世絵師たち 初代から続く市川團十郎の名跡は、歌舞伎界で圧倒的な影響力を持ち、彼らを描いた浮世絵は、時代を超えて名演を今へと伝える貴重な資料です。 当時、役者絵として市川團十郎をはじめとする歌舞伎の世界を描いたのは、どのような浮世絵師たちだったのでしょうか。 歌川豊国 作家名:歌川豊国(うたがわとよくに) 代表作:『役者舞台之姿絵 まさつや』『三代目市川高麗蔵の佐々木巌流』 歌川豊国は、1769年(明和6年)に木彫り人形師の子として生まれました。 幼少期に歌川派の創始者である歌川豊春(うたがわとよはる)の門人となっています。 絵師としてのキャリアは、1786年(天明6年)に発表した絵暦『年始の男女』や、1788年(天明8年)に描いた黄表紙(絵を主体とした滑稽文学)である『苦者楽元〆(くわらくのもとじめ)』の挿絵から始まったと言えます。 歌川豊国が浮世絵師として出世する転機となったのが、『役者舞台之姿絵(やくしゃぶたいのすがたえ)』でした。 この役者絵のシリーズは、当時の人気役者の姿を爽やかで清々しいタッチで描写したことから、大変好評を博しました。 衝撃のデビューから10ヶ月で姿を消した東洲斎写楽や、役者絵の大御所・勝川春英の引退もあり、歌川豊国は役者絵の世界を代表する存在となります。 歌川豊国は、美人画においても優れた作品を世に残しており、当時の人気絵師・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)と並ぶほどの人気を得ました。 さらに、版本の挿絵では葛飾北斎とも人気を争ったことから、歌川豊国がいかに幅広い画力を持っていたかがうかがえるでしょう。 歌川国貞 作家名:歌川国貞(うたがわくにさだ) 代表作:『東海道五拾三次之内 京 石川五右衛門』『東海道坂下土山間 猪の鼻 勘平』 歌川国貞は、1786年(天明6年)に現在の東京都墨田区にある材木問屋の家に生まれ、少年時代から歌舞伎に魅了された歌川国貞は、役者絵を多数複写していました。その後、初代歌川豊国に認められ、彼の弟子としてすぐに才能を開花させたのです。 歌川豊国に弟子入りしたのは15歳のころでしたが、次の年には本の挿絵を描くようになり、その後も精力的に作品を発表していきました。 1815年には、役者の錦絵を出版することとなり、美人画や合巻(ごうかん:黄表紙を数冊綴じたもの)の挿絵など、幅広い分野で活躍しました。 歌川国貞が生涯で描いた作品は、20,000点以上に及ぶとされ、浮世絵師の中でも特に多作な絵師として知られています。 1844年(天保15年)に、師匠である歌川豊国の名を継ぎ「2代歌川豊国」を名乗りましたが、2代はすでに歌川豊重が襲名していたため、歌川国貞は一般的に「3代歌川豊国」と呼ばれています。 歌川国貞は、浮世絵に対する幕府の規制が厳しい中、独自のスタイルを確立しました。 歌川国貞の役者絵は「面長猪首」と呼ばれる特徴的なもので、役者の細長い顔と太く短い首を強調した手法が魅力の一つです。 東洲斎写楽 東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)は、1794年(寛政6年)の浮世絵界に突如として現れた正体不明の絵師です。 東洲斎写楽のプロフィールはほとんど知られていませんが、10ヶ月という短い活動期間の中で140点あまりの作品を残し、人々に強烈なインパクトを与えました。 東洲斎写楽の役者絵は、役者本人の特徴を誇張し、役者の人間性や演技力を鮮明に表現する点です。 歌舞伎役者を単純に美しいもの、煌びやかなものとして描くだけではなく、個性や内面に迫る表現手法をとり、革新的な役者絵で人々を魅了しました。 東洲斎写楽の代表作とも言える『市川鰕蔵の竹村定之進(いちかわえびぞうのたけむらさだのしん)』は、市川鰕蔵(のちの5代目市川團十郎)の姿を描いた作品です。市川團十郎の堂々たる風格や豊かな表情が、特徴をデフォルメした形で描かれており、役者の魅力を際立たせる作品と言えます。 東洲斎写楽は、浮世絵界に出現したときと同様に、突然その姿を消してしまいました。 東洲斎写楽が誰で、どのような背景を持つ人物だったのかについては、現在になっても明らかになっていません。しかし、彼の作品が美術史上で重要な位置を占めていることは間違いありません。 役者絵はなぜ人気だったのか 庶民の間で大人気となった役者絵は、どのような理由でそれほどの人気を得ていたのでしょうか。 役者絵の人気について考えるためには、歌舞伎が庶民の間でどのような位置づけ出会ったかを知る必要があります。 庶民最大の娯楽・歌舞伎 歌舞伎は、江戸時代に庶民の間で大流行した伝統芸能であり、江戸の文化風俗を語るために欠かすことのできない存在です。 歌舞伎の始まりは、京都で「出雲阿国(いずものおくに)」という巫女出身の女性が奇抜な服装で踊った「かぶき踊り」とされています。 かぶき踊りは、遊女や若者たちに広まりますが、風紀を乱すとの理由で幕府から禁止されてしまいました。その後、成人男性が演じる「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が登場し、今も受け継がれる歌舞伎へと発展していったのです。 歌舞伎は、江戸の町人文化や気質を反映した演目や役者・演出によって、観客の心を掴むことに成功しました。歌舞伎役者は、庶民にとってのアイドルとも言える存在で、ファッションの参考や憧れの対象であったようです。 歌舞伎の舞台装置や派手な演出も、庶民の目を大いに惹きつけました。 歌舞伎の興行は、1回の演目を観るのに半日かかる長丁場ですが、その舞台の迫力と臨場感に、庶民たちは飽きることなく魅入っていたのでしょう。 「ブロマイド」の役割だった役者絵 歌舞伎は庶民の間で大流行しており、歌舞伎役者たちは、庶民の憧れるスターやファッションリーダーたる存在でした。そのため、歌舞伎役者たちを描いた浮世絵である「役者絵」も、庶民がこぞって買い求めるアイテムとなったのです。 役者絵は、歌舞伎役者が舞台で演じる姿や、日常での様子などを描き、現代でいうブロマイドのような役割を果たしていました。舞台の一場面を描いたものは「芝居絵」と呼ばれ、役者絵の中でも興行を広告するチラシのようなものだったようです。 役者絵の分野では、特に歌川派が江戸の浮世絵界をリードしました。歌川派の中でも、歌川豊国は一世を風靡し、活躍する歌舞伎役者たちの姿や魅力を広く人々に伝えました。 人気の役者浮世絵の買取は、プロの買取業者・査定士へ相談を! 役者絵は、江戸時代から明治時代にかけて国内外で愛好されてきた浮世絵の中でも、特に人気の高い。役者絵は、歌舞伎の舞台で活躍する役者を、個性豊かな浮世絵師たちがさまざまに描いた作品で、美術史上でも重要な位置を占めています。 役者絵の買取価格は、作者や状態の良し悪し、作品の希少性や描かれた時代など、さまざまな要素により変動します。 適正な買取価格を求めるならば、役者絵を熟知したプロの査定士に相談することが重要です。 高価買取の機会を逃さないために、役者浮世絵の買取は、プロの査定士へぜひご相談ください。
2024.08.13
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浮世絵の当時の価格は?江戸時代に庶民の間で普及した理由
現代でも人気の高い浮世絵が、江戸時代にどれくらいの価格で販売されていたのか気になる方も多いのではないでしょうか。 美術作品としても親しまれている浮世絵は、江戸時代は庶民の娯楽の1つでもありました。 販売価格を確認するとともに、庶民に広く親しまれた背景を知ることで、より浮世絵の魅力を深められるでしょう。 江戸時代当時の浮世絵の価格は? 江戸時代ごろから日本の町民に親しまれてきた浮世絵。 現代では、10,000円ほどで購入が可能です。 浮世絵が広がり始めた江戸時代ごろでは、いくらで販売されていたのか気になる人も多いのではないでしょうか。 当時の価格と現在の価格に大きな差のある、有名作品も多くあります。当時の販売価格を知って、江戸時代の庶民たちに愛されてきた背景を探りましょう。 江戸時代当時の浮世絵価格 浮世絵が大流行していた江戸時代では、8~20文ほどで作品が販売されていました。 江戸時代の物価は、前期・中期・後期で変動しますが、小判1枚=金1両=4,000文に相当するとされています。 現在の価値になおすと、金1両あたり約8万円といわれています。 つまり、8万円÷4,000文となり、1文は約20円。江戸時代のそば1杯の価格が16文(約320円)だったため、浮世絵はそばを食べるのと同じくらいの金額で購入できたとわかります。 また、浮世絵の価格は作品のサイズによっても異なります。 一般的な多色摺版画サイズの大判は20文ほど、ブロマイドのような扱いであった役者絵は、8文ほどで購入が可能でした。 人気の低い作品は、3~6文ほどの手軽な価格で販売されていたといわれています。 浮世絵は、日本橋をメインに江戸一帯に存在していた、絵草子屋と呼ばれる浮世絵販売専門店で購入ができました。 身分にかかわらず誰でも購入できたため、庶民にも広く知れ渡ったといえるでしょう。 春画や風刺画など、当時幕府の統制がかかっていた作品も、ひそかに販売されていました。また、江戸に住む人々だけではなく地方から訪れた人々が、江戸土産として購入するケースも多くありました。 版画の技術が浮世絵を庶民に広めた 浮世絵が江戸時代の庶民に広がり、大衆文化として愛されるようになったのは、版画技術の発展が関係しています。 木版画の技術が向上し、役者や美人などの身近な題材が描かれるようになったのと、大衆向けの読み物が流行していたのがきっかけとなりました。 最初は、書道に用いられる墨一色で描かれていた浮世絵でしたが、筆で色をつけた作品も制作されるようになっていきます。 より色鮮やかな作品が見たいという人々のニーズに応えるために、筆で色付けを行うのではなく、色を乗せる部分も版画として摺り重ねる技術が発展していきました。2・3色だけの重ね摺りだったのが、版画技術の進歩により多彩な色を摺り重ねられるようになっていったのです。 版画によって描かれていた浮世絵は、版木が一度完成すれば同じ絵を何枚も摺れるため、大量生産が可能でした。 そのため、民衆の高まる需要にも応えられ、大衆文化として広まっていきました。 浮世絵版画と肉筆浮世絵 浮世絵版画とは、木製の原版を利用して描かれた浮世絵を指します。 まず、浮世絵師が版画のデザインとなる原画を描きます。 彫師は、原画をもとに木製の板を彫る職人です。 彫師の作業により版木が完成します。その後、摺師の手によって版木に彫られた画を紙に摺っていきます。 一方、肉筆浮世絵とは、浮世絵師が直筆で描いた一点物の作品。一般的な絵画同様に、同じ作品は存在せず一点物であったため、当時でも高価な美術品でした。 浮世絵が誕生した当初は、浮世絵師が筆をとって一枚一枚描いていました。 庶民の需要が高まるとともに木版技術が発展していったため、同じ絵を多く制作できるようになり、庶民に広く親しまれるようになったのです。 江戸時代当時の浮世絵の役割 江戸時代から多くの庶民に愛され、現代でも人気の高い浮世絵。 現在は、価値ある美術作品として鑑賞されることの多い浮世絵ですが、江戸時代に描かれていた当時は、どのような役割があったのか気になる方も多いのではないでしょうか。 当時の浮世絵は、単なる絵画ではなく情報誌やファッション誌のような役割を担っていました。 ジャンルごとにどのような役割を果たしていたかは、以下のとおりです。 ・役者絵:ブロマイド ・美人画:ファッション誌 ・名所浮世絵:情報誌(ガイドブック) 歌川広重が描いたことでも有名な『東海道五十三次』は、徳川家康によって整備された江戸と京都を結ぶ東海道に点在する、53の宿場町を指しています。 江戸時代に旅行がブームとなり『東海道五十三次』を題材とした浮世絵は、ガイドブックの役割を果たしていました。 浮世絵は、単に鑑賞用の絵としてではなく、版画の技術が普及したことで庶民でも手軽に入手できる価格で普及しました。 手に入れやすい価格で急速に広まった浮世絵 浮世絵は、版画技術の発展により手ごろな価格で販売が可能になりました。 同じ絵をいくつも生産できるようになったため、庶民の間にも浮世絵が広がっていったのです。 浮世絵が江戸時代に人気を集めた背景を知り鑑賞すると、より違った魅力を発見できるでしょう。 版画と肉筆画どちらの浮世絵作品も、違った特徴と魅力を持っています。 ぜひ、特徴を理解したうえで改めて鑑賞を楽しんでみてください。
2024.08.13
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浮世絵にある極印や改印とは?当時を知るための手がかりに
浮世絵とは、江戸時代に庶民の間で人気の高かった芸術作品の一つです。 現代では、歴史的価値のある美術品として認識されていますが、当時はファッション誌のような役割を担っていました。 浮世絵のデザインを楽しむとともに、浮世絵に押されている印にも一度目を向けてみましょう。 意味合いを知ることで、浮世絵の奥深さに気づけるかもしれません。 浮世絵にある極印とは 浮世絵には、さまざまな印が押されており、その一つが、極印です。 極印はほかの印同様に、大事な役割を担っています。 浮世絵に押される印の意味を把握して、浮世絵の価値を知るためのきっかけにしましょう。 極印(きわめいん)とは 極印とは、江戸時代に制作された浮世絵版画を刊行する際に、検閲済みの証拠として版画に刷られた印。丸のなかに「極」の字が書かれています。 また、浮世絵だけではなく、金貨や銀貨、器物などの品質保証や偽造防止のためにも用いられていました。 時代を知る手がかりとなる、極印 1790年に行われた改革の一環として、町奉行が出版取締令を出したことで、極印が用いられるようになりました。 地本問屋に関する検閲制度がスタートしたのです。主に政治批判や風紀風俗の乱れ、奢侈の3点が取り締まりの対象でした。 幕府に対する批判と少しでも疑われるものは処罰の対象となっており、徳川家やその時代の事件や出来事をモチーフとすることが禁じられていました。 検閲を受けるタイミングは、版本では作者の稿本が完成したとき、版画では画工の板下絵が完成したときです。 稿本や板下絵が完成すると、地本問屋行事や名主の下へ提出します。 幕府を批判するような内容が書かれていないことを確認して出版許可が下りると、極と記載された改印が押されます。 江戸時代の後期からは、極印のほかにも検閲した年月を表す干支や漢数字の印が押されたため、現代においては作品の制作年月を知る重要な手がかりの一つです。検閲制度は、1875年に廃止されましたが、改印に代わり作者と版元の住所や氏名を明記することが義務付けられました。 浮世絵師だけではない!浮世絵に携わる人たち 浮世絵の制作にかかわっているのは、浮世絵師だけではありません。 浮世絵は、いくつかの手順に分業して、それぞれ専門分野の人たちが担い、作られています。 現代でいう出版社の役割は、版元が行っていました。 浮世絵を販売するお店のことで、商品の企画やプロデュースを行います。 出版全体を担う責任者の役割があり、どのような浮世絵であれば人気が出るかを見極める能力が必要な職種です。 浮世絵の制作には、3種類の職人が携わっています。 1人目は、浮世絵の原画を描く「絵師」です。 原画は、一般的にモノクロで描かれていました。また、描く精度は人それぞれで、髪の毛1本1本丁寧に書き込む絵師もいれば、大まかなデザインを描き、あとは彫師にお願いする絵師もいました。 江戸時代の有名絵師には、葛飾北斎(かつしかほくさい)や歌川国芳(うたがわくによし)などがいます。 多くの絵師は、木版画の原画だけではなく、肉筆画も制作しています。 2人目は、木版画の板を彫る「彫師」です。 絵師が描いたデザインを、木製の板に彫っていきます。1つの作品を複数の彫師が担うケースもあります。 3人目は、彫師が彫った版木に顔料を染み込ませて和紙に摺る「摺師」です。 このように、浮世絵は工程ごとに職人が分かれており、複数の職人の技術が合わさって制作されています。 極印以外にもある、さまざまな印 浮世絵には、さまざまな印が押されています。 一つは、落款印と呼ばれる浮世絵師のサインである判子です。 絵師の雅号が変わると落款印も変わるため、落款印からは絵師を判断するだけではなく、描かれた年代を推察することも可能です。 また、江戸時代の検閲が行われていたころには、幕府がチェックし出版を認めた証として、改印が押されました。極と書かれた字の判子で、出版統制によって押されるようになったものです。 そのほかにも、版元印や彫師の印、摺師の印、名主印、年月印などさまざまな印が押されています。 版元印とは、浮世絵版画の企画やプロデュースを行ったのが誰であるかを表す印です。 浮世絵版画は、絵師が自由に描いて制作されているわけではなく、版元からの依頼によって描かれています。そのため、企画者が誰であるかを記録するために版元印が押されます。 江戸時代の出版を担っていた有名人物といえば、蔦屋重三郎です。蔦屋重三郎は、山形に蔦の葉のマークが描かれた版元を使用していました。 蔦屋重三郎がプロデュースした作品が数多く存在し、東洲斎写楽の『中島和田右衛門のぼうだら長左衛門と中村此蔵の船宿かな川やの権』や、喜多川歌麿の『婦女人相十品 文読む女』にも、版元印が押されています。 浮世絵に押された印は、歴史的価値を知る貴重な手がかり 浮世絵に押されているさまざまな印は、浮世絵の価値や歴史を知るために必要な情報です。 落款印からは、どの絵師が描いた作品なのかがわかります。 極印は、江戸時代の校閲があったタイミングで制作された浮世絵であることを示しています。そのほかにも、年月印からは年代の特定が可能です。 作品のデザインだけではなく、印にも目を向けることで、鑑賞の楽しみが広がるでしょう。
2024.08.13
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