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浮世絵を売るために欠かせない、版元とその役割
浮世絵は、デザインを描く浮世絵師と木版を彫る彫師、木版を紙に摺って完成させる摺師の3つの過程と職人によって作り上げられています。 そして、その浮世絵を販売するために欠かせないのが、版元という存在です。 版元は、浮世絵を大衆のもとに届けるために、企画・宣伝・販売を行う立場であり、浮世絵作品が今の時代まで人気を博しているのは、版元のおかげともいえるでしょう。 浮世絵職人をまとめた、版元の役割 誕生当初、浮世絵は、浮世絵師が一つひとつ手で描いていましたが、のちに木版を紙に摺るスタイルが確立されていきます。 浮世絵版画は、作業工程ごとに職人が置かれ制作されます。浮世絵師、彫師、摺師と彼らをまとめあげる版元と呼ばれる人物がいました。 版元とは 版元とは、浮世絵を売り出す店や人を指しています。 また、浮世絵作品の企画やプロデュースも行っていた版元は、現代の出版社のような存在といえるでしょう。 版元が企画した内容に沿って、浮世絵師が下絵を描き、彫師が下絵を木版に彫り、摺師が紙に摺り上げて、浮世絵は制作されていました。 版元の役割 版元は、浮世絵のプロデュースや制作工程のディレクションを担当していました。 企画や宣伝、販売など作品を実際に作る工程以外を担当する版元は、浮世絵の売れ行きを大きく左右する存在ともいえます。 制作した浮世絵が大衆から注目を浴びるためには、作品の企画や宣伝が欠かせません。 まず、江戸時代を暮らす町民たちの興味を引く題材やモチーフなどを考える必要があります。 そのため、版元は時代の流れを理解し、流行に敏感であることが求められました。新しいアイディアを創出して、人々の関心を引くためのスキルが必要な職業であったといえます。 また、流行を先取りしたアイディアにより制作した浮世絵も、宣伝がうまくいかなければ大衆の目に触れずに終わってしまいます。 そのため、版元には宣伝力も必要でした。現代で注目を浴びている浮世絵師は、版元の手腕があってこそともいえるでしょう。 歴史に名を残す、有名な版元たち 浮世絵の歴史の中では、絵師たちが注目を浴びがちですが、実は歴史に名を残している有名な版元も多くいます。 現代で名を連ねる有名浮世絵師は、版元の力があってこそ、その才能が世間に広がったともいえるでしょう。浮世絵師が活躍するきっかけを作った版元には、どのような人物がいたのかを知ることで、より浮世絵の歴史的な魅力を深められます。 松会三四郎 松会三四郎(まつえさんしろう)は、江戸最古の版元と呼ばれています。 幕府の御用達書肆(しょし・書物の出版や販売を行う店)であり、江戸出版業の初期から享保年間までに、約200点を刊行しました。 松会三四郎は、浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の絵本を出版したことでも有名です。 菱川師宣の『小むらさき』や『和国三女』などを出版しています。 蔦屋重三郎 蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)は、江戸時代の版元であり、数々の有名浮世絵師をプロデュースしてきた人物です。 蔦屋重三郎は、新吉原に生まれ、吉原で茶屋を営む喜多川家の養子となりました。成長した蔦屋重三郎は、新吉原で茶屋ではなく細見屋を営みます。細見とは、江戸時代から明治時代に出版されていた遊郭の案内書です。 当時、鱗形屋孫兵衛が独占していた吉原細見の改めを行い、出版権販売権独占を手に入れます。 その後、一流店が立ち並ぶ日本橋通油町に進出し、耕書堂という名の書店を創業し、洒落本や黄表紙など販売製品の幅を徐々に広げていきました。 吉原周辺の文化人ネットワークを駆使して、才能ある浮世絵師や戯作者とつながり、優秀な若手作家を世間に広めていきます。 江戸時代に訪れた狂歌ブームにものっかり、絵入り狂歌本という新しい発想の出版物も刊行しました。 寛政の改革により、出版物に規制がかけられた時代に、出版した洒落本が風紀を乱すとして処罰を受け、財産を没収されてしまいます。 しかし、そのような不運にも負けず、蔦屋重三郎はのちに有名な浮世絵師を輩出するのでした。 蔦屋重三郎によって才能を見出された有名浮世絵師が、喜多川歌麿(きたがわうたまろ)や東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)です。 喜多川歌麿は、蔦屋重三郎からの助言を受け、女性の上半身に焦点を当てて大きく描写した「美人大首絵」と呼ばれる作風を確立しました。 喜多川歌麿が描いた『婦人相学十躰』『婦女人相十品』の揃物は、大ヒットを収めています。 東洲斎写楽は、現在でも謎の多い浮世絵師です。 役者の特徴を捉え、デフォルメした大首絵が有名で、個性的な作品は、当時から多くの人の目を惹きつけました。 喜多川歌麿が蔦屋重三郎のもとを去ってすぐに登場した東洲斎写楽は、蔦屋から28枚の役者絵を一挙に発表しました。誰も名前を聞いたことがない新人浮世絵師の絵を、背景がすべて黒雲母摺りの状態で発表するという挑戦的な出版を行っています。 その後、東洲斎写楽は蔦屋のもとで140点余りの作品を出版し、わずか10か月ほどで忽然と姿を消したのでした。あまりの神出鬼没ぶりに、実際は葛飾北斎に描かせたのではないか、役者の斎藤十郎兵衛をプロデュースしたのではないかと、さまざまな憶測が飛び交っています。 東洲斎写楽が誰であったのかは、いまだに解明されていません。 なお、現在書籍や音楽のレンタル・販売をメインに商売をしているTSUTAYAは、蔦屋重三郎の名前にあやかって付けられたともいわれています。 西村屋与八 西村屋与八(にしむらやよはち)は、鶴屋喜右衛門や蔦屋重三郎と肩を並べるほどの有力地本問屋で、浮世絵の中でも錦絵の代表的な版元です。 早くから鳥居派の浮世絵師とつながりを持っており、役者絵や美人画で有名な鳥居清長(とりいきよなが)の浮世絵作品を多く出版していました。 また、葛飾北斎(かつしかほくさい)の浮世絵も多く出版しています。 世界中で有名な『富嶽三十六景』シリーズも西村屋出版です。 浮世絵を見ると版元が分かる 浮世絵を描いた絵師は、署名や落款で判断できますが、出版社である版元は、浮世絵の何を見て判断するのでしょうか。 実は、浮世絵作品には絵師のサインのほかに、版元印が押されている場合があります。 版元印によってどの版元から出版された浮世絵であるかが確認できるのです。版元印のデザインは、版元によって異なり、たとえば、蔦屋重三郎の版元印は、山型に蔦の葉のマークが特徴です。 浮世絵職人をまとめた立役者・版元 浮世絵作品を大衆に広く知ってもらうためには、版元の存在が欠かせません。 版元とは、浮世絵作品の制作指揮をとる人のイメージです。 企画から宣伝、販売まで、実際の制作以外の部分を担って、浮世絵作品の売り上げを伸ばすために奮闘していました。版元あっての浮世絵作品ともいえるでしょう。 そのため、浮世絵作品には、版元印が入っているものも多く残されています。 浮世絵作品を鑑賞する際は、作品の芸術性とともにどの版元から出版されている作品化もチェックしてみると、よりさまざまな角度から浮世絵を楽しめるでしょう。
2024.08.13
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墨一色で描かれた浮世絵版画「墨摺絵」に見る、浮世絵の始まり
江戸時代に庶民の間で大きな人気を誇っていた浮世絵。 描かれ始めた当初は、墨一色の作品がほとんどでしたが、時代が流れるにつれて色が使われるようになり、鮮やかな錦絵が誕生していきました。 その時代ごとの浮世絵の特徴を知り、時代の変化とともに発展していく浮世絵を楽しみましょう。 初期の浮世絵は、墨一色だった 浮世絵が庶民からの人気を集めていた江戸時代、描かれ始めた当初は墨一色のシンプルなものでした。 その後、有名な絵師を輩出しながらカラーの浮世絵も描かれはじめ、進展していきました。 浮世絵版画の始まり 浮世絵版画の制作は、墨一色で摺られる墨摺絵から始まりました。 墨だけを用いて木版印刷をすることは、江戸時代以前にも行われており、技法的には墨一色で描かれた版本挿絵や絵本と変わりません。 そのため、広義の意味では版本挿絵や絵本も墨摺絵に含まれますが、一般的には、初期の浮世絵版画作品を指しています。 墨摺絵から始まった浮世絵版画は、その後、筆で彩色する丹絵や漆絵、紅絵と発展していきます。 さらには、草や黄、紅色を木板で摺って重ねていく紅摺絵も制作されるようになっていきました。多彩な色を用いる木版多色摺の錦絵ものちに誕生します。 浮世絵の祖、菱川師宣 墨摺絵から始まった浮世絵版画が発展するきっかけを作ったのは、浮世絵の祖と呼ばれる菱川師宣(ひしかわもろのぶ)です。 菱川師宣が初めて一枚絵の版画を発売したのは、1670年ごろでした。 当時は、まだ挿絵として使われていた版画を1枚の絵画として販売したのです。版画は、大量生産が可能なため価格を安く抑えられ、庶民の間にも広まっていきました。 また、浮世絵版画が発売された当初は、多彩な色で摺られた錦絵は存在していませんでした。当時は墨一色で描かれた墨摺絵が中心で、菱川師宣が制作した版画では、吉原遊郭の情景を12枚の組物版画として構成した『吉原の躰』が有名です。 紅絵や漆絵、錦絵などの今日私たちがよく知る色鮮やかな浮世絵は、菱川師宣の死後に確立されました。 浮世絵版画の始まり…墨摺絵を描いた浮世絵師たち 江戸時代、浮世絵版画を描く多くの人気絵師が誕生しています。 浮世絵がまだ墨摺絵だった初期のころから活躍した絵師には、菱川師宣や西川祐信、勝川春章などがいます。 菱川師宣 作家名:菱川師宣(ひしかわもろのぶ) 代表作:『見返り美人図』『北楼及び演劇図巻』 生没年:1618?年-1694年 菱川師宣は、浮世絵の祖と呼ばれる浮世絵師で、浮世絵というジャンルを確立させた人物です。 のちに登場する葛飾北斎(かつしかほくさい)や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)などの有名絵師が活躍する時代になったのも、最初に菱川師宣が浮世絵版画を世に広めたからといっても過言ではありません。 菱川師宣は、版画だけではなく肉筆画も手掛けていました。 有名な作品として『見返り美人図』があります。郵便切手の図案にも採用されたため、この絵を見たことがある人も多いでしょう。 西川祐信 作家名:西川祐信(にしかわすけのぶ) 代表作:『絵本百人女郎品定』『女文書稽古』 生没年:1671年-1750年 西川祐信は、江戸には下らず上方で活躍したことから、京坂浮世絵界の第一人者といわれている人物です。 狩野派や土佐派の絵を学ぶとともに、菱川師宣や吉田半兵衛の画風を取り入れ独自の画風を確立させていきました。 西川祐信は、柔らかみのある筆使いで、落ち着きのある丸顔の女性を描き出す美人画に長けている特徴があります。 西川祐信は多くの好色絵本を描いており、これらの春画には「西川絵」の別称がつくほど人気を集めていました。 勝川春章 作家名:勝川春章(かつかわしゅんしょう) 代表作:『絵本舞台扇』『2代目 市川門之助』 生没年:1726年(1729年とする説もある)-1792年 勝川春章は、葛飾北斎の師匠であり、似顔絵の祖とも呼ばれています。 浮世絵のジャンルの一つである役者絵から、役者の顔や姿など個性をリアルに描く似顔絵のジャンルを新たに生み出しました。 勝川春章の作品は、墨摺と多色摺の両方が存在します。錦絵が登場し始めた時代にいち早く技術を習得していました。 それぞれ趣が異なるため、比較して鑑賞してみるのも楽しいでしょう。 浮世絵版画の始まりは墨摺絵からだった 江戸時代から現代まで、多くの人を惹きつける浮世絵版画は、墨摺絵から始まっています。 多くの浮世絵師に描かれながら変化していった浮世絵は、多彩な色を使って描かれる錦絵まで発展していきました。 浮世絵版画が広まるきっかけとなった墨摺絵を鑑賞し、浮世絵の魅力をあらためてかみしめましょう。
2024.08.13
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新たな美人画を確立した清長風美人の特徴や進化とは
江戸時代の美人画の中で、新たな作風を確立した清長風美人。描いた鳥居清長の人物像を探るとともに、美人画の特徴や周囲に与えた影響などがどのようなものであったか掘り下げていきましょう。 鳥居清長が描いた、すらりとした八頭身美人 清長風美人とは、鳥居清長(とりいきよなが)が描いた美人画の女性の画風を指します。清長風美人は、すらりと身長が高く健康的で8頭身美人が特徴です。のちに活躍する喜多川歌麿をはじめとした人気絵師たちにも、大きな影響を与えたといわれています。 鳥居清長とは 鳥居清長は、江戸時代中期にあたる天明期に活躍した浮世絵師です。鈴木春信、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重と並び「六大浮世絵師」の一人としても広く知られています。鳥居清満の門人であり、1767年ごろから鳥居派伝統の技法を用いた細判紅摺絵の役者絵を手掛けています。1775年ごろからは、美人風俗画の揃物や黄表紙など版本の挿絵も精力的に描いていました。 写生技術を高めるべく、鈴木春信や礒田湖竜斎、北尾重政などの画風を学んでいき、写生に基づいた独自の作風を確立していきます。1781年ごろからは、湖竜斎に代わって美人画の第一人者として知られるようになりました。 師の鳥居清満が亡くなった後に鳥居家4代目を襲名しました。襲名後は、鳥居家の家業である看板絵や番付絵に専念するようになり、一枚絵の製作からは徐々に離れていったのです。しかし、鳥居清長が描いた美人画は、次世代の絵師にも大きな影響を及ぼしており、喜多川歌麿とともに頂点に立つ美人画絵師に位置づけられています。 鳥居清長の描いた美人「清長風美人」 鳥居清長が描く美人画は、これまでの美人画とは一線を画すものでした。鳥居清長が登場するまでの浮世絵の美人画は、菱川師宣風の華麗で優美な美人像が主流でした。しかし、鳥居清長は、より写実的でリアルな美人像を追い求めたのです。すらりと背が高く健康的な8頭身という特徴を持つ清長風美人は、多くの人を魅了し「江戸のヴィーナス(天明のヴィーナス)」とも呼ばれていました。 清長風美人の魅力は写実性だけではなく、表情豊かで自然体な姿も人々の心を惹きつけていました。型にはまったポーズや表情ではなく、江戸時代に暮らす女性の日常的な姿を描いた作品が、多くの人から親しみを抱いてもらえたと考えられるでしょう。自然体を重視していたため、シンプルな着物姿の美人画も多く残されています。現代でも、鳥居清長の美人画は、当時の江戸に住む町人の生活や文化を伝えるための貴重な資料として重宝されています。 清長風美人が描かれた、清長三大揃物 鳥居清長の絶頂期は、1782~1784年頃といわれています。このころに描かれた『当世遊里美人合(とうせいゆうりびじんあわせ)』『風俗東之錦(ふうぞくあずまのにしき)』『美南見十二候(みなみじゅうにこう)』は、清長三大揃物と呼ばれ、高く評価されています。三大揃物は、鳥居清長の最高傑作ともいわれている作品です。人間観察に基づいた人の表情や仕草の描写、巧みな遠近法を活用した風景描写から、鳥居清長の高い技術と感性を垣間見ることが可能な作品といえます。三大揃物の大判図の合計は、48点にもなりますが、版元も不明で、謎の多いシリーズです。 このシリーズを描いていたころから、大判2枚続絵や3枚続絵など大きな作品にも力を注ぐようになり、江戸時代の生活を背景に、女性の自然な姿を巧みに表現した作品が増えていきました。 ボストン美術館にある、貴重な作品『女湯』 鳥居清長が描いた作品『女湯』は、ボストン美術館(エドガー・ドガ旧蔵)と川崎・砂子の里資料館にしかない貴重な浮世絵です。また、ボストン美術館と資料館の作品でも、絵に違いが見られます。ボストン美術館蔵の作品では、右から2番目に立っている女性が陰部を赤い腰巻きで隠しています。これは日本からの輸出時に上手く修正したと推測できるでしょう。スタイルの良い女性たちが描かれており、日本における裸体美の第一級作品との呼び声もあります。 ボストン美術館には浮世絵作品が多く所蔵されていますが、その理由にはビゲローが関係しています。ビゲローは、アメリカの医師であり日本美術の研究家です。日本美術の収集家としても知られており、1890年にボストン美術館の理事に就任。1911年にビゲローが収集していた美術品が、正式にボストン美術館に寄贈されました。ビゲローが収集していた浮世絵コレクションは33,264枚という膨大な数でした。現在、ボストン美術館全体の約64%がビゲローの寄贈品です。そのため、ボストン美術館には日本の浮世絵が多く所蔵されているのです。 清長風美人の前と後を比較してみる 清長風美人が登場する前と後の美人画の特徴を確認していきましょう。浮世絵が描かれ始めた初期は、少女のようなあどけなさが残る可憐な女性表現が人気を集めていました。代表的な作家は鈴木晴信(すずきはるのぶ)です。 清長風美人以降の江戸時代後期には、艶やかな雰囲気をまとった退廃的な美人画が好んで描かれました。代表的な作家は渓斉英泉(けいさいえいせん)です。後期には、色気のある妖艶な女性表現が好まれていました。 絶妙なバランスで描かれた、美しい清長風美人 すらりとしたスタイルの美人を描いていた鳥居清長。控えめながらも自然体な姿を魅力的に描く鳥居清長の画風は、多くの絵師たちが参考にしています。清長風美人と呼ばれる言葉が誕生していることから、多くの人の印象に残っていたとわかります。時代とともに作風が変化していく美人画を、昔からさかのぼってみてみると浮世絵美人画の新たな魅力に気付けるかもしれません。清長風美人の浮世絵をきっかけに、さまざまな画風の美人画の鑑賞も楽しんでみてください。
2024.08.13
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「だるせん」と呼ばれた葛飾北斎の達磨絵と名古屋との関係
世界中から高い評価を受けている葛飾北斎。浮世絵版画作品の印象が強い人も多いでしょう。しかし、葛飾北斎は、高い画力と奇抜な発想力により多彩な作品を手掛けています。名古屋との縁も深い葛飾北斎が「だるせん」と呼ばれていた由縁に迫っていきましょう。 葛飾北斎のニックネーム「だるせん」とは 江戸時代から現代まで絶大な人気を誇っている浮世絵師・葛飾北斎(かつしかほくさい)は「だるせん」と呼ばれていたのをご存知でしょうか。さまざまな技術を学び多彩な画風が特徴の葛飾北斎は、だるまの絵を描いていたこともありました。 大達磨を描いた、葛飾北斎 1817年、名古屋に滞在していた葛飾北斎は、当別院境内で120畳敷の料紙にだるまの絵を描くイベントを行いました。この催しは、北斎漫画を広めるために行われたといわれています。葛飾北斎が大だるま絵を描くことを紹介した張り紙があちこちの店に張り出され、当日は張り紙を見たり、噂を聞きつけたりしてきた人々で大変にぎわっていたようです。 境内には足場が組まれ巨大な紙が用意されていました。見物人からの拍手喝采を受け、葛飾北斎はまず鼻を描いていきます。その後、右の眼、左の眼、口、髭を描き、紙を引き上げ衣紋を描いていきました。完成した大だるま絵の大きさは、18m×11mほどもあったといわれています。 このパフォーマンスは大きな話題をさらい、葛飾北斎はだるま先生を略して「だるせん」と呼ばれるようになりました。現在の名古屋、本願寺名古屋別院(西別院)は「大達磨絵揮毫の地」とされています。 葛飾北斎とは 出身地:東京都墨田区 代表作:『冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏』『富士越龍図』 葛飾北斎は、江戸時代後期に活躍した浮世絵師です。現在の東京都墨田区に生まれ、幼いころから絵を描くのが好きだった北斎は、十代の終わりに人気浮世絵師・勝川春章に師事を受けています。その後、破門されてしまいますが、他流派や西洋画などさまざまな画風を学んだ葛飾北斎は、その圧倒的な画力と奇想天外なアイディアで数々の名作を完成させました。浮世絵版画を多く制作していますが、肉筆画も多く手掛けています。 尾張(現在の名古屋)でも人気だった葛飾北斎 葛飾北斎は、現在の名古屋である尾張でも人気を集めていました。1812年ごろ葛飾北斎は、関西方面へ旅に出たとされており、旅行の帰路で名古屋の門人・牧墨僊の家に滞在し、300枚以上の版下絵を描き上げました。 このとき描いた絵がのちに、門人の絵手本として有名な『北斎漫画』になるのです。『北斎漫画』は、名古屋の版元である永楽屋東四郎によって初版発行されています。 200年の時を経て再現された大達磨絵 1817年に葛飾北斎が名古屋で描いた大だるま絵は、第二次世界大戦時に消失してしまったといわれています。しかし、尾張藩士の高力猿猴庵(こうりきえんこうあん)によって書き留められた『北斎大画即書細図』に当時のイベントの情報が残されていました。書細図には、当時のスケジュールや賑わいの様子はもちろん、用意された和紙や筆、絵の具などまで詳細に記されています。 2017年、200年前に描かれた葛飾北斎の大だるま絵を再現して描くイベントが行われました。場所は、名古屋市中区の本願寺名古屋別院、愛知県立芸術大や名古屋市博物館の協力により実現されました。当時の記録をもとに、雨に強い和紙や米俵5俵分のわら筆を用意し、忠実に再現して描かれています。 当日は小雨が降り強風が吹いていましたが、約2時間で絵は完成され、観客から拍手と歓声がわき上がる素敵なイベントになったようです。 葛飾北斎の人気は当時からすごかった 現在でも、日本だけではなく世界中から高い評価を受けている葛飾北斎は、江戸時代当時から、江戸にとどまらず各地で人気を集めていました。名古屋とのゆかりも深く、当時は「だるせん(だるま先生)」と呼ばれていたそうです。大だるま絵をはじめとして、葛飾北斎の作品は、奇想天外なものも多く、作品によって異なる魅力を感じさせてくれます。有名な作品ばかりではなく、さまざまな地域や時代に描かれた葛飾北斎の作品を楽しんでみてはいかがでしょうか。
2024.08.13
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希少な肉筆浮世絵は高価買取のチャンス!価値の分かる専門家へ相談を
浮世絵には浮世絵版画のほか、肉筆浮世絵と呼ばれるものがあります。 肉筆浮世絵は浮世絵版画よりも希少性が高く、高価買取してもらえる可能性があります。 価値の分かる専門家へ相談してみましょう。 肉筆浮世絵を高価買取してもらおう 浮世絵といえば一般的に木版画を指します。 一方で、同様の題材を肉筆で描いたものが肉筆浮世絵です。 作家や状態によっては肉筆浮世絵も高価買取してもらえる可能性があります。 肉筆浮世絵とは 肉筆浮世絵とは、名前の通り筆を使って(肉筆で)紙や布に直接描かれた浮世絵のことです。 そもそも浮世絵とは、18世紀の江戸時代の風俗などを題材とした絵画のことです。 ただし、画家によって一点ずつ描かれる従来の絵画と違い、浮世絵は木版画でした。 そのため、安価に複製ができ、大衆文化として広く普及したのです。 一方で、浮世絵が誕生した後も、画家が風俗や有名な人物などを題材として肉筆で絵を描くこともありました。 それを木版画の浮世絵と区別するための呼び方が肉筆浮世絵です。 木版画の下絵や原画ではない、オリジナルの作品です。 浮世絵版画は買取してもらえる? 浮世絵版画とは木版画の浮世絵のことです。 版画のため同じ図柄が複数存在することが肉筆浮世絵との大きな違いの一つです。 また、大衆向けの作品が多いため、芸術的価値が高くないものもあります。 とくに江戸時代から明治時代にかけて作られた復刻版や、無名作家の作品は買取を断られてしまったり、買取価格が低くなったりするかもしれません。 ただし、浮世絵版画でも有名作家の作品であれば高く買取してもらえる可能性があります。 たとえば、葛飾北斎(かつしかほくさい)、歌川広重(うたがわひろしげ)などが代表的な浮世絵師です。 査定の結果、有名作家の作品だと分かるケースもあります。 作家名が不明の作品も専門家に一度見てもらうとよいでしょう。 一方、浮世絵版画よりも高価買取してもらえる傾向にあるのが肉筆浮世絵です。 肉筆浮世絵は作家が直接制作しているため、希少価値があります。 また、肉筆浮世絵の多くは依頼主から注文を受けて描かれています。 大量生産を前提に売れやすさを狙った作品が多い浮世絵版画に比べて、絵師による創作の自由度が高いのが特徴です。 肉筆浮世絵はそもそも一点物で希少性が高い上、人気作家のものであれば100万円を超える価格で取引されることもあるでしょう。 葛飾北斎や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)といった人気作家も肉筆浮世絵を手掛けています。 ただし、肉筆浮世絵は贋作が多いことでも知られています。 真贋の査定が難しいため、買取していない業者や低価格で買取しようとする業者もいるかもしれません。 肉筆浮世絵を売る際は、複数の業者への査定依頼をお勧めします。 肉筆浮世絵はいつからあった? 浮世絵の祖とも呼ばれる菱川師宣以降、浮世絵とは主に版画を指す言葉として使われています。 しかし、成立当初の浮世絵は、紙や絹に直接描かれるのが一般的でした。 たとえば床の間に飾って鑑賞するための掛け軸や、屏風、扇などに描かれた作品が多く残っています。 浮世絵の歴史については明確になっていない部分が多く、研究者によって意見が分かれています。 中でも浮世絵の誕生に大きく貢献したと多くの研究者に考えられているのが、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)です。 武家に生まれた岩佐又兵衛は一族が没落した後、江戸時代初期に絵師として活躍しました。 大胆でパワフルな表現が特徴で、代表作として『洛中洛外図屏風』、肉筆の『職人尽』、『三十六歌仙図額』などが挙げられます。 なお、版画の技術が発展した後も、肉筆浮世絵を制作した浮世絵師は少なくありません。 そのため、岩佐又兵衛の頃の浮世絵を「初期肉筆浮世絵」と呼び、後世のものと区別することもあります。 版画と比べて一点物のためより高い価格で販売できたことや、肉筆画を描く浮世絵師のほうが地位が高いと当時考えられていたことが理由です。 中には版画に興味を示さず、生涯にわたって肉筆画の制作に専念した宮川長春(みやがわちょうしゅん)のような浮世絵師もいます。 世界的に有名な『見返り美人図』は肉筆浮世絵の代表作 作家名:菱川師宣(ひしかわもろのぶ) 代表作:『見返り美人図』『歌舞伎図屏風』『北楼及び演劇図巻』 『見返り美人図』は1693年頃、晩年を迎えた菱川師宣によって描かれた肉筆浮世絵です。 切手の題材になったり、教科書に掲載されたりしたため見たことがある方も多いでしょう。 現在は東京・上野の国立博物館に収蔵されています。 大胆な構図や鮮やかな色彩が、ゴッホやゴーギャンのような海外の芸術家にも影響を与えた作品として、世界的にも有名になりました。 赤い振袖を着た女性が、ふと立ち止まってこちらを振り返っている構図が印象的な作品です。 美しい女性を描いた「美人画」は、浮世絵の人気ジャンルの一つです。 美人画では、遊女や看板娘など実在する女性を複数名描くのが一般的でした。 しかし、『見返り美人図』は、一人の女性だけを描いている点や、実在の女性ではない菱川師宣の考える理想の女性が描かれている点が特徴です。 また、この作品に描かれた女性の衣装や髪型などに表現された江戸時代のファッションも見どころです。 絞りや金糸による刺繍が入った着物や、「吉弥結び」で結ばれた緑色の帯、玉結びという髪型などは当時の流行の最先端でした。 当時の美人画は今でいうファッション誌のような役割も果たしていたことがわかります。 肉筆浮世絵を描いた有名作家たち 版画による浮世絵が一般的になった後も、多くの作家が肉筆浮世絵を描いていました。 肉筆浮世絵の制作で知られる作家には菱川師宣のほか、葛飾北斎や喜多川歌麿(きたがわうたまろ)、歌川豊春(うたがわとよはる)などの作家が挙げられます。 中でも葛飾北斎は晩年、肉筆浮世絵に傾倒し、多くの作品を残したことで知られています。 『神奈川県沖浪裏』がとくに有名な『富嶽三十六景』を描いた葛飾北斎は、ありとあらゆるものをテーマに生涯で34,000点以上の作品を制作しました。 作品は海外でも高く評価されており、世界で最も有名な浮世絵師といえます。 そんな葛飾北斎は肉筆浮世絵も大量に描いており、特に魚や花、鳥などを題材とした『肉筆画帖』が代表的な作品として挙げられます。 中でも『塩鮭と鼠』、『福寿草と扇』などが有名です。 美人画で有名な喜多川歌麿も多くの肉筆浮世絵を発表しました。代表作として『美人夏姿図』、『納涼美人図』などがあります。 肉筆浮世絵専門絵師、宮川長春 18世紀前半に活動した宮川長春は、版画を一切手掛けず、肉筆浮世絵だけを描いた絵師です。 日本画の主流である狩野派や土佐派に学んだ後、菱川師宣に師事して浮世絵師となりました。 師匠である菱川師宣は版画によって浮世絵を発展させた人物ですが、長春は肉筆画のほうが優れているという信念を貫きました。 多くの弟子を取り、宮川長亀、宮川一笑、宮川春水をはじめとする宮川派は肉筆浮世絵に専念した一門として知られています。 現存する作品は約200点といわれています。 国内に限らず海外の美術館にも多く収蔵されているように宮川長春の作品は海外でも人気がありました。 浮世絵をあまり好まなかったといわれる東洋美術史家のアーネスト・フェノロサも、宮川長春だけは評価していたという逸話も伝わっています。 宮川長春が得意としたのは、優美で気品のある美人画です。 依頼者は裕福な町人や武家が多かったとされ、高級な絵絹に質の良い絵の具を使って丁寧に彩色された作品が、多数残されています。 代表作は『立姿美人図』、重要文化財に指定されている『風俗図巻』など。 一人で立つ女性や蚊帳から顔を出す女性など、似た構図の作品を繰り返し制作したことも特徴です。 宮川長春は春画作品も多く描いた 庶民の風俗、遊女、遊郭の風景などを好んで題材とした宮川長春は、春画にも多くの優れた作品を残しました。 なお、春画とは性行為の様子、性的なものなどを描いた風俗画のことです。 枕絵、あぶな絵などと呼ばれることもあります。 平安時代からあったとされ、江戸時代以前には武士が魔除けのお守りとしたり、嫁入り道具として持たされたりすることもありました。 江戸時代には、春画は浮世絵のジャンルの一つとして発展し、葛飾北斎や歌川広重といった有名作家も多くの作品を制作しました。 一般市民には、春画をまとめた「好色本」が広く流通していたといわれています。 幕府から禁止令が出されても庶民から愛され続けた春画は、最近では美術品として再評価される傾向にあります。 肉筆浮世絵買取は実績ある査定士へ依頼を 絵師が直接描いた肉筆浮世絵は、木版画と異なり同じものが存在しないため、希少性があります。 浮世絵版画よりも買取価格が高くなる可能性があるでしょう。 とくに有名作家の作品であれば高額査定が期待できます。 ただし、肉筆浮世絵には贋作が混じることもあるため査定が難しいとされているため、実績のある査定士がいる業者へ査定を依頼するのがお勧めです。 また、査定によって有名作家の作品だと分かるケースもあります。 遺品整理や相続のタイミングで出てきた浮世絵は、作家名や価値が分からなくても査定してもらうとよいでしょう。
2024.08.13
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