古くから現在まで高級品として知られているペルシャ絨毯。耐久性に優れた作りにより数千年前に製作されたペルシャ絨毯も現存しており、歴史的価値も高い織物製品です。ペルシャ絨毯の歴史において、有名な話にホスローの春があります。実物は現存していませんが、大変豪華で美しい絨毯であったとされています。
語り継がれる絨毯、ホスローの春とは
ペルシャ絨毯の歴史は長く、さまざまな歴史的価値のある絨毯が発見され、博物館や美術館に所蔵されている一方、実物は現存していませんが伝承によって語り継がれた幻の絨毯があることをご存じでしょうか。『ホスローの春』は、豪華な装飾を施された幻のペルシャ絨毯と呼ばれています。
ホスロー1世
ホスロー1世とは、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主で、エフタルに侵攻され衰えていたササン朝ペルシアを再興した王です。在位は531~579年とされています。529年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が異教徒を取り締まり、アテネのアカデメイアを閉鎖すると、多数のギリシア人の哲学者や医学者がササン朝に逃げてきました。ホスロー1世はこの哲学者たちを保護したといわれています。エフタルを滅ぼした後は、561年にユスティニアヌス帝との間に50年の和平条約を結び、西方の国境を安定させました。その後、アラビア半島の現在のイエメンを占領し、ビザンツ帝国とインドを結ぶ貿易路を作っています。
ホスロー1世の時代は、ゾロアスター教を中心としたササン朝の文化が最も栄えた時代といわれています。また、ギリシア・ヘレニズムの文化の影響も受けており、金属細工やガラス工芸などの芸術作品が生み出され、シルクロード交易を通じて東アジアの日本にまで伝えられたのでした。
ホスローの春(春の絨毯)はどんな絨毯だった?
『ホスローの春』は別名・春の絨毯とも呼ばれる幻のペルシャ絨毯です。アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが書いた『諸使徒ならびに諸王の歴史』に、ササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていた絨毯の記述があります。記述からは、絨毯がどのような構造であるかはわかっていません。また、実在を証明する一次資料はなく、あくまで伝承に過ぎない絨毯です。
ササン朝(226~642年)はシリアから中央アジアまで広い地域を支配していた大帝国です。『ホスローの春』は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世(在位531~579年)のもとで、四季をテーマに製作された絨毯のうちの1枚とされています。サイズは縦140m×横27mの大きなサイズだったといわれています。また、バハレスタン絨毯の異名を持っており、バハレスタンのペルシャ語の意味は春の国です。
楽園のような美しい庭園が表現されていたといわれ、シルク生地に金糸や銀糸さらには宝石を用いて、花々が咲き乱れる春の風景が描かれていたそうです。推察ではありますが、つづれ織りのキリムに真珠やエメラルドなどの宝石や貴石を縫い付けたもの、パイル織で製作されていればつづれ織りを組み合わせたポロネーズ絨毯と同じくスフの地に宝石を縫い付けたものなどと考えられています。
ホスロー1世の死後、のちにササン朝ペルシアはアラブのイスラム教徒によって滅ぼされてしまいます。その際に『ホスローの春』は、2代正統カリフであるウマルのもとに戦利品として送られましたが、バラバラに分解され兵士たちに分配されたといわれています。そのため、実物は現存しておらず、幻の絨毯と呼ばれるようになりました。
幻となってしまった、ホスローの春
実物が現存せず、記述のみで語り継がれてきた幻のペルシャ絨毯『ホスローの春』。幻となってしまいましたが、王宮に飾られていたことから、当時からペルシャ絨毯が価値の高いものであったとわかります。『ホスローの春』の伝承により、古くから格式高いインテリアとして利用されてきたペルシャ絨毯の魅力をより深く印象付けられたのではないでしょうか。