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あの卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしていた?!
卑弥呼といえば、邪馬台国の女王として有名です。卑弥呼とペルシャ絨毯といわれてもどのような関係があるのかわからない方も多いでしょう。ペルシャ絨毯といえば、長い歴史を持つイランの伝統的な織物製品の一つです。この2つの関係性をひも解いていくことで、日本の歴史とペルシャ絨毯の歴史、それぞれに対する興味を深めていきましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼の時代にもペルシャ絨毯が日本にあった? ペルシャ絨毯は古くから実用的かつ芸術的な敷物として多くの人を魅了しています。日本でも高級絨毯として現在も人気を集めています。そのペルシャ絨毯が、実は太古の昔、卑弥呼の時代にも伝わっていた可能性があるといわれているのです。ペルシャ絨毯の魅力により触れていくために、ペルシャ絨毯と日本の歴史を知りましょう。 卑弥呼とは 卑弥呼とは、2世紀末から3世紀前半にかけて昔の日本、倭国を統治していたとされる邪馬台国の女王です。日本の歴史の中で最も古い女王とされており、まだ文字のなかった時代の人物であるため、日本の史料には登場していません。卑弥呼の存在が明らかにされたのは、中国の魏の歴史書『三国志』の魏書においてです。日本の授業では『魏志倭人伝』とも呼ばれています。 魏書によると、倭国を男王が統治していた2世紀後半ごろは戦乱が絶えず、倭国の首長たちが相談して1人の女王を共立しました。それが卑弥呼です。卑弥呼が女王の座に就くと戦乱が収まり、倭国に平和が訪れたとされています。 卑弥呼は鬼道と呼ばれるまじないを用いて政治を行っていました。年を重ねても未婚のままで、弟が国政を助けていたとされています。また、女王となってからは人前に姿を見せず、顔を見たものはほとんどいません。1000人ほどの下働きの女性と1人の男性だけが女王の住む宮殿に出入りできました。 卑弥呼は単なる巫女ではなく、邪馬台国に君臨し30にもおよぶ倭の国々を統一して大陸との交流も行った、まさに女王と呼ぶにふさわしい存在だったといえます。 『魏志倭人伝』に残された記録 『魏志倭人伝』には太古の昔、卑弥呼の時代にペルシャ絨毯が伝わったと推測できる記述が残されています。『魏志倭人伝』では、239年に卑弥呼が魏国に使節を送ったとあります。そこで奴婢を含む数多くの品を明帝に献上しました。これにより、卑弥呼は親魏倭王の封号を与えられました。その後、魏の皇帝は答礼として金印紫綬と銅鏡100枚などの品を与えると決め、倭国へ使節を送り多くの品を贈ります。 その中には絨毯と思われる敷物も贈られたとの記録があります。ペルシャ絨毯が贈られたとされる明確な記載はありませんが、敷物と記録されていることから絨毯が贈られたと考えられるでしょう。 正倉院に残された、敷物とは ペルシャ絨毯と判明しているわけではありませんが、正倉院には中国から伝わった敷物である毛氈が所蔵されています。以前までは、カシミヤに似ているヤギの毛がフェルトの素材と考えられていましたが、近年、羊毛であると研究により明らかになりました。毛氈は、動物の毛に熱や圧力をかけて繊維をからませ、フェルト化したものです。紀元前と古くから中央アジアの遊牧民が敷物や壁掛けなどとして使っていたとされています。 そのほかにも、正倉院には歴史的に重要な物品が9,000点以上所蔵されています。所蔵されている中でも代表的な宝物は『鳥毛立女屏風』や『螺鈿紫檀五絃琵琶』などです。『鳥毛立女屏風』は、絵に使われている羽毛が日本の山鳥のものであるため舶来品ではなく、日本で制作されたと考えられています。『螺鈿紫檀五絃琵琶』は5本の弦で構成された珍しい琵琶で、5弦の琵琶は世界でも一つしか残っていません。正倉院では国家を代表する宝物が数多く所蔵されているとわかります。 ペルシャ絨毯の歴史を考えると、卑弥呼もペルシャ絨毯を手にしたかも? 古くから絨毯と思われる敷物が日本に渡ってきていますが、日本に現存する最古のペルシャ絨毯は、京都の夏の風物詩である祇園祭の巡行で登場する大きな山鉾の懸装であるとされています。卑弥呼の時代に魏から贈られた敷物がペルシャ絨毯であったか、明確な記録は残っていません。しかし、歴史を振り返ってみると、日本にも古くから海外の絨毯が伝わってきていたことがわかるでしょう。
2024.09.14
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京都に息づくペルシャ絨毯:豊臣秀吉を魅了し祇園祭を彩る
ペルシャ絨毯の歴史は長く、また日本に伝わってからも長い年月が経っています。今もなお日本では価値の高い織物製品として知られているペルシャ絨毯。歴史上の偉人である豊臣秀吉とも深いかかわりがあります。また、日本の伝統的な祭事である祇園祭ともかかわりを持っています。遠く離れたイランから日本へ伝わってきたペルシャ絨毯が、どのようにして日本人に受け入れられ愛されてきたかを知ることで、よりペルシャ絨毯への魅力を深めましょう。 秀吉の時代からペルシャ絨毯は日本にあった?! ペルシャ絨毯が本格的に日本へ入ってきたのは、17世紀以降といわれていますが、16世紀ごろの桃山時代にはペルシャ絨毯が伝わっていたとされる記録もあります。京都市東山区の鷲峰山高台寺に豊臣秀吉が加工させた陣羽織が所蔵されています。『鳥獣文様陣羽織』と呼ばれ、秀吉の正妻である高台院が京都東山に開いた高台寺に伝来したとされる陣羽織で、日本の重要文化財の一つです。 当時日本に伝わってきたペルシャ絨毯を秀吉が気に入り、美しい絨毯を裁断し陣羽織にして利用したといわれています。厳密には、綴れ織りのキリムを加工したものですが、ウールではなく金糸や銀糸が使用されているのが特徴です。輸出用に製作されたポロネーズ絨毯と同じく、16世紀後半~17世紀初頭にイスファハンもしくはカシャーンの宮廷工房で製作された製品と推察されています。 『鳥獣文様陣羽織』は、連続したひし形の枠の中で2頭の動物が闘争する様子や獣の頭が綴れ織りで表現されているのが特徴です。本来は敷物や壁掛けとして利用するために伝わった製品ですが、色鮮やかな色調や動物の闘争本能がむき出しとなった独特の文様が戦場を思わせることから、陣羽織に利用されたと予想されます。キリストの布教と貿易のためにスペインやポルトガルから訪れた南蛮船から伝わったとされるキリムを利用しており、大航海時代の片鱗が日本にも伝わっていたことがわかる製品です。 なお、高台寺は秀吉の菩薩を弔うために北政所が建立した寺院であり、現在も秀吉の伝世品が多く収められています。 京都の祇園祭に受け継がれる、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は京都の祇園祭とも縁のある織物製品です。京都祇園祭で巡行する山鉾のうち南観音山の前懸として、ペルシャ絨毯が用いられていました。懸装品として使用されていたのは、17世紀中期ごろに製作されたと考えられるポロネーズ絨毯です。そのほかにも、懸装品としては18世紀中ごろに日本へ伝わってきたペルシャ絨毯がいくつも利用されていましたが、のちの研究によりその多くが、ムガール朝インドのデカン地方で製作された絨毯と判明しました。 南観音山の前懸として使われていた、17世紀中期ごろにイランのイスファハンで作られたとされるペルシャ絨毯は1978年の祇園祭を最後に使用されていません。2014年以降は金糸や銀糸を含む19色のシルク糸で幾何学文様を再現した絨毯が使用されています。 祇園祭は千年以上の歴史を持つ八坂神社の祭礼で、1か月にわたって多彩な祭事が行われます。前祭と後祭で行われる山鉾巡行は、祇園祭の見どころの一つです。祇園祭の山鉾巡行に曳山を本格復帰させようと考えている鷹山の保存会は、曳山の左右を飾る胴懸にイランで織られたペルシャ絨毯を用いると発表しています。右側の胴懸にはイランの遊牧民カシュガイ族のデザインである水の神のシンボルであるカニが連なる文様が施されています。左側の胴懸には、16世紀にカシャーンの宮廷工房で作られた絨毯をもとに、蓮の花や子孫繁栄のシンボルであるザクロを表現した文様が描かれているのが特徴です。 日本・京都でも長く愛でられてきた、ペルシャ絨毯 日本におけるペルシャ絨毯は高級品というイメージで、ヨーロッパほど一般には普及していません。しかし、その鮮やかで繊細な文様に魅力を感じた日本人は、古くから宝物としてペルシャ絨毯を扱ってきました。秀吉が陣羽織として転用したり、山鉾の前懸として用いられたりと、日本の歴史や文化と深いかかわりを持つペルシャ絨毯。今後、日本においても徐々に広まっていくと予想されています。実用品としてだけではなく、これまでの日本の歴史や文化とのかかわりを知ったうえで鑑賞し、ペルシャ絨毯を楽しむのもよいでしょう。
2024.09.14
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ペルシャ絨毯とシルクロード:カーペットベルトと呼ばれる所以
日本では高級絨毯としての魅力を持っているペルシャ絨毯。遠い国イランから日本に伝わってきた織物製品です。ペルシャ絨毯はかつてシルクロードを通じてさまざまな国へ運ばれていました。シルクロードは古来よりシルク製品や絨毯だけではなく、さまざまな製品や文化を運ぶ偉大な交易路です。ペルシャ絨毯をはじめとした、多くの製品や文化を世界に広げる手助けをしたシルクロードの歴史と役割を知ることで、ペルシャ絨毯の発展や魅力に迫っていきましょう。 シルクロードを渡った、ペルシャ絨毯 かつてシルクの交易路として利用されるようになり、その後さまざまな製品が行き交う大きな道となったシルクロード。商品の交換だけではなく文化の交流も盛んに行われていました。たとえば、クシャーナ朝の宗教である仏教は、キャラバン商人と僧侶によってインドから中央アジアと中国に伝わりました。かつて文化も運んだシルクロード周辺では、多数の都市で仏教遺跡を見かけます。 シルクロードとは シルクロードとは、19世紀にドイツ人地理学者リヒトホーフェンが作った言葉です。中央アジアを東西に横断する古代の交易路を指しています。紀元前2世紀~18世紀の間、シルクロードを通って多くの交易品や文化が行き来していました。シルクロードの歴史的価値が認められて、2014年にシルクロードの一部である長安から天山回廊の交易路網が世界遺産として登録されています。 シルクロードを通じてさまざまな交易品が世界に広がっていきました。主な交易品はシルクです。シルク製品は当時大変貴重だったため、中国で作られたシルク製品を求めて遠方のローマや西アジア、インドなどから多くの商人たちが中国まで足を運んでいました。その後、交易はシルク製品だけにとどまらず、シルクの生糸や染色などの技術取引にも発展し、世界中でシルク産業が発展したきっかけとなったのです。 また、シルク以外にも多くの交易品が行き交っており、中国は馬やルツェルン、ブドウの種などを受け取っていました。中国よりも東側では昔からブドウの木が栽培されワインが造られていましたが、中国人にとっては真新しい果物でした。ほかにもインゲン豆や玉ねぎ、きゅうり、にんじん、ザクロ、イチジクなどの農作物も中国に伝わっています。 また食品以外には、絨毯やカーテン、毛布、敷物などさまざまな織物製品が中央アジアや東地中海から中国に伝わってきており、羊毛や亜麻の加工方法、絨毯の織り方などの知識がなかった中国人に大きな変革をもたらしました。古代中国で高く評価されたのはパルティアのタペストリーや絨毯です。 中央アジアからは、中国で高い評価を受けていたラクダや軍需品、金銀、半貴石、ガラスなどが輸出されていました。とくにサマルカンドで製作されたガラスは品質が良く高い評価を受けています。そのほかにも、羊毛や皮、綿織物、金の刺繍などの製品だけではなくメロン、スイカ、桃などの果物も輸出されています。また、羊や狩猟犬、ライオン、ヒョウなどの動物もシルクロードを通じてやり取りされていました。 中国側からは美しい純白の花瓶や器、グラス、優美な文様の皿などの磁器が好まれ、多く運ばれていきました。ヨーロッパではこの磁器を製作する技術や知識がなかったため、大変価値が高く、高値でやり取りされています。 このようにシルクロードは古来より多くの国々に利用されており、さまざまな物品が行き交っていました。 シルクロードから中国に渡った絨毯 ペルシャ絨毯はトルコを通り、シルクロードを渡って中国に伝わりました。ペルシャ絨毯が元となり中国で製作されるようになったのが中国段通です。中国段通は、ペルシャ絨毯と同じように縦糸に対してパイル糸を結んでいき、1本1本カットして織り上げていきます。ペルシャ絨毯は、細い糸を利用しノット数を増やすことで繊細な文様を表現するとともに薄くて丈夫な特徴があります。 一方、中国段通は太い毛糸を用いて糸の量が少なくなり、厚みとボリュームのあるのが特徴です。また、独特の艶出しや、カービングによる浮き彫りとぼかしなどの技術が発展し、中国段通独自の味わいが生まれていきました。織りの密度が高いほど繊細な文様を表現できる点はペルシャ絨毯と共通しています。中国段通には表現方法の一つとしてぼかし技法というものがあります。絵画的文様や精巧な刺繍の文様、手書き友禅風など、さまざまな織りを可能とする技法です。 コントラストが強く色鮮やかなペルシャ絨毯に対して、中国段通は穏やかなグラデーションとふっくらした優しい風合いが魅力です。文様には、フランス王朝ロココ時代の美術文化を前面に表現したフランス柄や、伝統的な中国古来の壷の文様を描いた北京柄などが好んで描かれています。そのほかにも、無地の段通に花などの図柄が浮き彫りされている素凸柄、梅や菊などの花が両端に織り込まれた彩花柄などもあります。中国段通は厚みがありパイル表面がやわらかいため、足音や物を落とした時の音を吸収してくれるとともに、温もりを感じられる点が魅力です。 日本でも愛される、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は日本でも愛されている織物製品の一つです。ペルシャ絨毯が日本に伝わったのは17世紀~18世紀ごろといわれています。ポルトガル・スペインもしくはオランダ東インド会社との海上貿易により伝わりました。 また、京都市東山区の鷲峰山高台寺には、かの戦国武将豊臣秀吉が所有していたとされている陣羽織が所蔵されています。正式には絨毯ではなく綴れ織りのキリムを加工したものです。しかし、この陣羽織りにはウールではなく金糸や銀糸が使用されており、ポロネーズ絨毯同様に16世紀後半~17世紀初頭にイスファハンもしくはカシャーンの宮廷工房で製作されたものではないかと推察されています。 また、京都の祇園祭で街を練り歩く山鉾の懸装品としても、17世紀中期に製作されたと考えられるポロネーズ絨毯が使用されています。 シルクロードとカーペットベルト 中国の長安からローマを結んだ古くからの交易路であるシルクロード。もとは中国産のシルクが多く運ばれたことよりその名が付きました。また、このシルクロード近辺はカーペットロードとも呼ばれています。イランをはじめとした絨毯やラグの文化が根付いている地域が、シルクロード一帯に帯状になって広がっていることから、カーペットベルトの名が付きました。 カーペットベルトとは カーペットベルトとは、シルクロードの中でも伝統ある絨毯づくりを行っている地域一帯を指します。イスラム圏とほぼ重なるカーペットベルトでは、古代より絨毯の広がりや交流があったと考えられています。 なぜ絨毯(カーペット)文化が発達したのか カーペットベルトにおいて絨毯の製作や輸出が盛んになった理由は以下のとおりです。 ・乾燥気候かつ気温差の激しい地域で絨毯を必要とする環境がある ・原材料の羊毛が簡単に手に入る ・移動を続ける遊牧民は家具を使わない床生活のため ・東西に交易路が整備されている ・イスラムの習慣で礼拝時に絨毯を利用する習慣があったため ・古くから染織技術の伝統を持つ都市が多くある 文化に根付き進化した、ペルシャ絨毯 ペルシャ絨毯は、シルクロードを経てさまざまな国へ伝わり独自の進化を遂げました。製品そのものや織りの技術だけではなく、その独特な文様も各国へ伝わり、アレンジを加えられて親しまれています。たとえば、ペルシャ絨毯で好まれているアラベスク文様は日本では唐草模様として発展しました。イランは遠い国のように思えますが、このようにシルクロードを通して伝わってきたペルシャ絨毯やさまざまな製品によって、とても身近なものになっているといえるでしょう。イランから日本へはるばる運ばれてきたペルシャ絨毯の魅力は、ぜひ実物を手に取って感じてみることをお勧めします。
2024.09.14
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幻のペルシャ絨毯、ホスローの春とは
古くから現在まで高級品として知られているペルシャ絨毯。耐久性に優れた作りにより数千年前に製作されたペルシャ絨毯も現存しており、歴史的価値も高い織物製品です。ペルシャ絨毯の歴史において、有名な話にホスローの春があります。実物は現存していませんが、大変豪華で美しい絨毯であったとされています。 語り継がれる絨毯、ホスローの春とは ペルシャ絨毯の歴史は長く、さまざまな歴史的価値のある絨毯が発見され、博物館や美術館に所蔵されている一方、実物は現存していませんが伝承によって語り継がれた幻の絨毯があることをご存じでしょうか。『ホスローの春』は、豪華な装飾を施された幻のペルシャ絨毯と呼ばれています。 ホスロー1世 ホスロー1世とは、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主で、エフタルに侵攻され衰えていたササン朝ペルシアを再興した王です。在位は531~579年とされています。529年、東ローマ帝国のユスティニアヌス大帝が異教徒を取り締まり、アテネのアカデメイアを閉鎖すると、多数のギリシア人の哲学者や医学者がササン朝に逃げてきました。ホスロー1世はこの哲学者たちを保護したといわれています。エフタルを滅ぼした後は、561年にユスティニアヌス帝との間に50年の和平条約を結び、西方の国境を安定させました。その後、アラビア半島の現在のイエメンを占領し、ビザンツ帝国とインドを結ぶ貿易路を作っています。 ホスロー1世の時代は、ゾロアスター教を中心としたササン朝の文化が最も栄えた時代といわれています。また、ギリシア・ヘレニズムの文化の影響も受けており、金属細工やガラス工芸などの芸術作品が生み出され、シルクロード交易を通じて東アジアの日本にまで伝えられたのでした。 ホスローの春(春の絨毯)はどんな絨毯だった? 『ホスローの春』は別名・春の絨毯とも呼ばれる幻のペルシャ絨毯です。アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが書いた『諸使徒ならびに諸王の歴史』に、ササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていた絨毯の記述があります。記述からは、絨毯がどのような構造であるかはわかっていません。また、実在を証明する一次資料はなく、あくまで伝承に過ぎない絨毯です。 ササン朝(226~642年)はシリアから中央アジアまで広い地域を支配していた大帝国です。『ホスローの春』は、ササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世(在位531~579年)のもとで、四季をテーマに製作された絨毯のうちの1枚とされています。サイズは縦140m×横27mの大きなサイズだったといわれています。また、バハレスタン絨毯の異名を持っており、バハレスタンのペルシャ語の意味は春の国です。 楽園のような美しい庭園が表現されていたといわれ、シルク生地に金糸や銀糸さらには宝石を用いて、花々が咲き乱れる春の風景が描かれていたそうです。推察ではありますが、つづれ織りのキリムに真珠やエメラルドなどの宝石や貴石を縫い付けたもの、パイル織で製作されていればつづれ織りを組み合わせたポロネーズ絨毯と同じくスフの地に宝石を縫い付けたものなどと考えられています。 ホスロー1世の死後、のちにササン朝ペルシアはアラブのイスラム教徒によって滅ぼされてしまいます。その際に『ホスローの春』は、2代正統カリフであるウマルのもとに戦利品として送られましたが、バラバラに分解され兵士たちに分配されたといわれています。そのため、実物は現存しておらず、幻の絨毯と呼ばれるようになりました。 幻となってしまった、ホスローの春 実物が現存せず、記述のみで語り継がれてきた幻のペルシャ絨毯『ホスローの春』。幻となってしまいましたが、王宮に飾られていたことから、当時からペルシャ絨毯が価値の高いものであったとわかります。『ホスローの春』の伝承により、古くから格式高いインテリアとして利用されてきたペルシャ絨毯の魅力をより深く印象付けられたのではないでしょうか。
2024.09.14
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ゾロアスター教とペルシャ絨毯:文化の交わりが生んだ美
ゾロアスター教とペルシャ絨毯と聞いても、共通点が浮かぶ人は少ないのではないでしょうか。ゾロアスター教は古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教であり、ペルシャ絨毯はイランの伝統的な織物製品です。一見交わることのないように感じられますが、実は長い歴史の中においては関係している場面もあります。2つの伝統的な文化が交わり生まれたペルシャ絨毯の美を楽しむためにも、ゾロアスター教の歴史や関係値をチェックしてみましょう。 ペルシャ絨毯とゾロアスター教との関係 ペルシャ絨毯もゾロアスター教も歴史が古く、イランにおいては多くの人に知られているものです。それぞれの歴史や特徴は知っていても、関係性については知らない方も多くいます。ペルシャ絨毯のさらなる魅力を発見するためにも、歴史をさかのぼりゾロアスター教との関係性を深堀してみるのもよいでしょう。 ゾロアスター教とは ゾロアスター教とは拝火教とも呼ばれており、古代ペルシア発祥の歴史上最古の宗教です。現在でもイランやインドを中心に、世界中に信者が存在します。また、世界3大宗教の基礎にもなっている宗教です。ザラスシュトラが説いたゾロアスター教の教えでは、善悪二元論の思想があります。 全知全能の神で、ゾロアスター教の最高神アフラ・マズダが創造したとされるこの世界には、善い神と悪い神がいるとされています。善い神は、人類の守護神であるスプンタ・マンユを筆頭にした7神。悪い神は、悪、苦痛、病気、死の源泉とされるアンラ・マンユを筆頭にした7神です。 今の時代は善い神と悪い神が戦っている時間であり、苦しい日々が続くのはアンラ・マンユたちが優勢なとき、楽しい日々が続くのはスプンタ・マンユが勝利し続けているからだとしています。もし、この世を1人の神が正義の下に創造していたとしたら、悪人はいないはずです。ゾロアスター教では、清く正しく生きていても人生に苦しみがつきものなのは、神にも善と悪があるからだと説いています。 ゾロマスター教では、1万2000年後に未来の終末が訪れ、アフラ・マズダが最後の審判を行うとされています。生きている者だけではなく死者も審判の対象となり、全人類が選別されるのです。悪人は地獄に落ち、滅び去ります。善人は永遠の命を授かり、天国で生きるとされています。 ゾロアスター教の時代から存在したペルシャ絨毯 ゾロアスター教は、紀元前2世紀に栄えたパルティア王国の人々の手によって聖典『アヴェスター』として編纂されました。その後のササン朝は、226~642年に栄えた王朝で、アケメネス朝の再興を目指すとともにゾロアスター教を国教化しました。第21代君主ホスロー1世の時代に最盛期を迎え、この時期に『ホスローの春』と呼ばれる幻のペルシャ絨毯が製作されたとされています。 『ホスローの春』の現物は残っておらず、アラブの史家タバリーが書いた『諸預言者ならびに諸王の歴史』の中に記述が残っている絨毯です。サイズは縦140m×横27mととても大きく、楽園のような美しい庭園の文様が施され、宝石や貴石などが縫いつけられた豪華絢爛なペルシャ絨毯であったとされています。『ホスローの春』はササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていました。 ホスロー1世が亡くなった後、ササン朝ペルシアがアラブのイスラム教徒によって侵攻された際、戦利品として『ホスローの春』が持ち帰られましたが、その後バラバラに切断され兵士たちに分配されたといわれています。 残念ながら『ホスローの春』の実物は現存せず書の記録のみですが、ゾロアスター教が国教化されていた古い時代から、宮殿や王宮などの敷物としてペルシャ絨毯が利用されていたことがわかります。 ゾロアスター教がペルシャ絨毯に与えた影響 ゾロアスター教は、古代に製作されたペルシャ絨毯の文様にも大きな影響を与えたとされています。ゾロアスター教は、農耕と牧畜を高貴な職業とする信仰であったため、樹木文様やペイズリーの起源になっているともいわれています。 樹木模様は糸杉模様とも呼ばれ、古代より東方では樹木が生命や不死の象徴であったため神聖な模様として尊ばれていました。樹木模様は永遠の生命を表しており、ペルシャにイスラムがもたらされたときには、すでにゾロアスター教徒が炎の形をなぞらえて絨毯に織り込んでいたともいわれています。ペイズリーの起源もイランにあるとされており、ゾロアスター教徒が拝する炎を意匠化したとする説があります。また、風に揺れる糸杉をモチーフにしているとの説も。 また、ゾロアスター教は産地独特の文様にも影響を与えています。タフリシュで製作されるメダリオン・コーナーはクロック・フェイスと呼ばれる独特な文様です。このデザインはゾロアスター教の唯一絶対神である太陽神をイメージしているといわれています。 ペルシャ絨毯の産地として知られるアルデビルは、ゾロアスター教の聖地を意味するアルタヴィルが由来ともいわれています。また、ナインではかつて、ゾロアスター教が掘った洞窟の中に機織り機を設置してウール素材の生地を製作していました。 ゾロアスター教の影響も残る、ペルシャ絨毯 古代ペルシア発祥の世界最古の宗教であるゾロアスター教は、イラン国内においてさまざまな影響を残しています。ペルシャ絨毯もその影響を受けたものの一つです。ペルシャ絨毯の歴史も古く、ゾロアスター教が国教化されていた時代でともに存在し、宮殿や王宮などで利用され大きな印象を残しています。また、ペルシャ絨毯の文様として親しまれている樹木模様・糸杉模様やペイズリーもゾロアスター教と深い関係があるとされています。ペルシャ絨毯は長い歴史の中で、さまざまな出来事や物と共存していたことがわかるでしょう。
2024.09.14
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ペルシャ絨毯の歴史:織物の芸術が紡ぐ千年の物語
ペルシャ絨毯はイランの伝統的な織物製品です。イラン国内かつ手織りで作られている絨毯をペルシャ絨毯と呼び、国内外問わず多くの人を魅了しています。人気のあまり偽物も多く出回っており、本物のペルシャ絨毯の価値は今後も上がっていくでしょう。オールドやアンティークなどの古いものも現存するペルシャ絨毯。その歴史はいつごろから始まっているのか気になる方も多くいます。長きにわたる歴史の中で、技術と伝統を磨き上げて作られたペルシャ絨毯の原点を探っていきましょう。 ペルシャ絨毯の歴史 ペルシャ絨毯は古くから、実用的な敷物や鑑賞用のタペストリーなどとして多くの人に親しまれてきました。イランという国の歴史も古く、国内には世界遺産にも指定されている5大遺跡があります。歴史ある国イランの文化の中で手織りされた美しいペルシャ絨毯はどのように誕生したのでしょうか。はっきりとした始まりはわかっていませんが、起源は4000~5000年前にまでさかのぼるといわれています。 紀元前:いまも残る、最古の絨毯 ペルシャ絨毯は紀元前から製作されていたと考えられています。およそ4000~5000年前の当時の絨毯は、現在製作されているパイル織りの絨毯ではなく、獣の毛を固めたようなものでした。絨毯は実用的な織物で、日常的に使用されることから保存状態がよいまま残ることは少なく、当時の絨毯はほとんど残っていません。 現在発見されている中で、現存する最古のペルシャ絨毯は『パジリク絨毯』です。およそ2500年前に作られたとされています。発見したのはロシアの考古学者セルゲイ・ルデンコです。シベリアのアルタイ山脈中パジリク渓谷にあるスキタイ王族の古墳から発見されました。古墳には高価で貴重な品物が数多く眠っている可能性があるため、盗掘が発生することも。しかし、パジリク絨毯は盗掘をまぬがれ、さらには凍結状態であったために劣化が最小限で済みました。 研究結果からは、羊毛とラクダの毛をベースに羊毛のパイルが織り込まれているとわかりました。2本の縦糸に一つひとつ糸を絡ませて織っていくこのスタイルは、現在のペルシャ絨毯の同じ織り方です。サイズは約1.8m×2mで、中央部に格子と5列のボーダー文様が施され、シカや馬を引く人、騎馬などが表現されています。絨毯の文様がアケメネス王朝ペルシャ期のデザインと似ていることと、ペルシャ絨毯に共通する織り方から、当時のアケメネス王がスキタイ王国へ贈ったものではないかと考えられています。しかし、最近では中央アジアで織られたものという説も。 また、パジリク古墳よりも西方にあるバシャダル古墳からは、パジリク絨毯よりもさらに130年さかのぼった時代に作られたとされるペルシャ結びで織られた絨毯が発見されました。パジリク絨毯発見の数年後にセルゲイ・ルデンコにより発見された絨毯の断片は、パジリク絨毯よりもさらに密度の高い織り方がされていました。今後もさらに古いペルシャ絨毯が発見されるかもしれません。 7世紀:語り継がれる、ホスローの春 古代ペルシャでは、空気、水、火、地の4つを神聖な元素とたたえるゾロアスター教が広く浸透していました。アラブに侵攻されイスラム教が入ってくるまでは、宗教といえばゾロアスター教でした。この時代に作られたとされる幻のペルシャ絨毯が『ホスローの春』です。実物は現存しておらず、アッバス朝期のイスラム法学者であったアブー・ジャーファル・タバリーが書いた『諸使徒ならびに諸王の歴史』に記述があるだけの絨毯です。そのため、どのような構造をしていたかはわかっていません。 『ホスローの春』はササン朝の最盛期を築いた第21代君主ホスロー1世のもとで製作され、ササン朝ペルシアの都にあるクテシフォン宮殿に敷かれていたとされています。縦140m×横27mの巨大な絨毯で、シルク生地に金糸や銀糸さらには真珠やエメラルドなどの宝石や貴石を縫い付けたデザインであったとの話もあります。 ホスロー1世の死後、ササン朝ペルシアはアラブのイスラム教徒によって支配されました。その際に『ホスローの春』はバラバラにされ戦利品として兵士たちに分配されたとのことです。そのため『ホスローの春』は現在までに断片すら発見されておらず、幻のペルシャ絨毯といわれています。 16世紀:ペルシャ絨毯の黄金期 16世紀のサファヴィー朝は、ペルシャ絨毯の黄金期と呼ばれています。サファヴィー朝は1501年に神秘主義教団の指導者であったイスマーイールによって創始され、都をタブリーズに置きました。サファヴィー朝では建築や絵画、絨毯などが盛んに作られ、工芸と文化が発展した時代でもありました。 なかでも、シャーアッバース1世の時代にはイスファハンに都を移しモスクを建築しています。その後も新しい王宮、庁舎、邸宅などの建設ラッシュが巻き起こります。建築の増加にあわせて絨毯の需要も増え、数多くの絨毯工房が設立されました。宮廷工房も設立され、絨毯の素材となる羊の飼育から染料に使用する植物の栽培まで、宮廷内で一貫して行われるようになりました。 宮廷工房では、国内だけではなく海外の王族や高官への贈り物としての絨毯も織られています。また、輸出用の絨毯はイスファハンやカシャーン、ジョウシャガーンなどの工房でも多く製作されました。当時製作された海外向けの絨毯はポロネーズ絨毯と呼ばれ、現在世界で230枚発見されています。ポロネーズ絨毯は金糸を使用したシルクの美しい文様が特徴で、のちにインドのムガル朝やトルコのオスマン朝などにも影響を与えました。 18世紀以降:時代とともに受け継がれるペルシャ絨毯 18世紀以降もアフシャール朝やガージャール朝、パハラヴィー朝とペルシャ絨毯の伝統は受け継がれていきました。アフシャール朝に製作されたペルシャ絨毯はあまり現代に残されておらず、資料も限られています。1722年のアフガーンの侵略や1727年のナーデル・シャーの挙兵によりイランの絨毯製作は一度終焉したともいわれています。しかし、実際には宮廷の豪華な絨毯や海外向けの絨毯の製作が行われなくなっただけで、実用性のある遊牧での絨毯づくりは変わらず続いていたとする説が有力です。 ガージャール朝の時代ではペルシャ絨毯の伝統的な体制や方向性、絨毯そのものに大きな変化が見られました。とくに変化が顕著だったのが1870年代から第一次世界大戦までの織り機と輸出量が急増した時期です。ヨーロッパ市場でペルシャ絨毯のブームが巻き起こり需要が急激に増加しました。その影響で絨毯工場が次々に設立されていき、商業的生産の基盤が構築されました。 パハラヴィー朝ではガージャール朝から引き継がれた絨毯の振興策により、ナインやゴムなどの新興産地も登場し、都市工房での絨毯づくりが活性化されていきます。 近代:世界三大財産となり、偽物も増えつつある… 1979年のイスラム革命により王制が終焉を迎えた後も、絨毯産業は継続され輸出も続き、現在に至ります。時を経ても価値の高いペルシャ絨毯は、近年でも人気であり「世界三大財産」といわれています。しかし、技術の進歩からコピー品なども増えてきているのが現状です。 ペルシャ絨毯の受け継がれる伝統と美しさ イランで作られるペルシャ絨毯には、古くから受け継がれてきた伝統的な美しさがあります。長い歴史の上に立つ技術や手法により織られるペルシャ絨毯は何にも代えがたい魅力があるといっていいでしょう。しかし近年、需要の増加とともに不足する織り子の賃金上昇が注目され、ペルシャ絨毯そのものの価格も年々上昇しています。ペルシャ絨毯は高価で希少価値が高い織物製品ですが、織り子の賃金問題解決により、これからも伝統を受け継いで製作されていくでしょう。
2024.09.14
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絨毯美術館の秘宝:美術館で楽しむ絨毯の奥深さ
高級絨毯として知られる、イランのペルシャ絨毯。実用性が高く実際にインテリアとして使用する人もいれば、鮮やかな色使いや独特な文様に芸術的価値を見出し鑑賞物として楽しむ人もいます。また、オールドやアンティークのペルシャ絨毯は歴史的価値があるとして、美術館や博物館に展示されています。美術館で楽しむ絨毯の奥深さを知って、さらにペルシャ絨毯に対する興味を深めていきましょう。 日本国内の絨毯美術館 日本では高級品として広く知られているペルシャ絨毯ですが、歴史的価値や芸術性の高い絨毯も多く存在しています。とくにオールドやアンティークのペルシャ絨毯は価値が高く、博物館や美術館の展示物になっていることも。日本の美術館や博物館でも、貴重なペルシャ絨毯の鑑賞をお楽しみいただけます。 シルクロード絨毯ミュージアム シルクロード絨毯ミュージアムでは、シルクロードで生まれた手織りの絨毯を展示しています。西はトルコ、イランから、東は中国、日本まで。18世紀から現代に至るまでの手織り絨毯を展示しており、歴史の流れとともにお楽しみいただけます。また、直接手に触れながら間近でご鑑賞可能です。伝統や由緒ある絨毯、オールドやアンティークの絨毯など貴重な絨毯コレクションとともに、絨毯作りに欠かせない材料や道具も展示しています。 シルクロード絨毯ミュージアム 兵庫県神戸市東灘区向洋町中6-9 神戸ファッションマート3階 https://www.carpetandrug.net/aboutus/museum/ 白鶴美術館 白鶴美術館では、19世紀後半から20世紀初頭にかけて織られた絨毯を中心に展示。ペルシャ絨毯を代表する豪華絢爛なメダリオン絨毯をはじめとして、イスラム文化圏を象徴するミフラーブ文様、生命樹を描いた絨毯、そして物語の一場面を切り取った絨毯などさまざまな文様と意味が込められた絨毯を展示しています。白鶴美術館では絨毯だけではなく、青銅器や陶磁器、装身具、経巻、絵画などの歴史的価値のあるコレクションもあわせてお楽しみいただけます。 白鶴美術館 兵庫県神戸市東灘区住吉山手6丁目1-1 https://www.hakutsuru-museum.org/ 京都国立博物館 京都国立博物館では、豊臣秀吉がペルシャ絨毯を気に入り作らせたとされる『鳥獣文様陣羽織』をご鑑賞いただけます。陣羽織には、連続して描かれたひし形模様の中に2頭の動物が組み合う様子が綴織で表現されています。シルク糸に銀の薄板を巻き付けた特殊な金属糸を利用していることから、サファヴィー朝時代のペルシアの宮廷工房で製作された生地と考えられているようです。京都国立博物館では、さまざまな特別展を開催していますのであわせてご鑑賞ください。 京都国立博物館 京都府京都市東山区茶屋町527 https://www.kyohaku.go.jp/jp/ 世界の絨毯美術館 世界の博物館や美術館でも多くの貴重なペルシャ絨毯が展示されています。世界最古のペルシャ絨毯も鑑賞できるため、歴史的価値に興味のある方は、どの美術館にどのようなペルシャ絨毯が所蔵されているかチェックしましょう。 イラン絨毯博物館(カーペット美術館) ペルシャ絨毯の本場イランに建てられているイラン絨毯博物館では、歴史的価値のある貴重な絨毯が多く展示されています。イラン各地で生産されたさまざまな絨毯が展示されていますが、とくにオールドやアンティークと呼ばれる古い名品絨毯が多い傾向です。展示方法にも工夫があり、絨毯を壁に飾るだけではなく、地面に敷いた状態で展示されているものも。さまざまな角度から絨毯をお楽しみいただけます。イラン絨毯博物館に収蔵されている絨毯は、最後の国王パフラヴィー2世の皇后ファラ王妃がコレクションしていたものが基本です。その後、カージャール朝ペルシア帝国の子孫から寄付された絨毯も多く展示しています。 イラン絨毯博物館(カーペット美術館) Tehran Province, Tehran, Dr Fatemi St, イラン https://g.co/kgs/UoNAkcU エルミタージュ美術館 エルミタージュ美術館では、世界最古のペルシャ絨毯と称される『パジリク絨毯』が展示されています。シベリアのアルタイ山脈パジリク渓谷の永久凍土で発見された『パジリク絨毯』は、およそ2500年前に作られたペルシャ絨毯と考えられています。織り方は、2本の縦糸に一つひとつ糸を絡ませて織っていく現在のペルシャ絨毯と同じものでした。保存状態がよく、5列のボーダー文様が配置され、中央に鹿、馬を引く人、馬にまたがる兵士などが描かれているのがはっきりとわかります。エルミタージュ美術館はロシアにある世界最大級の国立美術館で、絨毯をはじめとして歴史的価値のあるコレクションが300万点以上展示されています。 エルミタージュ美術館 Palace Square, 2, St Petersburg, ロシア 190000 https://g.co/kgs/u9WHB1E」 ヴィクトリア&アルバート博物館 ヴィクトリア&アルバート博物館では、年代が判別できる世界最古の絨毯である『アルデビル絨毯』が展示されています。絨毯の表面にイスラム歴946年に作られたことを示す文字が織り込まれており、西暦になおすと1539~1540年に製作されたと考えられます。生地には上質なウールとシルクがふんだんに使用されており、当時としては大変高級なペルシャ絨毯であったといえるでしょう。ヴィクトリア&アルバート博物館はイギリスにある世界最大級の国立美術館で、絨毯をはじめとして歴史的価値のあるコレクションが400万点以上展示されています。 ヴィクトリア&アルバート博物館 Cromwell Rd, London SW7 2RL イギリス https://www.vam.ac.uk/ 絨毯の奥深さを美術館で堪能しよう 実用性と芸術性どちらも高いペルシャ絨毯は購入して楽しむだけではなく、美術館や博物館でも鑑賞できます。購入するペルシャ絨毯とはまた違い、歴史的背景を想像しながら楽しめるのも醍醐味の一つです。ペルシャ絨毯の文様や産地など基本的な情報を知り興味を持ち始めた方は、ぜひ美術館で歴史的価値の高いペルシャ絨毯の鑑賞も楽しんでみてください。
2024.09.14
- ペルシャ絨毯とは
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世界三大織物精:巧な技術が生み出す芸術の極致
世界三大織物といえば「ペルシャ絨毯(イラン)」「ゴブラン織(フランス)」「大島紬(日本)」の3つです。それぞれ異なる魅力があり、楽しみ方もまたさまざまです。繊細で高い技術を持つ織物製品に触れ、芸術的な感性を高めていきましょう。 世界三大織物とは 歴史的かつ伝統的な価値を有する世界三大織物をご存じでしょうか。伝統ある技術と製品の美しさによって世界を魅了している織物は「ペルシャ絨毯(イラン)」「ゴブラン織(フランス)」「大島紬(日本)」の3つです。世界三大織物と呼ばれるこの織物製品について、詳しく知らない方も多いでしょう。どれもが長い歴史と伝統を持っており、歴史的・芸術的価値の高い織物製品といえます。それぞれの歴史や特徴を知ることで織物製品に対する興味を深めていきましょう。 ペルシャ絨毯(イラン) イラン国内で作られた手織りの絨毯をペルシャ絨毯といいます。耐久性や保温性、吸湿性に優れており、古くから敷物として活用されてきました。実用性が高い点もペルシャ絨毯の特徴です。また、バリエーション豊富な独自の文様や構図も、多くの人々が注目している魅力でもあります。その芸術性の高さから、敷物としてではなくタペストリーにして壁に飾る文化も生まれています。 ペルシャ絨毯はすべて手織りで製作されているため、同じ作品はこの世に一つもありません。手織りでは、下絵に沿って縦糸に横糸とパイル糸を絡めて結び目を作り織っていきます。ペルシャ絨毯の多くは、1本の縦糸にパイル糸を結び付けていくシングルノット式が用いられています。シングルノット式では結び目がシングルで小さいため、より緻密な文様の表現が可能です。 また、ペルシャ絨毯に利用される素材はシルク、ウール、コットンの3つです。横糸とパイル糸には主にシルクとウールが使われます。縦糸にはコットンやシルクが用いられます。ほかの糸の素材に関係なく、パイル糸にシルクが使われていればシルク絨毯、ウールが使われていればウール絨毯と呼ぶのが特徴です。なかには、耐久性と繊細な文様のどちらの品質も高めるために、ウール絨毯の縦糸にシルクを用いるケースもあります。 シルク絨毯はなめらかでツヤのある質感が特徴で、高級感あふれる雰囲気を醸し出してくれます。また、細い糸で織っているため文様が繊細で、芸術性が高い点も魅力の一つです。敷物としてだけではなく鑑賞用のタペストリーとしても利用されています。 ウール絨毯は耐久性に優れており、踏めば踏むほど文様の風合いが増していくといわれています。そのため、古くからウールの絨毯は製作されており、状態のよいオールドやアンティークなどの絨毯も高評価を受けているのです。 明確な起源はわかっていませんが、ペルシャ絨毯の歴史は古く、およそ3000~4000年前には製作されていたといわれています。現存する世界最古の絨毯は『パジリク絨毯』と呼ばれるペルシャ絨毯です。このことからも歴史の長い織物製品であるとわかります。 ペルシャ絨毯は歴史が長く、手織りで一つひとつが唯一無二の作品です。また、使うほどに味わいが増していき、時間が経つとともに異なる表情を見せてくれます。実用性に優れていて長く使い続けられるうえに、芸術性も高い特徴をもち世界中で人気を集めています。 ゴブラン織(フランス) ゴブラン織とは、主にヨーロッパ圏内で作られている絨毯の織り方の一種です。平織りの仲間で、つづれ織りとも呼ばれています。縦糸は表に現れず、横糸だけでデザインを表現します。そのため、横糸には太めの糸が使われており、重厚感あるデザインが特徴です。一般的に、縦糸には4色以上、横糸には3色以上を使って構成されます。色や模様を繊細に表現するために横糸が数百色におよぶことも。 1本1本の横糸で模様を描いていくため、繊細で自由度の高い表現が可能となり、絵画のようなデザインが魅力の一つです。細かい作業で手間と時間はかかりますが、その分、クオリティの高い繊細な絵画的表現が可能です。 ゴブラン織の歴史は古く、起源とされるエジプトのコプト織りは紀元前15世紀にはすでに製作されていたといわれています。のちに、ヨーロッパやアジアなど世界各地に広がっていきました。つづれ織りがゴブラン織と呼ばれるようになったきっかけは、フランスのゴブラン家の織物工房で作られたつづれ織りのタペストリーを、ゴブラン織としたことから始まりました。 ゴブラン織の最大の魅力は、絵画のように繊細で風格のあるデザインです。何百色もの横糸を用いて描かれた多色多彩なゴブラン織は、美術的価値の高い作品といえます。芸術性の高さからタペストリーや室内装飾品として扱われることも多く、あのベルサイユ宮殿にも飾られています。 また、ゴブラン織は平織りの仲間で、パイルがありません。そのため、絨毯自体が薄く毛足がないためお手入れが簡単な点も、評価が高いポイントです。コロコロを転がすだけで簡単にホコリやごみが取り除けます。平織りの絨毯は薄くて軽いため、持ち運びにも便利です。お手入れとして部屋干しする際も移動が簡単に行えます。 ゴブラン織はほかの織物と比べて縦糸と横糸をしっかり織り込んでいます。そのため、薄くても丈夫な絨毯が出来上がるのです。丈夫なため土足文化の欧州でも好んで利用されており、負担がかかりやすい椅子やソファーの生地に使われることも。ゴブラン織は緻密で豪華なデザインを長く楽しめる織物製品です。 大島紬(日本) 世界三大織物の一つは日本にあります。大島紬は日本を代表する高級着物の一つです。鹿児島県の奄美大島発祥のシルクの織物で、手作業で紡いだシルクに泥染めと呼ばれる技法で染色を行い、手織りで作られていきます。日本の和の雰囲気に合わせた渋い色合いやしなやかな風合いが特徴です。 大島紬については、奈良東大寺の734年の献物帳に記録が残っており、古くから作られていたとされています。明治初期ごろから商品用に生産されるようになり、大正時代にはこれまでの10倍以上の生産が行われるようになりました。1945年に第二次世界大戦の影響を受け生産が一切停止になりましたが、戦後1954年に本場奄美大島紬協同組合が設立され、生産が再開されました。2020年代以降は着物だけではなく財布やバッグ、ネクタイなどにも用いられています。 本物の大島紬と呼べるのは、以下の条件を満たした織物だけです。 ・シルク100%で先染手織りである ・平織りである ・締機によって手作業で加工されている ・手機で織られている 大島紬は泥染めが有名ですが、代表的な染め方には「泥大島」「泥藍大島」「色大島」「白大島紬」「草木泥染大島」などがあります。大島紬の柄はさまざまありますが、基本的には奄美大島の自然をモチーフにした作品が多い傾向です。たとえば、奄美大島に自生するソテツをモチーフにした柄や、亀の甲羅をモチーフにした柄などがあります。 宮崎県や韓国などでも大島紬と呼ばれる織物が作られていますが、世界三大織物の大島紬とは別物としてとらえましょう。本場の大島紬は、伝統的な技法かつ奄美大島で作られたものに限ります。 世界に誇る技術が受け継がれる、世界三大織物 世界段大織物はどれも歴史と伝統が受け継がれている素晴らしい織物です。それぞれ違った魅力があるため、興味を持った織物に直接触れて楽しむのもよいでしょう。
2024.09.14
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- 絨毯
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世界最大の絨毯…その圧倒的なスケールと美を堪能する
伝統的な手織りの技術により、優雅さと風格を備えたペルシャ絨毯。ペルシア王朝時代から織り継がれてきたイランが誇る伝統的な絨毯で、実用性はもちろん芸術性の高さも相まって、世界中で人気を集めています。ペルシャ絨毯はさまざまなサイズ展開がありますが、最大でどのくらいの大きさのペルシャ絨毯が存在しているかご存じでしょうか。圧倒的な迫力で大空間を彩る、世界最大のペルシャ絨毯の魅力を堪能しましょう。 世界最大の絨毯はアラブにあった 世界最大のペルシャ絨毯は、アラブ首長国連邦(UAE)の首都アブダビにあります。アブダビを象徴する豪華絢爛な建造物「シェイク・ザイード・グランド・モスク」。このモスク内に世界最大のペルシャ絨毯が敷かれています。 シェイク・ザイード・グランド・モスクは、連邦大統領を務めた前アブダビ首長ザイード・ビン・スルタン・アン・ナヒアンの命によって、総工費約20億ディルハム(約550億円)をかけて建設されました。4万人が収容可能で、大理石で建設された白を基調とする外観と内部の絢爛豪華な装飾が見る者を圧倒します。 そして、7,000人を収容できるメインホール内に、世界最大のペルシャ絨毯が床一面に敷かれています。この世界最大のペルシャ絨毯は、イラン絨毯公社(ICC)に発注されて作られたものです。アリー・ハリークが下絵を描き、製作はイラン北東部ニシャープール近郊の3つの村で行われました。9枚のパーツに分け、16歳から60歳までの女性総勢1,200人を動員して、昼夜二交代制で織り進められました。それぞれのパーツが完成後、モスク内に搬入され40人の職人の手によって縫合されていきます。こうして世界最大のペルシャ絨毯が完成しました。 その大きさは5,627㎡で、重量は47トン、推定価格は約90億円です。絨毯の上では7,126人が礼拝を行えます。豪快な美を飾る世界最大のペルシャ絨毯は、世界最大のシャンデリアとともにシェイク・ザイード・グランド・モスクのメインホールを彩っています。 世界で2番目・3番目の絨毯もかなり大きい 現在世界で2番目、シェイク・ザイード・グランド・モスクのペルシャ絨毯が作られるまでは世界1だったのは、オマーンの首都マスカットに建築されたスルタン・カーブース・グランド・モスク内に敷かれているペルシャ絨毯です。大きさは4,263㎡で、重さは21トン。製作はシェイク・ザイード・グランド・モスクと同じくイラン絨毯公社(ICC)です。1996年から4年の月日をかけ、ニシャープール近郊の村から600人を動員して製作されました。ノット数17億個以上と圧倒的な数で織られたペルシャ絨毯は、天井装飾を映し出しているかのようなデザインで訪れた者を魅了しています。 また、世界で3番目の大きさを誇るのは、オマーンの首都マスカットのモハンマド・アッアミーン・モスクに敷かれているペルシャ絨毯です。2012年に完成したこの絨毯は、オマーン王室からイラン絨毯公社(ICC)へ320万ドルで発注し作られたといわれています。大きさは2,400㎡で、イラン北東部ニシャ―プール近郊のユセファバドから400人を動員して約16か月かけて製作されました。丸天井の内側に施されたイスラミックデザインの幾何学模様の装飾とともに、オジーブ付きのメダリオンをメインに大小さまざまな大きさのメダリオンを配置した幻想的なデザインのペルシャ絨毯が、モスク内部を美しく彩っています。 世界最大の絨毯は想像以上のスケールと美しさだった 世界最大級のペルシャ絨毯は、圧倒的なスケールと美しさを誇っています。一般的に作られるペルシャ絨毯で一番大きいサイズはガリ(約400×300cm以上)ですから、各モスク内に敷かれたペルシャ絨毯がいかにスケールの大きい絨毯であるかをあらためて実感できるでしょう。
2024.09.14
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- ペルシャ絨毯の歴史
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世界最古の絨毯とは?歴史的な価値と魅力に迫る
ペルシャ絨毯は紀元前から現在まで長く歴史が続いている織物製品です。耐久性に優れている特性により、古いものではおよそ2500年前に作られたペルシャ絨毯も現存しています。実用性があるだけではなく歴史的価値も高いペルシャ絨毯。その歴史をさかのぼり、さらなる魅力に迫りましょう。 世界最古の絨毯・パジリク絨毯 『パジリク絨毯』とは、世界最古の絨毯と称されるペルシャ絨毯です。旧ソ連の考古学者S・J・ルキデンコが、南シベリアのアルタイ山脈パジリク渓谷の永久凍土で発見しました。絨毯が発見された場所は、スキタイ山中のスキタイ王家の墓稜でした。そのため、スキタイ族の所有物もしくは埋葬品だったのではと推察されています。また、およそ2500年前の紀元前400年代ごろに作られたペルシャ絨毯と考えられています。 一部絨毯に欠損が見られるものの、凍結状態で保存されていたおかげでほぼ原形をとどめており、歴史的価値の高い絨毯です。『パジリク絨毯』は2本の縦糸に一つひとつ糸を絡ませて織っていく現在のペルシャ絨毯と同じ織り方で作られていました。しかし、どこで織られた絨毯であるかはまだ解明されていません。保存状態がよいため、5列に配置されたボーダー文様や中央の鹿、馬を引く人、騎馬など絵がはっきりとわかります。これらのデザインがアケメネス王朝ペルシャ期のものと似ているため、当時のアケメネス王がスキタイ王国へ贈った品物ではないかとも推察されています。 世界最古のペルシャ絨毯である『パジリク絨毯』。現在は、ロシアのサンクトペテルブルグにあるエルミタージュ美術館に展示されています。 製造年が確認できる世界最古の絨毯・アルデビル絨毯 『アルデビル絨毯』とは、製造年が確認できる世界最古のペルシャ絨毯とされています。アゼルバイジャン・アルデビルの地名が絨毯に織り込まれていたことから、この名がつきました。サイズは1152cm×534cmです。 絨毯の表面にはペルシアの詩人ハーフィズの詩の一句とともに「この仕事は、946年、カシャーンのマクサドにより始められた」と文字が織り込まれており、イスラム歴946年、西暦になおすと1539~1540年に製作された絨毯だと解明されました。素材には上質なウールとシルクが惜しみなく使用されており、当時としては大変高価なペルシャ絨毯であったと考えられます。 また、もともと『アルデビル絨毯』はペアで製作されており、2枚存在しました。1890年にジーグラー商会の手に渡ったときは2枚の絨毯にそれぞれ大きな損傷が認められていました。その後、ロンドンの美術商ヴィンセント・ロビンソンが2枚の絨毯を買い取り、傷みのない部分同士を縫合して完全な一枚にしたとされています。残された断片もつなぎ合わせ鑑賞に耐えられる形にしたのち、売却を行ったのです。現在、完全な一枚となった『アルデビル絨毯』は、イギリスのロンドンにあるヴィクトリア&アルバート博物館に、断片で形成された『アルデビル絨毯』は、アメリカのロサンゼルス郡立美術館に展示されています。 紀元前から続く絨毯の歴史 絨毯の始まりは紀元前、原始時代にまでさかのぼります。当時の人々は洞窟にこしらえた住まいの地面の冷えや湿気を防ぐために、獣の皮や乾燥させた草を床に敷いて居住環境の快適化を図っていました。中央アジアで牧羊が盛んになると、羊の毛を利用したフェルトの製作が始まり、敷物や靴、帽子、住居などさまざまな用途に用いられました。一方、気温の高い地方では植物を使った涼しげな敷物が作られるようになります。紀元前4000年ごろの古代エジプトでは平織りや綾織り、網代織り、つづれ織りなどさまざまな織り方が発明されました。そして、紀元前2000年ごろにはパイル織りも行われ始めています。 紀元前10世紀ごろからは中央アジアでパイル織りの絨毯が広まり、その後ペルシャ地方で製作技術が発展し、ペルシャ絨毯の名品が数多く製作されるようになりました。イランのペルシャ絨毯の製作技法は、5世紀ごろからシルクロードを通じてチベット、中国に伝わっていきます。西方では早くに伝わったトルコで生産が盛んになり、10世紀には北アフリカ経由でスペインにも伝わっています。中世に入ると、十字軍によってトルコ製品がヨーロッパに持ち込まれるようになりました。その後、フランスやイギリスなどヨーロッパにも広がりを見せた絨毯でしたが、18世紀中頃までは敷物としてではなく、芸術性の高いインテリアとして壁に吊るしたり、テーブルにかけたりする方法で扱われていました。 19世紀に入るとヨーロッパで機械を使用した安価な絨毯が大量生産されるように。それにより一般人にも絨毯が普及していきました。のちにアメリカでも大量生産が行われるようになり、さまざまな織り方の機械織り絨毯が開発されていきました。20世紀には動力の電化によりさらに生産量が増大し、部屋中に絨毯を敷き詰める文化が生まれています。 絨毯の歴史は原始時代からと古くから始まっていますが、その中でもペルシャ絨毯は長い歴史を持ち世界的に価値の高いものであるとわかります。 歴史を知るとさらに奥深い、ペルシャ絨毯の世界 ペルシャ絨毯は購入して使用するだけではなく、歴史的な絨毯を美術館で鑑賞する楽しみ方もあります。ペルシャ絨毯の歴史を振り返りつつ、当時から現代にいたるまで私たちの生活とともにあった絨毯の歴史に思いをはせてみませんか。
2024.09.14
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