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実は香木とゆかりのある、淡路島
心をリラックスさせ、心地よい気分にさせてくれる香木。 日本の歴史を辿ると、香木は1400年も前から親しまれていたことがわかります。 香木の歴史をさかのぼり、まだ知らぬ魅力を探っていきましょう。 香木はいつから日本にある?淡路島との関係とは 香木は、古くから日本で親しまれてきたお香。その名の通り香りのする木を指しています。 日本での始まりや生産が盛んな地域を知り、香木の魅力を深めていきましょう。 香木が流れ着いた、淡路島 日本に香木が伝わったのは、595年(推古3年)ごろ。淡路島(兵庫県)に香木が流れ着いたのが始まりと、『日本書紀』にも記されているのです。 淡路島に漂着した香木を、当時の島民は一般的な流木だと思い込み、かまどで火を起こすために利用しました。 すると大変良い香りがしたため、かまどから持ち出し、朝廷へ献上したとの記述もあります。 また、淡路島の歴史書である『淡国通記』にも、香木が淡路島の南岸に漂着したとの記述が残されています。 そのため、香木は推古天皇の時代からあったとする可能性が高いといえるでしょう。 淡路島の枯木神社は、今でも香木伝来伝承地として伝わっており、人の体ほどある大きさの枯れ木の香木をご神体として祀っています。 また、伊弉諾神宮には香木伝来から1400年経った1995年に、香りの文化のさらなる発展を願い、香木伝来記念碑が建てられています。 聖徳太子と淡路島・枯木神社 淡路島に流れ着き、初めて日本に伝わった香木。 『聖徳太子伝略』によると、当時聖徳太子は、朝廷に献上された流木を一目で香木と見抜き、その木で手箱と観音像を作ったそうです。日本で初めて香木が伝わったとされる淡路島の枯木神社は、パワースポットとしても知られています。 淡路島の地元では別の言い伝えも残されています。 当時の島民が漂着した流木を切ろうとしたところ、祟りが起きたそうです。 島民たちは、祟りを恐れて何度も流木を沖へ流しましたが、毎回海岸へ戻ってきてしまいました。困った島民たちは社を建設して、流木を祀ったとされています。 このような話が残されている枯木神社には、今でも香木の枯れ木がご神体として祀られているのです。 淡路島は現在も「香りの島」だった 日本に香木が伝わった起源とされる淡路島。 現在でもお線香の生産が有名であり、香りの島とも呼ばれています。 全国シェア率70%!淡路島は日本一の線香の町 日本に初めて香木が伝わった地とされる淡路島は、現在お線香の全国シェアが約70%と、一大産地として有名です。 お線香の会社は淡路島だけでも14社あります。企業によっては、仏壇に備えるお線香だけではなく、さまざまな目的に利用できる室内香も販売しています。 淡路島は、かつて香木が流れ着いた歴史から始まり、現在では線香づくりのシェアがトップとなっているのです。 かおり風景100選にも選ばれた、淡路島一宮町 お線香の生産は、淡路島の中でも一宮地区に集中。 地区内には線香事業者や下請け業者が立ち並び、どこからともなくお香の良い香りが漂ってきます。 この地区では、4人に1人が線香にかかわる仕事をしているそうです。 また一宮地区は、環境庁が選ぶ「香り風景100選」にも選ばれています。 線香産業をメインとした総合計画も展開しており、地域には香りをテーマにしたパルシェ香りの館が建設されています。 150種類ものハーブを植栽する香りのテーマパークとして運営しており、香りとともに香草や香木の見た目の美しさも楽しめる観光スポットです。 現代まで続く香りの歴史を淡路島で感じよう 日本での香木の歴史は古く、1400年以上前には伝わっていたとされています。そのきっかけとなった淡路島では、現在もお線香の生産が盛んに行われています。とくに業者が集中している一宮地区は、お香の香りが風に乗って香る街並みが特徴です。 香木を深く知りたい方は、香りだけではなく、その長い歴史にも触れてみると、新たな発見ができるでしょう。 現代まで引き継がれている香木の起源である淡路島で、香りの楽しみを探してみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
- 香木とは
- 香木の歴史
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天下第一の名香木、蘭奢待
蘭奢待とは、天下人にも愛されたことでも知られている香木。 蘭奢待の由来や、天下人を魅了した理由について紹介します。 天下第一の名香木、蘭奢待 日本で最も有名な香木と言えば、蘭奢待です。 多くの権力者たちが欲しがったことから、天下第一の名香木とも言われています。 蘭奢待とは 蘭奢待とは、聖武天皇ゆかりの品々を収めたと伝えられている正倉院にある、巨大な香木のことです。 正倉院とは、東大寺に隣接する土地に1300年ほど前に建てられた宝物庫です。 蘭奢待のサイズは全長156cm、最も太い部分の直径は46cm、重さは11.6kgにも達しています。1996年に行われた宮内庁正倉院事務所の科学調査により、伽羅だと確認されています。ただし、その入手経路といった詳しい内容は分かっていません。 蘭奢待の香りについては、一部を切り取って焚いた明治天皇が「古めきしずか」と表現しています。香木の香りは、時間と共に薄れてしまうのが一般的です。しかし、蘭奢待については、産出から1000年以上経過していると考えられるにもかかわらず、まだ香りを残していると言われています。 蘭奢待の名前の由来 正倉院の目録によると蘭奢待の正式名称は、黄熟香。しかし、聖武天皇が名付けたとされる蘭奢待のほうが有名です。 蘭奢待のそれぞれの文字には「東」「大」「寺」の字が一つずつ含まれています。 もともとは、東大寺と名づけられる予定でしたが、火をつけて楽しむ香木に、建物の名前をつけるのはよくないという考えから、蘭奢待と呼ばれるようになったと言われています。 聖武天皇が建立した東大寺への思いを込めた名前です。 蘭奢待の歴史 現在のラオスやベトナム周辺が原産とされる蘭奢待は、中国を経由して日本に伝わったと考えられます。 また、日本に伝来してからは、権力の象徴として人々を魅了してきたと言われています。 蘭奢待はいつからあるのか 蘭奢待がいつからあるのかは、正確には分かっていません。 聖武天皇の在位期間は724年から749年とされているため、もし本当に聖武天皇ゆかりの品物であれば、8世紀には日本に伝来していたことになります。しかし、1350年頃より前の記録が見つかっていないため、現在のところは、鎌倉時代以前に伝わったとしか分かっていません。 なお、香道では、聖武天皇の時代に伝わったという説のほかに、1158年から1165年の二条天皇の在位中に天橋立から献上されたという説もあると伝えられています。 天下人たちが所有した蘭奢待 昔から伽羅は、貴重なものとされていたため、巨大な香木である蘭奢待は、権力の証として多くの人々の関心を集めてきました。 時には歴代の天皇や将軍といった権力者たちが、功績を挙げた家臣などに蘭奢待の一部を切り取って分け与えることもありました。これらが「蘭奢待を所有する=天下人」というイメージが広まる背景になったと考えられます。 実際に蘭奢待を手にした人物には、室町幕府の第3代将軍の足利義満、同じく第8代将軍の足利義政、織田信長、明治天皇などがいます。 特に織田信長は、自分が天下人になったことをアピールするために、蘭奢待を利用したエピソードはあまりにも有名。室町幕府を滅ぼした織田信長は、足利義政以降、何人もの将軍が希望しても叶えられなかった蘭奢待を手にすると、一部を切り取って家臣たちに分け与えました。 また、織田信長は残りのかけらを焚いて茶会を催したとも伝えられています。 織田信長には、蘭奢待を手に入れることで自分こそが天下人であると喧伝する意図があったのでしょう。 あえて足利義政が切り取った場所のすぐ横から、同じくらいの大きさのかけらを切り取っていることからも、織田信長の意図が伺えます。 蘭奢待を切り取ると不幸がある? 蘭奢待は、どの時代も権力者たちを魅了してきました。 一方で、蘭奢待をあえて切り取らなかったのが、江戸幕府を開いた徳川家康です。徳川家康は、正倉院に人を派遣して蘭奢待の調査を行ったものの、切り取ることはしませんでした。 その理由として挙げられるのが「蘭奢待を切り取ると不幸がある」という言い伝えです。 蘭奢待を切り取った織田信長は、家臣である明智光秀に裏切られて本能寺の変で無念の死を遂げました。また、足利義政は、室町幕府が弱体化する原因となった応仁の乱を引き起こすきっかけとなりました。 蘭奢待に関する言い伝えは、こうした事実を指しているのでしょう。 こういった言い伝えを恐れたためか、徳川幕府の将軍は誰も蘭奢待を切り取らなかったと言われています。 蘭奢待を一目見たい! 蘭奢待は原則として一般公開されていないため、東大寺や正倉院を訪れても展示されていません。ただし、「正倉院展」などのイベントが行われる際は、特別に公開される可能性があります。 蘭奢待を一目見たいという方は、展示が開催される際にぜひ足を運んでみてください。 また、名古屋にある徳川美術館には、重さ0.4gとごく小さなかけらではあるものの、蘭奢待の一部が収蔵されています。 徳川美術館は、徳川家ゆかりの品物を収蔵する美術館です。徳川美術館の蘭奢待は、1754年に尾張徳川家に献上されたものだと言われています。 関心のある方は、ご覧になってみてはいかがでしょうか。
2024.10.12
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