北川民次は、画家でありながら教育者としても大きな役割を果たした人物です。
北川の作品は、ただの風景画や人物画にとどまらず、彼自身の人生哲学や社会観を反映しており、民衆に焦点を当てた作品をいくつも描いています。
目次
メキシコの文化に触れ民衆に着目した作品を制作する北川民次
北川民次は、日本の洋画家で、民衆を描くことと物事をリアリスティックに捉える姿勢をもち、生涯にわたって社会の矛盾に立ち向かうような作品を制作しました。
『夏の宿題』は、当時の日本教育に対する批判的な姿勢を表した作品です。
威圧的な大人に囲まれた子どもの様子を描いた『夏の宿題』とは
『夏の宿題』は、北川民次の教育観が反映された作品です。
作品の中では、宿題に取り組む子どもが威圧的に母親や当時の文部大臣に監視される様子が描かれています。
この構図は、当時の日本の教育が、北川の目指す自由な創造性とは対照的であったことを象徴しています。
子どもの手元に置かれた紙には「シュクダイがないと子どもは何を考えていいか分からなくなるとラヂオの先生がいいました。ナニが私たちをこんなにしたのでしょうか」の言葉が。
北川は、メキシコで学んだ「自由を求める精神」を通じて、子どもたちの自主性や自発的な行動を大切にしていました。
しかし、日本の教育は、現時点での社会の規範に適応することが重視され、北川の理念とは逆行していました。
北川がメキシコで学び、日本で実践した教育は、子どもの自主性や自発的な行動を大切にしていた。
それは、子どもに自由で創造的な精神を育むためであった。
しかし、当時の日本で行われていたのは、それとは真逆の教育であった。
当時の日本の教育について、北川は自著の中で「社会の現時点に適応する人間を作ることを目標とする教育」と批判した。
『夏の宿題』には、教育の抑圧性と北川の教育に対する哲学を反映されています。
北川民次の教育観はメキシコの野外美術学校の影響を受けている
1920年代、メキシコでは「野外美術学校」が次々に設立されていました。
名前通り野外で行われた授業では、これまでの美術アカデミーで実施されていたものとはまったく異なる、規範に縛られない自由な制作が目標となっていました。
北川自身も、トラルパンとタスコで野外美術学校の活動に携わり、人々に絵を教えます。
北川は、生徒の自発性を尊重する教育理念に共感し、実現するための手法を試行していったのです。
メキシコの野外美術学校は、旧来の美術教育制度に対する学生たちの不満がきっかけとなり設立されました。
主導者の画家アルフレド・ラモス・マルティネスは、従来の規範に縛られず自由に学べる学校を目指し、印象主義者らによる戸外での絵画制作にインスピレーションを受け、野外美術学校を構想しました。
1920年代に入ると、政府の支援もあり制度化されて「野外美術学校」が各地に広がっていったのです。
学校には、主に先住民の子どもたちを中心に、さまざまな年代の人々が通うようになりました。
野外美術学校で先生をしていた北川にとって、生徒は先生でした。
子どもは、自分の実感や経験を大切にするため、時に対象に対する認識や感情までを描き出します。
想像を超える教え子らの絵から学んだ精神性を、北川は自分の制作に活かしていきました。
また、メキシコの美術学校で子どもたちと接する中で、抑圧から解放されようとする力、つまり「自由を求める精神」が想像の原動力になることを再認識しました。
メキシコでの経験が日本で美術教育に取り組む際の基盤となったのです。
メキシコで確立された教育手法が日本になじまず
メキシコの学校が閉鎖したために帰国した北川は、メキシコで学んだ自由な美術教育の理念を日本でも実践しようとしました。
終戦後の1949年、名古屋の東山動物園で「名古屋動物児童美術学校」を設立しました。
メキシコの野外美術学校と同じように、美術を通して子どもの自主性や創造性を高めることを目指しました。
しかし、当時の日本の教育制度は、北川の自由な教育手法に共感せず、十分な支持や成果を得られなかったのです。
北川は次第に美術教育から手を引くようになりました。
北川にとって重要だったのは、単に美しい絵を描く技術を教えることではなく、絵を描くことを通じて子どもたちが人間の精神や美術の本質に向き合うことでした。
日本での美術教育は、順調に進んだわけではありませんでしたが、北川自身も、子どもたちとの関わりを通じて多くを学び、その経験を自身の創作活動に還元していくことで、社会に考えを発信していきます。
そして、日本の教育体制について物申す『夏の宿題』が生まれたのでした。
北川民次の鋭い視線が捉えた日本の教育を描いた『夏の宿題』
今回紹介した『夏の宿題』をはじめとした作品の数々は、今も私たちに社会の矛盾や課題を訴えかけてきます。
メキシコで学んだ自由な発想を抑え込まない創造的な教育観は、北川の根幹に常にあったことでしょう。
メキシコ時代から描かれ続ける民衆の視線や鋭い社会批判は、未来をつくる子どもが創造的で生きやすい社会環境を整えるためだったのかもしれません。
また、メキシコと日本という異なる文化での教育活動は、北川の芸術的な成長を後押ししたと考えられます。
特異な歩みを進めてきた彼が見て描いてきた世界と現実を、ぜひ間近で鑑賞してみてください。