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【狩野派】日本絵画史上最大の流派の歴史と代表作
狩野派とは 狩野派とは、幕府からの仕事を請け負っていた絵師集団で、日本絵画史上最大の画派と呼ばれています。 室町時代の中期から江戸時代末期までの約400年にわたって活動をつづけ、常に画壇の中心で活躍していました。 狩野派は、親や兄弟などの血族関係をメインにした絵師集団で、400年という長きにわたってトップに君臨し続けた集団は、世界的にもほとんど例がありません。 その時代の権力者と強い結びつきを持ち続けた狩野派は、内裏や城郭、大寺院などの多くの場所の大きな障壁画から扇面といった小画面まで、あらゆるジャンルの絵画を手がけました。 後に巨大な影響をもたらす狩野派の設立 狩野派の始まりは、足利幕府の御用絵師として活躍した狩野正信であるといわれています。 戦国時代が終わり、江戸幕府がスタートして社会が安定すると、狩野家は幕府から障壁画制作の依頼を受けるようになっていきました。 正信は、一門の絵師を引き連れて作品を制作するようになり、のちに狩野派と呼ばれる集団を形成するようになるのです。 正信の実の子であり、狩野派の2代目当主となった狩野元信は、幅広い層の制作依頼に応えるために、工房で絵画を制作するスタイルを確立させました。 真・行・草の3様式を定め、門下に学ばせることで、一定の画力や技術を担保し、制作依頼を受注するシステムを作り上げていきました。 粉本・筆法を忠実に学び400年活動し続ける 狩野派は、中国の水墨画由来の漢画様式に、日本の伝統的なやまと絵の表現を取り入れ、狩野派独自のスタイルを確立していきます。 漢画は、筆の輪郭線を重視し、色は淡彩な特徴があり、やまと絵は、細い輪郭線に濃い絵の具を塗る特徴があります。 2つの異なる手法を上手く取り入れた狩野派スタイルを門下に引き継ぐために、手本となる粉本が作成されました。 粉本とは、絵師が絵を制作するときに参考とする古画の模写や写生帖のことです。 ときに狩野派は、お手本を写すだけで絵師の個性がないと批判されることもありましたが、運筆や模写をきっちりと学ぶ狩野派の教育スタイルは、絵師がベースとなる画力を付けるために重要な役割を果たしています。 京狩野の誕生 室町時代から桃山時代の政権の中心は京都にあったため、狩野派も京都を拠点に活動していました。 しかし、豊臣秀吉から徳川家康に政権が移るタイミングで、狩野派のほとんどが江戸に拠点を移しましたが、一部の狩野派は京都にとどまり、のちに京狩野と呼ばれるようになりました。 徳川幕府が政権を握ったとき、狩野探幽が幕府御用絵師となり、豊臣家に仕えていた狩野永徳の一番弟子である山楽は、京都に残る形となったのです。 狩野派で活躍した絵師 幕府の御用絵師として約400年間活躍し続けた狩野派には、個性豊かな絵師が多く存在しています。 狩野派の始祖である狩野正信 狩野正信は、狩野派の始祖と呼ばれる人物で、室町幕府の第8代将軍である足利義政に仕え、幕府御用絵師として活動していました。 それまでの幕府の御用絵師は、禅の修行を積んだ画僧と呼ばれる絵師たちが務めてきましたが、正信は僧の修行をしていないにもかかわらず、幕府の御用絵師に任命されたのです。 前代未聞の大抜擢で、絵師として人気を確立していきました。 当時の幕府では中国人画家のスタイルが流行しており、中国風作品の依頼が多くあり、正信は仏画だけではなく水墨画や肖像画も手がけていました。 客層を拡大した狩野元信 狩野元信は、狩野正信の後を継いで、さらに公家や有力町衆などにまで範囲を広げ、新規顧客を次々に獲得していきました。 顧客の幅が広がったことで、仏画や漢画だけでは依頼者のニーズに答えられなくなってきたため、元信はやまと絵の手法や画風を積極的に学び、取り込むようになっていきました。 また、元信は自身の画業だけではなく、門下の教育にも力を入れており、工房スタイルを確立させて約400年続く最大流派の基礎を作り上げた人物といえます。 幼少期から才能を発揮した狩野永徳 狩野永徳は、小さなころから絵の才能を認められ、英才教育を受けていました。 そして、9歳になるころには、室町幕府将軍の足利義輝に拝謁。 狩野派の御曹司として、大きな期待を背負った狩野永徳は、公家と深いかかわりを持つようになり、五摂家の筆頭といわれていた近衛家の障壁画を描きました。 また、23歳という若さで『洛中洛外図屏風 上杉本』を完成させ、優れた画才を発揮しました。 しかし、安土城や大坂城、聚楽第など大規模な建築での制作を一任され、多忙を極めた永徳は、過労により体調を崩し、48歳の若さで急逝してしまったのです。 徳川秀忠から絶賛された狩野探幽 狩野探幽は、狩野永徳の孫にあたる人物で、祖父と同じく幼いころから絵の才能を発揮していました。 13歳で将軍の徳川秀忠に拝謁し、眼前で絵を描いたところ、永徳の再来と称賛を受けたそうです。 その後、京都から江戸に招かれ、幕府の御用絵師となったのが16歳のころでした。 探幽は、江戸城や二条城、名古屋城、御所といった江戸幕府の大規模建設に、狩野派の総帥として参加。 また、大徳寺や妙心寺など京都にある大寺院の障壁画制作も担いました。 狩野派の血筋でない狩野山楽 狩野山楽は、狩野派では珍しい狩野の血筋ではない人物であり、生まれは武門で若くして豊臣秀吉に画才を評価され、狩野永徳の門下となりました。 1590年、東福寺法堂天井画を制作していた永徳が倒れると、山楽が後を引き継ぎ作品を完成させました。 このことからも、山楽は永徳の一番弟子として認められていたと考えられるでしょう。 なお、山楽は幕府が京都から江戸に移る際に、京都に残り、京狩野として活躍しました。 最後を飾る異色の存在狩野一信 狩野一信は、移り変わりの激しい幕末の江戸を生きた絵師で、最後の狩野派ともいわれています。 江戸の骨董商の家に生まれた一信は、絵を琳派の絵師に学び、のちに狩野章信に師事しました。 狩野派の伝統的な技法に加えて、陰影法や遠近法など西洋の技術も積極的に取り入れ、これまでの狩野派とは異なる絵画表現で、独自の画風を確立しました。 人々が不安や苛立ちを募らせていた時代、一信も幕末期の不安定な世相を表現した作品を多く残しています。 狩野派の代表作 狩野派は、約400年間も続いた巨大絵師集団であり、活躍していた絵師も数多くいました。 絵師の人数が多かったため、代表作も多く生まれています。 工房スタイルで技術の向上を図り、集団で制作にあたっていたため、大規模な作品も多く残されているのが特徴です。 信長と秀吉に好まれた『花鳥図襖』 『花鳥図襖』は、狩野永徳が描いた作品で、大きな松や梅の木の幹が天空に伸び、樹の枝は画面の左右に大きく広がっています。 安土桃山時代を築いた織田信長や豊臣秀吉が好んだ、大胆な構図とスケールの大きな表現が特徴の作品です。 国宝指定となった『上杉本洛中洛外図屏風』 『上杉本洛中洛外図屏風』は、狩野永徳が手がけた作品で、織田信長から上杉謙信へ贈られた屏風であると伝えられています。 京都を一望できる構図で、洛中洛外の四季が描かれており、そこに暮らす人々の生活風俗も表現されている作品です。 作品中には、およそ2500人もの老若男女が描かれているそうです。 1995年には、国宝にも指定されています。 情感豊かな『雪中梅竹遊禽図襖』 『雪中梅竹遊禽図襖』は、狩野探幽が名古屋城の襖絵として描いた作品です。 梅の老木に雪が降り積もり、二等辺三角形のように枝を伸ばした構図が特徴で、左端に描かれた小鳥と枝先との余白のバランスが美しく、探幽の情感が込められているといえるでしょう。 没年までかけて描いた『五百羅漢図』 『五百羅漢図』は、狩野一信が描いた作品で、1幅につき5人の羅漢が描かれており、100幅に合計500人の羅漢が描かれています。 描かれた羅漢や僧侶には、極端な陰影が表現されており、羅漢が腹を割って釈迦が出てくる衝撃的な表現は、その時代の不安定さを感じさせます。
2024.12.20
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【土佐派】やまと絵を継承した日本画の流派の歴史と代表作
土佐派とは 土佐派とは、日本画の流派の一つで、やまと絵を継承しています。 やまと絵とは、平安時代前期に唐絵と呼ばれる中国由来の絵画で、日本に伝わってから独自の発展を遂げてきた世俗画です。 土佐派は、室町時代の前期に活躍した宮廷絵師の藤原行広が始まりといわれています。 その後、土佐光信によって土佐派は、画派としての地位を確立していきました。 光信は、宮廷や社寺に所属して絵画制作していた宮廷絵所のリーダーのような存在である絵所預にまでのぼりつめました。 狩野派の下請け業者同然まで衰退 土佐派は、室町時代から江戸時代にかけての約400年にわたり、日本画壇の頂点に君臨していた狩野派と同時期に誕生した流派です。 歴史ある画派の一つですが、一時は衰退の一途をたどったこともありました。 室町時代の終わりごろ、土佐光信直系の孫である土佐光元が、但馬攻めで戦死してしまい、土佐派は絵所預の地位を失ってしまいます。 織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた織豊政権の時代になると、狩野派が目覚ましい活躍をみせ、土佐派の勢いは減速していきます。 桃山時代には、門人の土佐光吉が拠点を堺に拠点を移し、一時は狩野派の下請けのような地位まで衰退していました。 土佐派の再興 一時は衰退した土佐派でしたが、江戸時代に入ると土佐光吉の後継者である土佐光則が、自身の子である土佐光起とともに京都へ戻ります。 1654年に光則が絵所預の地位につき土佐派は再興され、以後幕末までその地位を維持し続けました。 派生流派「住吉派」の誕生 土佐派には、住吉派と呼ばれる派生流派があります。 江戸時代、土佐光吉・光則の門人であった土佐広通が、後西天皇の名を受け、鎌倉中期の画家である摂津国住吉の慶忍の流派を再興するために、住吉姓の名乗ったのが住吉派の始まりといわれています。 広通は住吉姓となってからは、住吉如慶の名で活動していました。 如慶の長男である住吉具慶が活動していた時代、江戸に招かれ幕末まで幕府に仕えました。 京都では土佐派が、江戸では住吉派が、やまと絵を日本に広める役割を担っていたといえます。 土佐派の画風 土佐派の描く絵画は、丁寧で繊細な表現が特徴で、四季の自然やその中で生きる人や生き物を美しく描いた日本の伝統的な絵画様式であるやまと絵を継承しています。 朝廷の御用絵師の立場にあった土佐派は、浮世絵に対して否定的な意見を持っていましたが、一方で浮世絵師たちにとって土佐派が描いてきた日本の伝統的なモチーフは、題材や様式のベースを作り上げてきたものであり、多くの浮世絵師が土佐派の絵から学んでいたといわれています。 土佐派の中でも土佐光起が描いた作品には、狩野派をはじめとした漢画由来の水墨表現や中国絵画の写実表現も組み込まれており、やまと絵の画題を大きく広げました。 土佐派で活躍した絵師 伝統的なやまと絵を継承し、御用絵師としても活躍していた土佐派には、優れた絵師が多く存在していました。 土佐派を創立した土佐行広 土佐行広は、室町時代に活躍した絵師で、土佐派を創設した人物といわれています。 元の姓は藤原ですが、京都で初めて土佐と名乗り、活動していたそうです。 宮中や幕府、寺院などのために描き、絵所ともかかわりをもっていたといわれています。 最初期の活動としては、1406年に山科教言夫人の肖像画を描いた記録が残っています。 1451年には、興聖寺の『涅槃図』を描きました。 行広は肖像画を得意としていたそうで、鹿苑寺の『足利義満像』や醍醐寺三宝院の『満済准后像』など多くの作品を手がけました。 佐派を統一した土佐光信 土佐光信は、室町時代の中期から戦国時代にかけて活躍した土佐派の絵師です。 光信は、土佐派を統一し、流派として確立させた人物といわれています。 土佐行広の筆致や色彩を受け継ぎつつ、戦国大名である朝倉貞景の命で京中の新図を描き、この屏風に描かれたものが『洛中洛外図』の最初の作品とされています。 光信は、1469年に絵所預として仕事を任されるようになってから、次々に地位を上げていき、1501年、ついに絵師としての最高位を得ました。 土佐派を再興させた土佐光起 土佐光起は、一度は衰退した土佐派を見事再興させた絵師です。 父の土佐光則とともに、和泉国堺から再び京都に戻り、土佐派復興のために力を尽くしました。 父の光則が亡くなった後、光起は才能を認められ、土佐派を再び絵所預の地位に戻し、活躍していきました。 光起は、やまと絵だけではなく、土佐派のライバルとして君臨していた狩野派や、宋元画などからも学びを得て、伝統的な優しい美しさのあるやまと絵に克明な写生描法を取り入れ、江戸時代の土佐派様式を確立させたといわれています。 また、風俗画や草木図など、これまでの土佐派が描いてこなかったモチーフも積極的に取り入れ、清新な画風を生み出していました。 土佐派の代表作 絵所預にまでのぼりつめた土佐派には、現代でも高い評価を受けている作品が多くあります。 『源氏物語絵巻』 『源氏物語絵巻』は、紫式部が描いたとされる長編小説『源氏物語』を絵で表現した絵巻で、物語成立から約150年後の12世紀に描かれたといわれています。 『源氏物語絵巻』では、雪が降る中、外で優雅に遊ぶ女性たちと、邸内でくつろぐ光源氏と紫の上が描かれています。 『清水寺縁起絵巻』 『清水寺縁起絵巻』は、清水寺の建立について描かれた作品です。 詞書を三条実香が描き、絵を土佐光信が担当した絵巻で、円熟した晩年の光信の画風が表現された代表作で、伝統的なやまと絵の絵巻の最後を飾る作品ともいわれています。 この作品は、上・中・下の全3巻で構成されており、約63mもの長さがあります。 本来、絵巻は通しでみて楽しむものですが、『清水寺縁起絵巻』はワンシーンごとに光信独特の構図や筆致が表れており、一場面に焦点を当てて、絵画としても楽しめる作品です。 『融通念仏縁起絵巻』 『融通念仏縁起絵巻』は、良忍の伝記と融通念仏宗の始まりが描かれた作品です。 融通念仏宗とは、平安後期の僧である良忍を開祖とする仏教の宗派で、念仏思想を信奉しています。 原本となる絵巻物が完成したのは1314年とされており、その後、鎌倉時代から室町時代にかけて繰り返し伝写が行われました。 現在、原本は現存していませんが、伝写された作品が30本ほど発見されています。 『北野天神縁起絵巻』 『北野天神縁起絵巻』は、土佐光信の作品で、学問の神様として有名な菅原道真を祭っている北野天満宮を描いています。 菅原道真は、宇多天皇の時代の優れた右大臣でしたが、道真の優秀さに嫉妬した藤原時平の策略により、身に覚えのない罪で大宰府へと追放されてしまいます。 道真が亡くなった後、自然災害が続くようになり、祟りだとおそれた当時の人々は、道真の怒りを鎮めるために北野天神社が建てられました。 『北野天神縁起絵巻』には、北野天神にまつわる12の話が納められています。 『一の谷合戦図屏風』 『一の谷合戦図屏風』は、『平家物語』の敦盛最期のワンシーンを描いた作品です。 一の谷の合戦に敗れ、逃げようとする平敦盛に対して、源氏方の熊谷直実が逃げずに正々堂々と戦うよう語りかけている姿が描かれています。 土佐派の特徴である大らかで精緻な筆で描かれた物語絵で、海や松などの景観、兵士や馬の表情、道具の細部に至るまで繊細に表現されています。 『宇治川合戦図屏風』 『宇治川合戦図屏風』は、『平家物語』の源平合戦の名シーンである宇治川先陣争いの一場面を描いた作品です。 宇治川の合戦の先陣を切って進む梶原景季に対して、後ろに続く佐々木高綱が馬の腰帯の緩みを指摘し、気を取られた景季から先陣を奪う場面が描かれています。 緑青の松や柳、群青の海や川の流れが美しく、人物や馬も細部まで丹念に描写されている特徴があります。
2024.12.20
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仏画にはどんな種類がある?ポーズの違いや意味を知ろう
仏画は、仏教をテーマにした絵や仏様を描いた絵を指します。 崇拝や礼拝のために用いられる場合もあれば、仏教を広めるために用いられることもある絵画です。 仏画はさまざまなジャンルに分類され、それぞれ表現している意味合いが異なります。 また描かれる仏様がとっているポーズにもそれぞれ異なる意味が込められているのです。 仏画のジャンルは主に6つ 仏画は主に6つのジャンルに分類されます。 ・崇拝・礼拝の対象 ・曼荼羅 ・変相図 ・浄土図 ・六道輪廻思想画 ・垂迹画 崇拝・礼拝の対象 仏画は、仏様を崇拝・礼拝するためのものでもあります。 そのため、如来や菩薩などさまざまな仏様が描かれた仏画のジャンルがあります。 曼荼羅 曼荼羅とは、仏教の中でも特に密教の世界観を描いた仏画のことです。 仏教の教えや世界観を、鮮やかな色彩と幾何学模様で表現しています。 密教は、インドで生まれた仏教の一つで、修行によって仏と一体化できるという教えで、身・口・意の三密業を通して仏と一体化するとされているのです。 また、曼荼羅は悟りの仏である大日如来の世界観を表現しているともいわれています。 変相図 変相図とは、仏教における極楽浄土や地獄などを描いた仏画で、曼荼羅に雰囲気が似ているのが特徴です。 そのため、浄土曼荼羅と呼ばれることもありますが、密教とは関係していません。 浄土図 浄土図とは、平安時代後期によく描かれるようになった、仏教の末法思想の影響を受けた仏画です。 法然や親鸞が唱える浄土信仰が広まり、浄土図がよく描かれるようになりました。 六道輪廻思想画 六道輪廻思想画とは、仏教における世に生きるものはすべて六道と呼ばれる6つの世界を輪廻し、生死を繰り返しているという思想を描いた仏画です。 六道とは、生きていたころの行いによって決められる死後の6つの世界を指しています。 ・天道界 ・修羅道界 ・人間道界 ・餓鬼道界 ・畜生道界 ・地獄道界 輪廻とは、霊魂は不滅で何度も生まれ変わるという考え方を表しており、前世や過去の行為が原因となり、現在の結果がもたらされるという因果応報の世界が描かれているのが六道輪廻思想画です。 垂迹画 垂迹画とは、仏教と神道が融合した仏画で、垂迹とは神を指しており、仏教と神道の両立を目的として描かれました。 仏様や菩薩が垂迹と呼ばれる神に姿を変えて、困っている人々を救うために現世に現れるという本地垂迹説のエピソードに則って絵が描かれています。 曼荼羅のような雰囲気の仏画が多いのも特徴の一つです。 仏画に描かれる仏たち 仏画に描かれている仏様たちの種類は複数あります。 仏画に描かれている仏様の姿かたちが作品により異なっており、疑問に感じたことがある人もいるでしょう。 仏様は主に4種類に分けられ、それぞれ違う役割を担っているのです。 如来 如来とは、この上ない悟りを開いた者や真理に到達した者のことであり、仏教では最も位が高く尊崇される存在です。 如来には、三十二相と総称される身体的特徴があるといわれており、仏画に描かれる如来像は、この特徴を踏まえた姿で描かれています。 如来の特徴のうち強い印象があるのは、パンチパーマのような螺髪と呼ばれる髪型でしょう。 螺髪は三十二相のうち、体毛がすべて右巻きに巻くという特徴を表したもので、螺髪によってほかの仏像と区別がしやすくなっています。 なお、髻を高く結い上げる大日如来は、如来の中でも例外の仏様です。 他にも如来の特徴には、白い巻き毛の白毫や、如来像の首にある3本のシワである三道、印相の一つである施無畏印、本来修行僧が着る納衣、薬を入れた薬壺、如来が座っている蓮華座などがあります。 主な如来は以下の通りです。 ・釈迦如来 ・阿弥陀如来 ・大日如来 ・普賢菩薩 ・薬師如来 ・盧舎那仏 菩薩 菩薩とは、悟りを開いて如来になるために、生きとし生けるものを救済するべく菩薩行を続ける仏たちを指しており、如来の次に位の高い仏像です。 菩薩は、如来の意思に従ってさまざまな姿に変身し、人々を助けたといわれています。 菩薩は長い頭髪を高く結い上げ、上半身は裸、両肩に天衣をかけて条帛と呼ばれる布をたすきのようにかけているのが特徴です。 また、仏教を開いた釈迦が古代インドの王子であったことから、宝冠やアクセサリーなどを身につけた華麗な姿で表現されることも多くあります。 主な菩薩は以下の通りです。 ・観音菩薩 ・文殊菩薩 ・弥勒菩薩 ・普賢菩薩 ・地蔵菩薩 明王 明王とは、忿怒の姿をした恐るべき仏様のことであり、如来や菩薩に次ぐ位であるといわれています。 明王は、仏教にヒンドゥー教を取り入れ発展していった宗教である密教から生まれた仏様です。 明王の姿は、人を諸悪から災害から守るとともに、煩悩により悪に走ってしまう者を威力で教化する姿であり、如来の化身や如来が忿怒した姿ともいわれています。 悪と戦う仏様のため、武器を持っていたり、髪を激しく逆立たせていたり、牙が生えていたりとおそろしい姿をしているのです。 主な明王は以下の通りです。 ・不動明王 ・愛染明王 ・孔雀明王 ・大威徳明王 ・軍荼利明王 ・降三世明王 ・金剛夜叉明王 天部 天部とは、仏教や仏法を守る神さまのことです。 バラモン教やヒンドゥー教、各地域の民間信仰の神々などが仏法を守る護法善神として、仏教に取り入れられました。 仏教の信仰を妨害する者から如来や菩薩、人々を守る役目を担っており、天部は自然現象や抽象的なもの、半身半獣などの姿で表されることが多くあります。 主な天部は以下の通りです。 ・梵天 ・帝釈天 ・毘沙門天 ・吉祥天 ・弁財天 ・広目天 ・多聞天 ・増長天 ・持国天 その他 仏像には、仏様以外の人物を表現したものもあり、仏様と同様に徳が高く守護神としての役割を担っているものも多くあります。 たとえば、羅漢は悟りを開いた高僧の阿羅漢の略称で、釈迦の弟子で最も位の高い人物です。 十六羅漢像や五百羅漢像を仏像として祀っている仏教寺院も多くあります。 また、祖師は仏教を世界に広めるために尽力した人物や、各宗教や宗派の創始者を指しており、弘法大師や鑑真和上像などが有名です。 仏像のポーズの種類と意味 仏像は、さまざまな手のポーズをしており、これを印相や手印と呼び、それぞれ意味が込められています。 施無畏印・与願印 施無畏印・与願印は、スタンダードな印相の一つで、2つセットで使われることがほとんどです。 奈良の大仏様はこの印相を結んでおり、施無畏印が相手の畏れを取り除くサイン、与願印が相手の願いを叶えるという姿勢を表現しています。 施無畏印は右手で、胸の前に構え中指を少し曲げたポーズ、与願印を表す左手は、上に向けて中指と薬指を少し上げたポーズをとっています。 仏像の中で一番有名な印相で、釈迦如来像によく見られるポーズです。 定印 定印も定番の印相の一つで、よく大日如来や釈迦如来坐像がとっているポーズです。 精神統一をして深い瞑想に入る姿を表現しているといわれており、禅定印と呼ばれることもあります。 両掌を上に向けて、左手の上に右手を重ね合わせ、親指の先を合わせたポーズが定印です。 阿弥陀如来の定印では、人差し指と親指をくっつけて輪を作るようなポーズをしています。 鎌倉大仏は、定印を結んでいます。 智拳印 智拳印とは、金剛界大日如来だけが表現できる特別な印相で、最高の智慧を意味しているといわれています。 胸の前で左手を握り人差し指を立て、その指を右手で包むようなかたちで握るポーズです。 インドでは清浄の手とされている右手が仏を表し、不浄の手とされている左手が衆生を表しており、智拳印は、仏の智慧が衆生を包み込んでいる様子を表現しているそうです。 来迎印(摂取不捨印) 来迎印とは、阿弥陀如来特有のポーズで、人が亡くなったときに阿弥陀仏が西方極楽浄土から迎えにくるときの印相です。 かたちは施無畏印・与願印に似ていますが、来迎印は親指と人差し指で輪を作る部分が異なります。 来迎印は、生前の行いによって9つのランクに分けられているといわれています。 また、浄土真宗では、来迎印を摂取不捨印と呼んでおり、どのような状況でも人々を収め取って見捨てないという阿弥陀仏の慈悲の心を表しているそうです。 説法印(転法輪印) 説法印は、転法輪印とも呼ばれ、お釈迦様が仏教についてジェスチャーを交えながら説法している姿を表したものです。 右手は立てて、親指と人差し指で輪っかを作り、左手は掌を上に向けた状態で親指と中指で輪っかを作り、両手を胸の前に近づけたポーズです。 釈迦如来や阿弥陀如来など、如来に多く見られる印相といえます。 降魔印(触地印) 降魔印とは、お釈迦様が悟りを開こうとして悪魔の妨害を受けたとき、邪魔をしてきた悪魔の集団を降伏させ、退散させた印相です。 右手の人差し指の先で地面に触れるようなポーズでもあるため、触地印とも呼ばれています。 日本の仏像では、奈良県の東大寺にある弥勒仏坐像が降魔印のポーズをとっています。
2024.12.20
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仏画にはどんな歴史や特徴があるのか
仏教とは、仏陀の説いた教えを指しており、世界三大宗教の一つでもあります。 仏画は、仏教と深い関連のある絵画で、崇拝や礼拝、教えを広めるために誕生しました。 日本でも広がりをみせていった仏画の歴史や国ごとの特徴を知り、仏教についての理解を深めていきましょう。 仏画とは 仏画とは、その名のとおり仏様を描いた絵を指します。 寺院の壁や掛軸などに仏様の姿そのものを描いたものだけではなく、仏教をテーマにして描かれたものも仏画と呼びます。 また、絵画だけではなく版画も仏画の一種です。 仏様の姿を彫刻で表現したものを仏像と呼んでいます。 仏画にはさまざまな種類があり、礼拝で用いられる独尊で描かれた仏様や、菩薩様の尊像画、浄土図などがあります。 仏画は、基本的に寺院に納められるもののため、仏画を描く仏画師には、日本の伝統絵画に関する卓越した技術や知識などが求められるのです。 崇拝や礼拝のために描かれた 仏画は、仏教に関連した内容が描かれたもので、仏教の思想や信仰のもと崇拝や礼拝の対象として制作されるようになりました。崇拝や礼拝のために描かれる仏画の対象となる仏様は、以下の通りです。 ・釈迦如来 ・大日如来 ・阿弥陀如来 ・薬師如来 ・観音菩薩 ・弥勒菩薩 ・普賢菩薩 ・文殊菩薩 ・地蔵菩薩 ・虚空蔵菩薩 ・日光菩薩 ・月光菩薩 ・不動明王 ・孔雀明王 ・愛染明王 ・金剛夜叉明王 ・大黒天 ・吉祥天 ・弁才天 また、仏画で教義内容を表すことで教化や修法を目的とした使われ方もしています。 仏教は、仏像の姿だけでは伝えきれないほど複雑で詳細な教義内容を含んでいます。 そのため、仏画は民衆に仏教を咀嚼して伝えるための役割も担っているのです。 仏教の思想や信仰を広める役割がある 仏画は、仏教の思想や信仰を広める役割も担っています。 絵画の内容を口頭で分かりやすく解説することを絵解きといい、仏画が制作されるようになったころ、文字を読める人が少なかったことから絵を使って仏教を教える必要があります。 そのため、仏画を用いた絵解きは、仏教を布教する上で重要な役目をもっていたのです。 たとえば、平安時代のころ、法隆寺や四天王寺では「聖徳太子絵伝」の絵解きが行われていたといわれています。 のちに、絵解きを職業として暮らす人も現れはじめ、日本中に絵解きが浸透していきました。 仏画の歴史 仏様を崇拝や礼拝するためや、仏教の教えを広めるために制作されるようになった仏画。 仏画が生まれたのは紀元前5世紀ごろといわれています。 そのころから今日まで、仏画がどのような歴史を辿ってきたのかを知ることで、仏教の在り方についても理解を深めていきましょう。 仏画が生まれたのは紀元前5世紀ごろ 仏画が誕生したのがいつか歴史を辿っていくと、紀元前5世紀ごろにまでさかのぼります。 紀元後は、ギリシャ文化の彫刻から影響を受け仏像が作られるようになり、仏画が描かれるようになりました。 現在知られている世界最古の仏画は、インドのアジャンタ石窟寺院の壁画で、この壁画はこのころに描かれたといわれています。 日本における仏画の始まりは平安時代とされており、その後、鎌倉時代になるとたくましい作風の仏画が生まれ、禅宗による仏画も盛んに描かれるようになっていきました。 平安時代以降に日本へ伝わる 仏教自体は飛鳥時代に中国から日本に伝来していましたが、仏画は残っておらず、日本の仏画の始まりは平安時代といわれています。 平安時代、日本は中国から伝わった仏画の影響を強く受けた仏画が多く制作されました。 特に盛んに描かれていたのが曼荼羅と呼ばれる仏画で、密教における仏の世界を表現したものです。 平安時代後期には、末法思想が人々のあいだで流行し、浄土真宗のもとで来釈迦図が描かれるようになりました。 来迎図は、人が亡くなった後、極楽浄土から阿弥陀如来がお迎えにくるという浄土真宗の教えを仏画で表現したものです。 鎌倉時代からは開祖の姿も描かれるように 貴族社会から武家社会に移り変わり、武士が政権を握っていた鎌倉時代には、たくましさを感じさせる仏画が多く描かれるようになっていきました。 たとえば、「垂迹画」や「六道輪廻思想画」などがあります。 また、このころ似せ絵と呼ばれる肖像画も誕生し、仏画の中で開祖の姿を描くようになっていきました。 平安時代までは、仏教の教えなどを表現するための仏画が多い傾向でしたが、鎌倉時代に入ってからは現実を追求するようになり、また人そのものに着目する視点をもつようになったため、仏画でもありのままの姿が描かれるようになっていきました。 室町時代は禅宗による仏画が盛んに 室町時代は、幕府の保護を受けていた禅宗による影響を強く受けた仏画がよく描かれるようになり、水墨画の仏画が多く制作されました。 室町時代に描かれた仏画には、北九州の豊前国分寺にある『賢劫千仏図』、『胎蔵界曼荼羅図』などがあります。 江戸時代以降は掛軸以外にも描かれるように 江戸時代には、幕府御用達絵師として活躍していた狩野派絵師の影響により、掛軸だけではなく襖や壁、障子などにも仏画が描かれるようになりました。 江戸時代では、復古大和絵派の冷泉為恭や、狩野一信などが描いた仏画が有名です。 描くものに違いこそあれど、これまでの時代と比べて大きな特徴の変化はみられず、現在制作されている仏画に至っています。 仏画の国ごとの特徴 仏教の起源は、紀元前5世紀ごろとされ、インドで釈迦が悟りを開いたことから始まっているとされています。 しかし、仏画に焦点をあててみると、絵についてはインドよりもチベット絵画の流れをくむものが多くみられます。 インドの仏教絵画 インドのアジャンタ石窟からは、保存状態はあまりよいとはいえませんが、紀元前後に制作されたとみられる絵画が発見され、仏教絵画の最古の遺品として注目を集めています。 インドの初期仏教美術では、仏教の開祖である釈迦の姿を人として造形すること、つまり仏像の制作は避けられていました。 インドのバールフト遺跡では、欄楯の隅柱に民間信仰の神であるヤクシャやヤクシーの像や仏教説話の場面などが表現されています。 欄楯の隅柱以外の柱には、円形の枠や半円形の枠、貫にも円形の枠が設けられ、枠内に動植物や仏伝図、本生図などが浮彫されていました。 ガンダーラでは、釈迦の前生の物語を絵画化した本生図よりも、釈迦の伝記にもとづき生涯の中で起こったさまざまな出来事を描いた仏伝図が好まれ、特に仏陀の生涯の四大事に関連したものが多く制作されました。 中国の仏教絵画 中国では、唐代まで壁画が中心であり、敦煌莫高窟からは、5世紀から12世紀ごろのものとみられる壁画や幡に描いた仏画、経典の挿絵として冒頭に描かれた仏画などが発見されています。 北魏代の5世紀ごろに仏伝と本生譚が多く制作されたと考えられており、唐代の7世紀ごろから浄土変相図が多くなっていきました。 南宋時代に制作された仏画は、日本にも伝わってきており、永保寺所蔵の絹本着色千手観音図などがあります。 南宋時代以降は、禅宗寺院や文人官僚の趣味を考慮した水墨画や白描画による仏画制作も行われていきました。 また、モンゴル族の多くはチベット仏教を信仰していたため、元の時代にはチベット様式の仏画が導入され、その後、明、清時代にも多く制作されました。 中央アジアの仏教絵画 中央アジアのバーミヤーンやキジル石窟、ミーラン遺跡、ベゼクリクなどの仏教寺院遺跡からは、石・土の壁を飾る壁画が発見されており、ローマやインド、中国などさまざまな国の様式から影響を受けていることがうかがえます。 チベットの仏教絵画 チベットでは密教が盛んであり、数多くの仏様が信仰の対象となり、そのグループを密教パンテオンと呼びました。 密教パンテオンは、7つのグループに分けられています。 ・仏または如来 仏は目覚めた者、如来は心理からやってきた者という意味をもっています。 すでに悟りを開いた仏教上でも最高位の仏たちによるグループです。 ・菩薩 菩薩とは、悟りを開くために修行に励む僧のことです。 インドの王侯貴族である釈迦がモデルになっているため、アクセサリーをたくさんつけた煌びやかな衣装で表現されることが多くあります。 ・女神 白多羅や緑多羅や瑜伽女、荼枳尼などのおそろしい姿をした魔女のような女神たちも、このグループに属しています。 チベットでは、女神は高い地位にいる者で人気が高い傾向です。 ・忿怒尊 忿怒尊は男神のグループで、仏教の教えを守るために教えに従わない者たちには、おそろしい姿で威嚇し、正しい教えに導く役割を担っています。 日本でいう大黒や不動明王などの明王に該当する者たちがこのグループに属します。 ・護法神 護法神とは、インドのバラモン教やヒンドゥー教を起源にもつ神々のことです。 現代のヒンドゥー教でも信仰されている帝釈天や閻魔と、ブラフマー神・シヴァ神・ヴィシュヌ神の三男神、ゾウの顔をもっているガネーシャ神などがこのグループに該当します。 また、太陽、月、火星、水星などの星たちも星神として崇拝されています。 ・祖師 祖師は、神仏とは異なりますが、宗派の創始者になり教えを広めるといった、仏教を広げていく過程の中で大変活躍した僧侶たちを指しています。 有名な祖師には、チベット仏教ゲルク派の創始者であるツォンカパやニンマ派のパドマサンバヴァ、ヨーガ行者であるミラレパなどがいます。 ・秘密仏 密教の発展の中で誕生した、おそろしい姿の尊格を秘密仏と呼んでいます。 秘密仏は、本来如来のグループに属する存在ですが、血で満たされた頭蓋骨杯や切り取ったばかりの人間の生首、ゾウの生皮、蛇など不気味なものに飾られた姿がおそろしく、秘密仏と呼ばれているのです。 ヘーヴァジュラやチャクラサンヴァラ、カーラチャクラなどがこのグループに属しています。 チベット仏教では、仏画をタンカと呼んでおり、タンカには密教の儀式や規則を記した儀軌と呼ばれる経典に沿った容姿や身体の色、法具などを用いて仏様が描かれます。 たとえば、阿弥陀如来は赤色、大日如来は白色、薬師如来は青色というように儀軌で定められているのです。 朝鮮の仏教絵画 海をへだてて日本と隣り合っている朝鮮半島に仏教が伝わったのは、日本よりも200年ほど早い4世紀ごろといわれています。 仏教の教えは、朝鮮で暮らす人々の心の拠り所となり、文化や思想に大きな影響を与えていきました。 1392年まで朝鮮半島にあった王国「高麗」では、仏教を国教として朝鮮半島に多くの仏教寺院を作り、仏像や仏教絵画が次々に制作されていきました。 現在、高麗仏画と呼ばれる作品は、世界中で約165点のみ確認されています。 そのうち、110点近くが日本にあるといわれています。
2024.12.20
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日本画と西洋画(洋画)の違いや共通点とは?
日本画と西洋画とは 伝統的なやまと絵や浮世絵などの日本画と、西洋技術を用いて描かれた西洋画。 なんとなく違いがあるものだと知っていても、具体的にどのような特徴があるのか知らない人も多いでしょう。 それぞれの絵の特徴や違いを知っておくと、絵画鑑賞の楽しみ方が増します。 日本画と西洋画を比較して、違いを発見しながら鑑賞を楽しむのもよいでしょう。 日本の伝統絵画である「日本画」とは 日本画とは、日本の伝統的な絵画の総称で、名前自体は、明治以降に西洋から伝わってきた油彩画と区別するために生まれました。 やまと絵や浮世絵などの日本伝統の技法を使って描かれた絵が該当します。 日本画は、西洋画とは異なり油彩絵具をほとんど使わず、墨や胡粉、岩絵具など日本特有の画材を使用しているのが特徴です。 また、陰影を使用した立体的な描き方や写実性の高い描写は、あまり使われていないのも違いの一つです。 日本画というと、日本人が描いた作品を指しているイメージを持つ人もいるでしょう。 しかし、日本人以外が描いた作品も、日本の伝統的な技法を用いて描いていれば日本画といいます。 基本的に、日本画とは描いた人物で判断するのではなく、用いられた画材や技法によって判断されます。 日本画と真逆な「西洋画」とは 西洋画とは、その名の通り西洋技術を用いて描かれた絵の総称です。 日本画とは正反対な特徴を持つ絵画で、写実表現が重要視されるため、光のコントラストやはっきりした明暗、遠近法、立体表現などを積極的に取り入れています。 画家が見た景色や思い描いた風景を、そのまま写真のようにキャンバスに写実的に描くのが特徴です。 また、西洋画では油彩や水彩が用いられており、使用している画材にも違いがあります。 モチーフも、風景や宗教に関係する内容が多いのが特徴です。 日本画同様に、作者が誰であっても、西洋画の画材や技法を用いて描かれた作品は、西洋画といいます。 日本画の歴史 日本画と一口にいっても、やまと絵や浮世絵などように、特徴の異なる絵画が存在します。 また、時代によっても特徴や技法が異なり、違った表情を見せてくれます。 日本画の歴史と、各時代で描かれていた日本画の特徴を知ることで、より日本画鑑賞が楽しくなるでしょう。 日本画の始まり 日本画の始まりは、飛鳥時代や奈良時代ごろといわれており、仏教が日本に伝わってきたのと同時に仏教画がもたらされました。 平安時代に入るまでは、仏教画をはじめとする中国の絵画を見本に制作されていたそうです。 平安時代に入ると、空海や最澄によって密教が日本に伝わり、その影響により曼荼羅がよく描かれるようになりました。 このころもまだ、中国や朝鮮半島の影響を大きく受けていたと考えられます。 次第に、影響を受けるだけではなく文化を取り込んでいき、日本独自の絵画が確立されていきました。 『源氏物語』や『鳥獣戯画』など、物語を楽しむための絵巻物も数多く制作されるようになり、中国をテーマにしたものを唐絵、日本をテーマにしたものをやまと絵と、区別するようになりました。 平安時代後半から鎌倉時代にかけては、絵巻物や仏画だけではなく、写実的な似顔絵の似絵が盛んに描かれるようになっていきます。 その後、貴族から武士へ主役が移り変わっていくのにあわせて、芸術分野でも合戦の絵巻物が多く描かれるようになっていきました。 水墨画の流行 室町時代に入ると、茶道や書道などの文化に興味関心が高かった8代将軍足利義政の影響により、文化が花開いていきました。 絵画の分野では、水墨画が人気となり、狩野派の始祖となる狩野正信や土佐派の始祖となる土佐光信などが活躍し、多くの流派が誕生していきました。 桃山時代になると、日本美術は大きく発展を遂げていき、豪華絢爛な障壁画の制作や立派な城郭の建築が盛んに行われるようになっていきます。 日本最大流派と呼ばれていた狩野派が、目覚ましい活躍をみせた時代でもあり、茶の文化では、千利休によって茶の湯が芸術として確立されていきました。 庶民の娯楽となる 江戸時代に入ると、貴族や武士など身分の高い人々の娯楽であった芸術が、庶民の間にも広がり始めます。 庶民の間に絵画が広がるきっかけを作ったのが、浮世絵の登場です。 初期の肉筆画による浮世絵は、貴族や武士の間で親しまれていましたが、菱川師宣の版画技術によって大量生産が可能になると、浮世絵版画は安価で手に入る絵画として人気を集め、庶民の間でも広く親しまれました。 一方で、幕府や大名に仕える御用絵師も活躍を広げており、豪華絢爛な絵画も多く制作されていました。 また、中国の文人から影響を受けた文人画や、円山応挙や伊藤若冲などが極めた写生画など、多彩な特徴を持つ絵画が誕生していったのです。 西洋画の歴史 西洋の技術を用いて制作される西洋画は、日本画とは異なる歴史やルーツがあります。 西洋画の歴史を振り返るとともに、時代によってどのような絵画が描かれてきたのかを知ると、より絵画鑑賞を楽しめるでしょう。 西洋画の始まりは「キリスト教美術」 西洋画の始まりは、紀元前2世紀末から6世紀ごろに発展した、初期キリスト教美術であるといわれています。 初期キリスト教美術は、動きの少ない身体表現が特徴で、文字の読めない信徒のために、モザイク壁画で聖書の物語が描かれたのが始まりのきっかけです。 シンプルな描写で人物像に動きはなく、分かりやすさに焦点を当てて描かれています。 モチーフは、象徴的な十字架やイエス・キリストなどで、祈る人や羊飼いなどの人物もあわせて描かれました。 キリスト教美術を鑑賞する際は、前提としてキリスト教の知識が必要となるでしょう。 革新的な美術様式「初期ルネサンス」 初期ルネサンスは、14世紀から16世紀ごろのヨーロッパ全域で流行した、革新的な美術様式です。 遠近法が活用されるようになり、人物や空間により立体感が生まれ、写実的な表現が行われるようになりました。 人物の表情も自然に描かれ、現実的な絵画となっていきます。 初期ルネサンスの絵画では、キリスト教以外のテーマを扱っていたのも特徴の一つです。 富裕層からの依頼を受けて、やわらかい色彩と優雅な感受性を用いた絵画が描かれるようになっていきました。 ルネサンス期の絵画技法として有名なのが、一点透視図法です。 この技法により、遠近法が初めて確立され、立体的な構図を2次元に落とし込むことに成功したといわれています。 日本でも人気の高い「印象派」 印象派とは、19世紀の半ばごろから後半にかけて、フランスで生まれた美術様式を指します。 印象派作品の特徴は、筆触分割と呼ばれる技法で、色をパレットの上で作るのではなく、原色を計算してそのままキャンバス上に配置し、遠くから鑑賞するとさまざまな色があわさって見えるという技術です。 作品を見る角度によって色が変化し、一つの作品でもさまざまな楽しみ方ができるでしょう。 後期印象派は、19世紀後半ごろからフランスで登場した絵画様式です。 印象派から影響を受けた様式で、有名な画家には、セザンヌやゴッホ、ゴーギャンなどがいます。 これまでとは大きく異なる絵画様式を模索し続け、現実に存在しないものと融合させたり、内面の感情を表現したりなど追求していきました。 現代の西洋画 1905年のサロン・ドートンヌに出品された作品たちがきっかけで始まった絵画様式をフォービズムといいます。 伝統に縛られず自由な色彩表現をよしとする絵画様式で、20世紀最初の絵画革命ともいわれていました。 フォービズムの特徴は、色彩で感情を表現することです。 20世紀初頭には、キュビズムと呼ばれる画法も誕生しています。 一つの対象をさまざまな角度から観察して解釈し、一枚のキャンバスに再構築する考え方です。 3次元のものを2次元に落とし込む特徴があり、絵が立体の集合体に見えることから、立体(キューブ)から名前を取り、キュビズムとなりました。
2024.12.13
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画商(ギャラリスト)とは…有名画家の成功も画商次第!?
画商は主に絵画を取り扱う美術商 画商とは、一般的に絵画をメインに取り扱う美術商を指しています。 また、ギャラリストと呼ばれることもあり、ギャラリストは作品を展示できる画廊を持っています。 もともとヨーロッパにおける絵画の注文方法は、貴族や教会、大商人など特定のパトロンから画家へ直接オーダーするものでした。 その後、貴族階級ではなく資本家のブルジョワ階級が広がりをみせ、一般民衆が経済的に力を持つようになってからは、美術の需要も一般へと広がっていきます。 絵画の需要の広がりにあわせて、画商が活躍する場も増えていき、18世紀ごろのフランスでは、副業として画商を兼任する商人が登場し、19世紀ごろからは画商を専門の職業とする人々も現れはじめました。 19世紀から画商の役割は多岐に渡るようになり、印象派やポスト印象派の画家たちが生活に困らないよう、さまざまな面からサポートを行っています。 印象派やポスト印象派の芸術家たちを世間から評価してもらえるよう試行錯誤した画商が、ポール・デュラン=リュエルやポール・ギヨームなどです。 もちろん画商の仕事は、若手画家たちを当時の社会で評価してもらえるよう働きかけることだけではなく、美術史上で重要な資料を提示したり、美術館へコレクションを提供したりする役割も担っていました。 画商の役目は現在にも受け継がれており、単に絵画を販売するだけではなく、芸術家を育てたり、新しい美術を世間に発信したりする存在となっています。 画家の成功は画商がきっかけになっている? 画家たちが自分の絵を展示・販売し、世間から高い評価を受けて成功するためには、画商のサポートも欠かせません。 ポール・デュラン=リュエルと印象派 ポール・デュラン=リュエルは、フランスの画商で、主に印象派やバルビゾン派などと連携していました。 近代画商の先駆者とも呼ばれており、画家たちを支援するために俸給制を導入したり、画家の個展を開催したりしました。 1860年代から1870年代の初めにかけては、画商となりバルビゾン派の重要な支持者として、画家たちを成功に導いたといわれています。 その後、印象派と呼ばれる画家グループとも関係性を築くと、印象派の芸術的かつ斬新な可能性を1870年代の早い時期から見出し、1872年にはロンドンで印象派をメインとした大規模な展覧会を開催しました。 アメリカのニューヨークへ移り住んだ後は、息子であるジョセフ、チャールズ、ジョージの3人が、初期ニューヨークの画家とフランスの印象派画家の作品を交互に展示する画廊を運営し、ニューヨークにおいて画商の地位を確立させました。 同時に、アメリカでの印象派の人気を高めるきっかけを作ったともいえるでしょう。 19世紀の最後の30年間では、リュエルの名が世界中に知れ渡り、世界で最も有名な画商であったといえます。 また、当初批判を受けていたフランスの印象派グループを商業的な成功に導いた重要人物としても認識されています。 リュエルは、アメリカだけではなくヨーロッパでも印象派の評価を高め、市場を確立することに成功しました。 リュエルの画商としての腕によって商業的成功をおさめた印象派画家には、エドゥアール・マネ、エドガー・ドガ、クロード・モネ、カミーユ・ピサロ、ベルト・モリゾ、オーギュスト・ルノワール、アルフレッド・シスレーなどがいます。 ジュリアン・フランソワ・タンギー ジュリアン・フランソワ・タンギーは、パリの絵具商で、売れない画家たちを支援していたことでも知られています。 パリのモンマルトルで画材屋を営んでいたタンギーのお店には、当時まだ売れていない若手の画家たちがよく訪れており、交流の場となっていました。 画材屋であったため、画家たちが使う画材を販売していましたが、貧しくお金のない画家には、お金の代わりに描いた絵画での支払いを認めていたそうです。 画家という職業を深く理解し、サポートしていたタンギーは、多くの画家たちから慕われていました。 タンギーの画材屋に出入りしていた画家には、ポール・セザンヌ、フィンセント・ファン・ゴッホ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、エドゥアール・マネ、ポール・ゴーギャン、カミーユ・ピサロ、クロード・モネ、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなどがいます。 現代では、有名な芸術家たちですが、当時はまだ若手の売れない画家で、タンギーからの支援を受けたり、店で絵画を展示・販売させてもらっていたりしたそうです。 特に、ゴッホはタンギーを慕っており、私利私欲に走らないタンギーの生き方を尊敬し、共感したゴッホは、タンギーとともに社会主義的な世界を夢見るようになったといわれています。 タンギーは、全人類を互いに結び付け、利己的で痛々しく血なまぐさい状況や、野心的な争いが起こらないような絶対的な愛を信じていました。 ゴッホも同じ理想を持っており、2人は大変貧しかったにもかかわらず、自分たちが持っているものを人々に分け与えていました。 ゴッホは絵を、タンギーは絵具やテーブル、金を、友人から労働者、娼婦など、つながりのない見知らぬ人々にも対等に分け与えたのです。
2024.11.26
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