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モネの 描く光の世界―『舟遊び』で感じる自然と人の調和
クロード・モネは、「印象派」という美術運動の創始者として知られており、自然の光と色彩を巧みに捉えた数々の名作を残しました。 そのなかでも『舟遊び』は、彼が光の変化や水面の美しさを追求しながらも、家族の穏やかな日常を描き出した特別な作品です。 大胆な構図や日本文化の影響を感じさせる色彩のコントラストが見どころで、のちに生み出される名作『睡蓮』シリーズを予感させる重要な作品でもあります。 印象派を代表するクロード・モネ クロード・モネは、印象派の代表的な画家で、屋外で直接自然を観察しながら描く戸外制作の手法を広めた人物でもあります。 代表作には『印象、日の出』、『散歩、日傘をさす女性』、『睡蓮』、『舟遊び』などがあり、どの作品でも光と色彩の変化を巧みに捉えているのが特徴です。 https://daruma3.jp/kottouhin/1070 『舟遊び』はのちの名作『睡蓮』を予感させる水面の表現が特徴 作品名:舟遊び 作者:クロード・モネ 制作年:1887年 技法・材質:油彩・カンヴァス 寸法:145.5 × 133.5cm 所蔵:国立西洋美術館 クロード・モネが1870年代に描いた名作『舟遊び』のモデルになったのは、モネの再婚相手となるアリス・オシュデの連れ子であるシュザンヌとブランシュです。 彼女たちが舟の上で穏やかなひとときを過ごしている姿を描かれています。 『舟遊び』の最大の特徴は、絵画の大部分を占める水面の描写です。 水面はまるで巨大な鏡のように、周囲の風景や光を映し出しています。 季節や天候の変化を繊細に捉えた水面のきらめきや逆さに映る風景は、モネが自然をどのように観察し、表現していたかを鮮やかに物語っています。 この描写は、後年の代表作『睡蓮』シリーズへと続く芸術的探求を予感させるものでもあるのです。 モネの生活に転機が訪れた際に描かれた作品『舟遊び』 『舟遊び』は、モネの生活のなかで新たな転機が訪れた時期に制作された作品です。 1883年、モネは妻カミーユを亡くした後、アリス・オシュデとその子供たちとともにジヴェルニーに移り住みました。 この地での穏やかな暮らしと、新しい家族との日常は、モネの創作に大きな影響を与えます。 屋敷近くのエプト川に浮かべた小舟は、一家にとって遊びの場であると同時に、モネの創作意欲を刺激する存在でした。 小舟を浮かべて遊ぶ一家の姿をモネは何度も繰り返し描いています。 本作品はその作品群のなかでも完成度の高い一作として知られています。 この作品には、光のなかで戯れる人物像という、モネが初期から取り組んできたテーマが生きているのです。 1860年代に描かれた『庭の女たち』(オルセー美術館)に見られるように、モネは当初から戸外の光と婦人像の組み合わせを好んで描いていました。 『舟遊び』では、光が川面や人物を柔らかく包み込み、色彩が鮮やかに交錯するさまが際立っています。 この作品は、モネが1880年代に光と色彩の探究を深化させつつも、人物や物語性を絵画に再び取り入れた例でもあります。 水面に映り込む光や色彩の微妙な変化を繊細に捉える技法は、後年の『睡蓮』シリーズへとつながるモネの芸術的進化を感じさせてくれるのも魅力の一つです。 日本文化と印象派が融合された大胆な構図の『舟遊び』 『舟遊び』は、モネが制作した作品のなかでも、ユニークな構図と鮮やかな色彩が特徴の一作です。 モネは、この絵画で大胆に小舟を半分に断ち切るような構図を採用しました。 このアプローチは、西洋絵画の伝統的な遠近法から離れ、写真術や日本の浮世絵版画から影響を受けたものと考えられています。 この構図のなかで、画面を覆う青とばら色、緑とヴァーミリオン(朱色)の色彩が鮮やかに対比し、視覚的なインパクトを生み出しています。 『舟遊び』に見られる構図の斬新さや空間の扱いは、モネが日本の浮世絵から得た影響を物語っているといえるでしょう。 モネの芸術的探究と家族への愛が詰まった『舟遊び』は、見る者に彼の創造力と感性の深さを感じさせる一枚です。 モネが描く光と色彩の繊細で美しい日常を楽しめる作品『舟遊び』 今回紹介した『舟遊び』は、モネの創造力や観察眼の深さを感じさせる傑作です。 この作品では、日常の穏やかなひとときを大胆な構図と繊細な色彩で切り取り、水面に映る光や影の変化を通して、自然が見せる多様な表情を描き出しています。 また、光と色彩の探究を続けるモネが人物や物語性を再び絵画に取り入れた例であり、後の『睡蓮』シリーズへの伏線ともいえる作品です。 この作品に見られる日本文化や写真術の影響は、モネが印象派の枠を超えた表現を追求していたことを表しているでしょう。 モネの芸術は、日常のなかの美しさをあらためて私たちに気づかせてくれるものです。 『舟遊び』を通じて、彼の描いた夢のような光景に浸り、その美しさを間近で感じてみてはいかがでしょうか。 https://daruma3.jp/kottouhin/872
2024.12.28
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ジュール ・シェレの『ムーラン・ルージュの舞踏会』―華やかなパリの舞踏会を描いたポスターアート
19世紀末のパリの社交界を華やかに彩ったポスターアートの先駆者、ジュール・シェレ。 その代表作『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、当時のパリ文化を象徴する作品として今も高く評価されています。 ポスターの父と呼ばれたジュール・シェレの代表作 ジュール・シェレは、「ポスターの父」と称されるほど、ポスターアートの発展に寄与した画家であり、彼の作品はその華やかさと独特のスタイルで知られています。 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、1889年に制作された著名なポスターで、彼の代表作の一つです。 この作品は、フランスのパリにあるムーラン・ルージュの舞踏会を宣伝するために作成されました。 ジュール・シェレのスタイルが反映された『ムーラン・ルージュの舞踏会』とは 作品名:ムーラン・ルージュの舞踏会 作者:ジュール・シェレ 制作年:1889年 技法・材質:リトグラフ・紙 寸法:59.5 × 40.0cm 所蔵:デイヴィッド・E.ワイズマン&ジャクリーヌ・E.マイケル 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、シェレの特徴的なスタイルである明るい色彩と動きのある構図が際立っており、当時のパリの社交界の華やかさを表現しています。 シェレは、舞踏会の楽しさや活気を視覚的に伝えるために、踊る女性たちを中心に据えたデザインを採用しました。 シェレは、ポスターアートの先駆者として知られており、彼の作品が街中に広がることで、ポスターというメディアの重要性を高めていったのです。 彼のポスターは、単なる広告を超えて、アートとしての価値を持つようになり、特に『ムーラン・ルージュの舞踏会』はその象徴的な作品の一つとされています。 親しみやすい女性像「シェレット」が描かれた作品 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、1889年に制作され、パリのムーラン・ルージュのオープニングを宣伝するためのものでした。 19世紀末のパリは、社交界や娯楽が盛んであり、特にムーラン・ルージュはその象徴的な存在でした。 シェレは、この新しいエンターテインメントの流行を捉え、ポスターを通じて大衆にアピールしたのです。 彼の作品は、当時の人々の生活や文化を反映しており、ポスターが広告媒体としてだけでなく、アートとしても評価されるようになった時代背景があります。 シェレのポスターには、陽気で優雅な女性たちが中心に描かれ、動きのある構図が特徴です。 彼が描く女性は「シェレット」と呼ばれるようになり、このキャラクターを用いて、大衆が親しみやすいイメージを提供しました。 このスタイルは、彼のポスターが広く受け入れられる要因となりました。 多色リトグラフ技術を確立したジュール・シェレ シェレは、赤、青、黄の三色を使用した多色リトグラフ技術を確立しました。 この技術により、ポスターはより鮮やかで視覚的に魅力的なものとなり、広告としての効果が飛躍的に向上したといえます。 彼の作品は、色彩の豊かさと大胆なデザインで知られ、当時の人々の目を引くことに成功しました。 シェレは、ポスターのレイアウトや活字デザイン、配色においても革新をもたらしています。 彼のポスターは、動きのある構図や躍動感あふれるキャラクターを特徴としており、これによりポスターが単なる広告媒体からアートとしての地位を確立する一因となりました。 シェレの技術革新は、後のアーティストたち、特にアンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックやアルフォンス・ミュシャに大きな影響を与えました。 彼らもまた、シェレのスタイルを取り入れ、ポスターアートをさらに発展させていきます。 このように、ジュール・シェレの技術革新は、ポスターアートの発展において重要な役割を果たし、広告の表現方法を変えるだけでなく、アートとしての地位を確立することにも寄与したのです。 彼の影響は、今日のグラフィックデザインや広告の世界にも色濃く残っています。 19世紀末のパリの華やかさを堪能できる『ムーラン・ルージュの舞踏会』 シェレの作品は、ムーラン・ルージュの華やかさと同時に、そこに集う人々の生活や感情をも映し出しています。 『ムーラン・ルージュの舞踏会』は、19世紀末のパリの文化や社会、そして新たなエンターテインメントの流行を象徴する作品です。 シェレが切り開いたポスターアートの道は、今日まで続くアートと広告の融合をもたらし、彼の影響は今なお色濃く残っています。 この作品を通じて、パリの華やかな時代の息吹を感じることができるでしょう。
2024.12.26
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アール・ヌーヴォーの象徴となったミュシャの代表作『ジスモンダ』
アルフォンス・ミュシャの作品は、アール・ヌーヴォーの象徴として多くの人々に愛されています。 ポスターに描かれた女性像は、優美で繊細な線と豊かな装飾が目を引き、今もなお多くのファンを魅了しています。 世紀末のパリで活躍したアルフォンス・ミュシャ アルフォンス・ミュシャは、世紀末のパリを象徴するポスター・デザイナーであり、壮大なテーマを重厚な油彩で描き続けた画家として知られています。 ミュシャの作品は、ポスターから油彩画に至るまで、どれもが「ミュシャ風」と呼ばれる独特のスタイルを持っており、多くに人の目を惹きつけました。 ミュシャの名が広く知られるきっかけとなった代表作『ジスモンダ』。 ミュシャが初めて制作したポスターで、繊細な装飾と流れるような線描、そして植物のモチーフなどが融合した様式は、ミュシャの独自性を確立させました。 アルフォンス・ミュシャを一躍有名にした『ジスモンダ』とは 作品名:ジスモンダ 作者:アルフォンス・ミュシャ 制作年:1894年 技法・材質:リトグラフ・紙 寸法:217.9cm×75cm 所蔵:サントリーポスターコレクション アルフォンス・ミュシャの代表作『ジスモンダ』は、1894年に制作されたミュシャの最初のポスター作品です。 ミュシャの名前を広く世に知らしめた出世作でもあり、このポスターは当時のフランスで絶大な人気を誇っていた女優サラ・ベルナールのために制作され、彼女の主演舞台『ジスモンダ』を宣伝するものでした。 『ジスモンダ』の特徴は、極端に縦長のフォーマットです。 また、ポスターの上下に文字の帯が配置されており、中央には美しい女性像が描かれ、静かに佇んでいます。 中央に描かれている女性こそが、主役のジスモンダであり、女優サラ・ベルナールです。 彼女の頭上にはアーチ状の窓が描かれており、古典的で壮麗な雰囲気が漂っています。 また、幾何学的なアラベスク模様や女性の髪の表現が一体化して調和を生み出すパターンは、のちに「ミュシャ風」として広く知れ渡るようになりました。 舞台公演『ジスモンダ』のポスターを急遽手がけたアルフォンス・ミュシャ 1895年、新年の始まりとともにパリで注目を集めた舞台公演『ジスモンダ』のポスターは、まさに芸術史に残る伝説の作品です。 元旦から町中に貼りだされたポスターの依頼が舞い込んだのは、前年のクリスマスでした。 依頼を受けたルメルシエ工房は、職人たちが休暇中で不在のため、代わりに工房で働いていた無名の画家アルフォンス・ミュシャが、この重要な仕事を引き受けることに。 ポスター制作は未経験ながらも、短期間で作品を完成させ、このポスターが街に貼られるや否や、瞬く間にパリジャンの心を掴みました。 柔らかい色調で表現された崇高な女性像が特徴的で、中央に描かれた主役のジスモンダが圧倒的な存在感を放っています。 ミュシャのポスター作品を見た主演女優サラ・ベルナールは、大変感銘を受けて即座にミュシャと5年の契約を結ぶこととなりました。 このポスター制作をきっかけに、ミュシャのもとには次々と仕事の依頼が舞い込むようになり、彼の名声は確固たるものとなっていきました。 初期作品の『ジスモンダ』にはビザンティン様式が用いられている ミュシャの出世作となった『ジスモンダ』には、初期作品によく見られる特徴的なビザンティン様式が色濃く反映されています。 描かれた主役のジスモンダが手にしている植物がナツメヤシの枝であり、キリスト教の枝の主日を表現したシーンであると分かります。 枝の主日とは、復活祭の1週間前にキリストがエルサレムに入ったことを記念する日であり、作品中では聖書の象徴的な出来事が取り入れられているのです。 また、『ジスモンダ』は、ミュシャ作品を代表する特徴であるアール・ヌーヴォー様式ではなく、モザイクに象徴されるビザンティン様式が用いられています。 女性像の背景には、ミュシャが影響を受けたビザンティンの宗教画にみられる幾何学模様やアーチが描かれており、独特で草原な雰囲気を醸し出しています。 多くの人は、ミュシャといえばアール・ヌーヴォー様式をイメージしますが、初期作品である『ジスモンダ』では、ビザンティン様式のデザインが顕著であり、その後の作品の礎になったともいえるでしょう。 背景のアーチは以後のポスター作品に大きな影響を与えた ミュシャの出世作『ジスモンダ』は、画面構成の革新性で注目を集めました。 中でも特に革新的な要素だったのが、主役のサラ・ベルナールの頭上に描かれた華やかで虹色のアーチです。 アーチは、ミュシャ作品を代表するデザインで、以後の演劇ポスターには繰り返し同じシンボルが使われるようになりました。 『ジスモンダ』には、当時の一般的なポスターにみられる鮮やかな色彩とは対照的に、繊細なパステルカラーを使って描かれている特徴があります。 おそらく、背景部分の制作時間が足りなかったのか、飾りのない余白が目立ちます。 唯一の背景装飾として頭の後ろには、ビザンチン風のモザイク模様のタイルが描かれているのが特徴です。 アール・ヌーヴォーを代表するミュシャの作品はいまもなお愛され続けている 今回紹介した『ジスモンダ』をはじめとした数々のミュシャ作品は、ビザンティンや東欧の影響を受けつつ、自由な発想と美的感覚で革新をもたらし、後世に大きな影響を与えました。 その後、ミュシャはアール・ヌーヴォーの第一人者として多くのポスター作品を制作しています。 自由な発想と美的感覚で、ポスター業界に革新をもたらした「ミュシャ風」の作品は、今でも多くの人々に愛されています。
2024.11.26
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画家たちを魅了したオリエンタリズム、その象徴としてのオダリスク
美しい謎に包まれた「オダリスク」―― その響きには、どこか官能的でありながら異国の神秘を感じさせる力があります。18世紀から19世紀のヨーロッパで、多くの画家たちがこの魅惑的な存在を描き続けた背景には、ただの装飾的な趣向を超えた深い理由が隠されています。本記事では、「オダリスク」とは何か、その歴史や文化的背景、そして多くの芸術家がこのテーマに惹かれた理由について紐解きます。 彼らがキャンバス上に表現した「オリエンタリズム」の世界へ、ぜひ一緒に足を踏み入れてみましょう。 有名画家も数多く描いた「オダリスク」とは 「オダリスク」とは 官能的で美しい女性として描かれ、東洋の神秘性や異国情緒を表現する象徴的な存在であった「オダリスク」。 オダリスク(Odalisque)は、オスマン帝国のスルターンや権力者のハレム(後宮)で奉仕する女奴隷または側室のことで、その言葉の起源は、トルコ語で「部屋」を意味する「オダリク(Odaliq)」に由来します。 18世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパでオリエンタリズム(東方趣味)が流行した際に、オダリスクは絵画の人気の題材となりました。この時代、ナポレオンのエジプト遠征やアルジェリアのフランスへの併合などにより、西洋人が東洋の文化に触れる機会が増えたことで、オダリスクをはじめとした東洋の文化が絵画の題材になることもしばしばありました。 オダリスクの役割 オダリスクは、オスマン帝国のスルターンなどイスラムの君主のハレムで奉仕する女性奴隷または側室を指しますが、単にその役割にとどまらず、時に重要な地位や影響力をもつ存在でもありました。 奉仕と教育 オダリスクはハレム内で家事や雑務を行うだけでなく、音楽や刺繍、料理などの技能を学ぶなど、文化的な教養を身につける機会を得ていました。 経済的な独立 上位に位置するオダリスクは、給与を受け取り、時には非常に裕福になることもありました。彼女たちはその資産を使って、モスクや病院などの慈善施設を設立することもあったといわれています。 政治的影響力 ハレム内の階層制度では、上位の女性が政治的な影響力を持つこともあったとされています。 なかでも権力者=スルターンの母である「ヴァーリデ・スルタン」と呼ばれるオダリスクは、宮廷内で大きな権力を持ちました。 オダリスクのいた「ハレム」とは ハレムは、イスラム世界、特にオスマン帝国において見られた王族や権力者の邸宅内にある女性専用の区域のこと。アラビア語の「ハリーム」(禁じられた場所)に由来するこの言葉は、近親者以外の男子の出入りが禁止された空間を表します。 オスマン帝国のトプカプ宮殿のハレムは、400以上の小部屋で構成され、最盛期には1000人以上の女性が暮らしていたとされます。 また、ハレムは単に君主の享楽の場ではなく、女性たちの教育と訓練の場でもあり、「ヴァーリデ・スルタン」を筆頭とした階級や権力争いのある場所でもありました。 有名画家たちはなぜオダリスクを描いたのか 画家たちがオダリスクを題材にした理由は、18世紀から19世紀にかけてヨーロッパで流行したオリエンタリズム(東方趣味)と密接に関連しているといえるでしょう。 この時期、ナポレオンのエジプト遠征やアルジェリアのフランスへの併合などにより、西洋人が東洋の文化に触れる機会が増加していきました。 そのため、エキゾチックで神秘的な東洋のイメージが芸術家たちの想像力を刺激し、中でも「官能的で美しい女性の象徴」であったオダリスクは、絵画の人気の題材となりました。 さらに、当時のヨーロッパ社会では直接的に描くことが難しかった官能的な題材を「異国」という設定を利用して描くことができた、という側面もあります。 このように、オダリスクは芸術家たちに自由な創造と表現の可能性を与える存在として、それと同時に観る者の好奇心を満たす題材として、多くの画家たちに好まれたのです。 西洋の画家たちにとって新鮮だった、東洋の文化・色彩 当時、東洋はまさに「異国」。 イスラム建築、調度品、衣装などのオリエンタル文化は、画家たちに強烈な刺激を与えたことには違いありません。 そして、画家たちに東洋の強烈な色彩、人情風俗を描く機会を与え、ロマン主義的美学の新たな表現の場となったといえるでしょう。 画家たちは、「オダリスク」をはじめとする異国情緒や神秘主義あふれる題材を好んで取り入れ、西洋とは異なる文化や風俗を描くことに芸術の可能性を見出したに違いありません。 有名画家たちが描いた「オダリスク」 ドミニク・アングル 作家名:ドミニク・アングル 制作年:1814年 作品名:『グランド・オダリスク』 作品の特徴:後ろ姿で物憂げなポーズを取るオダリスクが描かれており、歪んだプロポーションと細長い手足が特徴的です。古典的な形式とロマン主義的なテーマを組み合わせた折衷的な作品として知られています。 フランソワ=エドゥアール・ピコ 作家名:フランソワ=エドゥアール・ピコ 制作年:1829年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:エキゾチックな雰囲気を持つ裸婦像として描かれています。 ウジェーヌ・ドラクロワ 作家名:ウジェーヌ・ドラクロワ 制作年:1857年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:ロマン主義の巨匠であるドラクロワによる作品で、東洋的な雰囲気と官能的な表現が特徴です。 フランチェスコ・アイエツ 作家名:フランチェスコ・アイエツ 制作年:1867年 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:イタリアの画家アイエツによる作品で、オリエンタリズムの影響を受けた優美な裸婦像として描かれています。 ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン 作家名:ジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタン 制作年:1879年 作品名:『Favorite of the Emir』 作品の特徴:オリエンタリズムの代表的な画家による作品で、豪華な東洋の宮殿の雰囲気の中でオダリスクが描かれています。 フェルディナン・ロワベ 作家名:フェルディナン・ロワベ 制作年:1900年頃 作品名:『オダリスク』 作品の特徴:19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍した画家による作品で、世紀末の雰囲気を感じさせる官能的な表現が特徴です。 アンリ・オットマン 作家名:アンリ・オットマン 制作年:1920年 作品名:『眠っているオダリスク』 作品の特徴:20世紀に入ってからの作品で、伝統的なオダリスクのテーマを現代的な感覚で描いています。 アンリ・マティス 作家名:アンリ・マティス 制作年:1928年 作品名:『トルコ椅子にもたれるオダリスク』 作品の特徴:この作品は、マティスのオダリスクシリーズの中でも特に有名な作品の一つです。鮮やかな色彩と大胆な構図が特徴的で、オリエンタリズムの影響を受けつつも、マティス独自の様式で描かれています。 異国文化への関心と絵画の新たな挑戦が垣間見える、それぞれの「オダリスク」 「オダリスク」は、単なる異国情緒や官能性の象徴を超えた存在です。その背後には、文化と歴史が織りなす複雑な物語が隠されています。ヨーロッパの画家たちは、この題材を通じて、自らの想像力と美学を自由に表現し、観る者を魅了しました。 この記事で紹介した名画の数々をきっかけに、ぜひ「オリエンタリズム」や「オダリスク」というテーマにさらに関心を深めてみてください。新たな視点で鑑賞することで、これまで知らなかった美の世界がきっと広がるはずです。
2024.11.26
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世界大戦の心を癒したマティスの『トルコ椅子にもたれるオダリスク』とは
アンリ・マティスといえば、何を思い浮かべるでしょう。 色彩の魔術師、フォーヴィスムの創始者、切り紙絵などを想像する人は多いのではないでしょうか。 そのほかにも、マティスといえば「オダリスク」の絵があります。 マティスが描いたオリエンタルな女性像であるオダリスクは、当時戦争で傷つき心の平和を願った人々のニーズに寄り添い、人々から人気を集め、マティスの名声はさらに高まっていきました。 色彩の魔術師アンリ・マティスと『トルコ椅子にもたれるオダリスク』 マティスは、色彩の魔術師とも呼ばれていたフランスの巨匠で、フォーヴィスムをけん引した画家でもあります。 マティスが南フランスのニースで制作活動をしていたとき、オダリスクと呼ばれるハーレムの女性をモチーフにした作品を多く描きました。 なお、この時代はマティスだけではなく多くの芸術家がオダリスクの作品を制作していました。 オダリスクとは、オスマン帝国のイスラム君主の後宮に仕える女奴隷を指し、ハーレムは、アラビア語で「禁じられた場所」を意味しています。 オダリスクは、性の解放を象徴する存在であり、プロテスタントの禁欲文化への反動として、ヨーロッパの人々には大変刺激的に映ったそうです。 そのため、多くの芸術家がオダリスクをテーマに作品を制作し、マティスもその一人としていくつもの作品を残しました。 浮世絵や錦絵の影響が見受けられる『トルコ椅子にもたれるオダリスク』とは 作品名:トルコ椅子にもたれるオダリスク 作者:アンリ・マティス 制作年:1928年 技法・材質:油彩・キャンバス 寸法:60.0×73.0cm 所蔵:パリ市立近代美術館 『トルコ椅子にもたれるオダリスク』は、マティスが浮世絵の影響を受け、はっきりとした輪郭線や平面的な構図を意識して描かれたオダリスク作品です。 ほかの芸術家たちが描いたオダリスクは、どれも妖艶で色気のある女性像が描かれていますが、マティスの描く『トルコ椅子にもたれるオダリスク』からは、妖艶さがあまり伝わりません。 平面的かつ鮮やかな色彩は、日本の浮世絵や錦絵からインスピレーションを受けていると考えられるでしょう。 第一次世界大戦後のヨーロッパとオダリスク オダリスクを多く描いていた南フランスのニースでの活動時代、マティスの作品は、伝統の復権を求めて高まる植民地主義を背景に、エキゾティックなスタイルが流行する第一次世界大戦後のフランス民衆から歓迎されました。 ヨーロッパの欲望を幻想としてオリエントに託し、ハーレムの女性を描いたオダリスクは、19世紀のオリエンタリズム絵画の主要なテーマとなりました。 https://daruma3.jp/kaiga/218 ルノワールに倣い舞台装置を活用してオダリスクを描く オダリスクを描き始めたマティスは、ルノワールに倣ってエキゾティックで豊かな模様の布でアトリエの一角を囲い、ある種の舞台装置を形作ってオダリスク作品を描くようになりました。 パリやアルジェリア、モロッコなどで手に入れた屏風や壁掛けなどを用いてアトリエに舞台装置を作り、ときにはモデルの衣装を手作りすることもあったそうです。 オリエント風の調度とともに、オリエントの衣装を着たモデルにポーズをとってもらい、描くようになっていきます。 マティスにとってオダリスクというテーマは、模様のある面と身体のボリュームを画面空間で降り合わせる造形的な課題を解消するとともに、性的な魅力をまとう女性モデルのスタイルを、人工的な舞台装置と衣装により、当時の文脈に沿った絵画のテーマとして描く方法でもあったといわれています。 フォーヴィスムをけん引し時代の流れにあわせてオダリスクを描いたマティス 今回紹介した『トルコ椅子にもたれるオダリスク』をはじめとしたマティスのオダリスク作品は、ほかの画家が描いたオダリスクとは異なる魅力をもっています。 ジャポニズムの影響を受けていたマティスが描くオダリスクは、平面的で色彩がはっきりとしている特徴があります。 自然をこよなく愛し、豊かな色彩表現が特徴のマティスが描くオダリスクは、ハーレムの妖艶さからはかけ離れており、マティスが追い求めていたピュアな世界観を作り出しているのも魅力の一つです。 色彩を現実から解放した革命家マティスのオダリスク作品を通して、単純かつ鮮やかな色彩を楽しみましょう。
2024.11.25
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モネはなぜ睡蓮を描き続けたのか?
クロード・モネが描いた『睡蓮』とは 『睡蓮』シリーズは、クロード・モネが住むジヴェルニー邸宅の水の庭に生育していた睡蓮を描いた連作です。 1890年から晩年まで制作され続けた『睡蓮』シリーズの作品数は、約250枚にものぼります。 『睡蓮』の連作では、水面を取り巻く陽光の変化を捉えるとともに、大気の揺らぎを描いています。 描写には、実際の睡蓮と水面に映る睡蓮がいくつも重ねられた複雑な空間表現を用いているのが特徴です。 水面だけを切り取った構図は、画面の外側にも水面が広がっているような感覚を見る者に覚えさせ、無限の空間を表現しているのです。 同じ風景や同じ構図で描かれた『睡蓮』がいくつもありますが、すべて異なる印象をもっており、時間とともに変化する睡蓮の形や色彩、水面のきらめきなどを巧みに表現した『睡蓮』は、まさに光の画家と呼ばれるにふさわしい作品といえるでしょう。 『睡蓮』のモデルとなった場所 『睡蓮』シリーズのモデルとなっているのは、1890年にモネが購入したジヴェルニーの家の、「水の庭」です。 列車の車窓から見たジヴェルニーの景観の美しさに心を奪われたモネは、43歳でジヴェルニーに移り住むことを決意します。 ジヴェルニーの家と広大な土地を購入したモネは、果樹園の樹木を伐採し、四季折々の花咲く「花の庭」を作り、3年後には土地を買い足して「水の庭」を作りました。 「水の庭」には、もともとオモダカや睡蓮が自生しており、モネはそこに太鼓橋をかけたり、藤棚をのせたりとアレンジを加えていきました。 また、橋のたもとには菖蒲やかきつばたを植え、池のほとりには柳や竹林も作っています。 睡蓮の池には、フランス国内の白睡蓮や南米・エジプトから輸入した睡蓮も植えられており、白や黄色、青色、ピンクなどカラフルな花が咲き誇っています。 『睡蓮』は大きく3つの時代に分かれている モネが描いた約250枚の『睡蓮』には、大きく3つの時代に分けられます。 第1シリーズは1900年まで、第2シリーズは1903年以降に制作されたもの、そして晩年に描かれた大装飾画の3つです。 第1シリーズ 1900年までに描かれた第1シリーズでは、「水の庭」にかかる太鼓橋をメインに、睡蓮の池や枝垂れ柳とともに光の変化が描かれています。 風景を広く切り取って描くことの多いモネですが、第1シリーズでは睡蓮の花や葉っぱに着目した作品が多い傾向です。 第2シリーズ前期 第2シリーズの前期では、メインとしていた太鼓橋を描かず、水面に浮かぶ睡蓮や水面に映る空模様がメインとして描かれています。 第1シリーズでは、太鼓橋や植物に当たる光の角度や影の表現によって時間の流れを感じ取れましたが、第2シリーズでは水面に空を描くことで、時間の移り変わりをより鮮明に表現しました。 『睡蓮』を描き続けたモネでしたが、1909年から1912年の間は作品制作を中断していました。その大きな理由が白内障で、1908年ごろから目の不調を訴えていたモネは、1912年に白内障と診断されます。 一時は、絵具の色が判別できないほどでしたが、1913年に『睡蓮』の制作を再開しました。 しかし、白内障の影響もあり、これ以降の作品ではゴッホの画風を彷彿とさせる抽象的な表現が見受けられます。 最晩年の傑作『睡蓮』の大装飾画 大装飾画は、モネが最晩年に制作した最大17mにもなる大作です。 モネはもともと、19世紀末ごろから1つの部屋を睡蓮の巨大なキャンパスで埋め尽くす大装飾画を描こうと構想していました。 しかし、白内障による視力の低下や2番目の妻であるアリスと息子の死など、自身に次々と降りかかった不幸に絶望し、制作ができる状態にはありませんでした。 のちに手術により視力が回復し、心と体の健康を取り戻したモネは、残りの人生を大装飾画の制作に捧げようと決意し、制作を進めたのです。 『睡蓮』の大装飾画は、22枚のパネルで構成された8点の作品になっています。 作品をすべてつなげると、横幅はなんと91mにもなります。 『睡蓮』の大装飾画を仕上げたとき、モネは80歳になっており、晩年の大傑作といえるでしょう。 モネが『睡蓮』の連作を描き続けた理由 モネが『睡蓮』を描いていた時代は、フランスで園芸が流行しており、園芸誌も多く発行されていました。 モネは画家でしたが、植物を育てることもライフワークにしており、ジヴェルニーに引っ越してからはさらに園芸が本格化していきました。 最初は、睡蓮を植えたら面白いのではと軽い興味で育てていたため、初期の庭の絵には睡蓮が描かれていません。 その後、1899年の太鼓橋が描かれた『睡蓮の池』シリーズの構図がきっかけとなり、連作を描くようになったといわれています。 また、モネは、同じ構図で同じ風景を異なる時間帯で描くことで、移りゆくときの流れや天気・気温の一瞬の変化をキャンパスに収めることを目指していました。 展覧会で連作を並べることで、鑑賞者や購入者がわずかな構図の違いや光の差し具合、天気の変化などを見極めて、気に入った1枚を見つけるという自発的な鑑賞を勧め、購入意欲を高めさせる狙いもありました。 『睡蓮』は日本の浮世絵の影響を受けている? 最初のころの『睡蓮』シリーズには、太鼓橋や柳など日本を想起させるようなモチーフや風景が多く描かれています。 これは、モネが『睡蓮』のモデルとなる「水の庭」を作る際、日本美術に大きな影響を受けていたためと考えられます。 19世紀後半のパリは、万国博覧会が開催された影響もあり、ジャポニスムが大流行していました。 また、日本が江戸時代に鎖国を解き、開国したこともあり、フランスには日本の浮世絵や工芸品など、日本の美術が大量に輸入されていたのです。 今までの西洋美術にはない特徴をもつ日本の美術は、新鮮な目で見られ、多くの画家の心を惹きつけました。 特に、浮世絵の大胆な構図や鮮やかな色彩表現は、モネだけではなくゴッホやドガ、マネなど多くの芸術家に影響を与えました。 西洋の画家たちは、日本美術特有の構図や色彩表現を取り入れることで、さらに革新的な絵画を生み出していったのです。 モネも、日本美術に魅せられた画家の一人で、日本人の自然観を反映した庭園を自宅に作りました。 そのため「水の庭」には、日本の庭園を思わせるような太鼓橋や藤棚などが作られており、初期の『睡蓮』には、日本の風景を思わせる作品が多かったと考えられるでしょう。 日本風の太鼓橋は、浮世絵師である歌川広重の『名所江戸百景 亀戸天神境内』に描かれている日本の橋と呼ばれる太鼓橋がモデルになっています。 モネにとって太鼓橋は、東洋美術と西洋美術が出会い、融合する象徴であり、自然と人工の調和を表現していたともいえるでしょう。 『睡蓮』シリーズに見られる柳のように枝が垂れている「枝垂れ」の構図は、それまでの西洋絵画では見られなかった構図で、モネが日本美術にどれほど影響を受けていたかがうかがえます。 浮世絵や日本画などの日本美術では、繊細な筆使いや微妙な色合いの変化なども特徴的です。 『睡蓮』シリーズでも日本画に見られるような独特のグラデーションが使われており、色使いが魅力の一つともいえます。 浮世絵の特徴である遠近を感じさせない平面的な表現も、モネは作品に取り入れています。 また、『睡蓮』シリーズでは、一般的な四角いキャンバスではなく、丸キャンバスに描かれた作品もあるのが特徴です。 日本の寺院や和室には丸窓があり、これは日本の詫び寂び文化を反映したものであるといえるでしょう。 四角いキャンバスは外に視点が広がっていく効果がありますが、トンド型形式と呼ばれる丸型のキャンバスは、鑑賞者の視線を中央に吸い寄せる効果があります。
2024.11.25
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見る者の心をざわつかせる、シュルレアリスムの絵画技法「デペイズマン」
芸術の世界には、私たちの日常的な認識を揺さぶり、新たな視点を提供する様々な表現技法が存在します。 その中でも特に印象的で、20世紀の美術に大きな影響を与えた手法の一つが「デペイズマン」です。 フランス語で「異なった環境に置くこと」を意味するこの技法は、シュルレアリスム運動の中核をなす表現方法として知られています。 デペイズマンとは、シュルレアリスムの手法の1つで、「異なった環境に置くこと」を意味するフランス語。 この記事では、見る者の心をざわつかせ、時に不安にさせる、デペイズマンの技法とその作品を紹介していきます。 「デペイズマン」とは何か デペイズマンは、シュルレアリスムの重要な表現手法の一つで、「異なった環境に置くこと」を意味するフランス語です。 この技法は、日常的な物事や概念を本来あるべき場所や文脈から切り離し、予想外の環境に配置することで、鑑賞者に強い衝撃や違和感を与えます。 アンドレ・ブルトンによって1920年代に提唱されたこの概念は、ジョルジョ・デ・キリコやルネ・マグリットなどの画家たちによって積極的に採用されました。 デペイズマンは、現実世界の論理を超越し、鑑賞者の想像力を刺激することで、新たな視点や解釈を促します。この手法は、20世紀美術に大きな影響を与え、後にポップアートなど、現代アートの様々な分野にも影響を及ぼしています。 デペイズマンの表現方法 デペイズマンは、絵画において様々な方法で表現されます。 場所のデペイズマン 物を本来あるはずのない場所に配置する表現方法。 例)『秘密の遊技者』ルネ・マグリット : 野球をする人々の上に黒いオサガメが浮かんでいる。 大きさのデペイズマン 対象を実際よりも極端に大きく、または小さく描く表現方法。 例)『盗聴の部屋I』ルネ・マグリット : 部屋いっぱいに巨大なリンゴが描かれている。 時間のデペイズマン 同一画面内で異なる時間帯を表現する表現方法。 例)『光の帝国』ルネ・マグリット 材質のデペイズマン 物の形は維持しつつ、素材を全く異質なものに置き換える表現方法。 例)『毛皮の朝食』メレット・オッペンハイム : コーヒーカップが毛皮で覆われている。 人体のデペイズマン 人体の一部を異質なもので表現する表現方法。 例)『共同発明』ルネ・マグリット : 上半身が魚、下半身が人間の生き物が描かれている。 デペイズマンの意義 デペイズマンは、ルネ・マグリットやジョルジョ・デ・キリコなどの著名なシュルレアリスト画家によって多用され、20世紀美術に大きな影響を与えました。 シュルレアリスムの核心的な概念である「夢と現実の矛盾した状態の肯定」を視覚的に表現する手法として、このデペイズマンは重要な役割を果たしました。この技法により、芸術家は現実世界の論理を超越し、鑑賞者の想像力を刺激し、新たな視点や解釈を促すことができます。 現代でもこの技法の影響は大きく、アート、広告、デザインなど、多くの創造的分野にも影響を及ぼし続けているといえるでしょう。 デペイズマンの技法を最初に取り入れた、ジョルジョ・デ・キリコ デペイズマンの技法を最初に用いた画家として、ジョルジョ・デ・キリコが挙げられます。デ・キリコは20世紀初頭に形而上絵画を創始し、その中でデペイズマンの手法を先駆的に使用したことで知られています。 その中でも、代表作『愛の歌』(1914年)は、デペイズマンの典型的な例として知られています。この作品では、ギリシア彫刻、ボール、ゴム手袋、汽車といった互いに関連性のない物体が、何の脈絡もなく並置されています。 デ・キリコのこうした表現は、後のシュルレアリスム運動に大きな影響を与えました。特に、サルバドール・ダリやルネ・マグリットといったシュルレアリスムの画家たちは、デ・キリコの作品から多くを学び、自らの作品にデペイズマンの技法を取り入れていきました。 デ・キリコは、日常的な物体を非日常的な文脈に配置することで、鑑賞者に強い違和感や不安感を与える手法を確立しました。 この手法は後に、アンドレ・ブルトンによって「デペイズマン」と名付けられ、シュルレアリスムの重要な表現技法として広く認知されるようになりました。 デペイズマンによって作者(画家)は何を伝えようとしている? デペイズマンは、作者が鑑賞者に対して以下のような意図を伝えようとする表現技法です。 その意図はさまざまですが、主に以下のようなものが考えられるでしょう。 現実の再解釈 デペイズマンを用いることで、作者は日常的な物事や概念を新たな文脈に置き換え、鑑賞者に現実を再解釈する機会を提供します。これにより、我々が当たり前と考えている現実の見方に疑問を投げかけ、新たな視点を提示しようとします。 想像力の刺激 意外な組み合わせや配置によって生み出される驚きや違和感は、鑑賞者の想像力を刺激します。作者は、この手法を通じて鑑賞者の創造的思考を促し、固定観念から解放された自由な発想を引き出そうとします。 無意識の探求 シュルレアリスムの核心的概念である「夢と現実の矛盾した状態の肯定」を視覚的に表現するデペイズマンは、無意識の世界を探求する手段となります。作者は、論理的思考では到達できない心の深層を表現し、鑑賞者にもその世界を体験させようとします。 社会に対する批評・批判 デペイズマンによって生み出される違和感は、しばしば社会批評の手段としても機能します。作者は、既存の社会構造や価値観に対する疑問を投げかけ、鑑賞者に批判的思考を促します。 美の新たな定義 シュルレアリスムに多大な影響を与えたとされるフランスの詩人・ロートレアモンの「解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい」という一節に象徴されるように、デペイズマンは美の新たな定義を提示します。 作者は、従来の美の概念を超えた、驚きや違和感から生まれる新しい美的体験を鑑賞者に提供しようとします。 このように、デペイズマンを通じて、作者はそれを見る者の認識を揺さぶり、新たな思考や感覚を呼び起こすことを目指しています。それは単なる視覚的驚きを超えて、私たちの現実認識や社会観、さらには美の概念そのものを再考させる強力な表現手段となっているのです。 現代のポップアートにも息づく、デペイズマン デペイズマンは、ポップアートに大きな影響を与えた技法の一つです。 繰り返しになりますが、シュルレアリスムの一部として発展したデペイズマンは、物体を通常の文脈から切り離し、新しい環境に置くことで生じる違和感を利用する手法。この考え方は、ポップアートにも取り入れられ、特に日常的なオブジェクトやイメージを新しい意味で提示することに大きく貢献したといっても過言ではありません。 デペイズマンがポップアートに与えた影響 異質な組み合わせ ポップアートでは、日常的な物体やイメージが異質な組み合わせで提示されることが多く、これにより新たな視点や意味が生まれます。デペイズマンの手法は、こうした異質な組み合わせを可能にしました。 日常と非日常の融合 ポップアートは、大衆文化や消費文化の要素を取り入れることで、日常と非日常を融合させます。デペイズマンの影響で、これらの要素が新しい文脈で再解釈されることが可能になりました。 アンディ・ウォーホルへの影響 デペイズマンの概念は、アンディ・ウォーホルの作品にも影響を与えました。ウォーホルは大量生産された商品や有名人のイメージを用い、それらを新しい文脈で再提示することで、新たな意味や価値を創出しました。 視覚的インパクトと批評性 デペイズマンによって生じる視覚的なインパクトは、ポップアートにおいても重要な要素となり、観客に強い印象を与えると同時に、社会や文化への批評的視点を提供しました。 私たちの心を揺さぶる作者からの問いかけ、デペイズマン デペイズマンが私たちの心をざわつかせる理由は、日常の中に潜む非日常を鮮やかに浮かび上がらせるからでしょう。見慣れた物事が思いもよらない文脈に置かれることで、私たちの固定観念が揺さぶられ、新たな視点や解釈が生まれます。この技法は、単なる驚きを超えて、私たちの現実認識そのものに疑問を投げかけています。 興味深いのは、20世紀に誕生したデペイズマンの影響が現代の身近なアートにも見られることです。 街中の広告、SNSで話題のビジュアルアート、あるいは日常的な空間デザインにも、この手法の痕跡を見出すことができるかもしれません。 デペイズマンは、私たちの日常に潜む「不思議」や「矛盾」を可視化し、想像力を刺激し続けています。 この技法を意識することで、周囲の世界をより創造的に、批判的に見る目が養われるのではないでしょうか。
2024.11.25
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モノクロの世界に魅了される版画集『聖アントワーヌの誘惑』
小説を題材に描かれた版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、オディロン・ルドンの代表作の一つでもあります。 モノクロの世界に魅了され、黒で彩った作品を多く制作していたルドンの世界観を存分に味わえる版画集ともいえるでしょう。 怪奇な作品を多く描いていた黒の時代に制作された『聖アントワーヌの誘惑』の特徴や魅力を知り、芸術家ルドンの本質に迫っていきましょう。 象徴主義を代表する画家オディロン・ルドンが描いた『聖アントワーヌの誘惑』 ルドンとは、19世紀末にフランスで活躍した画家で、木炭画やリトグラフ作品を多く制作しています。 無意識下の世界を投影した独特な世界観が多くの人の心を惹きつけています。 版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、ギュスターヴ・フロベールが1874年に書いた小説『聖アントワーヌの誘惑』に着想を得て描かれた代表作で、物語のイメージを超えて、ルドンのもつ幻想的で独創的な世界観が広がっている作品です。 ルドンの代表的な版画集『聖アントワーヌの誘惑』とは 作品名:聖アントワーヌの誘惑 作者:オディロン・ルドン 制作年:1888年 技法・材質: 寸法:22.5×20.0cm 所蔵: 国立西洋美術館 ルドンは、フロベールの書いた『聖アントワーヌの誘惑』を題材に、表紙を含む42点のリトグラフを制作しました。 ルドンがノワールと呼ぶ黒を用いて、まるで幻覚を見ているかのような魔的な世界観を表現しています。 黒は、ルドンがあらゆる色彩のなかで最も本質的な色とするカラーで、この黒で統一されている点が『聖アントワーヌの誘惑』の特徴の一つです。 1888年に、全11点の第一集が制作され、1889年には全7点の第二集、1896年には全24点の第三集、1933年には全22点の別バージョンの第三集が制作されました。 着想を得た小説『聖アントワーヌの誘惑』とは 小説『聖アントワーヌの誘惑』は、フロベールが着想から30年近い歳月をかけて1874年に刊行されました。 モチーフとなっているのは、紀元3世紀の聖者アントワーヌで、テーベの山頂で一夜にして古今東西のさまざまな宗教や神話の神々や魑魅魍魎の幻覚を経験し、その後、生命の始原を垣間見、朝日が昇り始めるなかキリストの顔を見出すまでを絵巻物のように綴っていく作品です。 ルドンの世界観が広がる『聖アントワーヌの誘惑』 『聖アントワーヌの誘惑』では、源泉を特定できないさまざまな図像や特異的な要素が唐突に描かれており、第1集から第3集に進むにつれて、その特徴が増していきます。 ルドンは、批評家エミール・エヌカンに勧められ小説『聖アントワーヌの誘惑』を読み、5年以上経過してから再びユイスマンスに勧められ、版画集のコンセプトを考えるようになりました。 そうして描かれた『聖アントワーヌの誘惑』ですが、小説の内容を逸脱した大胆な翻案も多く、ルドンは小説『聖アントワーヌの誘惑』を利用して自分が偏愛しているいくつかのモチーフを自由に展開したといえます。 死神と淫欲がアントワーヌを翻弄しようと競い合うシーンは、第1集ではバラの冠をのせた大きな蛆虫のような死神が、第2集では死神に代わり若い裸の女の姿をした淫欲が、それぞれ下半身がとぐろを巻いた姿で描かれています。 第3集では、骸骨となった死神と若い裸の女の姿をした淫欲が並んで向かってくる様子が描かれているのが特徴的です。 死神と淫欲の下半身は強い光で覆われ消えており、2人の間から不完全な渦のような円が生まれ、死神と淫欲が実は一体であったことを表現しています。 自由な発想と創造を「ノワール(私の黒)」で表現した画家ルドン 今回ご紹介した版画集『聖アントワーヌの誘惑』をはじめとした数々の作品はどれも、ルドンの高い精神性と自由な想像に満ちたものばかりです。 ルドン自身も黒を「ノワール」と呼び、モノクロで描かれた木炭画やリトグラフは、当時の若い前衛的芸術家からも高い評価を受けていました。 あらゆる色の中で最も本質的な色とする黒で描かれた独創的な作品は、ルドンの内向性や孤独が表現されていたのかもしれません。 顕微鏡下に広がる不思議な世界や、版画家ブレダン、フロベールの怪奇な物語などさまざまな世界に触れ、ルドンは黒で彩られた独自の世界を描くようになっていったともいえるでしょう。
2024.09.10
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バンクシーの代表作、平和・希望・愛の象徴の象徴『風船と少女』に込められたメッセージ
日本でもほとんどの人がバンクシーの名を聞いたことがあったり、代表的な作品を目にしたことがあったりするのではないでしょうか。 バンクシーはそれほどまでに、現在名を広めているグラフィティアーティストの一人です。 資本主義社会や戦争など、現在の社会に対する強いメッセージを込めた作品を多く制作しており、『風船と少女』もその一つです。 社会を風刺する神出鬼没のグラフィティアーティスト・バンクシーが制作した『風船と少女』 バンクシーとは、イギリスを拠点に活動するグラフィティアーティストで、彼についての情報はほとんど明らかになっていません。 正体不明・神出鬼没と謎めいた人物で、街中にメッセージ性の強いグラフィティアートを描き、話題を集めていきました。 今回取り上げる『風船と少女』は、バンクシーの代表作の一つで、サザビーズのシュレッダー事件でも知名度を大きく上げた作品。少女が赤い風船に向かって手を伸ばしている様子が描かれたこの作品は、イギリス国内で最も人気のある作品に選ばれています。 実は、作品は一つではない。『風船と少女』シリーズ 作品名:『風船と少女』 作者:バンクシー 制作年:作品によって異なる 技法・材質:作品によって異なる 寸法:作品によって異なる 所蔵: 作品によって異なる 最初の『風船と少女』は、2022年にロンドンのサウス・バンクにあるウォータールー橋へのぼる階段に描かれました。 ほかにも『風船と少女』は、ロンドンの各地の壁に描かれましたが、現在それらはすべて塗りつぶされており、残されていません。 壁面に描かれた当時、バンクシーは今ほどの知名度や人気を誇っていなかったため、単なる落書きとして市の職員によって塗りつぶされてしまったのです。 この作品は、突風が吹き、少女の手から赤い風船が離れていくようにも、少女が赤い風船をつかもうとするようにも見え、捉え方によって意味合いが変わってくる点が魅力の一つといえます。 『風船と少女』には平和や希望を願う気持ちが込められている 少女が風船に手を伸ばしている様子を描いたこの作品は、ポップで明るく親しみやすさがあります。この作品を通じてバンクシーは、パレスチナやシリアなどで巻き起こる戦争に対する反対表明や、難民に寄り添う姿勢を発信してきました。 また、バンクシーは『風船と少女』をベースにさまざまなパターンの作品を制作しています。 パレスチナとイスラエルを隔てている分離壁に描かれた『Balloon Debate』は、2005年に制作されたもので、少女が複数の風船をつかみ壁の上に昇っていく様子が表現されています。 バンクシーは作品とともに、分離壁は、国際法上では違法であり、パレスチナを世界一大きな刑務所に変えてしまったとメッセージを送り、分離壁の設置に批判の姿勢をみせました。 また、『風船と少女』の少女の風貌をシリア難民の少女に描き変えた作品も制作しています。 この作品は、SNSで「#withsyria」のハッシュタグとともに、シリア内戦の犠牲者への支援を募るキャンペーンにて拡散されました。 サザビーズのシュレッダー事件によってさらに話題を集めた『風船と少女』 平和を願うメッセージが込められた『風船と少女』の認知度をさらに高めたのが、2018年に世界を驚愕させたシュレッダー事件。 2018年10月5日のロンドン・サザビーズオークションに出品された『風船と少女』は、104万2000ポンドで落札されました。そして、落札終了を告げる木づちの音が鳴り響いた数秒後、『風船と少女』は額縁に下部に仕込まれていたシュレッダーによって裁断されてしまったのです。 裁断は途中でストップし、少女の頭部と赤い風船だけが切り刻まれずに残った状態となりました。 バンクシーが仕掛けたこの事件は、アートは一部の富裕層が所有したり、金融商品のように売買したりするものではないという、現在のアートシーンの在り方を痛烈に批判する意味合いがあったといえるでしょう。 バンクシーの作品には、現代社会に向けられたメッセージが込められている 今回ご紹介した『風船と少女』をはじめとしたバンクシー作品の多くには、政治的なメッセージ性が込められています。 『風船と少女』は、比較的明るくストレートな愛や平和を象徴する作品として知られていますが、なかには現在の資本主義や戦争を痛烈に批判する作品も多く制作しています。 芸術やアートに詳しくない人でも、バンクシーの名を知っている人は多いのではないでしょうか。 彼は、さまざまなパフォーマンスを通して認知度を上げ、数々の作品によって社会や政治に問題提起することで、多くの人の心を動かそうとしているともいえます。 ポップでユーモアがありながら、今の社会に対して物申すバンクシーの作品を通して、アートや社会について考えるのもよいでしょう。
2024.08.19
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あの有名なゴッホの『ひまわり』は実は7作品ある?!実は日本でも観賞できる世界的名作
『ひまわり』の絵は、誰もが一度はどこかで見たことがあるのではないでしょうか。 美術館だけではなく、教科書やポスターなどさまざまな場所に掲載されているため、描いた人物を知らなくても絵だけは見たことがある人も多いでしょう。この『ひまわり』を描いたのは、ポスト印象派の画家として知られているフィンセント・ファン・ゴッホ。ゴッホの『ひまわり』はあまりに有名な絵画の1つですが、実は7作品もあることを知らない人も多いのでは? この記事では、そんな『ひまわり』について掘り下げてご紹介していきます。 ゴッホが描いた『ひまわり』は7つある? ゴッホが描いた花瓶に活けられたひまわりの絵画は、実は一つだけではありません。 『ひまわり』シリーズは7つ制作されており、現代においてアルルのひまわりと呼ばれています。このシリーズは、1888年に制作され、ゴッホがアルルに構えたアトリエ「黄色い家」に飾るために描かれたといわれています。 ゴッホは、弟のテオに宛てた手紙に、ゴーギャンとともに制作活動に打ち込むアルルのアトリエにひまわりの絵を飾ろうと思っていることを記していました。 これまでの作品と比べるとサイズの大きなキャンバスに描かれており、花瓶から溢れんばかりに咲き誇るひまわりは、ゴッホが南フランスの地で見つけたアルルという太陽の輝きを表現しているようでした。 1枚目:明るい色彩が特徴のひまわり 1枚目に描かれた『ひまわり』は、背景が鮮やかなターコイズブルーで、花自体も明るい黄色で描かれており、明るく生き生きとした印象のある作品です。 ゴーギャンと共同生活を送った黄色い家の壁も水色であり、どちらもゴッホのわくわくした気持ちを表現しているかのように感じられます。 また、ひまわりの鮮やかな黄色にあわせて茶色の机が描かれており、ターコイズブルーのさわやかな背景や花瓶の鮮やかな黄緑色、ひまわりの生き生きとした黄色などの色彩が引き立っています。 2枚目:戦火により焼失してしまったひまわり 2枚目の『ひまわり』は、1919年に日本人実業家の山本顧彌太が7万フラン(現在の価格では約2億円)の高値で購入した作品です。 山本は、白樺派と呼ばれる文学グループのパトロンをしており、白樺派美術館を建設するために購入したといわれています。 購入後は、日本国内の展覧会で何度も展示が行われました。 しかし、白樺派美術館の話は頓挫してしまい、『ひまわり』は購入者である山本の住む神戸の邸宅に飾られていましたが、1945年の第二次世界大戦の米軍空襲によって焼失してしまったのです。 当時、ほかにも飾られていた画家の作品は避難できましたが、『ひまわり』は壁に固定して飾ってあったために移動させられなかったといわれています。 3枚目:12本のひまわりが描かれている 12本のひまわりが描かれている3枚目は、多くの人がイメージしている『ひまわり』の作品ではないでしょうか。 ミュンヘン版ともいわれており、花の数が多く豪華な作品として知られています。 また、印象派から影響を受けていたゴッホは、筆のタッチを大胆に残すスタイルで絵画を描いており、この『ひまわり』からは、そのスタイルがより顕著にみられるのも特徴です。 1枚目の『ひまわり』では、机を現実の木材の色に寄せて茶色で描いていましたが、3枚目では、机と花びらがよく似た黄色で描かれています。 花と机の色を同系色でまとめることで、種部分の深い赤茶色の色彩がより引き立っています。 4枚目:ゴーギャンが絶賛したひまわり 4枚目の『ひまわり』は、ロンドン版とも呼ばれており、世界中で最も有名な作品といわれています。 短いながらもゴッホと共同生活を送ったポスト印象派画家のゴーギャンも、この4枚目の『ひまわり』を絶賛しました。 3枚目と同じように同系色でまとめられており、より繊細な色彩の使い方や絵の具の塗り方により厚みや遠近感を表現し、ひまわりの存在感が増している作品です。 完成度の高さから、現代でも最も質の高い作品と評価されています。 教科書やポスターなどで使われているゴッホの『ひまわり』のほとんどは、この4枚目の作品ではないでしょうか。 本来、ゴッホは12枚のひまわりの絵を制作する予定でしたが、4枚目を描いていることに花が咲く時期がすぎてしまい、実際のひまわりを見て描いたのは4枚目までで、それ以降の3作品は自分が描いた絵画を模写したといわれています。 5枚目:ゴッホ自身が複製模写したひまわり 5枚目の『ひまわり』は、4枚目の作品を自ら複製模写して描かれたといわれています。 ミュンヘン版とも呼ばれており、1本1本の花の形や配置を比べてみるとほとんど同じであるとわかるでしょう。 しかし、色合いに若干の違いがみられ、種や花瓶の輪郭線の色がより鮮やかな赤色で描かれており、マイナーチェンジしていることがうかがえます。 模写してまで『ひまわり』をいくつも制作していたのは、ゴーギャンと共同生活を送るアルルの黄色い家の壁を飾りたい一心であったといえるでしょう。 6枚目:耳きり事件後に描かれたひまわり 6枚目の『ひまわり』は、アムステルダム版とも呼ばれており、ロンドン版の模写であるこの作品は、背景やひまわりの種部分がより鮮やかになっているとわかります。 6枚目は、ゴッホが自らの耳を切断した「耳切り事件」の後、病院を退院してから描かれたといわれています。 7枚目:日本に所蔵されているひまわり 7枚目の『ひまわり』は、1987年、53億という高額で日本の生命保険会社が購入し、現在は、SOMPO美術館に所蔵・展示されています。 『ひまわり』を展示するようになったSOMPO美術館の年間入場者数は、前年の8倍ほどにまで伸び、日本人のゴッホブームの火付け役となったといわれています。 ゴッホの描く作品は、深い知識に基づいて鑑賞しながら作品の意味を追求するという楽しみ方だけではなく、単にキャンバスに描かれているモチーフの魅力を味わえることも特徴の一つでした。 それゆえ、多くの人から人気を集めたといえるでしょう。 ゴッホはアルルの黄色い家を飾るためにひまわりを描いた ゴッホは、南フランスのアルルに移り住んだ後、周辺地域の明るい雰囲気を気に入り、『黄色い家』と呼ばれていた借家を共同のアトリエとして利用し、パリでともに作品を制作していた画家たちと制作活動を行おうと考えていました。 弟テオを通して、交流のあった何人かの画家に手紙を送りますが、なかなかアトリエで共同生活を送ってくれる人は現れず、結局返事をくれたのはゴーギャンだけでした。ゴッホは、思い込みの激しい性格をしており、さらにはストーカー気質があったともいわれており、多くの画家が一緒に生活することに対して尻込みしてしまったと考えられます。その中で、ゴーギャンは、ゴッホの弟テオから金銭的援助を含めて説得され、承諾してくれたのでした。 1888年、ゴッホはゴーギャンとともに黄色い家で共同生活をスタートさせます。 複数の『ひまわり』は、共同生活を送るゴーギャンを歓迎するために制作されたものでした。『ひまわり』をアトリエのインテリアとして利用しようと考えていたゴッホは、複数のひまわり作品を制作します。ひまわりは、ユートピアの象徴であり、共同生活への希望を胸に描き始められたと考えられます。しかし、ゴーギャンとは方向性の違いにより喧嘩を繰り返し、ついに2か月ほどで憧れだった共同生活は終了してしまうのでした。 なお、アルルでの共同生活は、日本に対する間違ったイメージにより構想が練られました。ゴッホは、浮世絵の印象から日本は光があふれている南国であると思い込み、日本の画家たちは、共同生活を送ってお互いに絵を贈りあっていると勘違いをしたのです。 このイメージを胸に、ゴッホは南フランスのアルルに出向き、ゴッホが思い描く日本の画家たちのように共同生活を送れるアトリエを構えたのでした。 パリ時代に描いた『ひまわり』もある ゴッホの『ひまわり』というと花瓶に入った構図が特徴的ですが、パリに住んでいた1886年から1887年の間に描かれたひまわりもあります。 アルル時代に描かれた『ひまわり』とは異なり、地面の上に寂しげに置かれている様子を描いているのが特徴的です。また、ゴッホはこれ以前にも、ほかの花と一緒に静物画の中にひまわりを描いています。 パリのひまわりの存在は、1889年のゴーギャンとの手紙のやり取りによって発覚し、それまでは存在を知られていませんでした。 パリの『ひまわり』は、キャンバスの中に花弁がしっかり収まる構図で描かれており、色彩は全体的に暗く、初期のゴッホ作品に多く見られる重々しい雰囲気が伝わってくるようです。 パリ時代のひまわりは、習作として制作されたものであり、観察をきっちり行いモチーフに忠実に描かれているのが特徴です。
2024.08.17
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