小説を題材に描かれた版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、オディロン・ルドンの代表作の一つでもあります。
モノクロの世界に魅了され、黒で彩った作品を多く制作していたルドンの世界観を存分に味わえる版画集ともいえるでしょう。
怪奇な作品を多く描いていた黒の時代に制作された『聖アントワーヌの誘惑』の特徴や魅力を知り、芸術家ルドンの本質に迫っていきましょう。
目次
象徴主義を代表する画家オディロン・ルドンが描いた『聖アントワーヌの誘惑』
ルドンとは、19世紀末にフランスで活躍した画家で、木炭画やリトグラフ作品を多く制作しています。
無意識下の世界を投影した独特な世界観が多くの人の心を惹きつけています。
版画集『聖アントワーヌの誘惑』は、ギュスターヴ・フロベールが1874年に書いた小説『聖アントワーヌの誘惑』に着想を得て描かれた代表作で、物語のイメージを超えて、ルドンのもつ幻想的で独創的な世界観が広がっている作品です。
ルドンの代表的な版画集『聖アントワーヌの誘惑』とは
作品名:聖アントワーヌの誘惑
作者:オディロン・ルドン
制作年:1888年
技法・材質:
寸法:22.5×20.0cm
所蔵: 国立西洋美術館
ルドンは、フロベールの書いた『聖アントワーヌの誘惑』を題材に、表紙を含む42点のリトグラフを制作しました。
ルドンがノワールと呼ぶ黒を用いて、まるで幻覚を見ているかのような魔的な世界観を表現しています。
黒は、ルドンがあらゆる色彩のなかで最も本質的な色とするカラーで、この黒で統一されている点が『聖アントワーヌの誘惑』の特徴の一つです。
1888年に、全11点の第一集が制作され、1889年には全7点の第二集、1896年には全24点の第三集、1933年には全22点の別バージョンの第三集が制作されました。
着想を得た小説『聖アントワーヌの誘惑』とは
小説『聖アントワーヌの誘惑』は、フロベールが着想から30年近い歳月をかけて1874年に刊行されました。
モチーフとなっているのは、紀元3世紀の聖者アントワーヌで、テーベの山頂で一夜にして古今東西のさまざまな宗教や神話の神々や魑魅魍魎の幻覚を経験し、その後、生命の始原を垣間見、朝日が昇り始めるなかキリストの顔を見出すまでを絵巻物のように綴っていく作品です。
ルドンの世界観が広がる『聖アントワーヌの誘惑』
『聖アントワーヌの誘惑』では、源泉を特定できないさまざまな図像や特異的な要素が唐突に描かれており、第1集から第3集に進むにつれて、その特徴が増していきます。
ルドンは、批評家エミール・エヌカンに勧められ小説『聖アントワーヌの誘惑』を読み、5年以上経過してから再びユイスマンスに勧められ、版画集のコンセプトを考えるようになりました。
そうして描かれた『聖アントワーヌの誘惑』ですが、小説の内容を逸脱した大胆な翻案も多く、ルドンは小説『聖アントワーヌの誘惑』を利用して自分が偏愛しているいくつかのモチーフを自由に展開したといえます。
死神と淫欲がアントワーヌを翻弄しようと競い合うシーンは、第1集ではバラの冠をのせた大きな蛆虫のような死神が、第2集では死神に代わり若い裸の女の姿をした淫欲が、それぞれ下半身がとぐろを巻いた姿で描かれています。
第3集では、骸骨となった死神と若い裸の女の姿をした淫欲が並んで向かってくる様子が描かれているのが特徴的です。
死神と淫欲の下半身は強い光で覆われ消えており、2人の間から不完全な渦のような円が生まれ、死神と淫欲が実は一体であったことを表現しています。
自由な発想と創造を「ノワール(私の黒)」で表現した画家ルドン
今回ご紹介した版画集『聖アントワーヌの誘惑』をはじめとした数々の作品はどれも、ルドンの高い精神性と自由な想像に満ちたものばかりです。
ルドン自身も黒を「ノワール」と呼び、モノクロで描かれた木炭画やリトグラフは、当時の若い前衛的芸術家からも高い評価を受けていました。
あらゆる色の中で最も本質的な色とする黒で描かれた独創的な作品は、ルドンの内向性や孤独が表現されていたのかもしれません。
顕微鏡下に広がる不思議な世界や、版画家ブレダン、フロベールの怪奇な物語などさまざまな世界に触れ、ルドンは黒で彩られた独自の世界を描くようになっていったともいえるでしょう。