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オディロン・ルドン(1840年-1916年)画家[フランス]

象徴主義絵画をけん引した「オディロン・ルドン」とは

オディロン・ルドン

生没年:1840年-1916年

 

オディロン・ルドンは、フランスの象徴主義を代表する画家で、モノクロの作品が多かったことから「黒の画家」とも呼ばれていました。

ルドンの作品は、1884年にジョリス=カルル・ユイスマンスが書いた小説『さかしま』で取り上げられたことで注目を集めるようになっていきました。

 

15歳ごろから本格的に素描を学ぶ

ルドンは、南フランスのボルドーの街で、裕福な家庭に生まれました。

身体が弱かったルドンは、その後ボルドーから30kmほど離れた田舎町ペイル=ルバードへ里子に出され育ちます。

幼いころから素描を描き始めており、10歳のときには学校で素描の賞をもらっています。

15歳のとき、地元の水彩画家であるスタニスラス・ゴランから本格的に素描を学び始めました。

 

絵を描くことが好きだったルドンですが、父は画家に反対し建築家になることを勧めていたため、建築家を目指すことに。

1862年、22歳の秋、ルドンはフランスの美術学校であるエコール・デ・ボザールの試験を受けますが、不合格となり建築家への道をあきらめます。

再び画家を目指し始めたルドンは、1864年に新古典派の画家ジャン=レオン・ジェロームのもとで絵を学びますが、アカデミックな教育があわず翌年に帰郷しました。

終戦後はパリで芸術活動を開始する

故郷のボルドーに帰ってからのルドンは、彫刻制作を始めるとともに、フランスの版画家ロドルフ・ブレダンのもとで版画やエッチングを学びました。このころから「黒」のカラーがもつ無限の可能性に着目し、自身の木炭画や版画を「ノワール(私の黒)」と呼び、黒を用いた独創的な作品を描くようになっていきました。

 

普仏戦争が勃発してからは、芸術活動を一時中断し従軍しますが、1871年末に病気のため戦線離脱。終戦後は、素描家を目指し再びパリに移住し、芸術活動を再開させます。移住当時は、木炭を使った素描をメインに活動を進めていましたが、サロンでリトグラフの技法を学び、木炭画とリトグラフを主軸として芸術活動を進めていきました。

 

1879年、初の石版画集『夢の中で』を刊行。

発行部数は25部と少ないものですが、職業画家としての記念すべき第一歩の作品といえるでしょう。

その後、ルドンは石版画集や単独絵画作品を数多く手がけ、グラフィック画家として活躍の場を広げていきました。

象徴主義の画家として注目を集める

1890年代、ルドンはノワールではなく、パステル画や油彩画を好んで描くようになりました。

1894年、老舗のデュラン・リュエル画廊にて大規模な個展を開催し見事成功をおさめ、象徴主義の画家としての地位を確立させていきました。

1899年、同画廊にてナビ派やシニャックを含む若い画家たちが、尊敬の意を込めてルドンを迎え、グループ展を開催し、ルドンはナビ派として紹介されます。

当時、象徴主義が注目を集めていたことから、ルドンの作品は多くの若手画家たちの心を打ち、新しい絵画の先駆者として認識されるようになっていったのです。

ルドンは、若手画家たちと交流を深めていくようになり、その影響から絵画作品だけではなく室内装飾も手がけるようになりました。

装飾絵画から抽象絵画へ変化する

1899年、ルドンはロベール・ド・ドムシー男爵から、ブルゴーニュのセルミゼルにあるドムシー・シュール・レ・ヴォルト城のダイニングルームに飾るための装飾絵画の制作を依頼されました。

この装飾絵画17枚が、ルドンが制作した作品の中でも最も先鋭的といわれるものとなり、ルドンの作品が装飾絵画から抽象絵画へ移行するターニングポイントになりました。

また、ルドンはドムシー男爵に依頼され、夫人と娘のジャンヌの肖像画も描いています。

 

ルドンの芸術活動の特徴

ルドンは、夢や無意識下の幻想的で不思議な世界観をもった作品を多く制作しました。

幻想的でファンタジー性のある作品たちは、ルドンの死後、シュルレアリスムの先駆けとも評価されています。

多彩な画法を使い分けていた

ルドンといえば、モノクロで描かれた木炭画を想像する人が多いのではないでしょうか。
しかし、得意としていた木炭画以外にも、パステル画や油彩画などへ表現方法を広げ、多彩な作品を制作しています。作品の色合いも、モノクロから色彩豊かなものに移り変わっていきました。

仏教やヒンドゥー教にも関心があった

ルドンは、仏教やヒンドゥー教をはじめとしたさまざまな宗教にも関心をもっていたといわれており、それらの世界観を融合させた作品も多く制作しています。ルドン作品の幻想性や神秘的な世界観は、宗教の思想が影響しているとも考えられるでしょう。

ルドンは、若いころから植物学者であるアルマン・クラヴォーから読書の手ほどきを受けており、アルマンはルドンの精神的指導者でもありました。
アルマンから文学をはじめとし、最先端の科学や世界の多種多様な思想などを教わったことがきっかけで、東洋の思想にも強い興味を抱いたと考えられます。
20世紀はじめごろの10年間では、さまざまな宗教絵画が一つの作品に混ざりあった神秘的な作品を描いています。
代表的な作品には、『釈迦の死』、『釈迦』などがあり、東洋の宗教に強い影響を受けていることがわかりますね。

幻想的な世界観

ルドンが描く作品の大きな特徴は、無意識下を投影した幻想的な世界観をもっている点です。
当時、心理学者フロイトが唱えていた無意識の存在が世の中に広まっており、精神世界を投影したルドンの不思議な世界観の作品は、広く受け入れられたのです。
また、ルドンの画風は、19世紀後半のパリで巻き起こっていた反物質主義的な運動に後押しされ、写実主義や印象派へのアンチテーゼとしての評価も受けています。

退廃的な雰囲気

ルドンが制作した作品には、退廃的で暗い印象を受けるものも多くあります。その中でもとくに、モノクロのリトグラフ作品では、不安や絶望を思わせる印象の作品が多く残されています。

しかし、モチーフの表情をよく見てみると、どこか愛嬌のあるキャラクターに見えることも。

不穏な空気感を抱かせながらも、どこか人間としての温かみも感じられる不思議な世界観が、多くの人の心を惹きつけているのでしょう。

目と花をよく描いていた

ルドンは、目と花に着目した作品をよく描いていました。
目に重きをおいた代表作の一つに『キュクロプス』があります。
キュクロプスとは、ギリシャ神話において卓越した鍛冶技術をもつ隻眼巨人として登場する下級神。凶暴で人を食らう恐ろしい人物像で知られていますが、ルドンが描くキュクロプスは、どこか寂しげな表情に見えます。
まるで、ルドン自身の内向的な性格をキュクロプスに反映しているかのようにも感じられるでしょう。
ルドンがよく花の絵を描いていたのは、若いころに植物学者アルマンのもとで学んでいたことがきっかけで、よく植物観察をしていたためともいわれています。

 

息子の死と誕生により作品に変化が

ルドンは、若いころからモノクロのリトグラフや鉛筆画を多く制作していました。
しかし、49歳で次男のアリが誕生したころから、カラフルな作品も増えていったといわれています。
ルドンは、長男を半年で亡くしており、アリの誕生は大変喜ばしいことであったと考えられるでしょう。
アリの成長がルドンの生きがいになり、人生にも彩が生まれ、そのような色彩豊かな作品が増えていったのではと想像させてくれます。
しかし、アリも第一次世界大戦で生死不明となってしまい、76歳だったルドンはアリの行方を探すために各地を訪ねて回りました。
ルドンは、アリを探して回るなかで、風邪をこじらせ1916年にパリの自宅でその生涯に幕を閉じました。
ルドンが描いた色鮮やかな世界観は、息子アリをきっかけに始まり、終わったといえるでしょう。

 

[年表]オディロン・ルドン

西暦 満年齢 できごと
1840 0 420日、フランスのボルドーで生まれる。本名はベルトラン=ジャン・ルドン。
1851 11 ボルドー近郊の町ペイル=ルバードで、少年期を過ごす。
1860 20 植物学者アルマン・クラヴォーと知り合い、顕微鏡下の世界に影響を受ける。
1864 24 パリでジャン=レオン・ジェロームに入門するも、数か月で辞め、ボルドーに戻る。
1870 30 普仏戦争に従軍。
1872 32 パリに定住。
1879 39 初の石版画集『夢の中で』を刊行。植物学者アルマン・クラヴォーに捧げる。
1880 40 クレオールの女性、カミーユ・ファルテと結婚。
1882 42 新聞社ル・ゴーロワで木炭画と版画の個展を開催。石版画集『エドガー・ポーに』を刊行。
1886 46 長男ジャンが誕生するが、半年後に夭折。
1889 49 次男アリが誕生し、画風が明るい色彩を使うスタイルに変わる。
1904 64 レジオンドヌール勲章を受章。
1913 73 アーモリーショーにて1室を与えられ展示を行う。
1916 76 76日、パリの自宅で死去。直前に消息不明だった次男アリの捜索に奔走していた。
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