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彫刻界の重鎮と呼ばれた「高村光雲」とは
生没年:1852年-1934年
高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家で、明治から大正にかけて活躍した人物です。
仏像や動物をモチーフにした作品を多く残しており、代表作には、上野公園の『西郷隆盛像』や皇居の『楠公像』などがあり、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。
息子の高村光太郎は、詩人であり彫刻家としても活躍した人物です。
12歳で仏師・高村東雲に弟子入り
光雲は、江戸・下谷源空寺門前の長屋にて生まれ、本名を中島幸吉といいます。
父の兼松は、自身が幼いころ家庭の事情で手に職を付けられなかった経験から、息子には何か手に職を付けさせてやりたいと考えていました。
幼いころからノコギリやのみで木片を切ったり削ったりしている光雲の姿をみて、大工をしている親戚の家に奉公に出そうと考えます。
光雲が12歳になり、いざ奉公に出る日の前日、髪を整えるために訪れた床屋で大きな転機がまっていました。
光雲が大工に弟子入りすると床屋の主人に伝えると、彫刻師の高村東雲が一人弟子をとりたがっていることを伝えられます。
それを聞き、光雲は大工への弟子入りをやめ、東雲に弟子入りすることを決めたのでした。
光雲は、伝統ある仏像彫刻の技術を守り続けてきた東雲のもとで、彫刻に関する技術を熱心に学びます。
のちに、光雲は兵役を逃れるために、東雲の姉の養子となり、高村の名を継ぎました。
1874年、東雲からも認められるほどの腕前を身につけた光雲は、高村光雲と名乗り、1877年には第1回内国勧業博覧会にて東雲の代わりに『白衣観音』を出品しました。
この作品は、最高賞となる龍紋賞を受賞し、光雲の名は多くの人々に知れ渡っていきます。
師匠亡きあと独立するも苦境が待っていた
1879年、師匠である東雲が亡くなり、光雲は仏師・彫刻家として独立することになりました。
師の東雲が精力的に製作していた時代から、木彫りは徐々に衰退の道を辿っており、明治維新後は、さらに仏教を廃止する運動が高まっていったため、仕事は急速に減少していきました。
さらに、海外向けに輸出された象牙彫刻が流行となり、独立したばかりの光雲の生活は、次第に苦しくなっていったのです。
しかし、光雲は逆風に飲まれることなく積極的に西洋美術を学び、木彫りをさらに研究していきました。
西洋美術から写実的な表現方法を学んだ光雲は、木彫りにも応用して新しい技術を生み出し、木彫りの伝統を近代へとつなげる橋を架けました。
牙彫師・石川光明をきっかけに美術の世界へ
その後、光雲は洋傘の柄から貿易品の型彫りまで、木彫りの依頼は何でも引き受け、仕事を着実にこなしながら木彫りの技術を磨いていきました。
そのようなとき、転機となる彫刻作家、石川光明と出会います。
光明は光雲と同い年で、下谷稲荷町の宮彫師の家に誕生し、牙彫師・菊川正光に師事し牙彫を学んでいる人物です。
1881年には、第2回内国勧業博覧会に出品した『魚籃観音』が妙技二等賞を受賞し、超絶技巧といわれるほどの高い技術力によって活躍していました。
地元が同じかつ同い年であり、さらには似た経歴をもつ2人は、すぐに意気投合し、光明に誘われ、光雲も日本美術協会の会員となっています。
これがきっかけで、仏師職人の道を歩んできた光雲が、日本美術の世界に足を踏み入れていくのでした。
その後、光雲は日本美術協会役員の推薦により、光明とともに皇居造営における室内装飾を任され、日本の木彫りの第一人者として広く知れ渡りました。
東京美術学校の教授となり後進の育成に励む
光雲は、1889年に開校となった東京美術学校の教員に就任しました。
開校当初は、日本画科と彫刻科、工芸科の3つが設置され、光雲は校長の岡倉天心に誘われ、彫刻科の教員を務め、翌年には教授に就任しています。
同年、皇室が日本の美術や工芸を保護と奨励を目的として定めた帝室技芸員に、光明とともに任命されました。
その後は、明治のはじめごろから衰退の一途を辿っていた日本の木彫りを再興するために、精力的に製作活動をする一方、東京美術学校での指導や工房で多くの弟子をとるなど、後進の育成にも励みました。
高村光雲が手がける作品の特徴
高い技術力をもつ光雲は、伝統的な日本の木彫りに西洋の技術を融合させ、新たな作品を次々に生み出していきました。
伝統の木彫技術と西洋の写実性との融合
これまでの木彫りには、写実的な技術があまり用いられていませんでしたが、光雲は時代の移り変わりにあわせて積極的に西洋美術を学び、写実主義を取り入れた新たな木彫技術を生み出しました。
画家が写生するときのようにモチーフをよく観察し、見たままを写し取るのが特徴です。
写実性を重視していた光雲は、製作時に描いたスケッチが多く残されています。
今にも動き出しそうな細部へのこだわり
光雲の作品は、規模が大きく迫力のあるものも多くありますが、個人が所有する小・中サイズの仏像や動物をモデルにした作品も、多く製作しています。
小さな作品でも、口元の歯や目じりのシワなど細部に至るまで表現されており、衣は柔らかさをもった質感で再現されているのが魅力です。
動物をモデルにした作品では、皮膚の質感や毛の流れなども繊細に表現されており、今にも動き出しそうな躍動感が伝わってきます。
年表:高村光雲
西暦 | 満年齢 | できごと |
1852年3月8日 | 0歳 | 江戸下谷(現・台東区)で生まれる。 |
1863年 | 11歳 | 仏師・高村東雲の元に徒弟として入る。 |
1889年 | 37歳 | 東京美術学校に勤務開始、彫刻科教授に就任。 |
1890年 | 38歳 | 帝室技芸員に任命される。 |
1893年 | 41歳 | 『老猿』をシカゴ万博に出品。 |
1897年 | 45歳 | 『西郷隆盛像』が完成。 |
1900年 | 48歳 | 『山霊訶護』をパリ万博に出品。 |
1901年 | 49歳 | 正六位に叙される。 |
1903年 | 51歳 | 従五位に叙される。 |
1912年 | 60歳 | 正五位に叙される。 |
1922年 | 70歳 | 正四位に叙される。 |
1926年 | 74歳 | 東京美術学校を退職し、名誉教授となる。従三位に叙される。 |
1934年10月10日 | 82歳 | 死去。満82歳。 |