-
仙厓義梵(1750年‐1837年)禅僧・画家[日本]
かわいらしい画風で「仙厓ブーム」が起きるほど人気がある画家の仙厓義梵。 40歳後半からはじめたにもかかわらず、2000点以上の作品を残しています。 仙厓義梵とは 生没年:1750年‐1837年 仙厓義梵は、江戸時代の臨済宗古月派の禅僧で画家でもあります。 農民都井藤甚八の子として美濃国武儀郡で誕生。 11歳 のころに清泰寺において臨済宗古月派の法を嗣ぐ空印円虚について悟りを得て、臨済宗の僧となります。 19歳 で武蔵国久良岐郡永田の東輝庵に住する月船禅慧のもとで修行をはじめ、その後師から、その道に熟達した弟子に与える許可である印可を受けます。 月船が示寂した1781年、 仙厓が32歳 のときに同寺を出て行脚の旅にでるのです。 39歳 より博多にある聖福寺の盤谷紹適の教えを継ぎます。 住持を23年 務めて引退をし、遷化する88歳 まで、多くの洒脱、飄逸な禅画(絵画)を残しました。 40代後半から本格的に絵画を始める 仙厓が、本格的に絵を描き始めたのは、40代後半 になってからといわれています。 仙厓の禅画は生前から人気があり、一筆をねだる客が絶えなかったようです。 83歳 のときに、「絶筆の碑」を立てて断筆宣言しましたがやめられず、亡くなる間際まで絵を描いていました。 「仙厓ブーム」といわれるほど、昭和初期に仙厓の研究は熱心におこなわれました。 各地から多くの作品が発見されて、逸話や論説が乱立します。 生涯にわたって描き続けた「布袋様」 仙厓が生涯にわたって描き続けたテーマの一つに「布袋図」があります。 布袋とは、名は「契此」。 人々の喜捨ならばなんでも喜んでもらい受けて、余ったものは袋の中にしまい込む少し変わった行動で知られた人物です。 契此は、唐時代末から五代時代にかけて中国で実在した僧です。 施されたものをその場で平らげるのが一般的だが、契此は少しでも余りがあれば背負っている頭陀袋に入れて持ち帰ったといわれています。 印象的な布製の袋のイメージから「布袋」と呼ばれるようになったのです。 風変りな契此ですが、施しを受けるにあたっては、常に感謝の心を忘れない素直な気持ちの持ち主です。 優しい気持ちがいつの間にか人々を満ち足りた気持ちにさせてしまう不思議な力を持っていたともいわれています。 仙厓が描いた八通りの「布袋図」 仙厓が描いた『布袋図』は、数多くあり、以下の大きく8通りに分けられます。 ・片膝を立てて座り、くつろいだ姿の布袋 ・団扇を片手に踊るようなしぐさの布袋 ・頭陀袋を背負い歩く姿の布袋 ・頭陀袋を背負い、あるいは頭に担いで橋を渡る布袋 ・頭陀袋を降ろして休息をする布袋 ・両手を大きく上に伸ばしてあくびをする布袋 ・月を指す布袋 仙厓の布袋図は、作画スタイルや画風、賛文が時代や年代で変化があるのです。 同じ傾向の作画スタイルには、同じような賛文がともないます。 『布袋画賛』だけでも多くの種類があり、初期のころに描かれた作品は、表情のぎこちなさがあり、表現描写が十分でないとわかります。 まだ仙厓は水墨表現を学んでいる途中だったのでしょう。 『指月布袋画賛』は、穏やかな図ですが、教えの教養や笑いの強制が一切感じられません。 教導の自由さと表現の卓越性が合体した仙厓の代表作であり、制作年代も最晩年期であることがわかります。 賛文は自らの思いを詩文の形でまとめたものであるが、老境にいたって自由さが増していく仙厓。 仙厓の生き方が反映されているように読み取れるでしょう。 「布袋図」から見た仙厓の画風の変遷 仙厓の描写方法は、ときが経つにしたがって自由になっていきます。 布袋の姿も伝説の布袋らしい姿から脱皮し、朗らかで優しい、一見すると子ども落書きのようにも見える自由さを獲得していくのでしょう。 重い荷物を背負って踏ん張っていたり、慎重に橋を渡っていたりした布袋が、いつの間にか完全にその荷物を降ろして休息に入るようになります。 そしていつの間にか眠り込んでしまうのですが、夢の中でも衆生救済の思いをめぐらせるほど、仏の道を遇進しているのです。 あるとき布袋が大きなあくびをして目を覚まし、一言、これまでの自分の苦労は無駄であったと宣言し、今後一切このようなことはしないと宣言します。 同時に、布袋は年を取りすぎたと嘆いたのです。 今や七福神の福神として信抑されている神様である布袋を、仙厓はあえて年を取らせてしまうのです。 「布袋図」は仙厓の自画像のように変化し続けていったのでしょう。 仙厓義梵の代表作 仙厓は、生涯にわたって2,000点 にも及ぶ作品を残したといわれています。 禅画の枠を超えた「やわらかくて、かわいらしい」世界観で多くの人々を魅了し続けました。 『指月布袋画賛』 『指月布袋画賛』は、子どもたちと戯れる布袋様の心和む情景のような図です。 しかし、「月」を暗示する賛文「を月様幾ツ、十三七ツ」の存在により、禅の根本を説いた教訓「指月布袋」の図であることがわかります。 月は円満な悟りの境地を、示す指は経典を象徴しています。 しかし、月が指の遥か彼方の天空にあるように、「不立文字」を説く禅の悟りは経典学習では容易に到着できず、厳しい修行を通して習得するものであると説いているのです。 『座禅蛙画賛』 こちらを向いて、にやりと笑っている一匹の蛙の絵です。 坐禅をしているような姿勢で日々を過ごしている蛙を題材に、禅のなんたるかを説いています。 「坐戦そて人か佛になるならハ」の賛文のとおり、坐禅という修行の形式にばかりこだわり、求道の精神を見失っているようでは、悟りは一向に訪れないと説きます。 形式ばかりにとらわれていた当時の弟子に向け発せられた、仙厓のほほえましくも手厳しい警鐘です。 『〇△▢』 「〇」「△」「▢」の図形のみを描いたシンプルな絵です。 左端には、「扶桑最初禅窟(日本最古の禅寺)」聖福寺の仙厓を描いたとする落成款識のみしかありません。 画中のに作品解釈の手がかりとなる賛文がなく、仙厓禅画の中では最も難解な作品とされています。 「〇」が象徴する満月に円満な悟道の境地にいたる修行の階梯を図で示したとも、この世の存在すべてを3つ図形に代表させ、「大宇宙」を小さな紙に凝縮させたともいわれているのです。 『〇△▢』の解釈には、諸説があります。 『一円相画賛』 丸い円を描くことは円満な悟りの境地の表明であるとして、古来より禅僧の間で好んで描かれてきました。 しかし、「これを茶菓子だと思って食べよ」という賛文から、大切な円相図をたやすく捨て去ってしまおうとする仙厓の態度が読み取れます。 禅においては、常により高い悟りの境地を求め続けるべきとあり、画賛の完成は、さらに深い悟りの追及へのスタートでもあるのです。 『一円相画賛』は、禅僧・仙厓の真摯な求道精神を現しています。 『堪忍柳画賛』 『堪忍柳画賛』には、しなやかに枝を風になびかせる柳の大木を描き、その横に「堪忍」の大きな文字が隣に並んでいます。 吹き抜ける風の中には、耐え難い風もあるでしょう。 柳はどのような風もすんなり受け流してやり過ごします。 仙厓は、柳の姿にも人生の手本としての教訓を読み取り、我慢できないこともじっと耐え忍ぶことの肝要を説く図としてまとめあげました。 処世訓だけでなく、禅の修行にも重要な忍辱の教えに通じる仏教の根本の押絵でもあります。 『老人六歌仙画賛』 『老人六歌仙画賛』は、年を重ねると日ごろの立ち振る舞いの特徴や、口うるさい言動などが顕著になる老人たちを、「歌仙」に例えて詠んだ先人の歌を、仙厓流に再構成して賛にまとめています。 「老い」は仕方ないと諦めずに、輪廻の長い流れからするとほんの一時の辛抱でしかないと肯定的にとらえて、「老い」を謳歌することを提案した仙厓流の「老い」への指南書です。 描かれている老人たちは皆おおらかで、のびのびとしてほほえましい様子です。 『鶴亀図』 『鶴亀図』は、福岡県指定されている仙厓最大の描幅作品です。 気迫あふれる書は、「益子」「論語」「老子」「韓非子」といった中国の古典から引用されています。 また、「世間の書画は人に笑われることを嫌うが、ワシ仙厓の画は人に笑ってほしい」という言葉も書かれています。 亀は、「亀は死んで占いに使われるより、亀として生きたほうがよい。高い地位で束縛されるより、貧しくても自由なほうがよい」、鶴は「鶴の長い脚を切断し、カモの短い脚に継ぎ足せばいいと思うのは、人間の我が儘。鶴もカモも喜ばない。自然に手を加えてはならない」といった老荘思想が念頭にあったようです。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
伊東深水(1898年‐1972年 )画家[日本]
伊東深水は幼いころに、父親が娯楽に走り生活が困窮。 小学校を中退し就職します。 絵画に興味をもった深水は、清方に入門。 仕事をしながら、夜は学校に通い、深夜に絵を描く生活を送ります。 努力を惜しまなかった深水は、展覧会で数々の賞を受賞します。 伝統的な浮世絵を受け継ぎながら、朦朧体を美人画に応用。 数々の作品を描き、人気を集めました。 伊東深水とは 生没年:1898年‐1972年 本名は伊東一、大正昭和を代表とする画家です。 日本画家や版画家、浮世絵師として活動。 浮世絵師の一流派である歌川派の正統をついており、日本画特有の優しい表現の美人画が有名です。 本妻である好子をモデルに描いた数々の大作は、高く評価されています。 生活が困窮していた少年時代 深水は、苦しい子ども時代を過ごします。 1898 年に現在の東京都江東区で、誕生した深水。 深水の幼少期は家庭が裕福で、可愛がられて育てられます。 1905 年には、東川国民学校(現在:江東区立東川小学校)に入学し、後に洋画家となる関根正二に同級生として出会います。 ところが、小学校に入学したころから父親が道楽に走り失業してしまうのです。 一家離散するほど生活が困窮したため、深水は小学校3年生で中退します。 中退し就職した先が東京印刷株式会社の深川分工場です。 水彩画家である丸山晩霞を師匠にもつ吉川恭平と出会い、水彩画を習い始めます。 しかし、深水は、蒔田禾湖の『小春』に影響を受けて日本画に興味をもつようになりました。 そこで日本画家である山中秋湖に日本画を学びます。 1911 年に深水は、本社の図案部研究生となります。 明治から昭和にかけて活動していた日本画の鏑木清方に入門するため、図案部部長で清方の同門だった秋田桂太郎に紹介してもらうのです。 清方への入門は、師の温厚により月謝は免除され、夜学の実業補習学校に入学。 このとき深水は13歳でした。 日中は工場勤務、夜は学校、深夜に絵を描く生活を送ります。 師である清方の恩に報いるため、寝る間も惜しんで努力を続けた水深は、毎週日曜日に自分の作品を抱えて、清方の元へ通い続けます。 数々の展覧会で入賞 努力をし続けた深水は、清方入門の翌年の1912 年に成果が表れます。 第十二回巽画会展で初入選した作品が『のどか』です。 その翌年には、『無花果のかげ』が入賞します。 1914 年には、再興第1回院展で『桟敷の女』が入選し、9歳からお世話になった東京印刷を退社します。 その後も1915 年に開催された第9回文展で『十六の女』が初入賞してからは、毎年のように数々の展覧会で活躍をしました。 1916 年には、渡辺版画展から第1作『対鏡』を発表、東京日日新聞に挿絵を描くなど、仕事の幅を広げていきます。 3年後の1919 年に深水は、好子と結婚をして長男と次男をさずかります。 美人画への悪評・美人画狩り 1915 年から美人画の悪評や美人画狩りが始まります。 第9回文展で、美人画の入選が増えたことにより、南画、美人画、土佐絵などのジャンルに陳列室が別れて展示が開始されます。 美人画は第3室に集められ、深水の『十六の女』や池田輝方、伊藤小坡、増田垣富などの作品、65点 が展示されました。 しかし、美人画に対して「審査員の好色な美人画」「女の媚態を描いた低級な娯楽趣味」「官能的な俗画」などの悪評を浴びせられます。 翌年の1916 年に明確な美人画狩りが始まり、ことごとく美人画は落選していきました。 深水は自身の美人画を徹底的に批判されて、文展と院展には応募しなくなります。 朦朧体を美人画で表現 深水は、華やかな文展や院展などの出品を控えており、いつの間にか7年も経過していました。 しかし、臥薪嘗胆の努力をした7年間は深水にとって重要な時間となります。 当時、院展内で流行っていた線を描かない色彩画である「朦朧体」を習得し、朦朧体を美人画に応用します。 生命力ある「水深風美人画」 大震災後、新築の家の装飾に花鳥画が選ばれるほど、人気になります。 人物画家までもが花鳥画を描き始め、深水は危機感を覚えます。 人物画の振興を目指し1932 年に立ち上げた組織が「青々会」です。 深水は第1回展に『暮方』、第2回展に『宵』、第3回展に『麗日』と毎年傑作を発表しました。 時代は日中戦争から太平洋戦争へと変化します。 深水は、時代の流れが激しい中で生きる健康でエネルギーのある現実的な女性を、時代の証人として描きたかったのでしょう。 今までの美人画の特徴でもある麗しさではなく、自然であるにもかかわらず女性らしい美しさが深水の美人画では表現されています。 伊東深水の華やかで気品のある画風 深水は数々の美人画を世に生み出しましたが、本妻の好子をモデルとした作品『指』『湯気』は、特に注目されました。 『指』と『湯気』は朦朧体を美人画に応用した深水の作品です。 深水は、モデルに風通しのよい薄い織物である薄物をまとわせて、リアルな女性の色っぽい肉体美を表現しています。 『指』は、観客で人だかりできるほどの人気があり、飛ぶように絵葉書が売れたそうです。 1922 年に平和祈念東京博覧会で二等銀牌を受賞するほどの作品でしたが、清方には「気品がない」といわれてしまいます。 そこで描いたのが、『湯気』です。 湯上りの浴衣姿の女性が、浴衣の袖をくわえて手拭いを絞る様子が湯気とともに色っぽく描かれた美しい作品です。 浮世絵を受け継ぎながら、現代の風俗にも挑戦した水深は、多くの名作をこの世に残していきます。 日本美術の歴史に大きな功績を残した水深の作品は、現代でも多くのファンを魅了し続けています。 伊東深水の代表作 深水がこの世に残した作品は数多くあり、特に美人画を好んで描いていました。 深水の作品は、どれも人気があり、高く評価されています。 切手にもなって愛された作品に『吹雪』、『三千歳』などがあります。 『吹雪』 1947 年に描かれた『吹雪』は、深水が生涯を通して描いた「傘美人」の代表作です。 激しい吹雪の中、座敷へ急ぐ芸者の美しい姿が描かれています。 蛇の目傘や女性、粉雪が朦朧体で表現され、優しいタッチの中に女性の心の強さが感じられる素晴らしい美人画です。 『三千歳』 三千歳は、歌舞伎「天衣粉上野初花」の6幕目に登場するヒロインの遊女です。 罪人で終われる身となってしまった片岡直次郎が、病のために療養している恋人の三千歳もとへ別れを告げるため、訪ねに行く場面です。 切なげな表情で鏡の前に座り、直次郎を思い待ちわびている姿が描かれています。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
浦上玉堂(1745年-1820年)画家[日本]
浦上玉堂は、墨で描く山水画を好んで描いていました。 構図や筆法が豊富であったわけではありませんが、同じモチーフを繰り返し描き、水墨表現を少しずつ変化させています。 表現方法を試行錯誤する中で、中国文人画の本質に迫っていったといえるでしょう。 玉堂が亡くなったあと、京都嵯峨野の法輪寺境内に玉堂琴士之碑が建てられました。 川端康成が愛蔵している『東雲篩雪図』は、国宝にも指定されています。 エリート藩士で画家の「浦上玉堂」とは 生没年:1745年-1820年 浦上玉堂は、江戸時代後期に活躍した南画家です。 備中鴨方藩の武家の家系に生まれています。 早くに父が病死してしまったため、玉堂は7歳で家督を継ぎました。 仕官中に、何度も江戸を往来しており、琴や詩、絵を学んでいました。 藩士として務めを果たす中、50歳前後で官を辞し、脱藩しています。 異色の経歴を持つ浦上玉堂が描く作品は、繊細な筆使いが特徴的で、透明感のある彩色表現が目を引きます。 武士の家系に生まれ藩士となる 父が病死し、7歳で家督を継いだ浦上玉堂は、16歳で一つ年上の鴨方藩主池田政香に謁見する初御目見をし、江戸幕府の役職の一つである御側詰として、忠誠をつくしました。 政香と玉堂は、厚い信頼関係で結ばれており、周囲からは「水魚の交」と謳われるほどでした。 玉堂は政香に仕える中で、順調に昇進していきますが、政香は25歳という若さで病死してしまいます。 その後、玉堂は31歳で参勤交代の支度を任される御供頭として、37歳で大目附役になるなど、重職に昇進していきました。 芸術分野への興味を強く持っていた 浦上玉堂は、藩士としての務めを果たしながらも、芸術分野に強い興味を持っていたといわれています。 儒学や医学、薬学などの学術に励む一方で、詩作や音楽などの芸術分野にも関心を示していました。 中でも、七絃琴に力を入れており、演奏家としてだけではなく作曲家や琴を作る造琴家としても活躍しています。 また、35歳のときに中国明の七絃琴を江戸で手に入れた玉堂は、琴に刻まれていた琴銘「玉堂清韻」にちなみ、玉堂琴士と名乗るようになったといわれています。 2人の息子、春琴・秋琴の名からも、七絃琴に対する熱い想いが伝わってくるでしょう。 40代を過ぎてから画業に取り組む 浦上玉堂は、藩士として務めていたため、若いころから画業に専念していたわけではありませんでした。 30代のころは、参勤交代で江戸在勤中に谷文晁らと交流しており、中国画の模写を行い絵を学んだと考えられています。 本格的に画業に取り組み始めたのは40代を過ぎてからといわれています。 当時は、まだ自身の画風を確立していなかったこともあり、「気ままに描いているため画人と名乗るのは恥ずかしい」と語っているのです。 のちに、独自の絵の境地に達しますが、本人は職業として画人と呼ばれることを好まず、その姿勢を貫きました。 50歳にして脱藩を決意し画業に専念する 画業への取り組みを本格化していった浦上玉堂は、1794年に息子の春琴・秋琴を連れて岡山を発ちました。 そして、滞在先の但馬国城崎から藩に対して脱藩届を送りました。 玉堂は、50歳にして長年続けてきた藩士を辞める決意をしたのです。 武士としての地位や名誉、キャリア、故郷などを手放す脱藩は、玉堂にとって大きな決断だったことでしょう。 脱藩の明確な理由はわかっていませんが、主君の死により世に対する不満が生まれた、母や妻が亡くなり娘も嫁いだため面倒を見る人たちがいなくなった、幕府の学びの規制に対する反発などが挙げられます。 しかし、岡山は武士の脱藩に寛容な地域であったため、玉堂の行動により一族に処分が下されることはありませんでした。 浦上玉堂の2人の息子 浦上玉堂には、2人の息子がいます。 春琴・秋琴どちらも玉堂と同様に絵を制作していました。 浦上春琴 浦上春琴は、江戸時代後期に文人画家として活躍しました。 浦上玉堂の長男として備前岡山城下にて生まれました。 幼いころから詩画の才能を発揮しており、16歳で父の脱藩にあわせて岡山を発ち、その後は京都を拠点に活動しています。 春琴は、写生をベースにした山水画や花鳥画を好んで描いています。 洗練された気品のある画風は、関西でも人気を集めました。 晩年、父の玉堂とともに暮らし、頼山陽や田能村竹田、小石元瑞などの文人たちとも交流を図っています。 春琴は68歳で亡くなりましたが、生涯精力的に画筆を執り作品の制作をしていました。 浦上秋琴 浦上秋琴は、江戸時代後期に活躍した日本画家です。 浦上玉堂の次男として備前岡山城下に生まれ、父の脱藩に伴い、10歳で岡山を後にしています。 脱藩の翌年、玉堂が会津藩の招へいに応じて会津に向かったとき、秋琴もついていきました。 父が土津神社の神楽を再興した功績により、秋琴は11歳で会津藩士となったのです。 秋琴は、会津藩の中では詩画を嗜み、23歳になると雅楽方頭取となるなど、音楽面の活動を中心に行っていました。 70歳で官職を辞めた後は、会津戦争終戦を機に備前藩の兵士とともに岡山へ戻りました。 このとき、秋琴は85歳です。 その後も画筆を執り制作を続け、87歳で亡くなりました。 浦上玉堂の生き方に惹かれた芸術家たち 藩士として活躍し、大きな決断をして文人画家となった浦上玉堂の生き方は、多くの人の心を打ちました。 文人画家の田能村竹田や、日本を代表する小説家である川端康成、ドイツ人建築家のブルーノ・タウトなども玉堂から影響を受けた人物の1人です。 田能村竹田 文人画家であり文筆家の田能村竹田は、浦上玉堂と大阪の持明院で40日間同居をしていました。 田能村竹田は、当時最高作といわれた画論書『山中人饒舌』の中で、玉堂画を高く評価しており、玉堂を最もよく理解していた一人ともいえます。 また、玉堂の長男である春琴とも親しく交流をしていました。 川端康成 小説家の川端康成は、浦上玉堂の作品を近代的なさびしさの中に古代の静かさを感じられると表現しています。 亡霊のように生きている64歳のユトリロという言葉と写真を美術書で見かけたとき、康成は寒気を感じたといいます。 そして、とっさに玉堂の『東雲篩雪』という絵を心に浮かべたそうです。 ブルーノ・タウト ドイツ人建築家のブルーノ・タウトは、浦上玉堂のことをヴィンセント・ヴァン・ゴッホに匹敵すると述べています。 また、近代日本が生んだ最大の天才とも称しています。 自然をそのまま再現するのではなく、自然を自分の中に取り込み解釈し、自然の形態をもって表現していると評価しているのです。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
川合玉堂(1873年‐1957年)画家[日本]
川合玉堂は、日本画壇を盛り上げた日本画家の1人です。 玉堂が亡くなった後も、作品は高く評価され続けています。 玉堂の作品を愛した人々が寄附を募り、死後4年が経ったとき、玉堂が亡くなるまでの期間を過ごした御岳渓谷の地に玉堂美術館が設置されました。 また、玉堂には、長野草風、池田輝方、池田蕉園など多くの門下もいました。 日本の自然を愛した画家「川合玉堂」とは 川合玉堂は、明治・大正・昭和と時代をまたいで活躍した日本画家です。 近代日本画壇の巨匠ともいわれています。 玉堂は、日本の自然をこよなく愛しており、多くの風景画作品を残しています。 少年期は岐阜で過ごし京都で絵を学ぶ 川合玉堂は、本名・川合芳三郎で、愛知県にて生まれました。 少年期は岐阜で過ごしており、そのときに見た風景は、思い出の地として玉堂作品にもたびたび登場しています。 玉堂は、12歳ごろから絵を学び始め、14歳になると京都にて望月玉泉の門下となりました。 玉泉門下では、「玉舟」の号を授かります。 その後は、幸野楳嶺に入門し、四条派や円山派からも画術を学びます。 1890年、17歳のころより「玉堂」の号で活動を始め、その年に『春渓群猿図』を『秋渓群鹿図』を制作しました。 この作品は、第3回内国勧業博覧会にて入選を果たしました。 1896年には京都を離れ東京に移住し、橋本雅邦に師事します。 また、岡倉天心や横山大観、雅邦らが創立した日本美術院に当初から参加します。 私塾や展覧会の審査員などで日本画壇を盛り上げる 1900年ごろ、私塾「長流画塾」を開設し、1907年には第1回文部省美術展覧会の審査員に任命されました。 1915年からは、東京美術学校日本画家の教授に就任。 日本画壇の代表人物となり活躍を続けます。 1931年には、フランスからレジオンドヌール勲章を受賞しています。 また、1933年に赤十字第一等名誉賞をドイツ政府から贈られています。 1940年には、文化勲章を受賞するなど、玉堂は日本だけにとどまらず海外からも高く評価された日本画家です。 川合玉堂の3人の師 川合玉堂には、望月玉泉・幸野楳嶺・橋本雅邦の3人の師がいます。 川合玉堂は、3人の異なる流派から学んだ画術を、自身に取り込み独自のスタイルを確立させたといえるでしょう。 最初の師・望月玉泉 望月玉泉とは、明治から大正にかけて活躍した日本画家です。 望月派と呼ばれる江戸時代から続く京都絵師の家系に生まれました。 父・望月玉川、玉泉の息子・望月玉渓もまた日本画家として活躍しています。 望月玉泉は、円山派・四条派・岸派の画法を学んでおり、写実的な画風を確立しました。 山水画や花鳥画にて京都画壇で名を広め、望月派の四代目当主となっています。 川合玉堂の写実的な画風は、望月玉泉のさまざまな流派から学びえた画風が影響していたとも考えられるでしょう。 幸野楳嶺 幸野楳嶺は、江戸時代の終わりから明治時代にかけて活躍した日本画家です。 変化の大きい時代に、数多くの優れた作品を残しています。 また、画家としてだけではなく京都府学校と呼ばれる日本初の近代的な美術教育機関の設立にも携わり、京都画壇の進展に貢献しました。 楳嶺は、円山派や四条派の師を持ち、それぞれの画法を受け継いでいるといえます。 楳嶺の作品は、写生をベースにした情感漂う穏やかな花鳥画が特徴です。 私塾を開き、更新教育にも熱心であった画家です。 川合玉堂の情緒あふれる自然の風景は、楳嶺の画法を学び得たからであると考えられるでしょう。 橋本雅邦 橋本雅邦は、江戸時代の終わりから明治時代に活躍した日本画家です。 雅邦は、狩野派の画家であり、東京美術学校の発足にもかかわりをもつ人物です。 第一次の帝室技芸員のメンバーにも選ばれており、日本画壇の重鎮でもあります。 日本美術の教育面においても大きく貢献しました。 川合玉堂は、雅邦の狩野派の画法を取り入れることで、温和な日本の風景を表現したといえます。 玉堂は、円山派や四条派の画法も取り入れつつ、あくまでも狩野派の伝統的な線描を基本とした作品を多く手がけています。 川合玉堂が描く作品の特徴 23歳で東京画壇に転じたのちに、橋本雅邦から学びを得て狩野派の画術を極めました。 円山派と四条派、狩野派の画風を見事に調和させ、日本特有の四季折々の美しい景色を風景画で表現しています。 独自の視点から写実的かつ情緒豊かな自然の風物詩を描き、風景画の境地を開きました。 穏やかで柔らかな光で描かれた、平穏な日常風景は、見た者の心に思い浮かぶ故郷の情景を表現しているかのようです。 また、玉堂は西洋画や琳派からも影響を受けており、これまでの山水画とは一線を画した作品を手がけているのも特徴です。 玉堂は、写実的な日本の風景と、そこに暮らす日本人の生活を好んで描いていました。 川合玉堂の代表作 川合玉堂は、日本の風情ある景色を大変愛しており、穏やかな自然を表現した風景画を多く残しています。 代表作には『行く春』『夕月夜』『春雨』などがあります。 『行く春』 『行く春』は、川合玉堂が秋と春に秩父へ旅行し、長瀞から4里ほど川下りを楽しんだときの、自然風景を参考に描かれたといわれています。 対岸の大きな岩肌には、淡い光が差し込み、水面の照り返しからは水の輝きや流れが感じられる作品です。 桜の花びらが散る様子から春の始まりを思わせる作品であると伝わります。 川下りという激しい川の流れをイメージさせる題材ですが、この作品では、雄大な自然の穏やかさが感じられる点も魅力の一つです。 『夕月夜』 『夕月夜』は、1913年に制作された作品で、第7回文展に出品し高評価を得ています。 夕方になり始めたころの水郷の様子を描いており、木橋の上を家路へと急ぐ漁夫と子どもが歩いています。 また、2人を月の光が淡くそして暖かく照らしているかのような表現からも、自然の穏やかさを感じられる作品です。 川合玉堂の温和な性格と、追い求めていた平和な自然観がマッチした情緒あふれる作品といえるでしょう。 『春雨』 『春雨』は、1942年ごろに描かれた作品です。 春の雨で煙る景色が表現されており、水を引くための筧の向こうには、山桜がぼんやりと浮かんでいます。 雨に濡れた木々や若葉が美しく描かれており、写実的ながらも幽玄な情景を思わせる作品です。 水車や草叢、小路を歩く農婦の姿から、自然の中で暮らす人々の生活も目に浮かびます。 日本人の感性に語りかけ、どこか懐かしい気持ちにさせてくれる作品といえるでしょう。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
白隠慧鶴(1686年‐1768年)禅僧・禅画家[日本]
民衆への布教に尽力し、多数の書画を残した江戸時代の禅僧である白隠慧鶴。 現在の臨済宗の僧侶で、現在の臨済宗の僧侶は全員が白隠の弟子といわれるほど日本の禅宗にとって重要な人物です。 白隠慧鶴とは 生没年:1686年‐1768年 臨済宗中興の祖にして500年 にひとりと称された江戸中期の禅僧。 50代以降には、請われて各地で講義を行いながら、数々の著作や書画を1万点以上自作し残しています。 生涯にわたり、さまざまな方法を駆使して法を説きました。 また、人の往来が激しい北海道の沿道で、時代に即応した禅を広めた僧としても知られています。 1768年 に84歳 で亡くなった後、1769年 に後桜町天皇より「神機独妙善師」、1884年 には明治天皇より「正宗国師」の諡号を与えられました。 現在、白隠の墓は地元の松蔭寺にあります。 15歳で松蔭寺を出家 駿河国原宿(現在の静岡県)の問屋で白隠は誕生します。 幼少期に母に連れられて行った昌原寺で、日厳上人に地獄の恐ろしさを聞き、「自分は今まで何も考えずに魚や虫を殺してきたから、必ず地獄に落ちるだろう」と戦慄するのです。 日厳上人が恐ろし気に語ったためか、この経験は幼い白隠に強烈な印象を残しました。 白隠は、恐怖に怯え地獄の恐ろしさを思い出すたびに、泣き伏せる日々が続きます。 のちに白隠は、このできごとを「幼かったため、共に語り慰めあう友人もいなかった。人気のない場所で声をあげて泣いた」と語っています。 しかし、この経験が白隠にとって転機となるのです。 このときに見た「日親上人鍋かぶり」という浄瑠璃の芝居で、日親上人が真っ赤に焼けた釜を頭に被っても落ち着いて動じない様子を見た白隠は、15歳 のときに松蔭寺で出家します。 白隠は、出家して仏弟子になれば恐ろしい地獄も克服できると考えたのでしょう。 詩や書で一旗揚げようと決意 出家した白隠は、さまざまな寺で修行に励みます。 しかし、19歳 のときに中国の唐代の禅僧である巖頭和尚が賊に首を切られて殺される最期を知ります。 白隠は、「巌頭は、500年に1人 の名僧で有名です。この人が賊の殺害から免れないのなら、誰が死後三途の川を渡れるのだろう」と語っています。 白隠は、仏教の修行に一度失望し、詩や書に励み一旗揚げようと決意したのです。 詩人の杜甫や李白などを手本として学びますが、歌を勉強したとして果たして地獄の苦しみから逃れられるのだろうかという不安が白隠に襲いかかります。 不安にいる白隠は、ある家の主人が臨済宗の僧侶である大愚宗築の墨蹟を大切にしている姿を見ます。 掛軸がこれほど大切にされているのは、大愚禅師が高い徳があったからだと考えて、白隠は再び仏教に専念するのです。 修行を続けた白隠は、7日間 の断食の後、遠くから鐘の響く音が聞こえて「巌頭老人はやはりご無事だった」と叫んだといいます。 仏法を知ってもらうため、「禅画」が誕生 賊に襲われて殺された巌頭和尚が無事だったとは理解しがたいでしょう。 しかし、禅の世界ではこのような不思議な問いかけが多く、禅問答や公案といわれています。 民衆に禅を広めるために白隠の禅画は、絵で公案を表現したものが多くあります。 『牛過窓櫺』は公案集「無門関」の中にある公案で、白隠はこれを絵にしました。 『牛過窓櫺』とは、牛が窓を通り過ぎるときに、角や頭、脚は通り抜けられたのに、しっぽだけは通り抜けられなかったという公案です。 大きな体は通り抜けられたのに、なぜ小さなしっぽは通り抜けられなかったのか不思議でなりません。 その他に、『隻手の声』という白隠が自身で作った公案があります。 両手を打てば音がするが、片手で打てばどのような音がするのかを問うものです。 白隠は、禅画や公案を通して人々に何かを問いかけていたのかもしれません。 白隠のかわいらしい画風 白隠は、絵を学んでいたわけではなかったため、絵は上手でありませんでした。 しかし、白隠らしい丸みのある可愛らしいタッチは、日本美術の歴史に存在感を残しました。 白隠が禅画を描いた理由は、少しでも多くの人々に仏法を広げたいという禅僧としての思いがあったからでしょう。 白隠の絵には、菩薩や釈迦といった仏教に由来するものや、民間信仰に根差したお福や七福神、擬人化した動物などさまざまなものが描かれています。 白隠の絵は個性的で、絵師には描けないような型破りな作風が特徴です。 画壇という禅の意味を絵で表現した新しいジャンルを確立したのも白隠です。 白隠の代表作 見る人によっては、ふざけたように見えなくもない絵ですが、白隠の禅画にはすべて意味があります。 禅画には禅問答である公案が示されており、どこかに手がかりが隠されていますが、答えが描かれているわけではありません。 見た人が考え、自分なりの答えを導き出させるためです。 白隠の禅画に表現されている内容は、人としての本質を問うものが多く、見れば見るほど奥深くて面白いものです。 『隻手布袋図』 『隻手布袋図』は、両手を打てば音がするが、片手で打てばどのような音がするのかを問う、白隠が考えた代表的な公案に基づく禅画です。 常識や当たり前が正しいという考えが固まってしまってはいけないという禅問答の典型的な内容を表しています。 『慧可断臂図』 『慧可断臂図』は、禅にとっても重要な作品です。 少林寺で坐禅を続けていた達磨大師のもとへ訪ねた神光は、何度も弟子入りを願い出るも返答はありませんでした。 大師は諦めない神光にその難しさについて説くと、神光が自身の左腕を切り落とし捧げた覚悟に大師は応えて弟子入りを許すのです。 神光は、のちに慧可と名を変えて、達磨大師の二祖を継ぎます。 白隠は、達磨大師の崇高さを円の中に描くことで表現し、歯を食いしばって左腕を切り落とすリアルな神光の姿を描いています。 『達磨像』 数々の禅画を残した白隠ですが、その中でも特に大きいものが初祖の達磨図です。 その中の代表作である『達磨像』は、縦192cm、横112cmの極めて大きな作品です。 作品のほとんどが顔で埋め尽くされ、大きくて丸い目が、ジッと何かを見つめています。 左上に描かれている「直指人心、見性成仏」は、達磨による禅の教えの根幹です。 自分の心をまっすぐ見つめ、仏になろうとするためではなく、本来の自分に備わっている仏性に目覚めなさいという意味があり、これが白隠が伝えたい言葉でした。 『布袋図』 ニヤリと満面笑みを浮かべる僧侶。 福耳にたれ目で長い眉の布袋様は、白隠が描く人物としてよく登場します。 布袋様は中国で実在した伝説的な僧侶です。 日本では、七福神の一神として信仰されています。 布袋様は、両手をあげて何かが描かれている紙を広げています。 そして小人のような3人の人は、私たち衆生の象徴で、文字が描いてある神を覗き込んでいるのです。 広げられた紙は、向かって右側が表、左側が裏を表しており、表と裏が無限にループしているようです。 白隠の代わりに九州を渡った『白隠像』 眼光が鋭く見開いた目に、骨が張り出した頬、固く閉じられた口と、太く筋が出た首など、気魄がみなぎっている白隠像です。 日本の臨済禅を代表する貫禄を表現しています。 29歳のときに白隠は、日向・大光寺にあった古月禅材の評判を知り、九州を目指します。 しかし、途中で中止となり、生涯九州に地を踏むことはありませんでした。 白隠は、九州に行けなかったことを後悔していたといいます。 この『白隠像』は白隠が亡くなった翌年に完成しました。 江戸時代に火災に見舞われて、松蔭寺も境内の建造物が焼失してしまうこともありましたが、『白隠像』は250年にもわたり守り続けられています。 2017年3月28日には、沼津市指定有形文化財に指定されています。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
渡辺崋山(1793年-1841年)画家[日本]
渡辺崋山は、藩士としての務めの中で、画業や学問に取り組んでいた人物です。 はじめは、貧しい家計を支えるために、現代でいう副業のような形で絵を描き始めました。 そのため、職業的な画家を目指していたわけではなく、あくまで真の務めは藩士であったといえるでしょう。 武士としての顔を持つ半面、画業と学問で海外の事情に精通し、さまざまな活躍をみせた崋山の生涯を知ることで、より作品の魅力が深まるでしょう。 藩士・学問・画業に励んだ「渡辺崋山」とは 渡辺崋山は、江戸時代後期に活躍した人物で、武士・学者・画家と多彩な才能を発揮しています。 変化の激しい幕末を生きた人物で、通称は登、呼称は定静です。 画家としての号は、当初「華山」であったのが、35歳ごろ「崋山」に改めています。 さまざまな顔を持つ崋山。 それぞれの方面から特徴を知ることで、作品の魅力を改めて感じましょう。 藩士としての渡辺崋山 渡辺崋山は、1832年に家老に就任しました。 その後、紀州藩破船流木掠取事件や幕府からの命によって実施した幕命の新田干拓計画、助郷免除など難解な事件をいくつも解決しました。 また、崋山が所属する田原藩は、救民のための穀物を備蓄した報民倉を建設しています。 そのため、1836年・1837年に発生した大飢饉では、1人の餓死者も出ませんでした。 この功績により、翌年1838年には、幕府が田原藩を唯一表彰しました。 報民倉の建設は、崋山の指導により行われたものだったのです。 崋山は、黒船が近海に接近する時代に、外国船の旗印を描いて沿海の庄屋に配布し、沿岸の防備や見張りに当たらせました。 学者としての渡辺崋山 渡辺崋山は、12歳のころから鷹見星皐のもとで儒学を学んでいます。 のちに、佐藤一斎や松崎慊堂からも学びを得て、幕府の昌平黌にも学籍をおいていました。 当時の学者文人とも積極的に交流を図り、詩文や和歌、俳諧などにも通じました。 37歳のときには、三宅氏の家譜編集を藩主から命じられています。 江戸では、藩邸学問所の総世話役となり、儒者である伊藤鳳山を招いて、藩校成章館の興隆を進めました。 晩年、貧しい暮らしの中で集めた書籍を、田原藩の後輩のために献上しています。 画家としての渡辺崋山 渡辺崋山は、山水花鳥画と肖像画を得意としていました。 師である金子金陵・谷文晁からは、中国の南宗画に由来する南画を学び、山水画や花鳥画の画法を身につけていきます。 しかし、それらの画法だけにはとどまらず、洋画でよく取り入れられている手法、遠近法も融合させ、独自の画風を確立させていきました。 代表作には『千山万水図』や『蘆汀双鴨図』などがあります。 『千山万水図』は、外国船が迫りくる三浦半島の風景を描いた作品です。 『蘆汀双鴨図』は、崋山が21歳のときに描いた作品で、蘆の生えた水辺で鴨のつがいがくつろぐ様子が描かれています。 絵をかいて貧しい家計を助けていた 渡辺崋山は、田原藩藩士の渡辺定通の長男として、江戸の藩屋敷で生まれました。 その後、ほとんどの時間を江戸で過ごしています。 当時、田原藩が財政難であったのと、父に持病があったこともあり、一家11人を支えるには家計が厳しく、田原家の生活は貧しいものでした。 崋山が8歳になったとき、田原藩主の子の話し相手として仕えることになりました。 しかし、暮らしが楽になることはなく、奉公に出された幼い弟と妹を亡くす悲しいできごとも経験しています。 崋山は、将来を考え、13歳のときに江戸幕府が奨励していた儒学を学ぼうと、儒学者である鷹見星皐の門下となりました。 また、10代後半には、田原藩の江戸屋敷に仕えながら、副業で家計を助けようと灯籠の絵を描く内職もはじめています。 海外事情を知りモリソン号事件で江戸幕府を批判 渡辺崋山は、西洋の画法を学び独自の画風を確立するとともに、絵画以外でも海外へ関心を寄せるようになりました。 崋山は、海外事情を知るために、ドイツ人医師のシーボルトに学んだ蘭学者である高野長英や小関三英と、長崎で交流を図ります。 オランダからの書物を翻訳し、医学や自然科学の知識を身につけ、海外の事情に精通するようになりました。 また、長英らとともに蘭学者によって形成された尚歯会の中心メンバーとなり、日本と海外の政治や海防問題について議論を重ねていくようになります。 蘭学者との交流を深めていく中で、崋山は日本よりも西洋の学問がいかに優れているかを痛感するようになり、江戸幕府の鎖国政策に疑問を抱くようになりました。 そのような矢先、1838年にモリソン号事件が発生しました。 日本人漂流民7人を乗せたアメリカの商船モリソン号を、当時の異国船打払令に則り浦賀奉行所が砲撃をしたのです。 崋山と長英は、この事件がきっかけで、鎖国政策は外国が日本へ戦争を仕掛けるための口実になってしまうおそれがあると危惧し始めます。 崋山は、鎖国政策と江戸幕府を批判したことで、1839年に江戸幕府の蛮社の獄によって謹慎となってしまいます。 藩士でありながら絵を描き続けたことを非難され切腹 藩士でありながら絵画を描き続け、さらには学問にも精通していた渡辺崋山。 しかし、蛮社の獄により田原藩での永蟄居(自宅の部屋から一生出られない処罰)を受けます。 当時崋山は多くの門下生を育てており、一家の生活を心配した弟子たちが崋山に絵を描かせ、自分たちで販売する会を開催しました。 謹慎であるにもかかわらず絵を描き販売していた崋山を、周囲の人々は謹慎になっていないと非難しました。 そのような批判の中から、田原藩主が江戸幕府将軍から叱責されてしまうとの噂が流れるように。 崋山は、田原藩主に迷惑をかけるわけにはいかないと、1841年、自らの屋敷の納屋で切腹し、その生涯の幕を閉じました。 崋山は、最後まで田原藩主への忠義と家族への孝行の気持ちを持ち続けた素晴らしい人格の画家であったといえるでしょう。 渡辺崋山が描いた作品の特徴 渡辺崋山は、幼いころから絵を描くことを好んでいたようで、常にスケッチができるよう髪と絵筆を持ち歩いていたそうです。 藩士としての務めを果たすかたわらで描き始めた作品は、時代の趣向にあい人気を集めました。 崋山の画風は、南画を原点とし、西洋画の写実性を取り入れた斬新なものでした。 西洋画の影響を受けているとはいえ、あくまでも日本画の伝統を尊重した画風であり、趣のある作品が魅力的です。 伝統を絶やすことなく、西洋の新しい風を自然に取り入れた崋山の作品は、多くの人の心を惹きつけました。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
渡辺省亭(1852年-1918年)画家[日本]
日本画家でありながら、図案家としても活躍していた渡辺省亭。 独自の画風を確立した美しい花鳥画は、フランス・パリで見た西洋画家たちの作品から影響を受けているといわれています。 花鳥画で欧米を魅了した「渡辺省亭」とは 生没年:1852年-1918年 渡辺省亭は、明治時代から大正時代にかけて活躍した日本画家で、洋風な表現を取り入れた花鳥画で人気を博しました。 8歳のころに父を亡くしたあと、12歳で牛込の質屋に奉公へ出ました。 しかし、絵をよく描いており、大変上手かったため、3年で生母のもとに送り返されるのです。 16歳で菊池容斎の門下になり絵を学び、明治維新以降は横浜の貿易会社にて輸出用工芸品の下絵を描くようになりました。 1878年には、パリ万国博覧会の職人として現地に派遣され、サロンで即興画や掛軸制作の実演を行います。 万博が終わり帰国したあとは、西洋画の影響を受けた花鳥画を手がけるようになり、国内外問わず人気を集めました。 日本画家として初めてフランス・パリに渡る パリ万国博覧会をきっかけに、フランス・パリに渡った渡辺省亭。 滞在期間は2~3年ほどで、この時期に省亭は印象派のサークルに参加していました。 交流の様子は、フランスの作家であるエドモン・ド・ゴンクールの『日記』にも記されており、省亭は、フランスの印象派画家であり彫刻家のエドガー・ドガに鳥の絵を贈っていたそうです。 また、ゴンクールの『ある芸術家の家』では、省亭が万博に出品した絵を、フランスの画家であるエドゥアール・マネの弟子のイタリア人画家が、画法研究のために購入したと記しています。 ほかにも、印象派のパトロンで出版業者であるシャルパンティエが、1879年に創刊した『ラ・ヴィ・モデルヌ』と呼ばれる挿絵入り美術雑誌には、美術協力者として省亭の名が残されていました。 日本と西洋の画法を融合させたモダンな画風 フランスの芸術家と交流する中でも渡辺省亭は、特にブラックモン風の写実表現に注目したそうです。 パリでの学びをきっかけに、日本の伝統的な画風と西洋画の写実表現を融合させ、色彩豊かで新鮮かつあかぬけた作風を生み出しました。 帰国後、庄亭は1881年に開かれた第2回勧業博覧会に『過雨秋叢図』を出品して、妙技三等賞を受賞しています。 1885年からは、アメリカ合衆国の東洋美術史家であるアーネスト・フェノロサらが主催する鑑画会に参加。 1887年には第2回鑑画会大会に出品した『月夜の杉』で二等褒状を受賞しました。 これらの優れた作品は、現在所在不明で図様もわかっていません。 また、帰国後に次々と展覧会に作品を出品していた省亭でしたが、1893年のシカゴ万博博覧会に出品した『雪中群鶏図』を最後に、ほとんどの展覧会へ出品しなくなってしまいました。 博覧会や共進会の審査に不満があったためと考えられています。 図案家としてもセンスを発揮した 渡辺省亭は、画家として多くの優れた作品を残すとともに、図案家としての才能も発揮していました。 1875年、美術工芸品輸出業者の松尾儀助が才能を買い、省亭は輸出用陶器を取り扱う日本初の貿易会社である起立工商会社に就職しました。 濤川惣助が手がける七宝工芸図案を省亭が描いていました。 図案家として仕事の中でも、西洋人から人気を集められるようなあかぬけたセンスが磨かれていったといえるでしょう。 1877年に開催された第1回内国勧業博覧会では、会社のために製作した金髹図案が花紋賞牌を受賞しています。 翌年に行われたパリ万国博覧会では、同社から出品した工芸図案が銅牌を受賞しました。 渡辺省亭が得意とする花鳥画とは 渡辺省亭が得意としていたジャンル・花鳥画とは、花や鳥、虫などを題材に描かれた日本画を指します。 細かく分類すると、草や花のみを描いた作品を「花卉画」、草花と昆虫を描いた作品を「草虫画」といいます。 花鳥画は、掛軸や屏風、ふすま絵、浮世絵など、さまざまな日本の絵画で扱われている作品です。 中国から始まった花鳥画は、平安時代ごろに日本へ伝わり、制作されるようになりました。 室町時代に入ると彩鮮やかな花鳥画は隆盛期を迎え、桃山時代に日本独自の様式が確立されていきました。 省亭が描く花鳥画は、伝統的な日本画や中国画に西洋のテイストを取り入れた独自の画風が人々の興味関心を湧き立て、人気を集めていました。 渡辺省亭の師・菊池容斎 渡辺省亭は、16歳ごろから狩野派・土佐派などの画法を学び、日本画家として活躍していた菊池容斎のもとで絵を学ぶことに。 容斎の指導方法は一風変わっていたそうです。 大変厳しく、入門後3年間は絵筆を握らせてはもらえず、容斎の書画一同也という信念から、容斎直筆の手本でひたすら習字を行います。 省亭の描く作品に表れている切れ味の良い筆捌は、この修練により得られたものともいえるでしょう。 3年が経つと、容斎は放任主義を取り、絵の下書きである粉本を自由に弟子たちへ使わせます。 しかし、制作した作品に対しては、師の画風を真似ることを厳しく指摘し、独自の画風を見出していけるよう指導しました。 省亭は、容斎の厳しい指導のもとで6年間学んだあと、22歳で画家として自立しました。 肉筆画以外にも挿絵や木版画でも才能を発揮 渡辺省亭は、日本画の中でも肉筆画に力を入れていた人物ですが、ほかにも挿絵や木版画でも才能を発揮していました。 挿絵や木版画は、庶民から大変人気を集めていたそうです。 初めて手がけた挿絵は、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を坪内逍遥が翻訳した『該撒奇談 自由太刀余波鋭鋒』とされています。 1889年には、山田美妙の小説『蝴蝶』で裸婦を描き高い評価を受けます。 1890年には、『省亭花鳥画譜』全3巻を刊行しました。 渡辺省亭の代表作 渡辺省亭は、多くの優れた花鳥画作品を残しています。 『鳥図(枝にとまる鳥)』では、西洋的な写実描写を取り入れた作品です。 省亭は、卓越したデッサン力を持っており、季節の移り変わりや生き生きとした動物の様子を、忠実に描写している特徴があります。 『牡丹に蝶の図』では、紫や白、ピンク色など色鮮やかな牡丹の絵が描かれています。 花びらが散る情緒豊かなシーンが表現されているのが魅力的です。 白い牡丹には、羽を休める蝶が描かれており、省亭らしい構図を楽しめる作品といえるでしょう。 省亭は美人画も手がけており、『七美人之図』は省亭の最高傑作といわれています。 世代や境遇の異なる女性が、繊細な描写により描き分けられており、一人ひとりの女性の美しさが、表現されています。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
山下清(1922年‐1971年)画家[日本]
山下清 生没年:1922年‐1971年 山下清は、東京都浅草生まれの日本の画家。 代表作は、『花火』『桜島』『東海道五十三次』があります。 「裸の大将」として世の人々から親しまれました。 生きづらかった少年時代 3歳になった清は、3か月間重い消化不良で命の危険に陥ります。 完治はするものの後遺症から言語障害を患ってしまうのです。 その後も清の不幸は続きます。 10歳で父親が他界し、母親は再婚しますが2年後には離婚。 母子家庭になった清の少年時代は、決して裕福な環境とはいえませんでした。 学校生活に馴染めず、言語障害が原因で周囲の子どもにバカにされるいじめに合います。 いじめにより清は、徐々に暴力的な行動を見せるようになります。 一方で、言語障害があるものの、清の記憶力は異様なほど優れていました。 大人でも書けないような蒟蒻、麒麟、炬燵などの難しい漢字をすべて記憶し、すらすらと書くのです。 トランプの神経衰弱では、1人圧倒的な記憶力を発揮しました。 この優れた記憶力は、後に絵を描く際に、清の大きな特徴となります。 しかし、少年時代の清にとって現実は厳しいもので、世間から冷たい目を向けられていました。 当時の清は社会の弱者であり、学校に居場所がなくなってしまい、千葉県にある八幡学園に転校せざるを得なくなりました。 転校先で絵画に出会う 転校をしていじめもなくなり、生活も自由になります。 八幡学園の教育理念である「踏むな 育てよ 水をそそげ」によって、教員たちは辛抱強く清の個性を伸ばすために、「ちぎり絵」をうけさせます。 初期の貼り絵は、子どもらしい大きくちぎった色紙を貼り付ける作品で、蝶やトンボなど清にとって身近にいた昆虫が中心でした。 初期のうちはいじめられていたせいか、人間が登場することはありません。 学園に馴染んでからは昆虫だけでなく、学園でのできごとや友達との体験なども増えて、人間も描くようになります。 5年間の放浪の旅 八幡学園で貼り絵を始めてさまざまな作品を作成し、6年の月日が流れていました。 第二次世界大戦中である1940年11月18日に清は、突然学園を飛び出します。 脱走から2年後の20歳にうけることになっていた徴兵検査をうけたくなく、さらに放浪の旅を続けます。 このころは千葉県我孫子市の我孫子駅の売店弥生軒にて住み込みで働いており、半年ごとに放浪しては、千葉県にもどってくる生活を続けたのです。 1943年の21歳のときに、食堂を手伝っていたところ八幡学園の職員によって連れ戻されます。 母親が無理やり徴兵検査をうけさせましたが、知的障害を理由に兵役免除となるのです。 清は、1955年6月までの約15年間、放浪の旅を繰り返しました。 放浪に飽きると学園や自宅にもどる生活を繰り返し、旅先でのさまざまできごとを、放浪からもどると作品に仕上げていったのです。 脱走の理由を訪ねても「嫌だったから」としか答えなかったといいます。 清が31歳のときに、アメリカのグラフ誌「ライフ」が、清の貼り絵を称賛し、放浪する清の探索を始めたのです。 朝日新聞も全国網で清の詮索に乗り出したことで、鹿児島の高校生に発見されて清の放浪旅は幕を下ろします。 しかし、放浪をやめたのではなく、放浪ができないほど有名になってしまったことが幕を下ろした理由です。 メディアに捜索されて、芸術家となった山下清 朝日新聞の大規模な捜索により、ときの人となった清は、周囲からの勧めで、画家としての人生を歩むようになります。 こうして「芸術家の山下清」が誕生しました。 1956年、清が34歳のときに、初めての本格的な個展「山下清展」が行われます。 「山下清展」は、東京の大丸百貨店を初め、全国各地で巡回展が約130回開催されました。 観客は500万人という驚異的な動員数となり、人気の高さを人々の記憶に残すできごととなります。 この個展には、当時の皇太子である明仁親王も訪れました。 その後も清の個展は全国で開催されます。 できる限り自身の個展を訪れた清は、個展と合わせて全国を歩き回りました。 今までの放浪の旅とは違い、画家としての旅だったのです。 芸術家として歩み始めた清は、卓越した技法で数々の作品を発表していきます。 貼絵以外にも興味を持ち始めた清は、印象派を意識したような作品を手がけるようになります。 全国を巡回する自身の個展で地方に行くと、窯元を訪れて陶器に絵付けにも精力的に取り組みました。 また、この時期にペン画も積極的に取り組んでいます。 フェルトペンで描かれたペン画は、他と違い失敗が許されません。 しかし清は、自身の頭にある構図を簡単に作品として描き上げて、周囲を驚かせました。 清の貼り絵とペン画は、独自の芸術観を決定づけるものとなったのです。 当時、15年間の放浪旅を綴った『放浪日記己』が東京タイムズから、『回想録』が文藝春秋からそれぞれ掲載されました。 清の独特の言い回しや表現が、読者を魅了したのでしょう。 映画「裸の大将」も公開されて、山下清の人気は、最高潮を迎えます。 しかし、清は映画の自分にギャップがあり快く感じていなかったようです。 日本を知りつくし、ヨーロッパの旅へ 1961年日本は高度経済成長期を迎え、1ドル360円の時代に、清はヨーロッパ旅行を決断します。 現代のように簡単に海外旅行へいける時代でなく、パスポートの申請も今のように簡単ではありませんでした。 しかし、清は日本のほとんどを歩きつくしてしまい、どうしても海外を見てみたかったのでしょう。 スケッチブックをバッグに詰めて、約40日間のヨーロッパ旅行に向かいます。 イギリス、イタリア、フランス、スイス、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、オランダ、エジプトなどを短期間で回るハードなスケジュールでした。 しかし、清にとってはすべてが新鮮で感動的だったのでしょう。 放浪旅では絵を描くことをしなかった清ですが、ヨーロッパ旅行では、行く先々でスケッチを行っていたそうです。 「日本のゴッホ」と称される清は、パリにある小さな村「オーベール」に立ち寄り、ゴッホの墓もスケッチしています。 帰国後は、脳内に焼き付けた風景と現地で描いたスケッチを元に数々の作品を制作していきます。 陶器の絵付けや素描、水彩画などさまざまな画法が使われました。 ヨーロッパ旅行の作品たちは、清の芸術的評価を決定的なものにしました。 代表作『東海道五十三次』 ヨーロッパから帰国した清は、制作活動が徐々に減っていきます。 理由に多忙もありましたが、高血圧網膜症の傾向があったため、貼り絵からは距離を置き、比較的疲れにくいペン画に積極的に取り組むようになりました。 周囲からの勧めもあり、『東海道五十三次』という大作に挑みます。 清がスケッチ場所で選んだのは皇居前広場で、最終的に皇居前広場を見下ろすビルの屋上からスケッチを始めました。 約5年の年月をかけて、東京から京都までのスケッチを終えた清は、素描をマイペースに仕上げていきます。 素描の完成度は極めて高く、貼り絵にするのがもったいないほどといわれていたそうです。しかし、制作途中で眼底出血を起こしてしまい、制作を一時中断します。 2年の療養後、体調が回復しつつあった清だが、突然の脳出血のため49歳でこの世を去ってしまうのです。 死後、清本人しか開けることのなかったアトリエの押し入れの中から、未完成と思われていた京都までの13枚が発見されます。 療養中、家族に内緒で描いていたのでしょう。 『東海道五十三次』は貼り絵にはなりませんでしたが、全55点が未完成品を含めることで完成したのです。 山下清の才能を見出した式場隆三郎 式場隆三郎は、山下清を世に出したといわれる人物です。 清が在園していた八幡学園の顧問医を務めていたことから、清の才能にいち早く気づきました。 式場は、展覧会などを通じて清の存在を人々に広めました。 映画やドラマとなった「裸の大将」で人気を得ましたが、そもそも式場が火付け役ともいわれています。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
堂本印象(1891年-1975年)画家[日本]
印象は、京都で生まれ育った日本画家で、日本画家の西山翠嶂から絵を学び、帝国美術院展覧会をメインに活躍しました。 印象の作風は幅広く、日本画や西洋画、具象画、抽象画などを手がけています。 堂本印象とは 生没年:1891年-1975年 堂本印象は、1891年酒造業堂本伍兵衛と芳子の間に3男として誕生しました。 本名は三之助で、兄が2人おり、寒星は芸能研究家として、漆軒は漆芸家として活躍していたそうです。 弟の四郎は、後年印象が芸術に専念できるよう尽くしたといわれています。 また、妹は5人おり、そのうち3人はそれぞれ森守明、山本倉丘、三輪晁勢ら日本画家の元に嫁いでいきました。 日本画家を志す 堂本印象は、1910年に京都市立美術工芸学校を卒業してから、三越図案部に関係したのち、龍村平藏の工房で西陣織の図案描きの仕事をしていました。 その後、日本画家になると決意し、1918年に京都市立絵画専門学校に入学します。 1919年に初出品した『深草』が第1回帝展に入選すると、第3回帝展では『調鞠図』が特選を受賞。 また、第6回帝展に出品した『華厳』は、帝国美術院賞を受賞しており、一流の日本画家として認められ、画壇の花形にのぼりつめました。 1924年に京都市立絵画専門学校研究科を修了し、日本画家としての活躍を大きくしていった印象は、1936年に京都市立絵画専門学校の教授に就任しました。 1937年には、この年からスタートした新文展の審査員に就任しています。 和神社の分霊を祭るため日本画を製作 1940年ごろ、新しく製造される戦艦大和に大和神社の分霊を祭るために、海軍が奈良県に日本画の制作を依頼します。 堂本印象が制作を引き受け『戦艦大和守護神』を描きますが、印象自身は製造中の新戦艦に飾られるとは知りませんでした。 絵には、奈良県の大和神社の神殿が描かれており、戦艦大和の艦長室に飾られることに。 しかし、沖縄への海上特攻前に作品は大和から降ろされ、現在は海上自衛隊第1術科学校教育参考館に所蔵されています。 多くの後進を育成 堂本印象は、自身が画家として活躍するだけではなく、後進の育成にも力を入れていました。 京都市立絵画専門学校の教授として多くの若い画家たちに絵を教えるとともに、私塾東丘社を開塾して、多くの後進を育成しました。 また、1944年には、これまでの功績が称えられて帝室技芸員に任命されています。 戦後は世界にも活躍の場を広げる 昭和初期までは、仏画や花鳥画、風景画などを繊細な筆使いで描き、伝統的な日本画を制作していた堂本印象でしたが、戦後約10年で画風が大きく変化していきました。 これまでは古典的なものに目を向けてきた印象ですが、戦後は一転して現代に注目するようになります。 1951年の第9回東丘社展に出品した『八時間』は、現代社会の風俗をモチーフにした作品です。 戦後に描かれた作品は、現代社会における不条理を象徴しており、その構成は徐々に伝統的な日本画の画風から、色面主体のものへと変化していきました。 海外の影響を大きく受けた印象の作品は、形態のデフォルメがされた洋画的表現が目立つようになっていきます。 1952年、61歳となった印象は、画家としての自分の道を再認識するために、日本画家として戦後初となる渡欧を実行し、パリをメインにイタリアやスペイン、ドイツ、スイスなどを約半年かけて旅しました。 渡欧中は、精力的に目で見た景色を数多くのスケッチや油絵として描き、帰国後に滞欧スケッチ展を開催しています。 西欧での学びは、1953年の第10回東丘社展に出品された『メトロ』や、翌年の第10回日展に出品した『疑惑』などに影響を与え、帰国後の制作活動に大きな変化を与えたといえるでしょう。 渡欧後に制作された作品は、渡欧直前までと同様に、風俗を題材にしながらも寓話的な社会画に仕上げられています。 渡欧前と異なるのは、色彩表現やよりシンプルになったデフォルメ表現などで、渡欧により日本画へ新しい風を吹き込んだといえるでしょう。 もともと信仰心が強かった印象は、仏教だけに捉われるのではなく、キリスト教を題材にした作品も手がけるようになっていきました。 1955年以降は、抽象表現の世界に足を踏み入れていきました。 多くの国際展覧会に作品を出品するようになり、1961年には文化勲章を受賞しています。 1966年には自身の作品を展示する堂本美術館を、自らがデザインして開館しました。 堂本印象の代表作 さまざまなジャンルの作品を描いた堂本印象の作品は、現代にも数多く残されています。 『木華開耶媛』 『木華開耶媛』は、古事記に登場する木の華のように麗しい女神をモデルに描かれた作品です。 木華開耶媛は、山をつかさどる大山祇神の娘であり、天照大神の孫である邇邇芸命の妻となった人物です。 また、安産の神や美しい花を咲かせる春の女神としても親しまれています。 『木華開耶媛』では、桜・タンポポ・ゼンマイ・ツクシなど春の草花が満開になっている野で、純白の衣を纏って座っている姿が描かれています。 その姿は、古代の情緒あふれる神秘性や官能性を漂わせているのが特徴です。 『疑惑』 『疑惑』は、渡欧後のパリ滞在中に目にした移動民族をモチーフにした作品です。 描かれている小屋は、車で引く移動住宅となっており、放浪生活の様子が描かれています。 小屋には「手相、カルタ、水晶球・恋愛、結婚、遺産、運勢占います。」と書かれており、占い小屋をしながら旅していると想像できるでしょう。 この作品で表現されているのは、戦後の社会状況を反映した中心の喪失であるといわれています。 『交響』 『交響』は、堂本印象が文化勲章を受章した年に制作された代表作です。 楽譜を印象なりに解釈して、絵の中には印象が捉えた交響曲が表現されています。 交わり、重なり、つながった線の濃淡により、画面に三次元的な空間を創り出しています。 墨や絵の具の飛沫や背後を彩る繊細な色彩が、交響曲の波動を感じさせてくれているようです。 情感あふれる墨線や、日本画特有の素材である紙本や顔料の質感なども楽しめる作品です。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家
-
小林古径(1883年-1957年)画家[日本]
大正から昭和にかけて活躍し、近代日本画の発展に貢献した小林古径。 継続的に院展へ作品を出品し高い評価を受けていました。 また、西洋の印象派やポスト印象派などからも大きな影響を受けていた古径の作品は、伝統的な日本画の形式に、西洋の新しい風が吹き込む新しい日本画として多くの人々を魅了しました。 新古典主義の画風を確立させた「小林古径」とは 生没年:1883年-1957年 小林古径は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。 新潟県の中頸城郡高田土橋町に生まれ、本名は茂といいます。 父は、元高田藩士であり、明治維新後は新潟県の役人をしていました。 古径が3歳になるころ、父の転勤により新潟市に引っ越しており、その後も県内で何度か移り住んでいます。 明治時代に、岡倉天心を中心に集まった日本美術院の画家らが新しい日本画の表現方法を模索していたとすると、小林古径はその意志を受け継ぎ、さらなる新境地へ日本画壇を牽引した人物といえます。 家族が相次いで亡くなる 6人家族であった古径ですが、子どものころに家族を次々に亡くしてしまいます。 4歳のときには母が亡くなり、9歳で祖母が、12歳で兄、13歳では父を亡くしており、最終的には妹と2人きりになってしまいます。 幼いころに両親を失った古径は、妹を養いながらも11歳のころから日本画を学び始めていました。 11歳のときに東京美術学校で横山大観と同期であった山田於菟三郎から、日本画について学びます。 そして、画家としての道を進みたいと強く思うようになったそうです。 半古塾に入門し画壇デビューを果たす 山田於菟三郎から日本画を学んだあとは、新潟で活動していた遊歴画家の青木香葩に教えを受け、歴史画を描きます。 このとき、画家としての人生を歩むと決意しました。 1899年、16歳のときに小林古径は上京します。 東京では、新聞小説の挿絵画家として有名であった梶田半古の画塾に入門します。 当時の半古は、新しい日本画を開拓する岡倉天心が中心となって結成された青年絵画協会の発起人でした。 また、絵画共進会審査員も務めていました。 小林古径は、毎日熱心に画塾へ通い、半古もまた古径の熱意にこたえ、手を取らんばかりに熱い指導を行います。 当時の半古塾には、古径のほかにも前田青邨や高木長葉など十数人の画家が入塾していました。 また、のちに奥村土牛も塾生となっています。 古径は、半古から「古径」の画号をもらっています。 古径は画塾で写生を学ぶとともに、絵の品格についても教えられました。 古径は、半古塾でその才能を開花させ、塾生の中でも塾長のような存在となります。 同時に、1907年には第1回文展に『闘草』を出品し、1912年の文展には『極楽井』、紅児会展には『住吉詣』を出品しています。 そして、次第に展覧会でも実力が認められ、評価を受けるようになっていきました。 岡倉天心とも交流を図る 半古塾で絵を学んでいた小林古径のもとに、岡倉天心は2度訪れています。 1度目の訪問は、古径にロンドンで開催される日英博覧会に出品する作品の制作を依頼するためでした。 2度目は、1912年の29歳のころで、第17回紅児会に出品された古径の作品を鑑賞して、改めてその素晴らしい才能を認識した天心が、古径の前途を祝すために訪問しました。 当時、古径は三好マスと結婚したばかりであり、天心は古径の新しい生活に気を配り、実業家の原三渓に生活の援助を頼んだそうです。 再興院展にて入選を果たす 小林古径が画家として活動していた時代、小堀鞆音の門下生が始めた紅児会と呼ばれる研究会が存在しました。 古径の才能を高く評価していた安田靫彦に勧められ、古径は1910年に紅児会に入会します。 紅児会展に出品した作品の画風は、自由でおおらかな印象を受けるものでした。 これはロマン主義的な古径の芸術のベースを築いているといえます。 1914年、31歳のときに第1回再興日本美術展に『異端』を出品し、入選を果たします。 その後は、日本美術院展が制作した作品の発表の場となっていきました。 古径は展示会へ『阿弥陀堂』『竹取物語』『出湯』『麦』『芥子』と、次々に作品を出品していく中で、情緒的な表現から写実的な表現へと画風が変化していきました。 ヨーロッパ留学により作風が洗練される 1922年、小林古径は西欧美術を研究するべく、日本美術院留学生として前田青邨とともに渡米を果たします。 大英博物館で目にした中国の東晋時代の画家である顧愷之の作品『女子箴図巻』を、模写した経験は、その後の古径の作風に大きな影響を与えました。 東洋画の命は描線であると感じた古径は、描線の表現を極めることを自身のテーマとしました。 留学が終わり帰国した後は、描線へのこだわりをいかんなく発揮した『髪』を1931年の院展に出品しています。 髪を梳く姉妹を題材にしたこの作品では、髪の毛の1本1本が繊細に描かれており、柔らかい皮膚の感覚が伝わってくるかのような魅力があります。 繊細な描線の美しさを表現した作品は、社会的にも高く評価され、古径は1935年に帝国美術会員に、1944年には東京美術学校の教授に就任しました。 新古典主義とは 小林古径は、新古典主義の代表格とも呼ばれている画家です。 新古典主義とは、写生をベースにやまと絵や琳派などの日本の古画を研究し、近代的な感覚を組み合わせて成熟させた作風を描く人々を指します。 小林古径の品格ある画風 小林古径作品の最大の魅力は、端正な描線です。 無駄のない描線は、画面に緊張感を与えてくれ、描いた作品をさらに格調高く仕上げてくれるといわれています。 シンプルでありながらも、洗練された線や形、色彩のバランスが作品をより美しく引き立てています。 古径の描く伝統的な日本画と海外のモダンな感覚をあわせもった作品は、今もなお人々を魅了し続けているでしょう。 小林古径の代表作 小林古径は、代表作が多い画家としても知られています。 その中でも最も注目を集めたのが、『髪』ではないでしょうか。 2002年には重要文化財に指定された作品です。 裸婦画として初めて切手のデザインとして採用された作品でもあるため、一度は目にしたことがある人もいるでしょう。 丁寧に描かれた1本1本の髪の毛は、墨で何度も塗り重ねることで質感と量感を調整しています。 描かれた姉妹の表情からは、気品も感じられる作品です。 『異端』は、古径が31歳のときに制作した初期の作品です。 一つの絵の中で、キリスト教と仏教が交差する様子が、淡い中間色の彩色で美しく表現されています。 『阿弥陀堂』は、第2回再興院展に出品された作品です。 薄明かりが灯る中に平等院鳳凰堂が描かれている作品で、当時の古径には珍しく建物のみをモチーフにしています。 豊かな色彩が魅力的な作品です。 小林古径に惹かれた人々 小林古径の作品に惹かれた人々の中には、著名な方も多くいます。 特に古径のファンとして知られているのが、原三渓や志賀直哉です。 原三溪 原三渓は、実業家であり美術収集家で、横浜の三渓園を造園した人物です。 生糸貿易により財を成した人物でもあり、小林古径の支援者でもあります。 古美術の収集趣味があった三渓は、同じ時代に活躍する優れた画家を見出し、支援する美術界のパトロンでもありました。 古径は、三渓の招待を受けて仏画ややまと絵などの貴重なコレクションを直接鑑賞し、研究に役立てていきました。 この支援により、古径の芸術は大きく発展したといってもいいでしょう。 志賀直哉 志賀直哉は、白樺派の文豪で『暗夜行路』を書いたことで有名な人物です。 直哉もまた、小林古径の作品を大変高く評価していました。 古径は直哉が書いた作品の題字や挿絵をたびたび手がけています。 古径は画家として活動していたころから実業界や知識層の評価を受けていました。 当時から現代まで、多くの人々に親しまれてきた古径は、まさに近代日本画壇を代表する画家といえるでしょう。 また、描かれた作品は今もなお多くの人々の心を揺さぶっています。
2025.01.03
- すべての記事
- 美術家・芸術家
- 日本の美術家・芸術家