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ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年)画家[フランス]
女性を描き続けた印象派画家「ピエール=オーギュスト・ルノワール」とは 生没年:1841年-1919年 クロード・モネと並んで印象派の巨匠と称されるフランスの画家ピエール=オーギュスト・ルノワール。 裸婦や少女をやわらかい色彩で生き生きと描いた作品が有名で、儚げで愛らしい女性たちの姿は、日本でも人気を集めています。 ルノワールが描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、絵画史上最も有名な少女像として知られています。 上流階級から依頼され肖像画を描くことが多かったルノワールですが、パリの無名な女性を描くことも好んでいたそうです。 幼いころは歌で才能を発揮していた ルノワールは、フランス中南部に位置するオート=ヴィエンヌ県リモージュに生まれ、父のレオナルド・ルノワールは仕立て屋を細々と経営しており、母のマルグリットは針仕事をするお針子をしていました。 ルノワールが3歳のとき、家族は商売のチャンスを得るためにパリへ移住し、ルーブル美術館の近くに位置するパリの中心地、アルジャントゥイユ通りで暮らすことに。 当時のアルジャントゥイユ通り周辺は、貧しい人々が暮らす下町のような場所でした。 ルノワールは、幼いころから絵を描いていましたが、当時は歌で才能を発揮していました。 聖歌隊に入ると、美声を評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者をしていたシャルル・グノーからオペラ座の合唱団に入るよう勧められますが、家庭の経済的な理由により音楽の授業を続けられなくなってしまいます。 ルノワールは、13歳で退学すると、家庭を支えるために磁器工場で見習い工として働くことになったのです。 少年時代は陶器絵付の見習工として働く ルノワールは、磁器工場でも芸術的な才能を発揮し、ルーブル美術館に通いながら絵を学び始めました。 ルノワールの絵の才能は、工場の経営者も認めるほどのものでした。 その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学するために、絵画の授業を受け始めます。 勤務していた磁器工場が産業革命の影響を受けて、生産過程に機械を導入するようになり、職人の仕事が徐々に減り始めました。 学資を得るためにほかの仕事を探す必要があり、ルノワールは海外宣教師向けの掛け 布や扇子に装飾を描いて資金を集めました。 パリのシャルル・グレールのもとで絵を学ぶ 画家になることを決意したルノワールは、1862年にパリのシャルル・グレールのもとで絵を学び始めました。 グレールの画塾は、自由に絵を描くことを許していたため、さまざまなスタイルをもつ画学生が集まっていました。 画塾時代には、モネやアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールなどのちに印象派として活躍する画家たちと知り合います。 グレールからみたルノワールは、楽しそうに絵を描く生徒だったそうです。 ルノワールは、エコール・デ・ボザールに も入学しており、デッサンと解剖学を学んでいましたが、新古典主義が授業のメインであったため、豊かな色彩表現を用いることはよしとされていませんでした。 この経験が、のちの鮮やかな色彩表現により人物を描くスタイルの誕生にかかわったのかもしれません。 サロンと印象派展の両方に出品する ルノワールは、1863年にパリ・サロンに初めて作品を出品しますが、残念ながら落選となってしまいます。 その後も多くの作品を出品し、入選と落選を繰り返していました。 普仏戦争後も、繰り返しサロンへ作品を出品しますが、落選が続いてしまいます。 しかし、人物画の依頼や作品を購入してくれる人々がいたため、何とか生活は続けられ、さらにはファンが少しずつ増えていき、1873年には広いアトリエを借りられるようにまでなりました。 1874年に開催された第1回印象派展には、モネやシスレー、ピサロとともに参加。 展覧会全体は、批評家の酷評を受けましたが、ルノワールが展示した6点の作品は、比較的評価が高かったそうです。 風景画を描く画家が多かった印象派グループの中で、ルノワールは肖像画で生計を立てたいと考えており、1876年の第2回印象派展では、肖像画をメインに展示を行いました。 第3回印象派展では、多彩なジャンルの作品を展示して、印象派グループの評価に大きく貢献したといわれています。 第3回・4回の印象派展には参加せず、代わりにサロン・ド・パリに再び作品を出品するように。 1879年に出品した『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』が大変高い評価を受け、ルノワールは人気画家の仲間入りを果たしました。 旅行先で刺激を受け古典主義へ関心を寄せる ルノワールは、1881年からアルジェリアとイタリアをメインとした旅行を決行します。 マドリードでバロック期のスペイン画家であるディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞し、イタリアのフィレンツェでは、盛期ルネサンスのイタリア人画家ティッツァーノの代表作や、ローマでラファエル前派の作品などを鑑賞しました。 中でも、フランスのロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワや、盛期ルネサンスで活躍したイタリア人画家ラファエロ・サンティなどの作品に強い影響を受けたといわれています。 1882年には、シチリアのパレルモにある作曲家のリチャード・ワーグナーの家にて、ワーグナーと出会い、肖像画を描きました。 同年に肺炎を患いアルジェリアで6週間ほど療養し、1883年にはイギリス海峡のガーンジー島で夏を過ごします。 ルノワールは、島でみたビーチや崖、湾などのさまざまな風景を絵として残しています。 旅の中で新古典主義の巨匠と呼ばれるドミニク・アングルの作品に触れたルノワールは、1880年代後半までアングル風の古典主義作品を描くようになりました。 晩年は慢性関節リウマチを患いながらも作品を描く 晩年、1892年ごろから慢性関節リウマチを患い、1907年には地中海沿岸の温暖な土地であるカーニュ=シュル=メールに移り住みました。 関節炎により手の変形が悪化し、右肩は硬直してしまったため、これまで通りの絵描きができず、手法を変える必要がありました。 腕の可動範囲が限定されていたため、大きな絵を描くときは絵巻風にしてキャンバス側を動かしながら制作を行っていたそうです。 また、若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て彫刻作品も手がけており、病気を患いながらも生涯にわたって芸術活動を続けました。 ルノワールが描いていた印象派とは 印象派とは、19世紀後半のフランスで発生した芸術運動を指し、目で見た物事の光や色彩をそのままキャンバスに表現することを重視している集団です。 印象派は、絵を描く場所が屋内のアトリエから屋外に変化していった時代に生まれたスタイルで、自然の美しさやその時代で暮らす人々を抽象化し、光や色彩をメインにして描くスタイルが魅力の一つです。 印象派は、筆の痕跡をあえて残し、絵の具を塗り重ねる大胆な筆使いや、あいまいな形の描き方、原色を隣り合わせに描いて色を表現するなどの特徴があります。 印象派のルノワールが描く作品の特徴 ルノワールは、印象派特有の瞬間的な光の表現を取り入れつつも、対象物をはっきりと描くのが特徴の一つです。 印象派展に参加したり、色彩を重視したりしていたため、印象派として伝わっていますが、一方で、輪郭線をぼかす印象派の特徴と比較すると、ルノワールの作品は輪郭を明確に描いた人物像も多く、ポスト印象派の特徴も持ち合わせているといえます。 また、ルノワールは、独自の色彩感覚を備えており、陰影に茶色や黒を決して利用しませんでした。 周囲のものからの反射光を表現するために、影にカラフルな色を使っているのも特徴の一つです。 印象派の新しい画風が批判を受けることも 印象派のスタイルは、当初批評家たちからはよい評価を得られませんでした。 筆の跡をあえて残す描き方は、それまでにない新しい手法であったため、すぐには受け入れられず批判を浴びました。 ルノワールが描いたあるヌード像に対しては、胸元や腕の光や影の表現が死斑に見えるとしてひどくバッシングを受けました。 ルノワールと盟友モネの関係 同時期に活躍していた印象派のモネとルノワールは、画塾時代に知り合い意気投合した盟友でもあります。 お互いの芸術論について語り合ったり、一緒に絵を描くために出かけたりと、刺激しあいながら親交を深めていました。 売れない若手画家時代には、ルノワールが実家で食事をすると、たくさんのパンをポケットに詰め込んで持ち帰り、モネに分け与えていたそうです。 ルノワールは速筆の画家であった ルノワールは、芸術家の中でも大変速筆であったといわれており、ときには、作品を30分で完成させることも。 伝統的な画家の中には、一つの作品を完成させるまでに何か月、何年もの時間をかけるケースもありますが、ルノワールは数十分で作品を完成させてしまうのです。 ワーグナーの肖像画は、たったの35分で描きあげたといわれています。 また、ガーンジー島で過ごした1か月間では、15作品仕上げたともいわれています。 依頼主から文句を言われることも ユダヤ系の銀行家カール・ダンヴェールに依頼され描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、西洋画史上最も美しい美少女ともいわれていますが、ダンヴェール夫妻はお気に召さず、イレーヌの妹であるアリスとエリザベスを描く際に、一人ひとり描くと2枚分の費用がかかるからと、1枚に2人をまとめて描くよう依頼したそうです。 鮮やかで美しい作品を描くルノワールでも、依頼主から文句を言われてしまうことがあったのです。 ジャポニズムに影響を受けた作品も 印象派やポスト印象派に位置づけられているルノワールは、日本美術からも影響を受けていたといわれています。 当時流行していた日本の工芸品に強い興味と関心を抱き、作品の中にも取り入れています。 『うちわを持つ女』では、うちわを持った女性が横向きでこちらに顔を向けている様子が描かれており、うちわには外国人がイメージする日本人像が描かれているのが特徴です。 背景には、当時流行していた日本の菊とおぼしき花が描かれています。 また、絵のモチーフだけではなく構図にもジャポニズムが取り入れられているのです。 平面的な日本のうちわと立体的な帽子、背景の右側にはストライプ柄の直線が描かれ、左側には丸い花が描かれているといったように、ジャポニズムの非対称性が用いられています。 浮世絵でよくみられる左右非対称や不規則、不均衡などの要素が表現されており、ルノワールもジャポニズムの影響を受けていたことが伺えるでしょう。 年表:ピエール=オーギュスト・ルノワール 西暦 満年齢 できごと 1841 0 フランスのリモージュにて誕生。父は仕立て職人、母はお針子。 1844 3 家族でパリに移住し、ルーヴル美術館近くに居住。 1854 13 磁器工場で絵付け職人として働き始めるが、工場閉鎖後、画家を志す。 1862 21 シャルル・グレールの画塾に入学し、モネ、バジール、シスレーらと親交を深める。 1864 23 サロンに初出展し、『エスパニョールの娘』が入選する。 1874 33 第1回印象派展に参加。『ラ・ログ』や『陽光の中の裸婦』を発表。斬新な作風が批評家の注目を集める。 1876 35 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を制作。印象派の代表的作品の一つとなる。 1881 40 イタリア旅行でルネサンス絵画に触れ、構図や人物描写を学ぶ。帰国後、古典的な作風に移行。『浴女たち』を制作。 1890 49 愛人であったアリーヌ・シャリゴと結婚し、家庭を築く。 1907 66 関節リウマチを発症。手が不自由になりながらも、絵筆を手に縛り付けて制作を続ける。 1919 78 晩年の作品『浴女たち』を完成させる。同年、ルーヴル美術館に作品が収蔵される栄誉を受けるが、その直後に死去。
2025.01.03
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マリー・ローランサン(1883年-1956年)画家[フランス]
20世紀前半に活躍した女性画家「マリー・ローランサン」とは 生没年:1883年-1956年 マリー・ローランサンは、20世紀前半に活躍したフランスの女性画家です。 若き日のピカソをはじめとした芸術家のグループと交流し、ブルーやピンクなどのパステル調の女性像をメインに描いた画家で、当時のアートシーンで注目を集めていたキュビズムには、人知れず反発心をもっていたといわれています。 死んだ魚やタマネギ、ビールグラスなどを描くよりも、かわいい女の子を描く方がよいと語っています。 母子家庭で育ち美術を学ぶ ローランサンは、パリのシャブロル街に生まれ、両親は婚姻関係を結んでいなかったため、私生児として母子家庭で育ちました。 母のポーリーヌ・メラニー・ローランサン、服の仕立てで生計を立てており、母一人子一人で静かに暮らしていました。 父であるアルフレッド・トゥーレは、ときどき2人の様子を訪ねていましたが、ローランサンは長い間、訪れる男性を父だとは知らなかったそうです。 ローランサンは、この男性をあまり好んでおらず、宿題するローランサンに対して父が羊は草食動物であると伝えると、反発心から羊は肉食動物であると書いて提出したというエピソードがあります。 また、父から仕送りがあったため、ローランサンは中流以上の教育を受けられました。 ローランサンは、幼いころから想像力が豊かな女性で、ある日家具付きのアパートの窓辺でくつろぐ若い男女の姿を観察し、天啓に打たれたように画家になると決めました。 ローランサンは、母からティーカップの絵を描くようにいわれ描き、高いデッサン力があると認めてもらい、本格的に美術を学ぶことを許可されます。 デッサン学校でジョルジュ・ブラックと出会う 1902年ごろからは、パリのバティニョール地区にある公立のデッサン教室に通い始め、同時に磁器の絵付けの学校にも通っていました。 1904年には、磁器の絵付けの学校をやめ、絵の私塾であるアカデミー・アンベールに入学します。 同窓生には、のちにキュビズムの創始者となるジョルジュ・ブラックがおり、ジョルジュはローランサンの才能にいち早く気付き、伝説のアトリエ「洗濯船」に招待し、芸術仲間たちに彼女を紹介しました。 洗濯船での芸術家たちの出会いが、ローランサンののちの芸術家人生の転機となったのです。 特に影響を与えたのはピカソで、彼が描いた『アヴィニヨンの娘たち』がローランサンに大きな衝撃を与えました。 このピカソの作品は、歴史を変える一枚になると確信したローランサンは、自分もいつかこの作品のように偉大な絵画を描きたいと野心を抱くようになります。 キュビズムの影響を受けつつも独自のスタイルを確立 ローランサンは、前衛芸術家たちに囲まれ、キュビズムの影響を受けながらも独自のスタイルを確立していきました。 詩人のギヨーム・アポリネールとは、1907年から1913年まで恋人関係にあり、この期間にローランサンが描いた集団肖像画のいくつかにはアポリネールが登場しており、ほかの人物よりもわずかに大きく描かれている作品もあります。 キュビズムを取り入れつつ独自のスタイルで描かれた代表作として『Les jeunes filles』があります。 ローランサン特有のスタイルで描かれた4人の女性の背景に、キュビズム風の建築物が描かれているのが特徴です。 ピカソやジョルジュのキュビズムスタイルをそのまま表現するのではなく、研究や理論に対して興味をもち、手法を取り入れながらも自分が描きたいものを描いたといえるでしょう。 スペインで味わった孤独が作品に変革をもたらす 1913年、ローランサンはアポリネールとの関係を解消しただけではなく、同居するほど仲のよかった母を亡くしています。 この2つの大きなできごとがきっかけとなったのか、ローランサンは短期間の交際を経て1914年にドイツ人貴族であるオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚しました。 2人が新婚旅行で南フランスを訪れているとき、第一次世界大戦が勃発。 ドイツ国籍であるオットーは、パリにもどれなくなってしまったうえに、ドイツにもどることも望まなかったため、夫婦でスペインに亡命し、マドリードで戦争が終わるのを待つことにしました。 しかし、スペインでオットーは、酒浸りになり、ローランサンは深い孤独を味わったといえます。 このスペインでの孤独がローランサンの独自のスタイルを確立する後押しになったともいわれています。 第一次世界大戦より前の作品では、絵の具が薄塗りでキャンバスがむき出しになっている部分もありました。 しかし、戦後の作品をみてみると白い絵の具が厚く塗られ、色彩はピンクやグレー、青をベースに緑や黄色が加わったものに変化していきました。 個展を開催しパリのアートシーンで活躍 1921年、ローランサンは、パリのポール・ローゼンバーグ画廊で個展を開催し、25点の作品を展示します。 この個展によりローランサンは高い評価を受け、展覧会後にはフランス国外のコレクターに対して作品が売れるようになりました。 これまで、ローランサンは、アポリネールやピカソ、ジョルジュなどとつながりがあるから作品の発表の機会があったといわれていましたが、個展の成功により独立した芸術家として認められるようになったのです。 パリのアートシーンで活躍し始めたローランサンは、その後第二次世界大戦が勃発するまでその地位を保ち続けました。 1935年には、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与され、2年後に描いた『Le répétition』は、フランス国家が取得しました。 ギヨーム・アポリネールとの出会いと別れ アカデミー・アンベールに入学してから、多くの芸術家たちと知り合いになったローランサン。 ある日、ピカソが親友のアポリネールをローランサンに紹介します。 これがきっかけで交流を始めたローランサンとアポリネールは、お互いの才能を認め、高め合いながら交際を続けていきました。 若い才能ある2人は、モンマルトルの若い芸術家たちにとっては憧れのカップルであったそうです。 しかし、お互いが成長していくにつれ、芸術家としての個性がぶつかりあうように。 別れては付き合ってを繰り返す、不安定な関係が続くようになりました。 そのような中、2人の関係に終止符を打つ決定的な大事件が発生します。 当時ルーブル美術館に展示されていたモナリザが盗難にあった事件で、アポリネールが窃盗容疑で逮捕されてしまうのです。 結果的にアポリネールの疑いは晴れますが、ローランサンがもともとスキャンダルをおそれていたこともあり、2人の関係は完全に終わりを迎えたのでした。 この別れをきっかけにアポリネールは『ミラボー橋』という詩を残しています。 オットー・フォン・ヴェッチェンとの結婚 アポリネールと別れたローランサンは、ドイツから絵を学びにきていたオットーと出会い、あっという間に結婚を決めます。 1916年、パリの区役所で結婚式を挙げたわずか6日後に、第一次世界大戦が勃発するきっかけとなったサラエボ事件が発生します。 そして、新婚旅行で南フランスを訪れているときに第一次世界大戦が開戦し、フランスとドイツの争いが始まってしまうのです。 オットーはドイツ人であり、結婚によってドイツ国籍になったローランサンもパリにもどることはできず、中立国のスペインに亡命します。 しかし、スペインでも穏やかなときを過ごすことはできず、スパイ容疑をかけられスペイン中を転々とする生活を余儀なくされました。 また、夫であるオットーは酒に溺れるようになり、ローランサンは寂しさを紛らわすためにたくさんの手紙や詩を書いたといわれています。 終戦後も2人の仲は修復に向かわず、単身でパリにもどったローランサンは、離婚を決意しました。 マリー・ローランサンとココ・シャネル 第一次世界大戦が終わりパリにもどってからのローランサンは、上流階級の夫人から肖像画の依頼をたくさん受け、流行画家として地位と名声を得ていました。 当時のパリの社交界では、ローランサンに肖像画を依頼するのがステータスとなっており、ある日1人の女性が、成功の証として肖像画をローランサンに依頼しました。 完成した肖像画を女性に渡すと、作品に納得がいかなかったのか、自分に似ていないことを理由にローランサン に描きなおしを要求したのです。 この行動に怒ったローランサンは、描きなおしを拒否し、作品を引き取りました。 この書き直しを要求した女性が、フランスのファッションデザイナーでシャネルの創設者であるココ・シャネルだったのです。 ローランサンは、女性らしさのある儚げな雰囲気でシャネルを描きましたが、シャネルは強い女性像を表現してもらいたかったと考えられます。 マリー・ローランサンが描く作品の魅力 ローランサンは、儚げで美しい女性を描いた作品で人気を集めています。 日本でも、フランス・パリの空気感や優雅さ、上品さのある絵画に憧れを抱く人も多く、描かれた女性たちの背景に隠されている物語を想像しながら、鑑賞を楽しんでいる人も多いでしょう。 女性的な美を追求している 画家として活躍する女性が登場し始めた19世紀、男性と競い制作をすることで女性的な美の表現を失いがちな時代でしたが、ローランサンの絵画は女性らしい儚げで優雅な作品が多く、女性的な美を追求していたといえます。 アポリネールは、ローランサンが描いた絵画について、自由であり女性の美そのものを絵画で表現していると、評価しました。 作品の装飾性の高さ ローランサンの絵画が、多くの人の心を惹きつけた理由の一つに、装飾性が挙げられます。 ローランサンが制作した絵画は、大きすぎず家に飾って映えやすい作品が多く、室内装飾の一つとして人気を集めました。 女性をモチーフにした作品を多く手がけており、ドレスやワンピースを着用し、帽子やスカーフ、リボン、髪飾りなどのアクセサリーを身につけたファッション性の高い構成は、女性の美しさをより引き立たせているといえます。 ときには、犬や鳥、花などの動植物も一緒に描かれ、パステルカラーの色彩は、ローランサン独自のスタイルとして高く評価されました。 ローランサンは、幼いころから女手一つで育てられており、母は婦人服の裁縫と刺繍を仕事にしていたため、ファッションやデザインに触れる機会も多く、作品の趣向や美意識に大きな影響を与えたと考えられるでしょう。 ローランサンの絵画は、女性の背景が抽象的に描かれていることが多く、テーマを主張しすぎないスタイルのため、装飾性が高いと評価されたといえます。 フランス的優美さの表現 アポリネールは、ローランサンの作品について、フランス的な優美さを巧みに表現していると評価しています。 日本人が鑑賞したときにもフランスならではの優雅さを感じられるローランサンの作品を、フランス出身のアポリネールが、同じように評価しており、ローランサンが描く絵が醸し出すフランス的優美さは、世界に共通するものであるといえるでしょう。 描かれた人物の佇まいや表情、ファッション性、パリのグレーな空、緑豊かで静かな公園、歴史を思わせる石造りの建築物など、さまざまなシーンからフランス的優美さを感じさせてくれます。 日本でも高い評価を受けている ローランサンが描いた作品は、日本でも高く評価されており、長野県茅野市の蓼科湖畔には、マリー・ローランサン美術館が設立され、世界で唯一のローランサン専門の美術館として話題を集めました。 2011年をもって閉館となってしまいましたが、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館し、館長である高野将弘が収集した個人コレクションをはじめ、500点余りの作品を収蔵していました。 年表:マリー・ローランサン 西暦 満年齢 できごと 1883 0 フランス、パリにて誕生。母子家庭で育つ。 1902 19 セーヴル国立陶芸学校で学び、陶芸家を目指す。 1904 21 美術に転向し、アカデミー・アンベールに入学。ジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソと交流。 1912 29 『アポリネールとその仲間たち』を制作。詩人ギヨーム・アポリネールと親密な関係を持つ。 1920年代 30代 パリの上流階級の女性肖像画家として成功。独特の柔らかな色彩と構図で評価を得る。 1930 47 『青いドレスの女性』を制作。 1956 72 パリで死去。フランスを代表する女性画家として記憶される。
2025.01.03
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マルク・シャガール(1887年-1985年)画家[ロシア]
フランス・パリで活躍し、その後国際的に有名な画家となったマルク・シャガール。 第一次世界大戦という大きな争いごとが発生した時代を生きた芸術家であるシャガールは、愛をテーマにした作品を多く残しています。 ロシア系ユダヤ人の画家「マルク・シャガール」とは 生没年:1887年-1985年 マルク・シャガールは、ロシア出身のフランス画家で、愛や結婚をテーマにした作品を多く制作していたことから、「愛の画家」とも呼ばれています。 また、華麗な色使いから「色彩の魔術師」とも称されていました。 シャガールは、毒舌家としても知られており、同時代に活躍した画家や芸術運動に対しては、皮肉めいた態度を取っていたそうです。 特に、ピカソに対しては非常に辛辣な評価をしています。 旧ロシア帝国のユダヤ人街で生まれ育つ シャガールは、旧ロシア帝国(現在のベラルーシ共和国)のヴィテブスク 近郊にあるリオスナという村で、9人兄弟の長男として誕生。 父のザハール・シャガールは魚売りをしており、母のフェイガ・イタは自宅で食料品を販売していました。 当時のヴィテブスクの人口は、6万6000人ほどで、半分近くをユダヤ人が占めていました。 ヴィテブスクは、ユダヤ教正統派から異端とみなされたカバラ教養から派生しているハシディズム文化の中心地でもあったのです。 シャガールもユダヤ系の家庭で生まれ育ち、ハシディズム文化の世界観に大きな影響を受けています。 ヴィテブスクは、絵画のような美しい教会やシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の会堂が立ち並ぶ美しい景観をもっていました。 多くの人々は、町の景観をスペイン帝国時代の世界観をなぞって「ロシアのトレド」と呼んでいました。 フランス美術に影響受けてパリへ 少年時代、シャガールは地方のユダヤ教徒の学校に通い、聖書やヘブライ語の勉強をしていました。 13歳のときに、本来ユダヤ人を受け入れていないロシアの高等学校に母がかけあってくれて、入学が認められます。 同級生にシャガールが絵の描き方を尋ねると、図書館で好きな写真が載っている本を選んで模写するだけといわれ、シャガールは模写を始めます。 これが、シャガールが芸術家を目指すきっかけとなったといわれているのです。 1906年からは、ヴィテブスク にある写実主義の画家イェフダペンが運営する小さな美術学校に通い、絵を学びます。 しかし、アカデミックな芸術が自分には合わないと気づいたシャガールは、サンクトペテルブルクにある美術学校に入学。 サンクトペテルブルクに滞在中、ポール・ゴーギャンをはじめとしたフランスの先進的な芸術に触れ刺激を受けたシャガールは、芸術の都パリに移り住むと決意します。 シャガールがパリに移住した1910年ごろは、キュビズムが注目されていた時代で、エコール・ド・パリの画家や詩人のギヨーム・アポリネールなどと交流を図りました。 キュビズムだけではなく、フォーヴィスムやシュルレアリスム、シュプレマティスム、象徴主義などさまざまなスタイルの技術や知識を吸収しながら、物語性のある具象画を研究し独自のスタイルを築き上げていきました。 シャガールの作品は詩人から注目を集める シャガールが描く新しくも率直な感情表現やシンプルでありながら詩的なユーモアを感じさせる絵画は、当時のパリ美術界では異端者扱いされ、画家たちからはあまりよい評価を受けられませんでした。 しかし、アポリネールやブレーズ・サンドラールなどの詩人たちから注目を集めるように。 シャガールが描く絵画は、対象物を複数の視点で外から観察するキュビズムとは異なり、内から外に向かって出ていくさまざまな内面感情を情熱的に表現したものでした。 当時23歳ほどだったシャガールは、フランス語を話せない状態でパリでの暮らしを続けていたため、人生の中でも大変孤独な期間であったといわれています。 その孤独な環境が、故郷やその自然の懐かしむ哀愁の感情を生み出し、絵画作品として消化していったそうです。 宝石商の娘と恋に落ち結婚する シャガールは、婚約者であるヴィテブスク の宝石商の娘ベラを残してパリに滞在していましたが、ベラが自分に対して興味を失うことをおそれ、身分違いな恋ではあるものの、情熱的にアプローチをかけ結婚にこぎつけました。 結婚の前年にベルリンの有名画商から個展を開催しないかと誘われており、個展でドイツへ行った際に近くのヴィテブスク に立ち寄り結婚。 個展が終了するとともにベラを連れてパリに引き返す予定でいました。 ドイツでの個展は大成功をおさめ、ドイツの批評家たちはこぞってシャガールを絶賛しました。 その後、ヴィテブスク に滞在し結婚式を挙げる予定でしたが、途中で第一次世界大戦が始まってしまい、ロシア国境線が無期限で封鎖されてしまいます。 1年遅れで結婚を果たしたシャガールとベラの間には、子どもも生まれています。 ロシア革命後にベルリンへ亡命 1917年のロシア革命後は、一時的にベルリンへ亡命し、故郷の人民美術学校の校長に任命されます。 この美術学校では、シャガール以外にもエル・リシツキーやカジミール・マレーヴィチなど、当時のロシアで活躍していた芸術家も集められており、独立した芸術スタイルをもつ画家たちによる美術学校を目指していました。 しかし、シャガールはマレーヴィチと意見の違いにより衝突し、美術学校を去ることになってしまうのです。 モスクワで舞台デザインの仕事に就く 学校を辞めた後は、モスクワに移動し、新しく設立予定のユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの制作を手がけました。 1921年のはじめごろ、劇作家のショーレム・アレイヘムによりさまざまな演劇を上演する劇場がオープン。 シャガールは、画家や舞台美術家として活躍していたレオン・バクストから学んだ技術を活かして、舞台の巨大な背景画をいくつも制作しました。 第一次世界大戦が終わった1918年、飢饉が問題となり、食料の物価高騰を避けるためにモスクワの小さな村へ移り住みます。 1921年からは、マラホフカ郊外にあるウクライナのユダヤ人迫害により孤立した難民を収容するための、ユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働くようになります 。 再びフランス・パリで活躍を見せる 1923年、シャガールはモスクワを後に、フランス・パリへと戻ります。 パリに行く途中、10年ほど放置していた数々の絵画を引き取るためにベルリンへ立ち寄りますが、すべてを引き取れなかったため、シャガールの初期作品の多くは、紛失状態となってしまいました。 パリに戻ってきたシャガールは、フランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約し、小説家ニコライ・ゴーゴリの『死せる魂』や、聖書の『ラ・フォンテーヌの寓話』などのイラストレーションとして、銅版画の制作を始めました。 この仕事でシャガールは、版画の才能を開花させていくのです。 シャガールは1926年までに、アメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催し、約100点の作品を公開しました。 ナチスによる迫害を受けてアメリカに亡命 シャガールが銅版画制作を手がけていたころ、ドイツではヒトラーが権力を拡大させ、反ユダヤ法を制定すると、はじめはダッハウに強制収容所が設立されました。 キュビズムやシュルレアリスム、表現主義、抽象芸術などの近代美術の弾圧を開始したナチスは、愛国的な解釈がされた伝統的なドイツ具象絵画を絶賛するようになります 。 1937年からは、ドイツ美術館に収蔵されていた約2万 点の作品を退廃芸術と批評し、委員会によって押収され、シャガールの芸術もドイツ当局からの嘲笑を受けたそうです。 ドイツ軍がフランスを占領した後も、しばらくの間シャガールはフランスにとどまっていました。 しかし、ナチス占領下でヴィシー政権が反ユダヤ法の承認を開始すると、ようやく事の重大さを理解し、アメリカへの亡命を決めます。 アメリカで国際的な活躍を見せる 1941年、アメリカに移住したシャガールは、『婚約者』で3回目となるカーネギー賞を受賞しました。 アメリカに入国したシャガールは、すでに自分が国際的に有名な芸術家になっていると実感したそうです。 同じくナチス・ドイツの侵略によりヨーロッパからアメリカに亡命した画家や作曲家などの芸術家の多くはニューヨークで生活を始めており、シャガールも同様にニューヨークで新しい暮らしをスタートさせます。 アメリカ滞在中、シャガールはよくローワー・イースト・サイドにあるユダヤ人地区を訪れました。 ユダヤの文化や食事を楽しみながら、ユダヤ人用の新聞を読めるその地区での時間は、当時まだ英語を話せなかったシャガールにとって憩いの地であったといえるでしょう。 シャガールの作品は、ニューヨークで画商をしているアンリ・マティスの息子ピエール・マティスが賞賛し、個展を開催し始めたことで注目を集めるようになりました。 メキシコとでバレエの舞台デザインを担当する ニューヨークを拠点に活動を続けていたシャガールは、ニューヨーク・バレエ・シアターの振付師であるレオニード・マシーンから新しいバレエ「アレコ」のための舞台や衣装の制作をしてほしいと依頼されます。 シャガールは、メキシコでメキシコ芸術に触れ大変感動し、舞台用の大きな背景を4つとともに、バレエ衣装のデザインも手がけました。 バレエの舞台は大成功をおさめ、メトロポリタン・オペラでも開催し、同じく高評価を得ました。 晩年は絵画から離れ多彩なジャンルで活躍 戦争が終わりフランスに戻ったシャガールは、コート・ダジュールに自宅を構え、ニース近郊に住んでいたマティスやピカソとともに制作活動を行うこともあったそうです。 晩年は、絵画制作から離れ、彫刻やステンドグラス、セラミック、タペストリーなどさまざまなジャンルの芸術作品の制作を手がけました。 1963年には、19世紀の偉大な建築で国の記念碑でもあるパリ・オペラに飾る新しい天井画の制作依頼を受けます。 当時、ロシア系ユダヤ人に国の記念碑である建築物の装飾を依頼することに反対する人もおり、この人選は論議を巻き起こしたそうです。 しかし、シャガールは77歳でこの偉大なプロジェクトでの制作活動を続け完成させました。 マルク・シャガールが描く作品の特徴 シャガールが描く作品は、一目で彼の作品であるとわかる特徴を持ち合わせています。 さまざまなスタイルの芸術を学び独自の作風を確立させていったシャガールの作品には、どのような魅力が隠されているのでしょうか。 色彩の魔術師と呼ばれるほど色使いに長けていた シャガールは、色を巧みに使い分ける画家で「色彩の魔術師」と呼ばれるほど、優れた色彩感覚をもっていました。 使用する画材は、油彩や水彩、パステルなどさまざまあり、それぞれの特性を生かしながら独特のスタイルを生み出していきました。 有名な画家ピカソもシャガールの色彩感覚を高く評価していたそうです。 シャガールが表現する色彩の中でも、特に青の表現は多くの人の心を惹きつけていました。 「シャガールブルー」とも呼ばれており、この青色をベースにした作品は、シャガールが描いた作品の中でも特に高額で取引されています。 愛をテーマにした作品を多く描いていた シャガールが描いた多くの作品は、愛をテーマにしています。 また、特定のモチーフが繰り返し登場するのも特徴の一つです。 たとえば、恋人同士や花嫁が愛する人に向ける愛、故郷を懐かしむノスタルジーな愛など、さまざまな形の愛を表現しています。 愛というと、人と人の間に育まれるものを想像しますが、シャガールは幼いころに過ごした場所にも愛の形を生み出したのです。 また、宗教的な観点からみた愛や家族に対する愛まで、多彩な愛を作品で表現しました。 シャガールの愛に対する豊かな表現が、作品を鑑賞する人々の心を暖かくしているといえるでしょう。 年表:マルク・シャガール 西暦 満年齢 できごと 1887 0 ベラルーシのヴィテブスクにて生まれる。ユダヤ系家庭の出身。 1907 20 サンクトペテルブルクで美術学校に入学。 1910 23 パリに渡り、モンパルナスで活動を開始。マティスやセザンヌなどの影響を受ける。 1914 27 『私と村』を制作。この作品は彼の代表作の一つとなる。 1915 28 ベラ・ローゼンフェルドと結婚。 1941 54 第二次世界大戦の影響でアメリカに亡命。『誕生日』や『白い十字架』を制作。 1948 61 フランスに帰国し、南仏で創作活動を行う。 1950年代 60代 オペラ座の天井画や教会のステンドグラスを手掛ける。 1985 97 南仏サン=ポール=ド=ヴァンスで死去。生涯にわたり愛や平和をテーマとした作品を描き続ける。
2025.01.03
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歴史と言葉で読み解く、日本の花札文化
花札の歴史と文化的変遷—南蛮文化との出会いから現代まで— 花札誕生以前:渡来と変容 16世紀後半の安土桃山時代、ポルトガル船により「南蛮かるた」が日本にもたらされました。これは、日本のカードゲーム文化における重要な転換点となりました。南蛮かるたを基に制作された「天正かるた」は、日本における最初のかるたとして歴史に名を刻み、後の花札発展の礎となりました。 江戸期の変遷と規制 江戸時代を通じて、かるたは幕府による厳しい規制の対象となりました。その主な理由は、賭博用具としての使用が横行していたためです。しかし、規制下にありながらも、かるたは庶民の娯楽として根強い人気を保ち続けました。この時期の社会的な抑圧が、後の花札の独特な発展を促す要因となりました。 花札の誕生と確立 江戸時代後期、特に寛政年間(1789〜1801年)には、京都の山口屋儀助(井上家春)による画期的な試みがありました。「武蔵野」という商品名で販売された花札は、賭博用具の取り締まりを巧みに回避する工夫が施されていました。従来の数字表記を避け、代わりに四季折々の花々を配した絵柄を採用したのです。 独自の構成への昇華 花札の特徴的な構成は、既存のメクリかるたを創造的に再構築したものです。4スート(種)×12枚という構成から、12スート(月)×4枚という新しい形式が生み出されました。この変更により、数字による表記を避けつつ、従来の遊技方法を維持することが可能となりました。 近代化と変容 明治時代に入り、西洋のトランプの流行と共に花札の販売も正式に解禁されました。これにより、花札文化は新たな発展期を迎えます。全国統一デザインの花札だけでなく、各地方の特色を反映した地方札も登場し、花札文化は一層の多様性を獲得しました。 制度的変化への対応 1902年の骨牌税法制定は、花札産業に大きな影響を与えました。課税対象となったことで多くのかるた屋が経営難に陥り、地方特有の花札文化も徐々に衰退していきました。この時期は、花札文化における大きな転換点となりました。 現代に息づく花札文化 現代の花札は「八八花」と呼ばれる形式に統一されています。12ヶ月それぞれに4枚ずつ、計48枚で構成されるスタイルは、日本の美しい四季折々の風情を見事に表現しているといえるでしょう。各札には、その月を象徴する花や風物が美しく描かれ、日本の伝統的な自然観や文化的価値観を今に伝えています。 地域性と現代的展開 花札の遊び方は、地域ごとに独自の発展を遂げてきました。各地に伝わるローカルルールは、その土地の文化や価値観を反映する貴重な文化遺産といえます。さらに、現代では新しい遊び方も次々と考案され、花札文化は絶えず進化を続けています。 花札は、その誕生から現代に至るまで、日本の文化的・社会的変遷を如実に反映してきました。外来文化の受容から始まり、規制との共存を経て、独自の発展を遂げた花札の歴史は、日本文化の適応力と創造性を示す好例といえるでしょう。 現代においても、伝統的な遊戯文化として、また日本の美意識を伝える芸術作品として、花札は重要な文化的価値を持ち続けています。 花札が紡いだ日本語表現の世界 ここまで見てきたように、日本の伝統的なカードゲームである花札は、単なる遊戯道具としてだけではなく、その歴史のなかで、独自の変化・発展を遂げてきました。そして、実は、私たちが普段使っている言葉にも影響を与えています。花札から派生した言葉にはどんなものがあるのでしょうか。 その起源と現代における使用法を見ていきましょう。 「シカト」 語源と形成過程 花札の10月札に描かれている「紅葉に鹿」の図柄が、この表現の起源となっています。この札に描かれた鹿が特徴的な横向きの姿勢をしていることから、「鹿の十(しかのとお)」という呼び方が生まれ、それが縮約されて「シカト」となりました。 現代における意味と用法 現代では「意図的に無視する」「存在を認めないかのように振る舞う」という意味で広く使用されています。特に若年層のコミュニケーションにおいて頻繁に用いられ、人間関係における消極的な拒絶や疎外を表現する際の代表的な語彙となっています。 「ピカイチ」 語源と形成過程 花札の手役から生まれた表現です。配られた7枚の札のうち、光り物(20点札)が1枚のみで、残りがすべてカス札という状況を「光一(ピカイチ)」と呼んでいたことに由来します。 現代における意味と用法 現代では「群を抜いて優れている」「最高水準である」という意味で使用されます。多くの花札由来の言葉が否定的な意味合いを持つ中で、「ピカイチ」は珍しく肯定的な評価を表す表現として定着しています。 「ヤクザ」 語源と形成過程 花札の賭博「おいちょかぶ」から派生した表現です。8(や)、9(く)、3(ざ)の組み合わせが最も弱い手となることから、この呼び方が生まれました。合計20となり、一の位が0となるため、役にならない状態を指していました。 現代における意味と用法 現代では主に暴力団構成員を指す言葉として定着しています。また、より広い文脈で「社会的に好ましくない存在」「信用できない人物」を表す際にも使用されます。 「ボンクラ」 語源と形成過程 「盆暗」と表記され、「盆」は賭博場を、「暗」は常に負け続ける様子を表現しています。賭博における運の無さや判断力の欠如を揶揄する言葉として使用されていました。 現代における意味と用法 現代では「理解力や判断力に欠ける人物」「要領の悪い人」を指す表現として使用されています。しばしば軽蔑的なニュアンスを伴いますが、親しい間柄では軽い冗談として使用されることもあります。 「三下(さんした)」 語源と形成過程 花札の「カブ」という賭博から派生しました。二枚の札の合計が3以下という、勝ち目のない状況を指す言葉として使用されていました。 現代における意味と用法 現代では「組織の下っ端」「取るに足らない存在」を指す蔑称として使用されます。特に暴力団関連の文脈で使用されることが多く、社会的地位や能力の低さを強調する表現として定着しています。 花札から派生したこれらの表現は、その多くが賭博文化との関連から生まれたため、否定的なニュアンスを持つものが目立ちます。しかし、「ピカイチ」のように肯定的な意味で使用される例外も存在し、これらの言葉は日本の言語文化の重層性を示す興味深い事例となっています。 これらの表現は、現代においても日常会話や文学作品の中で活発に使用され続けており、花札文化が日本語に与えた影響の大きさを物語っています。 日本の文化と歴史が作り育てた文化、「花札」 16世紀末に外国から伝わった南蛮かるたをもとに生まれた花札は、江戸時代の厳しい規制の中で、日本独自の遊び道具として発展していきました。その過程で花札は、単なる遊び道具としてだけでなく、日本の文化や美的感覚を表現する媒体としても育っていったのです。 特に注目したいのは、花札が新しい言葉を生み出すきっかけにもなってきたことです。「シカト」「ピカイチ」など、今でもよく使われている言葉は、花札文化が日本語に与えた影響を示す良い例だと言えます。これらの言葉の多くは、もともとは賭け事の世界から生まれたため、マイナスの意味を持つものが多くなっています。しかし、それぞれの言葉が花札という遊びの特徴をうまく表現しており、日本語をより豊かなものにしてきたと考えられます。 このように、花札とそこから派生した言葉の歴史は、日本が外国の文化を取り入れ、それを独自の形に作り変えて、新しい価値を生み出してきた過程を示す興味深い例と言えるでしょう。 いまでは日常的に花札に触れる機会があまりない人も多いかもしれませんが、スマホゲームやお正月の遊びとして根強い人気のある花札の世界にぜひ触れてみませんか。
2024.12.31
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村上華岳(1888年-1939年)日本画家[日本]
村上華岳とは 生没年:1888年-1939年 村上華岳は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。 甲州武田氏の末裔である武田誠三の長男として、大阪北区松ケ枝町に生まれました。 華岳は、神秘的でありながら官能さも秘めている仏画を多く描いており、新しい時代の日本画を追求した人物です。 闘病生活をつづけながらも独特な作品を生み出し続けた華岳は、持病のぜんそくが悪化して51歳という若さで亡くなっています。 13歳で家督を継がなければならなかった少年時代 村上華岳は、家庭の事情により7歳のころから実の両親の元を離れ、叔母の嫁ぎ先であった神戸の村上家に預けられ、神戸の小学校に通っていました。 華岳が13歳のとき、実の母は行方知れずで、実の父は亡くなってしまいます。 そのため、まだ少年であった華岳が、武田家の家督を継ぐことになりました。 しかし、3年後の1904年に武田家の廃家が許可されたため、華岳は村上家の養子となります。 なお、廃家とは戸主が婚姻や養子縁組などによって他に家に入るために、元の家を消滅させることです。 華岳は、幼いころから絵を得意としており、村上家の養子になる少し前の1903年に、京都市立美術学校に入学しています。 その後、美術学校の研究生を経て、1909年に新設されたばかりの京都市立絵画専門学校に同年進学しました。 文展への出品は、1908年から始めており、京都市立絵画専門学校の卒業制作で描いた『早春』を第5回文展に出品し、褒状を受け取っています。1916年には、華岳が初めて仏画に挑戦し、第10回文展に『阿弥陀之図』を出品して特選を受賞しています。 有力な美術団体「国画創作協会」を設立 第10回文展の翌年は落選となり、新しい傾向を持つ作品への評価に不満を抱いた村上華岳は1918年、京都市立絵画専門学校の同窓である土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らとともに、若手日本画家5人による国画創作協会を設立しました。 この協会は、華岳を中心に文展の審査のあり方に疑問を抱いた若い画家たちが、西洋美術と東洋美術を融合させ、新しい絵画を創出していくために結成されたもので、近代日本画革新運動の一つとして知られています。 国画創作協会の第2回展で出品した『日高河清姫図』は、華岳の代表作の一つです。 なお、第1回展では涅槃を題材にした『聖者の死』を出品していますが、焼失してしまい現代には残されていません。 長年憧れた渡欧をぜんそくで断念 村上華岳は、長年憧れ続けてきた西洋美術を自身の目で直接見て学ぶために、国画創作協会の仲間である土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花らと渡欧の計画を立てますが、華岳は直前にぜんそくの発作を起こしてしまい一人断念することに。 1924年、仲間がヨーロッパから帰国すると協会展を再開しますが、華岳は画壇としての活動が画家の自由な創作を縛り付け、芸術活動を不純なものにするのではという思想が強まったことと、持病のぜんそくが悪化したこともあり、1926年の第5回国画創作協会展への出品を最後に画壇を離れました。 1927年、京都を離れ神戸花隅に移り住み、京都画壇とは距離を置いた状態で、個性的な山水図や牡丹図、仏画などの制作にあたりました。 独自の水墨画の作品を残す 村上華岳は、自身を慕う数少ない人々から支援を受けながら、自己の精神的深化を追い求め、深い精神性と官能性をあわせもった観音像や六甲の山並み、牡丹花などをモチーフにした独自の水墨画を描いていきます。 神戸 花隈に移り住んでからの華岳は、病弱であったためか小さな作品が多く、色彩もモノクロームに近いものが増えていました。 華岳が描く菩薩や仏は、『裸婦図』の系譜を引いているのが特徴で、世俗性と精神性、官能美と悟りの境地、妖艶さと聖性という相反する要素が調和している様子が魅力的です。 晩年の華岳は、毎晩発生するぜんそくの発作と、発作を抑えるための劇薬の服用により、肉体的苦痛の極限状態にありましたが、それでも筆を執り続けました。 しかし、病状が改善されることはなく、1939年、『牡丹図』に加筆するための礬水びきをしたその夜に、51歳で生涯の幕を閉じました。 村上華岳の代表作 村上華岳は、新時代の日本画開拓に貢献した人物の一人で、神秘的な仏画を多く描き人々を魅了してきました。 晩年はぜんそくに苦しみながらも、病状と闘い孤独の中で制作活動を行っていました。 闘病生活と並行して制作をしていたためか、晩年の華岳の作品は小さいサイズのものが多い特徴があります。 また晩年は、モノクロームで落ち着いた色彩の作品が多く制作されました。 『裸婦図』 『裸婦図』は、第3回国画創作協会展に出品された作品です。 異国情緒漂う薄衣をまとった菩薩にもみえる女性が描かれた作品で、村上華岳自身は『裸婦図』について、女性の眼に観自在菩薩の清浄さを表現しようとしたとのちに語っています。 世俗性と精神性、官能美と宗教性、妖艶さと聖性といった相反する要素が取り入れられているのも特徴で、この表現方法は、のちの華岳の仏画にも引き継がれていきました。 官能的な要素がありながらも、気品にあふれた雰囲気を醸し出す華岳の仏画は、近代の宗教絵画の中でも高く評価されています。 『日高河清姫図』 『日高河清姫図』は、能や戯曲にもなった安珍と清姫の物語をモチーフにした作品です。 道成寺縁起伝説では、清姫は蛇の姿になって愛する人を焼き殺す激情に翻弄される女性として伝わっていますが、華岳が描いた『日高河清姫図』の中の清姫は、悲しみや切なさのある雰囲気が伝わってきます。 絵には、雨雲が低く垂れこみ、画面のほとんどに黄土色の山肌が描かれ、左下にわずかに川らしきものが流れている構図が印象的です。 『観世音菩薩 施無畏印像』 『観世音菩薩 施無畏印像』は、1928年に制作された作品で、村上華岳のぜんそくが悪化し、闘病する中で描かれています。 施無畏印とは、恐れを退き人々に安寧を与える手指の形のことです。 施無畏印を結んだ観音菩薩が描かれており、その優しげな表情と肉感が特徴的です。 『菩薩図』 『菩薩図』は、制作年が判明していませんが、村上華岳らしさがよく表現されている作品で、繊細な線描と淡い色彩が上品な雰囲気を醸し出しています。 子どもにも女性にもみえる神秘さをまとった菩薩が、かすかに微笑みを浮かべている表現方法が印象的です。 村上華岳作品の中では、比較的小さいサイズの作品です。 年表:村上華岳 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1888年(明治21年)7月3日 0歳 大阪天満松ケ枝町に生まれる。本姓は武田、甲州武田氏の末裔。本名は震一。 1895年(明治28年) 7歳 神戸市神戸尋常小学校に入学し、叔母の嫁ぎ先である村上家に寄居する。 1903年(明治36年) 15歳 京都市立美術工芸学校に入学。 1904年(明治37年) 16歳 村上家の養子となり、「村上」姓を名乗る。 1907年(明治40年) 19歳 京都市立美術工芸学校を卒業。 1909年(明治42年) 21歳 京都市立絵画専門学校に入学。 1911年(明治44年) 23歳 京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作『早春』が第5回文展で褒状を受賞。 1913年(大正2年) 25歳 京都市立絵画専門学校の研究科を修了。 1916年(大正5年) 28歳 『阿弥陀之図』が第10回文展で特選となる。 1918年(大正7年) 30歳 国画創作協会を結成し、第2回展で代表作『日高河清姫図』を発表。 1920年(大正9年) 32歳 『裸婦図』を国画創作協会第3回展に出品。 1921年(大正10年) 33歳 持病の喘息のため、他の国画創作協会のメンバーと共に渡欧せず。 1923年(大正12年) 35歳 京都から兵庫県芦屋市に転居し、隠棲生活を始める。 1925年(大正14年) 37歳 インドの詩人タゴールと交流し、『タゴール像』を素描。 1927年(昭和2年) 39歳 神戸市花隈に転居。以後、画壇から距離を置きつつ制作を続ける。 1934年(昭和9年) 46歳 憧憬者たちが集まり、東京永楽倶楽部において華岳の作品展を開催。 1935年(昭和10年) 47歳 帝国美術院第一部無鑑査となる。 1936年(昭和11年) 48歳 京都美術倶楽部で友人たちが華岳の作品百余点を展示。 1939年(昭和14年)11月11日 51歳 神戸花隈の家で喘息のため死去。晩年に『牡丹図』に加筆するための作業を続けていた。
2024.12.27
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岩佐又兵衛(1578年-1650年)浮世絵師[日本]
武士の家系に生まれ、波乱万丈な幼少期を送り、絵師となった岩佐又兵衛。 浮世又兵衛の名で呼ばれていたこともあり、のちの時代では浮世絵の元祖ともいわれるようになりました。 浮世絵の元祖と呼ばれる「岩佐又兵衛」とは 生没年:1578年-1650年 岩佐又兵衛は、江戸時代初期に活躍した武家出身の浮世絵師です。 又兵衛は、兵庫県伊丹の有岡城主である荒木村重の息子として生まれました。 誕生した翌年、父の村重は織田信長の家臣でしたが、反逆を企てて失敗してしまいます。 有岡城の戦いまたは伊丹城の戦いといわれており、羽柴秀吉の軍として三木合戦に参戦していた村重が戦線を離脱して有岡城に帰城し、信長に謀反を起こしたことがきっかけで始まりました。 村重が破れ有岡城が落城する際、荒木一族のほとんどは惨殺されてしまいます。 しかし、まだ2歳の幼い子どもであった又兵衛は、乳母に助けられ石山本願寺に保護されました。 その後、又兵衛は信長の息子である織田信雄に仕え京都で暮らし始めたそうです。 武士の道を捨てて浮世絵師となる 京都で暮らし始めた岩佐又兵衛は、父の家臣の子どもであり、京都で絵師として活躍していた狩野内膳から絵を 学んだという説もあるが、本当のところはわかっていない。 その後も、土佐派や狩野派の技法を習得しながら京都で活躍していきました。 また絵師としての活動を始めた又兵衛は、母の性である岩佐を名乗るようになったのです。 大阪夏の陣の後、又兵衛は松平忠直に招かれ福井に移住しました。 そこで、松平家のために多くの作品を描いたといわれています。 又兵衛の代表作の多くは、この時期に生み出されたといわれており、有名なものでは『浄瑠璃物語絵巻』や『山中常盤物語絵巻』などがあります。 20年の間、福井で暮らしたのち徳川家に招待され、晩年の20年は江戸で活躍しました。 近松門左衛門も憧れた浮世絵師 岩佐又兵衛が浄瑠璃の世界を題材に描いた絵巻『浄瑠璃物語絵巻』。 江戸時代前期に活躍した浄瑠璃・歌舞伎の作者である近松門左衛門は、又兵衛をモデルにした舞台を制作しています。 1708年に初公演された浄瑠璃『傾城反魂香』に登場する主人公の絵師「吃の又平」は、又兵衛がモデルといわれています。 現代でも人気のある演目で、繰り返し上演されてきたことで、又兵衛の名が広く知れ渡るようになったともいえるでしょう。 岩佐又兵衛が描いたとされる絵巻たち 岩佐又兵衛の描いた作品は、それまでの流派にとらわれない独自の画風で人気を集めました。 又兵衛は、人物の表現方法が独特で、豊かな頬や長いあご、たくましい身体などを強調して描く特徴があります。 自身のスタイルを確立させた又兵衛は、浮世絵の先駆者として「浮世又兵衛」とも呼ばれていました。 重要文化財『山中常盤物語絵巻』 『山中常盤物語絵巻』は、義経伝説をもとにした御伽草子系の物語で、重要文化財に認定されています。 奥州へ向かった牛若を探して都を旅立った母の常盤御前が、山中の宿で盗賊に殺されてしまい、牛若が母の仇を討つ物語です。 この作品は、全12巻からなり、全長は150mを超える超大作として知られています。 また、岩佐又兵衛が描いた絵巻物群の中でも、生気あふれる力強い作風であるといわれており、又兵衛本人が関与している可能性が最も高いといわれています。 自然や風俗の描写が細かく巧みで、又兵衛の技量の高さがうかがえる作品です。 重要文化財『浄瑠璃物語絵巻』 『浄瑠璃物語絵巻』も、牛若を主人公にした物語で、『山中常盤物語絵巻』と同様に重要文化財に認定されています。 奥州に向かう牛若と、三河矢矧の長者の娘である浄瑠璃との恋愛模様をメインにした物語です。 牛若の衣装デザインや浄瑠璃姫の寝室の調度、2人が交わす大和言葉などが事細かに表現されており、各シーンは金箔や金銀泥、緑青、群青、朱などの高価な顔料を用いて描かれています。 岩佐又兵衛が描いたとされる絵巻群の中で、最も色彩が華やかで豪華絢爛な作品であるといわれています。 年表:岩佐又兵衛 西暦(和暦) 満年齢 できごと 1578年(天正6年) 0歳 摂津国有岡城主、荒木村重の子として生まれる。 1579年(天正7年) 1歳 織田信長に反逆した父・村重が敗北。有岡城落城後、乳母に救出され、石山本願寺に保護される。 1587年(天正15年) 9歳 北野大茶湯に参加した可能性がある。 1616年(元和2年) 38歳 京都から福井へ移住。松平忠直と面識を持つが、直接仕えることはなかった。 1623年(元和9年) 45歳 松平忠昌が福井藩主となった後も福井に留まり、多くの作品を制作。 1637年(寛永14年) 59歳 京都を経て江戸へ向かう。江戸幕府3代将軍徳川家光の招きとされる。 1638年(寛永15年) 60歳 仙波東照宮の再建に際し、『三十六歌仙図額』を奉納する仕事を命じられる。 1640年(寛永17年) 62歳 仙波東照宮新社殿の完成に合わせて『三十六歌仙図額』を奉納。 1650年(慶安3年)6月22日 73歳 江戸で没する。家は福井に残した息子、岩佐勝重が継承。
2024.12.27
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尾形光琳(1658年-1716年)画家[日本]
琳派を代表する画家「尾形光琳」とは 生没年:1658年-1716年 尾形光琳は、江戸時代中期を代表する画家で、琳派を代表する人物です。 伝統あるやまと絵に、大胆な構図や色彩を取り入れた斬新な画風が特徴で、背景には金箔がふんだんに使用された屏風絵作品が有名です。 琳派は、世襲制や師弟関係が存在しないため、直接絵を学ぶことはありませんでしたが、光琳は俵屋宗達をはじめとした先人の作品を手本に模倣を繰り返し、技術を学びながら独自の画風を築き上げていったと考えられています。 裕福な呉服屋の次男として生まれる 尾形光琳は、1658年に京都有数の呉服商である「雁金屋」の次男として生まれました。 父の尾形宗謙は、能楽や茶道、書、絵画などをたしなむ趣味人で、光琳は父の影響により幅広いジャンルの文化芸能に幼いころから親しみました。 陶工や絵師として活躍していた尾形乾山は、光琳の5歳下の弟です。 裕福な家柄で生まれ育った光琳でしたが、21歳のときに雁金屋の最大顧客であった東福門院が亡くなってしまいます。 東福門院は、江戸幕府の2代将軍・徳川秀忠の娘であり、後水尾天皇の后でもありました。 最大の顧客を失った雁金屋の経営状況は悪化の一途をたどり、30歳のときには父が亡くなります。 尾形光琳は、父の莫大な遺産を相続しましたが、まともに働かないまま遊び惚けており、早々に財産を使い果たしてしまったといわれています。 尾形光琳は遊び人だった? 数多くの名作を残している尾形光琳ですが、30代を迎えるまではかなりの遊び人だったといわれています。 亡くなった父の遺産で豪遊し、女性との交際も華やかなものだったそうです。 30歳前後で結婚したといわれていますが、トラブルは後を絶ちませんでした。 32歳のときには、女性から子どもの認知をめぐって訴えられたこともあり、家屋敷や財産を差し出して穏便に済ませようと交渉に持ち込んだ逸話も残されています。 また、光琳には、正妻を含めて6人の妻と7人の子どもがいたともいわれています。 このような話から、光琳は大変プレイボーイであったと予想できるでしょう。 本格的に画業をはじめたときも借金をしており、のちに画家として成功してからも派手な暮らしから離れられず、借金漬けの生活を続けていたそうです。 絵師としてデビューしたのは30代後半 尾形光琳が絵師として本格的にデビューしたのは30代後半ごろからだったといわれています。 江戸に移り住み、大名お抱え絵師として活躍し、雪舟の水墨画や狩野派、中国絵画などを学んでいきますが、江戸での暮らしになじめず5年ほどで京都に戻っています。 京都に戻ってからは、江戸で学んだ技術や経験と持ち前の絵画センスで、目覚ましい活躍をみせるようになりました。 幼いころから家業の影響で衣装文様の装飾美に多く触れていた光琳は、構図感覚や色彩感覚に優れていたと考えられます。 また、公家の名門である「二条綱平」という強力な後援者を得るとともに、富裕層が好む装飾的で豪華絢爛な作風を得意として、活躍の場を広げていきました。 1701年、尾形光琳が44歳のときには「法橋」の称号を授かっています。 そもそも法橋は、高僧に与えられる位ですが、優れた功績をおさめた絵師や仏師にも与えられるケースがありました。 制作年代を確定できる要素がなく、いつごろ制作されたものか判明していない作品もありますが、残されている多くの作品に「法橋光琳」の落款が押されていることから、本格的に絵画を制作し始めたのは、30代後半から40代以降と推察されています。 尾形光琳が活躍した元禄年間 尾形光琳が活躍した時代は、琳派が誕生してから約100年経った時代の京都です。 光琳が生まれた時代は、元禄年間と呼ばれており、江戸幕府5代将軍の徳川綱吉がおさめていたころです。 江戸時代の最盛期ともいわれており、積極的な新田開発や農業技術、器具の改良などにより農業生産力が大幅に向上し、経済的にも発展を遂げていました。 商品流通の拡大もあり、貨幣経済が発展し、大阪や京都を中心に商業都市が栄えていきました。 絵画の世界では、幕府や大名のお抱え絵師である狩野派や、朝廷絵師の土佐派などが活躍していたそうです。 一方、琳派は新しい時代の作品を多く制作しており、数々の名品を生み出しています。 光琳は、琳派の中でも本阿弥光悦や俵屋宗達の技法を吸収し、琳派を発展させていった人物としても知られています。 絵画や蒔絵に新しい風を吹き込み、多くの人々から人気を集めました。 300年後も評価されるデザインセンスを持っていた 尾形光琳は、デザインセンスに優れており、俵屋宗達の画面構成にならい独自の画風を確立しました。 『紅白梅図屏風』でも、その天才的なセンスが発揮されており、大きな水流を中央に描き、左右の金地には紅白の花を咲かせた梅の老木と若木を配置しています。 自然の景観をモチーフにしていますが、本来の自然界では存在しない構成であり、光琳のセンスが光る作品です。 印象的な構図で、当時の日本美術のイメージとはかけ離れている作品であるにもかかわらず、一つの作品としてまとめられているのは、光琳のデザインセンスがあったからこそであるといえるでしょう。 また、『燕子花図屏風』では、燕子花のモチーフが繰り返されているデザインが印象的で、光琳のクリエイティブさがうかがえます。 尾形光琳は美意識も高かった 尾形光琳は、美意識も高く、優れたファッションアドバイザーでもありました。 光琳は、後援者だった中村内蔵助と公私問わず親交を深めており、蔵助の妻が茶会に出かけるときにどのような衣装を着ていくべきかを光琳に相談したそうです。 当時、富裕層の妻たちが集まって行われていたお茶会は、衣装の豪華さを競う場でもありました。 光琳はそのような場で、あえて白と黒のシンプルな色使いの衣装を提案します。 アドバイスを受けて、シンプルな衣装を着て出かけた蔵助の妻は、豪華な装いをしたほかの妻たちから絶賛されたそうです。 このエピソードから、光琳が優れたファッションセンスも身につけていたことがわかるでしょう。 尾形光琳はアール・ヌーヴォーの火付け役? 尾形光琳は、19世紀の終わりから20世紀のはじめごろのフランスを中心としたヨーロッパ全体で流行していたアール・ヌーヴォーの火付け役であったともいわれています。 国際的な美術運動であるアール・ヌーヴォーは、植物の文様や流れるような曲線のデザインが特徴的で、その後のジャポニズムにつながっていきました。 アール・ヌーヴォーが誕生したきっかけは、琳派の絵画であったといわれています。 当時欧米では、シーボルトが持ち帰った酒井抱一の『光琳百図』や、フェノロサによって紹介された琳派の俵屋宗達や光琳が注目されており、光琳文様の自然表現がクリムトやミュシャなどの画家に大きな影響を与え、西洋絵画に新しい風を吹き込んだのでした。 尾形光琳と俵屋宗達 俵屋宗達は、江戸時代の初期に活躍していた絵師で、尾形光琳とは生きていた時代が異なります。 直接的な師弟関係はありませんでしたが、光琳の作品からは宗達が描いた『風神雷神図』『槙楓図』のような様式がみられるものもあり、光琳が宗達の作品から学びを得ていたのではないかと考えられています。 光琳は宗達を目標にしていたといわれていますが、決して越えられない壁であると気付いた光琳は、独自の画風を生み出していったのでした。 尾形光琳と尾形乾山 尾形光琳には、尾形乾山という5歳離れた弟がいました。 乾山も芸術家としての道に進んでいますが、絵ではなく焼きものの制作を選び、二条家から譲ってもらった窯で乾山窯を開いていました。 初期のころに制作していた焼きものの絵付けは、すべて兄である光琳が行っていたそうで、兄弟の仲は良好であったと考えられるでしょう。 また、派手好きで遊び人であった光琳とは正反対に、乾山は勤勉で読書好きだったといわれています。 年表:尾形光琳 西暦 満年齢 できごと 1658年 0歳 京都で呉服商「雁金屋」の次男として生まれる。幼名は惟富、通称は市之丞。 1678年 20歳 雁金屋の経営が東福門院の崩御により傾き始める。 1687年 29歳 父・宗謙が死去。兄・藤三郎が雁金屋を継ぎ、光琳は遊興にふけ、借金をつくる。 1692年 35歳 「光琳」の名が史料に初めて登場する。収入の為に画業に専念し始める。 1701年 44歳 法橋の位を得る。これ以降、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られるようになる。 1704年 47歳 江戸へ下る。裕福あった中村内蔵助を頼り、経済的に困窮しつつも活動を続ける。 1709年 51歳 京都に戻る。 1711年 53歳 京都の新町通りに新居を構え、創作活動を行う。 1713年 55歳 長男・寿市郎に遺言書に相当する書を残す。自身の画業を「家業」とは見なしていないことを述べる。 1716年7月20日 59歳 死去。代表作『紅白梅図』などを残す。
2024.12.27
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旭玉山(1843年-1923年)彫刻家[日本]
象牙彫刻や彫嵌細工を手がける「旭玉山」とは 生没年:1843年-1923年 旭玉山とは、象牙彫刻や彫嵌細工を表現のメインとして活動していた彫刻家です。 玉山は、浅草の寺の子どもとして生まれますが、僧侶の道を捨て、一般の人に戻り、独学で彫刻を学んでいきました。 彫刻の技術を習得すると、生き物をモチーフにした精緻な根付を作り、生活するように。 根付とは、主に江戸時代に使用されていた留め具のことで、印籠や煙草入れ、巾着などに利用されていました。 その後、玉山は1877年に開催された第一回内国勧業博覧会に『人体骨格置物』を出品し、見事竜紋賞を受賞しました。 翌年の1878年には、明治時代の彫刻科である石川光明とともに、牙彫の技術や文化を発展させるために、競技会と批評会を定期的に開催するようになり、のちの東京彫工会につながっていきます。 1881年には、第二回内国勧業博覧会にて『牙彫髑髏』を出品し、名誉賞牌を受賞して高く評価されます。 明治宮殿が造営される際は、東京彫工会を代表して宮内省に出向き、多くの工芸家たちをまとめて彫刻制作を取り仕切りました。 1890年、玉山は眼病を患い大磯に移住し、その後1892年には京都に移り住みます。 京都に移ってからは、関西地区で開催される博覧会で審査員を務めました。 1900年に開催されるパリ万国博覧会に向けて作品の制作を進めていましたが、展覧会までに完成が間に合わず、作品は翌年の日本美術協会展にて出品されました。 その作品が『官女置物』で、十二単を牙彫で精緻に表現しているこの作品は、明治牙彫の代表作として知られています。 玉山は、木彫をメインに嵌入彫刻や鹿角彫刻を制作していましたが、晩年は素朴でシンプルな表現の作品を多く制作しました。 象牙を素材にした彫刻「象牙彫刻」の特徴 象牙彫刻とは、象牙を素材として彫刻した作品を指し、象牙がもつ重量感や柔らかな質感、温かみのある色合いなどが特徴です。 牙彫師の繊細で卓越した技巧により生み出された象牙彫刻には、ほかの芸術作品にはない独特の美しさがあります。 また、すべての象牙が作品として利用できるわけではなく、彫刻とするのに適した硬度と粘りが存在します。 象牙彫刻によって作られる主な工芸品は、アクセサリーや根付などの作品や、刀装具、印章、楽器の部品、などです。 また、人や動物、建物をモチーフに作られた芸術作品も多く制作されています。 象牙彫刻の歴史をさかのぼると、約32,000年前のドイツで獅子頭の小立像が発見されており、この作品が最も古い象牙彫刻であるといわれています。 中国では、宮殿を飾る等宮廷職人が象牙彫刻の技術を発展させていき、奈良時代ごろに中国から日本にも象牙作品が伝わっていきました。 江戸時代以降は、牙彫根付が流行し、精巧な牙彫の印寵といった日用品や置物にも象牙彫刻の技術が利用されるように。 大正時代に入ると、着色技術が発展していき、豊かな色彩表現が特徴の象牙彫刻も増えていきました。 素材はめ込んで装飾する「彫嵌細工」の特徴 彫嵌とは、象牙や木などのベースとなる素材を図柄にあわせて彫り、刻んだ貝や牙角、金属、べっ甲などをはめ込んで装飾する技法を指します。 もともとは大陸で生まれた技法といわれており、日本に伝わってからさらに技術が洗練されていき、特に明治以降は、彫嵌細工の優れた美術品が数多く制作されています。 彫嵌細工は、素材の特性を熟知したうえで、高度な技術を用いて制作する必要があり、時間と手間が大いにかかる美術品です。 彫嵌細工は、美しいだけではなく、独特の風格や品格を備えており、多くの人の心を惹きつけてきました。 旭玉山の代表作『牙彫髑髏置物』 『牙彫髑髏置物』は、1881年に玉山が制作した牙彫作品で、明治政府が編纂している図案集『温知図録』にも掲載されています。 玉山は、医学者の松本良順らから人体骸骨の制作指導を受けており、象牙彫刻を用いた髑髏の制作を得意としていたそうです。 年表:旭玉山 西暦 満年齢 できごと 1843年 0歳 浅草の寺に生まれる。幼名は富丸。 1877年 34歳 第一回内国勧業博覧会で『人体骨格置物』を出展し、竜紋賞を受賞。 1878年 35歳 石川光明と共に牙彫発展のための競技会と批評会を開始。 1881年 38歳 第二回内国勧業博覧会で『牙彫髑髏』を出展し、名誉賞牌を受賞。 1885年 42歳 競技会と批評会が東京彫工会に発展。 1890年頃 47歳 眼病を患い、大磯に移住。 1892年 49歳 京都に移住し、関西地区の博覧会で審査員を務める。 1900年 57歳 パリ万国博覧会に向けて制作を進めるも間に合わず、翌年日本美術協会展に出展。 1901年 58歳 日本美術協会展に『官女置物』を出展し、高い評価を受ける。 1923年8月10日 80歳 死去。
2024.12.27
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高村光雲(1852年-1934年)仏師・彫刻家[日本]
彫刻界の重鎮と呼ばれた「高村光雲」とは 生没年:1852年-1934年 高村光雲は、日本の仏師であり彫刻家で、明治から大正にかけて活躍した人物です。 仏像や動物をモチーフにした作品を多く残しており、代表作には、上野公園の『西郷隆盛像』や皇居の『楠公像』などがあり、一度は目にしたことがある人も多いでしょう。 息子の高村光太郎は、詩人であり彫刻家としても活躍した人物です。 12歳で仏師・高村東雲に弟子入り 光雲は、江戸・下谷源空寺門前の長屋にて生まれ、本名を中島幸吉といいます。 父の兼松は、自身が幼いころ家庭の事情で手に職を付けられなかった経験から、息子には何か手に職を付けさせてやりたいと考えていました。 幼いころからノコギリやのみで木片を切ったり削ったりしている光雲の姿をみて、大工をしている親戚の家に奉公に出そうと考えます。 光雲が12歳になり、いざ奉公に出る日の前日、髪を整えるために訪れた床屋で大きな転機がまっていました。 光雲が大工に弟子入りすると床屋の主人に伝えると、彫刻師の高村東雲が一人弟子をとりたがっていることを伝えられます。 それを聞き、光雲は大工への弟子入りをやめ、東雲に弟子入りすることを決めたのでした。 光雲は、伝統ある仏像彫刻の技術を守り続けてきた東雲のもとで、彫刻に関する技術を熱心に学びます。 のちに、光雲は兵役を逃れるために、東雲の姉の養子となり、高村の名を継ぎました。 1874年、東雲からも認められるほどの腕前を身につけた光雲は、高村光雲と名乗り、1877年には第1回内国勧業博覧会にて東雲の代わりに『白衣観音』を出品しました。 この作品は、最高賞となる龍紋賞を受賞し、光雲の名は多くの人々に知れ渡っていきます。 師匠亡きあと独立するも苦境が待っていた 1879年、師匠である東雲が亡くなり、光雲は仏師・彫刻家として独立することになりました。 師の東雲が精力的に製作していた時代から、木彫りは徐々に衰退の道を辿っており、明治維新後は、さらに仏教を廃止する運動が高まっていったため、仕事は急速に減少していきました。 さらに、海外向けに輸出された象牙彫刻が流行となり、独立したばかりの光雲の生活は、次第に苦しくなっていったのです。 しかし、光雲は逆風に飲まれることなく積極的に西洋美術を学び、木彫りをさらに研究していきました。 西洋美術から写実的な表現方法を学んだ光雲は、木彫りにも応用して新しい技術を生み出し、木彫りの伝統を近代へとつなげる橋を架けました。 牙彫師・石川光明をきっかけに美術の世界へ その後、光雲は洋傘の柄から貿易品の型彫りまで、木彫りの依頼は何でも引き受け、仕事を着実にこなしながら木彫りの技術を磨いていきました。 そのようなとき、転機となる彫刻作家、石川光明と出会います。 光明は光雲と同い年で、下谷稲荷町の宮彫師の家に誕生し、牙彫師・菊川正光に師事し牙彫を学んでいる人物です。 1881年には、第2回内国勧業博覧会に出品した『魚籃観音』が妙技二等賞を受賞し、超絶技巧といわれるほどの高い技術力によって活躍していました。 地元が同じかつ同い年であり、さらには似た経歴をもつ2人は、すぐに意気投合し、光明に誘われ、光雲も日本美術協会の会員となっています。 これがきっかけで、仏師職人の道を歩んできた光雲が、日本美術の世界に足を踏み入れていくのでした。 その後、光雲は日本美術協会役員の推薦により、光明とともに皇居造営における室内装飾を任され、日本の木彫りの第一人者として広く知れ渡りました。 東京美術学校の教授となり後進の育成に励む 光雲は、1889年に開校となった東京美術学校の教員に就任しました。 開校当初は、日本画科と彫刻科、工芸科の3つが設置され、光雲は校長の岡倉天心に誘われ、彫刻科の教員を務め、翌年には教授に就任しています。 同年、皇室が日本の美術や工芸を保護と奨励を目的として定めた帝室技芸員に、光明とともに任命されました。 その後は、明治のはじめごろから衰退の一途を辿っていた日本の木彫りを再興するために、精力的に製作活動をする一方、東京美術学校での指導や工房で多くの弟子をとるなど、後進の育成にも励みました。 高村光雲が手がける作品の特徴 高い技術力をもつ光雲は、伝統的な日本の木彫りに西洋の技術を融合させ、新たな作品を次々に生み出していきました。 伝統の木彫技術と西洋の写実性との融合 これまでの木彫りには、写実的な技術があまり用いられていませんでしたが、光雲は時代の移り変わりにあわせて積極的に西洋美術を学び、写実主義を取り入れた新たな木彫技術を生み出しました。 画家が写生するときのようにモチーフをよく観察し、見たままを写し取るのが特徴です。 写実性を重視していた光雲は、製作時に描いたスケッチが多く残されています。 今にも動き出しそうな細部へのこだわり 光雲の作品は、規模が大きく迫力のあるものも多くありますが、個人が所有する小・中サイズの仏像や動物をモデルにした作品も、多く製作しています。 小さな作品でも、口元の歯や目じりのシワなど細部に至るまで表現されており、衣は柔らかさをもった質感で再現されているのが魅力です。 動物をモデルにした作品では、皮膚の質感や毛の流れなども繊細に表現されており、今にも動き出しそうな躍動感が伝わってきます。 年表:高村光雲 西暦 満年齢 できごと 1852年3月8日 0歳 江戸下谷(現・台東区)で生まれる。 1863年 11歳 仏師・高村東雲の元に徒弟として入る。 1889年 37歳 東京美術学校に勤務開始、彫刻科教授に就任。 1890年 38歳 帝室技芸員に任命される。 1893年 41歳 『老猿』をシカゴ万博に出品。 1897年 45歳 『西郷隆盛像』が完成。 1900年 48歳 『山霊訶護』をパリ万博に出品。 1901年 49歳 正六位に叙される。 1903年 51歳 従五位に叙される。 1912年 60歳 正五位に叙される。 1922年 70歳 正四位に叙される。 1926年 74歳 東京美術学校を退職し、名誉教授となる。従三位に叙される。 1934年10月10日 82歳 死去。満82歳。
2024.12.27
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山田宗美(1871年-1916年)鍛金家[日本]
早世の鍛金家「山田宗美」とは 生没年:1871年-1916年 山田宗美は、石川県加賀市出身の鍛金家で、本名は山田長三郎といいます。 宗美は、石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で、加賀市の大聖寺藩に仕えていた武具鍛冶師の家系に生まれました。 1885年ごろから父の山田宗光に象嵌や打出しなど鍛金の技法を学び、ほかの兄弟が早くに亡くなってしまったことから1890年に10代目長三郎を襲名し、号として宗美を使うようになりました。 1891年、弱冠20歳とまだ若かった宗美は、新しい鉄打出の技法を編み出します。 1枚の薄い鉄板を金づちで叩いて伸ばし、立体の花瓶や置物を作り上げる独自の手法で、銅をはじめとした柔らかい金属とは異なり、鉄の打ち出しは難しく高い技術が必要なため、この技法は、画期的なものでした。 宗美は、卓越した鉄の打ち出し技術を持ち合わせており、「宗美の先に宗美なく、宗美のあとに宗美なし」といわれるほどでした。 宗美は、自身が編み出した鉄打出技法を用いて数々の名作を製作しています。 1896年には、日本美術協会展に作品を初出品し、三等賞銅牌を受賞して宮内庁御用品となりました。 さらに、1900年にフランスで開催されたパリ万国博覧会、1904年にアメリカで開催されたセントルイス万国博覧会にも立て続けに作品を出品し、一等賞金牌を受賞しています。 さらに、1910年の日英博覧会に出品した『鉄打出狛犬大置物』は、名誉大賞を受賞。 宗美の精巧な技術と作り上げられた作品は、日本のみにとどまらず、海外からも高く評価されたのでした。 華々しい活躍をおさめる宗美ですが、一心不乱に創作活動を行っていたため、健康面で不調がみられるようになっていきました。 1913年、宮内省により運営されている帝室技芸員に推薦され、1916年には内定していましたが、発表を目前にして宗美は、44歳という若さで亡くなってしまいます。 帝室技芸員とは、美術や工芸において優秀な功績を残した人物が任命されるもので、技術の保護と発展のために制定された制度です。 今後の活躍も大いに期待されていた宗美でしたが、任命発表を待たずして生涯の幕を下ろしたのでした。 山田宗美が作り出す作品の魅力 宗美が製作してきた作品は、金属でありながらも細やかな写実性を表現しているのが大きな特徴です。 宗美は、たがねを使用して金属の表面を細かく彫り、彫った溝に別の種類の金属をはめ込む彫金技法「象嵌」を得意としていました。 江戸時代においては、武士が使用する鎧や兜、刀などの装飾に象嵌の技術が活用されていました。 象嵌を使用して金属を作る技法には、鍛金・彫金・鋳金の3つがあり、鍛金とは熱した金属が伸びる特性を活かし、叩いて伸ばすことで造形していく技術です。 宗美は、造形が難しいといわれていた鉄を使用した打出技法を編み出しており、その技術を利用して精巧な置物や花瓶などを作成しています。 宗美の作品では、特にウサギをモチーフにした置物が有名で、本物のウサギのようにピンと長い耳や柔らかな毛の質感を鉄で巧みに表現しており、作品を鑑賞すると思わずうっとりしてしまうでしょう。 細部にまでこだわり写実された作品は、素人目でみても心が惹きつけられます。 山田宗美は新しい技法を生み出した 宗美が考え出した鉄打出と呼ばれる新技法は、画期的な技術で、日本のみならず世界中で高く評価されています。 素材が鉄であるにもかかわらず、作品から冷たさは感じられず、写実的で今にも動き出しそうな躍動感が魅力です。 宗美には弟子がおり、黒瀬宗世は、1枚の薄い鉄板を伸ばして立体的な作品を作り出す技術を継承した数少ない人物です。 若くして亡くなってしまった宗美ですが、生み出された匠の技術は、後世にも伝えられています。 山田宗美の代表作品 巧みな技術を用いて作られた宗美の作品は、金属でありながらもリアルで温かみがあります。 『鉄打出兎置物』 『鉄打出兎置物』は、本来は伸ばしにくい1枚の薄い鉄板を、均一の厚さを維持しながら金づちで伸ばしていき、打ち絞ることで置物や花瓶を造形していく鉄打出工芸の技法を用いて作られています。 1枚の鉄板から形作られたとは思えない、リアルで躍動感のある作品は、精緻な写実表現により見る者を圧倒します。 また、鋳造品のように重量感のある見た目をしていますが、実際に作品を手に取ってみると、思っているよりも軽いのが特徴です。 この技法が誕生した過程や技法の詳細は、記録や資料として残されておらず、現在では再現不可能な幻の技法といわれています。 両耳をピンと真っすぐに伸ばしてうずくまるウサギの置物は、今にも飛び跳ねそうな躍動感を兼ね備えています。 前足と後ろ足の緊張感のある筋肉表現や、ふわふわとした毛の質感、両頬を膨らませて何か口に含んで隠しているような愛らしさなど、ウサギ独特の表情や動きがリアルに表現されているのが魅力の一つです。 写実性の高さから、技術力はもちろん、宗美の観察眼の鋭さも作品から垣間見えます。 『大根鼠置物』 『大根鼠置物』は、横向きに置かれた大根の上で、今にもかじりつきそうな様子のネズミが表現された作品です。 口元に手を当てた表情は、写実性が高いだけではなく、ネズミの生命感や躍動感なども巧みに表現しています。 宗美は、この作品を製作するにあたって、ネズミの生態を知るために俵を被り、20日間納屋に潜んでネズミとともに住んだというエピソードが残されており、リアルな表現のために観察に力を入れていたとわかります。 大根は、実際に無造作に置いたときに広がる葉の形を巧みに表現しており、ネズミと同様に鉄の堅さを感じさせない柔らかな質感をもっているのが特徴です。 年表:山田宗美 西暦 満年齢 できごと 1871年12月23日 0歳 石川県江沼郡大聖寺町鍛治町で生まれる。 1891年 19歳 独自の鉄打出し技術を編み出す。 1896年 25歳 日本美術協会展で受賞。 1900年 28歳 パリ万国博覧会で受賞。 1904年 32歳 セントルイス万国博覧会で受賞。 1909年 37歳 日英博覧会で『鉄打出狛犬大置物』が名誉大賞を受賞。 1916年3月15日 44歳 帝室技芸員に内定するも、発表前に死去。 1982年 - 『鉄打出狛犬大置物』と『鉄打出鳩置物』が石川県指定文化財に指定。
2024.12.27
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