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村上華岳とは
生没年:1888年-1939年
村上華岳は、大正から昭和にかけて活躍した日本画家です。
甲州武田氏の末裔である武田誠三の長男として、大阪北区松ケ枝町に生まれました。
華岳は、神秘的でありながら官能さも秘めている仏画を多く描いており、新しい時代の日本画を追求した人物です。
闘病生活をつづけながらも独特な作品を生み出し続けた華岳は、持病のぜんそくが悪化して51歳という若さで亡くなっています。
13歳で家督を継がなければならなかった少年時代
村上華岳は、家庭の事情により7歳のころから実の両親の元を離れ、叔母の嫁ぎ先であった神戸の村上家に預けられ、神戸の小学校に通っていました。
華岳が13歳のとき、実の母は行方知れずで、実の父は亡くなってしまいます。
そのため、まだ少年であった華岳が、武田家の家督を継ぐことになりました。
しかし、3年後の1904年に武田家の廃家が許可されたため、華岳は村上家の養子となります。
なお、廃家とは戸主が婚姻や養子縁組などによって他に家に入るために、元の家を消滅させることです。
華岳は、幼いころから絵を得意としており、村上家の養子になる少し前の1903年に、京都市立美術学校に入学しています。
その後、美術学校の研究生を経て、1909年に新設されたばかりの京都市立絵画専門学校に同年進学しました。
文展への出品は、1908年から始めており、京都市立絵画専門学校の卒業制作で描いた『早春』を第5回文展に出品し、褒状を受け取っています。1916年には、華岳が初めて仏画に挑戦し、第10回文展に『阿弥陀之図』を出品して特選を受賞しています。
有力な美術団体「国画創作協会」を設立
第10回文展の翌年は落選となり、新しい傾向を持つ作品への評価に不満を抱いた村上華岳は1918年、京都市立絵画専門学校の同窓である土田麦僊、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花らとともに、若手日本画家5人による国画創作協会を設立しました。
この協会は、華岳を中心に文展の審査のあり方に疑問を抱いた若い画家たちが、西洋美術と東洋美術を融合させ、新しい絵画を創出していくために結成されたもので、近代日本画革新運動の一つとして知られています。
国画創作協会の第2回展で出品した『日高河清姫図』は、華岳の代表作の一つです。
なお、第1回展では涅槃を題材にした『聖者の死』を出品していますが、焼失してしまい現代には残されていません。
長年憧れた渡欧をぜんそくで断念
村上華岳は、長年憧れ続けてきた西洋美術を自身の目で直接見て学ぶために、国画創作協会の仲間である土田麦僊、小野竹喬、野長瀬晩花らと渡欧の計画を立てますが、華岳は直前にぜんそくの発作を起こしてしまい一人断念することに。
1924年、仲間がヨーロッパから帰国すると協会展を再開しますが、華岳は画壇としての活動が画家の自由な創作を縛り付け、芸術活動を不純なものにするのではという思想が強まったことと、持病のぜんそくが悪化したこともあり、1926年の第5回国画創作協会展への出品を最後に画壇を離れました。
1927年、京都を離れ神戸花隅に移り住み、京都画壇とは距離を置いた状態で、個性的な山水図や牡丹図、仏画などの制作にあたりました。
独自の水墨画の作品を残す
村上華岳は、自身を慕う数少ない人々から支援を受けながら、自己の精神的深化を追い求め、深い精神性と官能性をあわせもった観音像や六甲の山並み、牡丹花などをモチーフにした独自の水墨画を描いていきます。
神戸 花隈に移り住んでからの華岳は、病弱であったためか小さな作品が多く、色彩もモノクロームに近いものが増えていました。
華岳が描く菩薩や仏は、『裸婦図』の系譜を引いているのが特徴で、世俗性と精神性、官能美と悟りの境地、妖艶さと聖性という相反する要素が調和している様子が魅力的です。
晩年の華岳は、毎晩発生するぜんそくの発作と、発作を抑えるための劇薬の服用により、肉体的苦痛の極限状態にありましたが、それでも筆を執り続けました。
しかし、病状が改善されることはなく、1939年、『牡丹図』に加筆するための礬水びきをしたその夜に、51歳で生涯の幕を閉じました。
村上華岳の代表作
村上華岳は、新時代の日本画開拓に貢献した人物の一人で、神秘的な仏画を多く描き人々を魅了してきました。
晩年はぜんそくに苦しみながらも、病状と闘い孤独の中で制作活動を行っていました。
闘病生活と並行して制作をしていたためか、晩年の華岳の作品は小さいサイズのものが多い特徴があります。
また晩年は、モノクロームで落ち着いた色彩の作品が多く制作されました。
『裸婦図』
『裸婦図』は、第3回国画創作協会展に出品された作品です。
異国情緒漂う薄衣をまとった菩薩にもみえる女性が描かれた作品で、村上華岳自身は『裸婦図』について、女性の眼に観自在菩薩の清浄さを表現しようとしたとのちに語っています。
世俗性と精神性、官能美と宗教性、妖艶さと聖性といった相反する要素が取り入れられているのも特徴で、この表現方法は、のちの華岳の仏画にも引き継がれていきました。
官能的な要素がありながらも、気品にあふれた雰囲気を醸し出す華岳の仏画は、近代の宗教絵画の中でも高く評価されています。
『日高河清姫図』
『日高河清姫図』は、能や戯曲にもなった安珍と清姫の物語をモチーフにした作品です。
道成寺縁起伝説では、清姫は蛇の姿になって愛する人を焼き殺す激情に翻弄される女性として伝わっていますが、華岳が描いた『日高河清姫図』の中の清姫は、悲しみや切なさのある雰囲気が伝わってきます。
絵には、雨雲が低く垂れこみ、画面のほとんどに黄土色の山肌が描かれ、左下にわずかに川らしきものが流れている構図が印象的です。
『観世音菩薩 施無畏印像』
『観世音菩薩 施無畏印像』は、1928年に制作された作品で、村上華岳のぜんそくが悪化し、闘病する中で描かれています。
施無畏印とは、恐れを退き人々に安寧を与える手指の形のことです。
施無畏印を結んだ観音菩薩が描かれており、その優しげな表情と肉感が特徴的です。
『菩薩図』
『菩薩図』は、制作年が判明していませんが、村上華岳らしさがよく表現されている作品で、繊細な線描と淡い色彩が上品な雰囲気を醸し出しています。
子どもにも女性にもみえる神秘さをまとった菩薩が、かすかに微笑みを浮かべている表現方法が印象的です。
村上華岳作品の中では、比較的小さいサイズの作品です。
年表:村上華岳
西暦(和暦) | 満年齢 | できごと |
1888年(明治21年)7月3日 | 0歳 | 大阪天満松ケ枝町に生まれる。本姓は武田、甲州武田氏の末裔。本名は震一。 |
1895年(明治28年) | 7歳 | 神戸市神戸尋常小学校に入学し、叔母の嫁ぎ先である村上家に寄居する。 |
1903年(明治36年) | 15歳 | 京都市立美術工芸学校に入学。 |
1904年(明治37年) | 16歳 | 村上家の養子となり、「村上」姓を名乗る。 |
1907年(明治40年) | 19歳 | 京都市立美術工芸学校を卒業。 |
1909年(明治42年) | 21歳 | 京都市立絵画専門学校に入学。 |
1911年(明治44年) | 23歳 | 京都市立絵画専門学校を卒業。卒業制作『早春』が第5回文展で褒状を受賞。 |
1913年(大正2年) | 25歳 | 京都市立絵画専門学校の研究科を修了。 |
1916年(大正5年) | 28歳 | 『阿弥陀之図』が第10回文展で特選となる。 |
1918年(大正7年) | 30歳 | 国画創作協会を結成し、第2回展で代表作『日高河清姫図』を発表。 |
1920年(大正9年) | 32歳 | 『裸婦図』を国画創作協会第3回展に出品。 |
1921年(大正10年) | 33歳 | 持病の喘息のため、他の国画創作協会のメンバーと共に渡欧せず。 |
1923年(大正12年) | 35歳 | 京都から兵庫県芦屋市に転居し、隠棲生活を始める。 |
1925年(大正14年) | 37歳 | インドの詩人タゴールと交流し、『タゴール像』を素描。 |
1927年(昭和2年) | 39歳 | 神戸市花隈に転居。以後、画壇から距離を置きつつ制作を続ける。 |
1934年(昭和9年) | 46歳 | 憧憬者たちが集まり、東京永楽倶楽部において華岳の作品展を開催。 |
1935年(昭和10年) | 47歳 | 帝国美術院第一部無鑑査となる。 |
1936年(昭和11年) | 48歳 | 京都美術倶楽部で友人たちが華岳の作品百余点を展示。 |
1939年(昭和14年)11月11日 | 51歳 | 神戸花隈の家で喘息のため死去。晩年に『牡丹図』に加筆するための作業を続けていた。 |