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ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年)画家[フランス]

女性を描き続けた印象派画家「ピエール=オーギュスト・ルノワール」とは

生没年:1841年-1919年
クロード・モネと並んで印象派の巨匠と称されるフランスの画家ピエール=オーギュスト・ルノワール。
裸婦や少女をやわらかい色彩で生き生きと描いた作品が有名で、儚げで愛らしい女性たちの姿は、日本でも人気を集めています。
ルノワールが描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、絵画史上最も有名な少女像として知られています。
上流階級から依頼され肖像画を描くことが多かったルノワールですが、パリの無名な女性を描くことも好んでいたそうです。

幼いころは歌で才能を発揮していた

ルノワールは、フランス中南部に位置するオート=ヴィエンヌ県リモージュに生まれ、父のレオナルド・ルノワールは仕立て屋を細々と経営しており、母のマルグリットは針仕事をするお針子をしていました。
ルノワールが3歳のとき、家族は商売のチャンスを得るためにパリへ移住し、ルーブル美術館の近くに位置するパリの中心地、アルジャントゥイユ通りで暮らすことに。
当時のアルジャントゥイユ通り周辺は、貧しい人々が暮らす下町のような場所でした。

ルノワールは、幼いころから絵を描いていましたが、当時は歌で才能を発揮していました。
聖歌隊に入ると、美声を評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者をしていたシャルル・グノーからオペラ座の合唱団に入るよう勧められますが、家庭の経済的な理由により音楽の授業を続けられなくなってしまいます。
ルノワールは、13歳で退学すると、家庭を支えるために磁器工場で見習い工として働くことになったのです。

少年時代は陶器絵付の見習工として働く

ルノワールは、磁器工場でも芸術的な才能を発揮し、ルーブル美術館に通いながら絵を学び始めました。
ルノワールの絵の才能は、工場の経営者も認めるほどのものでした。
その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学するために、絵画の授業を受け始めます。
勤務していた磁器工場が産業革命の影響を受けて、生産過程に機械を導入するようになり、職人の仕事が徐々に減り始めました。
学資を得るためにほかの仕事を探す必要があり、ルノワールは海外宣教師向けの掛け 布や扇子に装飾を描いて資金を集めました。

パリのシャルル・グレールのもとで絵を学ぶ

画家になることを決意したルノワールは、1862年にパリのシャルル・グレールのもとで絵を学び始めました。
グレールの画塾は、自由に絵を描くことを許していたため、さまざまなスタイルをもつ画学生が集まっていました。
画塾時代には、モネやアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールなどのちに印象派として活躍する画家たちと知り合います。
グレールからみたルノワールは、楽しそうに絵を描く生徒だったそうです。

ルノワールは、エコール・デ・ボザールに も入学しており、デッサンと解剖学を学んでいましたが、新古典主義が授業のメインであったため、豊かな色彩表現を用いることはよしとされていませんでした。
この経験が、のちの鮮やかな色彩表現により人物を描くスタイルの誕生にかかわったのかもしれません。

サロンと印象派展の両方に出品する

ルノワールは、1863年にパリ・サロンに初めて作品を出品しますが、残念ながら落選となってしまいます。
その後も多くの作品を出品し、入選と落選を繰り返していました。
普仏戦争後も、繰り返しサロンへ作品を出品しますが、落選が続いてしまいます。
しかし、人物画の依頼や作品を購入してくれる人々がいたため、何とか生活は続けられ、さらにはファンが少しずつ増えていき、1873年には広いアトリエを借りられるようにまでなりました。

1874年に開催された第1回印象派展には、モネやシスレー、ピサロとともに参加。
展覧会全体は、批評家の酷評を受けましたが、ルノワールが展示した6点の作品は、比較的評価が高かったそうです。
風景画を描く画家が多かった印象派グループの中で、ルノワールは肖像画で生計を立てたいと考えており、1876年の第2回印象派展では、肖像画をメインに展示を行いました。
第3回印象派展では、多彩なジャンルの作品を展示して、印象派グループの評価に大きく貢献したといわれています。
第3回・4回の印象派展には参加せず、代わりにサロン・ド・パリに再び作品を出品するように。
1879年に出品した『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』が大変高い評価を受け、ルノワールは人気画家の仲間入りを果たしました。

旅行先で刺激を受け古典主義へ関心を寄せる

ルノワールは、1881年からアルジェリアとイタリアをメインとした旅行を決行します。
マドリードでバロック期のスペイン画家であるディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞し、イタリアのフィレンツェでは、盛期ルネサンスのイタリア人画家ティッツァーノの代表作や、ローマでラファエル前派の作品などを鑑賞しました。
中でも、フランスのロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワや、盛期ルネサンスで活躍したイタリア人画家ラファエロ・サンティなどの作品に強い影響を受けたといわれています。

1882年には、シチリアのパレルモにある作曲家のリチャード・ワーグナーの家にて、ワーグナーと出会い、肖像画を描きました。
同年に肺炎を患いアルジェリアで6週間ほど療養し、1883年にはイギリス海峡のガーンジー島で夏を過ごします。
ルノワールは、島でみたビーチや崖、湾などのさまざまな風景を絵として残しています。
旅の中で新古典主義の巨匠と呼ばれるドミニク・アングルの作品に触れたルノワールは、1880年代後半までアングル風の古典主義作品を描くようになりました。

晩年は慢性関節リウマチを患いながらも作品を描く

晩年、1892年ごろから慢性関節リウマチを患い、1907年には地中海沿岸の温暖な土地であるカーニュ=シュル=メールに移り住みました。
関節炎により手の変形が悪化し、右肩は硬直してしまったため、これまで通りの絵描きができず、手法を変える必要がありました。
腕の可動範囲が限定されていたため、大きな絵を描くときは絵巻風にしてキャンバス側を動かしながら制作を行っていたそうです。
また、若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て彫刻作品も手がけており、病気を患いながらも生涯にわたって芸術活動を続けました。

ルノワールが描いていた印象派とは

印象派とは、19世紀後半のフランスで発生した芸術運動を指し、目で見た物事の光や色彩をそのままキャンバスに表現することを重視している集団です。
印象派は、絵を描く場所が屋内のアトリエから屋外に変化していった時代に生まれたスタイルで、自然の美しさやその時代で暮らす人々を抽象化し、光や色彩をメインにして描くスタイルが魅力の一つです。
印象派は、筆の痕跡をあえて残し、絵の具を塗り重ねる大胆な筆使いや、あいまいな形の描き方、原色を隣り合わせに描いて色を表現するなどの特徴があります。

印象派のルノワールが描く作品の特徴

ルノワールは、印象派特有の瞬間的な光の表現を取り入れつつも、対象物をはっきりと描くのが特徴の一つです。
印象派展に参加したり、色彩を重視したりしていたため、印象派として伝わっていますが、一方で、輪郭線をぼかす印象派の特徴と比較すると、ルノワールの作品は輪郭を明確に描いた人物像も多く、ポスト印象派の特徴も持ち合わせているといえます。

また、ルノワールは、独自の色彩感覚を備えており、陰影に茶色や黒を決して利用しませんでした。
周囲のものからの反射光を表現するために、影にカラフルな色を使っているのも特徴の一つです。

印象派の新しい画風が批判を受けることも

印象派のスタイルは、当初批評家たちからはよい評価を得られませんでした。
筆の跡をあえて残す描き方は、それまでにない新しい手法であったため、すぐには受け入れられず批判を浴びました。
ルノワールが描いたあるヌード像に対しては、胸元や腕の光や影の表現が死斑に見えるとしてひどくバッシングを受けました。

ルノワールと盟友モネの関係

同時期に活躍していた印象派のモネとルノワールは、画塾時代に知り合い意気投合した盟友でもあります。
お互いの芸術論について語り合ったり、一緒に絵を描くために出かけたりと、刺激しあいながら親交を深めていました。
売れない若手画家時代には、ルノワールが実家で食事をすると、たくさんのパンをポケットに詰め込んで持ち帰り、モネに分け与えていたそうです。

ルノワールは速筆の画家であった

ルノワールは、芸術家の中でも大変速筆であったといわれており、ときには、作品を30分で完成させることも。
伝統的な画家の中には、一つの作品を完成させるまでに何か月、何年もの時間をかけるケースもありますが、ルノワールは数十分で作品を完成させてしまうのです。
ワーグナーの肖像画は、たったの35分で描きあげたといわれています。
また、ガーンジー島で過ごした1か月間では、15作品仕上げたともいわれています。

依頼主から文句を言われることも

ユダヤ系の銀行家カール・ダンヴェールに依頼され描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、西洋画史上最も美しい美少女ともいわれていますが、ダンヴェール夫妻はお気に召さず、イレーヌの妹であるアリスとエリザベスを描く際に、一人ひとり描くと2枚分の費用がかかるからと、1枚に2人をまとめて描くよう依頼したそうです。
鮮やかで美しい作品を描くルノワールでも、依頼主から文句を言われてしまうことがあったのです。

ジャポニズムに影響を受けた作品も

印象派やポスト印象派に位置づけられているルノワールは、日本美術からも影響を受けていたといわれています。
当時流行していた日本の工芸品に強い興味と関心を抱き、作品の中にも取り入れています。
『うちわを持つ女』では、うちわを持った女性が横向きでこちらに顔を向けている様子が描かれており、うちわには外国人がイメージする日本人像が描かれているのが特徴です。
背景には、当時流行していた日本の菊とおぼしき花が描かれています。

また、絵のモチーフだけではなく構図にもジャポニズムが取り入れられているのです。
平面的な日本のうちわと立体的な帽子、背景の右側にはストライプ柄の直線が描かれ、左側には丸い花が描かれているといったように、ジャポニズムの非対称性が用いられています。
浮世絵でよくみられる左右非対称や不規則、不均衡などの要素が表現されており、ルノワールもジャポニズムの影響を受けていたことが伺えるでしょう。

 

年表:ピエール=オーギュスト・ルノワール

西暦 満年齢 できごと
1841 0 フランスのリモージュにて誕生。父は仕立て職人、母はお針子。
1844 3 家族でパリに移住し、ルーヴル美術館近くに居住。
1854 13 磁器工場で絵付け職人として働き始めるが、工場閉鎖後、画家を志す。
1862 21 シャルル・グレールの画塾に入学し、モネ、バジール、シスレーらと親交を深める。
1864 23 サロンに初出展し、『エスパニョールの娘』が入選する。
1874 33 1回印象派展に参加。『ラ・ログ』や『陽光の中の裸婦』を発表。斬新な作風が批評家の注目を集める。
1876 35 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を制作。印象派の代表的作品の一つとなる。
1881 40 イタリア旅行でルネサンス絵画に触れ、構図や人物描写を学ぶ。帰国後、古典的な作風に移行。『浴女たち』を制作。
1890 49 愛人であったアリーヌ・シャリゴと結婚し、家庭を築く。
1907 66 関節リウマチを発症。手が不自由になりながらも、絵筆を手に縛り付けて制作を続ける。
1919 78 晩年の作品『浴女たち』を完成させる。同年、ルーヴル美術館に作品が収蔵される栄誉を受けるが、その直後に死去。
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