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ポスターの大家と呼ばれた「ジュール・シェレ」とは
ジュール・シェレは、フランス出身の画家・リトグラフ家・イラストレーターであり、リトグラフの技法を駆使したポスター芸術で知られる人物です。
彼はアール・ヌーヴォーの先駆者の一人とされ、その作品には躍動感と明るさがあふれる女性たちが描かれています。
この「シェレット」と呼ばれる女性像は、軽やかで優雅な動きといった彼独自のスタイルを象徴する存在です。
彼の作品は、視覚的に一瞬で人々を引きつける力を持ち、ポスター芸術の世界で多大な影響を与えました。
家計を支えるために石版画職人の見習いに
ジュール・シェレは、1836年5月31日、パリの貧しい職人の家庭に生まれました。
家計の苦しい中で育った彼は、義務教育を13歳で終え、すぐに家族を支えるために働き始めました。
1849年、13歳から16歳の間、シェレは石版画職人の見習いとして勤務し、技術を学びながら次第に絵画に興味を持つようになります。
石版画の仕事を続ける中で、シェレは美術への学びを深めようと、国立デッサン学校(後に国立高等装飾美術学校)に入学。
ここで基礎を学び、腕を磨きながら、パンフレットやチラシ、ポスターなどの制作に関わるようになりました。
また、音楽出版社向けにカバーのスケッチを販売するなど、さまざまな分野で経験を積みます。
18歳の時にはロンドンに渡り、「Maple & Co.」という家具メーカーでカタログ用の挿絵を担当しましたが、半年後には再びパリに戻り、その後も多くの作品を生み出し続けることになります。
パリで大規模なポスター制作を行う
パリに戻ったジュール・シェレは、1858年に大きな転機を迎えます。
この年、フランスの作曲家ジャック・オッフェンバックが手掛けたオペレッタ『地獄のオルフェ』のポスター制作を依頼され、彼の初の大規模なポスター制作が実現しました。
この作品は後に日本でも「天国と地獄」という邦題で知られ、序曲第3部は運動会で流れる曲としても人気があります。
シェレが手掛けたポスターは、登場人物が劇的なポーズで配置され、色鮮やかで視覚的に引き付ける仕上がりとなりました。
大胆な色彩の使い方と生き生きとした構図により、当時のパリで大きな注目を集めることに成功します。
このポスターの成功により、シェレはポスター芸術の分野で名を広め、パリでポスターの第一人者として評価されるきっかけとなりました。
パトロンの援助を受けてリトグラフ会社を設立
1859年、再びロンドンに渡ったジュール・シェレは、そこでポスターや本のカバーなどを手掛けながら経験を積みました。
その中で、香水メーカーの創業者ウジェーヌ・リンメルと出会い、リンメルは彼のパトロンであり友人ともなる重要な人物となります。
シェレはリンメルのために香水のラベルやパッケージデザインを手掛け、互いに良好な関係を築きました。
1866年にはリンメルの資金援助を得て、シェレは念願のリトグラフ会社をパリに設立します。
自らの会社を持ったことで、彼は自身の芸術スタイルをより自由に表現できるようになりました。
設立後の最初の大成功は、1866年に制作した「La Biche au Bois」という劇のポスターで、このポスターによりシェレの名声はさらに高まりました。
彼が制作したポスターは、商業用デザインとしての新しい基準を打ち立て、本の表紙や出生通知書、音楽の表紙、招待状、メニューなど、幅広い分野にインスピレーションを与え続けました。
作風を変化させながら活躍を広げていく
1870年代から1880年代にかけて、ジュール・シェレの作風は次第に変化を見せ、従来のヴィクトリア朝風の繊細なデザインから、より大胆で躍動感のあるスタイルへと進化していきます。
彼の新しいスタイルでは、背景をシンプルにし、視覚的に強いインパクトを与える大きなロゴを配置し、中央には優雅にポーズを取る女性を大胆に描くことが特徴的です。
これにより、作品は鮮やかな色彩と華やかな雰囲気にあふれ、多くの人々を魅了しました。
シェレが影響を受けたのは、ロココ様式の画家であるアントワーヌ・ワトーやジャン=オノレ・フラゴナール、バロックの巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの作品でした。
また、日本の木版画も彼の色使いや構図にインスピレーションを与えたといわれています。
シェレはこうした多様な影響を取り入れることで、独自のスタイルを築き、パリの街中を彩る鮮やかなポスターを通じて、その芸術性を広く人々に浸透させていきました。
万国博覧会でメダルを受賞する
ジュール・シェレは、その鮮やかな色彩と陽気な雰囲気で描かれたポスターにより徐々に認知度を高めていきました。
その功績は1879年のパリ万国博覧会で銀メダルを受賞したことで一層評価され、さらに1889年の万国博覧会では金メダルを受賞しています。
シェレの作品は商業的なアートを一段高め、芸術として認められる契機となり、翌年にはフランス政府からグラフィックアートへの貢献が評価され、レジオンドヌール勲章を授与されました。
シェレはポスター制作においてカラーとモノクロの両方で1000枚以上を手がけましたが、1900年以降はポスターから距離を置き、絵画やパステル画に注力するようになります。1912年にはその功績を称えルーヴル美術館から表彰され、パヴィヨン・ド・マルサンでは回顧展が開催されました。
1920年代に入り、シェレは視力の低下により絵を描くことを断念。
緑内障の影響で失明したとされており、1932年に96歳でフランスのニースで静かにその生涯を閉じました。
彼の死後、1933年にはパリのサロン・ドートンヌで遺作展が行われ、シェレの作品は世界中でコレクターに愛され続ける存在となり、その影響力は今なお色褪せることがありません。
さまざまな画家に影響を与えた近代ポスターの父
ジュール・シェレは、従来のモノクロで地味な印象だったポスターとは一線を画し、鮮やかな色彩と躍動感あふれる女性像(通称「シェレット」)を描き出すことで、ベル・エポック期の華やかさと自由な雰囲気を見事に表現しています。
これによりシェレはパリで瞬く間に人気を博し、彼の作品は当時の象徴的な存在として愛されました。
シェレの斬新なスタイルや配色は、後に登場するロートレックやミュシャなどのポスター作家だけでなく、スーラなど油絵画家にも大きな影響を与え、アート界に新たな風を吹き込みました。
さらに、日本でもシェレの影響は多くのポスターやイラストに取り入れられ、彼の華やかなデザインは今もなお人々を魅了し続けています。
また、シェレのもう一つの大きな功績は、ポスターを単なる広告としてだけでなく芸術品として位置づけ、コレクター向けに販売した点にあります。
軽やかさと動きのあるポスター
ジュール・シェレのポスターデザインには、軽やかさと動きが重要な特徴として表れています。
彼の作品に登場する女性キャラクターは、陽気で優雅であり、常に動きのある姿で描かれています。
これらの女性は「シェレット」と呼ばれ、シェレが描く女性像の象徴となりました。
しかし、「シェレット」という言葉は特定のモデルを指すものではなく、シェレが描いた軽やかで活気に満ちた女性全般を指す呼称です。
シェレのポスターは、キャラクターたちが画面から飛び出すかのような遠近感を巧みに使い、華やかな舞踏会のシーンを活気づけ、大衆に親しみやすく伝えることに成功しています。
その色彩は鮮やかで、人物の運動性や空気遠近法を駆使して、立体感や奥行きを誇張することで、視覚的に観る者の目を引きつけます。
このように、シェレのポスターはその明るくダイナミックな表現を通して、時代の精神を具現化した芸術作品として評価されています。
ジュール・シェレが描いた2つのムーラン・ルージュ
「ポスターの父」と称されるジュール・シェレは、1889年にキャバレー「ムーラン・ルージュ」の開店を告げるポスター『ムーラン・ルージュ』を手がけました。
この年はエッフェル塔が完成した年でもあり、パリの文化が華やかさを増した時期です。
ポスターには、フランス語で「赤い風車」を意味するムーラン・ルージュの象徴である赤い風車を中心に、人々が軽快に向かっていく様子が描かれており、パリの夜の賑やかさが見事に表現されています。
そして、シェレは1891年に再びムーラン・ルージュを題材にした作品を発表しました。
このポスターに描かれているのは、当時ムーラン・ルージュで絶大な人気を誇ったダンサー「ラ・グーリュ」だと考えられます。
同年に制作されたトゥールーズ・ロートレックの『ムーラン・ルージュ・ラ・グーリュ』にも同じダンサーが登場しており、彼女の人気ぶりがうかがえる点も興味深いところです。
この二つのポスターは、シェレがいかに時代の流行を反映しながら作品を手がけていたかを示すとともに、当時のパリの活気を今に伝える貴重な芸術作品として評価されています。
年表:ジュール・シェレ
西暦 | 満年齢 | できごと |
1836 | 0 | フランス、パリにて誕生。父は植字工で、リトグラフ技術に興味を持つ。 |
1849 | 13 | リトグラフ工房で修業を開始し、宗教画制作にも従事する。 |
1859 | 23 | ロンドンに渡り、カラーリトグラフ技術を習得。 |
1866 | 30 | パリに戻り、ポスター制作を本格的に開始。『オルフェ』を制作し注目を集める。 |
1870年代 | 30代 | 華やかで躍動感のある女性像「シェレット」を確立し、ポスター界で名声を得る。代表作『モン・サン・ミッシェル』などを制作。 |
1890 | 54 | 代表作『カカオ・ララ』を制作。ポスターアートを芸術の一形態として確立する。 |
1890年代 | 50代 | アール・ヌーヴォーの先駆者として活躍。リトグラフ技術の革新と普及に貢献。 |
1932 | 96 | 南仏ニースにて死去。ポスター芸術の父として広く認知される。 |