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マリー・ローランサン(1883年-1956年)画家[フランス]

20世紀前半に活躍した女性画家「マリー・ローランサン」とは

生没年:1883年-1956年
マリー・ローランサンは、20世紀前半に活躍したフランスの女性画家です。
若き日のピカソをはじめとした芸術家のグループと交流し、ブルーやピンクなどのパステル調の女性像をメインに描いた画家で、当時のアートシーンで注目を集めていたキュビズムには、人知れず反発心をもっていたといわれています。
死んだ魚やタマネギ、ビールグラスなどを描くよりも、かわいい女の子を描く方がよいと語っています。

母子家庭で育ち美術を学ぶ

ローランサンは、パリのシャブロル街に生まれ、両親は婚姻関係を結んでいなかったため、私生児として母子家庭で育ちました。
母のポーリーヌ・メラニー・ローランサン、服の仕立てで生計を立てており、母一人子一人で静かに暮らしていました。
父であるアルフレッド・トゥーレは、ときどき2人の様子を訪ねていましたが、ローランサンは長い間、訪れる男性を父だとは知らなかったそうです。
ローランサンは、この男性をあまり好んでおらず、宿題するローランサンに対して父が羊は草食動物であると伝えると、反発心から羊は肉食動物であると書いて提出したというエピソードがあります。

また、父から仕送りがあったため、ローランサンは中流以上の教育を受けられました。
ローランサンは、幼いころから想像力が豊かな女性で、ある日家具付きのアパートの窓辺でくつろぐ若い男女の姿を観察し、天啓に打たれたように画家になると決めました。
ローランサンは、母からティーカップの絵を描くようにいわれ描き、高いデッサン力があると認めてもらい、本格的に美術を学ぶことを許可されます。

デッサン学校でジョルジュ・ブラックと出会う

1902年ごろからは、パリのバティニョール地区にある公立のデッサン教室に通い始め、同時に磁器の絵付けの学校にも通っていました。
1904年には、磁器の絵付けの学校をやめ、絵の私塾であるアカデミー・アンベールに入学します。
同窓生には、のちにキュビズムの創始者となるジョルジュ・ブラックがおり、ジョルジュはローランサンの才能にいち早く気付き、伝説のアトリエ「洗濯船」に招待し、芸術仲間たちに彼女を紹介しました。
洗濯船での芸術家たちの出会いが、ローランサンののちの芸術家人生の転機となったのです。
特に影響を与えたのはピカソで、彼が描いた『アヴィニヨンの娘たち』がローランサンに大きな衝撃を与えました。
このピカソの作品は、歴史を変える一枚になると確信したローランサンは、自分もいつかこの作品のように偉大な絵画を描きたいと野心を抱くようになります。

キュビズムの影響を受けつつも独自のスタイルを確立

ローランサンは、前衛芸術家たちに囲まれ、キュビズムの影響を受けながらも独自のスタイルを確立していきました。
詩人のギヨーム・アポリネールとは、1907年から1913年まで恋人関係にあり、この期間にローランサンが描いた集団肖像画のいくつかにはアポリネールが登場しており、ほかの人物よりもわずかに大きく描かれている作品もあります。

キュビズムを取り入れつつ独自のスタイルで描かれた代表作として『Les jeunes filles』があります。
ローランサン特有のスタイルで描かれた4人の女性の背景に、キュビズム風の建築物が描かれているのが特徴です。
ピカソやジョルジュのキュビズムスタイルをそのまま表現するのではなく、研究や理論に対して興味をもち、手法を取り入れながらも自分が描きたいものを描いたといえるでしょう。

スペインで味わった孤独が作品に変革をもたらす

1913年、ローランサンはアポリネールとの関係を解消しただけではなく、同居するほど仲のよかった母を亡くしています。
この2つの大きなできごとがきっかけとなったのか、ローランサンは短期間の交際を経て1914年にドイツ人貴族であるオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚しました。
2人が新婚旅行で南フランスを訪れているとき、第一次世界大戦が勃発。
ドイツ国籍であるオットーは、パリにもどれなくなってしまったうえに、ドイツにもどることも望まなかったため、夫婦でスペインに亡命し、マドリードで戦争が終わるのを待つことにしました。

しかし、スペインでオットーは、酒浸りになり、ローランサンは深い孤独を味わったといえます。
このスペインでの孤独がローランサンの独自のスタイルを確立する後押しになったともいわれています。
第一次世界大戦より前の作品では、絵の具が薄塗りでキャンバスがむき出しになっている部分もありました。
しかし、戦後の作品をみてみると白い絵の具が厚く塗られ、色彩はピンクやグレー、青をベースに緑や黄色が加わったものに変化していきました。

個展を開催しパリのアートシーンで活躍

1921年、ローランサンは、パリのポール・ローゼンバーグ画廊で個展を開催し、25点の作品を展示します。
この個展によりローランサンは高い評価を受け、展覧会後にはフランス国外のコレクターに対して作品が売れるようになりました。
これまで、ローランサンは、アポリネールやピカソ、ジョルジュなどとつながりがあるから作品の発表の機会があったといわれていましたが、個展の成功により独立した芸術家として認められるようになったのです。
パリのアートシーンで活躍し始めたローランサンは、その後第二次世界大戦が勃発するまでその地位を保ち続けました。
1935年には、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与され、2年後に描いた『Le répétition』は、フランス国家が取得しました。

ギヨーム・アポリネールとの出会いと別れ

アカデミー・アンベールに入学してから、多くの芸術家たちと知り合いになったローランサン。
ある日、ピカソが親友のアポリネールをローランサンに紹介します。
これがきっかけで交流を始めたローランサンとアポリネールは、お互いの才能を認め、高め合いながら交際を続けていきました。
若い才能ある2人は、モンマルトルの若い芸術家たちにとっては憧れのカップルであったそうです。

しかし、お互いが成長していくにつれ、芸術家としての個性がぶつかりあうように。
別れては付き合ってを繰り返す、不安定な関係が続くようになりました。
そのような中、2人の関係に終止符を打つ決定的な大事件が発生します。
当時ルーブル美術館に展示されていたモナリザが盗難にあった事件で、アポリネールが窃盗容疑で逮捕されてしまうのです。
結果的にアポリネールの疑いは晴れますが、ローランサンがもともとスキャンダルをおそれていたこともあり、2人の関係は完全に終わりを迎えたのでした。
この別れをきっかけにアポリネールは『ミラボー橋』という詩を残しています。

オットー・フォン・ヴェッチェンとの結婚

アポリネールと別れたローランサンは、ドイツから絵を学びにきていたオットーと出会い、あっという間に結婚を決めます。
1916年、パリの区役所で結婚式を挙げたわずか6日後に、第一次世界大戦が勃発するきっかけとなったサラエボ事件が発生します。
そして、新婚旅行で南フランスを訪れているときに第一次世界大戦が開戦し、フランスとドイツの争いが始まってしまうのです。
オットーはドイツ人であり、結婚によってドイツ国籍になったローランサンもパリにもどることはできず、中立国のスペインに亡命します。

しかし、スペインでも穏やかなときを過ごすことはできず、スパイ容疑をかけられスペイン中を転々とする生活を余儀なくされました。
また、夫であるオットーは酒に溺れるようになり、ローランサンは寂しさを紛らわすためにたくさんの手紙や詩を書いたといわれています。
終戦後も2人の仲は修復に向かわず、単身でパリにもどったローランサンは、離婚を決意しました。

マリー・ローランサンとココ・シャネル

第一次世界大戦が終わりパリにもどってからのローランサンは、上流階級の夫人から肖像画の依頼をたくさん受け、流行画家として地位と名声を得ていました。
当時のパリの社交界では、ローランサンに肖像画を依頼するのがステータスとなっており、ある日1人の女性が、成功の証として肖像画をローランサンに依頼しました。
完成した肖像画を女性に渡すと、作品に納得がいかなかったのか、自分に似ていないことを理由にローランサン に描きなおしを要求したのです。
この行動に怒ったローランサンは、描きなおしを拒否し、作品を引き取りました。
この書き直しを要求した女性が、フランスのファッションデザイナーでシャネルの創設者であるココ・シャネルだったのです。

ローランサンは、女性らしさのある儚げな雰囲気でシャネルを描きましたが、シャネルは強い女性像を表現してもらいたかったと考えられます。

マリー・ローランサンが描く作品の魅力

ローランサンは、儚げで美しい女性を描いた作品で人気を集めています。
日本でも、フランス・パリの空気感や優雅さ、上品さのある絵画に憧れを抱く人も多く、描かれた女性たちの背景に隠されている物語を想像しながら、鑑賞を楽しんでいる人も多いでしょう。

女性的な美を追求している

画家として活躍する女性が登場し始めた19世紀、男性と競い制作をすることで女性的な美の表現を失いがちな時代でしたが、ローランサンの絵画は女性らしい儚げで優雅な作品が多く、女性的な美を追求していたといえます。
アポリネールは、ローランサンが描いた絵画について、自由であり女性の美そのものを絵画で表現していると、評価しました。

作品の装飾性の高さ

ローランサンの絵画が、多くの人の心を惹きつけた理由の一つに、装飾性が挙げられます。
ローランサンが制作した絵画は、大きすぎず家に飾って映えやすい作品が多く、室内装飾の一つとして人気を集めました。
女性をモチーフにした作品を多く手がけており、ドレスやワンピースを着用し、帽子やスカーフ、リボン、髪飾りなどのアクセサリーを身につけたファッション性の高い構成は、女性の美しさをより引き立たせているといえます。
ときには、犬や鳥、花などの動植物も一緒に描かれ、パステルカラーの色彩は、ローランサン独自のスタイルとして高く評価されました。

ローランサンは、幼いころから女手一つで育てられており、母は婦人服の裁縫と刺繍を仕事にしていたため、ファッションやデザインに触れる機会も多く、作品の趣向や美意識に大きな影響を与えたと考えられるでしょう。
ローランサンの絵画は、女性の背景が抽象的に描かれていることが多く、テーマを主張しすぎないスタイルのため、装飾性が高いと評価されたといえます。

フランス的優美さの表現

アポリネールは、ローランサンの作品について、フランス的な優美さを巧みに表現していると評価しています。
日本人が鑑賞したときにもフランスならではの優雅さを感じられるローランサンの作品を、フランス出身のアポリネールが、同じように評価しており、ローランサンが描く絵が醸し出すフランス的優美さは、世界に共通するものであるといえるでしょう。
描かれた人物の佇まいや表情、ファッション性、パリのグレーな空、緑豊かで静かな公園、歴史を思わせる石造りの建築物など、さまざまなシーンからフランス的優美さを感じさせてくれます。

日本でも高い評価を受けている

ローランサンが描いた作品は、日本でも高く評価されており、長野県茅野市の蓼科湖畔には、マリー・ローランサン美術館が設立され、世界で唯一のローランサン専門の美術館として話題を集めました。
2011年をもって閉館となってしまいましたが、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館し、館長である高野将弘が収集した個人コレクションをはじめ、500点余りの作品を収蔵していました。

 

年表:マリー・ローランサン

西暦 満年齢 できごと
1883 0 フランス、パリにて誕生。母子家庭で育つ。
1902 19 セーヴル国立陶芸学校で学び、陶芸家を目指す。
1904 21 美術に転向し、アカデミー・アンベールに入学。ジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソと交流。
1912 29 『アポリネールとその仲間たち』を制作。詩人ギヨーム・アポリネールと親密な関係を持つ。
1920年代 30 パリの上流階級の女性肖像画家として成功。独特の柔らかな色彩と構図で評価を得る。
1930 47 『青いドレスの女性』を制作。
1956 72 パリで死去。フランスを代表する女性画家として記憶される。
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