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ポスト印象派の画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」とは
生没年:1853年-1890年
フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ出身のポスト印象派の画家です。
代表作として知られている作品の多くは、1886年以降、フランスに住んでいた時代の中でも、特にアルル時代と呼ばれる1888年から1889年、サン=レミで療養していた1889年から1890年に描かれました。
ゴッホが描く作品は、フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響をおよぼしています。
幼いころからドローイングの才能があった
ゴッホは、カトリック教徒の多いオランダの南部にある北ブラバント州のフロート=ズンデルトと呼ばれる村で生まれました。
父のテオドルス・ファン・ゴッホは、オランダ改革派の牧師で、母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスは、ハーグの裕福な家庭に生まれた子でした。
ゴッホは、真面目で思いやりのある子どもで、幼いころから母親と家庭教師に育てられ、1864年からは、ゼーフェンベルゲンにある寄宿学校で学び始めますが、ゴッホはホームシックにかかってしまいます。
1866年からは、ティルブルフの中学校に進学しますが、ゴッホはなじめず楽しい学校生活を送れなかったそうです。
しかし、芸術への関心は幼いころからあり、ドローイングの才能を母親から褒められ続けていました。
ゴッホは中学在学中からドローイングや水彩画を描いていましたが、美術の授業でもゴッホの憂鬱とした気持ちは晴れず、1868年、ゴッホは学校から突然帰宅することもあったそうです。
その後、16歳になると叔父のセントにハーグの美術商会社グーピル商会の仕事を紹介され、4年ほど画商として楽しく過ごしました。
失恋により孤独感が増していく
1873年、ゴッホはロンドン支店への転勤が決定します。
下宿先の娘であるユルシュラ・ロワイエに恋をして、告白しますが振られてしまい、ゴッホは大変気分を落とし、孤独感を募らせていき、このときから宗教へ傾倒していくようになりました。
1875年にロンドンからパリへ転勤するも、商売を軸にしたアートビジネスをメインにしているグーピル商会のやり方に不満をもっており、1876年に解雇の通告を受け、4月に退社しました。
ゴッホは、より宗教に没頭するようになり、牧師になるために神学者の叔父であるヨハネス・ストリッケルのもとへ預けられます。
しかし、牧師になるための学校の入学試験に失敗してしまい、挫折してしまいました。
1880年ごろからは、弟のテオから生活資金の援助を受けながら、鉱夫として働き始めます。
このころからゴッホは、周りにいる人物や景色に興味を抱くようになり、また芸術を軸に生活してみては、とテオからアドバイスを受け、ドローイングを描き始め画家としての活動を本格的にスタートさせていきました。
自宅に戻り田園風景のドローイングを始める
1881年、経済的に苦しい生活をしていたゴッホは、エッテンの実家に戻り、近くの田園風景や農夫など、身近なものをモチーフにドローイングを始めました。
ある日、ゴッホの父が招いた未亡人のケー・フォス・ストリッケルに、ゴッホは恋をします。
7歳年上で、8歳になる息子がいる彼女に対してゴッホは求婚しますが、断られてしまいます。
その後、義理のいとこで画家として活躍しているアントン・モーヴから、数か月後にエッテンへ戻り、木炭やパステルで絵を描くようアドバイスをもらい実行しました。
しかし、ケーのことを諦めきれなかったゴッホは、一度アムステルダムへ向かい面会を試みましたが、断られてしまいます。
その後、ゴッホはモーヴから油絵や水彩画を学び、アトリエを借りるための資金まで用意してもらい、さまざまな援助を受けますが、石膏のデッサンにて美術的観点での意見の違いが生まれるようになっていきました。
アルコール依存症の娼婦シーンとの同棲
モーヴがゴッホと距離をおくようになった理由の一つに、ゴッホが娼婦クラシーナ・マリア・ホールニクと同棲し始めたことがあります。
クラシーナには5歳の娘がいて妊娠もしていますが、アルコール依存症であり、のちに生まれた男の子も含め、ゴッホは一緒に暮らすようになりました。
ゴッホの父はその状況を知ると、クラシーナと縁を切るよう迫りますが、ゴッホは抵抗します。
しかし、ゴッホは自分が売れない画家として貧しい生活を続けていると、クラシーナに再び売春の仕事をさせてしまうことになるのではないかと思い始めました。
同棲生活は喧嘩の連続で、ゴッホは家族との生活という環境に幸福を感じられず、家庭と芸術的発展は、共存できないと思うようになったそうです。
その後、1883年にゴッホとクラシーナ一家は別れ、クラシーナ自身は1904年にスヘルデ川で入水自殺してしまいました。
本格的に絵画制作をスタートさせる
ゴッホは、1885年からの約2年間のニューネン滞在で、大変多くのドローイングや水彩画、約200点にもおよぶ油絵を描いています。
当時のゴッホのパレットには、暗い色彩が多く、特に濃い茶色をメインに構成されており、ゴッホの代表作にみられるような鮮やかな色彩はまだみられませんでした。
サイズの大きい絵の制作にも取り組んでいますが、ほとんどの絵を破棄してしまっており、『ジャガイモを食べる人々』と関連作品がわずかに現存するのみです。
当時描かれたゴッホの作品は、まったく売れず悩んでおり、テオは流行りの印象主義のように明るい色彩ではなく、暗めの色合いが原因ではないかと分析していました。
その後、ハーグの画廊に初めてゴッホの作品が飾られますが、展示された農夫のポートレイト絵画のモデルになった女性が妊娠したのは、ゴッホのせいであるとモデルの女性から非難される事件が発生し、村の教会は村人に対してゴッホの絵のモデルにはならないよう注意喚起が行われました。
貧しい生活を送りながら絵画を描く
1885年にアントウェルペンへ移り住んだゴッホの生活は大変貧しいもので、テオから援助される資金のみが頼りでした。
ゴッホは貧乏生活を極めており、パン、コーヒー、タバコまでも節約するようになり、1886年にゴッホからテオへ送られた手紙の中に、前年は5月以降、6回しか暖かい食事をしていないと書かれていました。
ゴッホは、アントウェルペンで色彩理論の研究に努め、多くの時間を美術館で過ごすようになります。
バロック美術を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスの研究を進め、結果的にコバルトブルー、エメラルドグリーン、カルミンなどの鮮やかな色彩がパレットに並ぶようになりました。
また、このころから日本の浮世絵にも影響を受け始め、さまざまな日本美術をコレクションするように。
のちの作品では、背景に浮世絵の影響を受けたであろう絵が描かれているものもあります。
後期印象派とジャポニズム
1886年、ゴッホはパリに移り住み、モンマルトル周辺のアパートでテオと共同生活を始めるとともに、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びなおします。
アントウェルペンにて日本美術に興味をもち始めてからは、数百枚もの浮世絵を収集しており、アトリエの壁に飾っていたそうです。
パリにいる間、ゴッホは印象派の画家たちとも交流を深めていき、テオはモンマルトル大通りに自分の画廊を持っており、新しい印象派の作品を扱っていました。
ゴッホは、シャルル・ラヴァルの色彩に関する論文にも興味をもち、補色を活用して作品を描くようになっていきました。
1886年末ごろ、ゴッホとテオは衝突し、ゴッホはアニエールに移り住み、セーヌ川や公園、レストランなどの風景画を描きます。
1888年、パリの生活に疲れ果てたゴッホは、休養をかねてアルルへ移ることになりました。
アルルの黄色い家とゴーギャン
ゴッホは、アルコール依存症やニコチン中毒の症状を和らげるために、アルルへ移り、グリッドを使用した遠近法を用いた風景画を制作しました。
その後、黄色い家と呼ばれるアトリエを借り、芸術コロニーの拠点としての活用を予定していましたが、数か月未完成のまま無人であったそうです。
ゴッホは、黄色い家でさまざまな作品を描いており、その中には代表作の『ひまわり』、『夜のカフェ』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』などもあります。
黄色い家の当初の活動計画を聞いたゴーギャンは、ゴッホの意志に賛同し、共同生活を始めました。
2人は、共同作品もいくつか制作しており、美術館で一緒に絵画鑑賞もしていました。
しかし、共同生活から2か月ほどが経ったころ、2人の関係は次第に悪くなっていき、口論もするようになり、ゴッホはゴーギャンに見捨てられるのではと、大きな不安を抱えるようになっていきます。
精神的に不安定な状況が続く
精神的に不安定な状況が続いていたゴッホは、精神病院に入院し、2つの部屋を用意されると一つをアトリエとして利用し、絵を描いていきました。
絵のモチーフは、病院そのものや窓から見える景色で、この時代の代表作としては『星月夜』が有名です。
精神病院では、短時間のみスタッフの監視下においての散歩が許可されており、散歩で見かけた糸杉やオリーブの木が、絵のモチーフになったといわれています。
ゴッホの最期とその後
1890年、ゴッホがパリを訪れると、多くの友人がゴッホのもとを訪ねてきました。
7月ごろ、ゴッホはテオに手紙を書き、その中で『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』の3点の大作を仕上げたことを伝えています。
7月27日、ゴッホは自らリボルバーで胸を撃ち、37歳の若さで亡くなったといわれています。
自殺した場所は、ゴッホが絵のモデルにしていた麦畑もしくは地元の納屋であったそうです。
ゴッホは、疾患や性質については諸説ありますが、躁状態と鬱状態を繰り返す双極性障害であったのではといわれています。
ほかにも、うつ病やてんかんなどの症状もみられており、貧しい生活による栄養不足や過労、不眠、アルコールなどにより、病状が悪化したと考えられています。
ゴッホを献身的に支えた弟テオ
ゴッホには弟のテオがおり、長い間貧しい暮らしをしていたゴッホの生活をサポートし続けていました。
しかし、精神状態が常に不安定だったゴッホは、いつまでも弟に迷惑をかけていることを申し訳なく感じ、自殺未遂を図るのでした。
テオはすぐにゴッホのもとを訪れますが、自殺未遂の2日後、ゴッホはテオの腕に抱かれ亡くなります。
兄のゴッホが亡くなったあと、テオも精神を病んでしまい兄を追いかけるようにして半年後に他界しました。
ゴッホは自分の耳を切断した?
ある日、ゴッホは自分の耳を切断する大事件を起こしました。
ゴーギャンによると、事件当時ゴッホは、ゴーギャンが身の危険を感じるほど危ない振る舞いをしており、ゴーギャンは共同生活に嫌気がさしていたのもあり、黄色い家を出ていくような素振りをみせていました。
ゴッホは、ゴーギャンが自分のもとを離れていこうとしているのに気づき、慌てて剃刀をもって追いかけてきたそうです。
ゴーギャンは身の危険を感じ、黄色い家には戻らずホテルに宿泊します。
ゴーギャンを追いかけていたゴッホは、黄色い家に戻ると突然幻聴に襲われて、自分の左耳を切り落としてしまったそうです。
意識不明で倒れているゴッホは、警察官によって発見されますが、病院への搬送が遅れてしまったために、切断した耳の接合は叶いませんでした。
ジャンルに分けられないゴッホの絵
ゴッホは、一般的に後期印象派に分類されていますが、作品はオリジナリティが強く、はっきりとはジャンルに分けられません。
後期印象派に近いとはいえ、ゴーギャン作品のようなフォービズムの雰囲気も持ち合わせており、セザンヌに代表するキュビズム的視点もあり、さらにはスーラの点描も感じられるなど、さまざまなジャンルのスタイルが混ざりあっているのが特徴といえます。
年表:フィンセント・ファン・ゴッホ
年号 | 満年齢 | できごと |
1853年3月30日 | 0 | オランダ南部ズンデルトにて誕生。父はオランダ改革派の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ、母はアンナ・コルネリア・カルベントゥス。 |
1861年 | 8 | 家庭教師の指導を受けるようになる。 |
1864年 | 11 | 10月、ゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学。絵画に興味を持ち始める。 |
1866年 | 13 | ティルブルフの国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学し、コンスタント=コルネーリス・ハイスマンスの指導を受ける。 |
1868年 | 15 | 学校を中退し、家に帰る。以降、家庭で学ぶ。 |
1869年 | 16 | 7月、画商グーピル商会のハーグ支店に店員として勤め始める。 |
1873年 | 20 | グーピル商会のロンドン支店に異動。ここで、イギリス文化と宗教に深く触れる。 |
1875年 | 22 | グーピル商会のパリ支店に転勤するが、次第に商業的な仕事に嫌気がさし、信仰の道へ進むことを考える。 |
1876年 | 23 | グーピル商会を退職し、イギリスで教師や牧師補助として働く。聖職者を志すようになる。 |
1877年 | 24 | アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが、試験に失敗し、学業を断念する。 |
1878年 | 25 | ベルギーのボリナージュ地方で伝道活動を行い、貧しい鉱山労働者たちに心を寄せる。 |
1880年 | 27 | 画家を志すことを決意し、ブリュッセルで美術の勉強を始める。 |
1881年 | 28 | オランダのエッテンに移り住み、絵を描き始める。 |
1882年 | 29 | ハーグに移り、絵画の制作を続ける。 |
1883年 | 30 | ニューネンに移住し、農民や田園風景を描くようになる。『ジャガイモを食べる人々』を制作。 |
1885年 | 32 | 父が亡くなり、ニューネンを離れる。アントウェルペンに移住し、美術学校に通いながら、さらに自分のスタイルを追求する。 |
1886年 | 33 | 弟テオを頼ってパリに移住し、印象派や新印象派の影響を受ける。日本の浮世絵にも興味を持ち、収集を始める。 |
1888年 | 35 | 南フランスのアルルに移住し、『ひまわり』『夜のカフェテラス』など多くの名作を生み出す。ポール・ゴーギャンとの共同生活が始まるが、12月に「耳切り事件」を起こし、関係が破綻する。 |
1889年 | 36 | アルル近郊のサン=レミにある療養所に入所し、『星月夜』を含む数々の作品を制作。 |
1890年 | 37 | 5月、療養所を退所し、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移住。7月27日、自らを撃ち、7月29日に死去。 |