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ジュール・シェレ(1936年-1932年)画家・リトグラフ家・イラストレーター[フランス]
ポスターの大家と呼ばれた「ジュール・シェレ」とは ジュール・シェレは、フランス出身の画家・リトグラフ家・イラストレーターであり、リトグラフの技法を駆使したポスター芸術で知られる人物です。 彼はアール・ヌーヴォーの先駆者の一人とされ、その作品には躍動感と明るさがあふれる女性たちが描かれています。 この「シェレット」と呼ばれる女性像は、軽やかで優雅な動きといった彼独自のスタイルを象徴する存在です。 彼の作品は、視覚的に一瞬で人々を引きつける力を持ち、ポスター芸術の世界で多大な影響を与えました。 家計を支えるために石版画職人の見習いに ジュール・シェレは、1836年5月31日、パリの貧しい職人の家庭に生まれました。 家計の苦しい中で育った彼は、義務教育を13歳で終え、すぐに家族を支えるために働き始めました。 1849年、13歳から16歳の間、シェレは石版画職人の見習いとして勤務し、技術を学びながら次第に絵画に興味を持つようになります。 石版画の仕事を続ける中で、シェレは美術への学びを深めようと、国立デッサン学校(後に国立高等装飾美術学校)に入学。 ここで基礎を学び、腕を磨きながら、パンフレットやチラシ、ポスターなどの制作に関わるようになりました。 また、音楽出版社向けにカバーのスケッチを販売するなど、さまざまな分野で経験を積みます。 18歳の時にはロンドンに渡り、「Maple & Co.」という家具メーカーでカタログ用の挿絵を担当しましたが、半年後には再びパリに戻り、その後も多くの作品を生み出し続けることになります。 パリで大規模なポスター制作を行う パリに戻ったジュール・シェレは、1858年に大きな転機を迎えます。 この年、フランスの作曲家ジャック・オッフェンバックが手掛けたオペレッタ『地獄のオルフェ』のポスター制作を依頼され、彼の初の大規模なポスター制作が実現しました。 この作品は後に日本でも「天国と地獄」という邦題で知られ、序曲第3部は運動会で流れる曲としても人気があります。 シェレが手掛けたポスターは、登場人物が劇的なポーズで配置され、色鮮やかで視覚的に引き付ける仕上がりとなりました。 大胆な色彩の使い方と生き生きとした構図により、当時のパリで大きな注目を集めることに成功します。 このポスターの成功により、シェレはポスター芸術の分野で名を広め、パリでポスターの第一人者として評価されるきっかけとなりました。 パトロンの援助を受けてリトグラフ会社を設立 1859年、再びロンドンに渡ったジュール・シェレは、そこでポスターや本のカバーなどを手掛けながら経験を積みました。 その中で、香水メーカーの創業者ウジェーヌ・リンメルと出会い、リンメルは彼のパトロンであり友人ともなる重要な人物となります。 シェレはリンメルのために香水のラベルやパッケージデザインを手掛け、互いに良好な関係を築きました。 1866年にはリンメルの資金援助を得て、シェレは念願のリトグラフ会社をパリに設立します。 自らの会社を持ったことで、彼は自身の芸術スタイルをより自由に表現できるようになりました。 設立後の最初の大成功は、1866年に制作した「La Biche au Bois」という劇のポスターで、このポスターによりシェレの名声はさらに高まりました。 彼が制作したポスターは、商業用デザインとしての新しい基準を打ち立て、本の表紙や出生通知書、音楽の表紙、招待状、メニューなど、幅広い分野にインスピレーションを与え続けました。 作風を変化させながら活躍を広げていく 1870年代から1880年代にかけて、ジュール・シェレの作風は次第に変化を見せ、従来のヴィクトリア朝風の繊細なデザインから、より大胆で躍動感のあるスタイルへと進化していきます。 彼の新しいスタイルでは、背景をシンプルにし、視覚的に強いインパクトを与える大きなロゴを配置し、中央には優雅にポーズを取る女性を大胆に描くことが特徴的です。 これにより、作品は鮮やかな色彩と華やかな雰囲気にあふれ、多くの人々を魅了しました。 シェレが影響を受けたのは、ロココ様式の画家であるアントワーヌ・ワトーやジャン=オノレ・フラゴナール、バロックの巨匠ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの作品でした。 また、日本の木版画も彼の色使いや構図にインスピレーションを与えたといわれています。 シェレはこうした多様な影響を取り入れることで、独自のスタイルを築き、パリの街中を彩る鮮やかなポスターを通じて、その芸術性を広く人々に浸透させていきました。 万国博覧会でメダルを受賞する ジュール・シェレは、その鮮やかな色彩と陽気な雰囲気で描かれたポスターにより徐々に認知度を高めていきました。 その功績は1879年のパリ万国博覧会で銀メダルを受賞したことで一層評価され、さらに1889年の万国博覧会では金メダルを受賞しています。 シェレの作品は商業的なアートを一段高め、芸術として認められる契機となり、翌年にはフランス政府からグラフィックアートへの貢献が評価され、レジオンドヌール勲章を授与されました。 シェレはポスター制作においてカラーとモノクロの両方で1000枚以上を手がけましたが、1900年以降はポスターから距離を置き、絵画やパステル画に注力するようになります。1912年にはその功績を称えルーヴル美術館から表彰され、パヴィヨン・ド・マルサンでは回顧展が開催されました。 1920年代に入り、シェレは視力の低下により絵を描くことを断念。 緑内障の影響で失明したとされており、1932年に96歳でフランスのニースで静かにその生涯を閉じました。 彼の死後、1933年にはパリのサロン・ドートンヌで遺作展が行われ、シェレの作品は世界中でコレクターに愛され続ける存在となり、その影響力は今なお色褪せることがありません。 さまざまな画家に影響を与えた近代ポスターの父 ジュール・シェレは、従来のモノクロで地味な印象だったポスターとは一線を画し、鮮やかな色彩と躍動感あふれる女性像(通称「シェレット」)を描き出すことで、ベル・エポック期の華やかさと自由な雰囲気を見事に表現しています。 これによりシェレはパリで瞬く間に人気を博し、彼の作品は当時の象徴的な存在として愛されました。 シェレの斬新なスタイルや配色は、後に登場するロートレックやミュシャなどのポスター作家だけでなく、スーラなど油絵画家にも大きな影響を与え、アート界に新たな風を吹き込みました。 さらに、日本でもシェレの影響は多くのポスターやイラストに取り入れられ、彼の華やかなデザインは今もなお人々を魅了し続けています。 また、シェレのもう一つの大きな功績は、ポスターを単なる広告としてだけでなく芸術品として位置づけ、コレクター向けに販売した点にあります。 軽やかさと動きのあるポスター ジュール・シェレのポスターデザインには、軽やかさと動きが重要な特徴として表れています。 彼の作品に登場する女性キャラクターは、陽気で優雅であり、常に動きのある姿で描かれています。 これらの女性は「シェレット」と呼ばれ、シェレが描く女性像の象徴となりました。 しかし、「シェレット」という言葉は特定のモデルを指すものではなく、シェレが描いた軽やかで活気に満ちた女性全般を指す呼称です。 シェレのポスターは、キャラクターたちが画面から飛び出すかのような遠近感を巧みに使い、華やかな舞踏会のシーンを活気づけ、大衆に親しみやすく伝えることに成功しています。 その色彩は鮮やかで、人物の運動性や空気遠近法を駆使して、立体感や奥行きを誇張することで、視覚的に観る者の目を引きつけます。 このように、シェレのポスターはその明るくダイナミックな表現を通して、時代の精神を具現化した芸術作品として評価されています。 ジュール・シェレが描いた2つのムーラン・ルージュ 「ポスターの父」と称されるジュール・シェレは、1889年にキャバレー「ムーラン・ルージュ」の開店を告げるポスター『ムーラン・ルージュ』を手がけました。 この年はエッフェル塔が完成した年でもあり、パリの文化が華やかさを増した時期です。 ポスターには、フランス語で「赤い風車」を意味するムーラン・ルージュの象徴である赤い風車を中心に、人々が軽快に向かっていく様子が描かれており、パリの夜の賑やかさが見事に表現されています。 そして、シェレは1891年に再びムーラン・ルージュを題材にした作品を発表しました。 このポスターに描かれているのは、当時ムーラン・ルージュで絶大な人気を誇ったダンサー「ラ・グーリュ」だと考えられます。 同年に制作されたトゥールーズ・ロートレックの『ムーラン・ルージュ・ラ・グーリュ』にも同じダンサーが登場しており、彼女の人気ぶりがうかがえる点も興味深いところです。 この二つのポスターは、シェレがいかに時代の流行を反映しながら作品を手がけていたかを示すとともに、当時のパリの活気を今に伝える貴重な芸術作品として評価されています。 年表:ジュール・シェレ 西暦 満年齢 できごと 1836 0 フランス、パリにて誕生。父は植字工で、リトグラフ技術に興味を持つ。 1849 13 リトグラフ工房で修業を開始し、宗教画制作にも従事する。 1859 23 ロンドンに渡り、カラーリトグラフ技術を習得。 1866 30 パリに戻り、ポスター制作を本格的に開始。『オルフェ』を制作し注目を集める。 1870年代 30代 華やかで躍動感のある女性像「シェレット」を確立し、ポスター界で名声を得る。代表作『モン・サン・ミッシェル』などを制作。 1890 54 代表作『カカオ・ララ』を制作。ポスターアートを芸術の一形態として確立する。 1890年代 50代 アール・ヌーヴォーの先駆者として活躍。リトグラフ技術の革新と普及に貢献。 1932 96 南仏ニースにて死去。ポスター芸術の父として広く認知される。
2025.01.03
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アンディ・ウォーホル(1928年-1987年)ポップアーティスト[アメリカ]
ポップアートの巨匠「アンディ・ウォーホル」とは 生没年:1928年-1987年 アンディ・ウォーホルは、漫画の1コマを拡大したアメコミ風の作品を制作していたロイ・リキテンスタインと並び、アメリカのポップアートをけん引したアーティストとして知られています。 銀髪のカツラがトレードマークのウォーホルの作品は、絵画だけではなく、彫刻や版画、映像、音楽など多彩なジャンルで制作されており、ウォーホルは 58歳で亡くなるまで、常に新しいチャレンジをし続けたアーティストでした。 また、亡くなった後もウォーホルの作品は世界中で人気を集め、遺品や骨董品がオークションにかけられた際は、売り上げが2000万ドルに到達したそうです。 幼いころは身体が弱かった ウォーホルは、小学3年生のころ、顔や手足にけいれんが生じるシデナム舞踏病という精神疾患に苦しみました。 身体の色素が抜けてしまい、同時に自身の体調に極度の不安を感じ、重篤な病気にかかっているのではないかと思い込み続けてしまう心気症にも悩まされていました。 病にかかってからは学校へ登校しなくなり、家にひきこもると、ラジオを聞いたり好きな映画スターの写真を集めたりして楽しむとともに、絵も描いていたそうです。 このころの家での過ごし方が、美術家としてのウォーホルを形成する基盤となったと、のちにウォーホル自身が語っています。 また、ウォーホルは早くに父を亡くしており、家庭は経済的に苦しい状況にもありました。 1945年には、奨学金を利用して ピッツバーグ大学へ入学し、美術教師を目指しますが、途中で退学してしまいます。 その後は、カーネギー工科大学に入学し、商業美術やデザインについて学び、商業美術の魅力に気づかされました。 ニューヨークで初の個展を開催する 大学を卒業した後は、1950年ごろから商業イラストレーターとして活動をスタートさせ、独自のにじみを活かした「ブロッテド・ライン・スタイル」と呼ばれる技法を用いて、自動車や靴などの商業的な製品をモチーフにした作品を多く制作しました。 次第に、芸術家としての道を進みたいと思い始めていたウォーホルは、1952年にニューヨークの画廊で初の個展を開催し、新聞広告美術部門でアート・ディレクターズ・クラブ賞を受賞しました。 このときの個展には、トルーマン・カポーティーの小説をテーマにしたドローイングを15点出品し、はじめてアンディ・ウォーホルを名乗っています。 セルフプロデュースにも力を入れ始めたウォーホルは、のちにトレードマークとなる銀髪のカツラを被るようになりました。 代表作を次々に生み出していく 1962年には、32点ものキャンベルスープ缶を描いたキャンバスを展示した個展を開催します。 個展会場には、キャンベルスープ缶が描かれた高さ20cm×幅16cmの32枚のキャンバスが反復して展示されており、商業的で機械的な雰囲気が表現されています。 この個展が、ポップ・アーティストとしてのデビューであるといわれており、ここから次々に代表作となる作品を生み出していきました。 その後、ニューヨークで初開催した個展では『狙撃されたマリリン』や『100ドル紙幣』、『100個のスープ缶』、『死と惨事』シリーズなどの作品が展示されました。 代表作の一つ『狙撃されたマリリン』は、アメリカの人気女優マリリン・モンローが1962年に亡くなった直後に制作されており、ウォーホルの死への意識が大きく表現されていた作品といえます。 ウォーホルは、モンローをセクシーな女性像として作品で表現し、偏って強調されたイメージが大衆の中で一人歩きしていることを伝えています。 スタジオ「ファクトリー」を創設する 1960年代、30代半ばになったウォーホルは、人気ハリウッドスターをモデルに作品を制作するようになっていきました。 そこで、自身のスタジオ「ファクトリー」を創設し、アトリエをそこに移しました。 ファクトリーは、生産工場のように作品を効率よく制作する意図で建設され、各界の著名人やセレブ、放浪者など幅広い層の人々がアトリエを訪れては交流を深めていきます。 ファクトリーの内装全体を銀色で覆っていたことから、別名「ザ・シルバーファクトリー」ともいわれていました。 多くの名作が生まれたファクトリーですが、やがてウォーホルのパトロンや若い芸術家とともに、麻薬密売人も招き入れられるようになり場は乱れていき、ウォーホルがファクトリー常連の女性に発砲されたことをきっかけに閉鎖されてしまうのでした。 映画制作にも取り組む ウォーホルの芸術性は、映画の制作でも発揮されました。 ファクトリーに出入りしていた著名人たちは、ほぼ全員がウォーホルの映画作品に出演しているともいわれています。 ウォーホルは、精力的に映画制作を行い、『カウチ』や『ヴィニール』、『チェルシー・ガールズ』など、60本を超える映画作品を制作しました。 中でも、チェルシーホテルでの女性のライフスタイルをストーリーにしたドキュメンタリー映画『チェルシー・ガールズ』は、公開後全米で大ヒットし、商業的に成功した最初の映画作品といわれています。 シルクスクリーン作品を再び制作する ファクトリーが閉鎖されてからは「オフィス」という仕事場で作品の制作を続けました。 1970年代から1980年代にかけては、有名人の肖像画をシルクスクリーンにより多く制作しています。 写真を活用したシルエットに、鮮やかな背景を組み合わせて表現する手法による作品の代表作として『毛沢東の肖像画』があります。 また、ウォーホルは、1970年にアメリカの人気雑誌『ライフ』にて、1960年代にもっとも影響力のあった人物として、ビートルズとともに取り上げられ、世界中から注目を集めました。 作品が冬季オリンピック・サラエボ大会のポスターに採用 1983年、ウォーホルは、1984年に開催される冬季オリンピック・サラエボ大会のポスター『スピードスケーター』を手がけています。 1980年代は、テレビをはじめとした公の場にも多く出演するようになり、キース・へリングやジャン=ミシェル・バスキアなど当時の若手アーティストとも交流を図っています。 1987年、ウォーホルは、胆のう手術後の合併症が原因となり、生涯現役として制作を続けた芸術家人生に幕を下ろしました。 ウォーホルの訃報は、すぐに世界中へ広がり、多くの著名人がウォーホルの葬式に参列しました。 過激派フェミニストの襲撃を受けたことも 1968年、ウォーホルは、ファクトリーの常連であり、過激派フェミニストであったヴァレリー・ソラナスという女性からの襲撃にあいました。 ソラナスは、美術批評家のマリオ・アマヤとウォーホルに向かって3度発砲しましたが、大きなけがはなく、ソラナスは殺人未遂と暴行、銃の不法所持により起訴され、有罪判決が下されました。 ソラナスは、一時ウォーホルに才能を認められたと勘違いをし、その後のウォーホルの態度から裏切られたと思い、銃撃におよんだといわれています。 この銃撃事件をきっかけに、ファクトリーは、出入りや行動に厳しい制限がかけられるようになり、閉鎖となってしまいました。 アンディ・ウォーホルが興味を寄せたポップアートとは ポップアートとは、現代アートの一つで、第二次世界大戦後の大量生産や大量消費などをシニカルな表現を用いて表現した作品を指します。 風景や人物などをテーマにしたこれまでの絵画とは一線を画し、身近な商品や有名人が作品のテーマとして取り扱われているのが特徴の一つです。 戦争が終わってからの欧米諸国をはじめとした先進国では、大量生産や大量消費が盛んに行われるようになり、テレビでは毎日企業の商品が宣伝され、人々はよりよい暮らしを求めるように。 そのような環境に違和感を覚えたアーティストたちは、自身の作品によってその心情を表現するようになり、ポップアートが誕生したといわれています。 ポップアートは、美術館に飾られているような美しい絵画とは異なる特徴をもっており、広告デザインのような親しみやすさも兼ね備えています。 そのため、大衆からも受け入れられやすく、アートに対して興味がなくても、ポップアートを見かけたことがある人は多いでしょう。 アンディ・ウォーホルがもつ世界観 ウォーホルは、スープ缶やコカ・コーラの瓶、アメリカで販売されていた石鹸付きのたわしであるリブロの箱など、大量生産される製品を、絵画や彫刻を用いてアートとして表現しました。 また、多くの人が知っている有名人の姿をシルクスクリーンの技法を用いて、作品自体を大量生産するなどの制作活動も行っています。 ウォーホルが生み出す世界は、古典的で難しい芸術ではなく、あくまで身近なアートでした。 芸術に大衆性を持ち込みポップアートを確立させたウォーホルの世界観と作品たちは、富や幸福の象徴として、人々を魅了しました。 アンディ・ウォーホルの代表作 ウォーホルは、芸術家の中でも多彩で多作であるといわれています。 絵画や彫刻だけにとどまらず、映画やCDジャケット、ポスターの制作など、幅広い分野でその才能を発揮していました。 『キャンベルスープ缶』 『キャンベルスープ缶』は、ウォーホルの初期作品の中でも傑作といわれています。 幼いころによく飲み親しんだスープ缶を題材にした作品で、1962年に制作されたこの作品には、キャンベル社が販売する32種類のスープ缶が描かれています。 『マリリン・モンロー』 『マリリン・モンロー』は、モンローが薬物の過剰摂取により亡くなった直後に制作された作品で、 大量消費社会や人間の死に興味をもっていたウォーホルならではの作品といえます。 ウォーホルがモンローのファンであったこともあり、1967年に制作された作品以降も、モンローはさまざまなバリエーションのシルクスクリーン作品のモチーフとなっています。 『毛沢東』 1973年に制作された『毛沢東』は、天安門広場にある毛沢東の肖像画をコピーして作られたものです。 ウォーホルは、1950年代後半から神格化されていった毛沢東のプロパガンダに嫌悪感を抱いていたため、派手な配色で落書きのようなデザインを施したといわれています。 死後、コラボ商品も販売されている ウォーホルが亡くなった後、自身の生前の希望によりアンディ・ウォーホル美術財団が設立され、作品の著作権や商標を取得した財団は、さまざまな企業とコラボレーションしています。 たとえば、化粧品ブランドのSK-Ⅱでは、アンディ・ウォーホルが手がけたテレビ番組を象徴する色鮮やかなカラーバーがデザインされたコラボ商品を販売していました。 また、ユニクロでは、ウォーホルをはじめバスキアやキースなどとのコラボレーションアイテムを販売しています。 『キャンベルスープ缶』や『ブリロ・ボックス』がデザインされたTシャツは、多くの大衆から人気を集めました。 年表:アンディ・ウォーホル 西暦 満年齢 できごと 1928 0 アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグで誕生。ルース・バスカおよびアンドレイ・ウォーホラの三男。 1945 17 カーネギー工科大学(現カーネギーメロン大学)に入学し、商業美術を学ぶ。 1949 21 卒業後、ニューヨークに移住し、商業イラストレーターとして働き始める。 1962 34 『キャンベルスープ缶』を制作。ポップアート運動の中心的存在となる。 1964 36 ファクトリー(スタジオ)を設立。ここでシルクスクリーン技術を使った大量生産的作品を制作する。 1968 40 フェミニスト活動家ヴァレリー・ソラナスにより銃撃を受け、一命を取り留めるも後遺症に苦しむ。 1972 44 『毛沢東』を制作。政治的な人物像をテーマにした作品が注目される。 1980年代 50代 映画制作、テレビ番組のプロデュース、雑誌『Interview』の発行など、多岐にわたる活動を展開。 1987 59 胆嚢手術後に合併症で死去。ニューヨークで葬儀が行われ、ピッツバーグに埋葬される。
2025.01.03
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ピエール=オーギュスト・ルノワール(1841年-1919年)画家[フランス]
女性を描き続けた印象派画家「ピエール=オーギュスト・ルノワール」とは 生没年:1841年-1919年 クロード・モネと並んで印象派の巨匠と称されるフランスの画家ピエール=オーギュスト・ルノワール。 裸婦や少女をやわらかい色彩で生き生きと描いた作品が有名で、儚げで愛らしい女性たちの姿は、日本でも人気を集めています。 ルノワールが描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、絵画史上最も有名な少女像として知られています。 上流階級から依頼され肖像画を描くことが多かったルノワールですが、パリの無名な女性を描くことも好んでいたそうです。 幼いころは歌で才能を発揮していた ルノワールは、フランス中南部に位置するオート=ヴィエンヌ県リモージュに生まれ、父のレオナルド・ルノワールは仕立て屋を細々と経営しており、母のマルグリットは針仕事をするお針子をしていました。 ルノワールが3歳のとき、家族は商売のチャンスを得るためにパリへ移住し、ルーブル美術館の近くに位置するパリの中心地、アルジャントゥイユ通りで暮らすことに。 当時のアルジャントゥイユ通り周辺は、貧しい人々が暮らす下町のような場所でした。 ルノワールは、幼いころから絵を描いていましたが、当時は歌で才能を発揮していました。 聖歌隊に入ると、美声を評価され、当時のサンロック教会で聖歌隊指揮者をしていたシャルル・グノーからオペラ座の合唱団に入るよう勧められますが、家庭の経済的な理由により音楽の授業を続けられなくなってしまいます。 ルノワールは、13歳で退学すると、家庭を支えるために磁器工場で見習い工として働くことになったのです。 少年時代は陶器絵付の見習工として働く ルノワールは、磁器工場でも芸術的な才能を発揮し、ルーブル美術館に通いながら絵を学び始めました。 ルノワールの絵の才能は、工場の経営者も認めるほどのものでした。 その後、ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学するために、絵画の授業を受け始めます。 勤務していた磁器工場が産業革命の影響を受けて、生産過程に機械を導入するようになり、職人の仕事が徐々に減り始めました。 学資を得るためにほかの仕事を探す必要があり、ルノワールは海外宣教師向けの掛け 布や扇子に装飾を描いて資金を集めました。 パリのシャルル・グレールのもとで絵を学ぶ 画家になることを決意したルノワールは、1862年にパリのシャルル・グレールのもとで絵を学び始めました。 グレールの画塾は、自由に絵を描くことを許していたため、さまざまなスタイルをもつ画学生が集まっていました。 画塾時代には、モネやアルフレッド・シスレー、フレデリック・バジールなどのちに印象派として活躍する画家たちと知り合います。 グレールからみたルノワールは、楽しそうに絵を描く生徒だったそうです。 ルノワールは、エコール・デ・ボザールに も入学しており、デッサンと解剖学を学んでいましたが、新古典主義が授業のメインであったため、豊かな色彩表現を用いることはよしとされていませんでした。 この経験が、のちの鮮やかな色彩表現により人物を描くスタイルの誕生にかかわったのかもしれません。 サロンと印象派展の両方に出品する ルノワールは、1863年にパリ・サロンに初めて作品を出品しますが、残念ながら落選となってしまいます。 その後も多くの作品を出品し、入選と落選を繰り返していました。 普仏戦争後も、繰り返しサロンへ作品を出品しますが、落選が続いてしまいます。 しかし、人物画の依頼や作品を購入してくれる人々がいたため、何とか生活は続けられ、さらにはファンが少しずつ増えていき、1873年には広いアトリエを借りられるようにまでなりました。 1874年に開催された第1回印象派展には、モネやシスレー、ピサロとともに参加。 展覧会全体は、批評家の酷評を受けましたが、ルノワールが展示した6点の作品は、比較的評価が高かったそうです。 風景画を描く画家が多かった印象派グループの中で、ルノワールは肖像画で生計を立てたいと考えており、1876年の第2回印象派展では、肖像画をメインに展示を行いました。 第3回印象派展では、多彩なジャンルの作品を展示して、印象派グループの評価に大きく貢献したといわれています。 第3回・4回の印象派展には参加せず、代わりにサロン・ド・パリに再び作品を出品するように。 1879年に出品した『シャルパンティエ夫人とその子どもたち』が大変高い評価を受け、ルノワールは人気画家の仲間入りを果たしました。 旅行先で刺激を受け古典主義へ関心を寄せる ルノワールは、1881年からアルジェリアとイタリアをメインとした旅行を決行します。 マドリードでバロック期のスペイン画家であるディエゴ・ベラスケスの作品を鑑賞し、イタリアのフィレンツェでは、盛期ルネサンスのイタリア人画家ティッツァーノの代表作や、ローマでラファエル前派の作品などを鑑賞しました。 中でも、フランスのロマン主義を代表するウジェーヌ・ドラクロワや、盛期ルネサンスで活躍したイタリア人画家ラファエロ・サンティなどの作品に強い影響を受けたといわれています。 1882年には、シチリアのパレルモにある作曲家のリチャード・ワーグナーの家にて、ワーグナーと出会い、肖像画を描きました。 同年に肺炎を患いアルジェリアで6週間ほど療養し、1883年にはイギリス海峡のガーンジー島で夏を過ごします。 ルノワールは、島でみたビーチや崖、湾などのさまざまな風景を絵として残しています。 旅の中で新古典主義の巨匠と呼ばれるドミニク・アングルの作品に触れたルノワールは、1880年代後半までアングル風の古典主義作品を描くようになりました。 晩年は慢性関節リウマチを患いながらも作品を描く 晩年、1892年ごろから慢性関節リウマチを患い、1907年には地中海沿岸の温暖な土地であるカーニュ=シュル=メールに移り住みました。 関節炎により手の変形が悪化し、右肩は硬直してしまったため、これまで通りの絵描きができず、手法を変える必要がありました。 腕の可動範囲が限定されていたため、大きな絵を描くときは絵巻風にしてキャンバス側を動かしながら制作を行っていたそうです。 また、若手芸術家のリシャール・ギノの協力を得て彫刻作品も手がけており、病気を患いながらも生涯にわたって芸術活動を続けました。 ルノワールが描いていた印象派とは 印象派とは、19世紀後半のフランスで発生した芸術運動を指し、目で見た物事の光や色彩をそのままキャンバスに表現することを重視している集団です。 印象派は、絵を描く場所が屋内のアトリエから屋外に変化していった時代に生まれたスタイルで、自然の美しさやその時代で暮らす人々を抽象化し、光や色彩をメインにして描くスタイルが魅力の一つです。 印象派は、筆の痕跡をあえて残し、絵の具を塗り重ねる大胆な筆使いや、あいまいな形の描き方、原色を隣り合わせに描いて色を表現するなどの特徴があります。 印象派のルノワールが描く作品の特徴 ルノワールは、印象派特有の瞬間的な光の表現を取り入れつつも、対象物をはっきりと描くのが特徴の一つです。 印象派展に参加したり、色彩を重視したりしていたため、印象派として伝わっていますが、一方で、輪郭線をぼかす印象派の特徴と比較すると、ルノワールの作品は輪郭を明確に描いた人物像も多く、ポスト印象派の特徴も持ち合わせているといえます。 また、ルノワールは、独自の色彩感覚を備えており、陰影に茶色や黒を決して利用しませんでした。 周囲のものからの反射光を表現するために、影にカラフルな色を使っているのも特徴の一つです。 印象派の新しい画風が批判を受けることも 印象派のスタイルは、当初批評家たちからはよい評価を得られませんでした。 筆の跡をあえて残す描き方は、それまでにない新しい手法であったため、すぐには受け入れられず批判を浴びました。 ルノワールが描いたあるヌード像に対しては、胸元や腕の光や影の表現が死斑に見えるとしてひどくバッシングを受けました。 ルノワールと盟友モネの関係 同時期に活躍していた印象派のモネとルノワールは、画塾時代に知り合い意気投合した盟友でもあります。 お互いの芸術論について語り合ったり、一緒に絵を描くために出かけたりと、刺激しあいながら親交を深めていました。 売れない若手画家時代には、ルノワールが実家で食事をすると、たくさんのパンをポケットに詰め込んで持ち帰り、モネに分け与えていたそうです。 ルノワールは速筆の画家であった ルノワールは、芸術家の中でも大変速筆であったといわれており、ときには、作品を30分で完成させることも。 伝統的な画家の中には、一つの作品を完成させるまでに何か月、何年もの時間をかけるケースもありますが、ルノワールは数十分で作品を完成させてしまうのです。 ワーグナーの肖像画は、たったの35分で描きあげたといわれています。 また、ガーンジー島で過ごした1か月間では、15作品仕上げたともいわれています。 依頼主から文句を言われることも ユダヤ系の銀行家カール・ダンヴェールに依頼され描いた『イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢』は、西洋画史上最も美しい美少女ともいわれていますが、ダンヴェール夫妻はお気に召さず、イレーヌの妹であるアリスとエリザベスを描く際に、一人ひとり描くと2枚分の費用がかかるからと、1枚に2人をまとめて描くよう依頼したそうです。 鮮やかで美しい作品を描くルノワールでも、依頼主から文句を言われてしまうことがあったのです。 ジャポニズムに影響を受けた作品も 印象派やポスト印象派に位置づけられているルノワールは、日本美術からも影響を受けていたといわれています。 当時流行していた日本の工芸品に強い興味と関心を抱き、作品の中にも取り入れています。 『うちわを持つ女』では、うちわを持った女性が横向きでこちらに顔を向けている様子が描かれており、うちわには外国人がイメージする日本人像が描かれているのが特徴です。 背景には、当時流行していた日本の菊とおぼしき花が描かれています。 また、絵のモチーフだけではなく構図にもジャポニズムが取り入れられているのです。 平面的な日本のうちわと立体的な帽子、背景の右側にはストライプ柄の直線が描かれ、左側には丸い花が描かれているといったように、ジャポニズムの非対称性が用いられています。 浮世絵でよくみられる左右非対称や不規則、不均衡などの要素が表現されており、ルノワールもジャポニズムの影響を受けていたことが伺えるでしょう。 年表:ピエール=オーギュスト・ルノワール 西暦 満年齢 できごと 1841 0 フランスのリモージュにて誕生。父は仕立て職人、母はお針子。 1844 3 家族でパリに移住し、ルーヴル美術館近くに居住。 1854 13 磁器工場で絵付け職人として働き始めるが、工場閉鎖後、画家を志す。 1862 21 シャルル・グレールの画塾に入学し、モネ、バジール、シスレーらと親交を深める。 1864 23 サロンに初出展し、『エスパニョールの娘』が入選する。 1874 33 第1回印象派展に参加。『ラ・ログ』や『陽光の中の裸婦』を発表。斬新な作風が批評家の注目を集める。 1876 35 『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』を制作。印象派の代表的作品の一つとなる。 1881 40 イタリア旅行でルネサンス絵画に触れ、構図や人物描写を学ぶ。帰国後、古典的な作風に移行。『浴女たち』を制作。 1890 49 愛人であったアリーヌ・シャリゴと結婚し、家庭を築く。 1907 66 関節リウマチを発症。手が不自由になりながらも、絵筆を手に縛り付けて制作を続ける。 1919 78 晩年の作品『浴女たち』を完成させる。同年、ルーヴル美術館に作品が収蔵される栄誉を受けるが、その直後に死去。
2025.01.03
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マリー・ローランサン(1883年-1956年)画家[フランス]
20世紀前半に活躍した女性画家「マリー・ローランサン」とは 生没年:1883年-1956年 マリー・ローランサンは、20世紀前半に活躍したフランスの女性画家です。 若き日のピカソをはじめとした芸術家のグループと交流し、ブルーやピンクなどのパステル調の女性像をメインに描いた画家で、当時のアートシーンで注目を集めていたキュビズムには、人知れず反発心をもっていたといわれています。 死んだ魚やタマネギ、ビールグラスなどを描くよりも、かわいい女の子を描く方がよいと語っています。 母子家庭で育ち美術を学ぶ ローランサンは、パリのシャブロル街に生まれ、両親は婚姻関係を結んでいなかったため、私生児として母子家庭で育ちました。 母のポーリーヌ・メラニー・ローランサン、服の仕立てで生計を立てており、母一人子一人で静かに暮らしていました。 父であるアルフレッド・トゥーレは、ときどき2人の様子を訪ねていましたが、ローランサンは長い間、訪れる男性を父だとは知らなかったそうです。 ローランサンは、この男性をあまり好んでおらず、宿題するローランサンに対して父が羊は草食動物であると伝えると、反発心から羊は肉食動物であると書いて提出したというエピソードがあります。 また、父から仕送りがあったため、ローランサンは中流以上の教育を受けられました。 ローランサンは、幼いころから想像力が豊かな女性で、ある日家具付きのアパートの窓辺でくつろぐ若い男女の姿を観察し、天啓に打たれたように画家になると決めました。 ローランサンは、母からティーカップの絵を描くようにいわれ描き、高いデッサン力があると認めてもらい、本格的に美術を学ぶことを許可されます。 デッサン学校でジョルジュ・ブラックと出会う 1902年ごろからは、パリのバティニョール地区にある公立のデッサン教室に通い始め、同時に磁器の絵付けの学校にも通っていました。 1904年には、磁器の絵付けの学校をやめ、絵の私塾であるアカデミー・アンベールに入学します。 同窓生には、のちにキュビズムの創始者となるジョルジュ・ブラックがおり、ジョルジュはローランサンの才能にいち早く気付き、伝説のアトリエ「洗濯船」に招待し、芸術仲間たちに彼女を紹介しました。 洗濯船での芸術家たちの出会いが、ローランサンののちの芸術家人生の転機となったのです。 特に影響を与えたのはピカソで、彼が描いた『アヴィニヨンの娘たち』がローランサンに大きな衝撃を与えました。 このピカソの作品は、歴史を変える一枚になると確信したローランサンは、自分もいつかこの作品のように偉大な絵画を描きたいと野心を抱くようになります。 キュビズムの影響を受けつつも独自のスタイルを確立 ローランサンは、前衛芸術家たちに囲まれ、キュビズムの影響を受けながらも独自のスタイルを確立していきました。 詩人のギヨーム・アポリネールとは、1907年から1913年まで恋人関係にあり、この期間にローランサンが描いた集団肖像画のいくつかにはアポリネールが登場しており、ほかの人物よりもわずかに大きく描かれている作品もあります。 キュビズムを取り入れつつ独自のスタイルで描かれた代表作として『Les jeunes filles』があります。 ローランサン特有のスタイルで描かれた4人の女性の背景に、キュビズム風の建築物が描かれているのが特徴です。 ピカソやジョルジュのキュビズムスタイルをそのまま表現するのではなく、研究や理論に対して興味をもち、手法を取り入れながらも自分が描きたいものを描いたといえるでしょう。 スペインで味わった孤独が作品に変革をもたらす 1913年、ローランサンはアポリネールとの関係を解消しただけではなく、同居するほど仲のよかった母を亡くしています。 この2つの大きなできごとがきっかけとなったのか、ローランサンは短期間の交際を経て1914年にドイツ人貴族であるオットー・フォン・ヴェッチェン男爵と結婚しました。 2人が新婚旅行で南フランスを訪れているとき、第一次世界大戦が勃発。 ドイツ国籍であるオットーは、パリにもどれなくなってしまったうえに、ドイツにもどることも望まなかったため、夫婦でスペインに亡命し、マドリードで戦争が終わるのを待つことにしました。 しかし、スペインでオットーは、酒浸りになり、ローランサンは深い孤独を味わったといえます。 このスペインでの孤独がローランサンの独自のスタイルを確立する後押しになったともいわれています。 第一次世界大戦より前の作品では、絵の具が薄塗りでキャンバスがむき出しになっている部分もありました。 しかし、戦後の作品をみてみると白い絵の具が厚く塗られ、色彩はピンクやグレー、青をベースに緑や黄色が加わったものに変化していきました。 個展を開催しパリのアートシーンで活躍 1921年、ローランサンは、パリのポール・ローゼンバーグ画廊で個展を開催し、25点の作品を展示します。 この個展によりローランサンは高い評価を受け、展覧会後にはフランス国外のコレクターに対して作品が売れるようになりました。 これまで、ローランサンは、アポリネールやピカソ、ジョルジュなどとつながりがあるから作品の発表の機会があったといわれていましたが、個展の成功により独立した芸術家として認められるようになったのです。 パリのアートシーンで活躍し始めたローランサンは、その後第二次世界大戦が勃発するまでその地位を保ち続けました。 1935年には、レジオン・ドヌール勲章シュヴァリエを授与され、2年後に描いた『Le répétition』は、フランス国家が取得しました。 ギヨーム・アポリネールとの出会いと別れ アカデミー・アンベールに入学してから、多くの芸術家たちと知り合いになったローランサン。 ある日、ピカソが親友のアポリネールをローランサンに紹介します。 これがきっかけで交流を始めたローランサンとアポリネールは、お互いの才能を認め、高め合いながら交際を続けていきました。 若い才能ある2人は、モンマルトルの若い芸術家たちにとっては憧れのカップルであったそうです。 しかし、お互いが成長していくにつれ、芸術家としての個性がぶつかりあうように。 別れては付き合ってを繰り返す、不安定な関係が続くようになりました。 そのような中、2人の関係に終止符を打つ決定的な大事件が発生します。 当時ルーブル美術館に展示されていたモナリザが盗難にあった事件で、アポリネールが窃盗容疑で逮捕されてしまうのです。 結果的にアポリネールの疑いは晴れますが、ローランサンがもともとスキャンダルをおそれていたこともあり、2人の関係は完全に終わりを迎えたのでした。 この別れをきっかけにアポリネールは『ミラボー橋』という詩を残しています。 オットー・フォン・ヴェッチェンとの結婚 アポリネールと別れたローランサンは、ドイツから絵を学びにきていたオットーと出会い、あっという間に結婚を決めます。 1916年、パリの区役所で結婚式を挙げたわずか6日後に、第一次世界大戦が勃発するきっかけとなったサラエボ事件が発生します。 そして、新婚旅行で南フランスを訪れているときに第一次世界大戦が開戦し、フランスとドイツの争いが始まってしまうのです。 オットーはドイツ人であり、結婚によってドイツ国籍になったローランサンもパリにもどることはできず、中立国のスペインに亡命します。 しかし、スペインでも穏やかなときを過ごすことはできず、スパイ容疑をかけられスペイン中を転々とする生活を余儀なくされました。 また、夫であるオットーは酒に溺れるようになり、ローランサンは寂しさを紛らわすためにたくさんの手紙や詩を書いたといわれています。 終戦後も2人の仲は修復に向かわず、単身でパリにもどったローランサンは、離婚を決意しました。 マリー・ローランサンとココ・シャネル 第一次世界大戦が終わりパリにもどってからのローランサンは、上流階級の夫人から肖像画の依頼をたくさん受け、流行画家として地位と名声を得ていました。 当時のパリの社交界では、ローランサンに肖像画を依頼するのがステータスとなっており、ある日1人の女性が、成功の証として肖像画をローランサンに依頼しました。 完成した肖像画を女性に渡すと、作品に納得がいかなかったのか、自分に似ていないことを理由にローランサン に描きなおしを要求したのです。 この行動に怒ったローランサンは、描きなおしを拒否し、作品を引き取りました。 この書き直しを要求した女性が、フランスのファッションデザイナーでシャネルの創設者であるココ・シャネルだったのです。 ローランサンは、女性らしさのある儚げな雰囲気でシャネルを描きましたが、シャネルは強い女性像を表現してもらいたかったと考えられます。 マリー・ローランサンが描く作品の魅力 ローランサンは、儚げで美しい女性を描いた作品で人気を集めています。 日本でも、フランス・パリの空気感や優雅さ、上品さのある絵画に憧れを抱く人も多く、描かれた女性たちの背景に隠されている物語を想像しながら、鑑賞を楽しんでいる人も多いでしょう。 女性的な美を追求している 画家として活躍する女性が登場し始めた19世紀、男性と競い制作をすることで女性的な美の表現を失いがちな時代でしたが、ローランサンの絵画は女性らしい儚げで優雅な作品が多く、女性的な美を追求していたといえます。 アポリネールは、ローランサンが描いた絵画について、自由であり女性の美そのものを絵画で表現していると、評価しました。 作品の装飾性の高さ ローランサンの絵画が、多くの人の心を惹きつけた理由の一つに、装飾性が挙げられます。 ローランサンが制作した絵画は、大きすぎず家に飾って映えやすい作品が多く、室内装飾の一つとして人気を集めました。 女性をモチーフにした作品を多く手がけており、ドレスやワンピースを着用し、帽子やスカーフ、リボン、髪飾りなどのアクセサリーを身につけたファッション性の高い構成は、女性の美しさをより引き立たせているといえます。 ときには、犬や鳥、花などの動植物も一緒に描かれ、パステルカラーの色彩は、ローランサン独自のスタイルとして高く評価されました。 ローランサンは、幼いころから女手一つで育てられており、母は婦人服の裁縫と刺繍を仕事にしていたため、ファッションやデザインに触れる機会も多く、作品の趣向や美意識に大きな影響を与えたと考えられるでしょう。 ローランサンの絵画は、女性の背景が抽象的に描かれていることが多く、テーマを主張しすぎないスタイルのため、装飾性が高いと評価されたといえます。 フランス的優美さの表現 アポリネールは、ローランサンの作品について、フランス的な優美さを巧みに表現していると評価しています。 日本人が鑑賞したときにもフランスならではの優雅さを感じられるローランサンの作品を、フランス出身のアポリネールが、同じように評価しており、ローランサンが描く絵が醸し出すフランス的優美さは、世界に共通するものであるといえるでしょう。 描かれた人物の佇まいや表情、ファッション性、パリのグレーな空、緑豊かで静かな公園、歴史を思わせる石造りの建築物など、さまざまなシーンからフランス的優美さを感じさせてくれます。 日本でも高い評価を受けている ローランサンが描いた作品は、日本でも高く評価されており、長野県茅野市の蓼科湖畔には、マリー・ローランサン美術館が設立され、世界で唯一のローランサン専門の美術館として話題を集めました。 2011年をもって閉館となってしまいましたが、ローランサンの生誕100周年にあたる1983年に開館し、館長である高野将弘が収集した個人コレクションをはじめ、500点余りの作品を収蔵していました。 年表:マリー・ローランサン 西暦 満年齢 できごと 1883 0 フランス、パリにて誕生。母子家庭で育つ。 1902 19 セーヴル国立陶芸学校で学び、陶芸家を目指す。 1904 21 美術に転向し、アカデミー・アンベールに入学。ジョルジュ・ブラックやパブロ・ピカソと交流。 1912 29 『アポリネールとその仲間たち』を制作。詩人ギヨーム・アポリネールと親密な関係を持つ。 1920年代 30代 パリの上流階級の女性肖像画家として成功。独特の柔らかな色彩と構図で評価を得る。 1930 47 『青いドレスの女性』を制作。 1956 72 パリで死去。フランスを代表する女性画家として記憶される。
2025.01.03
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マルク・シャガール(1887年-1985年)画家[ロシア]
フランス・パリで活躍し、その後国際的に有名な画家となったマルク・シャガール。 第一次世界大戦という大きな争いごとが発生した時代を生きた芸術家であるシャガールは、愛をテーマにした作品を多く残しています。 ロシア系ユダヤ人の画家「マルク・シャガール」とは 生没年:1887年-1985年 マルク・シャガールは、ロシア出身のフランス画家で、愛や結婚をテーマにした作品を多く制作していたことから、「愛の画家」とも呼ばれています。 また、華麗な色使いから「色彩の魔術師」とも称されていました。 シャガールは、毒舌家としても知られており、同時代に活躍した画家や芸術運動に対しては、皮肉めいた態度を取っていたそうです。 特に、ピカソに対しては非常に辛辣な評価をしています。 旧ロシア帝国のユダヤ人街で生まれ育つ シャガールは、旧ロシア帝国(現在のベラルーシ共和国)のヴィテブスク 近郊にあるリオスナという村で、9人兄弟の長男として誕生。 父のザハール・シャガールは魚売りをしており、母のフェイガ・イタは自宅で食料品を販売していました。 当時のヴィテブスクの人口は、6万6000人ほどで、半分近くをユダヤ人が占めていました。 ヴィテブスクは、ユダヤ教正統派から異端とみなされたカバラ教養から派生しているハシディズム文化の中心地でもあったのです。 シャガールもユダヤ系の家庭で生まれ育ち、ハシディズム文化の世界観に大きな影響を受けています。 ヴィテブスクは、絵画のような美しい教会やシナゴーグと呼ばれるユダヤ教の会堂が立ち並ぶ美しい景観をもっていました。 多くの人々は、町の景観をスペイン帝国時代の世界観をなぞって「ロシアのトレド」と呼んでいました。 フランス美術に影響受けてパリへ 少年時代、シャガールは地方のユダヤ教徒の学校に通い、聖書やヘブライ語の勉強をしていました。 13歳のときに、本来ユダヤ人を受け入れていないロシアの高等学校に母がかけあってくれて、入学が認められます。 同級生にシャガールが絵の描き方を尋ねると、図書館で好きな写真が載っている本を選んで模写するだけといわれ、シャガールは模写を始めます。 これが、シャガールが芸術家を目指すきっかけとなったといわれているのです。 1906年からは、ヴィテブスク にある写実主義の画家イェフダペンが運営する小さな美術学校に通い、絵を学びます。 しかし、アカデミックな芸術が自分には合わないと気づいたシャガールは、サンクトペテルブルクにある美術学校に入学。 サンクトペテルブルクに滞在中、ポール・ゴーギャンをはじめとしたフランスの先進的な芸術に触れ刺激を受けたシャガールは、芸術の都パリに移り住むと決意します。 シャガールがパリに移住した1910年ごろは、キュビズムが注目されていた時代で、エコール・ド・パリの画家や詩人のギヨーム・アポリネールなどと交流を図りました。 キュビズムだけではなく、フォーヴィスムやシュルレアリスム、シュプレマティスム、象徴主義などさまざまなスタイルの技術や知識を吸収しながら、物語性のある具象画を研究し独自のスタイルを築き上げていきました。 シャガールの作品は詩人から注目を集める シャガールが描く新しくも率直な感情表現やシンプルでありながら詩的なユーモアを感じさせる絵画は、当時のパリ美術界では異端者扱いされ、画家たちからはあまりよい評価を受けられませんでした。 しかし、アポリネールやブレーズ・サンドラールなどの詩人たちから注目を集めるように。 シャガールが描く絵画は、対象物を複数の視点で外から観察するキュビズムとは異なり、内から外に向かって出ていくさまざまな内面感情を情熱的に表現したものでした。 当時23歳ほどだったシャガールは、フランス語を話せない状態でパリでの暮らしを続けていたため、人生の中でも大変孤独な期間であったといわれています。 その孤独な環境が、故郷やその自然の懐かしむ哀愁の感情を生み出し、絵画作品として消化していったそうです。 宝石商の娘と恋に落ち結婚する シャガールは、婚約者であるヴィテブスク の宝石商の娘ベラを残してパリに滞在していましたが、ベラが自分に対して興味を失うことをおそれ、身分違いな恋ではあるものの、情熱的にアプローチをかけ結婚にこぎつけました。 結婚の前年にベルリンの有名画商から個展を開催しないかと誘われており、個展でドイツへ行った際に近くのヴィテブスク に立ち寄り結婚。 個展が終了するとともにベラを連れてパリに引き返す予定でいました。 ドイツでの個展は大成功をおさめ、ドイツの批評家たちはこぞってシャガールを絶賛しました。 その後、ヴィテブスク に滞在し結婚式を挙げる予定でしたが、途中で第一次世界大戦が始まってしまい、ロシア国境線が無期限で封鎖されてしまいます。 1年遅れで結婚を果たしたシャガールとベラの間には、子どもも生まれています。 ロシア革命後にベルリンへ亡命 1917年のロシア革命後は、一時的にベルリンへ亡命し、故郷の人民美術学校の校長に任命されます。 この美術学校では、シャガール以外にもエル・リシツキーやカジミール・マレーヴィチなど、当時のロシアで活躍していた芸術家も集められており、独立した芸術スタイルをもつ画家たちによる美術学校を目指していました。 しかし、シャガールはマレーヴィチと意見の違いにより衝突し、美術学校を去ることになってしまうのです。 モスクワで舞台デザインの仕事に就く 学校を辞めた後は、モスクワに移動し、新しく設立予定のユダヤ人商工会議劇場の舞台デザインの制作を手がけました。 1921年のはじめごろ、劇作家のショーレム・アレイヘムによりさまざまな演劇を上演する劇場がオープン。 シャガールは、画家や舞台美術家として活躍していたレオン・バクストから学んだ技術を活かして、舞台の巨大な背景画をいくつも制作しました。 第一次世界大戦が終わった1918年、飢饉が問題となり、食料の物価高騰を避けるためにモスクワの小さな村へ移り住みます。 1921年からは、マラホフカ郊外にあるウクライナのユダヤ人迫害により孤立した難民を収容するための、ユダヤ人少年シェルター内の芸術劇場で働くようになります 。 再びフランス・パリで活躍を見せる 1923年、シャガールはモスクワを後に、フランス・パリへと戻ります。 パリに行く途中、10年ほど放置していた数々の絵画を引き取るためにベルリンへ立ち寄りますが、すべてを引き取れなかったため、シャガールの初期作品の多くは、紛失状態となってしまいました。 パリに戻ってきたシャガールは、フランスの画商アンブロワーズ・ヴォラールと契約し、小説家ニコライ・ゴーゴリの『死せる魂』や、聖書の『ラ・フォンテーヌの寓話』などのイラストレーションとして、銅版画の制作を始めました。 この仕事でシャガールは、版画の才能を開花させていくのです。 シャガールは1926年までに、アメリカのニューヨークにあるラインハルトギャラリーで個展を開催し、約100点の作品を公開しました。 ナチスによる迫害を受けてアメリカに亡命 シャガールが銅版画制作を手がけていたころ、ドイツではヒトラーが権力を拡大させ、反ユダヤ法を制定すると、はじめはダッハウに強制収容所が設立されました。 キュビズムやシュルレアリスム、表現主義、抽象芸術などの近代美術の弾圧を開始したナチスは、愛国的な解釈がされた伝統的なドイツ具象絵画を絶賛するようになります 。 1937年からは、ドイツ美術館に収蔵されていた約2万 点の作品を退廃芸術と批評し、委員会によって押収され、シャガールの芸術もドイツ当局からの嘲笑を受けたそうです。 ドイツ軍がフランスを占領した後も、しばらくの間シャガールはフランスにとどまっていました。 しかし、ナチス占領下でヴィシー政権が反ユダヤ法の承認を開始すると、ようやく事の重大さを理解し、アメリカへの亡命を決めます。 アメリカで国際的な活躍を見せる 1941年、アメリカに移住したシャガールは、『婚約者』で3回目となるカーネギー賞を受賞しました。 アメリカに入国したシャガールは、すでに自分が国際的に有名な芸術家になっていると実感したそうです。 同じくナチス・ドイツの侵略によりヨーロッパからアメリカに亡命した画家や作曲家などの芸術家の多くはニューヨークで生活を始めており、シャガールも同様にニューヨークで新しい暮らしをスタートさせます。 アメリカ滞在中、シャガールはよくローワー・イースト・サイドにあるユダヤ人地区を訪れました。 ユダヤの文化や食事を楽しみながら、ユダヤ人用の新聞を読めるその地区での時間は、当時まだ英語を話せなかったシャガールにとって憩いの地であったといえるでしょう。 シャガールの作品は、ニューヨークで画商をしているアンリ・マティスの息子ピエール・マティスが賞賛し、個展を開催し始めたことで注目を集めるようになりました。 メキシコとでバレエの舞台デザインを担当する ニューヨークを拠点に活動を続けていたシャガールは、ニューヨーク・バレエ・シアターの振付師であるレオニード・マシーンから新しいバレエ「アレコ」のための舞台や衣装の制作をしてほしいと依頼されます。 シャガールは、メキシコでメキシコ芸術に触れ大変感動し、舞台用の大きな背景を4つとともに、バレエ衣装のデザインも手がけました。 バレエの舞台は大成功をおさめ、メトロポリタン・オペラでも開催し、同じく高評価を得ました。 晩年は絵画から離れ多彩なジャンルで活躍 戦争が終わりフランスに戻ったシャガールは、コート・ダジュールに自宅を構え、ニース近郊に住んでいたマティスやピカソとともに制作活動を行うこともあったそうです。 晩年は、絵画制作から離れ、彫刻やステンドグラス、セラミック、タペストリーなどさまざまなジャンルの芸術作品の制作を手がけました。 1963年には、19世紀の偉大な建築で国の記念碑でもあるパリ・オペラに飾る新しい天井画の制作依頼を受けます。 当時、ロシア系ユダヤ人に国の記念碑である建築物の装飾を依頼することに反対する人もおり、この人選は論議を巻き起こしたそうです。 しかし、シャガールは77歳でこの偉大なプロジェクトでの制作活動を続け完成させました。 マルク・シャガールが描く作品の特徴 シャガールが描く作品は、一目で彼の作品であるとわかる特徴を持ち合わせています。 さまざまなスタイルの芸術を学び独自の作風を確立させていったシャガールの作品には、どのような魅力が隠されているのでしょうか。 色彩の魔術師と呼ばれるほど色使いに長けていた シャガールは、色を巧みに使い分ける画家で「色彩の魔術師」と呼ばれるほど、優れた色彩感覚をもっていました。 使用する画材は、油彩や水彩、パステルなどさまざまあり、それぞれの特性を生かしながら独特のスタイルを生み出していきました。 有名な画家ピカソもシャガールの色彩感覚を高く評価していたそうです。 シャガールが表現する色彩の中でも、特に青の表現は多くの人の心を惹きつけていました。 「シャガールブルー」とも呼ばれており、この青色をベースにした作品は、シャガールが描いた作品の中でも特に高額で取引されています。 愛をテーマにした作品を多く描いていた シャガールが描いた多くの作品は、愛をテーマにしています。 また、特定のモチーフが繰り返し登場するのも特徴の一つです。 たとえば、恋人同士や花嫁が愛する人に向ける愛、故郷を懐かしむノスタルジーな愛など、さまざまな形の愛を表現しています。 愛というと、人と人の間に育まれるものを想像しますが、シャガールは幼いころに過ごした場所にも愛の形を生み出したのです。 また、宗教的な観点からみた愛や家族に対する愛まで、多彩な愛を作品で表現しました。 シャガールの愛に対する豊かな表現が、作品を鑑賞する人々の心を暖かくしているといえるでしょう。 年表:マルク・シャガール 西暦 満年齢 できごと 1887 0 ベラルーシのヴィテブスクにて生まれる。ユダヤ系家庭の出身。 1907 20 サンクトペテルブルクで美術学校に入学。 1910 23 パリに渡り、モンパルナスで活動を開始。マティスやセザンヌなどの影響を受ける。 1914 27 『私と村』を制作。この作品は彼の代表作の一つとなる。 1915 28 ベラ・ローゼンフェルドと結婚。 1941 54 第二次世界大戦の影響でアメリカに亡命。『誕生日』や『白い十字架』を制作。 1948 61 フランスに帰国し、南仏で創作活動を行う。 1950年代 60代 オペラ座の天井画や教会のステンドグラスを手掛ける。 1985 97 南仏サン=ポール=ド=ヴァンスで死去。生涯にわたり愛や平和をテーマとした作品を描き続ける。
2025.01.03
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モーリス・ユトリロ(1883年-1955年)画家[フランス]
白の画家と呼ばれた「モーリス・ユトリロ」とは 生没年:1883年-1955年 モーリス・ユトリロとは、近代のフランス画家で、数少ないモンマルトル出身の芸術家です。 ユトリロは、素朴な都市の風景画を描く画家として知られており、パリのモンマルトル地区近郊の曲がりくねった道や路地の風景を好んで描いていました。 父が誰であるかはっきりとはわかっていませんが、ボワシーと呼ばれる若いアマチュア画家や、有名画家ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ピエール=オーギュスト・ルノワールであるともいわれています。 母はアートモデルで画家志向だった ユトリロは、パリ・モンマルトルの丘のふもとにあるポトー街8番地にて、シュザンヌ・ヴァラドンの子として生まれました。 母のヴァラドンは、ブランコの転落事故によりサーカス曲芸師をやめ、アートモデルに転向すると、ルノワールやベルト・モリゾ、アンリ・ド・トゥールズ・ロートレックなどのモデルを務めながら、自身も画家を志し絵画を学んでいました。 ユトリロは、身体が弱く情緒不安定でしたが、ヴァラドンは自身の母マドレーヌに育児を任せていたのです。 ユトリロは、学校に通うようになってからもあまり周囲となじめず転校を繰り返しています。 その後、ヴァラドンはポール・ムージスと暮らしはじめ、自宅にアトリエを構えると絵画により専念していきました。 ムージスと結婚し生活が安定すると、ユトリロは私立学校の寄宿舎に預けられ、その後オーベルヴィリエで初等教育の修了証書を取得しました。 パリの中学第五学級には、ピエールフィットの祖母の家から通い、優秀な成績をおさめていましたが、最高学年で問題を何度も引き起こし退学となっています。 若くしてアルコール依存症に陥る 祖母のマドレーヌは、大のお酒好きで、ワインは健康によいと信じており、ユトリロも中学生のころからワインを飲んでいたそうです。 少年時代からの飲酒経験が、アルコール依存症を引き起こしたといえるでしょう。 1900年、ムージスの紹介で臨時雇いの外交員として働いていたユトリロですが、4カ月ほどでやめています。 ほかの仕事も長続きせず、ユトリロの気難しい性格や激情、アルコール依存症などの影響により暴力が増え、1901年に一家は、サルセルに移り住むことになりました。 しかし、ユトリロのアルコール依存は、悪化する一方で、モンマルトルの丘の上にあるコルトー街2番地に住みつくようになりました。 このころから水彩画を描くようになり、治療を担当していた医師は、興味をもったことはやりたいようにやらせるよう勧めたため、ユトリロはすぐに芸術的才能を開花させます。 しかし、アルコール依存症の症状は一向に改善されず、ムージスはユトリロを精神病院に入院させてしまいます。 その後、症状の改善がみられるようになってきたユトリロは、モンマニーへ戻り、モンマルトル周辺を拠点に絵を描き始めました。 モーリス・ユトリロが活躍した白の時代 ユトリロが、白い壁が印象的な建築物や壁そのものをモチーフにした絵を描いていた時代を「白の時代」といいます。 1908年ごろからの約6年間を指しており、ユトリロの生涯の中で最も傑作が多いと、高く評価されている時代です。 - 画商で最初の買い手はルイ・リボート 少しずつ絵を描くようになっていったユトリロの作品を、最初に購入してくれた画商がルイ・リボートです。 ユトリロは、購入してくれる人であれば誰にでも絵画を売っていましたが、画商として購入する人は、いままでいませんでした。 1909年、ユトリロは、サロン・ドートンヌに2点の作品を初めて出品しました。 このうちの一作品が、ユトリロの代表作といわれる『ノートルダム橋』です。 同年、ヴァラドンとムージスは破局し、ユトリロとヴァラドンらは、モンマニーにあるパンソンの丘の館に移り住みました。 - モンマニーに移り住み経済的困難に陥る モンマニーに移り住んでからの一家は、誰も十分な収入を得ていなかったため経済的困難な状況に直面しました。 一時、ユトリロが石膏採掘場にて働き始めますが、大勢の前で大暴れし警察沙汰となってしまいました。 時間にゆとりのあったユトリロは、絵を描いて売ろうともしており、才能を認めていた画商リボードは、モンマルトルの作品倉庫で半ダースほどの作品を購入し、転売に成功して利益を得ています。 そのような中でも、ユトリロはアルコール依存症の影響で、泥酔した際に猥褻の罪にて起訴され、罰金刑を受けています。 ある日、ユトリロは、セザール・ゲイという一人の元警察官と出会い、ゲイが所有し、マリー・ヴィズィエが経営している「ベル・ガブリエル」によく出入りするようになりました。 飲食だけではなく、店の奥で絵を描くことを許可してもらい、完成した絵をゲイが自分の店のホールに飾るようになると、多くの人から高い評価を受けて、芸術家としてのユトリロの名は、モンマルトル一帯に知れ渡るようになっていったのです。 - ユトリロの絵画の価値が急上昇していく 1912年、ユトリロの絵画の価値が急上昇していることを知ったリボードは、専属契約を交わし、ささやかな規則的報酬をユトリロに支払うように。 一家は経済的に安定しましたが、ヴァラドンらはユトリロの絵画に利益を見出そうとし、リボードと対立するようになりました。 そのような中、4月末から5月のはじめにかけてユトリロの健康状態は悪化していき、美術批評家のアドルフ・タバランが、リボードに病院へ入れるよう促しましたが、リボードはそれを拒否。 リボードとヴァラドンの関係はさらに悪化しますが、最終的にリボードはユトリロの入院費を支払うことになりました。 入院中、ユトリロは外出を許可され、ルヴェルテガ博士の勧めにより多くの絵を描きました。 治療の効果が見え始め、一家の友人であるリッシュモン・ショドワの提案により、ブルターニュのウェサン島で2カ月以上を過ごします。 ユトリロは休暇中も絵を描きますが、リボードから1カ月に6枚以上は描かないというルールを設けられており、それに従い12枚以下の風景画と2点の小さなカルトンしか描かなかったそうです。 - 入院生活を送りながらサロンへ出品 パリに戻ったユトリロは、サロン・ドートンヌに『サノワの通り』と『コンケの通り』の2点を出品しますが、12月に再び健康状態が悪化し、再入院します。 1913年の大半を病院で過ごす一方、サロン・デ・ザルティスト・アンデパンダンにもユトリロの作品が出品されました。 その後、ユトリロは家族とともにコルシカ島に向かい、コルシカ高地のベルゴデールで過ごし、20点ほどの作品を描きました。 - 治療をしながらも絵を描き続ける コルシカ島から戻ってきた直後に、ユトリロは、ヴァラドンの紹介により画商のマルセイユと出会います。 マルセイユは、リボードとは異なりユトリロにとって好条件な契約を提案し、ユトリロはすぐに契約を交わしました。 収入を得たユトリロは、モンマルトルの丘の酒場を回るようになり、結果的にルヴェルテガ博士の診療所で再び治療を受けることになってしまいます。 治療後は、後軍隊に志願しますが、医学的理由で兵役を免除されてしまい、ユトリロはまた酒場に入り浸るようになっていきました。 この時代に描かれた作品は、数百点にのぼり、白を基調としていたことから白の時代と呼ばれるようになりました。 色彩の時代への移行 白の時代のあと、ユトリロの作風は、黒い輪郭線で空間を構成し、幾何学化によりモチーフ同士のバランスを保つような色彩の時代に移っていきました。 ユトリロは、ゲイの店の奥を借り、色彩の調和を探求していきました。 1915年ごろからは、1年中絵を描きながら酒を飲み続け、騒ぎを起こすようになったため、再び病院へ入院するようになり10カ月以上も監禁生活を送ることに。 退院後の1917年、ベルナイム=ジュヌの画廊で開催されたグループ展では、数枚の作品を出品し、高く評価されるようになっていきました。 モーリス・ユトリロの作風 ユトリロの描く風景画には、独特の哀愁があり多くの人の心を惹きつけました。 精神的に不安定で、生涯アルコール依存症に悩まされ続けたユトリロが描く作品は、どこか不安げな雰囲気のある建築物が印象的です。 白の画家の由来となる白を多用 白の時代と呼ばれるユトリロ初期の作品には、色彩があまりなく、白をベースとした風景画が多いのが特徴です。 これは、ユトリロの心の中に、生まれ故郷であるモンマルトルの風景が強く残っているからと考えられるでしょう。 モンマルトルには、レンガや漆喰の階段が多くあり、ユトリロは幼いころからその町中を遊びまわっていたそうです。 そのため、白は、ユトリロにとって身近な色であり、大切な思い出の色でもあるのかもしれません。 温かみのある色彩による表現 白の時代が終わり、アルコール依存症と精神的な不安定さに回復の兆しがみられたころ、ユトリロの作風は、変化していきました。 心の状態を表すかのように、温かみのある色彩で満ちた作品を描くようになりましたが、晩年に近づくにつれ、再び精神的に不安定な状態に陥り、生活は荒廃していきました。 しかし、色彩への探求心はもち続け、絵画の制作には打ち込み続けます。 そして、現在でも高く評価されるような作品を数多く残しました。 年表:モーリス・ユトリロ 西暦 満年齢 できごと 1883年12月26日 0 パリ・モンマルトルのポトー街8番地でシュザンヌ・ヴァラドンの私生児として生まれる。 1890年頃 7 スペイン人画家ミゲル・ウトリーリョ・イ・モルリウスに認知され、「モーリス・ユトリロ」と改姓。 1894年頃 11 精神病のため母シュザンヌに病院へ連れて行かれる。 1896年 13 母シュザンヌがポール・ムージスと結婚し、モンマニーに転居。ユトリロはピエールフィットのモランという私立小学校に預けられる。 1900年2月 17 ムージスの紹介で外交員として短期間の職を得るが、4か月で辞職。 1901年 18 アルコール依存症の悪化により、サルセルに転居。 1902年 19 モンマルトルのコルトー街2番地に住み着き、水彩画を描き始める。 1904年初頭 21 サン=タンヌ精神病院に入院し、症状の改善を見せる。 1905年頃 22 『モンマニー風景』などの作品を制作。 1906年 23 『屋根』を制作。 1907-1908年 24-25 シスレーの回顧展の影響を受け、画面の奥行きや堅牢さを追求。 1909年春 26 ルイ・リボートが画商となり、ユトリロの作品が初めて展覧会に出品される。 1909年 26 サロン・ドートンヌに出品。ヴァラドンとムージスが破局。モンマニーに移住。 1911年 28 ユトリロが泥酔して起訴され、罰金刑を受ける。 1912年 29 リボードとの専属契約を交わし、経済的安定を得る。ドリュエ画廊で6点の作品を展示。 1913年 30 ウジェーヌ・ブロ画廊で初の個展を開催。展示会は失敗し、ユトリロの多作が原因とされる。 1914年 31 コルシカ島に出発し、20点ほどの作品を制作。 1915年-1916年 32-33 第一次世界大戦中、フランスの軍需工場で働く。 1917年 34 リボードとの契約が終了し、経済的に困窮。 1920年 37 「白の時代」の作品が評価され、商業的に成功を収める。 1930年 47 サロン・ドートンヌで大規模な回顧展を開催。 1950年 67 フランス政府から芸術家としての評価を受け、名誉ある賞を受賞。 1955年11月5日 71 死去。モンマルトルの墓地に埋葬される。
2024.12.27
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アルフォンス・ミュシャ(1860年-1939年)画家[チェコ]
アール・ヌーヴォーの旗手「アルフォンス・ミュシャ」とは 生没年:1860年-1939年 アルフォンス・ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表する画家で、装飾パネルやポスター、カレンダーなどを多く制作しています。 星や宝石、草花などのさまざまな概念を、女性の姿で表現するスタイルが特徴的で、華麗な曲線美が魅力の一つです。 幼いころは音楽も好きだった ミュシャは、オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェという小さな村で、裁判所の官吏の子として生まれました。 大変謙虚で倹約家であった家族の元に誕生し、母は製粉業者の娘でした。 ミュシャは、幼いころからドローイングの才能を発揮しており、ミュシャの絵をみた地元の商人が大変感銘を受け、当時まだ絵を描くための紙は、ぜいたく品であったにもかかわらず、無料で分け与えてくれるほどだったそうです。 また、幼いころのミュシャは、音楽にも関心を寄せており、1871年には、ブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に参加し、熱心な信仰者となりました。 のちにミュシャは、「絵画の概念と教会へ通うことと音楽は密接に関係していて、音楽が好きだから教会に通っているのか、教会が好きで音楽も好きになったのかはっきりとはわからない」と語っています。 プラハの美術アカデミーに入学を拒否される 1878年、18歳になったミュシャは、プラハの美術アカデミーに入学を希望しましたが、学校側からほかに君にふさわしい職業を探しなさいと入学を拒否され、書類審査で落選してしまいます。 1880年、19歳でオーストリアのウィーンへ向かうと、ウィーン劇場で舞台装飾の仕事を担っているカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房の求人広告を発見し、見習いとして働くことに。 ウィーン滞在中は、美術館や教会、宮殿、劇場などに通い、特に仕事の得意先が劇場であることから、工房の師匠からチケットをよくもらい、無料で鑑賞していたそうです。 また、ミュシャは工房で働きながら、夜間は絵画教室に通い、デッサンを学ぶ日々を過ごしていました。 この時期にミュシャは、ウィーンで人気を集めていたアカデミックな画家ハンス・マカルトから大きな影響を受けています。 マカルトは、ウィーンにある宮殿や政府の建築物の壁に大きな壁画を描いたり、壮大な形式で歴史画や肖像画を描いたりする巨匠として知られていました。 この芸術様式に影響を受け、ミュシャはその後方向性を変え、制作する作品に大きな影響を与えていったのでした。 工房の得意先が焼失して失業する 1881年の終わりごろ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまい、ミュシャは仕事を失ってしまいます。 失業したミュシャは、モラヴィアの南部にある国境の町ミクロフへ行き、フリーで装飾芸術や肖像画を描き、墓石に刻む文字制作などを行い、生計を立てるようになりました。 ミュシャの作品の評判は、徐々に高まっていき、地主であるエドゥアルド・クエン・ベラシから、邸宅であるエマホフ城の壁画シリーズの制作を依頼されます。 その後、ガンデック・カーストのチロルにある先祖代々受け継がれてきた家に飾る絵画制作の依頼も受けました。 当時すでに神話をモチーフにした女性の形態や青々と美しい草花の装飾画を描き、才能を発揮していました。 ベラシ自身もアマチュアの画家であったことから、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノでの美術鑑賞にミュシャを連れていったり、バイエルンで有名なロマンティシズム画家のウィルヘルム・クレイをはじめとした多くの芸術家たちにミュシャを紹介したり、さまざまなサポートをします。 伯爵の後押しを受けてミュンヘン美術大学に入学 1885年、 エゴンはアカデミックな芸術教育をミュシャに受けさせるために、ミュンヘン大学への入学を勧め、授業料と生活費を支援するパトロンとなりました。 大学では、ドイツの画家であるルートヴィヒ・ヘルテリッヒやルートヴィヒ・フォン・レフツ教授などから絵を学び、デッサン技術を着実に身につけていきます。 移住制限によりパリへ移り住む ミュシャは、チェコの学生クラブを創設し、プラハの民族主義的出版物をはじめとした政治的なイラストを掲載していました。 ミュンヘンの芸術性にあふれた環境を満喫していたミュシャでしたが、長居できるものではないと悟っていました。 当時、ババリン当局が外国人学生や居住者に対して、移住を制限する政策を打ち出しており、 ブラシはミュシャにローマかパリに移動するよう提案し、ミュシャは ブラシからの支援を受けながら1887年にパリへ移り住みます。 パリで入学した2つの学校で異なるスタイルを学ぶ パリへ移住したミュシャは、アカデミー・ジュリアンで学んだあと、アカデミー・コロラッシにも通っています。 1889年の終わりごろ、ミュシャが30歳になると、 ブラシはミュシャが十分な美術教育を受けられたとして、奨学金を打ち切る決断を下しました。 打ち切りの理由は明かされていませんが、いつまでも ブラシに頼って学生生活を続け、画家として独立を考えないミュシャに対して、自立を促すためであったと考えられています。 ミュシャは、突然パリで極貧状態となり、住む場所にも困っていたため、大規模な スラヴ共同体のサポートを行っている避難所を発見し利用します。 その後、ミュシャは、グランド・ショミエール13通りにある、クレムリと呼ばれる寄宿舎に住みました。 イラストレーションで高く評価される ミュシャは、ミュンヘン出身のチェコの画家ルーデック・マロルドが、パリで雑誌のイラストレーションを手がけ成功したことを知り、同じ道を歩もうと考えます。 1890年と1891年に、ミュシャは毎週小説を掲載している人気週刊誌「ラ・ヴィー」で、イラストレーションの仕事をスタートさせました。 ミュシャがイラストを担当したのは、ギ・ド・モーパッサンの小説『ユースレス・ビューティ』で、1890年5月22版にて表紙になっています。 そのほかにも、若者向けの物語を雑誌や本で出版しているル・プティ・フランセ・イラストでイラストレーションも描きました。 この雑誌では、フランコ・プロイセン戦争のシーンをはじめとした、歴史上で起こったさまざまな事件の劇的なシーンを切り取り、イラストレーションを描いています。 ミュシャのイラストは、人気となり、定期的な収入が入ってくるようになったため、ミュシャは、音楽趣味のハーモニカやカメラを購入しました。 カメラは、自分や友人を撮影したり、参考となる絵の構図を作ったりするために利用されました。 その後、ミュシャはポール・ゴーギャンと出会い、一定期間アトリエを共有して制作活動をしています。 1894年の秋には、劇作家のアウグスト・ストリンバーグと交流を深め、哲学や神秘主義に興味を抱くようになりました。 ミュシャのイラストレーションの仕事は、書籍の仕事にもつながっていき、歴史家チャールズ・セニョボスが書いたドイツ史のシーンやエピソードを表現したイラストレーションを依頼されるようになりました。 『ジスモンダ』のポスターで大成功をおさめる 1894年の終わりごろ、当時雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生活していたミュシャは、印刷業者のルメルシエから大女優サラ・ベルナールが主役の芝居『ジスモンダ』のポスター制作を急遽依頼されます。 すでにパリのルネサンス座で公演されていた劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの演劇『ジスモンダ』が大成功をおさめており、クリスマス休暇後に公演期間を延長することになっていました。 その宣伝用のポスターの制作に、ミュシャが抜擢されたのでした。 実は、ミュシャは過去にベルナールに関連するイラストの仕事をしており、1890年にクレオパトラのパフォーマンスをするベルナールを描いています。 また、『ジスモンダ』開演時には、雑誌『Le Gaulois』の特別クリスマス付録のベルナールのイラストを制作していました。 公演期間延長の宣伝用ポスターは、急ぎの仕事であったため、ミュシャは大慌てでデザインを仕上げ納期に間に合わせたそうです。 1895年の元旦からパリの街頭に貼りだされたベルナールのポスターは、大きな反響を生み、ミュシャは一夜にして人気者となりました。 ベルナール自身もポスターに大変感激し、1895年と1896年の間でポスターを4000枚発注し、ミュシャ自身とも6年間ポスター契約を結びました。 ポスターの背景に描かれているアーチは、ミュシャのスタイルを表す特徴の一つとなり、以後の演劇ポスターの制作では必ずといっていいほど描かれています。 商業用ポスターで、一躍有名人となったミュシャは、次に装飾パネルの制作も手がけるように。 アメリカでは注文肖像画を描く 1904年、ミュシャはアメリカの招待により3月から5月まで滞在し、アール・ヌーヴォーの旗手としてメディアに取り上げられ、手厚い歓迎を受けました。 滞在中は、ニューヨークやフィラデルフィア、ボストン、シカゴなどを巡り、上流階級の注文肖像画を描いています。 また、ポスターやデザインなどの装飾作品や壁画作品なども制作しています。 かなりの数を制作していたそうですが、パリ時代に描かれた名作や代表作となるものは、アメリカ時代ではあまりみられませんでした。 ミュシャが最初の招待以降もアメリカに滞在していたのは、資金集めの目的があったからといわれています。 ミュシャは、パリ時代に スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩を、いつか絵で表現することを思い描いており、そのための資金集めだったといわれているのです。 プラハに戻り国のために芸術を捧げる 1910年、ミュシャはチェコのプラハに戻ると、国のために芸術を捧げる決意をします。 プラハ市長の公館に装飾壁画を制作し、その後さまざまな街のランドマークの制作を手がけました。 思い描き続けてきた『 スラヴ叙事詩』を描くためのアトリエを兼ね、西ボヘミアのズビロフ城に住み、作品制作を開始しました。 『 スラヴ叙事詩』は、6m×8mと巨大な作品で、1912年に最初の3点が完成し、1926年にシリーズすべてが完成。 最終的に、 スラヴ民族の歴史とチェコ人の歴史を10点ずつ合計20点の大作となりました。 第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立した際、ミュシャは、新しい国家の公共事業にもかかわるようになり、プラハ城をモチーフにした郵便切手や通過、国章などのデザインや制作を行いました。 晩年、1936年にパリの美術館にてチェコ出身の画家クプカとともに二人展が開催。 この時期、最後の大作といわれているミュシャが描いた理想の世界『理性の時代』、『英知の時代』、『愛の時代』の3部作の構想が練られますが、作品が完成することはありませんでした。 1939年、ミュシャは 肺感染症によりプラハで息を引き取りました。 アルフォンス・ミュシャが描く美しい女性たち ミュシャが描いてきた作品では、女性の美しさが際立ち、女神のような神秘的な空気感をまとっています。 華やかで目を引くミュシャの作品は、芸術の域だけにとどまらず商業用のデザインとしても親しまれました。 商業芸術であるリトグラフによる巧みな表現 ミュシャの代表作となるポスターや装飾パネルは、リトグラフと呼ばれる技法で描かれています。 リトグラフとは、石版画とも呼ばれるもので、複雑な線や色合いをイメージ通り表現できるのが特徴です。 ミュシャが手がけるリトグラフでは、太い曲線と細い曲線が巧みに使い分けられており、それまでの商業デザインではみられなかった、マットな質感と淡く美しい色彩が見事に表現されています。 アール・ヌーヴォーと美しい女性 ミュシャ作品の最大の特徴は、美しい女性の姿です。 また、女性を引き立たせる大胆な構図や、アール・ヌーヴォーに象徴的な幾何学模様や、草花、文字の装飾なども見事なものです。 芸術的な美しさも兼ね備えながら、すべて商品や女優などのモチーフへ視線が誘導される容易として描かれている点も、ミュシャの偉大さを表しています。 ミュシャと日本美術 ミュシャの作品は、日本の伝統的な浮世絵から影響を受けていると同時に、日本もまたミュシャの作品から大きな影響を受けています。 ミュシャの作品には、日本の浮世絵と共通する、鮮やかな色彩、流れるような線、自然物をうまく取り入れた構図などがみられます。 ミュシャは、浮世絵をはじめとした日本美術特有の特徴を取り入れたことで、ヨーロッパの人々からは、描かれた作品が新鮮で美しく映ったのかもしれません。 ミュシャは、明治時代ごろから日本人の間で人気を集めていました。 日本美術にも大きな影響を与えており、フランスやイタリアで洋画を学んだ藤島武二が手がけた与謝野晶子の『みだれ髪』の表紙デザインは、どことなくミュシャのスタイルが見え隠れしています。 またミュシャ作品の大きな特徴であるアール・ヌーヴォーの影響は、現代の漫画家にも色濃く残っており、ミュシャが残した幻想的な世界にインスピレーションを受けた作品が多く存在しています。 年表:アルフォンス・ミュシャ 西暦 満年齢 できごと 1860年7月24日 0歳 オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれる 1875年 15歳 サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊となり、音楽家を目指していたが、声が出なくなり、音楽家の夢を諦める 1879年 19歳 ウィーンへ行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う 1883年 23歳 クーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる 1885年 25歳 エゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学 1888年 28歳 卒業後パリに移り、アカデミー・ジュリアンに通う 1895年 35歳 サラ・ベルナールの舞台『ジスモンダ』のポスターを制作し、一夜にして有名になる 1896年 36歳 『四季』、『黄道十二宮』などの代表作を次々と制作 1910年 50歳 故国であるチェコに帰国し、『スラヴ叙事詩』の制作に着手 1918年 58歳 新たに設立されたチェコスロバキアの紙幣や切手などのデザインを行う 1928年 68歳 『スラヴ叙事詩』が完成する 1939年7月14日 78歳 チェコスロヴァキアは解体された後、ナチスに逮捕され、釈放後に肺感染症により死去
2024.12.27
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フィンセント・ファン・ゴッホ(1853年-1890年)画家[オランダ]
ポスト印象派の画家「フィンセント・ファン・ゴッホ」とは 生没年:1853年-1890年 フィンセント・ファン・ゴッホは、オランダ出身のポスト印象派の画家です。 代表作として知られている作品の多くは、1886年以降、フランスに住んでいた時代の中でも、特にアルル時代と呼ばれる1888年から1889年、サン=レミで療養していた1889年から1890年に描かれました。 ゴッホが描く作品は、フォーヴィスムやドイツ表現主義など、20世紀の美術にも大きな影響をおよぼしています。 幼いころからドローイングの才能があった ゴッホは、カトリック教徒の多いオランダの南部にある北ブラバント州のフロート=ズンデルトと呼ばれる村で生まれました。 父のテオドルス・ファン・ゴッホは、オランダ改革派の牧師で、母のアンナ・コルネリア・カルベントゥスは、ハーグの裕福な家庭に生まれた子でした。 ゴッホは、真面目で思いやりのある子どもで、幼いころから母親と家庭教師に育てられ、1864年からは、ゼーフェンベルゲンにある寄宿学校で学び始めますが、ゴッホはホームシックにかかってしまいます。 1866年からは、ティルブルフの中学校に進学しますが、ゴッホはなじめず楽しい学校生活を送れなかったそうです。 しかし、芸術への関心は幼いころからあり、ドローイングの才能を母親から褒められ続けていました。 ゴッホは中学在学中からドローイングや水彩画を描いていましたが、美術の授業でもゴッホの憂鬱とした気持ちは晴れず、1868年、ゴッホは学校から突然帰宅することもあったそうです。 その後、16歳になると叔父のセントにハーグの美術商会社グーピル商会の仕事を紹介され、4年ほど画商として楽しく過ごしました。 失恋により孤独感が増していく 1873年、ゴッホはロンドン支店への転勤が決定します。 下宿先の娘であるユルシュラ・ロワイエに恋をして、告白しますが振られてしまい、ゴッホは大変気分を落とし、孤独感を募らせていき、このときから宗教へ傾倒していくようになりました。 1875年にロンドンからパリへ転勤するも、商売を軸にしたアートビジネスをメインにしているグーピル商会のやり方に不満をもっており、1876年に解雇の通告を受け、4月に退社しました。 ゴッホは、より宗教に没頭するようになり、牧師になるために神学者の叔父であるヨハネス・ストリッケルのもとへ預けられます。 しかし、牧師になるための学校の入学試験に失敗してしまい、挫折してしまいました。 1880年ごろからは、弟のテオから生活資金の援助を受けながら、鉱夫として働き始めます。 このころからゴッホは、周りにいる人物や景色に興味を抱くようになり、また芸術を軸に生活してみては、とテオからアドバイスを受け、ドローイングを描き始め画家としての活動を本格的にスタートさせていきました。 自宅に戻り田園風景のドローイングを始める 1881年、経済的に苦しい生活をしていたゴッホは、エッテンの実家に戻り、近くの田園風景や農夫など、身近なものをモチーフにドローイングを始めました。 ある日、ゴッホの父が招いた未亡人のケー・フォス・ストリッケルに、ゴッホは恋をします。 7歳年上で、8歳になる息子がいる彼女に対してゴッホは求婚しますが、断られてしまいます。 その後、義理のいとこで画家として活躍しているアントン・モーヴから、数か月後にエッテンへ戻り、木炭やパステルで絵を描くようアドバイスをもらい実行しました。 しかし、ケーのことを諦めきれなかったゴッホは、一度アムステルダムへ向かい面会を試みましたが、断られてしまいます。 その後、ゴッホはモーヴから油絵や水彩画を学び、アトリエを借りるための資金まで用意してもらい、さまざまな援助を受けますが、石膏のデッサンにて美術的観点での意見の違いが生まれるようになっていきました。 アルコール依存症の娼婦シーンとの同棲 モーヴがゴッホと距離をおくようになった理由の一つに、ゴッホが娼婦クラシーナ・マリア・ホールニクと同棲し始めたことがあります。 クラシーナには5歳の娘がいて妊娠もしていますが、アルコール依存症であり、のちに生まれた男の子も含め、ゴッホは一緒に暮らすようになりました。 ゴッホの父はその状況を知ると、クラシーナと縁を切るよう迫りますが、ゴッホは抵抗します。 しかし、ゴッホは自分が売れない画家として貧しい生活を続けていると、クラシーナに再び売春の仕事をさせてしまうことになるのではないかと思い始めました。 同棲生活は喧嘩の連続で、ゴッホは家族との生活という環境に幸福を感じられず、家庭と芸術的発展は、共存できないと思うようになったそうです。 その後、1883年にゴッホとクラシーナ一家は別れ、クラシーナ自身は1904年にスヘルデ川で入水自殺してしまいました。 本格的に絵画制作をスタートさせる ゴッホは、1885年からの約2年間のニューネン滞在で、大変多くのドローイングや水彩画、約200点にもおよぶ油絵を描いています。 当時のゴッホのパレットには、暗い色彩が多く、特に濃い茶色をメインに構成されており、ゴッホの代表作にみられるような鮮やかな色彩はまだみられませんでした。 サイズの大きい絵の制作にも取り組んでいますが、ほとんどの絵を破棄してしまっており、『ジャガイモを食べる人々』と関連作品がわずかに現存するのみです。 当時描かれたゴッホの作品は、まったく売れず悩んでおり、テオは流行りの印象主義のように明るい色彩ではなく、暗めの色合いが原因ではないかと分析していました。 その後、ハーグの画廊に初めてゴッホの作品が飾られますが、展示された農夫のポートレイト絵画のモデルになった女性が妊娠したのは、ゴッホのせいであるとモデルの女性から非難される事件が発生し、村の教会は村人に対してゴッホの絵のモデルにはならないよう注意喚起が行われました。 貧しい生活を送りながら絵画を描く 1885年にアントウェルペンへ移り住んだゴッホの生活は大変貧しいもので、テオから援助される資金のみが頼りでした。 ゴッホは貧乏生活を極めており、パン、コーヒー、タバコまでも節約するようになり、1886年にゴッホからテオへ送られた手紙の中に、前年は5月以降、6回しか暖かい食事をしていないと書かれていました。 ゴッホは、アントウェルペンで色彩理論の研究に努め、多くの時間を美術館で過ごすようになります。 バロック美術を代表する画家ピーテル・パウル・ルーベンスの研究を進め、結果的にコバルトブルー、エメラルドグリーン、カルミンなどの鮮やかな色彩がパレットに並ぶようになりました。 また、このころから日本の浮世絵にも影響を受け始め、さまざまな日本美術をコレクションするように。 のちの作品では、背景に浮世絵の影響を受けたであろう絵が描かれているものもあります。 後期印象派とジャポニズム 1886年、ゴッホはパリに移り住み、モンマルトル周辺のアパートでテオと共同生活を始めるとともに、フェルナン・コルモンのもとで絵を学びなおします。 アントウェルペンにて日本美術に興味をもち始めてからは、数百枚もの浮世絵を収集しており、アトリエの壁に飾っていたそうです。 パリにいる間、ゴッホは印象派の画家たちとも交流を深めていき、テオはモンマルトル大通りに自分の画廊を持っており、新しい印象派の作品を扱っていました。 ゴッホは、シャルル・ラヴァルの色彩に関する論文にも興味をもち、補色を活用して作品を描くようになっていきました。 1886年末ごろ、ゴッホとテオは衝突し、ゴッホはアニエールに移り住み、セーヌ川や公園、レストランなどの風景画を描きます。 1888年、パリの生活に疲れ果てたゴッホは、休養をかねてアルルへ移ることになりました。 アルルの黄色い家とゴーギャン ゴッホは、アルコール依存症やニコチン中毒の症状を和らげるために、アルルへ移り、グリッドを使用した遠近法を用いた風景画を制作しました。 その後、黄色い家と呼ばれるアトリエを借り、芸術コロニーの拠点としての活用を予定していましたが、数か月未完成のまま無人であったそうです。 ゴッホは、黄色い家でさまざまな作品を描いており、その中には代表作の『ひまわり』、『夜のカフェ』『夜のカフェテラス』『ローヌ川の星月夜』などもあります。 黄色い家の当初の活動計画を聞いたゴーギャンは、ゴッホの意志に賛同し、共同生活を始めました。 2人は、共同作品もいくつか制作しており、美術館で一緒に絵画鑑賞もしていました。 しかし、共同生活から2か月ほどが経ったころ、2人の関係は次第に悪くなっていき、口論もするようになり、ゴッホはゴーギャンに見捨てられるのではと、大きな不安を抱えるようになっていきます。 精神的に不安定な状況が続く 精神的に不安定な状況が続いていたゴッホは、精神病院に入院し、2つの部屋を用意されると一つをアトリエとして利用し、絵を描いていきました。 絵のモチーフは、病院そのものや窓から見える景色で、この時代の代表作としては『星月夜』が有名です。 精神病院では、短時間のみスタッフの監視下においての散歩が許可されており、散歩で見かけた糸杉やオリーブの木が、絵のモチーフになったといわれています。 ゴッホの最期とその後 1890年、ゴッホがパリを訪れると、多くの友人がゴッホのもとを訪ねてきました。 7月ごろ、ゴッホはテオに手紙を書き、その中で『荒れ模様の空の麦畑』、『カラスのいる麦畑』、『ドービニーの庭』の3点の大作を仕上げたことを伝えています。 7月27日、ゴッホは自らリボルバーで胸を撃ち、37歳の若さで亡くなったといわれています。 自殺した場所は、ゴッホが絵のモデルにしていた麦畑もしくは地元の納屋であったそうです。 ゴッホは、疾患や性質については諸説ありますが、躁状態と鬱状態を繰り返す双極性障害であったのではといわれています。 ほかにも、うつ病やてんかんなどの症状もみられており、貧しい生活による栄養不足や過労、不眠、アルコールなどにより、病状が悪化したと考えられています。 ゴッホを献身的に支えた弟テオ ゴッホには弟のテオがおり、長い間貧しい暮らしをしていたゴッホの生活をサポートし続けていました。 しかし、精神状態が常に不安定だったゴッホは、いつまでも弟に迷惑をかけていることを申し訳なく感じ、自殺未遂を図るのでした。 テオはすぐにゴッホのもとを訪れますが、自殺未遂の2日後、ゴッホはテオの腕に抱かれ亡くなります。 兄のゴッホが亡くなったあと、テオも精神を病んでしまい兄を追いかけるようにして半年後に他界しました。 ゴッホは自分の耳を切断した? ある日、ゴッホは自分の耳を切断する大事件を起こしました。 ゴーギャンによると、事件当時ゴッホは、ゴーギャンが身の危険を感じるほど危ない振る舞いをしており、ゴーギャンは共同生活に嫌気がさしていたのもあり、黄色い家を出ていくような素振りをみせていました。 ゴッホは、ゴーギャンが自分のもとを離れていこうとしているのに気づき、慌てて剃刀をもって追いかけてきたそうです。 ゴーギャンは身の危険を感じ、黄色い家には戻らずホテルに宿泊します。 ゴーギャンを追いかけていたゴッホは、黄色い家に戻ると突然幻聴に襲われて、自分の左耳を切り落としてしまったそうです。 意識不明で倒れているゴッホは、警察官によって発見されますが、病院への搬送が遅れてしまったために、切断した耳の接合は叶いませんでした。 ジャンルに分けられないゴッホの絵 ゴッホは、一般的に後期印象派に分類されていますが、作品はオリジナリティが強く、はっきりとはジャンルに分けられません。 後期印象派に近いとはいえ、ゴーギャン作品のようなフォービズムの雰囲気も持ち合わせており、セザンヌに代表するキュビズム的視点もあり、さらにはスーラの点描も感じられるなど、さまざまなジャンルのスタイルが混ざりあっているのが特徴といえます。 年表:フィンセント・ファン・ゴッホ 年号 満年齢 できごと 1853年3月30日 0 オランダ南部ズンデルトにて誕生。父はオランダ改革派の牧師テオドルス・ファン・ゴッホ、母はアンナ・コルネリア・カルベントゥス。 1861年 8 家庭教師の指導を受けるようになる。 1864年 11 10月、ゼーフェンベルゲンの寄宿学校に入学。絵画に興味を持ち始める。 1866年 13 ティルブルフの国立高等市民学校、ヴィレム2世校に進学し、コンスタント=コルネーリス・ハイスマンスの指導を受ける。 1868年 15 学校を中退し、家に帰る。以降、家庭で学ぶ。 1869年 16 7月、画商グーピル商会のハーグ支店に店員として勤め始める。 1873年 20 グーピル商会のロンドン支店に異動。ここで、イギリス文化と宗教に深く触れる。 1875年 22 グーピル商会のパリ支店に転勤するが、次第に商業的な仕事に嫌気がさし、信仰の道へ進むことを考える。 1876年 23 グーピル商会を退職し、イギリスで教師や牧師補助として働く。聖職者を志すようになる。 1877年 24 アムステルダムで神学部の受験勉強を始めるが、試験に失敗し、学業を断念する。 1878年 25 ベルギーのボリナージュ地方で伝道活動を行い、貧しい鉱山労働者たちに心を寄せる。 1880年 27 画家を志すことを決意し、ブリュッセルで美術の勉強を始める。 1881年 28 オランダのエッテンに移り住み、絵を描き始める。 1882年 29 ハーグに移り、絵画の制作を続ける。 1883年 30 ニューネンに移住し、農民や田園風景を描くようになる。『ジャガイモを食べる人々』を制作。 1885年 32 父が亡くなり、ニューネンを離れる。アントウェルペンに移住し、美術学校に通いながら、さらに自分のスタイルを追求する。 1886年 33 弟テオを頼ってパリに移住し、印象派や新印象派の影響を受ける。日本の浮世絵にも興味を持ち、収集を始める。 1888年 35 南フランスのアルルに移住し、『ひまわり』『夜のカフェテラス』など多くの名作を生み出す。ポール・ゴーギャンとの共同生活が始まるが、12月に「耳切り事件」を起こし、関係が破綻する。 1889年 36 アルル近郊のサン=レミにある療養所に入所し、『星月夜』を含む数々の作品を制作。 1890年 37 5月、療養所を退所し、パリ近郊のオーヴェル=シュル=オワーズに移住。7月27日、自らを撃ち、7月29日に死去。
2024.12.26
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イサム・ノグチ(1904年-1988年)彫刻家・アーティスト[アメリカ]
20世紀が生んだ偉大な彫刻家「イサム・ノグチ」とは 生没年:1904年-1988年 イサム・ノグチは、日系アメリカ人アーティストで、彫刻や造園、インテリアデザイナー、舞台芸術などさまざまな分野で活躍した人物です。 特に彫刻作品への探求心が強く、社会における彫刻の役割は何かを常に考え、その在り方を追い求め続けました。 イサムが制作した作品は、香川県のイサム・ノグチ庭園美術館やニューヨークのイサム・ノグチ美術館などをはじめ、世界中で所蔵されています。 また、イサムは、彫刻を身近な存在として扱っており、作品を間近で体感したり触れたりできるアートスポットも、国内外に多く存在しています。 晩年は、石彫に情熱を注ぎ、周囲の環境と調和した自然彫刻を制作していました。 アメリカで生まれ日本で孤独を味わう イサム・ノグチは、アメリカのロサンゼルスにて、詩人の野口米次郎とアイルランド系アメリカ人で作家のレオニー・ギルモアの間に誕生しました。 父の米次郎は、18歳のときに渡米して放浪生活を送った後、大学で講師を務めていた詩人を目指すレオニーと知り合い、交流を深めていきます。 21歳のとき、英語で書いた詩文をアメリカの文壇で発表すると、高い評価を受けて詩人として注目を集めるようになり、25歳という若さでニューヨークにおいて一躍有名になりました。 アメリカとイギリスで高い評価を受けた米次郎は、その後日本に帰国します。 しかし、このときすでにレオニーは、米次郎との子・イサムを身ごもっており、父が不在のままアメリカで出産しました。 イサムが3歳になると、レオニーは日本にいる米次郎に会うために2人で日本を訪れますが、すでに米次郎は日本人女性と結婚していました。 レオニーは、イサムとともに正妻のいる家に居候しますが、イサムと住むための家を神奈川県の茅ケ崎に建てて、3か月ほどで米次郎のもとを去ります。 その後、米次郎はレオニーとイサムに会いにくることはなかったそうです。 イサムは、日本の小学校に入学しますが、日本人とアメリカ人のハーフであることで好奇のまなざしを向けられ、いじめを受けることもあったといいます。 イサムは、父との確執や、ハーフであるゆえに日本とアメリカどちらにも帰属できない孤独感を抱え幼少期を過ごしました。 医師と彫刻の勉強を並行する イサムは、13歳になると全寮制学校へ進学するために単身渡米しました。 入学した学校は、わずか1か月で閉鎖されてしまいますが、イサムはその学校で「木彫りの天才少年」と呼ばれていたそうです。 その後、エドワード・ラムリーが保護者代わりとなり支援を行い、無事に高校を卒業します。 コロンビア大学へ進学し医師を目指す一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間クラスに通い、彫刻家オノリオ・ ルオットロから彫刻を学びました。 彫刻の才能を開花させたイサムは、入学から3か月で個展を開催し、彫刻家としてのキャリアをスタートさせたのでした。 世界各地を旅して得た経験を作品に投影 彫刻家として活動を始めたイサムは、20代でパリへ留学し、彫刻の巨匠と呼ばれるブランクーシと出会い、その後の制作活動に大きな影響をおよぼしました。 その後、日本や中国、イタリアなど世界各地を旅して周り、さまざまな国々で得た体験や技術を自身の作品に反映していきました。 また、第二次世界大戦後の日本において、庭園や伝統技術を見て触れたことは、庭園作品やAKARIシリーズ誕生のきっかけになったといえるでしょう。 イサムは、繊細かつ大胆であり、伝統的な芸術とモダンを融合させた独自の世界観で作品を制作し、唯一無二のアーティストとなりました。 その後も活躍の場を広げ、1982年には芸術へ生涯にわたって貢献した人物へ贈られるエドワード・マクダウェルメダルを受賞しています。 1986年には、日本にて京都芸術賞を、1987年には、アメリカにて国民芸術勲章を、1988年には、再び日本政府から瑞宝章を授かるなど、数多くの賞を受賞しました。 石の声を聞き、心をみる 晩年は、石彫へと制作意欲が回帰していき、安息の地として選んだ香川県の牟礼町では、生涯右腕として活躍する和泉正敏と出会います。 イサムは「石を割る行為は愛と暴力どちらの意味も備えており、また侵入でもある」と語っており、和泉は「山神である石の命をいただく行為」と考えていました。 同じ価値観を共有した2人は、のちにイサム・ノグチ庭園美術館となる場所にて、石彫に没頭していきます。 古代から現代までにいたる東西の彫刻は、石を彫り進めて自分の表現したい形に近づけていくことが一般的でした。 しかし、イサムは自分の主張を石で表現するのではなく、自然石の声を聞き彫り進めていくスタイルを貫いていました。 石本来が持つ要素や性質を活かそうとするイサムの姿勢が作品に反映され、人々を惹きつける唯一無二の作品が生み出されていったといえるでしょう。 イサム・ノグチの代表作 イサムのアトリエは、アメリカのニューヨークと、香川県の牟礼町の2か所にあり、日本でも数多くの名作を残しています。 また、間近に見て触れられるスポットもあるため、イサムの作品を自分の目で見たい方は、各地にあるアートスポットを訪れてみてはいかがでしょうか。 『モエレ沼公園』 札幌市にある観光名所としても有名な『モエレ沼公園』は、イサムが基本設計を手がけたとして有名です。 公園のシンボルであるガラスのピラミッドや、海辺をテーマにしたモエレビーチ、札幌市内を見渡せて夜景がきれいなモエレ山、カラフルな遊具で子どもたちから人気のサクラの森など、見どころが満載です。 子どもも大人も楽しめる公園全体が、イサムの大地の彫刻になっています。 『ブラック・スライド・マントラ』 『ブラック・スライド・マントラ』は、札幌市の大通公園に設置されているすべり台であり、彫刻作品です。 伸びやかな美しいフォルムが印象的で、真っ黒なその姿は圧倒的な存在感があります。 真っ白な雪で覆われる冬景色や、夏場の新緑など、季節に合わせて溶け込むよう、調和が意識された作品です。 イサムは「このすべり台で遊ぶ子どもたちの尻が作品を完成させる」と語っており、普段は子どもがのびのびと楽しめる憩いの場となっています。 『AKARI』シリーズ 『AKARI』シリーズは、岐阜提灯をモチーフにデザインされたランプで、35年にわたって200種類以上も制作しています。 イサムは、この作品を単なる提灯ではなく「光の彫刻」であると考えており、和紙がもたらす柔らかい光や優れたデザイン性は、和洋さまざまなインテリアになじみ、自然に調和します。 年表:イサム・ノグチ 西暦 満年齢 できごと 1904年11月17日 0歳 ロサンゼルスで日本人詩人の野口米次郎とアメリカ人作家レオニー・ギルモアの間に生まれる。 1907年 3歳 母レオニーと共に来日、父米次郎と同居、森村学園付属幼稚園に通園。 1918年 13歳 アメリカへ単身渡航、インターラーケン校に入学。後にラ・ポート高校に通学しトップの成績で卒業。 1923年 18歳 コロンビア大学(医学部準備過程)に入学し、同時にレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間彫刻クラスに通う。 1925年 20歳 日本人舞踏家伊藤道郎の仮面を制作し、初の演劇関連のデザインを手がける。 1927年 22歳 グッゲンハイム奨学金を獲得し、パリに留学。彫刻家コンスタンティン・ブランクーシに師事。 1930年 25歳 日本に渡航、京都・奈良などを周遊し、陶芸を学ぶ。 1947年 42歳 ジョージ・ネルソンの依頼で『ノグチ・テーブル』をデザイン・制作。 1950年 45歳 再来日し銀座三越で個展を開き、丹下健三、谷口吉郎、アントニン・レーモンドらと知己になる。 1951年 46歳 山口淑子と結婚(1956年に離婚)。広島平和記念公園のモニュメントのデザインが選ばれるが、後に選考から外れる。 1961年 56歳 ニューヨーク州のロング・アイランド・シティにアトリエを構え、IBM本部に庭園を設計。 1968年 63歳 ホイットニー美術館で大々的な回顧展を開催。 1984年 79歳 ロング・アイランド・シティにあるイサム・ノグチ ガーデンミュージアムが一般公開される。 1986年 81歳 ヴェネツィア・ビエンナーレのアメリカ代表に選出。日本の稲森財団より京都賞思想・芸術部門を受賞。 1987年 82歳 アメリカにて国民芸術勲章を受章する。 1988年12月30日 84歳 勲三等瑞宝章を受勲。心不全によりニューヨーク大学病院で逝去。
2024.12.26
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ロイ・リキテンスタイン(1923年-1997年)アーティスト[アメリカ]
アメコミ風ポップアートで活躍した「ロイ・リキテンスタイン」とは 生没年:1923年-1997年 ロイ・リキテンスタインとは、 アンディ・ウォーホルらとともにアメリカのポップアートをけん引したアーティストです。 パロディによりコミカルに皮肉を含ませたポップアートを多く制作しており、インスピレーションの原点は、新聞に描かれている大衆漫画といわれています。 また、オリジナルではなく、既存の漫画作品の1コマをキャンバスに拡大し、独自の配色によって制作するのも一つの特徴です。 少年時代はジャズにも熱中していた リキテンスタインは、ニューヨークにて不動産の仕事をしている父と 専業主婦の母の間に生まれました。 ニューヨークのアッパーウエストサイドで育ち、12歳までパブリックスクールに通い、神学校のドワイトスクールに進学します。 学校を通じて美術やデザインに関心をもつようになったそうです。 また、母がピアノを弾いていた影響からか、リキテンスタインは音楽にも興味をもっており、特にジャズに熱中し、ハーレムのアポロ・シアターで開催されるコンサートをよく見に行っていたそうです。 そこで、楽器を演奏するミュージシャンの姿を描くのも趣味の一つでした。 1939年、高校を卒業する前には、ニューヨークのアート・スチューデント・リーグの夏期講習を受け、パリ生まれのアメリカ人画家レジナルド・マーシュに絵の指導を受けています。 オハイオ州立大学で絵を学ぶ 1940年、リキテンスタインはニューヨークを離れ、オハイオ州立大学に入学し、スタジオコースにて美術を学び、学位を取得します。 しかし、第二次世界大戦の影響を受けて、1943年から1946年まで陸軍に入隊し、軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたりました。 危篤状態であった父を見舞うために一時的に帰国したリキテンスタインは、G.I.ビルの資格を取得して陸軍を除隊します。 その後、オハイオ州立大学の大学院に通い、のちにリキテンスタインの作品に大きな影響を与えたといわれている師匠ホイト・L・シャーマン教授のもとで美術を学びます。 リキテンスタインは、三次元空間で捉えたものを二次元に置き換えることを学び、1949年には芸術額の修士号を取得しました。 なお、リキテンスタインはのちに、OSUに出資して設立したスタジオに「ホイト・L・シャーマン・スタジオ・アート・センター」という名称をつけています。 抽象表現主義作品の個展を開催する 1951年、リキテンスタインは、自身初の個展をニューヨークのカール・バック画廊 にて開催しました。 当時は、大学講師や製図工などの仕事で生活をしながら、注目度の高かったキュビズムや抽象表現主義スタイルの作品を制作していました。 同年、オハイオ州のクリーブランドに移り住み、6年間ほど暮らしますが、その間もニューヨークには頻繁に戻っていたそうです。 1954年には、妻イザベル・ウィルソンとの間に、 現在ソングライターとして活躍する長男のデビッドが生まれ、1956年には次男のミッチェルが誕生します。 1957年、ニューヨークに戻ると再び講師として働き始め、1958年にはニューヨーク州立大学オスウィーゴ校の講師となりました。 このころから、抽象表現主義スタイルの中に、ミッキーマウスやバッグス・バニーなど漫画のキャラクターのイメージを取り入れ、作品を制作するようになっていきました。 プロト・ポップ・アートへ関心を寄せる 1960年からは、ニュージャージー州のラトガース大学で講師を務め、同じく講師として働いていたアラン・カプローのスタイルに強い影響を受けるようになっていきました。 カプローは、一般人を巻き込んだゲリラ的なパフォーマンススタイルを生み出したアーティストで、彼の影響によりリキテンスタインは、ポップアートに関心を寄せるように。 1961年、カートゥーンのイメージと商業印刷から得た技術を活用して、ポップ・ペインティングの制作を開始しました。 また、息子がミッキーマウスの本を指さし、「パパはきっとあれほどうまくは描けないよ」と言ったことをきっかけに『Look Mickey』という作品を制作しました。 このころから見られる輪郭線のはっきりしたキャラクター表現が、のちのリキテンスタイン作品の個性となっていくのです。 1962年には、ニューヨークの美術商レオ・カステリのギャラリーにて個展を開催しますが、出品した作品は、展覧会が始まる前にすべて有力なコレクターが買い占め、世間から注目を集めました。 このころからのリキテンスタイン作品は、戦争や恋愛をテーマにした漫画に触発されたものが多く、強い感情を題材に強い興味をもっていたと語っています。 彫刻や映画も制作し多彩な才能を発揮する 1964年ごろからは、彫刻作品にも強い興味をもち始め、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作しています。 また、1969年にはアッパー・ウエストサイドにあるグッゲンハイム美術館にてリキテンスタインの回顧展が開かれました。 1970年になると、ロサンゼルス・カウンティ美術館からの依頼を受けて映画制作を手がけます。 1972年から1980年の初めごろにかけては、モチーフに漫画だけではなく、果物や花瓶、花などの伝統的なものも採用するようになり、多彩なジャンルかつテーマの拡大に挑戦していたとわかるでしょう。 画家・彫刻家として国民芸術勲章を授章する 1995年、リキテンスタインは、画家・彫刻家として国民芸術勲章を受賞しました。 また同年、日本でも人気の高かったリキテンスタインは、京都賞の思想・芸術部門を受賞しています。 1997年、リキテンスタインは、肺炎による合併症によりニューヨーク大学医療センターで息を引き取りました。 73歳で亡くなるまで、熱心に制作を行っていたリキテンスタインの作品は、現在でも高い人気を誇っており、世界中の美術館にもその作品が所蔵されています。 史上最悪のアーティストと批判されることも 多くの人々の視線を集め人気を博していたリキテンスタインですが、過去には史上最悪のアーティストと批判されたこともあります。 1961年、リキテンスタインの作品は、美術商レオ・カステッリの目に留まり、注目の新人として世間に紹介されるようになりました。 1964年、アメリカの人気雑誌『ライフ』は、注目されていたリキテンスタインを取り上げ、アメリカ史上最悪のアーティストだと長い批評を掲載したのです。 しかし、リキテンスタインは褒められたりけなされたりすることにいちいち動じることなく、黙々と自分のアートを表現することに集中していました。 結果的には、人気雑誌に名前が掲載されたことでさらに注目が集まり、存在や人気を押し上げていったのでした。 戦争と暴力性に訴えかける作品 リキテンスタインの作品には、ミッキーマウスやヒーローキャラクター、典型的な金髪美女などがよく登場しており、第二次世界大戦参加の経験により戦闘シーンや戦車などが登場することも。 『takka takka』には、マシンガンが描かれており、言葉の暴力や攻撃性などが作品に表現されています。 原色を用いてカラフルかつコミカルな見た目でありながら、作品内に表現されたアクションにより鑑賞するものを攻撃しているともとれるでしょう。 リキテンスタインは、コミカルで一般大衆にも受け入れられやすいポップアートと擬音語を通して、戦争といったリアルな争いや言葉の暴力に訴えかけていたアーティストといえます。 ロイ・リキテンスタインが制作する作品の特徴 リキテンスタインは、漫画のコマを大きく拡大したようなスタイルが特徴的なポップアーティストです。 リキテンスタイン作品の特徴を知ることで、より作品の鑑賞が楽しくなるでしょう。 漫画風のアート ポップアートのテーマは、一般的に大量生産や大量消費社会、大衆文化などから取り入れられます。 リキテンスタインは、量産される新聞から漫画をモチーフにポップアートを制作しました。 息子にミッキーマウスの絵を描いてあげたときに、これまでの芸術としての絵画よりも漫画のほうが強いインパクトや表現力をもっているのではと気づいたリキテンスタインは、漫画の1コマを拡大したような作品を次々に制作するようになりました。 余白のドット リキテンスタインは、グレイスケールやカラー画像を、色数を限定して小さな点のパターンで表現する手法を作品に取り入れていました。 ドットの大きさや密度により陰影を表現しているのが特徴です。 遠目からは、塗りつぶされているように見えますが、近くで見るといくつものドットが密集していることに気づきます。 インパクトのある輪郭線と三原色 リキテンスタインの作品に登場する人物やモチーフは、太い輪郭線で囲まれており、原則として三原色を用いた油彩で表現されているのが特徴です。 白と黒のモノクロと、赤・青・黄の三原色と、限られた色彩により描かれていますが、シンプルでありながらも原色の色合いによって強烈なインパクトを与えてくれます。 また、後期には三原色以外の色彩も用いるようになり、表現の幅が広がっています。 平面を強調した表現 漫画のように平面を強調した画面構成も特徴の一つで、リキテンスタインは、モネやピカソなどの名画をオマージュして、平面的に描いたり、油彩で絵の具を分厚く塗って立体的にする筆触の手法で描かれた作品も平面で表現したりしています。 ロイ・リキテンスタインとアンディ・ウォーホル リキテンスタインとアンディ・ウォーホルは、どちらも1960年代当時のニューヨークで全盛期を迎えていたポップアートを代表するアーティストです。 同時期に活躍していた2人は、お互いに意識しあっていたといいますが、中でもリキテンスタインの作品は、ウォーホルのスタイルにも影響を与えたといわれています。 ウォーホルは、32歳のころ『スーパーマン』や『バットマン』などのアメリカンコミックをモチーフにした作品を手がけていましたが、リキテンスタインの制作したアメコミ風作品の完成度の高さを目の当たりにして、漫画をテーマにした作品制作から手を引いたといわれているのです。 リキテンスタインの色のない部分を細かなドットで表現するアイティアを自分では思いつけなかったと、ウォーホルは悔しさをあらわにしたといいます。 その後、ウォーホルは、お互いの競争を避け、漫画風の作品制作は行わず、シルクスクリーン作品の『 キャンベルのスープ缶』をきっかけに、世界で注目されるポップアーティストに登り詰めていくのでした。 年表:ロイ・リキテンスタイン 西暦 満年齢 できごと 1923年10月27日 0歳 ニューヨークで生まれる。父は不動産勤務、母は専業主婦であった。 1940年 17歳 ニューヨークを離れ、オハイオ州立大学美術学部に入学。 1943年~1946年 20歳~23歳 第二次世界大戦のため兵役に就く。軍務員、製図員、アーティストとして任務にあたる。 1949年 26歳 オハイオ州立大学で美術の修士号を取得。大学に残り、1951年まで講師を務める。同僚であったイザベル・ウィルソンと結婚する。 1951年 28歳 ニューヨークのカール・バック画廊で初の個展を開催。 1954年 31歳 長男のデビットが生まれる。 1956年 33歳 次男のミッチェルが生まれる。 1960年 37歳 漫画のコマを拡大したポップアート作品を発表し、注目を集める。 1961年 38歳 『Look Mickey』を制作。 1964年 41歳 彫刻作品に関心を持ち、『Head of Girl』や『Head with Red Shadow』などを制作。 1965年 42歳 離婚する。 1969年 46歳 グッゲンハイム美術館で、回顧展が開催される。 1995年 72歳 京都賞思想・芸術部門(美術分野)を受賞。 1997年9月29日 73歳 肺炎による合併症で亡くなる。
2024.12.26
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