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ルイーズ・ブルジョワ(1911年-2010年)彫刻家[フランス]
巨大なクモの彫刻で有名な「ルイーズ・ブルジョワ」とは 生没年:1911年-2010年 ルイーズ・ブルジョワは、フランスのパリ出身でアメリカ合衆国を拠点に活動していたインスタレーションアートの彫刻家です。 ルイーズは、パリの郊外でタペストリーの修理工房を経営する家庭で生まれ育ちました。 パリの名門ソルボンヌ大学で数学を学びますが、芸術の道を志すようになりエコール・デ・ボザールをはじめとした複数の美術学校に通います。 その後、20世紀前半に活動したフランスの画家フェルナン・レジェのアシスタントとなりました。 1938年には、アメリカ人の美術史家であるロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住しました。 ブルジョワの作品には、幼いころのできごとからインスピレーションを受けたフェミニズム・アート作品が多いのも特徴です。 生まれてくることを望まれなかった女の子 ブルジョワは、クリスマスの日に生まれましたが、父からは歓迎されなかったといいます。 当時、父のルイが自宅の階下で家族を集めクリスマスパーティを開催しているとき、ブルジョワは産声をあげましたが、母のジョゼフィーヌは、医師から「残念です」と声をかけられたそうです。 それは、死産となり赤ちゃんが亡くなってしまったからではなく、生まれた子どもが女の子であったからです。 タペストリーの修理工房を経営するルイは、男の子の赤ちゃんを待ちわびていました。 しかし、生まれてきた子どもが女の子であったため失望し、クリスマスの家族団らんの時間に重い空気がのしかかったのでした。 第一次世界大戦の衝撃 1914年、第一次世界大戦が勃発すると、父は徴兵されてすぐに戦地へ駆り出されました。 念願の長男ピエールが生まれ、家庭が落ち着きを取り戻し始めたころであったため、母は再び別の不安が襲ってきたために、ヒステリーを起こすように。 母と子どもたちは、母が生まれ育った地域に疎開し、戦地からの手紙を毎日確認していました。 戦地からの手紙が1日でも途切れると、母はヒステリーを起こしていたそうです。 また、疎開先は、自宅前の道を挟んだ向かい側には屠殺場があり、屠殺される家畜の断末魔が響き、近くの線路からは、深手を負って血まみれになった兵士たちが生死をさまよううめき声が絶えず聞こえてくる環境でした。 精神的に不安定だった母 母は父に依存しており、父がいない状態では不安定な人でした。 父が戦地から無事に戻ってくると、パリ郊外のアントニーに大きな自宅を建築し、タペストリーの修理工場を再開させました。 そこで母は、25人もの従業員をまとめ、一族経営の工場を取り仕切る優れた女性マネージャーとして活躍します。 これまで精神的に不安定だった母は、自信を取り戻し、父は母を「子を産む女」としてではなく、妻として尊重するようになったのでした。 母によって見出された絵の才能 ブルジョワは幼いころよく絵を描いており、その様子をみた母が、タペストリーのためにスケッチをするよう頼みました。 ブルジョワの存在をよく思っていなかった父を見返すチャンスだと思ったブルジョワは、タペストリーの絵の修復の下書きを行うようになりました。 このときブルジョワは10歳で、工場や依頼人からは、脚のスケッチがすばらしいと高い評判を得ていたそうです。 ブルジョワは、市立学校に通いながらも修理工場でスケッチを手伝い、一家の事業に役立てる存在になりました。 横暴な父により虐げられる 父は、横暴で、家族をコントロールし思うままにすることに喜びを感じていたといいます。 たとえば、食卓は毎日一家全員がそろわないと気が済まず、食事中に勝手に話をすると無言でソーサーを投げつけることも。 また、食事が終わったあとは、家族が一人ずつ歌や詩を強制的に披露させられることもあったそうです。 ブルジョワは、このやりたい放題の父親をよく思っていませんでした。 父に対する憎しみを作品で表現 父の横暴な態度に憎しみをもつものの、賢いブルジョワは決して歯向かわず、しかし、別の方法で憂さ晴らしをしていました。 ブルジョワは、父への憎しみが増したとき、白パンを口でぐちゃぐちゃにしたものを粘土の代わりにして、父をかたどった人形を作り、その手足をナイフで切り落としていったそうです。 のちに、この憂さ晴らしの素材はゴムに変わり、ラテックス、銅、大理石と次第に変化していき、『poupée de pain』という作品に昇華されました。 父と愛人に対する憎悪 ブルジョワが11歳になったころ、英語の教師として18歳の女性サディ・ゴードンが自宅にやってきました。 そして、なんと父は母を寝室のベッドから追いやり、サディを寝室に招き入れたといいます。 ブルジョワと7歳しか違わない少女は、父の愛人として生活するのでした。 母は受け入れていましたが、ブルジョワは男性の身勝手さや世間の風評により傷つき、家庭内には不穏な雰囲気が溢れていたそうです。 名門ソルボンヌに入学すると手のひらを返す父 1929年、ブルジョワはパリの名門ソルボンヌ大学に入学します。 すると、あれだけ自分を嘲笑し蔑んできた父が、手のひらを返したようにブルジョワを尊重するようになったのでした。 父は、ブルジョワが姉や弟よりも能力が高かったことに対して、敬意を払ったといいます。 大学に進学したブルジョワは、父の歓心をさらに買うために数学の研究に没頭しました。 芸術の道を進む決意 大学で数学を研究していたブルジョワでしたが、自分が興味をもって進めているわけではない勉学への情熱は少しずつ冷めていき、それと同時にボヘミアンで開放的な雰囲気をもつアートシーンに興味や憧れを抱くようになっていきました。 そして1932年、ブルジョワは芸術学校の名門であるエコール・デ・ボザールに入学しました。 ブルジョワが美術学校に入学すると同時に、父は一家の役に立たない勉強だとして仕送りを打ち切ります。 ブルジョワはルーブル美術館で働きながら学校に通い、稼いだお金で小さなギャラリーを開きました。 のちに、ギャラリーに訪れたアメリカ人学生のロバート・ゴールドウォーターと結婚し、1938年にパリからアメリカに活動拠点を移しました。 亡き母に捧げたクモの彫刻『ママン』 六本木ヒルズに飾られている大きなクモの彫刻を見たことがある人も多いのではないでしょうか。 この彫刻はブルジョワが制作した『ママン』と呼ばれる作品です。 ママンはフランス語で母を意味しており、ブルジョワが亡き母に向けた愛情をクモの姿で表現したといわれています。 本質に突き刺さるメッセージ性 晩年になってもブルジョワは、制作活動を続けて新作を発表し、生涯現役を貫きました。 ブルジョワにとってアートは言語の一種で、コミュニケーション手段の一つでした。 ブルジョワは、作品を通して「私たちはみな一人ではない。共通の要素をもっている」という安心感や帰属意識を、見る者に伝え続けてきたのです。 表現主義でありフェミニスト芸術家でもある ブルジョワは、感情を大切にする表現主義の芸術家として知られています。 性的なモチーフを取り扱っている作品も多く、背景を知らずに鑑賞した人は、そのインパクトに驚くかもしれません。 西洋美術における写実性や美しさとは、遠く離れた価値観ではありますが、作品には強い感情が込められており、見る者の心を揺さぶります。 また、1982年のニューヨーク近代美術館で開催された回顧展をきっかけに、ブルジョワの作品はジェンダーやフェミニズムの視点からも評価されるようになりました。 ルイーズ・ブルジョワがもつ芸術的感性 ブルジョワは、アートシーンは男性のものであるという感覚があり、男性中心の美術とは距離を置いて、独自の感覚で官能的で触覚的な立体作品を制作するようになったと語っています。 約70年という長い芸術家人生の中で、ブルジョワは絵画やドローイング、彫刻、インスタレーションなど、さまざまなジャンルの芸術を用いて、男性と女性、意識と無意識、受動と能動など、対をなす事象の関係を探求し、作品の中に共存させていきました。 年表:ルイーズ・ブルジョワ 西暦 満年齢 できごと 1911年12月25日 0歳 フランス・パリ郊外で生まれる。 1929年 18歳 ソルボンヌ大学で数学を学ぶが、美術の道を志し、エコール・デ・ボザールなどの美術学校で学ぶ。フェルナン・レジェのアシスタントとなる。 1938年 27歳 アメリカ人美術史家ロバート・ゴールドウォーターと結婚し、ニューヨークに移住。 1982年 72歳 ニューヨーク近代美術館で個展が開催され、再評価される。 1993年 81歳 ヴェネツィア・ビエンナーレでアメリカ館の展示を担当。 1995年 83歳 ドキュメンタリー映画が制作される。 1999年 87歳 高松宮殿下記念世界文化賞彫刻部門を受賞。 2010年5月31日 98歳 心臓発作のため、マンハッタンで亡くなる。
2024.12.26
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アメデオ・モディリアーニ(1884年-1920年)画家[イタリア]
近代的な肖像画で知られている「アメデオ・モディリアーニ」とは 生没年:1884年-1920年 アメデオ・モディリアーニは、ユダヤ系イタリア人画家であり、彫刻家としても活躍していた人物で、前衛芸術家が集まるモンパルナスをメインに制作活動を行っていました。 顔や身体が引き伸ばされたような独特の作風が特徴で、モダニズム形式のポートレイトで有名です。 持病の結核に長年悩まされており、アルコールや薬物などに溺れ、貧しい状況を脱する前に35歳という若さで亡くなりました。 モディリアーニは、生前あまり評価されませんでしたが、死後に高く評価された芸術家の一人です。 現在では、ピカソと並び最も高額なモダニズム作家としても知られています。 幼いころからドローイングや絵画を描いていた モディリアーニは、イタリアのリヴォルノで、 セファルディ系ユダヤ人の家庭に末っ子として誕生しました。 港町であるリヴォルノは、長い間、迫害され行き場を失ったユダヤ教徒が避難する場所として利用されており、巨大なユダヤコミュニティがありました。 モディリアーニの母ウジェニー・ガルサン は、何世紀にもわたるセルファディ系学者の家系で、父のフラミニオは、実業家であり起業家の家系です。 商才のある実業一家である父は、モディリアーニが生まれるより前に裕福な若い鉱山技師として働いていました。 そして、サルデーニャ島で会社を経営し、約3万エーカーの土地を所有するほど財力がありました。 しかし、1883年に金属価格の低下が起こり、景気が後退したことが原因で、父の仕事はうまく立ち回らなくなり、破産してしまいます。 しかし、母の ガルサンが機転をきかせ、2人の姉妹とともに立ち上げた学校ビジネスを成功させました。 そのような中生まれたモディリアーニは、幼いころから独学でドローイングや絵画を描いていました。 母は、モディリアーニが芸術へ関心を寄せていることをうれしく思い、応援します。 モディリアーニが10歳になるまでは、母が直接絵の教育を行っていました。 モディリアーニは、11歳のときに視力を脅かす危険のある強膜炎にかかり、その後もさまざまな健康問題に悩まされるように。 数年後には腸チフスにかかり、16歳のときに再発してから結核と診断され、モディリアーニは亡くなるまで結核に悩まされ続けることになるのでした。 ミシェル美術学校で絵を学ぶ 母からの後押しもあり、1898年から1900年まで、モディリアーニはミシェル美術学校で絵を学ぶことに。 学校では、19世紀のイタリア美術のテーマや作風をメインに学び、ここでモディリアーニは、初期のスタイルを形成していったといえるでしょう。 1900年、16歳で肺結核を発症してからは強制的に休学となってしまいました。 その後、1901年には、宗教や文学の劇的なシーンを描いていたローマの画家ドメニコ・モレリの作品に大変感銘を受けます。 モレリは、マッキア派と呼ばれる光の明暗を色彩のアクセントを用いて断片的に描くスタイルに影響を与えた人物で、モディリアーニは昔からマッキア派の絵画に影響を受けていたため、モレリの作品にも強く惹かれたといえるでしょう。 1902年、モディリアーニは、生涯をかけて描き続けたポートレイト絵画をより追及するために、フィレンツェのアカデミア美術館内にある裸体画自由美術学校に通いました。 しかし、1年後に結核の症状が悪化し、療養のためにヴェネツィア へ移り住んだため、アッカデミア・ディ・ベッレ・アルティに入学しなおします。 モディリアーニは、ヴェネツィア ではじめて大麻を体験すると、これをきっかけに学業そっちのけで、街のあやしい場所へと出入りするように。 パリで独自のスタイルを確立させていく 1906年、パリに移り住んでからは、セザンヌやピカソの絵画から影響を受け、また、ルーマニア出身の独創的な彫刻家であるコンスタンティン・ブランクーシをはじめとした彫刻や原始的なアフリカ美術にも興味関心を寄せるようになりました。 前衛芸術の中心地であるパリでは、アカデミー・コラロッシに入学し、絵を学び始めます。 モディリアーニは、彫刻家のジェイコブ・エプスタインと親交を深めるようになり、2人は古代ギリシアの美の神殿を創造する目標を共有し、同じスタジオで制作活動を行うようになりました。 モディリアーニは、「柔らかな石柱」と呼ばれる古代ギリシア美術を題材にしたドローイングや絵画を複数描いています。 また、ピカソや詩人のアポリネール、アンドレ・ドラン、ディエゴ・リベラらとも親交を深め、モンマルトルにある貧しい芸術家が集まるアパート「洗濯船」に落ち着きます。 パリでは当初、アンリ・ド・ロートレックに影響を受けていましたが、1907年ごろからはセザンヌからの影響を強く受け、最終的に独自の作風を確立させていきました。 パリに移り住んでから1年が経ったころ、モディリアーニの生活は一変しており、スタジオはひどく荒れ果て、アルコールや薬物の摂取量も増えていたといわれています。 1914年ごろからは、さらにアルコールや薬物へ依存するようになり、酔っぱらっているときやトリップしているときに裸になり暴れることもあったそうです。 彫刻作品を制作したモンパルナス時代 1909年に彫刻家のブランクーシと出会ってからは、彫刻制作にも取り組んでいました。 モディリアーニは、1912年のサロン・ド・ドーテンヌで彫刻作品を展示しますが、その後は第一次世界大戦が勃発し、彫刻の材料が不足し入手が困難になってしまったことと、体調の悪化により体力がなくなったこと、資金不足などが重なり、彫刻作品の制作をやめて絵画制作に集中するようになりました。 モディリアーニは、アフリカ彫刻の洗練された美しさと力強さに感動し、物質を限定したり、囲んだりする輪郭に人間の本質を表現させる役割を見出し、この期間に磨いた技術や感覚は、のちの絵画制作にも活かされていくのです。 画商の友人の依頼でヌード画を描く モディリアーニは、画商であり友人のレオポルド・ズボロフスキーから依頼を受けて、ヌードシリーズを1916年から1919年の間で数十点制作しています。 ズボロフスキーは、モディリアーニのためにアパートを貸したり、画材を提供したり、ときにはモデルを紹介したりと、芸術活動を全面的に支えていました。 また、生活のために毎日15~20フランを支払っていたそうです。 ジャンヌ・エビュテルヌとの出会いと悲劇 モディリアーニとジャンヌ・エビュテルヌの出会いは、1917年のはじめごろのことでした。 ロシアの彫刻家であるチャナ・オルロフは、フランスの画家であり彫刻家でもある藤田嗣治のモデルをしていた19歳の美大生ジャンヌ・エビュテルヌを紹介します。 エビュテルヌは、モディリアーニの芸術性に惹かれていき、2人は恋人関係に。 保守的なカトリック家系であるエビュテルヌの両親は、2人の交際に強く反対しますが、エビュテルヌは、モディリアーニと暮らすことを選びます。 ノートル=ダム・デ・シャン通りのアトリエで同棲をはじめ、モディリアーニはエビュテルヌをモデルにした絵画を制作し始めます。 1920年、モディリアーニが結核性の髄膜炎や薬物濫用により合併症を引き起こし亡くなると、エビュテルヌの家族は彼女を家に連れ戻そうとしました。 しかし、エビュテルヌは錯乱状態に陥っており、モディリアーニが亡くなった次の日にアパートの5階から投身自殺をしてしまいます。 このとき、エビュテルヌは妊娠8か月でした。 もともと2人の交際に反対していたエビュテルヌの家族はモディリアーニを非難し、2人は別々の場所に埋葬されたそうです。 そして、10年後、ようやく2人はパリのペール・ラシェーズ墓地に一緒に埋葬されました。 顔と首が長い独特な肖像画スタイルが特徴 モディリアーニが描く肖像画は、顔と首が長い独特なスタイルが特徴です。 また、彫刻制作時代に受けた影響により、目には瞳を描かないことが多く、独自の雰囲気をもつ作品が多くあります。 モディリアーニが描いた絵画作品の多くは、油彩の肖像と裸婦です。 肖像画では、モデルとなる人物の心理や画家との関係を表現しており、裸体画では、女性ならではの造形美を表現しています。 アメデオ・モディリアーニはお酒好き? モディリアーニは、アルコールと薬物に依存していたといわれています。 カフェで近くに座った客の似顔絵を勝手に描き、無理やり売りつけてお金を稼いでは、酒代にして夜の街を徘徊していたそうです。 それを同棲していた恋人のエビュテルヌが、一晩中探し回ることもあったといいます。 裸婦画を展示して警察が踏み込む騒動に モディリアーニが後にも先にも一回きりとなる初個展をベルト・ヴァイル画廊にて開催したとき、裸婦画を展示したことで開催がスタートしてからわずか数時間で警察が踏み込む騒ぎとなりました。 モディリアーニは、すぐに裸婦画を撤去するか没収されるかのどちらかを選べと警察に迫られたそうです。 その後、個展は1日で強制的に中止されたというエピソードもありますが、実際には裸婦画を撤去して継続されていたそうです。 年表:アメデオ・モディリアーニ 年号 満年齢 できごと 1884年7月12日 0 イタリア王国トスカーナ地方のリヴォルノに生まれる。 1898年 14 風景画家グリエルモ・ミケーリのアトリエにてデッサン指導を受ける。 1899年 15 アトリエにて最良の友オスカル・ギリアと出会う。 1900年 16 結核を患う。 1901年 17 母ウジェニー・ガルサンと、ナポリ、アマルフィア、ローマなどを旅行し、転地療養を目的とした旅をする。そこでイタリア美術に興味を持ち始める。 1902年 18 フィレンツェで裸体画教室を学ぶ。 1903年 19 ヴィネツィアに移住し、美術の学校に入学する。学校では、カルパッチョ、ベリーニ、シエナ派の研究を行う。 1905年 21 伯父であるアメデ・ガルサンの死去により、援助が受けられなくなり、パリへの移住が先延ばしとなってしまうが、母からの資金援助によりパリに向かう。 1906年 22 パリへ移住し、アカデミー・コラロッシに入学する。アパート洗濯船からほど近いモンマルトルに、アトリエを借り活動を開始する。パブロ・ピカソらと交流を深める。 1907年 23 サロン・ドートンヌに出品した際、ポール・セザンヌを知り、強く衝撃を受ける。 1909年 25 モンパルナスに移り、ルーマニア出身の彫刻家であるコンスタンティン・ブランクーシと交流を深める。各国の民族美術から影響を受けた彫刻作品を作るが、資金不足や健康の悪化などにより続けられなくなる。 1914年 30 ポール・ギヨームと出会う。また、イギリス人女性ベアトリス・ヘイスティングスとアとも知り合い、交際を始めるが、2年間で終わる。 1915年 31 ポール・ギヨームらの勧めで、絵画に専念し、画業を始める。 1916年 32 愛人となるシモーヌ・ティローと出会うが、1年で終わる。 1917年 33 アカデミー・コラロッシでジャンヌ・エビュテルヌと出会い、同棲をする。唯一の個展をベルト・ヴァイル画廊で開催する。 1918年 34 ニースに滞在を始める。妻ジャンヌ・エビュテルヌとの間に、長女ジャンヌが生まれる。母と同じ名前である。 1920年1月24日 35 結核性髄膜炎により死去。妻ジャンヌも翌日自宅のアパートから飛び降り自殺した。
2024.12.26
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アンリ・マティス(1869年-1954年)画家[フランス]
色彩の魔術師と呼ばれた「アンリ・マティス」とは 生没年:1869年-1954年 アンリ・マティスは、フランスの画家でフォーヴィスムのリーダー的存在でもあった人物です。 自然を愛する芸術家で、緑あふれる世界を描き続け、色彩の魔術師とも呼ばれました。 色彩と線を巧みに描き、抽象的かつリズミカルなスタイルが特徴です。 パブロ・ピカソやマルセル・デュシャンと並び、20世紀はじめの視覚芸術の革新的な発展に貢献したとして高く評価されています。 画家としての活動の前期は、前衛芸術家としてフォーヴィスムを推し進めましたが、1920年代以降は、一度古典絵画に回帰しています。 盲腸で時間をもて余し21歳で絵を描き始める マティスは、フランスの穀物商人である父とアマチュアの画家として活動していた母のあいだに長男として生まれました。 母が画家をしていたこともあり、幼いころから絵を学んでいたかというと、そうではありません。 マティスは、教育熱心な父の意向により、弁護士の道を選び学んでいました。 弁護士試験に向けて勉強に励み、21歳になると弁護士事務所に就職。 しかし、盲腸にかかり手術を行うために療養が必要となり、マティスはベッドの上で暇をもて余していたそうです。 母に絵を描いてみたらどうかと勧められ、画材を受け取ったことがきっかけで画家の道に進むことに。 ベッドで絵を描き始めてからのことを「まるで天国を見つけたみたいだった」と、のちに語っています。 マティスは、絵がもつ不思議な魅力に心惹かれ、画家になることを決意するのでした。 多くの有名芸術家は、幼いころから絵を学び、才能を発揮していましたが、マティスが絵を描き始めたのは21歳からと、非常に遅いスタートであったとわかります。 ギュスターヴ・モローに基礎と自由を教わる 画家になると決意してからマティスは、美術学校のアカデミー・ジュリアンに入学し、ウィリアム・アドルフ・ブグローのもとで絵を学びますが、学校のスタイルが合わず、すぐに退学してしまいます。 その後、フランス美術学校の最高峰といわれているエコール・デ・ボザールの入試を受けますが、試験には落ちてしまいます。 エコール・デ・ボザールは、ルノワールやモネ、ドガなど数多くの有名芸術家を輩出した名門校であり、21歳から独学で絵を描き始めたマティスは、技術が足りなかったのか試験に落ちてしまうのでした。 しかし、エコール・デ・ボザールで教師を務めていた象徴主義の画家ギュスターヴ・モローが、マティスに関心をもち、アトリエに招いて個人的に絵の指導を行いました。 エコール・デ・ボザールは、厳格な教育方針で、教科書に忠実な絵を描くことを求められ、写実性が重要視されていましたが、そのような学校の中でもモローは、異端の教師で自由に描くことを重視しています。 そのため、マティスは、写実主義をベースにしながらも、のびのびと自由に絵を学び、着実に才能を伸ばしていったといえるでしょう。 ジョン・ピーター・ラッセルとの出会い 1896年、マティスが27歳のころ、もう一つ重要な出会いがありました。 この年、マティスは、オーストリアの印象派画家ジョン・ピーター・ラッセルと出会い、ゴッホの作品を紹介されます。 マティスはゴッホの絵を鑑賞し衝撃を受けるとともに、セザンヌ作品のも大きな影響を受けています。 フィンセント・ファン・ゴッホから受けた影響 ゴッホの描く作品で特徴的な要素の一つが色彩であり、色覚異常であったゴッホは、独特な色合いで絵画を描いていました。 影を、黒やグレーなどではなく緑や青で描いたり、明るく鮮やかなオレンジを目一杯使ったりした作品などもあります。 マティスは、ゴッホの色彩感覚に衝撃を受け、このころからマティスの描く絵の色彩が変化していったそうです。 また、当時マティスは、印象派画家の作品を借金してまでも買い集めていたといいます。 印象派は、色彩を重要視するスタイルであり、絵の具を混ぜ合わせるのではなく、単色を隣同士に置くことで目の錯覚を起こさせる筆触分割と呼ばれる技法を用いて絵を描いていました。 マティスは、印象派の作品を買い集め、この色彩感覚を研究していたとも考えられるでしょう。 ポール・セザンヌから受けた影響 マティスは、印象派作品の中でも特にセザンヌの絵を気に入っていたといいます。 セザンヌが描く絵画の特徴といえば、木の幹を円柱状に描いたり、オレンジやリンゴを球体に描いたり、山を円錐に描いたりする抽象化です。 セザンヌは、モチーフを極端にデフォルメした作品を多く描いており、目で見たものを直接描くのではなく、頭の中で再構築して抽象化するのが得意でした。 マティスは、セザンヌの作品に共感するとともに大きな影響を受け、作風が大きく変化していきます。 これまでのマティス作品は、古典的な技法を用いて描かれた絵画が多くありましたが、次第に抽象度が高まっていき、色彩感覚も鮮やかでビビットなものに変わっていきました。 フォーヴィスムのスタイルを確立する 印象派画家の作品から、色彩感覚や抽象化を学びスタイルを変化させていったマティスは、のちにフォーヴィスムと呼ばれる、独自の作風を確立させていきます。 フォーヴィスムといえば、原色を使用した大胆な色彩表現や荒々しい筆のタッチが特徴的なスタイルです。 マティスの作品にフォーヴィスムのスタイルが見え隠れしてきた最初の作品は、1904年に制作された『豪奢、静寂、逸楽』です。 この作品は、新印象派であるポール・シニャックに影響されて描いた点描画で、フォーヴィスムの要素が加わり始めたといわれています。 なお、マティスは点描派であったわけではなく、この時期に点描画にはまっていただけといわれています。 この作品が制作されたころ、まだフォーヴィスムの名称は誕生しておらず、当時はフォーヴと評価されていました。 フォーヴィスムの名が生まれたのは、1905年にパリで開催された第2回サロン・ドートンヌ展がきっかけで、展示されていたマティスやアンドレ・ドランの作品をみた批評家のルイ・ヴォークセルが、「なんだこれは、野獣の檻にいるドナテッロのようじゃないか」と洒落たレビューをし、フォーヴィスムの名が広まりました。 なお、ドナテッロとは、ルネサンス期に活躍したイタリアの彫刻家です。 秩序ある作風は第一次世界大戦がきっかけ フォーヴィスムときくと、真っ先にマティスを思い浮かべる人も多いでしょう。 しかし、実は、フォーヴィスムスタイルの作品を描いていたのは、1905年からのわずか3年間ほどなのです。 フォーヴィスムは、自身の絵を探求するマティスにとってあくまで通過点でしかなかったといえるでしょう。 1910年代ごろからは、フォーヴィスムから一変し、おとなし目で理知的な作品を多く描くようになりました。 そのような中、1914年に第一次世界大戦が勃発。 1914年から1918年まで続いた戦争の時代、芸術家たちは秩序への回帰と呼ばれる動きを見せるようになりました。 これまで多くの画家が前衛的な作品を描いてきましたが、混沌とした戦争を目の当たりにして、安定感のある昔の絵を好むようになったのです。 マティスも同様に、前衛的な表現からは離れ、古典回帰をはかります。 1917年ごろから1930年ごろまでを、マティスが拠点にしていた場所にちなんで、ニースの時代と呼んでいます。 フォーヴィスム時代とは異なり、写実的な作品も多くなっていき、抽象度やシンプルさはなくなっていきました。 しかし、1930年以降はまたフォーヴィスムスタイルの表現に戻り、『ルーマニアのブラウス』や『眠る女と静物』などの、抽象度の高い作品を制作しています。 晩年は切り絵を制作 マティスは、60代後半ごろからガンを患い、72歳のときに腸閉塞手術を行っています。 車いすとベッドを行き来する生活となり、体力の衰えを感じたマティスは、自身の芸術表現を絵画から切り絵へとシフトしていきました。 マティスは、切り絵の線で区切らなくてよいことや、いきなり色彩で描けることを気に入っていたそうです。 切り絵は、輪郭線を引く必要がないため、より色彩に集中して制作活動ができ、色彩に強いこだわりをもっていたマティスにとってはやりたいことが実現できる、相性のよい芸術であったといえるでしょう。 マティスが制作した切り絵の代表作といえば『かたつむり』です。 また、晩年には絵画制作だけではなく、南フランスのヴァンスにあるドミニコ会修道院ロザリオ礼拝堂の、内装デザインを手がけました。 当時制作していた切り絵をモチーフにしたステンドグラスや、フォーヴィスムをけん引したマティスらしい大胆な線で描かれた聖母子像などが目を引きます。 礼拝堂の内装デザインは、マティスの集大成といえるほどの完成度を誇っており、20世紀を代表するキリスト教美術作品となったのです。 そして、マティスは1954年に84歳で、その生涯に幕を下ろしました。 アンリ・マティスが描く作品の特徴 フォーヴィスムをけん引し、独自の色彩感覚で描いた作品が、多くの人々を魅了しているマティス。 色の魔術師と呼ばれるマティスの作品の特徴を知り、時代背景や絵画に込められた思いなどにも目を向けていきましょう。 単純化された形体 画家として活動し始めた当初のマティスは、一般的な写実表現を用いて自然を描いていました。 しかし、ラッセルから紹介されたゴッホの作品をはじめ、多くの印象派作品に触れる中で、形体を単純化して描くようになりました。 この形体の単純化は、色彩表現にも影響を与え、形体よりも色彩を描くマティスのスタイルが確立されていったといえるでしょう。 直感的な色彩感覚 マティスは、色の魔術師と呼ばれるほど色彩表現が豊かで、大胆な色使いで多くの作品を描きました。 自然を愛していたマティスは、自然の風景から多くのインスピレーションを受け、そのときの感覚や感情を、直感的に色彩で表現していました。 同じ時代に活躍したピカソが、芸術界において形体の表現に革命を起こした人物だとすると、マティスは、色彩表現を現実のものから解放し、色による表現に革命を起こした人物といえるでしょう。 一度は、古典回帰したものの、色彩については研究を重ね単純化させていき、色彩を追及し続けていました。 晩年には、その色彩感覚を切り絵によって表現しました。 年表:アンリ・マティス 年号 満年齢 できごと 1869年12月31日 0 フランス・ノール県のル・カトー=カンブレジに生まれる。 1887年 18 父の命により、カトー=カンブレジの裁判所の管理者の資格を得る為に、パリで法律を学び始める。 1888年 19 法科資格試験に合格。その後、サン・カンタンの法律事務所の書記として働き始める。 1889年 20 盲腸炎の療養中に、アマチュア画家として活躍していた母から画材が贈られ、絵画に興味を持ち、画家に転向する決意をする。 1891年 22 パリの私立美術学校アカデミー・ジュリアンに入学。 1896年 27 国民美術協会のサロンに4点出品し、うち1点が国家買上げとなる、 1898年 29 アメリー・パレイルと結婚。印象派の画家であるカミーユ・ピサロの勧めを受け、ロンドンでターナーと研究する。 1905年 36 『緑のすじのあるマティス夫人の肖像』を発表。 1909年 40 『ダンスI』を発表。大胆な色彩を特徴とした作品を多く制作する。 1917年 48 南フランスのニースを制作の場とし、活動を始める。 1951年 81 東京・上野国立博物館で「マティス展」が開かれる。 1954年11月3日 84 ニースで心臓発作の為、死去。
2024.12.26
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サルバドール・ダリ(1904年-1989年)画家[スペイン]
天才・狂人・奇人と呼ばれる「サルバドール・ダリ」とは 生没年:1904年-1989年 サルバドール・ダリが描いた時計がぐにゃぐにゃと変形した絵を見たことがある人も多いのではないでしょうか。 ダリは、それ以前の常識を壊し、新しいアートを創造した芸術家として知られています。 絵画だけではなく、商業アートや映画、演劇などさまざまな分野に挑戦し、常識にとらわれない発想で人々を魅了していました。 幼いころに兄の生まれ変わりと両親に告げられる ダリは、スペインのカタルーニャ地方の町フィゲラスで生まれ、父は弁護士をしていたため教育に厳しく、反カトリック的な思想をもっていました。 一方、母は裕福な商家出身で、芸術に興味をもつダリを応援していました。 両親にとってダリは2人目の子どもで、1人目である同じ名前の兄は、ダリが生まれる9か月前に3歳で亡くなっています。 ダリが5歳になったころ、ダリは兄の生まれ変わりであると両親から伝えられます。 生まれ変わりであるという認識は、ダリの人生と芸術に死ぬまでつきまとうことになるのです。 ダリはのちに、「生きていることを知る前に、自分は死んだと思っていた」と、そのときの心境を語っています。 ピカソ・フロイト・未来派などから影響を受ける 1916年、ダリはフィゲラス市立のドローイング学校に入学し、定期的にパリへ出向いていたカタルーニャ出身の印象派画家ラモン・ピチョットから前衛芸術を学びます。 ピチョットからピカソや未来派などの画家を教えてもらったダリは、写実的でありながらも2つのスタイルの影響を受けていきました。 1922年、17歳になったダリは、マドリードの名門美術大学である王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学します。 当時、風景画や肖像画などをメインに制作していたダリですが、徐々に独特な奇妙さが前面に表れてくるようになりました。 ダリは、写実的で本物に近い絵を描けたため、どこか奇妙さがあっても一般大衆に受け入れられたと考えられます。 ダリが若いころ影響を受けたと考えられる人物に、ジークムント・フロイトがいます。 心理学者や精神科医として活躍していたフロイトが唱えたイドの理論に没頭したダリは、フロイトの理論を絵画にも取り入れ、自身の恐怖や欲望、神経症なども作品で表現しました。 ミロ・タンギーのスタイルに刺激を受ける ダリは、同じカタルーニャ出身の先輩画家であるジョアン・ミロが描く生き物のような抽象的な絵に刺激を受けています。 ダリの初めてのシュルレアリスム絵画である『器官と手』では、針のような細い脚が生えた幾何学的なモチーフの上に、奇妙な物体が乗っており、周囲には人のような形の絵が描かれています。 作品を描いたダリは、この景色は潜在意識の奥底から湧き出たものであると語りました。 ダリは、20世紀を代表するシュルレアリスム画家であるイヴ・タンギーにも強い関心をもっており、作品を大変熱心に研究・吸収し、タンギーの姪に「私はあなたのおじさんからすべてをつまみ取りました」と伝えたといいます。 その後ダリは、タンギーやほかのシュルレアリスム画家たちを凌駕するほど人気を集めていきました。 ルイス・ブニュエルと短編映画を制作する 1928 年、ダリはスペイン出身の映画監督であるルイス・ブニュエルと、ブニュエルの母が出資した『アンダルシアの犬』と呼ばれる短編映画を制作しています。 2人は、学生時代にマドリッドで出会い意気投合し、共同での映画制作に至ったのでした。 映画の中には、カミソリを使って女性の眼球を切り裂く衝撃的なシーンもあり、インパクトの大きさから評判を集めました。 のちに、断片的な映像や、無意識下で心に浮かんだ感情や事象を表現する自由連想のような挑発的な映像を組み合わせたモンタージュ技法により制作されたこの映画は、映画史に残る名作として知られるように。 1年後、2人が制作した『黄金時代』は、ブルジョワの性的偽善を風刺した映画です。 公衆の面前で泥にまみれ性交するカップルが登場する、インパクトの強いこの映画は、公開後すぐに右翼が上映中のスクリーンに爆弾を投げつける事件を引き起こすほどの問題作となりました。 生涯の伴侶・ガラとの出会い ダリはもともと女性恐怖症で、女性を前にすると緊張のあまり笑いが止まらなくなってしまう発作にも苦しんでいました。 しかし、ガラとの出会いによりダリの心は少しずつ癒されていったのです。 ダリとガラが初めて出会ったのは1929年、フランスの詩人でシュルレアリスムをけん引したポール・エリュアールとその妻であるガラの訪問を受けたときのことでした。 10歳年上であったガラの魅力に惹かれ、2人はすぐに関係をもちました。 当時のガラは、夫のエリュアールとドイツ人画家であるマックス・エルンストと三角関係にあったともいわれています。 のちにダリとガラは結婚し、ガラは生涯の伴侶でありモデル、ミューズでもある存在となりました。 ダリは、ガラからインスピレーションを受けて、『ポルト・リガトの聖母』をはじめとした数々の名作を生み出しました。 シュルレアリストオブジェを制作する ダリは、シュルレアリスム運動にも貢献した人物として知られており、多くの芸術家たちがシュルレアリスム運動に加わるようになったころ、プルトンが芸術家たちの多様なスタイルとイデオロギーを統合できるようなものを考えてほしいとダリに依頼しました。 その依頼に対してダリが出した答えが、「シュルレアリストオブジェ」と呼ばれる発想です。 シュルレアリストオブジェは、単に芸術と現実世界、ハイカルチャーとローカルチャーの境を行き来するものではなく、抑え込まれた思考や感情を掘り起こすことを目的にしたものです。 この発想は、フロイトのフェティシズム理論に基づいているといわれています。 偏執狂的・批判的の追求により誕生した名作 シュルレアリストオブジェを生み出したのと同時期に、ダリは「偏執狂的・批判的」と呼ぶ体系的方法についても追求しています。 パラノイア患者は、実際に存在しないものが現実に存在しているかのように感じるという考えに基づいた手法で、絵を鑑賞する人の意識の流れを試すものであり、性格検査のロールシャッハ・テストのようなものととらえています。 偏執狂的・批判的の追求により誕生した名作は『記憶の固執』や『海辺に出現した顔と果物鉢の幻影』などです。 商業的成功をおさめ批判を受ける 当時の前衛芸術家たちは、金と名声への追及は芸術に対する裏切り行為だと考えていましたが、ダリは両方を積極的に追い求めて作品を制作しました。 ダリは堂々と自身を宣伝し、金と名声を手にすることやそのために行動することを認めていたのです。 1929年、ダリの初個展がパリのグーマンス画廊で開催され、批評家たちからは理解されませんでしたが、商業的には大成功をおさめました。 1934年、初めてニューヨークを訪れたダリは、終始多くのメディアたちに囲まれ、尖った発言を繰り返してより注目を集めました。 ダリがニューヨークを離れる前に、カレス・クロスビーと呼ばれるボストンの大富豪でありブラジャーを発明した女性が、ダリのために仮面舞踏会を開催し、招待しています。 ダリは、ガラスケースに入ったブラジャーを胸に装着し、ガラは頭から出産する女性の仮装をして仮面舞踏会に参加しました。 ダリはロンドン講演で深海用のダイビングスーツを着用して窒息しかけたり、パリの講演ではカリフラワーで埋め尽くされたロールスロイスに乗って登場したり、派手なパフォーマンスを行いメディアに大きく取り上げられるようになり、1936年にはタイム誌の表紙を飾るまでに知名度を上げました。 ダリが描いていたシュルレアリスムとは シュルレアリスムとは、超現実主義と呼ばれるもので、現実の先にある世界観を表現することを指しています。 目に見えて触れられる意識的な世界観ではなく、人が無意識の中にもっている世界観のことで、フロイトが当時発表した夢や無意識などに関する世界観から大きな影響を受けており、シュルレアリスムでは、人間の無意識を題材にした作品が多く制作されました。 シュルレアリスムは、夢や無意識を原点にしているため、単なる幻想やファンタジーとはまた異なります。 チュッパチャップスのロゴはダリが原案 世界的に有名なお菓子チュッパチャップスのロゴデザインは、ダリが考えたものです。 チュッパチャップスを大ヒットさせた会社の創設者であるエンリク・ベルナトは、チュッパチャップスを世界展開するためにロゴデザインに力を入れていました。 エンリクは、当時高い人気を誇っていた芸術家であるダリの自宅を訪問し、ロゴデザインの制作を依頼します。 昼食の際に、ダリがナプキンに「Chupa Chups」の文字と、黄色い雛菊のイラストを用いたロゴを走り書きしたものが原案となり、多くの人が目にした経験のあるチュッパチャップスのロゴが誕生しました。 卵の「カタチの完璧さ」に魅了されたダリ ダリは、卵のカタチの完璧さに強い関心をもっており、生命の源としての存在にも魅了されていたといわれています。 ダリの作品には、卵をモチーフにしたものも多くあり、ポル・リガットには通称「卵の家」と呼ばれるかつてダリが住んでいた家であり、現在は博物館として公開されている建築物があります。 邸内には、たくさんの卵のオブジェが飾られており、強いインパクトのある建築物です。 ダリは猫好きな画家だった 奇想天外な発想で人々を魅了したダリは、猫好きな画家であったともいわれています。 ダリは自宅で、小さなジャガーのような模様と体型をした猫を飼っており、オセロットと名付けていました。 野生の山猫で、通常のイエネコよりも2倍ほど大きく、美しい斑点模様と鋭い視線が魅力的な猫です。 ダリはオセロットを豪華客船のクルージングやエッフェル塔の最上階などさまざまな場所へ連れて行ったり、宝石をちりばめた首輪をつけたりと、大変大切に扱っていたといわれています。 ダリが描く不思議な世界観の魅力 ダリが制作する作品には独特な世界観があり、多くの人を魅了しました。 ダリの個性は作品だけではなく、ファッションや発言からも見て取れます。 長く伸ばして固めたヒゲ姿を見たことがある人も多いでしょう。 作品では、だまし絵のようなイメージを繰り返す表現方法を用いたものや、グロテスクで皮肉めいたメッセージの強いものなどが多くあります。 また、ダリは、戦争や宗教、心理学、物理学なども作品に取り入れ、表現していたそうです。 年表:サルバドール・ダリ 年号 満年齢 できごと 1904年5月11日 0 スペインのカタルーニャ地方フィゲラスで生まれる。 1922年 18 マドリードの王立サン・フェルナンド美術アカデミーに入学。そこで映画監督のルイス・ブニュエルと出会う。 1923年 19 教授を批判し学生の反乱を指導したとして、アカデミーから処分を受ける。 1925年 21 マドリードのダルマウ画廊で最初の個展を開く。 1927年 22 パリで、パブロ・ピカソ、トリスタン・ツァラ、ポール・エリュアールらシュルレアリスムの中心人物たちと面識を得る。 1928年 24 アカデミーで出会ったルイス・ブニュエルと、シュルレアリスムの代表的映画と言われる『アンダルシアの犬』を共同制作する。 1929年 25 ポール・エリュアールが、妻ガラ・エリュアールとともにカダケスのダリを訪ねた時が、後に妻となるガラ・エリュアールとの初めての出会いとなった。 1931年 27 代表作ともいわれる『記憶の固執』が制作される。 1934年 30 詩人ポール・エリュアールの元妻であった、ガラ・エリュアールと結婚。 1938年 34 自身の「ファシスト的思想」が、アンドレ・ブルトンの逆鱗に触れてしまった為1929年から参加していたシュルレアリスト・グループから除名されてしまう。 1964年 60 イサベル・ラ・カトリカ大十字勲章を受章。 1982年 78 妻ガラ・エリュアール=ダリ死去。ジローナのプボル城に引きこもる。 1983年 79 5月を最後に、絵画制作を辞める。 1984年 80 寝室でおきた火事でひどい火傷を負い、フィゲラスに移る。 1989年1月23日 84 フィゲラスのダリ劇場美術館に隣接するガラテアの塔で心不全により死去。
2024.12.26
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ロベール・ドローネー(1885年-1941年)画家[ロシア]
オルフィスム運動の共同創設者「ロベール・ドローネー」とは 生没年:1885年-1941年 ロベール・ドローネーは、20世紀前半に活躍したフランスの画家で、ロシア出身の画家であるワシリー・カンディンスキーや、オランダ出身の画家ピエト・モンドリアンなどと並び、抽象絵画の先駆者としても知られています。 また、ロシア帝国生まれの妻のソニア・ドローネーもパリで活躍した画家の一人です。 オルフィスム運動の共同創設者としても有名で、オルフィスムという言葉は、1912年のセクション・ドール展で詩人のギヨーム・アポリエールによって紹介されたものですが、実践し技法を完成させたのは、ロベールであるといわれています。 8歳ごろ画家になると決意する ロベールは、パリにてジョージ・ドローネーとフェルティ・ド・ローズ伯爵夫人の間に生まれた子どもです。 小さいころに両親が別れ、ブールジュ近郊のラ・ロシェールにて母方の叔母であるマリーと夫のチャールズ・ダムールがロベールの面倒をみました。 8歳ごろ、画家になる決意をしたロベールは、パリのベルヴィル地区に移り住み、叔父であるロンサンのもとで装飾美術を学びます。 本格的な絵画教育は受けていませんでしたが、ゴーギャンやスーラ、セザンヌなどの絵画を研究し制作を始めました。 19歳になるころには、ロンサンのもとを離れ絵画制作に専念するようになり、1904年にサロン・ド・アンデパンダンに6点の作品を出品し、画壇デビューを果たします。 その後は、ブルターニュを旅している間にポン=タヴァン派から影響を受け、1906年には第22回サロン・ド・アンデパンダンにて、ブルターニュで描いた作品を出品しました。 また、ロベールは、フランスの化学者であり色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論からも影響を受けています。 1907年のはじめには、ベルテ・ウェイルが運営する画廊で一緒に展示を行っていたジャン・メッツァンジェと交流を深め、2人は美術批評家のルイス・ヴォクセルからモザイク状の立方体で絵画を構成する分割主義の画家と評価されました。 キュビズム運動へ参加する 1908年、連合軍の司書として軍隊に勤務していたロベールは、未来派として活動していた作家のソニア・テルク と出会い、1910年に結婚しました。 1909年ごろからは、キュビズム運動に参加するようになり『エッフェル塔』や『サン・セヴラン寺院』などの連作を制作しています。 また、ピュトー派と呼ばれるキュビズム志向をもつグループとも交流を深め、ジャック・ヴィヨンやフランシス・ピカビアとも親交をもちました。 ロベールは、ポン=タヴァン派や新印象主義などにも影響を受けていたため、これまでのキュビズムにはなかった鮮やかな色彩を用いて、キュビズム以降の抽象絵画に大きな影響をおよぼしました。 カンディンスキーの誘いにより、ロベールはミュンヘンをメインに活動する前衛運動青騎士にも参加。 1911年ごろからは、ロベールの作風の抽象化が進み、ドイツやスイス、ロシアなどフランス以外の国々からも評価されるようになりました。 ロベールは、ミュンヘンのブラン・レイターの展示にて4点の作品を販売し、青騎士から熱狂的に受け入れられたそうです。 キュビズムの異端者と批判されオルフィスム運動を創設する 当時のフランス美術界では、キュビズムが大きな力をもっていましたが、ロベールは、キュビズムの色彩排除や動的要素の少なさなどに対して批判的でした。 一方、キュビズム側からは、ロベールの作品は印象派や装飾絵画に回帰していると批判され、キュビズムの異端者とも呼ばれていました。 しかし、キュビズム派からの批判を受け、ロベール自身は反対に自分の芸術性の方向性を見いだせたと語っています。 1912年ごろにキュビズムを脱退したロベールは、アポリネールの後押しもあり、オルフィスム運動の作家として知られるようになっていきました。 1914年までは、光学的特性にもとづいたダイナミックかつ鮮やかな色彩で、非具象的・非自然的で非形態的な絵を多く描いています。 実際には、ロベールが自分の直感に従った純粋芸術でしたが、この色彩理論は、オーガスト・マルケやパウル・クレーなど青騎士の画家に大きな影響をおよぼしました。 第一次世界大戦時はスペインに避難する 1914年に第一次世界大戦が始まると、ロベールとソニアはスペインのフォンタラビーへと避難しました。 その後フランスには戻らず、マドリードで生活を送り、1915年にはポルトガルに移り、サミュエル・ハルパートとエドアルド・ヴィアナと家を共有しました。 ロシア革命が発生すると、ロシアで暮らすソニアの家族が受けていた財政的支援が打ち切られてしまい、2人は別の収入口を探すことに。 1917年、ロベールはマドリードでセルゲイ・ディアゲルフと知り合い、舞台「クレオパトラ」の舞台デザインの仕事を引き受けます。 その後、1920年代には、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラなどのシュルレアリスムやダダイスムとも親交をもつようになり、1921年にパリへ戻ると抽象画をメインにした絵を描き続けました。 1937年に開催されたパリ万博博覧会 では、ロベールは鉄道や航空旅行に関連したパビリオンのデザイン制作に参加しました。 妻のソニア・ドローネーも画家として活躍 ロベールの妻であるソニアも、フランスのパリで活躍した画家の一人です。 サンクトペテルブルクで芸術や外国語の教育を受けたソニアは、1903年、18歳のころにドイツへ留学し、カールスルーエの美術学校で絵を学びました。 その後、1905年にパリへ移住し、ドイツの美術コレクターでギャラリーオーナーでもあるヴィルヘルム・ウーデと結婚します。 しかし、この結婚は、ソニアにとっては持参金を使えるようにするため、ウーデにとっては自分が同性愛者であることを隠すためと、戦略的な結婚だったのです。 ウーデを通じてピカソやジョルジュ・ブラック、モーリス・ド・ヴラマンクなどパリで活躍する画家たちの面識を得たソニアは、1908年ごろにロベールと出会い恋人となったため、1910年にウーデと離婚し、ロベールと結婚しました。 ソニアは、結婚前から刺繍のタペストリーを手がけ、応用芸術へと活動の幅を広げていました。 第一次世界大戦が勃発してからは、マドリードで暮らしながら室内装飾やモードのメゾン「カーザ・ソニア」を開催したり、舞台衣装の仕事も手がけたりしています。 1921年にパリへ戻ると、前衛芸術家たちが集まるアパルトマン内で「アトリエ・シミュルタネ」を開き、ソニアはテキストスタイル制作を本格的に開始しました。 1925年に現代産業装飾芸術国際博覧会が開催された際には、テキストスタイルや服、スカーフなどを展示しています。 シンプルでありながら豊かな色彩で個性を発揮するメゾン・ソニアの洋服たちは、芸術を日常生活にという発想で創られています。 当時話題を集めていたココ・シャネル、ジャンヌ・ランヴァン、マドレーヌ・ヴィオネらとは異なる存在として、モダニティのパイオニアやヴィジョネアなどと称されました。 ロベールがけん引したオルフィスムとは ロベールがけん引したオルフィスムとは、1910年代にキュビズムから派生した芸術運動や、この様式を用いた画家の一派を指しています。 アポリネールが新しい芸術家の誕生を予感させる運動として、キュビズムを4つに分類したことから始まり、その一つがオルフィック・キュビスムです。 視覚上の現実ではなく、芸術家によって創造された現実性を与えられた現実にもとづき、新しいものの全体を描く芸術と定義されたオルフィック・キュビスムには、ロベール、レジェ、ピカビアなどが含められ、オルフィスムの誕生につながったとされています。 年表:ロベール・ドローネー 年号 満年齢 できごと 1885年4月12日 0 フランス・パリに生まれる。 1903年 18 画家になることを決意し、ゴーギャン、スーラ、セザンヌなどを研究し、制作活動を始める。 1904年 19 サロン・ド・アンデパンダンに6点の作品を出品し、画壇デビューを果たす。 1906年 21 第22回サロン・ド・アンデパンダンにて、ブルターニュで描いた作品を出品。 1909年頃 24 キュビズムの運動に加わり、連作作品『エッフェル塔』『サン・セヴラン寺院』の制作を始める。 1910年 25 ウクライナ出身の女流画家ソニア・テルクと結婚。 1911年 26 第1回「青騎士展」へ出品する。 1912年 27 キュビズムを脱し、『窓』の連作などを制作し始める。 1914年~1918年 29~34 妻ソニアと第一次世界大戦中、数年間をスペインやポルトガルで過ごす。 1921年 36 パリに戻り、抽象画をメインにした絵を描き続ける。 1937年 52 パリ万博博覧会の航空館と鉄道館のフレスコ画『リズムNo1-No3』を制作。 1941年10月25日 56 モンペリエで癌のため没する。遺体は1952年にイヴリーヌ県ガンベーに再埋葬され、1979年に亡くなったソニア夫人も共に埋葬されている。
2024.12.26
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ジョルジュ・ブラック(1882年-1963年)画家[フランス]
ピカソとともにキュビズムを創始した「ジョルジュ・ブラック」とは 生没年:1882年-1963年 ジョルジュ・ブラックは、ピカソと同じ時代に活躍したフランスの画家で、キュビズムの創始者としても知られています。 ピカソと比べると一般的な知名度は劣りますが、絵画における発明の才能は、ピカソも一目置くほどであったそうです。 少年時代は夜に絵を学びパリへ移住する ジョルジュは、フランスのセーヌ側沿いにある町・アルジャントゥイユに生まれ、ル・アーヴルで育ちました。 ペンキ屋を経営していた父親のもとで、装飾画家の見習いをはじめ、芸術の世界に足を踏み入れていきます。 その後、ジョルジュは、1897年から1899年までル・アーヴルにある私立美術学校のエコール・デ・ボザールの夜間クラスに通い絵画を学び、18歳になるとパリに移り住みました。 パリで一番高い丘といわれているモンマルトル界隈のトロワ・フレール通りやルピック通りあたりに住んでいたといわれています。 野獣派に近い作品でデビュー 1901年から兵役に服し、1902年パリに戻ってからは私立美術学校であるアカデミー・アンベールに通い、再び絵を学び始めます。 この美術学校でジョルジュは、ダダ運動の発展に影響を与えたフランシス・ピカビアや、キュビズムの女性画家であるマリー・ローランサンと出会います。 1907年のアンデパンダン展で画家デビューを果たした当時のジョルジュは、フォービズム(野獣派)のリーダー的存在であるアンリ・マティスの影響を受けており、フォービズムに近い作品を多く制作していました。 フォービズムとは、芸術運動の一つでマティスやジョルジュ・ルオーなどの画家が代表的です。 実際に目に映る色をそのまま表現するのではなく、心が感じる色を使う作風のため、鮮やかで自由な画面構成が特徴的です。 キュビズムとは異なる派手な色使いが特徴ですが、目に見える色や形にとらわれない精神性は、近いものがあるともいえるでしょう。 ピカソとの出会いやセザンヌの作品に影響を受ける 画家デビューを果たした1907年、ジョルジュは詩人のギヨーム・アポリネール の誘いでピカソのアトリエを訪れます。 ジョルジュは、ピカソが制作していた『アビニヨン の娘たち』に大きな衝撃を受けます。 また同時期に開催されていたポール・セザンヌの大回顧展にも訪れており、印象派にも強い影響を受けることになりました。 翌年からは、南フランスのレスタックとパリを行き来しながら絵画制作を行い、『 レスタックの家々』を発表します。 セザンヌに影響を受けていたとはいえ、この作品はセザンヌとは異なる作風であり、のちにマティスから「小さなキューブ」と評価されました。 キュビズム時代の始まり 1908年から1912年ごろまでのジョルジュの作品は、幾何学的で複数の視点から同時にモチーフを観察した様子を反映したものが多く制作されていました。 ジョルジュは、セザンヌの絵画理論をベースに、光の効果や視点、技術についての研究を進め、伝統的な技法である遠近法に問題提起します。 ジョルジュの作風は、セザンヌ風から徐々に変化していき、1909年にパリのサロンに出品した2点の作品をきっかけに、世間的にもキュビズムが知れ渡るようになっていきました。 これまでもピカソやジョルジュは、キュビズム的作品を制作していましたが、画商のヘンリー・カーンワイラーが、ピカソやジョルジュを含めた前衛芸術家を囲い込み、サロンに出品しないことを約束に多額の報酬を支払い、自身の画廊のみで作品を展示していたため、世間に広まらなかったのです。 ジョルジュの友人であるアポリネール が、キュビスト同士の交流を活発化させるために働きかけたことで、ヘンリーは個人の画廊だけではなく、作品を海外でも展示する方向に転換し、キュビズム作品が世に出回るようになりました。 総合的キュビズムへの発展 1909年から1911年ごろのジョルジュとピカソの作品は、分析的キュビズムと呼ばれています。 物体を小さな切れ端の集合体として描き、統一感のある色合いを意識しモノクロに近い褐色や灰色の表現に統一されているのが特徴です。 総合的キュビズムは、セザンヌの理論を発展させたもので、自然の形態を小さな面の集まりと捉え、積み重ねることで対象を構成するという手法です。 1912年になると、ジョルジュとピカソの作品には、ステンシルによる文字や新聞の切り抜き、木目が印刷された壁紙、ロープなど、絵画とは異なるオブジェが導入されるようになりました。 この技法はコラージュと呼ばれ、紙のみを用いた手法はパピエ・コレと呼ばれました。 この技法により制作された作品は、総合的キュビズムと呼ばれ、ジョルジュはコラージュの断片を理論的に使用し、作品の大部分は写実的なのが特徴です。 ジョルジュとピカソのコラボは、1914年に第一次世界大戦が勃発するまで続きました。 第一次世界大戦で負傷し療養する ジョルジュとピカソは長らく共同制作を続けていましたが、第一次世界大戦により出征が決まり共同制作が途絶えてしまうと、ドイツ人のカーンワイラーからの支援もなくなってしまいます。 1915年、ジョルジュはカレンシーでの戦いにより頭部に重傷を負い、一時的に失明する事態になってしまいます。 頭蓋骨に穴が開いてしまったため、絵画の制作活動を中断し、約3年間の療養期間に入るのでした。 けがから回復したジョルジュは、再び絵画制作を開始します。 療養中に知り合ったキュビズムの画家であるフアン・グリスの紹介により、新たに画商と契約を交わし、数多くの絵画や彫刻、版画などを制作しました。 これまでキュビズムではモノクロに近い色合いに統一された作品を制作してきましたが、『アトリエ』シリーズを経て、装飾的で温かみのあるモチーフも描くようになっていきました。 晩年は油彩画と距離を置く 晩年の1940年以降は、絵画だけではなく、書籍や絵本、楽譜なども手がけるようになり、次第に油彩画からは距離を置き始めるようになりました。 しかし、絵を描くこと自体はやめることなく続け、繰り返し鳥のグラフィックを制作していたそうです。 また、装飾の分野でも活躍を見せ、ルーヴル美術館の天井装飾やジュエリーのデザインなども手がけました。 ジョルジュ・ブラックが創始したキュビズムとは キュビズムとは、20世紀に起こった芸術運動や、この様式を用いて作品を制作する一派を指した言葉です。 古くから西洋画は、写実的に描くことが重要視されてきましたが、キュビズムでは、モチーフを幾何学的に変化させ、再構築する手法により、抽象的な表現で描かれている特徴があります。 これまでは、一点透視法により絵の構造を写実的に捉えるのが一般的でしたが、キュビズムでは、モチーフを複数の視点から観察し、単純化による抽象的な表現で描写されました。 分析的キュビズム 分析的キュビズムは、セザンヌの影響を受けて拡大していった表現様式で、キュビズムの中でも初期段階の手法として扱われています。 セザンヌの画風から引き継いだ、モチーフを円筒や円錐、丸として描いたり、遠近法や一点透視法を使わなかったりする描き方が特徴です。 統一感を図るために、色合いは灰色や褐色、黒などのモノクロで統一されています。 総合的キュビズム 総合的キュビズムは、キュビズムの後期段階の手法として扱われています。 コラージュと呼ばれるステンシルによる文字や新聞の切り抜き、木目が印刷された壁紙、ロープなどのオブジェを導入した手法が誕生しました。 絵画とは異なるオブジェを取り入れ、絵画作品の表現の幅を広げた手法といえるでしょう。 キュビズムは日本美術にも影響を与えた ジョルジュとピカソを中心に生み出されたキュビズムは、日本美術界にも大きな影響を与えています。 キュビズムは、1910年代から1920年代ごろに日本へ伝わり、キュビズムの探求に力を入れた萬鐵五郎や、パリ留学を経験した東郷青児、キュビズムを独自に解釈した坂田一男、前田寛治などの作風に影響をおよぼしました。 一度は注目を集めたキュビズムでしたが、フォーヴィスムやシュルレアリスムと比較すると大きな広がりには発展せず、一度は縮小してしまいます。 しかし、1951年に東京と大阪で開催されたピカソの展覧会をきっかけに、再びキュビズムが注目を集めました。 キュビズムが日本美術界に与えた影響は、洋画界のみならず日本画や彫刻、工芸などさまざまな芸術分野にまでおよびました。 ジョルジュ・ブラックの盟友ピカソ ピカソは、ジョルジュとともにキュビズムをけん引した芸術家で、絵画の常識を覆すような作品を多く制作し、のちの芸術家に大きな影響をおよぼしました。 ジョルジュとピカソは、1907年に知り合って以降、お互いのアトリエを訪ねるほど親交を深めていき、共同制作も行っています。 キュビズム時代、ピカソはコラージュの断片をつじつまのあわない使い方で制作を行う方法を楽しんでおり、一つの物を別のものに転化させたり、新しくつなぎあわせて思いがけない意味を引き出したり、画期的な制作活動を行っていました。 年表:ジョルジュ・ブラック 年号 満年齢 できごと 1882年5月13日 0 フランス北部のアルジャントゥイユで生まれる。 1890年 8 ル・アーヴルに移る 1897年頃 15 家業のペンキ屋で装飾画家の見習いをしながら、ル・アーヴルにある私立美術学校エコール・デ・ボザールで絵を学ぶ。 1900年 18 パリに移り住む。 1902年 20 2年の兵役を終え、ハンバート美術大学に入学。 1908年 26 『レスタックの家々』や『家と木』などの風景画を残す。キュビズムへと発展していく。 1909年 27 同じくキュビズム絵画に力をいれていたピカソと共同作業が始まる。キュビズム絵画はいい意味でも悪い意味でも名声を得る。 1911年 29 色彩を抑えた難解な分析的なキュビズム作品の製作が始まる。葡萄の房やバイオリンが登場する作品が多数製作される。 1912年頃 30 後のコラージュやパピエ・コレに通ずる作品を製作し、最初のパピエ・コレの作品『果物皿とグラス』を製作する。 1914年 32 ピカソとパリで作品を製作していたが、第1次世界大戦が勃発し、出征してしまうとピカソとの共同作業が途絶える。 1917年 35 帰国後、製作を再開する。軍属でもあった画商レオンス・ローザンベールと契約する。 1919年 37 レオンス・ローザンベールの画廊で個展を開く。 1920年 38 サロンが復活。大戦以前のキュビズム絵画ではなく、落ち着いた静物画を多数製作する。 1918年頃~1942年 36~60 小型円形テーブルの連作の中で、幾何学的な絵画から色彩豊かなスタイルへ進展していく。 1952年 70 フランス美術館総局長だったジョルジュ・サールから依頼を受けてルーヴル美術館の天井画を製作する。 1963年8月31日 81 パリで死去。
2024.12.26
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クロード・モネ(1840年-1926年)画家[フランス]
印象派の画家「クロード・モネ」とは 生没年:1840年-1926年 クロード・モネは、印象派を代表するフランスの画家で、モネが描いた代表作『印象・日の出』が、印象派の名前の由来となっています。 外光派とも呼ばれており、制作した絵画のほとんどが風景画です。 外光派とは、屋外の明るい光や鮮やかな色彩に注目し、作品を外で制作する手法を取った画家たちを指します。 モネをはじめとする印象派の多くは、外光派でもあり、モネの師匠であるウジェーヌ・ブーダンや、ギュスターヴ・クールベなどが先駆けとなり誕生しました。 幼いころから絵の才能を発揮していた フランス・パリに生まれたモネは、食料品店を営む両親のもとで健やかに育ちました。 比較的貧しくはない家庭で育ちましたが、モネが5歳のころにお店の経営状況が悪化し、家族そろって親戚を頼り、ノルマンディーの港町であるル・アーヴルに移り住みます。 ル・アーヴルには、貿易船が停泊する大きな港があり、活気のある町でした。 モネは少年時代をル・アーヴルで過ごしましたが、学校に対してはあまり興味が湧かず、サボりを繰り返していたそうです。 しかし、少年時代から絵の才能はあったといわれており、16歳のときには有名人の特徴を誇張して描くカリカチュアと呼ばれる日本でいう風刺画のようなものを販売し、一財を築いていました。 カリカチュアを描き販売し続けていたことで、のちにモネの師匠となる海の風景画を得意としたブーダンとの出会いが生まれたのです。 モネの師匠「ウジェーヌ・ブーダン」との出会い ブーダンは、風景画の巨匠であるクールベから「空を知っているのは君だけだ」といわれるほど、風景画における空を美しく描いた人物です。 モネの類まれなる絵の才能を見抜いたのは、このブーダンでした。 ブーダンは、画材店に置かれていた16歳のモネが描いたカリカチュアを見て、モネの存在を知るとともに、絵のうまさに目を惹きつけられました。 画家としての才能を見出されたモネですが、当初はブーダンから絵の手ほどきを受けることを快く思っていなかったそうです。 しかし、ブーダンの熱心な教えに押され、一緒にスケッチに出かけると、モネに大きな気づきが生まれ、決定的な変化が生じます。 ブーダンとの屋外でのスケッチにおいて、外の空気を吸って光を全身で感じながらその瞬間を絵に描いていく手法を、モネは生涯追い求め続けるようになるのです。 モネはのちにブーダンのことを「ブーダンと出会い画家としての人生が始まった。画家になれたのはブーダンのおかげである」と語っています。 モネは19歳になると、本格的に絵を学ぶためにパリへ行き、制作活動を続けていきます。 パリに移住後は兵役を務める パリで絵を学びたいと考え始めたモネが両親にそのことを伝えると、父は強く反対。 しかし、モネ自身が描いたカリカチュアを販売して稼いだ2000フランでパリに行くと伝えるとようやく許され、1859年パリへ移ることになりました。 パリにてルーブル美術館を訪れた際、古典巨匠の絵画をその場で模写する画家たちを目にして衝撃を受け、制作道具を持っていたモネは、窓辺に座って自分が見た風景を描き始めたのです。 1861年になると、モネは兵役によりアルジェリアのアフリカ騎兵隊の第一連隊となり、7年を過ごす予定でした。 父は、モネの徴兵免除券を購入できる立場でしたが、モネが絵をやめることを拒否したために購入しなかったといわれています。 アルジェリアに滞在している中で、モネはアルジェリア旧市街地のカスバ建築や風景、さまざまな軍人の肖像画など、スケッチを積極的に行っていましたが、それらの作品は現在消失してしまいました。 約1年の兵役を務めたとき、腸チフスを患い病床に伏せてしまいます。 その後、美術学校の学位取得を条件に、モネの叔母がモネを除隊させるよう働きかけてくれたおかげで、モネは2年で除隊となったのです。 サロン・ド・パリで入選し画壇デビューする 1862年から、美術学校に入学し絵を学びますが、アカデミックな美術が肌に合わず、パリで画塾を開いていたシャルル・グレールのもとで絵を学ぶようになりました。 グレールの画塾には、のちに印象派として活躍するピエール=オーギュスト・ルノワールや、ジェームズ・マクニール・ホイッスラー、アルフレッド・シスレーなどもいました。 モネは画塾でできた新しい仲間と芸術的価値観を共有しあい、点描画法やあえて筆の跡を残す手法、光を効果的に表現する絵などを制作し、のちに印象派と呼ばれるように。 1865年のサロン・ド・パリでは、海景画を2点出品し、見事2点とも入選を果たします。 同年、パリ・サロンでの出品を拒否されたマネと同じ主題「草上の昼食」の制作を開始しますが、作品のサイズが非常に大きかったため期日までに完成させられませんでした。 パリ・サロンには、代わりに『緑衣の女』を出品し、小さな風景画『シャイイの道』とともに展示されました。 印象派誕生のきっかけは芸術アカデミーからの出品拒否 1860年代後半ごろから、モネと似た美術的価値観をもつ画家たちは、サロン・ド・パリで開催される展示会を運営する保守的な芸術アカデミーから、出品を拒否されてしまいます。 そのため、1873年の後半ごろからは、モネやルノワール、シスレー、ピサロなどを中心に「画家、彫刻家、版画家らの無名美術協会」を結成し、独立した展示会を企画し始めました。 展示会は、サロン・ド・パリの展示会が開始される2週間前から1か月間を期間とし、パリ・キャピュシーヌ大通りにある写真家ナダールの写真館にて、第1回目が開催されました。 のちに第1回印象派展と呼ばれる展示会で、30人の画家が参加し、展示作品は165点にものぼったそうです。 印象派の名前の由来となったモネの『印象、日の出』も、このときに展示されました。 開催から10日ほどが経ったころ、ル・シャリヴァの紙上で美術批評家のルイ・レロイが印象派展という名前を付け、展覧会をレビューしました。 評価は酷いものでしたが、レビュー掲載がきっかけとなり、印象主義や印象派の名前が世間に知られるようになったのです。 普仏戦争をきっかけに2人の巨匠を研究する 1870年、普仏戦争が勃発すると、モネは家族と一緒にイギリスに避難し、ロマン派の伝統を引き継ぐジョン・コンスタブルやロマン主義を代表する画家ウィリアム・ターナーの風景画の研究を始めます。 コンスタブルが描いた雲の風景やターナーが描いた霧の風景は、移ろいゆく自然や光を新しい感性で観察し描かれているとして、モネや印象主義の発展に大きな影響を与えました。 その後、1871年にはロンドンを離れ、オランダのザーンダムに移り住むと、25枚の絵画作品を制作しました。 同年秋にはフランスにもどり、1878年までパリ北西に位置するアルジャントゥイユ村で過ごすように。 1873年、水上アトリエとして利用するための小型ボートを購入し、風景画やエドゥアール・マネ、妻の肖像画を制作しました。 妻・カミーユの死を描く 1876年、妻のカミーユ・モネが結核にかかってしまいます。 2年後には子どもが生まれますが、同年モネたちはヴェトゥイユ村に移り住み、デパート経営者であり美術コレクターでもあるエルネスト・オシュデと共同生活を送るようになりました。 しかし、カミーユは子宮がんの診断を受け、1879年に32歳という若さで亡くなりました。 モネは、妻の死顔を油彩で描いた『カミーユ・モネの死の床』を制作しています。 のちにモネは友人のジョルジュ・クレメンソーに「最愛の妻の死顔をみたとき、無意識のうちに頭の中で光量の割合の設定や、色味を設定していることに気づいた」と語っています。 印象派グループの解散 長年、パリ・サロンに反発して印象派展と呼ばれる独立した展示会を開催してきたモネでしたが、10年後の1880年に再びパリ・サロンに作品を出品するように。 出品のきっかけは、前年のパリ・サロンにてルノワールの作品が高い評価を得ていたことだそうです。 また、経済状況が思わしくなく、パリ・サロンに入賞すれば画商のジョルジュ・プティが作品を購入してくれるかもしれないという期待があったことも理由の一つと考えられます。 出品した2点のうち、比較的伝統的な作風で描いた作品のみが入選を果たしました。 パリ・サロンに出品する一方で、モネは第5回印象派展への出品を拒否し、のちに印象派グループは解散する方向に進んでいきました。 同時期、ルノワールが伝統的な作風に回帰し、セザンヌやシスレーとともにパリ・サロンに出品していたこともあり、当時は印象派グループ内でそれぞれスタイルの変化が生じていたとわかるでしょう。 画商ポール・デュラン=リュエルの支援を受ける モネは、長年にわたって画商ポール・デュラン=リュエルから支援を受けており、1883年にルマンディー地域のジヴェルニーに引っ越しする際の費用の援助やサポートもリュエルから受けています。 リュエルは、もともと印象派の画商で、印象派グループが制作する作品を積極的に購入していました。 第1回印象派展は、批評から酷評を受け経済的に失敗していたにもかかわらず、第2回印象派展では、自分の画廊を会場として提供し、第7回印象派展でも会場確保に努めたそうです。 1886年、リュエルはニューヨークで「パリ印象派の油絵・パステル画展」を開催し、モネの作品を40点以上出品しました。 展覧会は大好評をおさめ、モネをはじめとした印象派の画家らは、アメリカで認知されるようになり、経済的にも安定するきっかけとなりました。 2人目の妻・アリスの死と晩年 1911年、モネの2人目の妻であったアリスが亡くなります。 息子のジェーンは、モネが気に入っていたアリスの娘ブランシェと結婚し、アリスが亡くなったあとは、白内障にかかりはじめていたブランシェがモネの介護を行ったそうです。 第一次世界大戦時は、息子のミシェルが兵役を務め、友人でありモネの協力者でもあるクレマンソーがフランス軍を指揮しました。 モネは、フランスの戦没者に敬意を示すために、シダレヤナギの絵画シリーズを描きます。 1923年に2度の白内障手術を受けており、白内障で視力に問題が生じていた時期に描かれたとされる作品は、全体的に赤身を帯びているものが多くあります。 モネとカミーユの出会い モネは、1865年に10代でモデルをしていた7歳年下のカミーユと出会い、彼女をモデルにして多くの絵画を制作しました。 次第に交際を始めた2人でしたが、モネの叔母と父はカミーユとの交際を認めておらず、モネはカミーユとの関係を隠していました。 1867年に、カミーユはパリで長男のジャンを出産しますが、このときモネは叔母の田舎の屋敷で仕送りをもらいながら生活していたそうです。 1868年からは、モネとカミーユと息子のジャンは一緒に暮らすようになりましたが、父と叔母には2人の存在を隠し続けました。 1878年には、次男のミシェルが誕生しますが、カミーユは体調を崩し、1879年結核により亡くなりました。 なお、カミーユはモネの絵画のモデルだけではなく、ルノワールやマネなどのモデルも務めていたそうです。 モネはジャポニズムの影響を大きく受けた画家 モネは、ジャポニズムの影響を大きく受けていた画家の一人で、浮世絵を収集していたことでも有名です。 モネがジャポニズムに影響を受けて制作した代表的な作品に『ラ・ジャポネーズ』があります。 妻である金髪のカミーユが鮮やかな赤色の着物を羽織り、振り向くような構図で描かれた作品で、手には扇子を、背景にはうちわが描かれているのが特徴です。 モネの大作『睡蓮』シリーズ モネの代表作に生涯でおよそ250枚描いた『睡蓮』シリーズと呼ばれるものがあります。 連作とは、同じモチーフを何度も描く手法のことで、季節や天候、時間帯などによって移り変わる光の効果を捉え、何枚もの作品を描いているのが特徴です。 『睡蓮』シリーズは、1895~1900年に描かれた第1シリーズと、1903年以降に描かれた第2シリーズに分けられています。 第1シリーズでは、日本を思わせるような橋を建築したジヴェルニーの自宅の庭をモチーフにしており、池や枝垂柳を光の移り変わりとともに描いているのが特徴です。 第2シリーズでは、水面とそこに映る樹木や空の反映、水面に浮かぶ睡蓮などが複雑に交錯した構図が特徴です。 『睡蓮』制作を支えたのは親友のクレマンソー モネの大作『睡蓮』シリーズの制作を支えたのは、親友のクレマンソーであるといわれています。 フランスのオランジュリー美術館にある円形の展示室「睡蓮の間」には、モネが国に寄贈した『睡蓮』の大装飾画が展示されています。 この展示を勧めたのが、モネの古くからの友人で首相でもあったクレマンソーだったのです。 当時、モネは印象派グループ仲間の最後の生き残りであったルノワールが亡くなり、さらには自身も白内障にかかるなど、精神的にも肉体的にも満身創痍な状態でした。 そんなモネに対してクレマンソーは、白内障の手術に耐えてまた『睡蓮』を描いてほしいと励まし、モネは手術を決意し、最後の力をふり絞って大装飾画の『睡蓮』を描いたのでした。 年表:クロード・モネ 年号 満年齢 できごと 1840年11月14日 0 パリで次男として生まれる。 1845年 5 ノルマンディー地方のル・アーヴルで過ごす。 1858年 18 風景画家ブータンと出会い、油絵制作を教わる。 1859年 19 パリに戻り、絵の勉強をきっかけに、画塾時代の仲間と出会う。 1861年 21 アルジェリアのアフリカ騎兵隊の第1連隊となる。 1865年 25 サロン・ド・パリに初入選。 1869年 29 サロン・ド・パリで落選。カミーユ・ドンシューとの交際が始まり、長男が生まれる。父親からの援助が絶たれる。 1870年 30 2年連続、サロン・ド・パリで落選を経験する。普仏戦争が始まり、兵役を避けるためロンドンに渡る。パリに戻り、アルジャントゥイユにアトリエを構えた。 1874年 34 第1回印象派展を開催。その後、第2回、第3回も参加。 1878年 38 エルネスト・オシュデとその妻のアリス・オシュデの家族との同居生活が始まる。 1879年 39 結核で妻のカミーユが死去。アリスとの関係が深まる。 1881年 41 ポワシーに移り住む。 1883年 43 ジヴェルニーに移り、生涯をここで暮らす。 1890年代 50 『積みわら』、『ポプラ並木』、『ルーアン大聖堂』を描いた連作に取り組む。 1892年 52 アリスを2人目の妻とする。 1893年 53 自宅前の土地に日本庭園を造園する。 1895年~1900年 55~60 『睡蓮』の連作が始まる。第1シリーズと呼ばれており、太鼓橋を中心に睡蓮の池と枝垂れ柳が光の変化に従って描かれている。 1901年 61 睡蓮の池を拡張する工事を実施。連作が中断する。 1903年 63 『睡蓮』の連作を再開する。 1911年 71 2人目の妻・アリス死去。 1926年12月5日 86 86歳で死去。 1927年 『睡蓮』が展示された が一般公開される。
2024.12.26
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パブロ・ピカソ(1881年-1973年)画家[スペイン]
20世紀最大の画家と称される「パブロ・ピカソ」とは 生没年:1881年-1973年 20世紀を代表するパブロ・ピカソは、美術に興味はなくとも名前と代表作を知っている人がほとんどではないでしょうか。 20歳ごろからフランス・パリで本格的に画家として活動を始め、90代で亡くなるまでに数々の代表作を生み出しました。 その作品数は、約15万点にもおよぶといわれています。 幼いころから識字障害を抱えていた ピカソは、スペインの南部にあるアンダルシア地方、マラガ市で誕生しました。 父のホセ・ルイスは、美術学校の教授でもあり、修復家、地元美術館の学芸員としても働いていました。 ピカソは、幼いころから絵に関する芸術的才能を発揮していて、8歳で初めて油彩画を描いています。 子どものころから美術の英才教育を受けて、絵の才能を開花させていきますが、一方で、美術以外の勉強は、あまり得意ではなかったようです。 当時はまだ障害として認識されていませんでしたが、ピカソは文字の読み書きを困難に感じる識字障害であったといわれています。 そのため、ピカソは授業についていけず教室を追い出されることもあり、その時間を利用してノートにスケッチを描いていました。 字を読むのが苦手だったことが、ピカソの鋭敏な視覚的能力を発達させ、奇想天外な芸術性を生み出すきっかけになったかもしれません。 父から絵を教わり続けたピカソの腕は、日に日に上達していき、1892年には、11歳にしてラ・コルーニャの美術学校への入学を認められ、13歳のころには油絵を描き展示や販売をスタートさせました。 14歳で美術学校に入学する 1895年、ピカソ一家はバルセロナに移住し、ピカソ自身は、父の働き先である美術学校に14歳にして入学を果たします。 このときピカソは、通常は1か月の制作期間が設けられている入学制作を1週間で完成させたといわれています。 バルセロナでは、カフェに集まる前衛芸術家たちとも交流を深めるようになっていきました。 1897年、父に教わり描いた古典的な様式の絵画『科学と慈愛』が、マドリードにて開催された国立美術展で入選し、佳作を受賞して2週間ほど展示されます。 同年、ピカソはスペインで最も有名な美術学校・王立サン・フェルナンド美術アカデミーに16歳で入学。 しかし、アカデミーでの授業は、これまで習ってきたものと同様に古典的な内容であったため、新しい知識や技法などを学べないとして、ピカソはすぐに授業を休むようになりました。 ピカソは、学校ではなくプラド美術館によく通うようになり、ベラスケスやフェルメール、レンブラントなどの名画を模写し、知識や技法を吸収するようになりました。 ピカソは特に、カラヴァッジョとエル・グレコから大きな影響を受けたといわれています。 パリを行き来して個展を開催する 1900年、ピカソは個展を開催し、アール・ヌーヴォーから影響を受けた線画の作品を約150点展示しました。 また、友人で同郷の画家であるカルレス・カサヘマスと初めてパリを訪れ、2か月ほど滞在します。 『ムーラン・ド・ラ・ギャレット』では、パリの街で繫栄を謳歌する人々が夜遊びに興じる様子を描き、明暗法を用いて描かれた、夜の街に浮かび上がるバーに集まる人々は憂いを帯びたように見えます。 画面の手前で、テーブルに肘をつきながら意味ありげな笑みを浮かべているのは、当時絵のモデルをしていたジェルメーヌ・ガルガロと呼ばれる女性です。 カサへマスは、ジェルメーヌに恋をしていましたが、想いが叶うことはなく、ピストルを使って自殺してしまいました。 友人が自殺した絶望の中ピカソによって描かれた『死んだカサヘマス』では、アップで描かれた遺体のこめかみにはっきりと銃創が残っている様子が描かれています。 なお、その後ジェルメーヌは、ピカソの愛人となりました。 パリへ移住し人生に大きな影響を与える人物たちと出会う しばらくスペインとパリを往復する生活を送っていたピカソでしたが、1904年にパリに移り住むことを決意。 このころに出会った詩人のマックス・ジャコブが名づけた「洗濯船」と呼ばれるモンマルトルの建物に部屋を借り、パリで芸術家としての生活をスタートさせました。 ジャコブは、ピカソにフランス語を教え、詩人で美術評論家のギヨーム・アポリネールとピカソを引き合わせてくれた人物でもあります。 その後、アポリネールを通じてジョルジュ・ブラックとも出会い、ピカソとジョルジュの2人は近代美術に大きな影響をもたらしていくのでした。 ピカソは、絵画作品がパリで早くから注目を集めており、当時はシャルル・ボードレールに影響を受けた現代生活を描くスタイルと象徴主義の夢想を融合させた作品を描いていました。 親友カサヘマスと青の時代 親友カサへマスの死により、ピカソは独自のスタイルを確立させ、青の時代に入っていきます。 当時、パリで失恋して落ち込んでいたカサへマスを励まそうと、ピカソは故郷のマラガにカサへマスを連れ帰りますが、心の傷を癒すことはできませんでした。 ジェルメーヌへの未練を募らせたカサへマスは、1901年に再びパリを訪れジェルメーヌに銃を突きつけます。 ジェルメーヌに向けて発砲した後、カサへマスは、自らのこめかみに銃口を押し当て命を絶ったのでした。 幸い、ジェルメーヌには、銃弾は当たっていませんでした。 カサへマスの死により、深い悲しみと大きなショックを受けたピカソは、その後1904年までの数年間、陰鬱な青の色彩をベースにした絵を描き続けます。 バラ色の時代への移り変わり 1904年、青の時代から一変し、ピカソは暖色をメインに使用する絵画作品を描くようになり、バラの時代へと突入していきます。 この時期の作品では、ピンクや赤、オレンジなどの暖色がよく使われており、モチーフにはサーカス団員をよく採用していました。 色彩やモチーフのテーマは明るいものに変化していきましたが、描かれている曲芸師やピエロ、空中ブランコ乗りなどの表情をよく見てみると険しい顔つきをしているのがわかります。 当時、サーカスには、社会に適合できなかった変わった人たちを受け入れる場所という側面があり、青の時代もバラの時代もスタイルは変化しましたが、どちらにもピカソの社会に対する思いが込められていたのかもしれません。 バラの時代、作風の変化とともに、ピカソの生活にも大きな変化が起きており、この時代にピカソはモンマルトルの洗濯船と呼ばれる建物で、本格的なアトリエを構えています。 また、絵のモデルで芸術家のフェルナンド・オリヴィエと恋に落ち、以後7年間、不安定ではありますが、関係が続いていきました。 ピカソとガートルード・スタイン バラの時代が終わりを迎える1906年、ピカソは小説家や詩人、劇作家として活躍していたガートルード・スタインの肖像画を描きました。 スタインは、前衛芸術のコレクターでもあり、裕福なユダヤ人家庭に生まれ育っていたため、その財力によってピカソのパトロンにもなっていました。 スタインは、ピカソが尊敬する数少ない女性の一人で、お互いに歴史に名を残したいと大きな野心を抱いており、出会ってすぐに意気投合したそうです。 スタインの肖像画は、ピカソが描きたいと申し出て制作されたもので、納得がいくまでスタインは、90回近くモデルとしてピカソの前に座らされたといわれています。 結局、ピカソは1906年にモデルなしで肖像画を完成させたそうです。 アフリカの原始美術から大きな影響を受ける ピカソは、アフリカの原始美術からも大きな影響を受けており、それが色濃く反映されている作品が、1907年に制作された『アビニヨンの娘たち』です。 当時、アトリエで作品を描いていたピカソは、トロカデロ民俗学博物館を訪れ、フランスが植民地から持ち帰ったとされているアフリカ部族の仮面を見て作品に反映させることを考え付きます。 もともと『アビニヨンの娘たち』には、5人の女性のほかに2人の男性が描かれていましたが、ピカソは男性を消し、3人の女性の顔に儀式用で使うような仮面を描いたのでした。 この作品には、アフリカの原始美術の影響だけではなく、さまざまなスタイルや色彩が融合されています。 例えば、色彩は青の時代とバラの時代の特徴を併せ持っており、絵の具の使い方はセザンヌの影響がうかがえます。 しかし、セザンヌの絵を参考にしつつもピカソは、三角形やひし形などの図形のような校正で人物と背景を描いており、さまざまな角度から見たモチーフを一つの画面で表現しているのが特徴です。 この時代、ピカソはアフリカ美術のコレクションもしており、その後3年間でアフリカ美術の影響を大きく受けた作品をいくつも生み出しています。 1909年ごろからは、ジョルジュの影響もありアフリカ美術から離れてさらに新しいアプローチで絵画制作を進めていくのでした。 キュビズムの創始者となる 『アビニヨンの娘たち』を皮切りに、ピカソは平面的な作品を多く描くようになり、さらにはモチーフを小さく分解し再構築する技法が用いられるようになり、分析的キュビズムと呼ばれるようになりました。 分析的キュビズムでは、色彩は黒や褐色、灰色などのモノトーンで統一されているのが特徴で、モチーフになっている人物や静物は、画面に何が描かれているのか解説なしでは判別が難しいほど、複雑な構成で制作されています。 分析的キュビズムを経て、ピカソは自分が何を描いているのか疑問を持つようになり、絵画と現実を結び付けようとの考えに至ります。 この絵画に現実を貼り付ける考えが、のちに総合的キュビズムと呼ばれるようになったものです。 総合的キュビズムでは、新聞紙や壁紙などの素材をキャンバスに貼り付けるコラージュと呼ばれる技法が生み出され、色彩も豊かになっていきました。 初めての結婚と新古典主義の誕生 第一次世界大戦が勃発すると、ピカソはスペインを離れイタリアを旅行します。 フィレンツェとローマなどを訪れ、初期や盛期ルネサンス時代に活躍したラファエロやミケランジェロ、ベルニーニなどのバロックを代表する画家の作品を鑑賞し、さらにはポンペイやヘルクラネウムで、ローマ時代のモザイク画やフレスコ画に触れ、ピカソは大きな刺激を受けたのでした。 ピカソが新古典主義スタイルの作品を制作し始めたのには、イタリアでのオルガ・クローヴァとの出会いも関係しているといわれています。 オルガは、バレエダンサーで、当時ピカソはバレエの衣装と舞台装置をデザインしており、親交を深めていった2人は1918年に結婚しています。 最初の妻となったオルガから、私だとわかるように描いてほしいといわれ、キュビズムから古典主義スタイルに移り変わっていったという説もあるのです。 またピカソは、オルガを通じて上流階級の人々と交流を持つ ようになり、その結果新古典主義を取り入れるようになったともいわれています。 シュルレアリスム時代への移行 古典回帰した作品を多く描いたピカソは、その後、シュルレアリスムに影響を受けていきます。 シュルレアリスムとは、フランスで発生した芸術運動で、超現実主義とも呼ばれています。 シュルレアリスムでは、目で見て捉えられる意識的な現実世界ではなく、人が無意識の中にもっている世界観を描くスタイルの芸術です。 シュルレアリスムの代表的な画家には、サルバドール・ダリやルネ・マグリットなどがいます。 ピカソは、シュルレアリスムに関心を抱き、非現実的なイメージで人物を描くようになり、独自の世界観をさらに広く展開していきました。 またこの時期、ピカソと妻のオルガとの関係は悪化しており、精神的な不安定さが非現実的なイメージの作品を生み出したのではないかともいわれています。 ピカソ作品には珍しく、淡い色彩で描かれている作品も多く、異様な雰囲気が感じられます。 ヴァロリス期と晩年 1946年、第二次世界大戦が終わったころ、ピカソは自然豊かな南フランスの街ヴァロリスを訪れます。 ヴァロリスでは、昔から陶器製造が行われており、ピカソは毎年開催されている陶器市を訪れたのでした。 陶器の絵画とは異なる美しさに魅了されたピカソは、自ら土を成形して陶器作品を制作しました。 これをきっかけに、1947年ごろから彫刻や陶芸なども行うようになり、特に陶器づくりに没頭したピカソは、1947年~1948年の2年間で、数百点の陶器作品を制作したそうです。 1968年、晩年のピカソは、性をモチーフにした作品を347点以上制作しており、「この年齢になってやっと子どもらしい絵が描けるようになった」と語っています。 晩年に描かれたピカソのスタイルは、新表現主義に大きな影響を与えたといわれており、先駆けとなったピカソは、1973年、91歳で芸術家人生に幕を下ろしました。 ピカソの本名は長い!そして2種類ある? ピカソの名前は、とても長いことでも有名で、さらには2種類の名前を持っているともいわれています。 役所の記録では、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・シプリアーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ」とされており、教会の洗礼名では、「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・フアン・ネポムセーノ・クリスピン・クリスピニャーノ・デ・ラ・サンティシマ・トリニダード・マリア・デ・ロス・レメディオス・アラルコン・イ・エレーラ・ルイス・イ・ピカソ」とされているのです。 非常に長く覚えるのが大変なため、多くの場合「パブロ・ピカソ」と略されています。 ピカソがモナリザを盗んだとして逮捕されていた? 1911年、ルーブル美術館に展示されていたレオナルド・ダ・ヴィンチの『モナリザ』が盗まれる大事件が発生しました。 その容疑者として名前が挙がったのが、まだ若き日のピカソの名だったのです。 当時、ピカソはジャコブ、アポリネール、ブラックとともに反逆的芸術集団「ラ・バンド・ドゥ・ピカソ」として活動していました。 過激な活動も行っていたため、ピカソとアポリネールが窃盗の犯人ではないかと容疑をかけられてしまったのです。 身に覚えのない犯行に対して必死に無実を訴え、何とか釈放されましたが、名画『モナリザ』は、2年もの間行方不明のままでした。 事件発生から2年後、盗難品の販売を持ちかけられた画商が警察に通報し、ようやく真犯人が判明しました。 『モナリザ』を盗んだのは、当時モナリザの展示用ガラスの取り付けを行っていたガラス工だったのです。 『ゲルニカ』は政府の依頼を受けて描かれた 代表作『ゲルニカ』をピカソが手がけ始めたのは、1937年1月のことでした。 同年5月に開催されるパリの万国博覧会で、スペイン館に飾るための絵の制作を共和国政府から依頼されます。 当時、ピカソが壁画に描こうとしていた題材は、政治とは無関係のものでしたが、同年4月にドイツ空軍の支援を受けた反乱軍が、バスク地方にある小さな街ゲルニカを無差別爆撃し、多くの市民が亡くなった事件を知り、ゲルニカをテーマに作品制作にとりかかったのでした。 また、『ゲルニカ』制作後、第二次世界大戦時にナチス占領下であったパリに住んでいたピカソは、ある日『ゲルニカ』の作品を見たドイツの役人に、「これはお前が描いたのか?」と聞かれ、「ちがう、お前たちがやった。」と返答したそうです。 ピカソに影響を与えた10人の女性 偉大な芸術家ピカソは、多くの女性を魅了し、90代で亡くなるまでの人生の中で多くの女性とかかわりをもってきました。 1人目:オデット ピカソが初めてパリに出て雇ったモデルが、オデットです。 当時19歳だったピカソとオデットは、パリで同棲していたといわれています。 この時代のピカソは、デッサン力の高さが評価されていました。 2人目:ジェルメーヌ ジェルメーヌは、親友カサへマスが恋をし、無理心中を図るほどに愛していた女性です。 カサへマスの死後、ジェルメーヌはピカソの描く作品にたびたび登場しており、確証はありませんが、愛人関係にあったのではと考えられています。 3人目:フェルナンド・オリヴィエ 1904年、モンマルトルに移り住んだピカソは、絵画モデルをしていたオリヴィエと出会い、同棲を始めました。 オリヴィエは人妻で、当時夫からDVを受けてパリに逃げ込み、絵画モデルをしていたところ、ピカソに出会ったといわれています。 4人目:エヴァ・グエル 1911年、30歳になったピカソは、スタイン兄妹の家で4歳年下のエヴァ・グエルに出会い惹かれあいます。 グエルもまた夫と別居している人妻で、ピカソと出会った当時は、彫刻家マルクーシの愛人でもあったそうです。 ピカソとグエルの関係は4年ほど続きましたが、1915年にグエルは結核により亡くなってしまいました。 5人目:ガブリエル ガブリエルは、7歳年下の人妻で、グエルが亡くなる直前から親しい仲になっていたといわれています。 ガブリエルも結婚しており、さらには夫と暮らしている中、ピカソとも関係を持つようになったとされています。 6人目:オルガ・ オルガは、ピカソの初めての妻となったロシア人のバレエダンサーです。 踊り子をしていたオルガに一目ぼれしたピカソは、ロシア貴族のお嬢様であった彼女を射止めるために婚約を交わし、1918年に結婚しました。 7人目: 1927年、オルガと結婚したピカソでしたが、45歳にして17歳のマリーと愛人関係になります。 2人はオルガに隠したまま関係を続け、ピカソはマリーが芸術の霊感をもたらしてくれる女神として、彼女をモチーフにした絵をいくつも制作しています。 8人目:ドラ・マール ドラ・マールは、ピカソが54歳のときに愛人関係になった女性で、当時マールは28歳で写真家をしていました。 マリーとの関係が解消されていない状況でマールとも関係を持ち、2人がアトリエで鉢わせてしまい、喧嘩になることもあったそうです。 ピカソはそのような2人の様子を見ても止めることはせず、なすがままにしていたといわれています。 9人目:フランソワーズ・ジロー ピカソは、62歳になっても女性に対する興味を失っていませんでした。 1943年、ピカソは当時22歳で画家を志していたフランソワーズ・ジローと知り合います。 40歳の年齢差があったため、すぐには恋愛関係に発展しませんでしたが、交流を深めるうちにフランソワーズの知性に魅了され、1946年から同棲生活をスタートさせたのでした。 10人目:ジャクリーヌ・ロック 1953年、71歳のピカソは、26歳で離婚経験のあるジャクリーヌ・ロックに恋をし、口説き落としました。 ジャクリーヌとの関係を知ったフランソワーズは、ピカソと別れパリで画家として自立することを決意します。 フランソワーズ側から別れを告げたことに激怒したピカソは、彼女の画家としての道を邪魔しようとし、画家リュック・シモンと結婚したフランソワーズに復縁をもちかけ離婚させ、シモンと離婚した直後にピカソは、ジャクリーヌと結婚してしまうのでした。 その後、ジャクリーヌとの結婚生活は、ピカソが亡くなるまで続きました。 パブロ・ピカソが世界に与えた影響 ピカソは、20世紀の芸術界において、最も影響力のある画家の一人といわれています。 独特の世界観をもったスタイルや技法は、同時代の芸術家だけではなく、後世の芸術家にも大きな影響を与えました。 キュビズムの創始は、その後の抽象芸術に発展していき、世界中の芸術家を新たな表現方法の世界へ導きました。 現代でもピカソの作品は、高い評価を受けており、美術教育の現場においても重要な役割を担っています。 また、美術界だけではなく文化全体にも大きな影響をおよぼしており、ピカソのスタイルや作風は、ファッションや広告、デザインなどあらゆる分野で参考にされています。 奇想天外な発想による独自の作品は、美術界だけではなく一般の人々からも受け入れられ、今日まで多くの人々やものに影響を与えているのです。 年表:パブロ・ピカソ 年号 満年齢 できごと 1881年10月25日 0 スペイン南部アンダルシア地方・マガラ市に長男として誕生。 1892年 11 ラ・コルーニャの美術学校に入学。 1895年 14 バルセロナに移住し、美術学校に入学。 1897年 16 『科学と慈愛』がマドリードの国立美術展で入選。その後、マガラの地方展で金賞受賞。 1897年 16 王立サン・フェルナンド美術アカデミーへ入学するも翌年中退。 1899年 18 バルセロナのカフェ「四匹の猫」へ通い、芸術家たちとの交流を持つ。自身初の個展を開催するなど、徐々にピカソへの注目が集まりはじめる。 1900年 19 個展開催。パリを初訪問し、その後はバルセロナとパリを行き来する。 1901年 20 親友であるカサへマスが自殺。この頃は「青の時代」と呼ばれ、無機顔料のプロシア青を基調とした作品を多く描いている。 1907年 26 『アビニヨンの娘たち』製作。 1911年 30 ルーブル美術館で『モナ・リザ』が盗難に遭い、容疑者として逮捕(1週間後に釈放、真犯人はのちに判明)。 1918年 31 バレエダンサーである、オルガ・コクローヴァと結婚。この頃のピカソは舞台衣装や装置の製作に多く携わっている。 1927年 46 マリー・テレーズ・ワルテルと出会う。ピカソは妻・オルガと離婚を考えるも断念。婚姻関係はオルガが亡くなるまで続く。 1930年 49 『ピカソ婦人像』がカーネギー賞を受賞。 1935年 54 マリー・テレーズとの間に娘が誕生。この年には妻・オルガとは別居している。 1937年 56 『ゲルニカ』製作。この頃、カメラマンで画家のドラ・マールと愛人関係に。ドラは『ゲルニカ』の製作過程を写真に記録するなど、ピカソの芸術への理解者でもあった。 1943年 62 画学生であるフランソワーズ・ジローと出会い、のちに2人の子が誕生。 1951年 70 『朝鮮の虐殺』製作。 1952年 71 『戦争と平和』製作。 1955年 74 妻のオルガが死去。 1956年 75 撮影に協力した映画『ミステリアス・ピカソ/天才の秘密』(監督:アンリ=ジョルジュ・クルーゾー)が第9回カンヌ国際映画祭で審査員特別賞を受賞。1984年にフランス国宝に指定される。 1958年 77 『イカルスの墜落』製作。 1961年 80 ジャクリーヌ・ロックと再婚。 1964年 83 日本、カナダで回顧展を開催。 1966年 85 パリ(グラン・パレ、プティ・パレ)で回顧展を開催。 1967年 86 巨大彫刻『シカゴ・ピカソ』をシカゴで公開。 1970年 89 バルセロナにピカソ美術館が開館する。 1973年4月8日 92 肺水腫によって91歳で死去。ピカソの死後、2人目の妻であるジャクリーヌは自殺している(1986年)。
2024.12.26
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ルネ・マグリット(1898年-1967年)画家[ベルギー]
シュルレアリスムの画家「ルネ・マグリット」とは ルネ・マグリット 生没年:1898年-1967年 ルネ・マグリットは、ベルギー出身のシュルレアリスムの画家で、イメージの魔術師とも呼ばれています。 岩が空中に浮かんでいる様子や、青空が鳥の形に切り抜かれている様子、靴に指が生えた様子など、独創的で不思議な作品が多く、鑑賞した者が再考する必要があるのが特徴です。 マグリットの不思議な世界観は、本来世界がもっている神秘をイメージとして表現したものといわれています。 マグリットの作風は、のちのポップ・アートやミニマリスト・アート、コンセプチュアル・アートなどにも影響を与えました。 母の自殺が子どもだったマグリットに大きな影響を与える マグリットは、ベルギーのレシーヌという町で、仕立て屋兼繊維商の父レオポルド・マグリットと帽子職人の母レジーナ・ベルタンシャンの間に生まれました。 マグリットの作品には、スーツを着た男性や帽子をモチーフにしたものが多く登場します。 両親の仕事柄、子どものころからスーツを着た人や帽子に囲まれて育ったのではないかと考えられるでしょう。 また、マグリットは1910年ごろに家族とともにレシーヌからシャトレに移り住み、絵画教室に通い油絵やデッサンなどの美術教育を受けていたといわれています。 1912年、マグリットの芸術感に大きな影響を与えるできごとが起こります。 母がシャトレのサンブル川で入水自殺をしてしまうのです。 母の自殺衝動は数年前からあり、何度も自殺未遂を図っており、父は母が自殺しないよう寝室に閉じ込めたこともあったそうです。 しかし、母は自宅を飛び出し、数キロ離れた河川敷で遺体となって発見されました。 葬儀の日、母の顔にかけられた布とドレス姿は、マグリットの目と記憶にしっかりと焼き付き、現実と幻想が混ざり合ったマグリットの芸術は、この体験が反映されているのではないかといわれています。 1927年から1928年に描かれた『恋人たち』では、描かれた人物の顔に布がかけられています。 学生時代は印象派に影響を受ける 母が亡くなった後、マグリットと兄弟は下女と家庭教師に引き取られ、生活することになりました。 1913年、マグリットと家族はシャルルロワに移り住み、高校へ入学します。 マグリットの作品は、1915年ごろのものから残されており、当時は印象派のスタイルで制作していました。 1916年から1918年まで、ブリュッセルの美術学校に通い、ベルギー象徴主義のコンスタン・モンタルドに師事しますが、授業にはあまり身が入らなかったそうです。 また、画家でありポスターデザイナーでもあるジスベール・コンバッツからも学び、グラフィックデザインや広告ポスターなどの仕事をしながら絵画を勉強していました。 学校に通い絵を学んでいく中で、マグリットの作品は印象派以降の近代美術に影響を受けるようになっていきます。 未来派やキュビスムに大きな影響を受ける 1918年、詩人のピエール・ブルジョワーズや抽象画家のピエール・フルケをはじめとしたベルギー前衛芸術家の仲間と共同アトリエにて短期間制作を行っています。 このころから、イタリア未来派のダイナミズムに興味をもつようになり、その後、雑誌デ・ステイルの創始者テオ・ファン・ドゥースブルフと出会います。 ドゥースブルフは、ブリュッセルにオランダの純粋主義理論について講演するために来ており、講演を聞いたマグリットの創作意欲に火をつけました。 1918年から1924年にかけての作品は、未来派やキュビスムに大きな影響を受けており、女性をモチーフにした魅力的な肖像画を多く残しました。 幼なじみとの結婚とジョルジョ・デ・キリコ作品との出会い 1920年、ブリュッセルの植物園で幼なじみのジョルジェットと再会し、1922年に結婚します。 1920年から1921年まで、マグリットはベルギーのベヴェルーに従軍し、地図製作や指揮官の肖像画を制作しました。 兵役を終えたマグリットは、1922年から1923年まで壁紙工場の製図工として働きます。 1922年は、マグリットの画家人生に大きな影響を与えるできごとが起こります。 詩人のマルセル・ラコントからジョルジョ・デ・キリコの『愛の歌』の複製を見せられ、マグリットは、「私の人生の中で最も感動的な瞬間の一つであった。私は初めて思考を目の当たりにした」とのちに語っています。 1923年から1926年ごろまでは、ポスターや広告デザイナーとして働いており、このころは、ロベール・ドローネやフェルナン・レジェなど、ピュリスムやキュビズムに影響を受けた作品を制作していました。 その後、ブリュッセルのル・サントール画廊と契約を結び、本職を画家としたキャリアをスタートさせました。 シュルレアリストとしての活躍 1926年、マグリットはキュビスムから決別し、初めてとなるシュルレアリスム絵画『失われた騎手』を制作し、1927年にはル・サントール画廊にて初個展を開催しました。 しかし、個展デビューは批評家の厳しい評価を受け、マグリットは落ち込み、パリへと向かいます。 パリでは、シュルレアリスムの創始者であるアンドレ・ブルトンやほかの芸術家たちと交流を重ねるようになり、シュルレアリスムグループに参加し本格的に絵画制作にのめり込んでいきました。 マグリットの描く作品は、ほかの芸術家たちと比べると幻想的で夢の中にいるようなイメージをもっていました。 その後、シュルレアリスムグループのリーダー的な存在となり、パリには3年間ほど滞在します。 1924年から1929年までは、マグリットの最も充実した時代といわれており、この期間に描かれた作品は、幻想的というよりもどこか不気味な雰囲気が漂っていました。 1929年には、パリのゴーマンズ・ギャラリーにて、サルバドール・ダリ、ジャン・アルプ、ジョルジョ・デ・キリコ、ジョアン・ミロ、パブロ・ピカソ、イヴ・タンギー、フランシス・ピカビア、マックス・エルンストらとともに展覧会を開催しています。 哲学と芸術の融合 1929年、マグリットは最後のシュルレアリスム革命展に、代表作となる『イメージの裏切り』を出品しました。 展覧会では、エッセイの『言葉とイメージ』も配布しており、平面作品と文字言語、視覚言語の関係性を挑発的に探求する今までにない革新的な作品を発表しています。 『イメージの裏切り』には、パイプの絵が描かれており、その下に「これはパイプではありません」と言葉が書かれています。 一見、タバコ屋の広告のようにも見えるこの作品に描かれているのはパイプの絵ですが、あくまでパイプを表現した絵であり、パイプそのものではありません。 マグリットは、イメージと対象の根本的な違いを強調したかったと考えられます。 このように、マグリットの芸術は、日常的なモチーフを採用しながらもそのものの一般的な使い方や見え方とは異なる状態になっているのが特徴の一つです。 ブリュッセルに戻り広告代理店を開業 1929年末、世界恐慌の影響を受けたル・サントール画廊は活動を停止してしまい、マグリットの収入も途絶えてしまいます。 また、パリでシュルレアリスムから関心のない態度をとられパリの芸術に幻滅したマグリットは、ブリュッセルに戻り、1934年に弟のポールとともに広告代理店「ドンゴ」を開業しました。 経済的に苦しい状況を立て直すために開業した広告代理店により、マグリットは安定した収入を得られるようになり、1934年から1937年にかけては「エメア」というペンネームで絵を描き、音響映画の配給会社トビス・クラングフィルムの広告にも採用されています。 1936年には、ニューヨークのジュリアン・レヴィ画廊にてアメリカで初となる個展を開催し、1938年にはロンドン画廊でも個展を開催しました。 この展覧会によりマグリットの名は世界中に注目されるようになり、評価が高まっていきました。 ロンドン滞在中には、建築も学んでおり、いくつか作品を制作するとともに、ギャラリーでは画家として講演を行い、芸術家としての地位を高めていったのです。 ルネ・マグリットの世界観と作風 マグリットは、シュルレアリスムの画家とも呼ばれていますが、シュルレアリスムの中でもさらに独特な作風が特徴の一つです。 現実と幻想を巧みに融合させ視覚的な驚きをもたらす作品を多く残しています。 シュルレアリスム シュルレアリスムとは、1920年代に巻き起こった芸術運動で、夢や潜在意識の世界を表現することを目的とした芸術です。 マグリットは、シュルレアリスムの運動に参加し、日常的な物体を通常とは異なる文脈で描き、鑑賞する者に現実の再考を促すような作品を制作しています。 そのため、マグリットの作品には不条理・矛盾したイメージ・シーンが多く登場し、観る者に大きなインパクトを与えています。 古典的な描法 マグリットは、古典的な描法を用いて絵画を制作しています。 筆触を残さないよう繊細に筆を使い、まるで写真のような精密さのある絵画を描いていました。 この技法により、作品に現実感を与えることで、奇妙な文脈のインパクトがさらに大きくなり、印象を強めていると考えられるでしょう。 マグリットの作品は、細部まで丁寧に描かれているのが特徴で、現実世界の物体や風景を精密に再現しています。 視覚的なパラドックス 多くのマグリット作品には、視覚的なパラドックスが登場します。 たとえば、同一人物が複数の場所に同時に存在しているようなシーンや、モチーフを実際とは異なる形状や大きさで描かれていることなどです。 このようなパラドックスは、鑑賞する者の視覚的認識に強い印象を与え、現実と幻想の境界をあいまいにしているといえます。 言葉とイメージの関係性 マグリットは、絵だけではなくイメージと言葉の関係性についても深く探求していました。 『イメージの裏切り』が有名ですが、それ以外にも『テーブル、海、果物』でも言葉とイメージを巧みに利用して作品を描いています。 絵を観てみると、通常であれば左からテーブルが木の葉、海がバター、果物がミルク壺と考えてしまうでしょう。 また、言葉も現実を表してはおらず、海といえば広大な青い水面をイメージしますが、マグリットの作品では、海の下にバターの塊が描かれているのです。 この作品も、マグリットの言葉とイメージの問題を再考させる代表的な作品の一つです。 年表:ルネ・マグリット 西暦 満年齢 できごと 1898 0 ベルギー、レシーヌにて誕生。 1910 12 母が自殺し、遺体が川で発見される。この出来事が彼の作品に影響を与える。 1916 18 ブリュッセルの美術学校に入学し、絵画を学び始める。 1926 28 初めての個展を開催。シュルレアリスム的な作品を発表し、注目を集める。代表作には『眠れる者たちの館』がある。 1929 31 『イメージの裏切り』を制作。この作品には「これはパイプではない」という有名な言葉が描かれており、視覚と言葉の関係について考察を促す。 1936 38 アメリカでの展覧会に出展し、作品が国際的に注目を集める。代表作『大家族』『光の帝国』などを制作。 1940年代 40代 第二次世界大戦中に様々な画風を試し、明るい色彩の作品を制作。 1954 56 ベルギー王立美術アカデミーで回顧展が開催され、ベルギーを代表する画家として広く認識される。 1967 68 ブリュッセルで死去。生涯を通じてシュルレアリスムを追求し、多くの後世の芸術家に影響を与える。
2024.11.09
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ジャン=ミシェル・バスキア(1960年-1988年)画家[アメリカ]
グラフィティの申し子と呼ばれた「ジャン=ミシェル・バスキア」とは ジャン=ミシェル・バスキア 生没年:1960年-1988年 ジャン=ミシェル・バスキアとは、グラフィティ・アートをモチーフにした作品で活躍したアメリカの画家です。 バスキアは、ストリート・アートを芸術の分野に押し上げ、世界に広めた重要なアーティストの一人です。 バスキアが亡くなったあとも、残された作品は高い評価を得て、人々に大きな影響を与えました。 一見、街中にあるような落書きに見える作品たちの背景には、貧富や黒人差別などに対する強い社会的メッセージが込められています。 幼いころにもらった『グレイの解剖学』 バスキアは、アメリカのニューヨーク市ブルックリンにて、プエルトリコ系移民の母とハイチ系移民の父の間に生まれました。 バスキアは、幼いころから絵を描いていたといわれており、これは母からの影響が大きかったとされています。 母は幼いバスキアを連れて、よく地元の美術館に行ったり、ブルックリン美術館のジュニア会員に登録させたりと、バスキアが美術に触れられる環境を熱心に作っていました。 バスキアは勉強もでき、4歳になるころには読み書きを習得したそうです。 ニューヨークのアート専門私立学校である聖アンズ学校に入学したバスキアは、友人となるマーク・プロッツォと出会い、2人で子ども向けの絵本を制作し、早くからアートに関する才能を表していました。 しかし1968年、7歳のころ、道路で遊んでいたバスキアは、車に轢かれる交通事故に遭ってしまいます。 腕を骨折、内臓破裂の重傷を負い、脾臓の摘出手術を受けるほどの大きなけがをしてしまいました。 母は、入院中のバスキアが退屈しないようにと、よく医学生が読んでいる『グレイの解剖学』という有名な本をプレゼントします。 『グレイの解剖学』には、学術書でありながらも図版が豊富にあり、この本がのちのバスキアのアートに大きな影響を与えたといわれています。 バスキアの作品でよく描かれている人体模型のようなモチーフは、幼いバスキアがみた解剖図が源泉といえるでしょう。 ユニット「SAMO」でスプレーペインティングを始める バスキアは、15歳のときに家出をし、ニューヨークのマンハッタンにあるトンプキンス・スクエア公園のベンチでしばらく過ごしていましたが、警察に逮捕されてしまい、父の保護観察下に置かれることに。 しかし、17歳のときに父がバスキアを家から追い出したため、友人の家に居候しながら、自ら作成したTシャツやポストカードを販売して生計を立てるようになりました。 その後、1976年に友人のアル・ディアスとともにSAMOというユニットを結成します。 SAMOは「SAMe Old shit(いつもと同じだよ)」という意味をもっており、2人は学校新聞にマンガを連載するといった活動からはじめ、やがてストリートでグラフィックアートを描くようになっていきます。 マンハッタンのダウンタウンの建物や壁、地下鉄などさまざまな場所にスプレーペインティングを施し、社会を風刺するバスキアの政治的かつ詩的な作品は、少しずつ注目を集めていくようになりました。 当時バスキアは、昼間はノーホーにあるアパレル倉庫で働きながら、夜になると街に出てスプレーペインティングを描く日々を続けていたのです。 また、ダウンタウンのナイトクラブの常連にもなっており、夜は多くのクラブにも出入りしていました。 ある夜、バスキアがいつものようにスプレーペインティングをしているとき、ユニーク・クロシングの社長であるハーベイ・ラッサックが偶然通りかかり、バスキアの才能を認め生活費をサポートするために仕事を依頼するようになります。 1978年には、雑誌「ザ・ヴィレッジ・ボイス」でSAMOの特集が組まれ、活動が世間に広まっていきました。 しかし翌年、ディアスとの関係を解消し、SAMOとしての活動も終了します。 その際は、ソーホーの建物の壁には「SAMO IS DEAD」の文字が描かれました。 キース・ヘリングをはじめとした仲間との親交 1979年、18歳のバスキアは、グレン・オブライエンが司会の番組「TV Party」に出演し、これをきっかけにオブライエンと親交を深めていったバスキアは、その後の数年間、定期的に「TV Party」に出演しました。 バスキアは、ニューヨークのスクール・オブ・ビジュアル・アーツ周辺でもグラフィックアートを制作しており、当時学生であったパフォーマンス・アーティストのジョン・セックス、ストリート・アーティストのケニー・シャーフ、キース・ヘリングらとも親交を深めていきました。 バンド「GRAY」を結成する 1979年、バスキアはヒップホップに通ずるマイケル・ホルマンとパーティーで出会い、「Test Pattern」というノイズロックバンドを結成しました。 バンド名はのちに、幼いころにみた解剖学の教科書『グレイの解剖学』からとって「GRAY」に改名されました。 メンバーには、シャノン・ドーソン、ウェイン・クリフォードなどがおり、当時彼らはCBGB、Hurrah、Mudd Clubなどの大きなクラブのステージでの演奏経験もあり、実力が認められていた人物です。 現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルとの出会い 高校を中退してオリジナルのポストカードやTシャツを販売して生計を立てていたバスキアは、20歳前後のときに運命的な出会いを果たします。 バスキアがソーホーでポストカードを売っていたとき、美術評論家のゲルドザーラーと現代アートの巨匠アンディ・ウォーホルを見かけ、バスキアは2人が昼食をとっていたレストランに押しかけポストカードを売りつけました。 突然のできごとで、ゲルドザーラーは若すぎると興味を示しませんでしたが、ウォーホルはバスキアの才能を認め、1ドルでポストカードを購入しました。 この出会いがきっかけとなり、のちに共同制作を行うまでの関係性になります。 のちに、美術商のビショフベルガーが、バスキアとウォーホルのランチをセッティングすると、2人はすぐに意気投合。 ウォーホルは、ポラロイドカメラで2人のセルフポートレートを撮影します。 ランチを終えて帰宅した後、バスキアは写真をもとに2時間ほどで2人の絵を描き、ウォーホルのもとに送ったそうです。 絵を受け取ったウォーホルは、のちに絵はまだ濡れていたと当時の様子を語っています。 アーティストとして名声を得る バスキアは、親交を深めていたオブライエンの縁により「Graffiti '80: The State of the Outlaw Art」へ出演し、少しずつ世間から認知されるようになるとともに名声が全米に広がり始めていきました。 1980年、「タイムズ・スクエア・ショー」という展覧会に参加したバスキアは、ジェフリー・ディッチをはじめとした多くの批評家やキュレーターに注目されるようになり、ディッチは雑誌「アート・イン・アメリカ」にて、バスキアへの評価を綴っています。 さらに翌年、現在MoMAニューヨーク近代美術館に統合されているニューヨークの P.S.1で開催された「ニューヨーク/ニューウェーブ」展に参加し、大きな存在感を発揮しました。 この展覧会をきっかけにイタリアでの個展や売却が行われるようになりました。 1982年には、国際的なアートフェア「ドクメンタ」にも参加しており、21歳で当時史上最年少として参加したバスキアの記録は、現在も破られていません。 著名アーティストとの関係 1983年、美術商のビショッフフェルガーは、翌年1984年に開催されるロサンゼルス夏季オリンピックを記念するための作品として、バスキアやウォーホル、イタリア人アーティストのフランチェスコ・クレメンテに共同制作を依頼します。 また、ドクメンタに参加した後、バスキアは独立したばかりのディーラーであるラリー・ガゴシアンが作ったスペースをスタジオとして利用し、制作を行っていました。 のちに、ガゴシアンはバスキアの作品の力を借りつつも、世界有数のギャラリーへと成長していきます。 さらにバスキアは、当時まだ無名だったマドンナとも付き合っていました。 そのほかにも、グラフィティ・アーティスト仲間のポートレートを描いたり、ラッパーとして活動していたRammellzeeやK-Robのレコードデザインを担当したりと、さまざまな方面に活動や交友を広げていました。 22歳のときには、ホイットニー・ビエンナーレへの参加やコム・デ・ギャルソンとのコラボなど、大きなプロジェクトをいくつも手がけ、さらに人気が高まっていきます。 オーバードーズによる早すぎる死 1985年ごろ、ポップアート界のスターの地位に昇りつめ、名声を手にしたバスキアは、年間140万ドルほど稼いでいたといわれています。 しかし、成功の陰でバスキアの精神状態は大変不安定なものになっていました。 稼ぎが増え人気が高まっていくほど、プレッシャーも大きくなっていき、ヘロインに溺れるようになってしまったのです。 1986年ごろ、当時ガールフレンドだったジェニファー・グッドとともに、ヘロインへの依存を高めていき、中毒に拍車がかかったと考えられています。 また、1987年にウォーホルが亡くなったことで、バスキアはより一層孤独を深め、薬に依存していきました。 うつ病も悪化し、ハワイのマウイにて静養していましたが、ノーホーのスタジオに戻り1988年8月、ヘロインのオーバードーズにより、27歳という若さで人生の幕を下ろしました。 バスキアが描いた3つのシンボル バスキアの作品には、社会的なメッセージが込められているものも多くあります。 また、特定の意味をもったモチーフが繰り返し登場するのも特徴の一つです。 王冠 バスキアは、王冠のモチーフを好んでよく描いていました。 王冠は、権力や支配の象徴といった意味あいに解釈されることが多くあります。 バスキアは、黒人のアーティストとして、社会の不平等さや人種差別などの問題に強い関心を抱いていたことから、作品でよく権力問題へのメッセージを表現していました。 王冠のモチーフは、支配的な存在や権力に対する挑戦の意思を表現するために描かれ、不正義に対する抗議の象徴であったと考えられます。 また、王冠はアフリカの王や神話的な存在と関連しており、バスキア自身もアフリカ芸術の影響を受けていたことから、アフリカの伝統的な王権の象徴である王冠を描いていたともいわれています。 スカル バスキアの作品のモチーフを思い浮かべたとき、真っ先にイメージされるのがスカルのデザインではないでしょうか。 バスキアが人体の構造に興味をもつきっかけとなったのは、幼いころに事故で重傷を負い入院していたころに読んだ『グレイの解剖学』であるといわれています。 また、頭蓋骨はアフリカ文化圏で行われるブードゥーと呼ばれる儀式を想起させるものでもあり、バスキアはアフリカ芸術の影響を受けていたため、よくスカルのモチーフを描いていたとも考えられるでしょう。 黒人アーティストとしてのレッテルに悩んでいたバスキアは、肌の色に関係ない頭蓋骨をはじめとした皮膚の下の人体構造を描くことで、人種差別に対する強いメッセージを送っていたのかもしれません。 テキスト バスキアの作品には、絵だけではなくテキストも多く描かれており、ほとんどテキストだけで構成されている作品もあるほど、テキストにこだわりを見せています。 テキストの内容は多岐にわたり、お金やモノの価値に関する文章や、商品名、器官の名称、アーティストの名前、社会に向けたメッセージなどがあります。 バスキアは、さまざまなテキストを規則的に並べたり、繰り返し書いたり、ときにはバラバラに配置したりして作品を制作しました。 テキストは説明文としての役割ではなく、視覚的な要素の一つとして用いられています。 文章ではなく、いくつもの単語から生まれる意味や再構築された文が生み出すイメージを表現したのです。 黒人アーティストのレッテルと葛藤 ストリート・アーティストとして名声を手に入れたバスキアですが、自信が黒人アーティストとしてのレッテルを貼られることを大変嫌っていたそうです。 バスキアの作品に、黒人差別をテーマにしたものが多く残されていることからも、黒人アーティストと呼ばれることに悩み、抗議していたことが分かります。 バスキアは、初期のころから黒人差別や人種問題などへ強い関心や共感をもち、作品によって表現していました。 そのため、バスキアの作品には黒人ミュージシャンや黒人のスポーツ選手、歴史上の黒人の政治家や指導者などが、たびたび登場しています。 しかし、バスキアの活躍は黒人アーティストであったからこそ、黒人の音楽や歴史、文化、スポーツなどをテーマにした作品を制作でき、世間から評価を得られたという側面をもっており、そのためバスキアはより一層黒人アーティストとしての立ち位置に葛藤していたと考えられるでしょう。 バスキアが制作した作品の特徴 スプレーペインティングから始まったバスキアのアートには、主に3つの特徴があります。 一見、落書きにも見えてしまう作品の鑑賞を楽しむためには、特徴を理解し、鑑賞時に注目してみるとよいでしょう。 文字や記号を用いた作品 バスキアの作品には、記号や文字が多く描かれている特徴があります。 たとえば、人種差別に関する内容、聖書の引用、社会を強く批判するメッセージなどです。 また、文章としてではなく、単語や記号などを断片的に用いているのも特徴の一つです。 絵と文字や記号を融合させたアートは、グラフィティ・アート出身のバスキアならではの表現方法といえるでしょう。 解剖学からインスピレーションを受けた作品 バスキアの作品には、解剖学からインスピレーションを受けたであろうものが多くあります。 幼いころにみた『グレイの解剖学』がきっかけとなり、解剖学的なドローイングを行うようになり、バスキアの作品には、スカルや人体構造などがたびたび登場しています。 挑発的二分法を用いた作品 バスキアは、挑発的二分法と呼ばれる手法を用いた作品を多く制作しています。 挑発的二分法とは、一つの作品の中に黒人と白人、富裕層とホームレスなど相対する2つの要素に焦点をあてて描き、対比を強調する表現方法です。 社会への批判的なメッセージを作品で多く表現していたバスキアは、よく挑発的二分法を用いて社会へのメッセージを表していました。 年表:ジャン=ミシェル・バスキア 西暦 満年齢 できごと 1960 0 ニューヨーク市ブルックリンで誕生。母親はプエルトリコ系、父親はハイチ出身。幼少期から絵に親しみ、母親の影響で美術館に通う。 1968 7 車にはねられ、脾臓を摘出する大けがを負う。入院中に母から解剖図『グレイの解剖学』を贈られ、後の作風に影響を与える。 1976 15 SAMO(セイモ)という名前でグラフィティアートを開始。ニューヨーク市内の壁や建物にメッセージ性のある言葉や絵を描き、注目される。 1978 17 高校を中退し、家出。生活費を稼ぐために自作のポストカードやTシャツを販売し始める。この頃、アンディ・ウォーホルやキース・ヘリングといったアーティストとも出会う。 1981 20 グラフィティアートがアート界で注目され始め、『ザ・ヴィレッジ・ヴォイス』紙に取り上げられる。アートコレクターやギャラリーからの関心を集め、ロサンゼルスで初個展を開催する。代表作には『アンディ・ウォーホルの肖像』『無題』などがある。 1982 21 国際的に評価が高まり、ニューヨーク近代美術館の展覧会にも参加。同年、代表作『頭』を発表し、抽象と具象を融合させた独自のスタイルを確立する。 1983 22 アンディ・ウォーホルと本格的に親交を深め、共同作品も制作。代表作『ドス・カラベラス』や『フレックス』などを制作し、商業的にも成功を収める。 1985 24 ウォーホルとの共同作品が評価される一方で、「商業主義に屈した」と批判を受けることもある。この頃、『無題(悪魔)』を含むダークなテーマの作品も発表。 1988 27 精神的な孤立が深まり、薬物依存に悩む。代表作『王冠』を発表するが、8月12日、ヘロインの過剰摂取により自宅で死去。彼の死は多くのファンやアーティストに衝撃を与えた。
2024.11.09
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