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ロベール・ドローネー(1885年-1941年)画家[ロシア]

オルフィスム運動の共同創設者「ロベール・ドローネー」とは

生没年:1885年-1941年
ロベール・ドローネーは、20世紀前半に活躍したフランスの画家で、ロシア出身の画家であるワシリー・カンディンスキーや、オランダ出身の画家ピエト・モンドリアンなどと並び、抽象絵画の先駆者としても知られています。
また、ロシア帝国生まれの妻のソニア・ドローネーもパリで活躍した画家の一人です。
オルフィスム運動の共同創設者としても有名で、オルフィスムという言葉は、1912年のセクション・ドール展で詩人のギヨーム・アポリエールによって紹介されたものですが、実践し技法を完成させたのは、ロベールであるといわれています。

8歳ごろ画家になると決意する

ロベールは、パリにてジョージ・ドローネーとフェルティ・ド・ローズ伯爵夫人の間に生まれた子どもです。
小さいころに両親が別れ、ブールジュ近郊のラ・ロシェールにて母方の叔母であるマリーと夫のチャールズ・ダムールがロベールの面倒をみました。
8歳ごろ、画家になる決意をしたロベールは、パリのベルヴィル地区に移り住み、叔父であるロンサンのもとで装飾美術を学びます。
本格的な絵画教育は受けていませんでしたが、ゴーギャンやスーラ、セザンヌなどの絵画を研究し制作を始めました。
19歳になるころには、ロンサンのもとを離れ絵画制作に専念するようになり、1904年にサロン・ド・アンデパンダンに6点の作品を出品し、画壇デビューを果たします。

その後は、ブルターニュを旅している間にポン=タヴァン派から影響を受け、1906年には第22回サロン・ド・アンデパンダンにて、ブルターニュで描いた作品を出品しました。
また、ロベールは、フランスの化学者であり色彩理論家のミシェル=ウジェーヌ・シュヴルールの色彩の同時対照に関する理論からも影響を受けています。

1907年のはじめには、ベルテ・ウェイルが運営する画廊で一緒に展示を行っていたジャン・メッツァンジェと交流を深め、2人は美術批評家のルイス・ヴォクセルからモザイク状の立方体で絵画を構成する分割主義の画家と評価されました。

キュビズム運動へ参加する

1908年、連合軍の司書として軍隊に勤務していたロベールは、未来派として活動していた作家のソニア・テルク と出会い、1910年に結婚しました。
1909年ごろからは、キュビズム運動に参加するようになり『エッフェル塔』や『サン・セヴラン寺院』などの連作を制作しています。

また、ピュトー派と呼ばれるキュビズム志向をもつグループとも交流を深め、ジャック・ヴィヨンやフランシス・ピカビアとも親交をもちました。
ロベールは、ポン=タヴァン派や新印象主義などにも影響を受けていたため、これまでのキュビズムにはなかった鮮やかな色彩を用いて、キュビズム以降の抽象絵画に大きな影響をおよぼしました。

カンディンスキーの誘いにより、ロベールはミュンヘンをメインに活動する前衛運動青騎士にも参加。
1911年ごろからは、ロベールの作風の抽象化が進み、ドイツやスイス、ロシアなどフランス以外の国々からも評価されるようになりました。
ロベールは、ミュンヘンのブラン・レイターの展示にて4点の作品を販売し、青騎士から熱狂的に受け入れられたそうです。

キュビズムの異端者と批判されオルフィスム運動を創設する

当時のフランス美術界では、キュビズムが大きな力をもっていましたが、ロベールは、キュビズムの色彩排除や動的要素の少なさなどに対して批判的でした。
一方、キュビズム側からは、ロベールの作品は印象派や装飾絵画に回帰していると批判され、キュビズムの異端者とも呼ばれていました。
しかし、キュビズム派からの批判を受け、ロベール自身は反対に自分の芸術性の方向性を見いだせたと語っています。

1912年ごろにキュビズムを脱退したロベールは、アポリネールの後押しもあり、オルフィスム運動の作家として知られるようになっていきました。
1914年までは、光学的特性にもとづいたダイナミックかつ鮮やかな色彩で、非具象的・非自然的で非形態的な絵を多く描いています。
実際には、ロベールが自分の直感に従った純粋芸術でしたが、この色彩理論は、オーガスト・マルケやパウル・クレーなど青騎士の画家に大きな影響をおよぼしました。

第一次世界大戦時はスペインに避難する

1914年に第一次世界大戦が始まると、ロベールとソニアはスペインのフォンタラビーへと避難しました。
その後フランスには戻らず、マドリードで生活を送り、1915年にはポルトガルに移り、サミュエル・ハルパートとエドアルド・ヴィアナと家を共有しました。
ロシア革命が発生すると、ロシアで暮らすソニアの家族が受けていた財政的支援が打ち切られてしまい、2人は別の収入口を探すことに。
1917年、ロベールはマドリードでセルゲイ・ディアゲルフと知り合い、舞台「クレオパトラ」の舞台デザインの仕事を引き受けます。

その後、1920年代には、アンドレ・ブルトン、トリスタン・ツァラなどのシュルレアリスムやダダイスムとも親交をもつようになり、1921年にパリへ戻ると抽象画をメインにした絵を描き続けました。
1937年に開催されたパリ万博博覧会 では、ロベールは鉄道や航空旅行に関連したパビリオンのデザイン制作に参加しました。

妻のソニア・ドローネーも画家として活躍

ロベールの妻であるソニアも、フランスのパリで活躍した画家の一人です。
サンクトペテルブルクで芸術や外国語の教育を受けたソニアは、1903年、18歳のころにドイツへ留学し、カールスルーエの美術学校で絵を学びました。
その後、1905年にパリへ移住し、ドイツの美術コレクターでギャラリーオーナーでもあるヴィルヘルム・ウーデと結婚します。
しかし、この結婚は、ソニアにとっては持参金を使えるようにするため、ウーデにとっては自分が同性愛者であることを隠すためと、戦略的な結婚だったのです。
ウーデを通じてピカソやジョルジュ・ブラック、モーリス・ド・ヴラマンクなどパリで活躍する画家たちの面識を得たソニアは、1908年ごろにロベールと出会い恋人となったため、1910年にウーデと離婚し、ロベールと結婚しました。
ソニアは、結婚前から刺繍のタペストリーを手がけ、応用芸術へと活動の幅を広げていました。
第一次世界大戦が勃発してからは、マドリードで暮らしながら室内装飾やモードのメゾン「カーザ・ソニア」を開催したり、舞台衣装の仕事も手がけたりしています。
1921年にパリへ戻ると、前衛芸術家たちが集まるアパルトマン内で「アトリエ・シミュルタネ」を開き、ソニアはテキストスタイル制作を本格的に開始しました。
1925年に現代産業装飾芸術国際博覧会が開催された際には、テキストスタイルや服、スカーフなどを展示しています。
シンプルでありながら豊かな色彩で個性を発揮するメゾン・ソニアの洋服たちは、芸術を日常生活にという発想で創られています。
当時話題を集めていたココ・シャネル、ジャンヌ・ランヴァン、マドレーヌ・ヴィオネらとは異なる存在として、モダニティのパイオニアやヴィジョネアなどと称されました。

ロベールがけん引したオルフィスムとは

ロベールがけん引したオルフィスムとは、1910年代にキュビズムから派生した芸術運動や、この様式を用いた画家の一派を指しています。
アポリネールが新しい芸術家の誕生を予感させる運動として、キュビズムを4つに分類したことから始まり、その一つがオルフィック・キュビスムです。
視覚上の現実ではなく、芸術家によって創造された現実性を与えられた現実にもとづき、新しいものの全体を描く芸術と定義されたオルフィック・キュビスムには、ロベール、レジェ、ピカビアなどが含められ、オルフィスムの誕生につながったとされています。

 

年表:ロベール・ドローネー

年号 満年齢 できごと
1885412 0 フランス・パリに生まれる。
1903 18 画家になることを決意し、ゴーギャン、スーラ、セザンヌなどを研究し、制作活動を始める。
1904 19 サロン・ド・アンデパンダンに6点の作品を出品し、画壇デビューを果たす。
1906 21 22回サロン・ド・アンデパンダンにて、ブルターニュで描いた作品を出品。
1909年頃 24 キュビズムの運動に加わり、連作作品『エッフェル塔』『サン・セヴラン寺院』の制作を始める。
1910 25 ウクライナ出身の女流画家ソニア・テルクと結婚。
1911 26 第1回「青騎士展」へ出品する。
1912 27 キュビズムを脱し、『窓』の連作などを制作し始める。
1914年~1918 2934 妻ソニアと第一次世界大戦中、数年間をスペインやポルトガルで過ごす。
1921 36 パリに戻り、抽象画をメインにした絵を描き続ける。
1937 52 パリ万博博覧会の航空館と鉄道館のフレスコ画『リズムNo1-No3』を制作。
19411025 56 モンペリエで癌のため没する。遺体は1952年にイヴリーヌ県ガンベーに再埋葬され、1979年に亡くなったソニア夫人も共に埋葬されている。
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