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伊東深水(1898年‐1972年 )画家[日本]

伊東深水は幼いころに、父親が娯楽に走り生活が困窮。
小学校を中退し就職します。
絵画に興味をもった深水は、清方に入門。
仕事をしながら、夜は学校に通い、深夜に絵を描く生活を送ります。
努力を惜しまなかった深水は、展覧会で数々の賞を受賞します。
伝統的な浮世絵を受け継ぎながら、朦朧体を美人画に応用。
数々の作品を描き、人気を集めました。

伊東深水とは

生没年:1898年‐1972年
本名は伊東一、大正昭和を代表とする画家です。
日本画家や版画家、浮世絵師として活動。
浮世絵師の一流派である歌川派の正統をついており、日本画特有の優しい表現の美人画が有名です。
本妻である好子をモデルに描いた数々の大作は、高く評価されています。

生活が困窮していた少年時代

深水は、苦しい子ども時代を過ごします。
1898 年に現在の東京都江東区で、誕生した深水。
深水の幼少期は家庭が裕福で、可愛がられて育てられます。
1905 年には、東川国民学校(現在:江東区立東川小学校)に入学し、後に洋画家となる関根正二に同級生として出会います。
ところが、小学校に入学したころから父親が道楽に走り失業してしまうのです。
一家離散するほど生活が困窮したため、深水は小学校3年生で中退します。
中退し就職した先が東京印刷株式会社の深川分工場です。
水彩画家である丸山晩霞を師匠にもつ吉川恭平と出会い、水彩画を習い始めます。

しかし、深水は、蒔田禾湖の『小春』に影響を受けて日本画に興味をもつようになりました。
そこで日本画家である山中秋湖に日本画を学びます。

1911 年に深水は、本社の図案部研究生となります。
明治から昭和にかけて活動していた日本画の鏑木清方に入門するため、図案部部長で清方の同門だった秋田桂太郎に紹介してもらうのです。
清方への入門は、師の温厚により月謝は免除され、夜学の実業補習学校に入学。
このとき深水は13歳でした。
日中は工場勤務、夜は学校、深夜に絵を描く生活を送ります。
師である清方の恩に報いるため、寝る間も惜しんで努力を続けた水深は、毎週日曜日に自分の作品を抱えて、清方の元へ通い続けます。

数々の展覧会で入賞

努力をし続けた深水は、清方入門の翌年の1912 年に成果が表れます。
第十二回巽画会展で初入選した作品が『のどか』です。
その翌年には、『無花果のかげ』が入賞します。
1914 年には、再興第1回院展で『桟敷の女』が入選し、9歳からお世話になった東京印刷を退社します。
その後も1915 年に開催された第9回文展で『十六の女』が初入賞してからは、毎年のように数々の展覧会で活躍をしました。

1916 年には、渡辺版画展から第1作『対鏡』を発表、東京日日新聞に挿絵を描くなど、仕事の幅を広げていきます。
3年後の1919 年に深水は、好子と結婚をして長男と次男をさずかります。

美人画への悪評・美人画狩り

1915 年から美人画の悪評や美人画狩りが始まります。
第9回文展で、美人画の入選が増えたことにより、南画、美人画、土佐絵などのジャンルに陳列室が別れて展示が開始されます。
美人画は第3室に集められ、深水の『十六の女』や池田輝方、伊藤小坡、増田垣富などの作品、65点 が展示されました。
しかし、美人画に対して「審査員の好色な美人画」「女の媚態を描いた低級な娯楽趣味」「官能的な俗画」などの悪評を浴びせられます。
翌年の1916 年に明確な美人画狩りが始まり、ことごとく美人画は落選していきました。
深水は自身の美人画を徹底的に批判されて、文展と院展には応募しなくなります。

朦朧体を美人画で表現

深水は、華やかな文展や院展などの出品を控えており、いつの間にか7年も経過していました。
しかし、臥薪嘗胆の努力をした7年間は深水にとって重要な時間となります。
当時、院展内で流行っていた線を描かない色彩画である「朦朧体」を習得し、朦朧体を美人画に応用します。

生命力ある「水深風美人画」

大震災後、新築の家の装飾に花鳥画が選ばれるほど、人気になります。
人物画家までもが花鳥画を描き始め、深水は危機感を覚えます。
人物画の振興を目指し1932 年に立ち上げた組織が「青々会」です。
深水は第1回展に『暮方』、第2回展に『宵』、第3回展に『麗日』と毎年傑作を発表しました。

時代は日中戦争から太平洋戦争へと変化します。
深水は、時代の流れが激しい中で生きる健康でエネルギーのある現実的な女性を、時代の証人として描きたかったのでしょう。
今までの美人画の特徴でもある麗しさではなく、自然であるにもかかわらず女性らしい美しさが深水の美人画では表現されています。

伊東深水の華やかで気品のある画風

深水は数々の美人画を世に生み出しましたが、本妻の好子をモデルとした作品『指』『湯気』は、特に注目されました。
『指』と『湯気』は朦朧体を美人画に応用した深水の作品です。
深水は、モデルに風通しのよい薄い織物である薄物をまとわせて、リアルな女性の色っぽい肉体美を表現しています。

『指』は、観客で人だかりできるほどの人気があり、飛ぶように絵葉書が売れたそうです。
1922 年に平和祈念東京博覧会で二等銀牌を受賞するほどの作品でしたが、清方には「気品がない」といわれてしまいます。

そこで描いたのが、『湯気』です。
湯上りの浴衣姿の女性が、浴衣の袖をくわえて手拭いを絞る様子が湯気とともに色っぽく描かれた美しい作品です。

浮世絵を受け継ぎながら、現代の風俗にも挑戦した水深は、多くの名作をこの世に残していきます。
日本美術の歴史に大きな功績を残した水深の作品は、現代でも多くのファンを魅了し続けています。

伊東深水の代表作

深水がこの世に残した作品は数多くあり、特に美人画を好んで描いていました。
深水の作品は、どれも人気があり、高く評価されています。
切手にもなって愛された作品に『吹雪』、『三千歳』などがあります。

『吹雪』

1947 年に描かれた『吹雪』は、深水が生涯を通して描いた「傘美人」の代表作です。
激しい吹雪の中、座敷へ急ぐ芸者の美しい姿が描かれています。
蛇の目傘や女性、粉雪が朦朧体で表現され、優しいタッチの中に女性の心の強さが感じられる素晴らしい美人画です。

『三千歳』

三千歳は、歌舞伎「天衣粉上野初花」の6幕目に登場するヒロインの遊女です。
罪人で終われる身となってしまった片岡直次郎が、病のために療養している恋人の三千歳もとへ別れを告げるため、訪ねに行く場面です。
切なげな表情で鏡の前に座り、直次郎を思い待ちわびている姿が描かれています。

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