アール・ヌーヴォーの旗手「アルフォンス・ミュシャ」とは
生没年:1860年-1939年
アルフォンス・ミュシャは、アール・ヌーヴォーを代表する画家で、装飾パネルやポスター、カレンダーなどを多く制作しています。
星や宝石、草花などのさまざまな概念を、女性の姿で表現するスタイルが特徴的で、華麗な曲線美が魅力の一つです。
幼いころは音楽も好きだった
ミュシャは、オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェという小さな村で、裁判所の官吏の子として生まれました。
大変謙虚で倹約家であった家族の元に誕生し、母は製粉業者の娘でした。
ミュシャは、幼いころからドローイングの才能を発揮しており、ミュシャの絵をみた地元の商人が大変感銘を受け、当時まだ絵を描くための紙は、ぜいたく品であったにもかかわらず、無料で分け与えてくれるほどだったそうです。
また、幼いころのミュシャは、音楽にも関心を寄せており、1871年には、ブルノにあるサン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊に参加し、熱心な信仰者となりました。
のちにミュシャは、「絵画の概念と教会へ通うことと音楽は密接に関係していて、音楽が好きだから教会に通っているのか、教会が好きで音楽も好きになったのかはっきりとはわからない」と語っています。
プラハの美術アカデミーに入学を拒否される
1878年、18歳になったミュシャは、プラハの美術アカデミーに入学を希望しましたが、学校側からほかに君にふさわしい職業を探しなさいと入学を拒否され、書類審査で落選してしまいます。
1880年、19歳でオーストリアのウィーンへ向かうと、ウィーン劇場で舞台装飾の仕事を担っているカウツキー=ブリオン=ブルクハルト工房の求人広告を発見し、見習いとして働くことに。
ウィーン滞在中は、美術館や教会、宮殿、劇場などに通い、特に仕事の得意先が劇場であることから、工房の師匠からチケットをよくもらい、無料で鑑賞していたそうです。
また、ミュシャは工房で働きながら、夜間は絵画教室に通い、デッサンを学ぶ日々を過ごしていました。
この時期にミュシャは、ウィーンで人気を集めていたアカデミックな画家ハンス・マカルトから大きな影響を受けています。
マカルトは、ウィーンにある宮殿や政府の建築物の壁に大きな壁画を描いたり、壮大な形式で歴史画や肖像画を描いたりする巨匠として知られていました。
この芸術様式に影響を受け、ミュシャはその後方向性を変え、制作する作品に大きな影響を与えていったのでした。
工房の得意先が焼失して失業する
1881年の終わりごろ、工房の最大の得意先であったリング劇場が焼失してしまい、ミュシャは仕事を失ってしまいます。
失業したミュシャは、モラヴィアの南部にある国境の町ミクロフへ行き、フリーで装飾芸術や肖像画を描き、墓石に刻む文字制作などを行い、生計を立てるようになりました。
ミュシャの作品の評判は、徐々に高まっていき、地主であるエドゥアルド・クエン・ベラシから、邸宅であるエマホフ城の壁画シリーズの制作を依頼されます。
その後、ガンデック・カーストのチロルにある先祖代々受け継がれてきた家に飾る絵画制作の依頼も受けました。
当時すでに神話をモチーフにした女性の形態や青々と美しい草花の装飾画を描き、才能を発揮していました。
ベラシ自身もアマチュアの画家であったことから、ヴェネツィア、フィレンツェ、ミラノでの美術鑑賞にミュシャを連れていったり、バイエルンで有名なロマンティシズム画家のウィルヘルム・クレイをはじめとした多くの芸術家たちにミュシャを紹介したり、さまざまなサポートをします。
伯爵の後押しを受けてミュンヘン美術大学に入学
1885年、 エゴンはアカデミックな芸術教育をミュシャに受けさせるために、ミュンヘン大学への入学を勧め、授業料と生活費を支援するパトロンとなりました。
大学では、ドイツの画家であるルートヴィヒ・ヘルテリッヒやルートヴィヒ・フォン・レフツ教授などから絵を学び、デッサン技術を着実に身につけていきます。
移住制限によりパリへ移り住む
ミュシャは、チェコの学生クラブを創設し、プラハの民族主義的出版物をはじめとした政治的なイラストを掲載していました。
ミュンヘンの芸術性にあふれた環境を満喫していたミュシャでしたが、長居できるものではないと悟っていました。
当時、ババリン当局が外国人学生や居住者に対して、移住を制限する政策を打ち出しており、 ブラシはミュシャにローマかパリに移動するよう提案し、ミュシャは ブラシからの支援を受けながら1887年にパリへ移り住みます。
パリで入学した2つの学校で異なるスタイルを学ぶ
パリへ移住したミュシャは、アカデミー・ジュリアンで学んだあと、アカデミー・コロラッシにも通っています。
1889年の終わりごろ、ミュシャが30歳になると、 ブラシはミュシャが十分な美術教育を受けられたとして、奨学金を打ち切る決断を下しました。
打ち切りの理由は明かされていませんが、いつまでも ブラシに頼って学生生活を続け、画家として独立を考えないミュシャに対して、自立を促すためであったと考えられています。
ミュシャは、突然パリで極貧状態となり、住む場所にも困っていたため、大規模な スラヴ共同体のサポートを行っている避難所を発見し利用します。
その後、ミュシャは、グランド・ショミエール13通りにある、クレムリと呼ばれる寄宿舎に住みました。
イラストレーションで高く評価される
ミュシャは、ミュンヘン出身のチェコの画家ルーデック・マロルドが、パリで雑誌のイラストレーションを手がけ成功したことを知り、同じ道を歩もうと考えます。
1890年と1891年に、ミュシャは毎週小説を掲載している人気週刊誌「ラ・ヴィー」で、イラストレーションの仕事をスタートさせました。
ミュシャがイラストを担当したのは、ギ・ド・モーパッサンの小説『ユースレス・ビューティ』で、1890年5月22版にて表紙になっています。
そのほかにも、若者向けの物語を雑誌や本で出版しているル・プティ・フランセ・イラストでイラストレーションも描きました。
この雑誌では、フランコ・プロイセン戦争のシーンをはじめとした、歴史上で起こったさまざまな事件の劇的なシーンを切り取り、イラストレーションを描いています。
ミュシャのイラストは、人気となり、定期的な収入が入ってくるようになったため、ミュシャは、音楽趣味のハーモニカやカメラを購入しました。
カメラは、自分や友人を撮影したり、参考となる絵の構図を作ったりするために利用されました。
その後、ミュシャはポール・ゴーギャンと出会い、一定期間アトリエを共有して制作活動をしています。
1894年の秋には、劇作家のアウグスト・ストリンバーグと交流を深め、哲学や神秘主義に興味を抱くようになりました。
ミュシャのイラストレーションの仕事は、書籍の仕事にもつながっていき、歴史家チャールズ・セニョボスが書いたドイツ史のシーンやエピソードを表現したイラストレーションを依頼されるようになりました。
『ジスモンダ』のポスターで大成功をおさめる
1894年の終わりごろ、当時雑誌のイラストレーションや広告の仕事で生活していたミュシャは、印刷業者のルメルシエから大女優サラ・ベルナールが主役の芝居『ジスモンダ』のポスター制作を急遽依頼されます。
すでにパリのルネサンス座で公演されていた劇作家ヴィクトリアン・サルドゥの演劇『ジスモンダ』が大成功をおさめており、クリスマス休暇後に公演期間を延長することになっていました。
その宣伝用のポスターの制作に、ミュシャが抜擢されたのでした。
実は、ミュシャは過去にベルナールに関連するイラストの仕事をしており、1890年にクレオパトラのパフォーマンスをするベルナールを描いています。
また、『ジスモンダ』開演時には、雑誌『Le Gaulois』の特別クリスマス付録のベルナールのイラストを制作していました。
公演期間延長の宣伝用ポスターは、急ぎの仕事であったため、ミュシャは大慌てでデザインを仕上げ納期に間に合わせたそうです。
1895年の元旦からパリの街頭に貼りだされたベルナールのポスターは、大きな反響を生み、ミュシャは一夜にして人気者となりました。
ベルナール自身もポスターに大変感激し、1895年と1896年の間でポスターを4000枚発注し、ミュシャ自身とも6年間ポスター契約を結びました。
ポスターの背景に描かれているアーチは、ミュシャのスタイルを表す特徴の一つとなり、以後の演劇ポスターの制作では必ずといっていいほど描かれています。
商業用ポスターで、一躍有名人となったミュシャは、次に装飾パネルの制作も手がけるように。
アメリカでは注文肖像画を描く
1904年、ミュシャはアメリカの招待により3月から5月まで滞在し、アール・ヌーヴォーの旗手としてメディアに取り上げられ、手厚い歓迎を受けました。
滞在中は、ニューヨークやフィラデルフィア、ボストン、シカゴなどを巡り、上流階級の注文肖像画を描いています。
また、ポスターやデザインなどの装飾作品や壁画作品なども制作しています。
かなりの数を制作していたそうですが、パリ時代に描かれた名作や代表作となるものは、アメリカ時代ではあまりみられませんでした。
ミュシャが最初の招待以降もアメリカに滞在していたのは、資金集めの目的があったからといわれています。
ミュシャは、パリ時代に スラヴ民族1000年にわたる大叙事詩を、いつか絵で表現することを思い描いており、そのための資金集めだったといわれているのです。
プラハに戻り国のために芸術を捧げる
1910年、ミュシャはチェコのプラハに戻ると、国のために芸術を捧げる決意をします。
プラハ市長の公館に装飾壁画を制作し、その後さまざまな街のランドマークの制作を手がけました。
思い描き続けてきた『 スラヴ叙事詩』を描くためのアトリエを兼ね、西ボヘミアのズビロフ城に住み、作品制作を開始しました。
『 スラヴ叙事詩』は、6m×8mと巨大な作品で、1912年に最初の3点が完成し、1926年にシリーズすべてが完成。
最終的に、 スラヴ民族の歴史とチェコ人の歴史を10点ずつ合計20点の大作となりました。
第一次世界大戦後にオーストリア=ハンガリー帝国からチェコスロヴァキアが独立した際、ミュシャは、新しい国家の公共事業にもかかわるようになり、プラハ城をモチーフにした郵便切手や通過、国章などのデザインや制作を行いました。
晩年、1936年にパリの美術館にてチェコ出身の画家クプカとともに二人展が開催。
この時期、最後の大作といわれているミュシャが描いた理想の世界『理性の時代』、『英知の時代』、『愛の時代』の3部作の構想が練られますが、作品が完成することはありませんでした。
1939年、ミュシャは 肺感染症によりプラハで息を引き取りました。
アルフォンス・ミュシャが描く美しい女性たち
ミュシャが描いてきた作品では、女性の美しさが際立ち、女神のような神秘的な空気感をまとっています。
華やかで目を引くミュシャの作品は、芸術の域だけにとどまらず商業用のデザインとしても親しまれました。
商業芸術であるリトグラフによる巧みな表現
ミュシャの代表作となるポスターや装飾パネルは、リトグラフと呼ばれる技法で描かれています。
リトグラフとは、石版画とも呼ばれるもので、複雑な線や色合いをイメージ通り表現できるのが特徴です。
ミュシャが手がけるリトグラフでは、太い曲線と細い曲線が巧みに使い分けられており、それまでの商業デザインではみられなかった、マットな質感と淡く美しい色彩が見事に表現されています。
アール・ヌーヴォーと美しい女性
ミュシャ作品の最大の特徴は、美しい女性の姿です。
また、女性を引き立たせる大胆な構図や、アール・ヌーヴォーに象徴的な幾何学模様や、草花、文字の装飾なども見事なものです。
芸術的な美しさも兼ね備えながら、すべて商品や女優などのモチーフへ視線が誘導される容易として描かれている点も、ミュシャの偉大さを表しています。
ミュシャと日本美術
ミュシャの作品は、日本の伝統的な浮世絵から影響を受けていると同時に、日本もまたミュシャの作品から大きな影響を受けています。
ミュシャの作品には、日本の浮世絵と共通する、鮮やかな色彩、流れるような線、自然物をうまく取り入れた構図などがみられます。
ミュシャは、浮世絵をはじめとした日本美術特有の特徴を取り入れたことで、ヨーロッパの人々からは、描かれた作品が新鮮で美しく映ったのかもしれません。
ミュシャは、明治時代ごろから日本人の間で人気を集めていました。
日本美術にも大きな影響を与えており、フランスやイタリアで洋画を学んだ藤島武二が手がけた与謝野晶子の『みだれ髪』の表紙デザインは、どことなくミュシャのスタイルが見え隠れしています。
またミュシャ作品の大きな特徴であるアール・ヌーヴォーの影響は、現代の漫画家にも色濃く残っており、ミュシャが残した幻想的な世界にインスピレーションを受けた作品が多く存在しています。
年表:アルフォンス・ミュシャ
西暦 | 満年齢 | できごと |
1860年7月24日 | 0歳 | オーストリア帝国領モラヴィアのイヴァンチツェに生まれる |
1875年 | 15歳 | サン・ピエトロ大聖堂の聖歌隊となり、音楽家を目指していたが、声が出なくなり、音楽家の夢を諦める |
1879年 | 19歳 | ウィーンへ行き、舞台装置工房で働きながら夜間のデッサン学校に通う |
1883年 | 23歳 | クーエン・ブラシ伯爵に会い、その弟のエゴン伯爵がパトロンとなる |
1885年 | 25歳 | エゴン伯爵の援助でミュンヘン美術院に入学 |
1888年 | 28歳 | 卒業後パリに移り、アカデミー・ジュリアンに通う |
1895年 | 35歳 | サラ・ベルナールの舞台『ジスモンダ』のポスターを制作し、一夜にして有名になる |
1896年 | 36歳 | 『四季』、『黄道十二宮』などの代表作を次々と制作 |
1910年 | 50歳 | 故国であるチェコに帰国し、『スラヴ叙事詩』の制作に着手 |
1918年 | 58歳 | 新たに設立されたチェコスロバキアの紙幣や切手などのデザインを行う |
1928年 | 68歳 | 『スラヴ叙事詩』が完成する |
1939年7月14日 | 78歳 | チェコスロヴァキアは解体された後、ナチスに逮捕され、釈放後に肺感染症により死去 |